思考のスタイル、精神史でも思想史でもないもの

history
2020.09.21

歴史はいい。ぼくは人文学をしていないと、つまり人間について考えていないと生きていけない、そういう人間だ。人間について考える、とは、哲学すること、文学することだが、その土台になるのが歴史であり、また哲学や文学が帰っていく場所も、歴史だ。

ぼくの思考の個性が、いかに自意識を高めようと、どのみち帰る場所は歴史である。それでいいのだが、個性の追求が間違っているわけでもない。そう歴史は言っている。

かつてドゥルーズは魂と精神とを区別していたし、フーコーは思想と思考とを区別していた。フランス語にもとづくその区別の微妙な差異は、われわれ日本人には理解しがたいのだが、そうした区別をつけたがる気持ちはよくわかる。似たような問題について、すこし考えてみようか。

歴史家にとって、思想史はひとびとの認識を数珠つなぎにしたものであって、歴史ではないと感じられる。たとえば水戸学の学者は、あるいは憲法学者は、時代の権力について自身の認識を披露するのだが、それが現実のものかどうかは別の問題である。現実には、同時代の言説に無意識に影響されているというそのことにおいて間接的に触れているにすぎず、だからその認識を疑う権利が歴史家にはある。おおかたの学者の議論など、その実そのようなものにすぎないし、要するに思想史とは、そうした二次利用の産物でしかない。

一方で精神史といえばどうか。精神史のほうは、今度はさまざまな歴史の変化に通底するアプリオリを探すことであり、けっきょくは現在の自身の関心の事後的な適用にすぎないことがほとんどである。たとえば日本人論は、そうしたものの典型であって、ぼくはそうした精神史にも、ほとんど興味がない。

かといって、実証主義はといわれれば、彼らはそも文献から出てこようとしないのだから、歴史とはあまり関係していない。文献はいつも現実の歴史よりも《すくない》し、文献と文献とのあいだ、つまり点と点とのあいだにひろがる広大な空白地帯は、なんの感想も交えず最短距離につなぐことが客観的であると信じられているのである。客観性を貧しくすることが学者の仕事であるかのようだ。

しかし、想像力を用いるといっても、十分に客観的な想像力というのはありうる。たとえば点と点とのあいだに迂回を想像することが、さまざまな理由で許される場合はもちろんあるのだ。

思想史でも精神史でもなく、さりとて実証主義史学でもない、真に実証可能な真実の歴史こそ、自分が触れてみたいと思う歴史学である。だから、たとえばフーコーが思想の雑踏の中から《思考》を取り出してみたいと考えたり、ドゥルーズが魂の重力から《精神》を救い出したいと考えたりするのが、よくわかるのである。ぼくなら、福沢諭吉にならって、精神を《気風》といいかえるだろうか。

肺から絞り出されたため息が風に浚われて霧散するような、発散性の、軽やかな、精神。……あるいは、歴史。

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