情報社会、あるいは明晰さの病

diary
2014.01.08

最近は、自分の立場をおもしろがることが多い。現政権のやろうとしていることに対して沸き上がる自分の複雑な感情が、社会における自分の居場所を奪ってしまう。この歳になって社会のどこにも精神の置き所が見出せていないのだが、それは悪いことではないかもしれない。何人かの若者もそうだろうから。

秘密法をめぐって、マスメディアは「官民問わず徹底した情報公開」を強く主張して非難していた。だが、こちらの側に自分がつくことができるかといえば、全然できない。秘密法が国民を弾圧する可能性と、メディアが無辜の個人を抹殺する可能性は、いったいどちらが高いのだろう。

かつてメディアは、個人情報保護法が制定されたときも、秘密法のときと同様に、一斉に反対していた。しかもまったく同じ理由で、である。すなわち、戦前の治安維持法に匹敵するものである、と。正反対にみえる法に対して同じ非難ができるとは、不思議と思わないだろうか。

もちろん、メディアの立場は一貫している。報道の自由の徹底的な確保である。この点に関して、彼らは一点の曇りもなく、行動する。情報公開、それは官民問わず行なわれるべき絶対的な大義なのである。報道によって生じる不幸と、報道しないこととの二者択一において、彼らは不幸を選ぶことを辞さない。

情報のリークについて真実か微妙なところでも、可能性があるかぎり報道し、その結果として前政権が粉砕されたとしても、そのことは情報公開の大義を微塵も傷つけはしない。むしろますますこの大義を栄えあるものとする。そしてその結果、現政権ができあがったのだとしても、知ったことではない。

ジャーナリズムとは、いわば反歴史主義なのであって、そのつど日々の出来事を《情報》としてひとびとに提供することによって、かえって、ひとつづきの時間をズタズタにする。蓄積されていくのは日付だけであって、出来事はその本質である《流れること》を禁じられてゆく。

ひとが正しいと信じているもの、つまり正義が、たえず裏切られていくことを、われわれ歴史家はよく知っている。かつて正しいとひとびとに信じられ、あれほどの犠牲を払った大東亜共栄圏が、敗北とともに虚構の烙印を押されたように、戦争の反省とは、わたしにとっては、むしろ正義を疑うことにある。

ニーチェによれば、正義とは、一種の負債免除である。われわれはその別の名をよく知っている。至高の権力が可能にするもの、すなわち《恩赦》である。ニーチェによれば、正義にしたがって行動するときにこそ、権力に対する盲目的拝跪がありはしないかと疑うべきなのである。

民衆の美しさはどこにあるかといえば、隠れて存在していることにある。権力者のように誰の目にもあからさまでないからこそ、彼らはわれわれ歴史家の気を引く。情報社会においては、明晰だけが礼賛され、隠れていることは敵視される。だが、明晰と隠喩とは、言語の大切な一続きの運動ではないか。

こうしてわたしの立場はいつも微妙になっていくのだが、そうしたくてそうしているわけではない。だが、学者として物事に向きあおうとすると、毎度ながら、こうした姿勢を貫くしかなくなっていく。困ったことだと思っているが、近頃はそんな自分を可笑しく眺められるようになった。

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