札幌国際芸術祭

review
2014.08.28

自分は、コンセプチュアル・アートにブラインドである。

ある言語的なもの=概念conceptをなんらかのオブジェで代理=表象representさせるやり方は、自分には間遠くみえる。それなら、言葉で説明したほうが早いのではないか、むしろ言葉で表現しきれないと感じたものを、作家は別の形で表現してくれたなら、はるかにたやすく自分は感銘を覚える。というか、「自分」という言葉を使う必要がないほどに、作品の足下で涙している。

William Smith Clark

もともと、文学を言語学主義で批評しようとした一団があらわれてから、戦後、文学が笑い死にした経緯がある。言語学的なもの、典型的にはシニフィアンを批判して生まれたのが文学である。恒常的な、なんらかの文法なるものはありえない、言語はつねに生成変化している。それゆえ文法を前提する言語学のやり方では、永久に言語は遠ざかってしまうだろう。その間遠さを自虐的に「比喩」と表現するほかないところに、言語学は追い込まれてしまう。だからこそ、日本語は文学者を必要としたのである。だが、おかしな連中が、言語学の徹底で文学の息の根を止められるのではないかと考え出してから、すべてが狂ってしまった。この自虐に面食らって文学は笑い死にし、批評だけが相手を失って君臨する奇怪な状況が生まれ、批評に頭を垂れたおかしな芸術が幅を利かすようになった。つまり批評言語を別のオブジェで代理=表象するような、そうした「芸術」。

坂本龍一、浅田彰らがプロデュースした札幌国際芸術祭に、すぐれた作品が多数展示されていたことを、認めざるを得ない。坂本龍一のつくる音の厚みは、現代の世界を見渡しても唯一無二のものであると思うし、わけても高谷史郎の作品Chromaは、芸術祭の主題をはるかに超えて傑出していたと思う。だが、わたしが疑問を覚えざるをえなかったのは、「自然との共生」をかかげ、「先住民であるアイヌ」への目配りを示した主題と、主題にもとづくいくつかのコンセプチュアル・アートである。

札幌には、熊がでる。毎年かならず街は雪で覆われる。ひょうきんで、ときに凶暴な熊は、街に降りてくれば駆除せねばならず、重労働である雪かきも、欠かさずせねばならない。それは近代以来、現在まで変わらぬ営みである。押し寄せる自然に対する近代文明が、定住民のスタイルでの生活を可能にしている。雪を溶かすために一日中水を温めねばならず、部屋を暖めるために一日中二酸化炭素を排出せねばならない。石油が、電気が、大量に消費される。それらなしに数日いれば、ひとは命を失ってしまう。関東より西に住むひとびとが「自然との共生」というのとはわけがちがう。もともと自然は間近でひとびとの命を奪うべくうかがっている。そんな場所なのだ。住むほうがおかしいだろうか。だが、追いやったのは、近年はエコロジーなどと言い出した本州以南のひとびとである。

「自然との共生」という言葉は、生半可なものではありえなかった。すくなくとも北海道においては、近代文明を駆使することで、ようやくそれは成り立っていた。「共生」とひきかえにする近代文明の否定は、たんに自然の脅威、生命の危機に晒されることを意味するだけである。「ボーイズ・ビー・アンビシャス」なるクラークの言葉を批判して「老若男女」と言い換えることもできるかもしれない。だが近代文明なしには、冬になれば若い男以外は確実に死ぬだろう。だから、そうした現実もふまえ、この芸術祭は、もっと奥行きのある「共生」を提示すべきだったと思う。だが、そうではなかった。携帯電話がなかったら、もっとひとはコミュニケーションするだろう、といった程度の、暢気な電力の不在を涼やかな真夏に提示していたにすぎない。真冬、北海道で電力が途絶えたとしたら、携帯電話のかわりに石を持たされていれば、たんにひとがばたばたと死んでいくだろう。そういうことはなにひとつ考えられていなかった。

アイヌの聖地、二風谷から持ち込まれたという、島袋道浩による、旧道庁の前に鎮座する岩の作品。近代帝国主義とアイヌを対置するとても古い図式は、ほんとうに正しくひとを導くのだろうか。極寒の北海道へ移住した開拓者たちにとって、旧道庁は救いの明かりでもあった。本州以南で温々としていたひとたちとはちがう。

浅田彰は、これを「重要な作品」と呼んでいた。だが、そうだろうか。旧道庁を帝国主義的膨張の尖兵に見立て、先住民たるアイヌと明治藩閥政府の帝国主義とを対立させる、こうした紋切り型の図式それ自体が、いかに体制的なもの、権力的なものであるか。そのことに思いを馳せられないなら、永久に、右翼と左翼の対立という古い帝国主義批判=帝国主義の構図から抜け出せないかを、彼が知らないはずはない。

