ヴァレリー・アファナシエフ(二)

music
2001.10.31

再び、颯爽とアファナシエフは登場した。低い椅子に彼の痩躯(そう見えた)を埋めて、譜面台の上にそっと手を置く。瞬時に彼の周りの空気が醒めていくのがわかる。静謐とした冷気が彼を包み込む。そうして、昨日と同じように、また不意に音が溢れだした。

昨日はすっかり興奮して書くのを忘れてしまったが、初日はモーツァルトが演奏された。二日目の今日のプログラムは、定評のある、ブラームスの晩年の作品群である。昨日よりも比較的座席が前になり、いくぶん音(とくに残響)が違うのがわかる。アファナシエフが作曲者の違いを考慮して意図的に音をコントロールしていた可能性もないではないが、おそらくは彼は作曲者にかかわらずある一貫した音を鳴らしているはずである(録音を聴かねばなるまい)。座席が近づいた分、不要な残響が除かれ、フットペダルの操作による音色の劇的な変化がよくわかる。

ピアニッシモの演奏は、周囲をほとんど夢幻のような恍惚へと誘う。秋の夜の冷たい天空からふいに柔らかな半透明の皮膜が降りてきて辺りを覆いつくす。そのせいで視界がぼやけてくる。輪郭から色彩が滲んでみえる。色彩が自らの領分を超えてわたしのなかに浸入してくる。もしかしたらわたしは涙を流していたのかもしれない。目を閉じると、小川のせせらぎをさらう軽やかな舞踏のような、冷気に包まれた静謐な音色が減衰していくのが感じられた。音が途切れる最後の瞬間から、ほんの数秒つづく沈黙は、まるで永遠のようだ。彼はおそらく、腕をピアノから遠ざけて、あの巨大で平べったい両の手をさも重そうにだらりと下げているはずだ。休符のときには確実にピアノの鍵盤から手を離さねばならない。彼の十本の指先は確実にピアノの領分となっているからだ。彼は両の腕を鍵盤から離してしまう。だからこそ、曲の終りだけでなく、ただの休符までもが完全なる沈黙となるのだ。

そしてまた、あのフォルティッシモがあった。彼は力をこめているわけではない。ただ、手首から伝えられた強度と速度が瞬間的に指先にまで浸透するその突発的な時間を利用して、彼はそれまでピアノの領分となっていた指先に意志を伝えるのである。これが彼のフォルティッシモであった。たしかにわたしは「速度」といったが、それは、速いという感じを与えない。むしろ、純度の高さや密度の濃さを感じさせる。ダイヤモンドのように高密に結晶した鉱石が、冷気のヴェールを引き裂き、核心を刺し貫く。軽い動悸をおぼえる。色彩が鮮やかさを増して飽和していく。ハレーションを起こしている。鮮度が輪郭を超えて鼓膜から聴神経を瞬時に通過して脳に達する。まぶたを固く閉じても、まだあの音の色彩が脳裏を離れない。もはや脳が色彩で塗りつぶされてしまったのだろうか。動悸が高まる。

そして再び、音が減衰する。またあの沈黙がやってくるのだ。惚れ惚れするような、あの氷点下の蒼空のような沈黙が。

アンコールで何度も呼び出された彼は、直立したまま周りを一瞥してすこし頷くと、一礼して舞台の袖のむこうに戻っていくばかりだった。昨日も繰り広げられたその光景は、すこし微笑ましくもあった。

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