クラスターと漂流者

criticism description
2021.06.12

今日、周囲のどこをみわたしても、あるのはクラスターばかりであって、そのようにしてクラスターの内にいることで、個々の存在者は存在を維持している。自分はといえば、そうしたクラスター(島)のまわりを長い間漂流している。自分が歴史クラスターに所属しているとは思われず、そうかといって、哲学クラスターにも、文学クラスターにも、もちろん居場所はない。とにかく、漂流者である。

自分としては、それでいいわけだが、とはいっても、歴史学界が心配になることはある。学界島から追い出された人間が「心配」といっても大きなお世話だろうが、本来、歴史や哲学、文学はべつにクラスターではない。特定の人間の所有物ではなく、全人類のものだ。哲学が哲学研究者だけではなく、政治家や経営者にも要求されるように、歴史観は歴史学者の専売品ではない。政治家や経営者にも、歴史観は要請される。ついでにいえば、文学もそうだ。政治家や経営者もまた、自身の言葉を磨かねばならない。

ドゥルーズ=ガタリ風にモル的なものと言ってもいいが、ともあれ問題は、このクラスターだ。こういう類のものとは距離を取るのが、疫学的にも学問的にも正解だと自分は思っているが、それは、適当な間隔をあけるという、かのソーシャルディスタンスではなく、たんに漂流することである。

今日、いたるところ、学界のクラスター化という、くだらないことが起きている気がする。ニーチェの時代には、歴史病は全人類的問題だったわけだが、いまでは、歴史病はほとんど正確に、このクラスターの内部に封じ込められている。感染経路を辿るなどわけもない。ゲームや漫画である。もちろん、なにから感染してもかまわないし、ひとは一度は感染しておくべきなのだが、本来は、クラスターから出ることが、歴史家になる、ということだ。

かつて、社会はクラスターの外にあって、クラスターから出ることが社会人になることを意味した。要するに、モノが売れる現場は、クラスターの外だったのである。しかしいまでは、クラスターこそ商売相手であって、クラスターのなかでモノが売れる。いたるところでやらされるアンケートのおかげで、膨大な顧客の情報を企業は熟知しており、人間の行動パターンは、集められた情報が教えてくれる、いくつかの傾向にすっぽり収容されている。商品は、彼らの行動パターンを変えない範囲で、束ねられた欲望を満足させるべく投下される。ともあれいかにクラスターを特定し、その規模を維持・拡大するか……。

いまや学界の動向は、社会的な関心によるよりも、先行研究の占有率の低さ《だけ》で決まる。先行研究の少ないジャンルに若手研究者が殺到するという、歴史の本質とは無関係な、学界の事情で、動向は決まってしまう。そこに個人的な、歴史に対する純粋な関心や欲望は入り込む余地がほとんどなく、まったくクラスターというにふさわしいが、こんなことでいいのだろうか。

学界島の内部で衣食住が満たされるほど環境が整っているのか、学界的であればあるほど上からお金が降りてくるのか、そこにいれば社会とは無関係に、就職の道もあるのか。しかし、ぼくは若者に漂流を進める。外から眺めれば、島がどんどん痩せ細っていっているのに気づくだろう。住人はますます寄り集まって、狭い島に収まっている。みな病人だ。みな病人だから病気ではない……。

じつはどんどんポストは減っている。そう遠くないうちに、生き残るには、学界島から抜け出す以外になくなっていくのだが、中からはそれは見えない。島内での自分の序列をすこしでも上げるべく、ますます学界的であろうとする。とにかく先人の手をつけていないことを先人的に行うのだ……。

学界の動向が、先行研究の非占有率に依存してしまうと、採用のときに大学全体で主要な研究領域をカバーするよう調整しているわけではないから、当然、仮定の話として、先行研究の多い、フランス革命を研究している教員が日本の大学には存在しない、とか、明治維新を対象とする研究者がいない、などということが一時的には起こりうる。もちろん、そうして研究者が減れば、またそこに研究者が殺到する、ということだが、ポストが減り、世代的なアンバランスがつづけば、このシーソーゲームが成立しなくなる。

それは壊滅的な事態である。個々の研究者が、たんに自分の関心や先行研究の多寡だけでなく、歴史学全体に目を配って、《なにをすべきなのか》を考えないと、研究者の少なくなっていく現状では、こうした状況が起こりえてしまう。日本で感染症の研究者が少なかったことを、歴史学界も警鐘にしなければならない。

もうすこしいえば、本当はもちろん、どんな研究でもかまわない。先行研究の多寡でも、全体でもなく、自分の純粋な関心からなすべきことだ。ただし、それが大革命や維新につながるような柔軟なものになっていないと(またそれを意識した研究になっていないと)、全体に吸収されるのを想定した、部分対象にしかならない。そして、先行研究の非占有率に依存した研究領域の設定自体が、部分を柔軟さのないものにしてしまう。はじめから全体に依存した研究でしかないからである。

尾身茂氏はよくやったと思う。彼はこのコロナ禍に、リーダーシップを欠いた二人の総理にかわって国民の命を抱え、驚くべき努力をした。だが、彼の評価とは別に、風邪の研究者が日本にあまりいない、なぜなら金にならないから、という、経済原理から考えれば当然でも、人間の生命維持の観点からは、病気の最たるものに医学者がいない破滅的状況は、歴史学にも起こりえて、天皇の研究者がほとんど日本にいない、などということになりかねない。

まあ、愚痴だ。どこにも届かない。意欲のある、孤独な、クラスターから飛び出す勇気をもった若者を守りたくても、自分には金がない。金はクラスターに投下される。クラスターをどうすれば破壊できるのか。

1 Comment

  • 丸みつえ

    2022年5月28日(土) at 9:25:00 [E-MAIL] _

    批判的実在論に興味があり、ヘーゲルについて知りたいと思い、先生のYoutubeにたどり着きました。レジュメが大変美的でまとまっており勉強になりました。ありがとうございました。

HAVE YOUR SAY

_