ストローブ&ユイレ『シチリア!』

cinema
2000.10.27

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲がこの映画の始まりを告げる。ベートーヴェンは、フィナーレにおいて再び奏でられるだろう。この曲は、ゴダールの『カルメンという名の女』のある重要なシーケンスにおいて、強弁的に奏でられた曲でもある。ストローブ=ユイレはあたかもこう言っているかのようだ。

「ゴダールよ、音楽とはこのように使うものだ……」

わたしに言わせれば、ゴダールも、ストローブ=ユイレも、両者とも《歴史》に立ち向かう超人であり、真の映画人である。そして、両者の《歴史》への態度において、こうも思う。ストローブ=ユイレはまったく正しく、ゴダールは、明らかに道を誤っている、と。

小津安二郎を思わせるような特有のフィックスショットをまたも多用しているが、ストローブ=ユイレのそれはあきらかに時代錯誤的にみえる。また、かれらが用いる長回しは、カット割りによる編集に慣れたわれわれの視線を、少しばかり冗長にすぎる、ある一点への凝視へと強制する。アンドレ・バザンの理論において示された、モンタージュ=カットの回避と長まわしの多用が倫理的にも観客にある自由を与えるとされていたが、ここではそれは完全に裏切られる。フィックスショットと長回し、これらのある種の時代錯誤的感覚は、おそらく、前世紀の終わりに映画を発明したリュミエール兄弟の視線を受け継ぐものである。このことが明らかにするのは、彼らが《映画》の正当な継承者であるとともに、《映画》の原初的な驚きを20世紀末にもいまだ持続させていることである。驚きをいまだ共有しているもうひとりの映画人、ゴダールの視線が、ある種のいかがわしさを感じずにはいられないカトリシズムへと向かうことを思えば、ストローブ=ユイレの視線が《歴史》とともにあった《映画》の誠実きわまる進歩に貢献するものであることもまた、明白なことであろう。

彼らの《歴史》についての態度において、誠実かつ正当なものであるとわたしが感じるのは、唯物論を徹底し、かつ脱臼させた、唯名論的歴史観においてである。わたしは、このところ、歴史が、結局は「名」において集約するものであることを、強く感じている。イマージュでも、記号でもない、原初における名指しの概念としての「名」。彼らの視線=カメラは、「物」を裸にする。アメリカから十五年ぶりに郷里であるシチリアへと帰還した主人公が、母の家で食す「にしん」、そして「メロン」。彼らの透徹した視線=カメラは、ただ、物がある、ということを、見るに耐えないほどの破廉恥さでわれわれの前にさらす。もはや物が《ある》という《存在》の動詞の存在すら疑わせ、分節できない「名」へと思考を導くほどに。シチリアの開き直ったように強い日差しは、光と影のコントラストを飽くなき執拗さで追求し、普段は姿をあらわそうとしない「物」を人目にさらす。あたかもまっしろな紙に記述された文字のごとき様相を呈す。演技者の執拗な凡庸さ、平坦さは、そのような紙の平面的な特徴を補強しているし、演技者のシチリア訛りのリズミカルなイタリア語は、さながらアルファベットの形象そのものをあらわしているかのようだ。《歴史》とは、おそらくこのよう名と方言とに塗れているものなのだ。……

ストローブ=ユイレは、終焉を迎えるかに見える《歴史》を救ったのか? おそらく、そうではない。彼らは、「物」を見すぎた。彼らの誠実さが、これほどに「物」を見さしめたせた。結局、むしろ、彼らは《歴史》を、延命させたというべきではないか。十九世紀に登場して以来、確かにマルクス主義的唯物史観の影響を受けながらも変わることのなかった《歴史》を、根治治療を施すことなく、延命させたのに過ぎないのではないか。いつも《歴史》ともにあった《映画》は、彼らによっては決して終わることがないからだ。ゴダールは確かに間違えている。ストローブ=ユイレの映画的正当さを前にしては、そう言うほかない。だが、ゴダールには、なお偉大な可能性が秘められているように思えてならない。なぜなら、《映画》に終焉をもたらすのは、けっしてストローブ=ユイレではなく、ゴダールだろうから。《映画》の終焉は、同時に《歴史》をも終焉させる。《歴史》にかわる歴史を、《映画》にかわる映画を創造する権利は、それらの終焉をもたらした者にのみ、認められている。

監督:ジャン=マリー・ストローブ&ダニエル・ユイレ
原作:エットリオ・ヴィットリーニ『シチリアの対話』
音楽:ベートーヴェン(弦楽四重奏曲、作品132、アレグロ・マ・ノン・タント)
出演:ジャンニ・ブスカリーノ、ヴィットリオ・ヴィグネン、アンジェラ・ドゥランティーニ
1998年/フランス・イタリア/66分/35ミリ/白黒

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