戦争について

criticism
2023.06.29

ウクライナの情勢が大きく変化している。ローマ帝国に雇われた蛮族の傭兵がローマに攻め上る、という歴史はあったが、それを彷彿とさせる出来事ではある。しかし、そうした歴史の表皮を一枚めくると、やはり人間がいて、そこに安易な過去の参照や、あるいは「ドラマ」という言葉では表現しきれない、切実がある。

「歴史総合」は今日の《歴史学の貧困》をよく表している。そこには天上の歴史しかない。なぜ死と隣り合わせの海やアジアを、西欧人は夢みなければならなかったのか、そういったことは消し飛んで、最後はグローバリゼーションにいたる、資本=情報のやりとりがあるだけの歴史学になっている。

日本史で憲法といえば憲法学者を研究するのが定番化している。だが、憲法制定で現実の封建制が一挙に消し飛ぶわけではない。地上と、天上の憲法のあいだにはまだギャップがある。それをつなぐ役割は文学が担ったのだが、歴史学者には文学が虚構にしかみえない。だから歴史が貧しくなる。

ウクライナ戦争でさえ、同じだ。現代の歴史学なら、せいぜいグローバリゼーション下の巨大資本の移動や大国間の利害関係の交錯、軍産複合体の陰謀、等々の説明しかできない。国民国家論といっても、それは想像の産物でしかないのだから、なぜそのためにひとが命をかけるのか、まったく理解できないだろう。

ひるがえって、戦国時代の日本を語る歴史学者の言説が、いかに偏ったものであるか。戦争の時代の切実は微塵も感じられない。数多の英雄を並べ立てて、サラリーマンの管理職風に評価することを、学者でさえ平気で行っている。誰が上司にふさわしいか、「働き方改革!」といった塩梅だ。しかし、戦国武将は——大名でさえ、人間の生き死にに直接関わる戦場の司令官でもある。平和な戦後社会にふさわしい、暢気な評価、といえばそれまでだが、それはほんとうに歴史学なのか、という自己批判はなかなか感じられない。こんな状態で「歴史総合」と称して現代史を教えても、それは畢竟、層いっそう貧困なものになりかねない。小林秀雄はかつて、信長や秀吉など、現代人に演じられるわけがないといったが、それは学者にこそ、ますます当てはまる。あくまで虚構であることを看板にする俳優の演技よりも、タチが悪いかもしれない。

純文学とは、大地から思考することだ。なぜなら、僕ら人間の生活は、大地なしにありえないから。いきなり法であるとか、制度であるとか、文献であるとか、そんな天上の理屈から考えないのが、純文学なのだ。いまでは考えられないが、本来の近代史学も、この大地から思考することだった。

ローマ帝国には、その才覚により出世した、蛮族出身の将軍がいた。蛮族は最前線で戦争を経験させられるから、歴戦の強みもある。しかし、土地を追われ、ローマに仕える者として、彼はおのれの出自に苦しみ続けた。そして、その軍事的才能にもかかわらず、けっきょく、讒言により処刑されることになる。土地を追われる者がもつ不安ははかりしれない。土地は、富を生み出す。富といえば、資本主義に泥んだ僕らには、貨幣に還元されうる単純なものにみえるが、たんに近代人がほしがる経済的な富だけを意味しない。故郷の温もりや出会いの場……といった、もっと精神的な富をふくんでいる。

こうしたものを、ひとが命懸けで求めたとしても、なんらおかしなことではない。そしてこの命懸けの精神に歴史がある。土地を奪われたウクライナ人はもちろん、根無草の傭兵として各地で戦う者たちにも、土地なき者の矜持がある。大航海時代も同じだ。べつに予定調和的に、現代のグローバル化のために大航海時代があったのではない。海の彼方を目指さねばならなかった、あの時代の西欧人の切実があったのである。

ウクライナ戦争を、今日の大国間の力学や国際資本の動き等々で説明した気になってしまわないように。それらは資本主義に最終審級を委ねる、それなりに学界で通用してきたやり方だが、これを人間の歴史にできるかどうか、現代の日本の歴史学ではたいへん心もとない。それはぼくらの重い課題なのだった。

プリゴジンは現代のオドアケルなのか。それは知らないが、彼の率いる傭兵団は、地上の殺戮をその目で見て知っており、それを天上のモスクワに伝える仕事があると思っている。戦国時代の武将をサラリーマンの上司風に評価することが常態化している日本はもとより、ロシアにさえ、文学はなくなっているのだろう。戦争における文学の仕事は、そのリアルな想像力によって、遠く離れた戦場の過酷を首都のひとびとに教えることだ。しかし、地上の出来事を、文学を失った天上——モスクワは知らないのである。

さて、プリゴジンはモスクワの途上で立ち去ったらしい。学者の言のいずれも間違っているわけではないのだろうが、僕としてはこう思う。プリゴジンの意図はどこにあれ、彼の行動が伝えるメッセージはひとつだけだ。前線から遠い、文学なきモスクワの住人に、ウクライナの戦火を、あるいは最前線の死の匂いを想像させることだ。

相対的に、自由に国境を横断できるロシアとひきかえ、国境を越えることができないウクライナは、絶対的に不利な死のゲームをしている。たとえ隣国との戦争でも、若者を戦地に送り出すときに感じる痛みを乗り越えれば、見えないどこかでその命が消尽されても、モスクワの住人はひとごとを決め込むことができる。

傭兵は裏切る、だとか、プリゴジンの乱だ、などとただちに歴史化して、歴史から教訓を引き出すのに世間は忙しいが、それらはすべて傍観者だから言えることだ。あの強面のプリゴジンは、プーチンだけではない、そんな傍観者たちすべてを、彼なりの流儀と計算とで威嚇しているようにみえる。裏を返せば、戦場を知らぬ傍観者として、ぼくらとプーチンは同断なのである。

ぼくは昨日、「彼の率いる傭兵団は、地上の殺戮をその目で見て知っており、それを天上のモスクワに伝える仕事があると思っている」と言った。もう十分に、どこにいるのか不明のプーチンに伝わったと、彼は見たのかもしれない。プリゴジンは「若者」という言葉も使っていた。死ぬのは若者であることについて、まちがいなくぼくらよりも彼のほうが、よく知っている。

何がリアルなのか。安全な日本から、最前線の死を飛び越えて、歴史的な「認識」を語ること、政治的な「戦略」や「計算」を論じることは、俗にいう「リアル」ではあっても、現実とは異なる。人文学者ならば、こういうときに、なにがリアルなのか、それを、想像できなければならない、と思う。かつて純文学者がその努力を惜しまなかったように、である。

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