東山魁夷展

review
2018.09.17

いま、京都で東山魁夷展が開催されている。

東山魁夷は戦後最大の画家のひとりであり、またこれほどの個性を内に秘めた画家もめずらしい。日本ではきわめて稀な存在であり、やはり画家中の画家といってもいいはずのものだ。

内に秘めた、と言った。が、われながら微妙な表現ではある。というのは、絵画とは厚みを欠いた《表面》だからである。だから、彼の絵画の秘密が、カンヴァスの裏面や内奥に隠されている、というわけでは当然ない。画家の人生や精神にその秘密がある、というのでもない。それでは画家を評価することにはならない。彼の絵画の秘密は、絵筆の積み重ねの隙間にこそある、というべきだろう。それはどういった秘密だろうか?

この展示は画家を「国民的画家」として表象しようとしている。若干の苦言を表さざるを得ないが、それらの表象はすべて、くだらないものである。画家が示す異様な豊穣をみようとしない、画家に「国民」を連ねる曖昧な形容こそ、彼の嫌うものであることに、残念ながらこの展示は気づいていない。図録にはこんな文章がある。「清潔でひそやかでしっとりと暖かく、明るすぎず暗すぎず、人々が安心して身心をゆだねることの出来る東山魁夷の作品。これ等の作品は、過度に個性的であったり、饒舌であったり、複雑であったり、派手であったり、ということが慎重に避けられ、こつこつと、細やかに絵具が塗り重ねられている。……激しく心を揺さぶったり、深刻に悩ませたり、ということではなく、どこかで見たことのある風景との心温まる再会……」。それが画家を評価する言葉だろうか? ちなみにいえば、図録の写真もひどい。絵画を写真に捉える困難を承知でいうが、それでも色彩の焦点を捉え損なっていて、絵画の雄弁をまるで見失ったものになっている。絵画の文句なしの異様さにひきかえ、この展示会の盲目は好対照をなしていて、絵画を見る目を失った今日の社会の貧困を強く感じさせる。もちろん、絵の素晴らしさはそのことによって失われるものではない。絵に視線を集中できるという意味では、それもよかったのかもしれない。

会場に入るや出会う、戦後の初期作品に心を奪われる。「残照」、「月宵」、「郷愁」、どれも見事である。執念深く折り重ねられた絵筆が、自分の感覚を鈍麻させる日常の皮膜を一枚一枚、はがしていくようだ。のっけから涙を禁じ得ないほど、自分の感覚が鋭敏になってゆく。彼が風景を描いたとしても、それは、写真のように視界を器用に切り取ったようなものではけっしてないことが、ただちにわかる。彼は主題となる被造物(たとえば滝や桜……)を画面の中央におさめるある種の愚鈍さを厭わないが、その点でも、彼の絵画を通常の風景画とみなすのをためらわさせる。むしろ彼の風景画は、建築に似ている。木や雪、木の葉や畝、波、といった部品がひとつひとつ、丁寧に、執念深く積み重ねられて、ついには山や雪景色を形成する、彼はそうした画家であり、こうしてカンヴァスという平面に、ひとつの内的な立体物を構成するのである。だから、彼の遠近法は、消失点を目安に視野を切り取るというより、そのつど対象を真正面に見据えながら、(青銅器の)とうてつ紋でカンヴァスを埋めるように積み重ねられて形成される、つまり構図というより積み重ねのほうが遠近を生じさせるような、きわめて独特なものである。その意味でヨーロッパ的でないのはもちろんだが、当然、日本的というわけでもない。

ヒントはある。というのは、彼が若き日に体験したドイツと、川端康成にすすめられて絵画に収めた京都である。彼はドイツでは、もっぱら建造物を描いた。彼がドイツにおいて興味を惹かれたのは、日本や北欧におけるような自然ではなく、人為的な「窓」や「石の窓」のついた煉瓦造りの壁である。彼の目が自然にのみ向けられているのではないことが、これでわかる。しかも、にもかかわらず、彼の絵筆には一貫がある。一本一本の絵筆が、一つのレンガであり、このレンガが積み重ねられて、一個の構造物になっていく、それは同じなのだ。その感じは、たとえば同じフレーズだけを積み重ねながら奇跡的に多彩な光芒を実現したベートーヴェンの交響曲に似ている。彼の絵画を鑑賞する、とは、その建築記録を一挙に見るような、そうした体験であるということがわかってくる。彼の遠近法に覚える違和感は、ヴィンプフェンの街並みを描いた「静かな町」に顕著だが、京都の場合はもはや遠近法はほとんど排除され、かえってただひとつの装飾のみをカンヴァスに収めるような、そうした構図が多くなってくる。川端の依頼のとおり、これは戦後失われる京都のアーカイヴとしての意図があるのが明白だが、逆説的に、装飾的な木々や波の執拗な反復がつくる遠近法にこそ、画家自身の孤独な個性が込められていたことを思い知らされる。京都を収めた絵画は、それが極端に抑制されている。その点で、真骨頂からは離れていくとみなければならないだろう。

その意味では、じつは、草間彌生がモチーフにしたドット(水玉)と、多少の共通点はある。カンヴァスやオブジェを埋め尽くす、執拗に反復されるドットは、東山魁夷の描く木々にある程度まで等しい。ちがいは、それが立体を裏切る形で抽象のまま延々と平面的になされるのか、それとも建造物に到達するまで極薄の絵具を積み重ねるかのちがいである。しかし、この違いは大きい。草間はついに、反=芸術でしかない。それはきわめて戦後的ではあるが、不幸なことと思う。

独特の色彩については論じることができなかったが、ともあれ、彼の「風景」が美しい異様をもつのはたしかである。白馬の登場する晩年の諸作品は、コローのニンフを思わせる自由さで、記憶(スヴニール)で構成されたカンヴァスを馳せている。建築的な配慮に満ちた、唐招提寺の襖絵もふくめて、その絵画のすべてが必見の価値をもつ。京都国立近代美術館での展示は10月8日まで。展示の仕方にはやや疑問も残るが、それも含めていい勉強になる。ぜひ訪れてほしいと思う。

1 Comment

  • 原 明博

    2019年4月3日(水) at 6:15:38 [E-MAIL] _

    東山魁夷はこう観るのか。静謐と孤高を感じてきましたが、一筆一筆の積み重ねがただならぬ世界を構築しているのですね。
    ありがとうございます。

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