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	<title>ex-signe &#187; Platon</title>
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		<title>芸術のエチカ――欲望中心の表象の強さについて</title>
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		<pubDate>Fri, 21 May 2010 17:44:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
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		<description><![CDATA[欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を奪ってしまう。別にその表象は生身の人間である必要はない。なにかしら異性を思わせるシンボルがあるだけで充分である。というよりは、その欲望中心のシンボルの抽象性が高ければ高いほど、かえって視線を誘う。なにしろ「欲望」は、表象をもたない。だから抽象的だが、同時に、欲望ほど具体性に恋い焦がれているものもない。この抽象的なシンボルは、次の瞬間には具体物であるかもしれない。そう思わせるだけで、ひとの視線は奪われ、このシンボルに吸い付けられてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえば昨今のアニメや漫画で描かれる人物は、それはいじらしい。なぜなら、彼らは人間になろうとしているからだ。抽象性から具体性へと至るプロセスの中心で、いまだ胚といってもよい状態のまま、奇妙に凍結され、宙づりになってこちらを見つめている。この欲望中心の表象の力強さは驚くほどだ。かつて泉鏡花が自然主義文学について言ったように、十の精神でさえ、一の肉に勝てない。もし、芸術があるかないかもわからぬ精神の領域を占めているとすれば、肉に依拠し、覇権主義的で帝国主義的なこの「サブカルチャー」の力には、ほとんど歯が立たない。</p>
<p>それは、中世ヨーロッパの芸術が、ついに古代ギリシア・ローマの芸術に勝てなかったことにもよく現われている。それは、宗教が欲望に勝てないことと同義である。かつて白樺派のひとたちは、内村鑑三の洗礼を受けながら、ほとばしる欲望についに勝てなかった。「自分は女に飢えている」と語ることから文学を始めた。だからこそ、この芸術は強い。魂に禁欲を強い、その禁忌がもたらす崇高に軸足を置く宗教的な芸術が、欲望中心の芸術に勝てなかったことは、歴史がよく示している。</p>
<p>古典時代とは、欲望中心の時代の謂いである。ソクラテスの言葉は、ギリシア人が、知とエロスとを同じ高さに並べることに、なんの抵抗も感じないのでなければ、すこしも説得的ではない。ソクラテスは美に畏敬を抱かぬひとを「快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしない」と言って非難する。とはいえ禁欲を説くわけではまったくない。彼は美に出会い、恋に狂った人間が陥る〈好ましい〉例を、次のように語る。</p>
<blockquote><p>聖像や神に対するごとくに、彼はその愛人にいけにえを捧げることであろう。…その姿を見つめているうちに、あたかも悪寒の後に起こるような一つの反作用がやってきて、異常な汗と熱とが彼をとらえる。それは、彼が美の流れを――翼にうるおいを与える美の流れを――眼を通して受け入れたために、熱くなったからにほかならない。そしてこの熱によって、翼が生え出てくるべきところがとかされる。…いまや養分がつぎこまれると、翼の軸は膨れ、その根から、魂の姿の全体を蔽うまでに成長しようとする躍動をはじめる。</p>
<p>…かくして、このような状態のとき、魂の全体は、熱っぽく沸きたち、はげしく鼓動する。それはちょうど、歯が生えはじめたばかりのとき、人々の歯のまわりに感じるあの状態――歯ぐきのところに感じるむずがゆさといら立ち――あれと同じ感覚なのだ。翼が生えかけている人の魂は、まさにそれと同じ経験を味わい、翼が生じるにあたって、熱っぽく沸きたち、いらいらし、うずくものを感じる。そこで、この魂が、少年にそなわる美をまのあたりに見つめながら、そこから流れてやってくる粒子を――このように粒子（メレー）の流れ（ロエー）の放射（ヒーエナイ）であるがゆえに、それは「愛の情念」（ヒーメロス）と呼ばれるのであるが――この愛の情念を受け入れて、うるおいを与えられ、熱くなるときは、魂はそのもだえから救われて、よろこびにみたされることになる。</p>
<p class="post-r">プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫</p>
</p>
</blockquote>
<p>この言葉が、性的な欲望がいかに表現（発現）されるべきかをリアルに示すものであるのはあきらかである。ここでのソクラテスの言葉は、それ自体が欲望の表現（発現）であることに注意しておこう。つまり、この言葉は、それによって「意味されるもの」を想起させようとしているのではない。美は、「四つ足の動物の行う交尾」として《表現》されるのではなく、「翼をもった魂の潤いのほとばしり」として《表現》されなければならない。なぜなら、ひとを惹き付ける美とは、対象そのものではなく、対象が抱かせる期待、すなわち《距離》によってこそ、美だからである。安易に対象と同化するよりも、「翼」によって表現される対象との《距離》が、ひとをして欲望の虜にするのであり、この同化に至る《距離》こそが、美であると同時に表現であると言いたいのである。要するに、ソクラテスは全然欲望を否定していない。欲望を描くとは、四つ足の獣のように即席の同一化を与えることではないし――これをポルノと呼ぼう――、そうした即席の快楽は、ほとんどここちよさを与えない。それは、結合の瞬間、絶頂の瞬間が、それまで感じていた《美》などどうでもよくなっていることによって説明される。むしろ、結合にいたるプロセス、絶頂の途上で感じられる埋めがたい距離のすべてが、美であり欲望であり快楽なのである。芸術の中心はここにある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は手淫し、女は想像で妊娠する。われわれは、それを「抽象的」と言ったり、「観念的」と言ったりする。それはけっして虚構ではない。なぜなら、自然は、それによって実際に欲望を満足させるようにひとを作ったからである。犬のディオゲネスは人のみている広場で自慰に耽りながら言った。「ああ、お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえすれば満足できるならいいのになあ」。しかし、これは不思議なことなのだ。遺伝子が死を超えて残ること――作られた子供については、欲望はこの際関係しないらしい。手淫は観念的だ、などと言ったところで、これが現実に行われていることを否定することはできない。芸術は、虚構というよりは、こうした奇妙な《現実》にかかわっている。つまり対象それ自体とかかわるよりは、対象への意志とかかわる。欲望は、対象の直前で立ち止まる、いわば手淫や想像妊娠なのだ。それを表象するのが古典芸術だとするなら、アニメや漫画は、対象を人間未然のなにかとして、しかも人間になろうとするその《距離》として描いているという点で、無自覚に古典芸術と同じ地平に立っている。その意味では、サブカルチャーとメインカルチャーを区別する必要はほとんどない。純文学であろうが、漫画であろうが、それらが宗教的ではない動機、すなわち欲望の屈折なき放射であるかぎり、芸術の最初の門をくぐったものと考える（その点、コンセプチュアル・アートは古典芸術とはまったく無関係である）。問題は質ではなく強度である。</p>
<p>欲望が快楽そのものというよりは快楽の遅延なのだとすれば、その表現は驚くほど複雑化する。なるほど快楽は一に基礎を置く。だが、欲望は多に基礎を置いている。したがって、肉を晒すことは快楽へ至る最初の一歩だとしても、欲望にとっては多様な道のひとつにすぎない。中世の宗教芸術から一線を画すルネサンス期、レオナルドは、「教会は血を忌む」といって遠ざけられていた人体解剖に興味を示している。したがって、解剖学的な欲望は、中世を卒業する芸術の最初の動機の一つであると考えられる。だが、解剖学だけですべてが解決するわけではないし、欲望が静まるわけでもない。むしろ欲望は、ポルノに至らぬぎりぎりのところでとどまることを欲しているし、その点からいえば、じつは欲望はポルノを拒絶している。</p>
<p>たとえばゴダールは、『映画史』のなかで、浴槽のジュリー・デルピーとポルノビデオを対比している。彼は言いたいのだ、どちらがひとを欲情させるのか、また同時に、同じことだがどちらが美しいのか、と。むろん、ジュリー・デルピーよりポルノビデオに軍配を上げるひとも多いだろう。強度を問わず、ただ快楽にたどりつけばいいというのなら、ほとんどのひとがそうだろう。ゴダールが言いたいのは、映画はポルノビデオと勝負し、あるいはもっとおぞましい薬物とさえ勝負し、それに勝つことを夢見ている、ということだ。今日では、純文学とポルノ小説の差異はほとんどなくなっている。作家たちのあいだで、欲望と快楽とが混同されているからである（はっきりいって、純文学と称する昨今の代物はほぼすべてポルノである）。こうしてポルノを政治的に法で囲い込むより手段がなくなっていくのだが、本当の芸術は、結局、ポルノを法で囲い込むよりも、勝つことを夢見ている。芸術も子供を作ることができると言いたいのだ。</p>
