リプレゼンテーションと民主主義

philosophy
2009.05.01

物自体とその表象、という二重体において世界を思考するやり方、リプレゼンテーションの問題は、もちろん、今日われわれの社会で運営されている議会制民主主義Representative Democracyと呼ばれるものの問題と切り離せない。カント主義的なリプレゼンテーションという思考は、いたるところに及んでいる。たとえば歴史学においても、固有名は、それが背負っている時代のリプレゼンテーションであると考えられている。だからこそ、歴史家は固有名のまわりにうずたかく、苦労して同心円状に学説を積み上げてきたのだ。近代の議会制民主主義もまたそうである。われわれ一般大衆を代表する議員の存在は、歴史における時代と固有名の関係に等しい。固有名が、プレゼンス(存在)のリプレゼンテーション(再-現前化)として、より透明であればあるほど、当の固有名は時代をうつす鏡となる。同様に、議員は一般大衆の総意を受ける空の器であり、それがより空虚であればあるほど、より優れた議員と言いうる。

当然、こうした社会構造は、トゥリーをなす。かつて頂点に君臨した王のもと、下に向かって枝が伸びていたのだとすれば、近代は逆である。議員は、もっとも透明な実在であり、そうした彼らの上に、枝葉としての大衆が君臨する。また、歴史学においても、近代の歴史家は、王制を可能にした民衆の歴史を見いだそうとするだろう。近代の歴史家にとって、歴史とは、徹頭徹尾、民衆の歴史なのである。そして、こうした思考に都合よく嵌ったのが、日本の天皇制であることも、誰もがよく知っているだろう。天皇というよりは、皇室という空虚な箱、個人の意志を有さない、親政の可能性を奪われた天皇の実在は、むしろ民主主義を可能にする格好の虚器と見なされたのである。

目に映るなにか、耳に聞こえるなにか、すなわち可感的ななにものかを、本来の物自体のリプレゼンテーション(再現)とみなす思考は、当然、リプレゼンテーションというヴェールに透明性を求めようとするだろう。ひとまず視覚的な観点に問題を限定できるとして、もし完全な透明がありうるとすれば、それは存在に等しいものとなろう。これが議会制民主主義が求める夢である。

もちろん、こうした思考は夢であり、むしろ妄想である。ひとが完全な透明になることなど不可能である。個々の主体が、完全な客観性の可能性を抹消しているのと同様、ひとはむしろ透明であろうとする実在にこそ、どうにもならない主観性を見いだすだろう。これを超越論的主観という。この主観は透明であろうとする自己の主観に対して批判的にはたらくとされるのだが、ともあれ、こうした透明の夢想を現実にあるかのようにみせる装置こそ、リプレゼンテーションであり、それは国民国家という形で具現することなく具現していると考えられた。したがって、こうした装置を批判するために、プレゼンスとリプレゼンテーションとを切り離すことが、推奨された。ものと現象のこうした切断こそ、批判であると考えられたのである。議会制民主主義=国民国家の欺瞞は、この不透明を透明とみなす視線の権力として立ち現れるのだ。……

とはいえ、本来のカント的な議論、というかカントをその可能性において読む立場でいえば、ここで批判は終わらないはずである。批判は、これでは完遂しない。むしろ、上記のそれ、すなわち現象と物自体の区別が批判というものなのだとすれば、批判は不毛であろう。われわれの哲学は、こうした認識から始まるのでなければならない。

そもそも、現実的にいって、議員はわれわれ一般大衆を《代表》しているのだろうか。この装置そのものがついに現実に触れない虚構なのだとすれば、この《代表》という思考が根本的に疑われねばならないはずである。つまり、カントの批判は、彼の書物『純粋理性批判』の最初のページに連れ戻すのである。そしてわれわれはここからカントの批判を離れて本の外に分岐せねばならない。というのも、本当にリプレゼンテーションが現実のものに触れないのであれば、そもそも、議会制民主主義において、なぜデマゴーグやファシストが実現され、現実の政治空間でひとを混乱や死に陥れることが可能なのか、説明がまったくつかないからである。

議員は、その意志がどうあろうと、われわれ一般大衆を代表したりしない。彼らに大衆を真摯に代表しようとするよき意志があるとしても、彼らが首都の議会で語るのは、われわれの声の代弁である。しかも、自身の理想と意志の入り混じった代弁である。すなわち、彼らが行なうのは、同じものの代理としての《代表(リプレゼント)》ではなく、地方から首都へ、ひとからひとへ、言葉から言葉へ、われわれが表象と考えているものからさらに別の表象へ、差異を差異として肯定する一種の伝言ゲームである。どう考えても、現実に行なわれているのは、ものに表象が覆いかぶさる二重の構造の形成ではなく、こうした連鎖的表象のゲームである。つまり、リプレゼンテーションという思考は、現実の政治空間を考える場合、根本的に拒絶されねばならないのであるし、またわたしは、本来の民主主義、あるいはひとが当初考えていた民主主義―とりわけジャン=ジャック・ルソー的な―とは、こうしたものとして思考されていたはずだと考える。天皇や議員に対して、透明な存在を期待するかぎり、そしてそうした存在を必要悪として容認するかぎり、政治家という犠牲者を生み出しはしても、平等も自由も、すなわち民主主義はついに実現されない。むしろ、政治家もまた、たんに伝言ゲームのなかにわれわれ一般大衆と同じ資格で加わるからこそ、それは民主主義といわれうるのである。

議員は、民衆の声をたんに代弁するのではなく、民衆の声にさらによりよき声―つまり差異としての声を連ね、声をさらなる高みへと導くのでなければならない。だからこそ、議員は、たんなる民衆の意見の代弁者としてのデマゴーグや、あるいはよくいって民衆の意見を汲み取ろうとする奉仕者ではなく、知識人たるべきなのである。したがって、大衆の総意として存在しているようなポピュリスト的な政治家が実現したとしても、そのことを民主主義の結果として受け容れる必要はまったくない。なぜなら、この政治家は、なんら差異を実現していないからである。それは民主主義の結果ではなく、リプレゼンテーションという思考を受け容れたことから発生する(最終的にそれを批判するのだとしても)誤った民主主義にすぎない。

議会制であろうが、そうでなかろうが、民主主義が本来のそれであるかぎり、政治家は、大衆の声を代弁したりしない。民主主義において本来問われなければならないのは、議員が、いかに大衆の声を、よりよき差異に向かって導くかであり、その差異の価値が問われねばならないのである。本来の民主主義とは、こうしたものであったはずだと、わたしは確信している。

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