オリンピック

diary
2008.08.15

オリンピックなどというナショナルな祭典は好きではないが、見ていると、スポーツの世界には、まだ、純粋なものがあると感じさせられる。純粋なもの――それは、自己に内在的な追求のこと。つまり、自己の認識を拡張すること。かつて、芸術も行なっていたことを、今日では、スポーツだけが行なっている。昨今、「所詮は○○にすぎない、人生にはもっと大切なものがある…」などという言葉が流行しているように思う。所詮言葉、所詮芸術、所詮スポーツ、所詮政治……。いったい、なにが大切なのか? 生活? かくして、コンセプチュアル・アートに堕した芸術には、もはや政治的な戦略以外のなにものをも見いだせなくなってしまった。

そうした超越論的言説やアイデアリズムは、まちがっているというわけではない。たんに、わたしはそういう言説が嫌いなのである。というか、それは《言説》ではない。そうした否定形の言説は、言説というよりは、何も生み出さないおしゃべりにすぎない。だが、いまだスポーツには、そんな超越論に逃げ込まない、もっと内在的な追求が、すなわち歌が、かろうじて残っている(そうではないアスリートがどんどん増えている面もあるのかもしれないが)。彼らは、《全身全霊をスポーツに賭けている》。彼らは、《肉体と精神のすべてを瞬間に捧げている》。そうした姿は、美しい。芸術的な強度がある。だが、そのことは裏を返せば、人生の内在的な追求は、もはやスポーツに囲い込まれてしまっている、ということである。だから、わたしが肯定するのは、スポーツではない。その内在的な追求である。スポーツは、やはり、政治的なものだ。それらの超越論を多種多様な回転運動の外に放擲し、その内在的な追求――すなわち認識の拡張――すなわち革命、その純粋な革命の歩みだけを、賞賛するのだ。

かつて、ギリシアにおいて、オリンピックは、芸術の祭典でもあった。肉体と芸術、身体と言葉とが、夢のようにひとつであった時代。誤解を承知でいうが、ギリシア時代、オリンピック期間中に、戦争が行なわれなかったのは、オリンピックそれ自体が戦争だったからだ。加えて終戦記念日に不穏な物言いで申し訳ないが、肉体と芸術の融合、それは、戦争の謂いなのだ(ところで、肉体と芸術の《弁証法的な》融合、それは、戦争を《悪しき》戦争に変えるだろう)。肉体にのみ、人間の純粋な追求が囲い込まれた今日のオリンピックは、裏を返せば、たんにその期間外には戦争をしてよい、という規定に変質してしまっている――というか、時期に関わらず、戦争は行なわれているのだが……。

結局、今日のオリンピックでは、人間の純粋な追求が――すなわち革命が、スポーツという領域に囲い込まれてしまうことを、《否定的に肯定する》ことしかできない。それに、オリンピックの影で、さまざまな出来事が人知れず進行していることも確実である。だが、いまは、そこにちらつく政治的な影を、回転運動の外に振り払おうとする、アスリートの汗や涙に、ひとときの革命を楽しむのも、悪いことではないのかもしれない。……

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