<p>しかし、芸術がポルノに陥ることなく、美や欲望、快楽を《距離》によって表現することを仕事としているなら、アニメや漫画は、本質的にポルノに近すぎるのではないだろうか。ある女性の声、肉体、精神、そしてその生涯を、つまりこの女性の美を一枚の絵画におさめることができたなら、余計なものはいらないはずだ。ただ言葉だけで女性の美しさを表現できたとすれば、やはりもう余計なものはいらない。すでに美であるそれらに加えられた補助線は、快楽を不必要に近づけ、かえって快楽を小さくするポルノにかぎりなく近づいていく。アニメや漫画の補助線は、あまりに親切で、説明的で、こちら側の呼びかけを無視して進むがゆえに、かえって戸惑う。人間は、たった一本の線にでさえ、欲情することができる。この線がついに美につながるとすれば、そのときの快楽はほとんど極大に達しよう。芸術が究極的にはシンプルな形式を求めるのは、その方が複雑な快楽に達する可能性をもつ場合が多いからである。ただ一枚の絵画、言葉だけで描かれたストーリーこそ、アニメや漫画の目指すところではないのか、という疑念を払うことは、なかなかできない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>老いの手前にとどまる若さや、目的を達しようとそれに打ち込む姿は美しい。それは、あらゆる芸術上の登場人物が、人間の手前で人間たらんとリアリティを求める姿と重なりあう（たぶん、美はある種の期待であり、美的な知はある種の予言であろう）。結局、芸術は、つぎの問いをつきつけている。人間が美しいとすれば、それはなんによってか、と。己を超えたものを欲することによってではないのか、と。しかし芸術は、だからといって神を選べとは言わない。というのも、それは欲望を屈折させ、たどりつくことのできない統整的なものとして目標を提示するからである。だからこそニーチェは「超人」といった。芸術は、人間を超えたものを宗教に依らずに提示しなければならない。つねに大人になることを目指している子供は、その比喩である。</p>
<div class="post-rl">
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		<title>懐疑と数学、存在についての私論</title>
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		<pubDate>Fri, 14 May 2010 18:26:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
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		<description><![CDATA[「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐疑」の始まりである。</p>
<p>たとえば「魔女裁判」は、この分離なしにはありえない。彼女が人間の表象をもつにもかかわらず、魔女だとしたら？　それは神がつくり保証する概念と表象の一致に、根本的な誤謬が発生していることを意味する。もちろん疑念は、最初に女性に向かう。この女性が魔女かどうかは、じつは問題ではない。むしろ、その疑いを招いていることが、魔性なのである。この疑念自体が、神が保証する一致に対する反逆だからだ。疑わしいという、ただそのことが、罪なのだ。だからこそ、彼女は暴力的な裁判に、しかもはじめから断罪されることが定められた裁判にかけられねばならない。</p>
<p>トマス・アクィナスに従うかぎり（またあえてカントの用語を使って言えば）、神は悟性的な存在である。感性によってものを感覚する人間とは根本的に異なり、神は〈悟性によって感覚する〉。人間がある表象にまちがった概念を与えてしまうのは、人間が感覚に頼っているからだ。だが神はちがう。神は感性をもたない。したがって、神において、概念それ自体が存在である。神は「神」であるがゆえに全能の存在なのであって、全能だから神なのではない。完全に演繹的な存在である。だとしたら、なにゆえ神は魔女などを生み出したのだろうか。そんなことをするなんて、〈あなた〉は、言われているほどに神なのだろうか？</p>
<p>彼女が魔女ではないと証明することは、原理的に不可能である。この懐疑は一度はじまってしまったら、同じ論理的基盤を保持するかぎり、二度と取り除くことができない。なぜなら、証明という行為それ自体が表象と概念の一致を前提しているからである。結局、女はすべて怪しい。しかし、この猜疑は神にも向かう。この不可解な女を作ったのは神だからだ。もしかしたら、この「神」は、神ではないかもしれぬ。「神」が全能ではない、ただそれだけで、「神」は疑うに足る。「神」が神でないのなら、いったいひとはなにを信じたらよいのだろうか？</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>「“もの”がある」、とはいったいどういうことだろうか。なぜひとは、具体的であっても雑多な表象を超えて、抽象的な“もの”を思考することができるのだろうか。この概念は、概念と表象の差異、つまり上述の「懐疑」なしにはありえない。概念はいつも表象を尽くさないし、表象はいつも対象を尽くさない。カントは、これこそが“もの”の源泉であると考えた。この差異、この残余こそが、“もの”である。これらが一致しているかぎり、“もの”は生じようがない。</p>
<p>カントにしたがうなら、もの自体を生み出すのは、むしろ表象に概念を与える悟性の側である。そのことを彼は、アプリオリに“もの”がある、という言い方をする。逆説的な言い方で、「もの自体は、ただ悟性によって考えることだけができる」という。だが、実際には、不完全な悟性、不完全な概念こそが、対象を“もの”に変えるのだ。感覚（だけ）がまちがうという言い方はできない。まちがうのはどちらかといえば悟性である。というのも、感覚は悟性に従うからだ（認識は対象に先立つ）。感覚が悟性に従う、とはどういうことか。それはもちろん、感覚の正否を悟性があらかじめ定められた基準＝カテゴリーにしたがって判断するということだが、感覚はじつはつねに-すでに悟性に依拠している。そのため、悟性が理解しうるものが感覚とされ、悟性が理解できないものは超感覚的な“もの”と判断される、ということになるしかない。</p>
<p>したがって、カントにおいて、「“もの”がある」、すなわち存在は、感性的な実在とは区別される。実在が肉の側に割り振られているとすれば（一般にはこちらを「もの」と呼んでいるが）、“もの”あるいは存在は、実在を超えたもの、すなわち超感性的なものであり、ネガティヴな仕方でしか現われないものである。</p>
<p>この点でいうと、悟性は懐疑しない。悟性は疑うことなく表象を認識の裁断にかける。たんにカテゴリーに従って感覚的なものと超感覚的なものを区別していくだけである。懐疑は概念と表象の差異が生み出す帰結だが、この差異、すなわち超感覚的なものがなんらかのイメージと結びつくとき、それは理性と呼ばれる。たとえば神は超感覚的なものだが、これを髭の生えた巨人に代理表象させる、のは理性がおこなうことである。あるいは、悟性におけるカテゴリーの篩（ふるい）が残余として生み出す超感覚的なものが懐疑によって取り出されるとして、それは全体として理性のはたらきであり、短縮されて理性と呼ばれる。したがって、懐疑を行うのは理性ということになるが、やはり、現実には悟性が理性に先立っている。悟性に蓄積されたイメージにもとづいて、神を表象するからであるし、あるいはそもそも超感覚的なものは、（感性と一体のものとしての）悟性が取り逃がす残余だからである。だから、“もの”は悟性の生み出す残余だが、その残余自体は理性においてイメージされる。</p>
<p>こういう考え方は、たしかに「魔女裁判」を無用のものにする。表象と概念の差異が発生するのは、むしろ自分の貧弱な悟性（あるいは認識）のせいだからだ。この女が魔女であるか否か、それはむしろ、科学、とりわけ自然科学上の認識論的な課題なのだ。カントは、かくして、審判としての学問という考え方を提起した。カント以来、学問は一種の裁判の形式をとるようになった。またその一方で、というよりはこちらのほうがカントにとってははるかに主要なテーマだが、概念と表象の差異こそが、むしろ神の源泉となるだろう。概念と表象の差異のおかげで、ひとは神の存在を疑うに至ったのだが、その差異、すなわち懐疑がなければ、いったいどこに神がいるというのか。概念と表象とが一致するというのなら、なぜわれわれは神の姿を見ることができないのか。なぜ神は受肉を必要とするのか。もとより超感覚的な神を思考できるとすれば、その思考は感覚を通過したものであってはならないだろう。感覚を通過せずに訪れた概念だけが、神と呼ぶに値するのだし、また悟性が取り逃がした“もの”だけが、神の可能性をもつのである。こうした感性-悟性の残余、学問が作り上げた知的文脈を超えてある他者、思考するといっても想像するといっても大差ないこの他者、これが神である。神とは、懐疑の別の名なのであり、またそうであるがゆえにこそ、神は存在するのである。カントはいうだろう。彼女が疑わしいといっても、だからといって魔女とはかぎらない、われわれの認識が未熟なのかもしれない……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、それより前の時代のデカルトの（のちにスピノザに、さらにはハイデガーを介してフーコーによって拡張される）解決方法は、すこし違ったものであったように思われる。というのも、彼ももちろん神の存在を示そうとした点でカントと同様だが、「懐疑」にとどまったのではなく、これを乗り越えてしまったからである。「われ思う、ゆえにわれあり」という命題は、完全にポジティヴなものであり、存在についてのカントのイロニカルなスタイル、「もの（＝存在）は考えることができるだけだ」とは異なる。彼はどうやって表象と概念の不一致を乗り越えたのか。</p>
