ホウ・シャオシェン『非情城址』

cinema
2001.12.23

台湾には、今日でも、戦前から居住する本省人と、戦後に中国大陸からやってきた外省人とのあいだに根深い対立がある。歴史的に言えば、日本の敗戦・撤退の後、一九四八年二月二八日、外省人は、本省人の弾圧を敢行した経緯がある。この、いわゆる「二・二八事件」によって翻弄される富裕な一家を描いたのがこの作品である。

キャメラは、路地を縫うようにして登場人物を捕らえる。超越論的視点を拒否する態度の顕れであるかのように、腰の高さに据えられたキャメラはほとんどパンニングすることはない。まるでそれは日本と中国大陸とのあいだで抑圧された台湾の人びとの最後の抵抗であるかのようにもみえる。時折、さしはさまれる、深澳湾から蒼空と海を望む遠景は、希望の二文字なのだろうか。いや、しかし、そのシーンの背後に流れる国民党のラジオ放送や、登場人物たちの合唱は、激動の台湾にあって苦しむ人々に対して蒼空が向けつづる非情なまなざしへのささやかな皮肉――皮肉とは、もちろん、超越論的態度が可能にするものである――にも取れるだろう。この作品を貫くこのようなアンビヴァレンスは、もちろん、台湾で生きる人々そのものを苛み、かつ日本人でもなく、中国人でもないという自己同一性ならざる自己同一性を付与する二重のアンビヴァレンスでもあるだろう。

オープニングでまさに産声をあげて誕生した赤子が、自らの血筋を知るとき、彼はどのように振舞うだろうか。本省人と、日本人の妾とのあいだに生まれた子であるということを知ったときに。

幼い頃、木から落ちて口の利けなくなったこの一家の四男、文清は、鉈を持った本省人である台湾やくざにこう問われる。「おまえは外省人か」。彼はもちろん、答える術をもたないのだが、彼は、もし、口が利けたなら、それに対して何らかの答えを示すことができただろうか?

むろん、彼らはそれでも生きていくだろう。だが、それは安易な答えなどではないし、むしろ問いに対して問いで答えることである。それでも、依然、暴力が彼らを襲うのであり、かつて侵略してきた日本人に対してそうしたように、支配者に不法な搾取を許すことで何とか自らを保つより手立てがないのである。次男は戦争で行方不明となった。三男は精神錯乱し、長男は賭博場の抗争で死んだ。四男は「事件」の余波による逮捕後、失踪し、一家は離散した。残った者たちで食事をする最後のシーンは、それでもなお生きることに対するアイロニッシュな問いかけであり、その問いかけによって、作品は閉じられるのだった。

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監督:侯孝賢
脚本:朱天文、呉念眞
製作:邱復生
編集:廖慶松
撮影:陳懐恩
音楽:立川直樹、張弘穀
制作:張華坤
出演:李天祿、陳松勇、高捷、梁朝偉、辛樹芬、呉義芳、陳淑芳
1989年/台湾/159分/カラー/ビスタビジョン
1989年ベネチア国際映画祭グランプリ

1 Comment

  • 柊小町

    2009年10月28日(水) at 16:42:46 [E-MAIL] _

    悲 涙 生 希望

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