バルテュス展

review
2014.08.17

昨日はどしゃぶりの雨のなか、京都市美術館で開催されているバルテュス展へ。

バルテュスは本名をバルタザール・クロソフスキー・ド・ローラといい、『ニーチェと悪循環』の著者、ピエール・クロソフスキーの弟である。ピカソにより「二十世紀最後の巨匠」と賞された彼は、日本で言えば作家の高見順や科学者湯川秀樹の一歳下、一九〇八年の生まれである。

ゲートを潜って、その作品を一見するや、抜群に筆が巧いことを了解させられる。その巧みさゆえ、動物的なもの、エロティックなものに出し抜けに、いともたやすく触れる。にもかかわらず、そのあまりの気安さが、かえって彼の視線を緊張させるかのようだ。しかも、彼は対象と同一化できるわけでも、客観的に見下せるわけでもなさそうだ。というのは、彼の好んだ猫や少女といったモデルたちは、けっして彼と視線を合わせたりしないからである。(たとえ「猫たちの王」を自称しようと)気まぐれな猫たちはもちろん、気ままな少女たちも、「鏡」や「夢」のなかにいて、彼とは目を合わせない。この視線のすれちがいが、画家と対象との神聖な距離である。見つめ合えるとしたら、自分がなにかのコメディのように猫か少女になったそのときだけであって、結局、彼は他者としての猫や少女たちと目を合わせることができない。そしてその距離の生み出す緊張が、作品をきわめてエロティックにすると同時に、ポルノに堕落することも許さない。彼の絵画は、われわれに画家の緊張と同じものをもたらす。というか、視線を画面に引きつける色彩、にもかかわらず感じる居心地の悪さや胸騒ぎ、長く見つめていることの困難、こうしたもののすべてが少女の絵画についての体験である。

彼は、誰もが抽象やコンセプチュアルアートに与するこの時代に、具象を貫くことができた。すばらしいことである。なぜそれが可能だったのだろうか。

彼は、対象が自分と目を合わせなかったとしても、彼を見ていることを知っている。つまり彼は見られている。野暮を承知でいえば、晩年、日本人の少女に関心を抱いたのも、もしかしたら、日本人が目を合わせて喋る慣習をもたなかったからかもしれない。けっして見つめ合うことを許さない、そのかすかな躊躇の痕跡は、いわば永遠の憧れの距離であって、対象をエロティックにすると同時に、神聖にする。こうした視線の交錯、もっといえば光の交錯は、そも抽象やコンセプチュアルアートには不可能である。彼にとって絵画は、出会わなかった視線の交錯そのものであり、すれ違いの距離が生み出す緊張にほかならない。だから彼は光を描かねばならなかったのであり、しかもその光は動物的でエロティックでなければならなかった。すなわち、彼の絵画はアルチザンとして卓越した技巧を示す彼の眼が描く、具象でなければならない。

どのようなルートを通ってであろうと、表現者は、ついに具象にいたるはずだ。畢竟、エロスを放つと同時に、ポルノに堕落しないこのぎりぎりの感性にこそ、芸術の本質が現れるのだと、わたしは思う。京都近郊にいて(あるいはそうでなくても)、この希有な画家の緊張に触れたいと思った読者がもしいたら、コンパクトにまとまった展覧会をぜひ訪れてほしい。会期は九月七日まで。

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