<p>注目すべきは、彼における三つの要素である。ひとつはコギト、もうひとつは神の証明、そしてもうひとつは解析幾何学である。この三つの要素はすべて同じものの異なる表現であり、これらを切り離して考えることはできない。</p>
<p>彼は“もの”を「延長」と呼ぶ。それは彼が証明したと信じた三つの存在のうちのひとつであり、「われ（コギト）」、「神」と並列される。つまり、彼はカントのように実在と存在を質的に区別していない。感性的要素（延長）と理性的要素（われ、あるいは神）は同じ平面上に展開されている。したがって、「在る」は、この同じ平面に展開されることを指すのであり、「われ在り」が可能なら、自動的に神や延長の「在り」も可能になる。カント的にいえば感覚的に存在する延長と、超感覚的に存在するはずの神とのあいだに、存在論上のちがいはない。</p>
<p>表象と概念の差異に対するカントの解決方法とのちがいを強調していえば、こういうことだ。デカルトは、表象-概念の二重構造そのものを破棄した。延長（つまり表象）と「われ」や「神」（つまり概念）は、存在するという観点からいえばいずれも同じである。だから表象と概念を区別する必要はない。それこそが「コギト」、すなわち「われ思うゆえにわれあり」である。「われ思う」ということと「われあり」とのあいだには、じつは〈深い〉差はないのだ。しかし、神もまた延長やわれと同じく表象であるなら、神はいかなる表象をもつのか？　デカルトがじつはやり残していた問いを継承したのはスピノザである。彼が「われ思うゆえにわれあり」を「われは思惟しつつ在る」に翻訳したとき、彼は、概念が思惟されるということと、ものが在るということが、デカルトにおいて同一平面上で行われていることを正しく理解していた。したがって、神も表象をもつ。神の表象とは、この世界そのもののことである。神はもの＝延長と同様に存在する。彼らはいうだろう。彼女は、魔女ではない、みるがいい、彼女は美しい女ではないか、一体どこに魔女がいるというのか……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>一般に、数学はものとものとの「関係」を扱うものとされている。たとえば柄谷行人はこう言っている。</p>
<blockquote><p>数学を量的なものと見なす考えを捨てないといけない。数学は本来的に「関係」を扱う学問です。量はその一つにすぎない。</p>
<p>…特に数学的思考というべきものはない。「関係」を考えることなら、すべて数学的である。言語体系も政治的組織も精神病理も、それが関係の形態であるかぎり、数学的に扱えます。</p>
<p>…プラトンは、「関係」は、感覚的なものと区別されるイデアとして、イデア界に在ると考えたわけです。今そんなふうに考える人はいないけれども、この区別そのものは残ります。「関係」は、物があるというのと違ったふうに、存在する。あるいは、それは無であるともいえます。なぜなら、それはどこにも存在しないからです。</p>
<p class="post-r">柄谷行人「なぜ数学か」</p>
</blockquote>
<p>たしかにプラトンは数学や幾何学を自身のイデア論にとって不可欠のものと強調していた。だが、イデアの世界と現実の世界について、前者は後者より美しく、後者はその模倣であるためにいくらか美しさを欠くとは言っているが、それが感覚的なものと区別されるとは全然言っていない。その差はあくまで強度的なものであって、質的なものではない。いずれも〈感覚的に美しい〉ものである。柄谷は数学が「関係」を扱うという自説を補強するためにデカルトも引き合いに出しているが、「われ」「もの（延長）」「神」を同じ「在り」のなかに展開するデカルトが、数学をそれらの「在り」とは区別しているとしたら、一体彼は、いかにして幾何学上の点を数に置き換えることができたのだろうか。数は、柄谷がいうように、「われ」とも「神」とも「延長」ともちがう、特別な存在の仕方をしていると、デカルトは考えていたのだろうか。</p>
<p>さらにいえば、現実のデカルトは、磁力や重力のように、離れているもの同士のあいだに働く遠隔力という考え方を怪しげなものとして拒絶したひとである（したがってニュートンの万有引力の法則は、当時絶大な影響力を誇ったデカルト主義に対する最初の有効な批判のひとつだった）。つまり、“もの”と“もの”のあいだの「関係」という思考はデカルトには見当たらず、“もの”と“もの”のあいだの作用はすべて「衝突Impact」によって説明される。</p>
<p>こうした要素を突き詰めて考えてみよう。私見によれば、むしろ、デカルトの発見は次の点にある。すなわち、数は、そもそも“もの”を扱う。というより、数は、対象を“もの”化する。それゆえ、幾何学上の点（すなわち延長）を数に置き換えても、まったく問題が発生しない。幾何学は、とくにエジプトやギリシアにおいて測量術から発展しているように、もともと現実を扱う、実用的な学問である。それに対して数学はとくにピタゴラスと結びつき、音楽に結びつけられるかぎりでは現実的なものだったが、そうでない場合はより神秘的な（カルト的な）学問だった。この両者の区別は、あきらかに表象の有無に依存している。すなわち、前者は物質的・実在的だが、後者は精神的・存在的とみなされている。デカルトが解析幾何学で乗り越えたのは、この境界である。つまり、より現実的な点や線（＝「延長」）は、より非現実的とみなされる数と変わらないのであって、それは、延長とわれや神とが並列されるように、同じ平面上に展開されているのである。コギトなしには、解析幾何学は可能にならないのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ハイデガーが指摘するように、「道具」は、ひとが石を矢じりとして使うときにはじめて具体的な道具となる、というようにして、一挙に現われる。そうでなければいつまでたってもただの石であり、さらにいえば、人間と関係しない限り、「石」でさえない。プラトン風に翻訳するなら、ある石を矢じりとして用いることが可能であるなら、その石は矢じりのイデアを持っていたということである。また、これらの矢じりを“もの”である、と考えたとすれば、それは、この矢じりを数えるときである。３つの矢じりを数えるとき、そこにはすでに抽象的な思考がはたらいている。矢じりのイデアにもとづいて、それらをひとつふたつと数えるとき、それらを抽象的な“もの”として扱っているのである。このように、イデアには運動的なものと数学的なものとの二種類があるのであって、かならずしも後者とだけ結びついているのではないし、関係ならばすべて数学的だということにもならない。道具的な関係というものもある。農夫が鋤で土地を耕すとき、彼はまちがいなく鋤と関係をもっているが、それが数学的な関係にあるなどということはとうてい不可能である。むしろ、固く乾いた土を掘り起こすために、汗をながして金属片のついた木の棒を振り上げるという、そのことが、彼と鋤とを道具的な関係として取り結ぶのである。</p>
<p>いずれにしても、数学が行うのは、対象を“もの”化することである。３つの矢じりという思考法は、具体的な矢じりを“もの”に抽象化する。逆に、道具的な思考法は、抽象化されたこの３つの矢じりに、再び具体性を与えるだろう。つまり、道具的な思考法が出来事にかかわるとすれば、数学は存在に、とりわけ“もの”にかかわる（といっても、数が序数であるかぎり、出来事の一変種であるが）。“もの”は、カントのように表象と概念のずれが生み出すのではなく、具体的な対象、たとえば矢じりを数えるときに発生する。数学は、ひとに対象を“もの”として把握することを教えるのだ。だから、デカルトに従うかぎり、表象（ここでは幾何学）と概念（ここでは数学）のとりもつ「関係」の向こう側に、わざわざ「もの自体」を設定する必然性はない。むしろ、ある表象が数と関係するとき、その関係が、“もの”である。数学と幾何学とを結びつける解析幾何学とは、“もの”の発生過程の特異な表現、というかスタイルであり、なおかつプラトンのイデア論の正統な拡張である。</p>
