唯物論的な歴史学

history
2009.05.31

文献学者が日々量産しているカント主義観念、すなわち原因―結果の観念は過去をどんどん遠い彼方へと送り返している。なぜなら、原因とは、結果ではないからだ。原因と結果の両者は手をつないで、交わることなく、弁証法という名の楕円を描く。天才ヒュームが一度はほどいたこの原因と結果の紐帯をカントが結び直した時、かくして過去はもうわれわれの前には姿をあらわさなくなってしまった。過去は地中奥深くに沈みゆき、つねに諸原因の結果であるところの現在がふたたび原因を規定するという悪夢のような循環のなかで、世界は日々閉塞の度合いを強めてゆく。しかし思えば子供時代、わたしはいつも、地中で集くこおろぎを聴いた。闇を集めて集くこおろぎの集きが、闇を掴むことのできるものにした。こおろぎの鳴く声は姿とひとつであった。

われわれは、いまもこおろぎの集きを聴く。だが、その姿はみかけない。たまに見かけても、その姿が声の主だとは信じない。形を失ったファントムのように、声だけが当たりに散乱しているのをいつも聞き流している。子供時代には知っていた声の物質性をわれわれは信じられなくなってしまったのだ。

だが、子供は知っている。その鳴き声のある《ところ》に姿があるのではないことを。そうではなくて、その鳴き声こそが、姿なのだ。だから彼らは容易にこおろぎをその手に捕らえることができる。文献もまた、同じことだ。文献は、過去の《原因》を伝える《結果》ではない。文献を紐解く、とは、まさに、ヒュームがそうしたように、原因と結果の観念から自由になることだ。つまり、われわれが文献を紐解くとき、そこにまた新たな歴史が生起するのだ。歴史は何度も繰り返す。といっても、抽象化されてしまった出来事の残滓が現在に再現されるのではない。たったいま、またカエサルがブルータスに討たれ、仏さえ斬って捨てる関羽の大刀が大将の頸を刎ね、馬上のチンギス=ハーンが敵の返り血を浴びて笑う。過去は地中奥深くに伏流し、その出来事の乱舞を繰り返している。過去は地中にその根をめぐらせ、いったい自分がどの層にいるべきなのか、わからなくなっているのだ。文献学者が苦労して過去を順序付けたとしても、本人のほうで、そんなことはおかまいなしなのである。

妖精はかならずいる。神もまたかならずいる。読むひとを驚嘆させるあのスピノザがそうだったように、そのことをほんとうに信じているひとは、べつに宗教など必要ないし、神秘主義とも無縁である。この肉体が、わたしの精神だ。自意識などとは、さっさとおさらばしよう。過去は妖精のように、不意に姿をあらわす。毎度遅ればせながら、わたしは妖精たちに出会うために、今日もまた歴史を紐解く。

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