不在なものの現前

philosophy
2007.04.29

人間には、不在のものを現前させる《力》が二つある。それは、想像力と記憶力である。もちろん、これらは、内在的には区別できない。記憶力のまったく介在していない想像力は成立しえないし、またその逆も成立しえない。両者は混在している。ただ、そうした現前を確認することの可能な《テクスト》がある場合にだけ、記憶力という用語が使われる。もちろん、こうした語の適用は、結果的にはほとんど維持できない。《テクスト》があろうがなかろうが、不在のものを現前させるためには、想像力なしには不可能だからである。不在のものを正確に現前させる記憶力という夢想は、徹頭徹尾、エクリチュールに依存した錯覚であるにすぎない。音声の方は、それが発された時空間上のある一点にしたがってただちに消え去るのに対し、エクリチュールは、紙や石版といった媒体の劣化速度にしたがって、ゆっくりと消え去る。とはいえ、後者は、不滅の印象を与える点で、歴史的な時間軸をつくりあげる。この不滅の《テクスト》は、不在の過去の再認を可能にしてしまう。

(もちろん、デリダがいうように、パロールが、すでにエクリチュールによって侵食されている事例はいたるところにあるが、それがパロールの本質なのではけっしてない。自分の声を聞くということが、確実な現前を可能にする夢想を与える、という見方は、間違いではないが、正しいわけでもない。そうしたものを仮に《現前の共同体》と呼ぶなら、そこに差延を見出すことも可能だしそうすべきだが、そのことによってテクストの外に、そういう言い方が不満なら《現前の共同体》の外に出られるわけではない。もともと純粋な記憶などは不可能であり、そこには必ず想像が混じっているからである。脱構築といっても無駄である。わたしたちはつねにすでに、デリダのいう意味で脱構築しているからである。こうした考察は、音声の十全な定義によってもたらされたものとはいえない。自分の声を聴くことによって得られた音声は、どう考えても録音された音声というべきであり、デリダのいうとおり、エクリチュールに属している。だが、それは音声にみられるエクリチュールの観察なのであって、音声の批判ではない。エクリチュールとパロールは、その消え去る速度の本質的な違いによって区別されなければならない――つまり、音声は、波動であり、消え去ること、《不在》であることによって定義されねばならない。つまり、わたしたちの聴いた自分の声は、すでに自分の声ではないがゆえに、重要なのである。プラトンのいう充実した音声とイデア。あるいは、音楽と言語を司る九人の女神ムーサ(ミュージックの語源)と、その母ムネモシュネ(記憶の神――という訳語には問題がある、なぜならここでいう記憶は想像と区別できないからである)。だから、わたしなら、デリダに反して、次のように言う。現前の共同体を可能にしているのはエクリチュールである、と。想像力を非現実的なものに貶め、記憶力に現実的で学的であるという夢想を与えているのが、エクリチュールであり、テクストである。ところで、デリダの行なったあまりよくない操作は、ギリシアをヨーロッパ的伝統の中に組み入れて一緒に批判したことである。しかし、ギリシアは、別にヨーロッパではない(もちろん、アジアでもない)。)

つまり、不在のものを現前させる《力》は、じつは、二つではなく、ひとつである。

この記憶力と想像力の区別は、近代的なある重大な区分の基礎となっている。それは、すなわち、現実と非現実の区別であり、学的にいえば、歴史と文学の区別である。一方は、記憶力に依存しており、したがって、現実を扱うものとされ、物語とは区別される。他方は想像力に依存しており、もっぱら非現実を扱い、かくして歴史とは区別される。とはいえ、先にも述べたように、歴史であろうが文学であろうが、結局のところ、二つの同じ力を駆使せざるをえないのである。歴史には想像力が必要であり、また、文学には記憶力が必要なのである。わたしは、想像力を失った歴史学にはほとんど価値を認めない。その一方で、想像力にだけ依存した文学にも、わたしはほとんど価値を認めない。歴史とは物語であるということ、物語とは歴史であるということ、それが大前提なのであって、そうでない歴史や文学は、そもそも批評に値しない。わたしたちが現実だと考えていることは、それほど現実的というわけではないし、わたしたちが非現実的だと考えていることは、それほど現実とかけ離れているわけではない。誤解を恐れずにいえば、現実と非現実とがじつは区別できないということ、そのことこそがリアルなのだ。

ところで、不在のものとは、すなわち《他者》のことである。いくらか難解かもしれないが、次の点に注意しよう。たとえ、いまここに存在している他者であっても、それが「不在である」と考える場合にだけ他者なのであり、不在でないとすれば、それはたんに、同じひとつの共同体成員ということになる。というのも、自分の目に映っている像は、像でしかなく、それは《他者》とはいえないからである。《他者》は本質的に不在なのであって、だからこそ、他者を現前させるのは、上記の《力》、すなわち「想像+記憶」力でなければならないのである。

1 Comment

  • ino

    2014年9月12日(金) at 19:38:46 [E-MAIL] _

    今晩は、はじめまして。不在ー現前をテーマに俳句ができまして、コメントとしてこちらに投稿させて頂きます。

    面前に 蓮の花は ものいはず

    特に親しい方ではないのですが、何か自分が諭されているような気持ちであります。

    加え、日本語の起源・言霊百神というサイトから短歌を一首ご紹介させて頂きます。

    なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな

    追伸 小生はツァラトゥストラを愛読しておりますが、哲学には詳しくございません…

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