<p>この意味では、「関係」という観念、表象を欠いたこのカント的・ヘーゲル的観念は、数学とは別のものである。構造主義の難点も、数学の使用法にある。数学的に取り出された構造を具体的な“もの”と遊離した「関係」とみなすことが、この学問に閉塞をもたらす。むしろ、そうした構造は、ユニークな序数として現実に存在していると考えほうがよい。たとえば生まれたばかりの赤ん坊が、トポロジックに母親を二つの穴（目）のある形として捉えたからといって、母親が存在していないと言うことなどできないのと同じことである。現実に、赤ん坊にとって、母親は二つの穴のある形として存在するし、彼が（無意識にとはいえ）表象と概念を認識論的に区別しているなどと考える必然性はどこにもない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>幾何学上の点を数に置き換えることが可能であるということ、この不思議な事態はなにを意味しているのだろうか。この奇妙な思考の跡をたどっていくと、スピノザにたどりつくことはすでに述べた。さらにこの先をたどると、ハイデガーを批判的に継承したフーコーに突き当たる。というのも、フーコーは、テクスト上のいくつかの点を、実際上の出来事に置き換え可能なものと考えていたことが明白だからである。彼は、この奇妙な点を「言表」と呼び、これをひとが思いもよらぬ突飛な出来事と結びつける斜線を至る所に引いて回っていた。わたしには、フーコーは、この点では彼が批判したデカルトによく似ているように思われるのだ<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。おそらく、出来事の学はこの方向にしかないし、わたしはそれを、たぶん《文学》と言っているのだろう……。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note">
<a name="n01" href="#p01">(1)</a> むろん、デカルトとフーコーの差異には注意しておかねばならない。デカルトはコギトから解析幾何学へと至るプロセスのなかで、あらゆる事象を数学的に（≒客観的に）把握する「普遍数学」を試みたことがよく知られている。この点に注目するなら、彼の議論には、プラトンに存在していた運動のイデアを欠いていることになるし、それをハイデガー＝フーコーとの差異として強調することができる。それは、比喩的にいえば基数と序数の差異を強調することである。だが、古典主義時代に注目するフーコーは、「普遍数学」の可能性を知っていたからこそ、その難点を的確に指摘できたと考えなければならない。柄谷のように、「関係」を離れて“もの”があるかのようなカント的な議論とデカルトの数学を混同するくらいなら、フーコーとの共通点を主張したほうがデカルトあるいは数学の理解として精確であると思われる。
</li>
</ul>
<p><div class="post-rl">
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</div></p>
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		<item>
		<title>二つの言語論（「精神の歴史」のためのプロレゴメナ３）</title>
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		<pubDate>Sun, 11 Apr 2010 14:23:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[History(s) of Spirits]]></category>
		<category><![CDATA[Linguistic Turn]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>

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		<description><![CDATA[ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味（こう言ってよければ《意味されるも [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャック・デリダは言う。</p>
<blockquote><p>比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味（こう言ってよければ《意味されるもの》）の過程として理解されねばならない。観念とは意味される意味であり、語が表現するところのものである。だがこれはまた事物の記号であり、私の精神における対象の代理でもある。対象を意味し、語あるいは言語的な《意味するもの》一般によって意味されるこの対象の代理は、けっきょく間接的に感情や情念を意味することもできる。</p>
<p class="post-r">『グラマトロジーについて』（足立和浩訳）</p>
</blockquote>
<p>彼は言語をある種の「隔たり」であると考える。というか、「隔たり」を作り出すものだと考える。彼の用語で、「間化（エスパスマン）」という。別の言い方をすれば、「隠喩」である。言語とは、究極的になにものかの隠喩であり、しかもそれが名指す対象はついに痕跡の形でしか捉えることはできないものである。言語の対象は、必然的にそれ自身が担う《隠喩性》そのものであって、それを越えることはない。こうした言語観にもとづいて、彼はパロールに対するエクリチュールの優越性を指摘する。というのも、後者が前者の代理物だったとしても、そもそも、言語とははじめから代理物だからである。「それゆえ問題なのは、固有の意味と比喩的意味とを逆転させることではなく、エクリチュールの「固有の」意味を隠喩性そのものとして想定することであろう」（同書）。それによって、彼は意味の解体を、そして言語そのものの解体を目論むことができる。意味が、なにものかの隠喩――というより「隠喩性」そのもののうちに溶解するなら、言語は指示対象を失い戯れのなかにしか存在することができなくなる。根源としての痕跡は、同時に、根源なき、しかし原初的な（つまり根源としての傷を欠いた、そうであるがゆえに傷そのものからは自由となった――とはいっても痕跡の指示する範囲からは逃れられないという点で痕跡は結局根源そのものである）戯れを可能にするからである。</p>
<p>この観点は、ある程度まで正しいが、同程度、誤っている可能性がある。正しい、というのは、方便（レトリック）としてそういう言語観が妥当する場面は実生活上は多々ある、という意味である。しかし、原理的にはおそらくたいていの場合に正しくない。言語が隠喩であるという観点は、そもそも言語がその指示対象そのものではなく、しかもなんらかのつながりをもっている場合に限定される。しかし、言語が隠喩性のうちに溶解して対象とのかかわりを失うと、逆に隠喩という観点そのものが成り立たなくなる。デリダがそうしたように、われわれは、たとえば人体や草や動物や鉱物などと同様に、言語そのものを対象にすることができる。言語は、その他の感覚的な表象と同様に、われわれを喜ばせたり悲しませたりし、またたとえばロープのように対象を死に追いやったり死から救ったりすることもできる。その点では、言語に、その他の対象と異なる「隠喩」という特権を与える必要はない。われわれとあまりに近すぎる物体――たとえば眼球――が目に見えないのと同様に、言語はわれわれの肉体とあまりに近すぎるために隠れてしまう――つまり隠喩となってしまうと考えることは不可能ではない。というか、眼球同様、言葉は《見えすぎている》だけであり、別に隠れているのではないかもしれない。その点で、言語にだけ、その他の自然現象とは異なる奇怪な特権性を与えるのは早計である。</p>
<p>ソクラテスはこう言っている。</p>
<blockquote><p>「…しかし先ず、われわれはある出来事に襲われないように気をつけよう」とあの方は言われました。<br />
「どんな出来事でしょうか」と私は訊ねました。<br />
「言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。ちょうど、ある人々が人間嫌いになるように。というのは、言論を嫌うよりもより大きな災いを人が蒙ることはありえないからである。言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる。つまり、人間嫌いが人の心に忍び込むのは、心得もなしにある人を盲信し、その人がまったく真実で健全で信頼に値すると考えた後に、しばらく経ってからその当の人が性悪で信頼に値しないことを発見することから始まる。他の人についても、再び同じ経験をする。こういうことを人が何度も蒙ると、とりわけ、それまでもっとも近しくもっとも親しいと考えていた人々によってこのような仕打ちを受けると、遂には度重なる怒りの果てにすべての人を憎むようになり、どんな人にもいかなる健全さもまったくない、と考えるようになるのだ。…」<br />
「…人が言論についての心得もなしに、ある言論を真実であると信じ込み、それからわずか後になって、それを偽りであると思うようなときに――本当にそうである場合もそうでない場合もあるだろうが――そして、再び他の言論についてそのような経験をくり返すときに、言論と人間は似ているのだ。とくに矛盾対立論法にたずさわって時を過ごしている連中は、君も知ってのとおり、ついには最高の賢者になったつもりになり、自分たちだけが真理を見抜いた、と思い込んでいるのである。すなわち、およそ事物についても言論についてもなにも健全で確実なものは存在せず、すべてのものは、あたかもエウリポスの流れの中にあるかのように、かなたこなたへと変転し、片時もいかなるところにも留まることがないのだ、と」</p>
