《文学》のプログラム、ゲーデルとヒルベルトのあいだ(メモ)

philosophy
2009.06.06

命題A:「わたしは嘘をついている」。この命題が真なのか偽であるのかを、内在的に証明することはできない。この自己言及的な「嘘つきのパラドックス」を起因として、ゲーデルに導かれ、ある種の数学基礎論―ヨーロッパ的合理主義の極致であるような―は終焉を迎えたのだが、われわれに必要な哲学は、このあとでどのように数学基礎論を行なうか、である。わたしの考えでは、ここで終焉を迎えた数学基礎論とは、ひとがもはや忘れてしまった、《出来事の学》としての数学基礎論だからである。数学基礎論という、きわめつけの合理主義は、非合理的なものの合理化という、ミシェル・フーコー的な意味での《狂気》を孕んでいる。この《狂気》を、わたしは《出来事》と呼ぶ。

さて、存在を形式のなかに還元することで数学の可能性を切り開いた公理主義者ヒルベルトと、存在の数学的証明が不可能であるとしたゲーデルのどちらが好きかといわれれば、わたしは圧倒的に前者を推す。前者にこそ、ニーチェやイェーツのような《文学》を感じる。どちらが《より》正しいか、という点では、もちろん後者ということになるのだろうが、それは、存在を形式に還元するというその勇気のために、かえって、存在というものを証明しようとしたもとの目論見を超え出てしまったからである。だが、本当に重要なことは、存在ではなかったのだ。《存在》は、エクリチュールにより近い概念だ。むしろ、ひとが《存在》という文字を、たえず書いては消し、消しては書いて書き換えているということのほうが、ずっと重要なのであって、われわれは、それを、《存在》ならぬ《生》と呼ぶのである。存在を形式のなかに消し去ろうとする勇気、それこそが、まさに《生》にほかならない。自覚していなかったとしても、ヒルベルトは、ゲーデルよりも、この《生》に近いところにいたのだと思う。

だが、われわれの課題は、ヒルベルトとゲーデルのあいだを通ることである。つまり、自覚的に存在ならぬ生にたどりつくことである。これを《出来事の学》と呼ぶ。そして彼らのあいだに引かれた一筋の細い路を、わたしはまたの名、《文学》と呼ぶ。《文学》は、「わたしは嘘をついている」という命題をどのように考えるか。さきに答えをいえば、この命題は真である。つまり、彼は嘘つきであるし、嘘をついているのである。この命題は、はじめは嘘をついている状態と、ついていない状態、二つの世界を混在させる。つまりと真と偽が混在してしまう。かくしてゲーデルは正しさを得る。だが、この二つの状態の「混在」という事態そのものが、あることを主張している。《こいつは、ひとをおちょくっている》……というのは冗談でもないのだが、わたしは嘘つきだ、などとのたまっている野郎は、基本的に「やなやつ」なのである。

歴史上、いつも勝利してきたのは懐疑論である。独断論はいつも敗北してきた。命題Aが真か偽か、という問題は、じつは答えた方が負けなのである。なぜなら、言葉とは、その本質において、《嘘》だからであり、またこの《嘘》という事態が、結果的にゲーデルの定理を保証している。命題Aにひとは答えることができない。つまり二つの状態が混在する。ひとつしかないはずの真理が二つあるとすれば、それはどちらかが嘘であるということであり、真理が本質的に複数あるのだとすれば、どちらかひとつだけを選択しようとする言葉は嘘しか吐けないということである。この不可能性は、言葉が本質的に《嘘》であることを示す。ゲーデルのプログラムは、結果的には、言葉を偽の領域に囲い込んでゆく。

そしてこの勝利のために、ひとは、かならずしもプラトン本人とは関係があるとはいえないプラトニズムに救いを求めるしかなくなってしまう。つまり、存在とは切り離されたイデア界にこそ、ひとびとの知がいまだ可能であるような世界が広がっている、と。新プラトン学派プロティノスに著しく接近した思考が、おそらくは昨今の知識人の主要な思考の中心であろう。プラトンの本質とは異なり、ここでは、真と美は分離してしまう。

しかし、そんなはずはないのだ。世界が真であるのなら、言葉もまた真でなければならない。つまり、美(=言葉)は真(=世界)でなければならない。歴史において勝利してきたのがつねに懐疑論だったとしても、それは、そもそも歴史が存在を扱うものだったからだ。われわれの興味は、存在ではなく、《生》にある。《生》とは、懐疑の果てにある独断であり、嘘ではなく、真を吐こうとする意志である。ひとは、嘘をついているときでさえ、その嘘が真になることを望んでいる。その嘘が嘘であることを望むようなことは、ひとにはできないのである。命題A:「わたしは嘘つきである」の真偽を答える前に、嘘とは一体なんであるのか、そしてついには言葉とはそもそも何であるかと、われわれは問うべきだった。そしてその問いこそが、《文学》に突きつけられている。そして《文学》において、言葉はその趣を一変させる。言葉は、その本質において、真なのである。したがって、どれほど嘘をつこうとも、そのことにおいて、ひとは真実しか語ることができない。したがって、命題Aは、実際にはつねに真なのである。これは、本当に不思議なことではないだろうか。ゲーデルは正しい。だが、《文学》はもっと正しいのである。

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