ルソーとニーチェ、あるいは地震と疫病

criticism
2023.10.04

さて、夏休みが終わり、後期が始まる。忙しくなる前に思考しておこう。ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論はリスボン大地震が大きなきっかけになっている。ヴォルテールの悲観主義に対して、ライプニッツの楽天主義を維持したルソーの悟達はこうだ。遠く離れた死を、われわれはやり過ごしてきた。それでいいのだ、と。

パリにいながら、遠いリスボンの死を我が事のように嘆くヴォルテールは道徳的には正しいといえる。だが、それも当時発達していたメディアの情報に依存してのことだ。ヴォルテールはそれを新聞を通じて知ったのだ。つまり、当時のメディアの届く範囲で嘆いているにすぎない。ところで、ルソーのいう社会契約とは、自然人のもつ生存権の一部を社会に委ねることだが、それは、裏を返せば一定の死を受け入れることでもある。

死に対して、身近な人間はもちろん嘆いていい。というか、誰かに許可を求めなくても、自然に嘆きがあふれてくる。だが、社会を構成する成員のすべてがその嘆きを共有する必要は、もちろんない。社会契約とは、ルソーがそう明記していないとしても、一定の死をやり過ごす、という黙契だ。老人が小さな病を得て死んだとき、成員すべてが、そのひとつひとつに嘆きを要請されたら、社会は破綻する。

しかし、それを明言すれば非難は大きくなる。だからルソーは『社会契約論』のなかで、それを半ばぼやかして書いている。それをあえて明言した僕の言葉にも、なんらかの不満を覚えるひとは多いだろう。そして、ルソーの言葉はそれを匂わせていた。社会からの不満はやがてルソーの思考に向かい、社交界の非難を受け、孤独をかこつことになった。

だが、ルソーからすれば、どんな死であれ、すべての死について嘆くべきだ、というような道徳主義かつ悲観主義こそ、無責任なのである。実際、キリスト教世界のなかで生きるヴォルテールの悲観主義のなかに、同時期の日本が飢饉に喘いでいたことは、まったく入っていない。耳に入っていないのだから当然だが、踏み絵を強要する民族が極東にいる、ということは知っていた。その程度の認識で世界の破滅を嘆いていたわけである。

ともあれ、僕らが一度もそれを経験していないにもかかわらず、社会契約はある、と言わざるを得ないのは、僕らが、図らずも、一定の死をやりすごしているからである。つまり、楽天主義はもともと残酷なのだ。リスボン大地震で楽天主義は破綻しないのである。

さて、ニーチェは疫病の原因は同情だと言い切っていた。この規定は非常に興味深いものだ。ニーチェにとっての疫病は、ルソーにとっての大地震と役割が似ている。だが、状況はより複雑化する。地震のように一度に破壊的な力が広がるのとは異なり、じわじわと蔓延するあいだに、身体のみならず精神を蝕み、同情につぐ同情が精神をショートさせ、同情することと不潔を排除することとが、同じ人間のなかに混在することになる。

ルソーにおいては、孤独な散歩者の思索(夢想)がありえた。それによって、ルソーは社会契約以前の自然人に帰ることができた。ニーチェにおいては、孤独な者の独白は芸術に高められねばならない。いいかえると、独白を誰かに聞かせねばならず、孤独な境遇から山を降りてひとの集まる都市に出かけなければならない。彼は、疫病における同情とそれが招く敵意の混在を、独白によって切断して回るのだ。孤独になりなさい、と話しかけるのだ。

ニーチェによれば、病人だけが健康になれる。また、不潔な者だけが清潔になれる。だから病を得たニーチェは嬉々として健康であり、そして清潔なのだ。病や不潔とは、乗り越えられるべきものとしていったんは肯定されねばならず、だから彼には《敵はいない》のだ。無敵のニーチェ。

病人に対する過度な同情。そして自分が病を得た時には、病原を探して敵意を向ける。この同情と敵意のスパークによって生まれるのが、いわば《疫病人》である。僕らはこの状態から抜け出さなければならない。誰あろう、ほかならぬ自分が一番汚い。そう思うからシャワーを浴びることができる。そして得た病気は来たるべき健康のために、肯定される。実際、免疫がつくというではないか。

この何年かつづく疫病禍にあって、とりわけ若者に皺寄せがいくことを顧みない日本社会に、僕は失望を覚えていた。しかし、四年も抜け出せないとなると、逆に、まだできることがあるのか、と思いもする。僕らはよほど幼稚化している。他人に同情しながら極度の潔癖症なのだ。同情するなら不潔も認める。潔癖を望むなら同情しない。そこに戻るだけでいい。他人に同情を向けながら、自分だけは他人のもたらす不潔から遠ざかろうとする矛盾を犯して社会を身動きできないようにしている。

清潔な人間だけが住む同情の島。一部の人間が望んでいる社会はそんな社会だが、それを望むとなぜか病人が増える、というのも奇妙なことだ。病院だけが栄えて、医者を除けばどこにも健康な人間がいない。というか、病院はそういう場所なのであり、つまり列島を病院のようにしたいのだ。

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