宣長の墓

diary
2009.09.18

夏の盛りに、本居宣長の墓を訪れた。

伊勢神宮を詣でた後、三重県の岬の突端、熊野灘と遠州灘の境目のところで東を望む。折口信夫は、南面すれば左側で、なだらかに曲線を描く水平線の向こうに、《常世》をみた。大和からみて、大和ならざる世界、そこに大阪出身の折口は親しき常世をみたわけである。

「詣でる」といった。慣用句だから使うだけで、手を叩いたとしても、願い事は一切しない。少なくとも、自分に関する願いはない。だから結局、感謝の言葉も出てこない。どうも、そういうことが性に合わない。神を信じていないからではないように思う。たぶん、神のほうで、その手の願い事にうんざりしているのではないか、と思うからだ。伊勢神宮クラスになれば、年毎に、あるいは二十年に一回リセットされる(?)、ということが仮にあったとしても、何百万・何千万というひとの「願い事」が、渦巻いているにちがいない。その願いをすべて聞いているとしたら、相当な労働である。額に汗して、泥まみれになってひとの願いを聞き届ける神を想像する。それで申し訳なくなる。だから、自分くらいは願い事をやめよう、と思う。願い事をしないのだから、感謝の言葉はかえって嫌味であろう。

まあ、今考えた理由である。神に願い事をしない、という自分の年来の非‐行為の理由がずっとそうだったかと言われると、そうでもない気がする。とにかく、手を叩いても、願う内容を思いつかない。というか、普段から欲望に忠実な自分は、手を叩くとかえってそれが出てこなくなる。

小林秀雄は、宣長について書いた。だが、宣長本人が書いた文書や墓をみても、わたしは彼について書こうという気にならなかった。彼の作った古事記のダイアグラムはなかなかのものだったが、松坂の山の中腹の無数の石段を登った先にある、前方後円墳を模したと思しい彼の墓は、どうも趣味ではなかった。

文献学者としてこれ以上の存在は見当たらない宣長よりも、文献の彼岸にある歌を聴こうとする折口のほうが、わたしにはずっと楽しい。折口は小林に、宣長とは源氏である、と言ったそうである。この謎めいた言葉の意味はよくわからない。宣長に親しく触れていたわけでもない。これは、初対面の彼、というか墓に抱いた第一近似でしかない。小林がそうしたからには、宣長はもっと興味深い存在なのかもしれない。だがわたしなら、宣長を書くくらいなら、折口を書く。

おそらくは宣長も立ったことがあるだろう岬の突端で、折口は海を望み、そこに常世をみた。だが宣長は、江戸幕府という当時の体制に反対し、松坂の地にあって、西に近しい大和を眺め、幕府の目をかいくぐって作られた前方後円墳のなかに納まっている。両者の墓の違いについて考えてみても、不思議なのは、むしろ海に向かい、彼岸を見つめる折口である。賢明な読者ならご存知のとおり、文献と墓とは、まったく同じものである。出来事は、その向こう側にあるのだし、出来事の秘密を知りたい人間にとっては、文献や墓は壁である。彼の壮大な墓の前で、わたしは彼とほとんど喋ることができなかった。

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