ニヒリズムについて(メモ)

philosophy
2006.09.07

さて、少々込み入った哲学的レッスンを、私自身に課してみよう。

「自己嫌悪」というものがある。たとえばこうだ。「どうして私はこれほど駄目なのだろう!」 こうした嘆きには、誰しもが囚われるものであり、かくいう私ほど、この嘆きを投げかけた者もそうはいないだろう。ところで、たしかに私は駄目な人間だが、いったい誰が、私を裁いているのだろうか。もちろん、私自身である。したがって、私は、その裁きを受け容れることができない。なぜなら、そうやって裁いている私自身が、信用ならないからだ。かくして、私ほど、自己嫌悪などという不可解な概念から遠くはなれた者も、そうはいないに違いない。

しかし、振り返ってみると、少なくとも、私には、二つの人格を認められるようだ。すなわち、《裁かれる私》と、そんな彼を《裁く私》とである。われわれは普通、後者の《裁く私》を「理性」と呼び、《裁かれる私》よりも上位にこれを置いている。そうした上下関係がないならば、そもそも、一方的に裁く権利など、あるはずがない。ひとは、自分の中に、一種の貴族政治を有しているのだ。ここにはどのようなメカニズムがあるのだろうか。

多くの場合、こうした裁きには、時間のずれを認めてよいようである。すなわち、裁く私は現在の私であり、裁かれる私は、過去の私である。この時間のずれこそが、ひとを分裂させるのだ。しかし、単に《過去の私》が裁かれるのだろうか。事態はもっと複雑に見える。というのも、印象としては、やはり自己嫌悪がその対象としているのは、現在ここで息を吸ったり吐いたりしているこの私だからである。嫌悪の対象が単に過去にあるのなら、現在の私がそのことで思い悩む必要があろうか。現在は現在、過去は過去と考えれば、自己嫌悪など、簡単に片が付いてしまうではないか。そんなはずはない、と良心が言う。そんな簡単に悩みを解決してはいけない!――そこで良心のために、厳密さを期そう。この厳密さがここでは大変重要なのだが、このように言うべきだったかもしれない。裁かれる私は、単に過去の私というわけではなく、私にまつわる過去の出来事の記憶を、私のものとして所有している私である。つまり、裁かれているのは、《過去の私》ではなく、《過去の記憶を自分の所有物として思い出している現在の私》なのである。ストア風に言うなら、《現在についての現在》が、《過去についての現在》を裁くのである。アレゴリカルに言えば、それは、歴史学者が、過去に起きた実際の出来事ではなくて、現在に伝わる痕跡だけを扱うようなものである。

この段階で語るのが適切なのか、少し悩むところだが、「自己嫌悪」には、どうやら二つの時間概念が作用しているようである。すなわち、過去から未来へと流れていく時間と、もうひとつ、現在のあり方によって如何様にも伸縮するもうひとつの時間とである。一般に、「自己嫌悪」は、前者の時間概念が、後者の時間概念を裁こうとするときに生じるものである。噛み砕いて言えば、昨日起こった出来事を、まるで今ここで起こったかのように感じさせる狂った時間概念を遠ざけ、それを過去へ押し戻し、過去から未来へ、という秩序立った整合性のある健全な時間概念へと押し戻そうとする作用である。出来事を歴史に変えるのは、この、自己嫌悪なのである。

じつをいうと、本当の意味での過去の私を、《裁く私》は端から問題にしていない。彼が裁く対象は、結局のところ、過去について思い出している現在の私なのだが、にもかかわらず、この裁判官は、それを過去の私として裁くのである。つまり、これは一種の不在裁判なのだ。ここには、じつは現在しか存在しておらず、現在に圧倒的な優位がある。

したがって、この法廷は、最初から偏ったものである。裁判官であり、じつは検事でもあるところの「理性」は、過去と現在とのあいだで中立を装っているように見えるが、現在の方が勝つように仕組んだ真犯人でもある。「自己嫌悪」の行き着く先で、勝利するのは自己なのであり、「自己嫌悪」は、その表向きの姿とは裏腹に「自己愛」なのだ。稀に被告人である過去についての現在が勝利し、真の意味での自己嫌悪――虚無に陥る場合がある。だが、その場合、「理性」は虚無に行き着いた彼を狂人とみなす。「理性」は弾劾する。「お前は過去を現在のように語る狂人だ!」 つまり、理性には敗北が存在しない。

いくらかセンセーショナルなことだが、現在の勝利を仕組んだ「理性」が非難しているのは、本当のことを言うと、現在である。一見、彼は、過去に否を突きつけ、現在の勝利を宣告しているように見える。だが、じつは、彼が否を突きつけているのは、現在である。たしかに、厳密さを期せば、彼が否を突きつけているのは、《過去についての現在》であり、《現在そのもの》にではない。だが、この時間概念は、過去から未来へというその都度分割されうる時間概念と違って(じつは、この時間概念には、わたしたちが考えているような《現在》は含まれていない)、一種の軟体動物であり、《現在についての現在》と連続している。この時間概念においては、過去も未来も、現在という全体を構成するひとつのナメクジなのだ。だから、どこか一部に傷をつければ、いずれ必ず全身が死に至る。つまり、現在自体が死んでしまう。理性(自己嫌悪)は、ついに現在に勝利させる(自己愛に至らせる)ように見せかけながら、現在そのものを窒息死させようとしているのである。「現在」、すなわち「私」は、その過剰な「自己愛」のために、ついに死に至る。結果的に、勝利するのは、現在を過去から未来へという時間軸上のひとつの点にしてしまう、歴史だけなのだ。だから、先ほどの言葉をより精確に言えば、出来事を歴史に変えるのは、自己愛へと至る自己嫌悪である。

そこで、わたしたちの手許には、二つの選択肢が残されていることがわかる。また、この世には、これ以外の選択肢は存在していない。自己の勝利という幻影を見せる理性の狡知に欺かれつつ、無意識のうちに歴史の藻屑となって消え去るか、それとも、自ら消え去ることを意志し、自己を超克しようとするか、この二つに一つである。

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