一周年

diary
2009.07.16

ブログを立ち上げてちょうど1年になった。カウンターはほぼ30000を数えているし、ユニーク数も6000を超えている。驚くべきことだと思う。

もともと自分は本をあまり読まないし、読んでも基本的につまみ食いしかしない。本を読むよりも、考えている時間のほうがずっと長いし、なにも考えていない時間はもっと多い。そういう自分が文章を書くとしたら、それはひとに読んでもらうというよりも、自分の思考をとにかく先に進めたいと思うからだ。

最近、ドゥルーズの『意味の論理学』を読んで、愕然とした。というのも、彼がストア派についてこれだけ言及しているとは知らなかったからである。ニーチェを読み、ストア哲学に触れていた自分の思考が、彼に似ているのはもっともなことなのだが、次に書こうと考えていたのがストア派関連のことだったので、オリジナリティの点でいうと、やや方向を修正しないといけないかもしれない……。

ドゥルーズやフーコーが、ぼくは好きだ。彼らの文章のあいだで響いている苦悩やその克服としての歓びが、ぼくを快活にする。さすがに三十をすぎると、わかりたくもなかったそういうことがわかるようになってくる。だが、といって、彼らの文章は、じつはそれほど読んでいない。むしろ、彼らが読んだであろう本を読むことのほうを、結果的にはずっと熱心にやってきた。――たとえば、レオナルドの絵画に痛棒を食らったような感銘を受けて、それで画家になることを決意した青年は、おそらくレオナルドの絵画もたくさん見るだろうが、それよりも、レオナルドが見たであろう風景や女性たちのほうを、余計にたくさん見なければならない。つまり、レオナルド(画家)の目を獲得しなければならない。レオナルドの絵だけをみていても、ぜったいにレオナルドのような画家にはなれないし、それどころか、画家にさえなれないだろう。彼は、レオナルド研究者以外のものになることはできない。

最近見かける絵画はといえば、ほとんど絵画の絵画だけだし、世界そのものがまったく不在であるような絵画ばかりが転がっている。そしてそのことが推奨されさえしているが、それは絵画ではない。そこにはコンセプトという名の《不在》だけがある。それと同じように、ドゥルーズやフーコーの議論はさかんだが、結局、哲学者はどこにもいない。ドゥルーズ研究者やフーコー研究者は、いわば絵画の絵画のようなものしか書けないし、要するにそこに《哲学》は不在なのであるし、また不在であることが推奨されさえする。《哲学》は、研究者にとっては、余計なものなのだ。

ともあれ、ドゥルーズやフーコーの文章を読んでいると、ニーチェが読みたくなるし、ニーチェを読んでいると、世界そのものを読んでみたいと思うようになる(そして読むという行為がとても淫らだと思うことがある)。彼らの文章には、すでに世界が広がっているし、そうだとすると、彼らの文章のなかに、ぼくも存在しているに違いない。ニーチェの文章のなかに登場している自分を探そうと思えば、たとえば、本なんて読まずに、《思考》してみるといい。あるいは、なにか《書いて》みるといい。そうすると、そこにすでにニーチェがいて、ニーチェの本を読むよりも、よほどニーチェを読むことができる。だから《書物》という概念は、それほど重要だとは思われない。

孤独にものを考えていても、うまくいけば、ただそれだけで、ドゥルーズに会えたり、フーコーに会えたり、あるいはプラトンやホメロスにだって、出会うことができる。そして、ああ、似たようなことを考えているひとたちがたくさんいるんだな、と思って、すこし気落ちしたりすることもあるが、ともあれ、本を読むよりはよほど身近に感じられるし、そうやって出会ってから本を読めば、彼らの言っていることも、もっと簡単に理解できるようになる。

いつだって、ニーチェやフーコーたちは、先回りしてぼくを待っている。一度くらいは、ぼくの方が、彼らを待ちうけてみたいものだ。

ぼくの文章も、おそらくは、友人にだけ向けられたものだ。不特定多数の読者など、考えたこともない。ぼくは見たままの男だし、思ったことだけを書こうとしている。ぼくのことをよく知っているひとは、それだけ、ぼくの文章をも、よく読むことができるだろう。

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