<p class="post-r">『パイドン』（岩田靖夫訳）</p>
</blockquote>
<p>デリダとソクラテス、言語に対する二つの思考法のどちらが正しいか、俄には判断し難いが、いずれにしても、これらの観点がずいぶん異なっていることだけはたしかである。言語と対象のつながりを完全に切断したデリダ。そんなことはないというソクラテス。言語が真実を述べている場合、言語はそれにもかかわらず隠喩であるというべきなのだろうか。それとも、言語が真実を述べているなら、言語もまた真実なのだろうか。言語が真実であることを信じきっていた人間が裏切られて逆の立場――すなわち言論嫌いに陥る、というソクラテスの主張は、ある出来事を想起させずにはおかない。それは、近代における二つの潮流、実証主義と言語論的転回である。近代において、科学が真理に到達するという確信が実証主義をもたらし、その挫折が言語論的転回をもたらしたことは、記憶に新しい。ソクラテスの発言はそのことの予言でもある。</p>
<p>さらにソクラテスはこう言葉をつなげる。</p>
<blockquote><p>「言論にはなにも健全なものはないかもしれない、という考えが心の中に忍び込むのを許さないようにしようではないか。むしろ、われわれ自身がいまだ健全ではない、という考えをもっと受け入れることにしよう。そして、健全であるべく勇気をふるって努力しなければならない。君やその他の人々はこれから先の全生涯のために、僕は死そのもののためにね。…」</p>
<p class="post-r">同前</p>
</blockquote>
<p>つまり、言論が往々にして対象と関係しないからといって、その本質を《隠喩性》のうちに解消するのではなく、たんに、われわれが言語をうまく使えていないだけかもしれない、と考えるようにしよう、というわけである。もちろん、わたしはデリダよりソクラテスの発言を好む。同じ国語にかぎっても、言語を完全に使いこなせる人間など滅多にいない。矢が的中しないからといって、矢の本質を的中しないことに置くのがおかしいことは、誰でもわかる。自分が下手な射手だと考えるのがふつうだろう。「ライオン」という言葉がライオンそのものではないからといって、「ライオン」がライオンの隠喩だと考えるのは、矢が的そのものではないから矢は的の隠喩だと考えることと同じくらい、おかしなことである。逆にいえば、言語とは本質的に比喩である（＝的に当たらない、あるいは的ではない）、というような発言は、言語について相当の努力を払ってきた人間だけが、なんとか許される謙遜やユーモアであって、デリダならまだしも、わたしに許されるはずもない。「サッカーとは点が入らないものだ」、という言い方は比喩としては許される（し、その発言者がたとえばリオネル・メッシのようなプレイヤーならなおさらだ）が、現実にはそんなことはないように、「言葉とは本質的に隠喩である」、というような発言は、それ自体が、言葉がじつは隠喩ではないことの隠喩である。そうはいっても、言葉が真理を射抜く場面は、いたるところに転がっている。少ないとはいってもサッカーにはゴールシーンがある。「言葉とは隠喩である」という発言をしたのが、全身全霊を賭けて言語に挑んだ小説家ならまだ納得するが、批評家や駆け出しの小説家が、それがさも真実であるかのように言うべき言葉ではないはずだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>いくらか蛮勇を奮って、すこしこの議論を先まで進めてみよう。</p>
<p>言語そのものを言語の対象とするいわゆる「自己参照」は、粒子と場の自己相互作用と同じように、必ず無限ループに陥る。この無限ループは対象との不一致を主体の側に引き起こさないわけにはいかない。この不一致こそが精神（主体）と呼ばれるものである。普通は、精神が同時にこの不一致を引き受けることで（つまり精神とは自己相互作用に対するマイナスの相互作用だと考える）、これを解消する。しかしこの不一致が精神に引き受けられないほど巨大になる場合がある。というより、無限ループによって生み出された精神自身が、上記の解決法を拒絶する場合がある（拒絶こそ治癒だと誤解されるのだ）。このとき、ひとは、それを精神病と呼んで医者の治療に委ねるか、あるいは歴史に委ねるという他力本願的な方法を取る。後者の場合にあらわれるのが《民族nation》である。この無限ループは、原理的には、対象の側が有限である以上、それを生み出した自分（精神）の側にしか解決できる可能性がない（医者に頼ったとしても、結局精神病を治すのは自分自身である）。したがって、「自分」を拡張しなければならなくなる。拡張した「自分」、すなわち民族である。たとえば「わたしは日本人である」ということが成立するなら、問題なく、この無限ループは日本人に委ねることができる。</p>
<p>こうしたナショナリズムを非難しようと思えば、ひとつは、言語と言語のあいだに生じる無限ループ、要するに観察する自己と対象としての自己との不一致を、《差異》として受け容れることである。これがデリダの解決方法であり、彼はこれをとくに「差延」という。それは、この無限ループを解決しないことであり、そうした態度のことを、彼は言語学的な言い方をして《隠喩性》といっているわけである。傷ではなく痕跡に留まることが、もっとも正しいひとのあり方だと言いたいのだろう。かくして、知は「エウリポスの流れ」（アリストテレスは予測不能のこの海峡の流れに身を投げて自殺したという伝説がある）のなか、差異の戯れのなかに埋没した――これが、悪い意味でのポストモダンといわれるものであろう。というのも、この態度は、無限ループの解決ではなく、つねに‐すでにひとが行なっている無限ループを増大させることにしか貢献しないからである（だから可笑しなことだが、デリダ自身が差延とは両義的なものだと言っていた）。</p>
<p>さて、近代以前のひとびとは、対象としての自己と、対象を眺める自己との不一致が引き起こす無限ループを、どうやって解消してきたのか。当然、《神》が推測される。現代人ならば御存知のとおり、《神》は人間が生み出したものである。したがって、この場合でも、結局は自己解決である。無限の精神が、無限ループを引き受けるわけである。しかし、ソクラテスの態度を見ていると、もうひとつの解決方法があるように思われる。すなわち、たんにその無限ループを引き受けるにたるだけの精神的成長を遂げることである。《わたしは狂気を受け容れる》……本当の作家は狂気を伴侶としている。狂気――すなわち無限ループを、自分自身の精神で引き受けるのだ。にもかかわらず、あるいはそうであるがゆえにこそ、この作家は健康である。医者や歴史や神に狂気を委ねるのではなく、未来の自分に委ねること――それをニーチェは、超人といったと、わたしは思う。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>コーラー</title>
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		<pubDate>Thu, 04 Mar 2010 13:31:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
		<category><![CDATA[lie and fiction]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[oblivion]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>

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		<description><![CDATA[わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を保つことができた。彼は牢獄に閉じ込められて以来、詩を書くようになったという。そのことを不思議に思ったパイドンたちは、牢獄で毒を仰ぐ当の処刑の日に訪れ、なぜかと問いただした。そこでソクラテスは彼らに驚くべきことを語った。</p>
<blockquote>
<p>これまでの生涯において、しばしば同じ夢が僕を訪れたのだが、それは、その時々に違った姿をしてはいたが、いつも同じことを言うのだった。『ソクラテス、文芸（ムーシケー）を作りなし、それを業とせよ』。そして、僕は以前には、僕がずっとしてきたことをこの夢が僕に勧め命じているのだ、と思っていた。ちょうど走者に人々が声援を送るように、この夢は僕に、僕がまさにし続けてきたことを文芸をなすこととして激励しているのだ、と。なぜなら、僕は、哲学こそ最高の文芸であり、僕はそれをしているのだ、と考えていたからだ。しかし、いまや裁判も終わり、神の祭が僕の死を妨げている間に、僕はこう思ったのだ。もしかしてあの夢は通俗的な意味での文芸をなすようにと僕に命じているのかもしれない。それなら、その夢に逆らうことなく、僕はそれをしなければならない、と。なぜなら、夢に従って詩を作り聖なる義務を果たしてからこの世を立ち去る方が、より安全であるからだ。こうして、先ず、僕は現にその祭が行なわれていた神アポロンへの賛歌を作ったのだ。それから、神への賛歌を後で僕は考えた。詩人というものは、もし本当に詩人〔作る人、ポイエーテース〕であろうとするなら、ロゴス〔真実を語る言論〕ではなくてミュトス〔創作物語〕を作らなければならない、と。</p>
