坂本龍一

diary
2008.12.14

最近、坂本龍一を聴くことが多い。小さい頃からファンだった手前、坂本を聴いているときは、自分が「衰弱」しているときだと認識することにしている。

「衰弱」というとわかりにくい? 衰退といってもいいが、疲労ではない。没落でもない。要するに、演歌的なものに食指が動くということか。身体的には健康でも「思考」がはたらかない状態にあるということか。頭に意味が溢れてしまい、「思考」を身体が拒絶しているというべきか。ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』を読んでも、変に頭が「理解」しようとする方向にはたらいて、感じることができない。この本から意味を求めているときは、たいてい頭が馬鹿になっているときだ。『ツァラトゥストゥラ』は「歌」だ。この本の奏でる音楽を聴かずに意味を求めるなんて、馬鹿げたことだ。そういうとき、ぼくは自分が「衰弱」していると感じる。

そういう場合の処方箋として、ぼくは坂本を聴く。実際、聞いているのは、『04』で、Asienceだとか、Roningai-symphonicだとか、こんなものを作って、坂本だってずいぶん衰弱していると思う。

だが、衰弱を共有したって、嬉しくない。そうじゃなくて、坂本のよさは、彼の独特の「音作り」にあると思う。

ぼくは、彼の曲を聴くと同時に、音も聴いている。音楽的には、浅田彰が的確に、そしてじつは好意的に表現するような、アカデミズムが抜けきらない印象を拭えないし、また同時にその裏返しのロマンティシズムも、好きではあるが、気恥ずかしい。それはそれで衰弱している自分には都合がよいのだけど、ただ、音は別だ。こんなに音を作りこんだ作曲家は、いないと思われる。

バッハの時代には、楽器の製作は、演奏や楽曲の製作がそうであったように職人の領域にあり、ラヴェルの時代になって、演奏がアートの領域を開拓しても、楽器は変わらず職人の領域にあった。だが、坂本はシンセサイザーの時代の申し子であり、かくして、音そのものが、アートの領域に突入したのだが、それと同時に、坂本を、かえって“職人”に見せるようになった。職人芸としての彼の音作りは、やはり際立っていると思う。そこに衰弱はないし、この音を聴いて、ぼくの「思考」は知らず快癒するのかな。

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