暴力について

philosophy
2006.10.29

ベンヤミンは、その著書『暴力批判論』において、対立する二つの概念として、「神話的暴力」と「神的暴力」を挙げている。前者は法を措定し、維持する暴力だとすれば、後者は法を破壊する暴力である。ベンヤミンは、もちろん、後者について、肯定的な見解を示している。彼は次のように言っている。

神話的な法形態にしばられたこの循環を打破するときにこそ、いいかえれば、互いに依拠しあっている法と暴力を、つまり究極的には国家暴力を廃止するときにこそ、新しい歴史的時代が創出されるのだ。(『暴力批判論』岩波文庫、64ページ)

ところで、ある論者は、これについて、デリダのベンヤミン批判(1)を受けつつ、あるいはドゥルーズ=ガタリの戦争機械とファシズムの考察を踏まえつつ、次のような疑義を呈している。

「国家暴力を廃止する」とは、支配のための手段としての暴力を廃棄するということである。しかしその暴力に、手段としてではないような暴力を対置することは、ひとつのアポリアを生みだしてしまう。そうした暴力は、目的合理性によるコントロールからはなれて、破壊そのものをみずからの顕現とするような危険をつねに伴っているからだ。その危険は、支配の暴力に対抗する側に「純粋な直接的暴力」としての破壊の運動をもたらしてしまうか、あるいは、「戦争機械が国家をのっとってしまう」ように、集団化された国家の暴力そのものを自殺的な破壊マシーンにかえてしまうだろう。
 国家の支配に抵抗する対抗暴力の歴史がしめしているのは、まさにこうしたアポリアにほかならない。(萱野稔人『国家とはなにか』以文社、2005年、89-90ページ)

このベンヤミン批判がまったく的外れな点は最後の文章にある(2)。「対抗暴力の歴史」と言っている時点で、それはベンヤミンの言う「神的暴力」ではなくなっているからである。つまり、彼が批判しているのは、ベンヤミンではなくて、彼が想定していない別のものなのである(3)

《神話》がなにゆえ要求されるのか。それは、現在をもたらした因果律を探求するためである。なぜ、空に星が輝いているのか、という、原因-結果の問いに答えるために、神が星を作りたもうた、という神話=物語が要求されるのだ。同じように、わたしたちは、《歴史》を振り返るとき、そこに原因-結果であるとか、あるいは手段-目的であるとか、とにかく因果律をつねに見いだしてしまう。したがって、歴史を振り返るとき、その時点で、ベンヤミンの言う「神的暴力」はつねに-すでに息の根を止められ、なにかの目的に従属する手段としての暴力、あるいはなにがしかの原因を認めうる暴力の地位に、転落させられている。たとえば、バスティーユ襲撃は、国王の圧政が原因だ、であるとか、バスティーユ襲撃は、革命という聖なる目的の手段である、とかいった具合にである。したがって、ベンヤミンを批判する彼が示しているアポリアは、たんに、神話的暴力と、反神話的暴力を対立させているだけの、偽のアポリアである。ベンヤミンが「神的暴力」という言葉で表しているのは、客観的であろうが、主観的であろうが、あらゆる因果律に縛られない瞬間というもののもっている《力》である。神話であろうが、歴史であろうが、物語は、すべて、反復可能な力としてわたしたちに表象され、再演される。他方、「神的暴力」がもっている、この瞬間の《力》は、反復不能のものであり、一回限りのものである。「神的暴力」は、おそらく、人生のうちで、ただ一度しか、使えないものなのだ。もうすでに使ってしまった者もいれば、まだ大事に取ってある人もいるだろうが、とにかく、この一度限りのものこそが、さらに言えば、数えることのできないものこそが、「神的暴力」なのである。けっして、「対抗暴力の歴史」のように、指を折って数え上げられるものではないのだ。いずれにしても、歴史に「神的暴力」を組み入れてしまっているかぎり、ベンヤミンが神話と神を対立させた意味がなくなってしまう。

さて、人間は、すでにして、つまりその存在の本質からして暴力的なものだが、他方で、すべての人間が国家的であるとはいえない。むしろ、国家は、人間と人間が織り成す関係に依存している。ところで、暴力は、徹頭徹尾、測定可能なものとして表現される。つまり、暴力は、物質に対する測定可能な変化によって、捉えられるのである。物質ではなく、精神的な被害というものももちろん、考えられるが、おそらく、それも、暴力による被害である限りは、精神に対するなにがしかの測定可能な変化が伴っているはずである(つまり、ここでいう、精神とは、やはりミクロではあっても確固とした、重さをもつ物質なのである)。物質の測定可能な変化――つまり、痕跡である。したがって、「神的暴力」について、アポリアを述べるとするなら、この語自体が、アポリアなのである。痕跡は、帰結から原因を想起させる点で、きわめて歴史的な概念だが、神的暴力は、そうした歴史的な概念としての痕跡を徹底的に遠ざけている。すなわち、「神的暴力」とは、痕跡の残らぬ暴力――非物体的なものの物体なのである。つまり、歴史に残らないのだ。ミシェル・フーコーが言っていた「非物体的なものの唯物論(アンチ・マテリアリスムのマテリアリスム)」は、ここにおいて共鳴する。わたしたちは、この痕跡の残らぬ暴力を、《出来事》と呼ぶ。

ガンジーの《暴力》は、歴史上では、《非暴力》となっている。

【註】

  • (1) ジャック・デリダ『法の力』。これはある程度正当な批判である。
  • (2) この書物の意図は、第四章にあるように、国民国家批判を暴力批判によって反駁することである。つまり、言説や表象のレベルに国家を還元してしまう観念論的な議論に対して、暴力という唯物論的な基礎を国家に与えようとするのである。だが、わたしは、こうした批判は、やはり針を振りすぎであるように思う。つまり、暴力のレベルに国家を還元しすぎなのだ。フーコーが国家を論じる際につねに観ていたのは、ことばと暴力のあいだにあり、また、それら両者を引き連れてはじめて輝くことのできる「権力」だったはずであり、また、目に見えない「権力」を、ことばでもあり、また暴力でもあるような「言説」のレベルから抽出することなのである。
  • (3) ちなみに、「戦争機械が国家をのっとってしまう」というファシズムについての、ドゥルーズ=ガタリの表現は、次のように置き換え可能である。《歴史が戦争機械となる》。ファシズムとは、徹頭徹尾世界史的存在である戦争機械を、一国家の歴史的必然性のうえで捉えることなのだ。国家は、はじめから、言葉の真の意味で歴史的なものだが、戦争機械そのものが歴史(国家の歴史)の動きに組み込まれ、歴史を動かしてしまうことはありえる。とはいえ、この試みは絶対に失敗する。「自己」の痕跡を微塵も残さない、一種の波動状の動きをみせる戦争機械のノマディックな運動は、にもかかわらず、それが歴史に組み込まれていることによって、必ず失敗するのである。――つまり、「自己」ならぬ「自殺」の痕跡を残すのだ。ファシズムは、かくして、自殺の痕跡――灰を残す。

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