歴史の詩的転回

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2012.06.04

酒に対いては当に歌うべし/人生幾何ぞ/譬ば朝露の如し……

人間の歴史を美しくと思えるようになって、ようやく出口を見つけたが、思いがけず、孤独な場所に出てしまった。しかし、よくみると、みんないる。しかも前方に。ニーチェも、フーコーも。彼らに追いつくのはいつのことか。

人間の歴史は一編の詩であって、けっしてそれ以上のものではない。詩がときに真実を語るときがあるように、歴史もまたときに真実に預かることがある。古代の人々なら、みんな知っていたことだ。知らないのは現代の人間ばかりである。それにしても、ここは生きている者には孤独な場所だ。しかしいろんな声は聞こえてくる。

科学としての歴史、ようするに実証主義もまた、ひとつの認識論である。構成主義(言語論的転回)もろともに、ものごとをどのように認識するか、ということに極端に傾斜した学問のあり方が、ひとびとの知から生気を奪っている。しかし、認識するということは、同時に創造であることに、ひとは気づかなければならない。

ものを感じ、そして認識するということと、なにかを創造するということを区別する必要はないのである。逆にこれらを区別しているかぎり、歴史はどこまでも貧しく、ついでひとは、ただ生きる以外の歓びを見つけることができなくなる。ここにきてわたしの内部に生じたのは、ようしていえば、歴史の詩的転回である。

真理と詩の超えがたい壁を取払いながら、なおそれを真理と呼び、頭ではそれを理解できても現実にそれを実践するのはきわめて困難であるにもかかわらず、現実にはひとはそのようにしか行動できないという、この奇妙な現実を一度知ってしまうと、ひとは堪えがたい孤独におちいる。

この孤独な道こそ、真剣に物事を考えるなら誰もが歩む道であると信じてはいるものの、若者にこの孤独な道を強要することはもちろん、推奨することもできない。にもかかわらず、若者はそのようにしか行動できないのである。かくして私が愛するのは、若者の無意識の行為である。いかに実証や認識をこえて、それらを創造に置き換えるのか。

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