<p class="post-r">岩波文庫、岩田靖夫訳、20ページ</p>
</blockquote>
<p>驚くべき、というのは、齢七〇を超えてまだ矍鑠たるこの老人が、死を前にして、知的な探究心を一切失っていなかったことであり、それまでの生涯を否定しかねない夢の解釈に彼自身が達したとしても、飽くことなく、しかもいけしゃあしゃあと、ムーシケーを実践していたことである（わたしは、プラトンのソクラテスの描写は、モデルにされた師自身がどういう感想をもっていたかとは無関係に、きわめて史的に忠実であると考えている――それは、グールドのバッハ演奏にとてもよく似ている）。真理を司るロゴスから、虚構を司るミュトスへ――裁判が真理にまつわるものであるかぎり、この移行はさまざまなことを示唆してくれるが、そもそも彼は、アテナイ人たちに、《真理》を蔑ろにし若者を扇動する《虚構》をでっち上げたことが、死刑に値すると審判されたのだった。ここにあるのは、ロゴスへの絶望や挫折だろうか。しかし、そういう表現が許されるためには、ソクラテスが、それまでロゴスに底なしの信頼を置いていたことが証明されねばならない。だが、この抜け目ない男がそんな迂闊なことをするとは思われないし、この事例そのものが、ロゴス中心主義の存在を反証している、と考えるべきだ。絶望や挫折といった陰鬱な解釈は、ヨーロッパの人間に任せておこう。むしろわれわれは、死を前にしてなお、軽快に踵を返して行なわれたロゴスからミュトスへの跳躍、弟子たちをさえ欺く彼の舞踏に感嘆する。彼には、ロゴスよりももっと重大なことがあった――それが《哲学》であり、そして《文芸ムーシケー》だったのである。ロゴスやミュトスは、その手段にすぎない。わたしは彼とプラトンに、西欧形而上学に伝統のロゴス中心主義、などというものを感じることができないでいる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ソクラテスは、さらにパイドンたちに、死後の世界がどのようなものかを、滔々と語る。われわれの世界は、真の世界の窪地にすぎない――画家たちは、真の世界の色の見本を使って、世界を描いている――真の世界においては「この地の色よりも遥かに明るく輝き、より純粋」で――「ある部分は驚くばかりに美しい深紫色であり、他の部分は金色、白いかぎりの部分は白亜や雪よりも白く、同様にその他いろいろな色から成り、それらの色はわれわれが見知っているかぎりの色よりも数も多く、より美しい」。</p>
<p>この世界の外側に広がる真の色彩。ソクラテスによれば、優れた画家たちは、この真の色彩を用いる業をもっているのだという。そして嘆きの河コキュートスや炎の河ピュリフレゲトーンの流れる、恐るべき冥府についても言葉を重ねてゆく。語り終えたあと、ソクラテスは次のような悲劇的な台詞を吐露する。</p>
<blockquote>
<p>さて、地下世界に関する以上の話が僕が述べた通りにそのままある、と確信をもって主張することは、理性（ロゴス）をもつ人に相応しくはないだろう。だが、魂がたしかに不死であることは明らかなのだから、われわれの魂とその住処についてなにかこのようなことがある、と考えるのは適切でもあるし、そのような考えに身を托して危険を冒すことには価値がある、と僕には思われる。――なぜなら、この危険は美しいのだから――</p>
</blockquote>
<p>ソクラテスは、悲しみに暮れ、彼の死後のことを案じるクリトンに、ソクラテスの痕跡をたどるべきではなく、自己にのみ配慮すべきことを述べ、そして「微笑して」こう答えることも忘れていない。「いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体として誤謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ。さあ、元気を出すのだ。そして、僕の体を埋葬するのだ、と言いたまえ」。こうしてソクラテスは、真理――すなわちロゴスに対しても目配りをしながら、毒を仰いで死ぬ。</p>
<p>嘘はたしかに魂を汚しもする。だが、現状の規定的な真理のために、嘘を恐れ、未来の美を諦めることがあってはならないだろう。というか、ソクラテスにおいて、《美》は、不確かで未規定な未来における《真理》を約束する予言であり指針なのである。ここでは、真と美は、複雑に絡み合っている。ギリシア人は、ミュトスとロゴスを区別できなかった、などという碩学ポール・ヴェーヌのいうような非難はあまり生産的とはいえない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ソクラテスは、プラトンの兄グラウコンに対して、『国家』のなかで次のような物語を聞かせている。アルメニオスの子、勇者エルは、戦場で最期を遂げた。だが、屍は十日経っても腐らず、十二日目に生き返った。彼は、その間に冥界で体験したさまざまな奇妙な出来事を語った。オデュッセウスや大アイアスが、オルペウスやアタランテが、ふたたびこの世に生まれ変わる輪廻転生の物語である。彼らの魂は最後に、レーテーの野において、忘却の河の水を飲む。そこで、冥界や生前の記憶は綺麗さっぱり忘れてしまう。この忘却を、ソクラテスは否定していない。というのも、次のように語っているからである。</p>
<blockquote>
<p>このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば、それはまた、われわれを救うことになるだろう。そしてわれわれは、〈忘却の河〉をつつがなく渡って、魂を汚さずにすむことだろう。……</p>
<p class="post-r">岩波文庫、藤澤令夫訳、372ページ</p>
</blockquote>
<p>ソクラテスの目論見は、輪廻転生を信じさせることである。ここから次のような問題が生じる――転生があり、したがって滅びがないにもかかわらず、なぜ《始まり》があるのか。物語（始まりと終わりが必ずある）があるにもかかわらず、それは滅びることがない、ということが矛盾でないとすれば、一体どうしてそれが可能なのか。このカラクリにおいて、もっとも重要な役割を果たすのが、レーテーの野に流れる放念の河の水を飲むこと、すなわち《忘却》である。原初には、忘却がある――かくして、不滅性と始まりとが同時に実現可能となる。ソクラテスにおいて、忘却はかくも重要なのである。したがって、たとえば『パイドロス』において、文字を記憶の術ではなくて、魂に忘れっぽい性質を植えつける想起の術としたことをもって、ただちに文字技術を軽視する音声中心主義を見てとるのはむずかしい（むろん、ソクラテス‐プラトンたちに音声中心主義的思考は確実にあるのだが）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ジャック・デリダに、『コーラ プラトンの場』と呼ばれる書物がある。『ティマイオス』において語られた《コーラー》を論じたものである。コーラーとは、ヘシオドスの『神統記』のなかで歌われた、あらゆるものの起源、原初であるカオスを〈抽象化〉した、《場》の概念である。ヘシオドスにおいても、カオス（混沌）とはすでにカスマ（空隙）でもあった。したがって、混沌は空隙を、空隙は場すなわちコーラーの概念を呼び覚ます。おそらくは意図的かつ戦略的に（？）迂回に継ぐ迂回を重ねた結果、コーラーがなにものであるかを名指さなかったデリダに反して、わたしは、これをはっきり名指すべきだと考える。コーラーという〈始まりの概念〉は、むしろ正しく《忘却》と結びついているように思われる。というか、コーラーを《忘却》と呼んだとしても、〈なにかを名指ししたことにはならない〉のだから、回りくどいことをしないで、端的に翻訳すればよいのである。そもそも、ソクラテスもそれを“コーラーkhora”と名指しているのだから。それは、たしかに、なにかいわく言い難いものである。ロゴス（叡知的）でもないし、ミュトス（感性的）でもない。真理でもなく、虚構でもない。ソクラテスのいう「第三の類」としての、忘却。それは、永劫と始まりとを同時に実現する。</p>
<p>人間の力の側からいえば、ロゴスは記憶力の範疇に属し、ミュトスは想像力の範疇に属す。そしてコーラーは忘却の力に属し、それらは想起の概念によって結び合わされている。そして、想起し難いものを想起しようとするとき、われわれは、間違いなく、先にあげた三つの概念――混沌カオスから、空隙カスマへ、そして場コーラーへ――を遡行していく。われわれは、なにかであるにもかかわらず、なにかによって言い表せない《それ》を、忘却と呼んでいるはずである。忘却は、かならずこの回路を通って発見される。デリダは、この概念が哲学の外にあると指摘し、この概念の手前で足踏みしたように見える。というか、飛越すべき境界線の上で、なにかの勘違いで綱渡りをしていたようにしか見えない。だが、ソクラテスは、そうはしなかった。それは、哲学の限界ではなく、哲学に課せられた、哲学が超えるべき境界線である。ロゴスからミュトスのあいだに走る亀裂、カスマ＝カオスを軽やかに渡り、そして跳躍するためには、それらの実践を可能にするより広い概念、すなわち《場（コーラー）》の概念がなければならない。ソクラテスの哲学は、まさにここに根ざすことなく根ざしているのである。忘却の手前で足踏みし、それをはっきりと哲学の限界に仕立てあげ、皮肉にも、そして正しくもその哲学をダニエル・リベスキンドの「ベルリン・ユダヤ博物館」に結び付けてしまった彼の〈躊躇〉を超えて、勇敢なソクラテスの哲学は、〈《忘却》から始まる〉のである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ニーチェは『曙光』において、こう言っていた。</p>
