文学者の願い

diary
2014.08.14

今日も一日、編集作業。夕刻、懇意にしている美容院の予約がいっぱいであてがはずれた。突然時間ができ、知人を飯に誘ってみたが郷里だった。なんとなく駅でネクタイを買った。

真実と事実のちがいを知ることは、そんなに簡単ではない。この概念の差異は、とても文学的なものだからである。その発言に《文学》があるかないか、そのことが、科学者や、あるいは歴史家の価値を定める。反感を承知で、そう断言してもいい。そんな彼らだけが、真実と事実のちがいを知っている。そしてその違いを見定めるのが困難なことも。

「文学」なるものが制度にすぎないことを露見させたのはロラン・バルトである。だが、わたしは彼に賛成しない。「制度としての文学」という主題があらゆる文学を虐殺してしまったあと、残されたのは、文学の残骸である。文学は日々の生活についての、余暇になされる慰めに堕し、文学的な真実に、事実が勝るようになった。剥き出しの事実は、ますます文学を制度のなかに囲い込んでいった。事実は、虚構を排除する。そのことと、文学が制度に囲い込まれることと、なにがちがうのだろうか。芸術も文学も、そして科学でさえ、いまや制度にすぎない。硬直した「言論の自由」の内部で、ただこれを弄ぶことが芸術だと、とくに良心的左翼が語る。そして現実的保守主義者たちは、「芸術といえばすべて許されるのか」と憤る。公共の秩序を乱すそのときには言論の自由を制限することさえ許される、そうしてますます、両者ともが、文学を制度のなかに閉じ込めていく。状況はとても深刻であると、わたしは思う。

発話者の力ではなく、言葉をそれ自体の強さによって、あるいは重さによって語ることが、できなければならない。とるにたらない、自分の語る言葉こそ、最強の言葉である。そんな言葉ばかりで、歴史は作られている。それはほんとうのことだ。カエサルの言葉も、秀吉の言葉も、ナポレオンの言葉も、とるにたらない者の発言に過ぎない。だが彼らは、言葉の重さを知っていた。そのことが、彼らを英雄にした。だが、彼らよりもずっと先に、文学者は英雄だったのだ。

ただただ、自分の能力のすべてを、言葉に宿らせることができたら。それだけが、自分の願いである。いつか、ほんとうの意味で、文学者になれたら。

ああ……。

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