サブカルチャーとしての開会式

criticism
2021.07.25

五輪の式典をまったくみていない(テレビをもっていない)。だから、語る資格はないのだが、想像はつくので、礼を欠くのを承知ですこし——要するに、日本社会のサブカル化と五輪について、である。

自分はアスリートを心底尊敬している。それは、《自分との戦い》を実践している、ほとんど唯一の存在だからである。自分との戦いとは、たとえば、昨日の自分よりも早く走りたい、であるとか、もっとサッカーがうまくなりたい、であるとか。目前の敵は、おのれを研ぎ澄ますための、よきライバル、つまり戦友でもある。

本来は、真理や美にたずさわる学者や芸術家にとっても、そうであるはずだが、学界に所属すること長きにわたるものの、スポーツの世界と同じほどの探究心は認めがたい。真理よりも、実証の手続きに収まっていること、研究費を取ること、研究職に就くこと……等々、手段が自己目的化している。

あるいは、ちょっとした、トリヴィアルな知識が過剰にもてはやされる世界。昨今の学問はほとんどそこに照準をあわせている。いわば、マーケットが学問をつくるわけだ。それがただちに悪いとはいわないが、自分のいる歴史学界は、しゃかりきに、真理真理と暑苦しい自分が孤立していく世界である。スポーツの世界は、最初から汗とともにあって、そのうえに成り立っている。だから、正直にいって、うらやましいと思う。

たとえば、スポーツならば、より自分に見合った道具を使用することが許され、またそれが追求される世界である。だが、学問の世界は長く、そうではない状況がつづいている。むしろ先達のやりかたを踏襲するのが正しいとされ、そうでなければ論文と認められず、方法の追求に足を踏み出した瞬間に孤立する。そうした世界である。

しかし、だからひとは、スポーツに魅力を感じている。他人を喜ばせるより先に、自己との戦いが来る。それは、勝手に忖度した他人の思惑に自分の欲望を枉げることのない、純粋な自己探究だ。日々おこなわれる他人とのしがらみに疲れたひとびとは、だからこそ、そんな孤高の実践に報酬を支払いたいと思うほど感銘を受ける。もちろん、例に漏れず、資本主義は、人間のスポーツにまつわるそういった感情にも寄生する。そのため、いまやスポーツのさまざまな祭典が、巨大な産業に成長していったわけで、オリンピックはその最たるものだ。しかし、スポーツそのものは、無罪である。資本主義は、原理的にいって、スポーツそのものに寄生することはできない。なぜならスポーツにおいて、アスリートの労働と生産物は分割されていないからだ。アスリートは、自身の労働が生み出した生産物を、自分の所有物にすることができる。資本主義が寄生しているのは、スポーツを取り巻く観衆の感情である。

本来、アートもまたそういうもののはずである。たとえば一枚の絵画作品は、さらによい絵を描くための、画家自身のための生産物であって、最高の一枚を描きあげるその日まで、すべて画家の糧である。われわれはその美しい絵画にそれなりの報酬を支払うが、原則的に、作品は資本制的な商品ではない。なぜなら、作品の出来にしたがって報酬を受け取るのは、生産者、つまり画家だからである。

だが、残念ながら、現状のアートがそういうものになっているとはいいがたい。それはスポーツと異なり、「作品」の形で生産物が流通するからである。この流通を先取りして、こういうものが売れる、ということになれば、その生産物から富を受け取るのは、生産者と消費者とをつなぐ資本家ということになってくる。

そしてけっきょく、昨今の日本のサブカルチャーは、そういったものでしかない。元来は子供向けの商品だったものが、大人になれない大人を惹きつけた結果生まれた文化、それがサブカルチャーである。もちろん自分にも小児性は(多量に)あり、また誰しもそれは否定できないだろう。が、そのままでいいはずもなく、そのことより悪質なのは、そんな大人になれない、ただし金だけは一人前に持っている大人の存在を見越したマーケットの動向を熟知した仲買人により、作家がそのとおりのものを描かされることである。また、そんな「観衆」の視線を内面化した作家は、たとえば絵画技量の向上よりも、「観衆」に評価されることを優先させるようになる(そのことのネガティヴな結果として、消費者もまた子供のまま据え置かれるようになる)。

漏れ伝わる五輪開会式の情報からして、世界が日本に求めているのはこういうものだろうという、忖度の感じが強く出ていて、鬱陶しい(個々の作家はおそらく努力していると思うのだが)。オリンピアンが肉体の極限を追求するように、アーティストが、世界の求めているものはどうあれ、日本的な美の極北はここにある、と言えるような、意欲的な舞台にできていない。きわめてマーケット的で予定調和的なものだ。

広告的なものにアートが占拠され、アートとは正反対の広告的なものがアートの顔をする時代である。

たとえば携帯電話のCMを作るような、つまりふだんマーケットの動向に耳をそばだてて仕事をしている人間が、「アート」に携わっても、たぶん、手にした携帯電話からは、なにも聞こえなかっただろう。こうすれば売れる、という予定調和的な市場向けの視座は、世界相手に生産的であるはずがない。

市場相手に仕事をするかぎり、もとより日本マニアであるような連中をひっかけるくらいしかできず、それにしても規模が大きいから売れることにはなっても、売れるモノしか売れない、閉じた共感の世界に遊ぶだけである。そういう世界はいまや否定しがたいが、オリンピックでやることではない。

市場は、芸術の価値評価の場としては、もう機能していない(小津安二郎やビートルズが売れた時代とは違う)。芸術以外のオマケで売る世界の人間を「芸術」の世界に連れてきても、できることは、せいぜい、ピクトグラムの着ぐるみを、着ぐるみ好きの日本で流行らせるくらいのことである。式典とは無関係な、場違いなゲーム音楽をたてつづけに鳴らしたとて、ゲームがもともと好きな人間を満足させるだけのことで、日本文化の粋を新たに伝えることにはまったくならない。

土台を共有した世界で、予定調和的な共感を狙う、いささか強迫神経症的なマーケット相手の仕事ではなく、純粋に、日本人として、つまり孤独に、美を追求する仕事になっていれば、たとえ受けが悪くても、それでよかった。その結果が相手の共感をもたらさず、たとえ違和感であったとしても、共感や違和感を超えた感動をもたらすことができただろうに。

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