<blockquote>
<p>忘却。――忘却が存在するということは、まだ証明されていない。われわれが知っていることはただ、回想ということはわれわれの力の及ぶところではない、ということだけである。さしあたってわれわれは、われわれの力のこの割れ目にあの「忘却」という言葉を置いた。あたかも能力がもうひとつ登録されたかのように。しかし結局のところ何がわれわれの力の及ぶところだろう！　――あの言葉がわれわれの力の割れ目に位置するとすれば、それ以外の言葉は、われわれの力に関するわれわれの知識の割れ目に位置するのではないだろうか？</p>
</blockquote>
<p>ニーチェは、正しく、忘却を「亀裂」と、すなわちカスマ＝カオスと呼んでいる。忘却とは、この亀裂を可能にする場であると同時にこの場を満たすなにかを意味する（したがって、場は混沌へと回帰する）。さらに、ニーチェは、「生に対する歴史の利害について」において、プラトンの『国家』について、次のように語っていた。</p>
<blockquote>
<p>プラトンは、彼の新しい社会の第一の世代は強力なやむをえざる嘘〔永遠につづく、完全な国家があるという〕の助けによって教育されることが必要だと考えた。…このやむをえざる真理のなかでわれわれの第一の世代は教育されなくてはならぬ。…</p>
</blockquote>
<p>輪廻転生を確信し、そうであるがゆえに原因の鎖列に囚われたソクラテス‐プラトン的な人間像において、《第一世代》を実現するためのもっとも重要な概念が、《忘却》であり、そしてそこから生じる嘘、ポイエーシス（生成）を実現するデミウルゴス（創造神）のもたらす、ミュトス＝虚構である。なぜわれわれは、人類の創生にエピメテウスという忘却の神を必要としたのか。ヘシオドスたちの伝える人類創生の神話ほど、快活な笑いに満ちているものはない。人間を過信する兄プロメテウスと、動物に味方する弟エピメテウス――品と位に満ちた、二人の兄弟の神話。『神統記』、それは神の賛歌に名を借りた、忘却する人間の礼賛なのである。アテナイ民主制崩壊のなか、ロゴスに溢れ、《批判》が機能しなくなった世界において、新たな創造を担うのは、これまでずっと創造を事としてきた芸術以外にはありえない。「やむをえざる嘘」――「この危険は美しい」――齢七十を超えてまだ先へ先へと突き進んでいたソクラテスが到達した頂点、それは《文芸ムーシケー》だった。</p>
<div class="post-rl">
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</div>
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		<title>記憶と忘却の娘としての《技術》（スティグレールによせて）</title>
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		<pubDate>Sun, 24 Jan 2010 17:09:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じている点でも、驚くほどよく似ている。その点で、わたしの思考もいっぱしに《同時代的》であるのだろう（逆にいうなら、日本の知識人たちは同時代的であろうとしているにもかかわらず、なんと迎合的で結局は時代と乖離していることか。同時代的に気のきいた批評をしていればそれで仕事をした気になっているひとたちと比べれば、「哲学」しようとしているスティグレールには心の底から共感する）。しかし、デリダの弟子という点をふまえるなら、デリダとなんの関係もないわたしの哲学は、それとは当然異なる方向性をもっている。昨日届いた『技術と時間１―エピメテウスの過失』を読んだだけの感想である。そして、微細なものでもある。だが、結局は決定的であるように思う。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>スティグレールは、哲学がいつも技術の存在を忘れてきたという。わたしもその点にはある程度賛成する。たとえば近代の哲学者、とりわけカントやヘーゲルの哲学は、文字と紙という記憶装置なしには、承服しかねる部分がある。しかし、すべての哲学がそうだったと考えるのはむずかしい。プラトンが、アナムネーシス（第一次想起）を重視し、ヒュポムネーシス（文字など外在的かつ人工的な記憶＝記録）を忘却の術と呼んで記憶術から退けたことはよく知られている。だが、スティグレールは、プラトンが最重要視していたアナムネーシスに〈先立って〉、より軽視していたと思われている外在化された記憶技術であるヒュポムネーシスが存在している、と指摘し、プラトンを批判的に脱構築していく。この議論は、音声に対する痕跡の優越を語ったデリダの批判的後継者の評判にたるものである。だが、わたしなら、すべてに先立つのは、技術というよりは《忘却》であるというだろう。外在的な記憶術を意味するヒュポムネーシスが、《忘却》の術と考えられるかぎりでのみ、技術はつねに有意義なのである。プロメテウスがひとに与えた技術の存在を忘却の底に沈めるといわれるエピメテウスは、しかしとりわけ希望の神でもある。私見によるなら、彼は、「欠失」でもなければ歴史意識を可能にするのでもない。むしろ彼が実現するのは《真空》であり、歴史意識の超越である。彼は、つねに自分の世代を第一世代だと考えるきわめて動物に近い男であり、ゼウスによって自身に与えられる無限の懲罰の結果を先んじて知っているプロメテウス的悲劇とは無縁のアンチ・オイディプス的な男でもある。</p>
<p>プロメテウスが与えた炎＝《技術》とは、端的に記憶であると、スティグレールはいう。しかし、わたしなら、もっと端的に、記憶であると同時に忘却である、というだろう。プロメテウスとエピメテウスの関係は、ひとが思っているよりも、そしてスティグレールが思っているよりも（というのも、彼においてエピメテウスは、プロメテウスを補完するにすぎない）、もっと苛烈に一体化している。この兄弟には、ひとかたならぬ、尋常ならざる友愛の絆が感じられる。この両者が不思議に一体化しているときにのみ、技術は真の有用性をもつ。実際、わたしは、記憶と忘却とを区別する術を知らない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえばこういうことだ。技術には、つねにこういう特性がある――すなわち、一回限りで消え去るものを、《再現》可能にするときに現われるのが技術である。木切れが炎を起こす技術になるとき、この木切れには炎が起きたという一回限りの出来事の記憶が詰め込まれている。技術としての木切れの使用とは、出来事（炎）を再現可能なものにする、ということである。この場合、技術は記憶を再現するものであって、〈炎を燃焼させるのではない〉。そこでの炎の燃焼は、出来事そのものではなく、木切れの能力の再認（レコグニション）、再現前化（リプレゼンテーション）である。徹頭徹尾、技術は《複製》を司っている<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。木切れは、たしかに、炎を起すための文字――炎という出来事の記憶装置である。</p>
<p>しかし、重要なことは、次の点である。記憶の再現としての技術の使用には、結局は《二つの忘却》が紛れもなく存在している、ということである。木切れが、炎を起こす道具として使用されるとき、かつてなんらかの偶然で炎が燃焼したという出来事を、ひとはすでに忘れている。要するに、炎が再現可能なものとなるとき、かつての炎の一回性は、つねに‐すでに忘却されている。これがひとつめの忘却である。</p>
