旅と死の記憶

history
2015.01.24

旅に出て、そこで写真を撮って帰ってくる。それもまた、今日的な旅の形ではある。前近代においてひとは旅先で歌を歌い、あるいは日記を綴った。二度と見ないかもしれない景色を写真に収めることも大切である。だが、じつは、その景色をみて感じた心の動きもまた、二度と味わえないかもしれないものである。

心の動きは、言葉においてはじめて露にされる。心はつねに動いており、言葉とは、それを把捉することだ。つねに一度限りであるような、そんな心の動きを捉えようとするとき、ひとは、小さな文学者になり、そして小さな歴史家になる。雲が偶然にも形作る空の形、太陽の角度や月影が作り出す偶然の陰影、そうした一度限りの色彩。写真家は色彩を捉えんと、大急ぎでカメラを手に取る。歴史家や文学者も、それに似た存在である。トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争が起こったとき、大急ぎで、きっと自分にしかできぬという意気込みで、筆をとった。人間の危機において、自分の思いをなんとしてでも形にしなければならぬ、そうした衝動に囚われるとき、ひとはやむにやまれず歴史家になる。

だから旅に出たら、写真と同時に自分の言葉をすこし、残すようにしてみるといい。そこには、一度限りの旅行者の思いが披瀝されている。それもまた、大切な思い出だ。史料だけで歴史が可能になるのではなく、書き手の精神が必要なことと同じである。危機の際には、大急ぎで筆をとる歴史家が、もっといていい。

大急ぎで付け加えるが、それは、ジャーナリスティックに貢献しようとするのとは、すこしちがっている。もっと個人的な思いが綴られていて、近代的な意味で客観的、とはけっしていえないものだ。客観性というには、科学的に程度の低い、しかし人文学的には高度な、要するに人類の一員としてなにかを語らねばならぬという義務感が、歴史家にはある。

危機の際に、あるいは一度限りしか現れぬと思った出来事を前に、当の出来事の記録だけでなく、自分の思いも言葉にして残しておく。じつのところ、その記録でさえ、言葉であるのだから、われわれはいつも二つの言葉を持っていることになる。肉体的な言葉と、そしていわく言いがたい、精神的な言葉と。

若者は、言葉を語るさまざまな媒体を用意されながら、実際にはそのことによって言葉を奪われている。世間で生じる困難や悲劇に対する自分だけの違和感は、言葉になる前に奥底に沈むか、ありきたりの言葉のなかに溶解する。肉体を失い、言葉だけになった存在である、学ぶべき先人の偉業が、これほど豊かに残されているというのに。

いずれにしても、危機を前にして、当の危機について、なにかを語らねばならぬと思えるかどうか。それはけっして不自然な衝動ではないし、抑圧しなければならぬものでもない。旅先での感動を綴ることによく似た、非日常に直面した際にわれわれのとる、人間という動物らしい自然な行為である。

写真的リアリズムのなかに、歴史が溶解していく。歴史学者は、いまでは口をつぐみ、写真を撮ることに必死になっている。それもまた、今日的な歴史学の日常ではある。だが、そこに撮影者のちょっとした言葉が書き添えられているとしたら、それだけ、その風景は、豊かになる。

かつて、ヨーロッパを黒死病の波が襲ったとき、ドミニコ会の修道士、パウロ・ビレンチは、死亡者台帳の記録係だった。彼の修道院では、130人のうち80人が命を落とした。彼は欄外にこう記している。

後世のひとがこの出来事を民衆が作り上げた噂のようなものなどと思いませんように。生き残った人たちには神の正義が容赦ないこと、その結果として全世界が死に支配されたことを語って欲しいのです

歴史家は、欄外に記されたこの言葉を、万感の思いで受け取る。死者の記録もさることながら、ありきたりの悲しみを超えた運命を受け容れる彼の姿にこそ、感動を覚えるのだ。

われわれに必要なことは、たんに記録を残すことだけではない。同時代を生きた人間として、すなわち傍観者ではなく当事者として、おのれの思いを次世代に向けて語る勇気をもつことだ。案の定、近代の実証主義者はペストの統計を疑った。だがそのことは、ビレンチの欄外の言葉をいささかもゆるがさない。

われわれは、さまざまな苦難を経験しながら、幸運にもこうして生き残って現代にたどりついた。だが、そのわずかなわれわれのあいだに、当事者と傍観者という境界線を引き、言葉をわずかな当事者に委ねてしまう。

同時代人として語る勇気、それは、稀少なものである。

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