《文学》のプログラムII、もうひとつのヒルベルト計画

philosophy
2009.06.08

「無知の知」というソクラテスの言葉がある。この言葉には、人間は有限の生き物である、という認識の重要性と同時に、有限なものを超えた無限なものに対して人間が抱く意志が含まれている。「知る」ということが、本質的に有限であるところの人間が無限を支配下に置くこと―つまり無限を有限の立場から知ること―なのだとすれば、「無知の知」とは、限界のある人間知を超えたものへの拝跪を意味しよう。

だが、「無知」がはじめからたんに人間知を超えたものを意味するのであれば、そしてその知を越えたものを知ることができるのであるとすれば、それを知ろうとすることは、まさに人間が人間自身を超え出ることを意味する。簡潔にいえば、無知の知とは、無限を積極的に知ろうとすることにほかならない。かくして、「無知の知」には、知ることへの諦念によって導かれるネガティヴな無限と、もっと積極的な無限への意志とが含まれていると考えることができる。そして、この有限と無限の観点の違いから、次のことがいえる。カントールのパラドックス(≒すべての集合の集合は存在するか)に端を発し、無限を有限の立場から証明しようとしたヒルベルト計画と、その不可能を証明したゲーデルの議論は、じつは、表面的な論理の上では、同じ「無知の知」でありうる、ということである。

ヒルベルト計画に代表される、数学そのものを数学的に(=厳密に)基礎付けようとする(=数学概念が存在することを証明しようとする)数学基礎論を頓挫させたゲーデルの証明について、われわれはこれを二つの方向で考えることができる。ひとつは、ブルバキたちのように、はじめから「数学者は証明する」人間と規定し、ひるがえって数学概念の存在証明を最初から不問にすることである。これによって、数学者は、現実とは切り離された構造だけを問題にすればよくなる。数とはもともと構造的なものであって、こうした意味で数を用いるかぎり、たとえば負の数や虚数が現実に存在するのか、という問いは、もはや必要がない。

そして、驚くべきことに、こうした見解は、結局は数学を進展させ、さらにはレヴィ=ストロースが行なったように、ひとびとの現実の世界認識をも拡張した。このことから、世界を、《ある種の対応関係》をもった虚(イデア)と実の、二つの領域からなる構造的な世界として考察することの妥当性を導くことができる。知性(美)と感性(自然)を区別したプロティノス風のイデア論の隆盛である。こうした議論は、結局のところ、ついには保証されないその対応関係を「信」に置くことしかできないし、その意味では、非常に強い宗教的誘惑を孕んでいる。また、無限を徹頭徹尾、想像(イデア)の側に置くこの議論は、数学者(人間)の肉体的有限性を強く意識することによって導かれていることも指摘できる。つまり、冒頭のソクラテスの「無知の知」の説明でいえば、有限性を超えた無限への拝跪である。

もうひとつの考え方がある。ゲーデルの不完全性定理が主張する点をよく飲み込んだうえでいえば、彼ら構造主義者が用いる公理的集合論は、前述のパラドックスの問題はあるにしても、ある意味で、すでに相当に強い基礎付けを含んでいたという風にも考えられる。つまり、数学が依然として現実の物理的空間において発揮している有効性は、たんにわれわれが「知らない」基礎付けの可能性を支持していると考えることもできるのである。ゲーデルの不完全性定理は、数学基礎論の可能性を奪ってしまったが、それは、それまでのカントールやラッセルやヒルベルトのパラドックスのなかに、すでに別種の基礎論が含まれていた可能性を示唆していると考えればいいのである。すなわち、われわれは、数学の基礎付けにかんして、「いま現在自覚的には無知であるとしても、すでに知っていたかもしれない、あるいはこれから知りうるかもしれない」のである。これを、「無知の知」ということももちろん可能である。要するに、われわれは、すでに無限に触れていたかもしれないのであり、人間は、そのことを、望むと望まざるとにかかわらず、《意志している》のである。これもまた、ソクラテスのいう、「無知の知」でありうるだろうし、これこそが、有限の立場から無限を知る、ヒルベルト計画の中心であったろう。実際、ヒルベルトの公理論が行なう論証は、こうした意味での「無知の知」に非常に近い形で行なわれる。かくして、ゲーデルの証明を、かつてのヒルベルト計画に近しい形に導くことも不可能ではないのである。

さて、うそつきのパラドックスを解決する非常に簡単な方法がある。それは、《言葉が物質と同じ力強さで存在している可能性》を探究することである。すなわち、クリュシッポスのいう、「車といえば、口から車が飛び出す」である。本当に口から車(=「うそつき」)が飛び出すのならば、言葉が存在している以上、基礎付けは必要ないばかりか、すでに基礎付けは済んでいると考えられる。数学よりは物理学に近しい、この不思議な思考、おそらくはひとが「狂気」と呼んできたこの思考は、しかし、基礎付け不能のイデア的存在として数学を「信じる」側が笑えるほどに、確実さに差があるわけではない。そして思うに、前述のプロティノス風の思考をひとが宗教と呼ぶのだとすれば、神なしに言葉の実在を探究しようとするこの思考は、《文学》と呼ばれるべきなのである。

HAVE YOUR SAY

_