学問の改革

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2021.05.23

奈良で帝冠様式といえば旧国鉄の奈良駅舎だろうか。ファシズム建築として悪名ばかり高いが、隣にある現代の駅舎のほうがマシといえるかどうか。

学問の改革はむずかしい。たとえば歴史学なら、実証主義を批判する改革者の努力は、主として右翼のする歴史修正主義の前で雲散霧消し、保守的な手続き実証主義の水準に戻ってしまう。歴史的価値を扱う危険を犯すくらいなら、なんでもいいから資料を丹念に読む後者のほうがマシというわけだ。

こうして日本の歴史学は理論的には進歩せず、19世紀的科学の水準から出ないのだが、べつに歴史学に限った話ではない。たとえば哲学なら、日本の哲学者が行うのは、哲学者研究であって哲学ではない、という批判がなされるのを耳にするが、そこから出ようとする意思は、外からはあまり感じられない。

個人的にはこう思っている。実証主義は正しいし、哲学者の研究をすることもまた、十分に哲学でありうる。だがにもかかわらず、そこから出ようとする努力もまたなければならない、とも思う。とはいえ、正直にいえば、そんなことを若手研究者がすれば、周辺から総スカンをくらって立ち往生するのも目に見えている。

彼は哲学者の研究をしたがらないし、実証主義の苦労もしたがらない。そういわれて、ルサンチマンをぶつけられるのがオチである。戦後社会の暗黙の近代主義は、それほどに根強い。日本人は、物事の最初の思考者であってはならないのである。

誰かがやるのを待っているくせに、その誰かがあらわれれば、よってたかっていじめぬく。ワクチンなど率先して開発したくない。すくなくとも最初の開発者になるくらいなら、おこぼれのほうがいいのだ。日本はこの不況下にますますそういう社会だが、改革者に強いられるハードルの高さは、改革者を鍛えはする。

人文学には、人間をあつかう人間の学であるかぎりにおいて、人間社会における絶対的な価値がある。だから、これがなくなることはありえないし、またこの学の追究は不可欠だが、だからといってこの絶対性に人文学者が安住してはならない。たんに人文学の衰弱を招くだけである。したがってそのことは、この学がたえざる改革を必要としていること、改革なしには、途絶えることなく衰弱するほかない、ということである。いくら堕落しても、人間の滅亡まで終わってくれないのだ。

日本の人文学——とくに歴史学は、ほんとうにこのままでいいのだろうか。歴史学界は、どういった未来を描いているのだろうか。リヴィジョン(修正主義)を問題にはするが、ならばヴィジョンがあるのだろうか。危機意識は無用だろうか、的外れだろうか、そればかりか有害だろうか。

この種の自問自答を繰り返して、学会から距離をとる、という選択をとりがちである。喧嘩がしたいわけでもなく、党派を作れるほど人望もない。やりたいのは、学界内部でヘゲモニーを握ることではなく、学界を《開く》ことだが、こじ開けたいわけでもない。アマノウズメのように踊れれば……。

つくづく思う。このままではダメだ、と感じても、他人を道連れにはできない。そう思っていない人間をわざわざ不安にさせる必要もない。自分はなにをすればいいのか。地べたをせっせと這いずり回っている虫が、ときどき立ち止まって、しばらくじっとしている。いまの自分はそれに似ている。彼はきっと、自分は何者か、虫かどうかさえわからない、などと哲学的なことを考え、やがて忘れ、また歩き出すのだ。

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