開き直った右翼が弱者に押し付ける帝国主義的な命法。それに対して、左翼がカウンター的に提示するアイヌ民族擁護の典型的な図式。だが、歴史は、もっと別の見方のありうることを提示している。両者のあいだに、本州以南において生活の術をもたなかった貧しい者たち、また旧幕府と新政府のあいだの政治闘争において敗者となった奥州を中心とする移民たちが、大挙して北海道へ移住したという事実である。つまり、単純に藩閥政府の帝国主義を非難し、アイヌを擁護することで見失われる、そしてアメリカ的な一攫千金の開拓とは似て非なる、実際に極寒の北海道、アイヌのただなかに移住した者たちの無数の、しかも重層的な悲劇である。

秋田出身の小林多喜二が北海道へ移住し、そして北方の労働者たちのための作家となったことは、誰もが知っている。共産主義を嫌った志賀直哉は、しかし、その小林を暖かくみつめていた。志賀は、自分は共産主義を嫌っているが、子供がそれを望んだとしたら否定しないだろうとさえ言っていた。志賀は、藩閥政府の末端に属した作家である。有島武郎はいうに及ばず、藩閥政府による帝国主義の尖端で苦しみ、そしてあえて政治の道を断って芸術の道を歩んだ若者たちがたくさんいる。大正天皇の学友であり、薩摩藩に属して明治政府の中枢にいた父親から譲られた北海道の農地を経営していた有島は、当然見ていた。敗者たちも、貧者たちも、そしてアイヌたちも。

帝国主義を非難してアイヌを擁護する左翼、アイヌを排除し帝国主義をたんに肯定する右翼という、単純な二項対立の図式では言い尽くせないなにかを感じて、志賀や有島は芸術の道を歩んだ。こうした彼らの歩みが、北海道の自然と芸術とをともに豊かにした。旧道庁の前で歩みをさえぎる現代のコンセプチュアル・アートに比べて、その奥の道庁に飾られた、たとえば一九一〇年代生まれの室蘭の写真家、掛川源一郎の作品(志賀ら作家ばかり撮っていた土門拳に影響を受けた写真家)がいかに豊かであることか。アイヌをフレームにおさめ、そして開拓者をフレームにおさめる、その目配りのよさ、というより清新な忌憚なさを感じないか。

たとえばスティーヴ・ライヒのDifferent Trainsという作品は、アウシュヴィッツを批判しつつも、ユダヤ人の自分は、当時アメリカで一番よい列車に乗って、別居していた母親に会うための旅をしていた、という形で、虐げられたユダヤ人とおのれとを異化していた。やや教科書的な感もあるが、同じ民族でありながら、そうした立場の複雑さを芸術は引き受けていた。

しかし、旧道庁の前で岩を鎮座させるだけの作品は、まるでアイヌを代弁representするかのように、なんの関係もない本州の人間が、北海道に移住したひとびともろとも古い帝国主義を一方的な悪者に仕立て上げている。しかし、故郷を離れざるをえなかった日本人がそこにいるということも、考えてみてほしい。そうすることで、民族問題という硬直した図式に、真の「一石を投じる」ことになるのではないか。

とはいえ、そうした奇怪にコンセプチュアルなものを除けば、個々の作品は素晴らしいものが多い。よくないのは、エコロジーや先住民擁護といった誰がみても間違いの少ない、そのためかえって奥の深さも少ない、結果として芸術的な高みを感じられないメインテーマである。

だが、そのことはかえって自分をメランコリックにする。個々の作品の罪のなさが、アートを愛する人間としては、悲しい。戦前の芸術家たちが取り組んだ構図や背景の豊かさや複雑さにひきかえ、アーティストが配された全体的な構図の安易さ、貧しさは覆いようもない。アートには、二項対立と二者択一を強いる政治的言語には不可能な、もっと微妙な、しかも喘ぐようにするメッセージが可能だったはずだ。それは、山口昌男のいうような「曖昧なambiguous」言葉ではなく、もっと正確を期して語られる言葉が、思わず口を噤んでしまわざるをえないような、複雑な現実を表現しようとするときに立ち上がるものだったはずだ。

反-政治としての芸術、それはけっして政治に無関心であることではなく、もっと必要な自己批判が込められた、それゆえ政治とは別種の存在様式を可能にする、人文学としての芸術が、わたしは恋しい。歴史学者として、そうした言葉の、あるいは芸術の、若い人たちのあいだから、もっと現われることを、切に願っている。そしてこの批判が、これからの芸術祭をより奥の深いものにすることも。

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