底辺の人間の呪文

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2021.05.24

さて、wordpressのヴィジュアルエディタを使いこなしているひとはいるのだろうか。ぼくは昔からhtmlのコードをせっせと打ち込んできたので、かえって慣れずに苦労している。pだの、divだの、最近では使わないが、昔ならtrやtdや……。

おかげさまで、自分の論文はほとんどどこにも掲載されなかった。だから、ネットや雑誌など、自分で編集して自分で公開する、という作法が自然に身についてしまった。学問でも芸術作品でも、自分で温めているだけでは空しい。といっても、ネットも空しかった。余計に空しかったかもしれない。だが、公開は学者の義務でもある。意識だけは学者のつもりでいようと思っていたから、空しさは承知のうえである。ただ、最近は時代が変わってきたかもしれない。

学問は所属でやるものでも、掲載誌で競うものでもなく、論文の中身で勝負するものだが、それができるのは、真理に、さまざまなバイアスを超えて通用する強度があるから。究極的には、真理は庶民の味方だ(金や権力をもたない庶民には、真理しかない、といったほうが、実情にはあう)。ぼくのようなアカデミア底辺の人間は、そこにすがるしかなかったが、それでよかった。

htmlのコードは、当時、ぼくのようなアカデミア底辺の人間には魔法の呪文だ。アカデミアでなんの力もない若造でも、世界に真理(と考えたもの)を発信できた。昔は卒業論文だって掲載していた。tableを使ってサイトをデザインするなんて、いまから思えば妙だが、それもコツコツ煉瓦を組むようで、悪くなかった。

居場所のない人間が、独力で場所を作り出すことを、htmlは可能にした。それはよいことだが、一方で拡散力が強すぎて、ネットワークのなかで発散して「いないのと同じ」になってしまったり、かえって閉じた趣味の世界に寄り集まって、公開しているのにローカル化するようなところもあった。公開や場所といった概念は、自由な活動の結果にすぎない。大事なことは、世界のなかに、自身の居場所を作ろうとする、あるいは世界に向けて自身の精神を開示しようとする、その意思のほうだ。

一人前なのは自尊心だけで、それだけを頼りにもがきつづけた。だが、これで終わってはならないと、自分のなかの誰かがいっている。真に生きるために、まだまだ、もがき足りない感じだ。真理はいつだって厳しくも確実な味方だが、まあ、やさしくはない。真理のもつ普遍性はたしかに庶民を救う。だが一方で、普遍性の強さのために、時間や空間を超越していて、いま自分のいる場所に慈雨をもたらしてくれるとはかぎらないし、人間の寿命なんて気にしちゃいない。生前の自分を助けてくれるとはかぎらないのだ。死んでからでは困ると思っているのだが。

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