中平卓馬

diary
2008.09.11

中平卓馬という写真家がいる。1977年の9月11日、つまり今日からちょうど31年前に、アルコール中毒で倒れ、記憶や言語に障害を負いながら、今日もまだ、写真家でありつづけているひとである。ぼくが彼のことを知ったのは、一昨年の暮れごろだったと思う。尊敬する方が――といっても、いまでは、理論的にはぼくはだいぶ違うところにいるのかもしれないが――いや、本当はそんなことはないのかもしれない――、教えてくれたのだ。彼の映画がある、それを観に行ってみてはどうか、といわれたのである。ぼくは、そのときはじめて、彼の名前を知った。

当時、ぼくは記憶やら忘却やらのことについて、巡らぬ頭を巡らせて考えていたので、その示唆はものすごくタイムリーだった。だが、その頃は学会の準備などで微妙に忙しく、結局その映画には行かなかった。それで数年が経ち、そして一昨日のことだ。交叉点の本屋で、偶々、彼の『なぜ、植物図鑑か』を見かけた。そして手にとって、驚いた。彼は、わたしがゴダールの『東風』を観て感じたことを、もっと的確な言葉でそこに記していた。すこし前に、ぼくは『東風』について語り合う革命家たちのくだらない話を書いた。ぼくは、血液を赤インクだというアンヌ・ヴィアゼムスキーの台詞――いや、『中国女』だったか? ヴィアゼムスキーでもなかったか?――にいつもどきどきするのだが、やはり、彼もそうだったらしい。そのことは、すでに『なぜ、植物図鑑か』に書かれていたのだった。

読むにつれて、興奮が抑えられなくなってきた。どこを切り取っても、そこには一流だけがもっている鋭利な、ほんものの視座がある。こんなひとが、まだいたのだ。読んでいくと、アルベール・カミュが引用されていたりするので、ぼくもカミュを本棚の後ろの方から引っ張り出してきた。論点はちがうが、「価値無きものの価値の哲学」は、中平のおかげで書けたものである。

そのとき、偶々隣にいた知己の女性に見せると、「文章があなたに似てるね」という。そうだろうか。そうなら、彼は迷惑かもしれないが、すごくうれしい。遅れ馳せながら、ファンになった。

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