<p>ふたつめの忘却は、ひとつめの忘却を意識したときに（つまり思い出したときに）はじめて忘れられるものである。つまり、意図的に燃焼させられた当の炎は、かつて自分が何らかの理由で偶然に燃焼させられたことを、すでに忘れている、ということだ。要するに、炎は、木切れにひとが封じ込めた記憶を《再現》したのではない。そういう考えはアポロンの神託に苦しむオイディプス的人間の隠れた傲慢であって、たんに燃えている、まったく新しい炎である。同じ木切れを使用して二つの炎が生まれたとしても、両者は決定的に異なっている。だからヘラクレイトスはこう言った。「火を消すよりも、傲慢な心を先ず静めるべきだ」。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>したがって、スティグレールの指摘の正当性は、いまのところわたしには半面的なものにしかみえない。たしかに、ヒュポムネーシスがアナムネーシスに先立ってある、という言い方で、彼は過去の炎の一回性が忘却されていることを指摘した。しかし、その指摘は、原理的にいって、かえって現にいまある炎の一回性を忘却させる。それゆえ、技術の使用は、たしかに記憶の再現であるが、同時にどう転んでも忘却を生みもする。だから再びヒュポムネーシス（複製）にアナムネーシス（オリジナル）を先立たせねばならない。たとえばスティグレールは、別の本で、ソクラテスが少年奴隷に幾何学の問題を解かせる際の身ぶりに注目している。というのも、ソクラテスは、《想起》を示す際に、砂の上に図形を〈書く〉からである。ここに、彼は声に先立つ文字＝技術の優位をみる。だが、わたしにとって重要なことは、それが〈砂の上〉に書かれたということである。声と文字は、媒体に対する定着性（空気の振動であってついに定着が困難なのか、それとも、紙や石版などに定着するのか）によって差異化される。現にある机などの表象よりも、いまここにない「机というもの」という《イデア》が重視されるプラトン哲学において、なんらかの図形が現在に定着した表象によって説明されることがあってはならない。その点で、図形を消し去ることのできる〈砂の上〉でなければならなかった。砂上に《痕跡》など残らないのはいうまでもない――というか、砂上とは、痕跡を残さないものの謂いである。現在を汚染する痕跡に対して、現在から遠ざかり消滅する声が、外在的記憶装置とされる文字に対して忘却が、ふたたび優位に立つのである。技術は、その前と後ろとをつねに忘却によって挟まれている。そのかぎりではじめて、記憶も技術もそれとして機能する。技術にとって、プロメテウスとエピメテウスは一体である。記憶を司る技術を、ひとは忘却なしに使用することができない。ソクラテス‐プラトンが指摘しようとしているのは、そのことであると考えなければならない。</p>
<p>してみると、問題は、内在的な記憶であるいわゆる《記憶》に対して、《技術》を《外在的な記憶》として立てるだけでは終わらないことがわかる。前者を《自然》と呼び、後者を《文化》と呼ぶことがあるが、両者を対立させているかぎり問題が解決しないのと同じことである。技術を記憶の側面から読み込みすぎるのはよくない。《記憶》と《技術》は、一次的か、二次的かという違いはあるにせよ、いずれも記憶であるが、しかも同時に忘却でもある。そのことのほうがずっと大きな問題である。オリジナル（もっとベンヤミン風に根源というべきか）にこだわるかぎり、完全に同じものの《再現》は、原理上、ありえないことである。つまり、その《再現》は、つねに差異を、つまり忘却を含んでいる。記憶は、忘却なしには成立しない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、上記の問題は、スティグレールを離れて次のように展開できる。忘却は、より積極的な言い方で、《想像力》と呼ぶことができる――そのため、記憶、忘却、想像の三つの様態は、なにかひとつの力を別の角度から論じたものにすぎないようにみえる、ということである。ひとは、まったくの《無》から、なんらかの表象を想像（創造）することなど絶対にできない。きわめて想像的な、まったく現実と乖離してみえる架空の表象であっても、それはつねに、よく知られている表象の対位法的な組み合わせの産物である。スフィンクスしかり、シレノスしかり、ドラゴンしかり……。ここに記憶が介在していない、ということはありえないし、当然、そうであるからには忘却も介在している。とくにここには、おそらくは意図的な忘却があって、忘却を悪意をもって使用しているかぎり、ファンシーなものにしかならないが、だからといって、かぎりなく学問的な見地から（つまり記憶に忠実に）表象の復原を目ざしたとしても、そこには少なからぬ忘却と想像とが紛れ込むだろう。したがって、それらの差異は、真（オリジナル）を目ざそうとする意志や態度にかかってくるし、そのかぎりでのみ、美は実現されると考えたほうがよいだろう。ともあれ、記憶・忘却・想像力は、結局はひとつのものであるし、学問と芸術は、むしろ一体であるべきものとして考えたほうがよいのではないか。</p>
<p>とするなら、疑問は次の点にある。なぜ、いかにして、そしてどのような権利でもって、カントは、感性と悟性とを分割したのか、ということである。感性には想像力が、悟性には記憶力（カテゴリー）が用意されている。この両者をひとつにすることが、《総合》であり、《認識cognitio》であるといわれる。しかも、カントにおいて、結局、想像力は記憶力に従属するのであり、総合はカテゴリーにもとづいて行なわれる、といわれる（だから認識はつねにre-cognitioである）。いずれにしても、総合が行なわれるというのなら、前もってその分割が、すなわち記憶力と想像力の分割が用意されていなければならない。しかし、この諸力を厳密に考えれば考えるほど、分割はますます不可能になっていく。はたして記憶力と想像力とは分割可能なのだろうか？　カントは、かの純粋悟性の〈演繹〉にどうやって成功したのだろうか？　カントの哲学に従う、とは、要するに、この分割を無条件に受け容れることではないのか？　演繹を命令と受けとることではないのか？　悟性などを立てるから、「考えることだけは可能な」ヌーメノンたる《物自体》などが必要になってしまうのではないのか？</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>オリンポス山を彩る主要な神々のうちのひとり、ポイボス・アポロンは、学問の神であると同時に、芸術の神でもあった。もちろん、二つの属性をもっていたのではない。フーコー風にいえば、たんに、古代において、それらを分割する知の規準（エピステーメー）がなかったということである。記憶の女神、ムネモシュネとゼウスの娘であるムーサの女神たちを主宰したのは彼である。九人のムーサの名をあげておこう。『神統記』によるなら、叙事詩を司るは第一等のカリオペ。歴史を司るクレイオ。抒情詩を司るエウテルペ。喜劇を司るタレイア。メルポメネは悲劇を司る。テルプシコラは合唱や舞踏を司り、エラトは独唱歌を司る。ポリュムニアは物語を、ウラニアは天文（占星術）を司る。学問と芸術が、記憶と想像が複雑に絡み合った古代世界。こうした古代世界に住まうプラトンたちが、《想起》を、たんに近代的な意味での「記憶」にまつわるものとだけみなしていたと考えるのは、困難である。ソクラテスにイデアを語らせるときでも、プラトンは、いつもそこに忘却を指摘している。かの『国家』は、忘却の逸話によって、終わることなく閉じられるのだ。彼らの忘却への配慮を感じないでいるのは、むずかしい。実際、まったく同じものの再現など不可能なのだから、ホメロスの歌う〈迫真の〉トロイア戦争を、ついには〈迫真にとどまる〉歴史学の語るトロイア戦争と区別するなど、できようはずもない。異なるスタイルがある、それによって別の姉妹があてがわれる、というだけのことである。</p>
<p>ともあれ、カントの演繹がたんに彼の命令であるなら、われわれは逆にそれに従わない権利もあるわけだ。しかし、近代において、悟性と感性とを分割するカントの議論は、あまりに説得的に響いた。芸術を都合よく排除し、というかむしろ芸術学科のなかに閉じ込めてしまった今日の学問の姿勢をみるかぎり、カントの議論は時代に対するそれなりの正当性をもっていたのだろう。芸術からその母たる記憶の力（ムネモシュネ）を奪い、想像力の世界に押し込めた今日の芸術において、程度の低い対位法を駆使した架空の表象が溢れかえるばかりである。文学だけが、学問の世界にも身を置くことを許されたが、「終焉」という言葉で虐殺をはかる連中によって、息の根を止められかかっている。</p>
<p>カント哲学にここまでの制覇を可能にしたのは、近代の技術――活字印刷術と、製紙技術である（だからいたずらにカントを責めるべきではない、カントにはもっと別の課題があった）。さらに相次いで生まれたカメラや映写機などの記録技術は、おそらく、同じものの再現が可能であると、ひとに信じ込ませるにたるものだったのだろう。同じものの再現が可能であるなら、記憶力と想像力は、たやすく分割することができる。悟性の演繹など必要のないほどに、書き付けたとたんに言葉が現在に定着し、同じものを再現しつづける不可解な力をもった紙が、溢れかえっていたのである（ベンヤミンは、これを地獄の現在としてのモダンといった）。かくして、記憶と忘却は、対立するものとなる。カリオペたちと並んでムネモシュネの娘であった、歴史を司るクレイオは、気づけばほかの姉妹を追放し、母を独占するに至った。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>問題は技術だろうか？　むろん、ひとは技術をしっかりと握っていなければならない。だが、技術に対して過度に焦点をあわせるのもよくない。たしかに、悪い技術というものも存在する。とりわけ、それは《模倣の模倣》を司る技術である。すでに模倣されたものは、原理的にいって、そっくりそのまま模倣されうると、みなされてしまいやすいからである（プラトンがいった悪しき芸術はこうした技術にもとづくものであり、これらは、オリジナルへの意志を欠いたところに成立している）。とはいえ、技術を用いるのは人間だけではないし、だからそれを使用する側の問題のほうがはるかに大きいのはいうまでもないことである。おそらく技術それ自体は、《自然》に属する。そうでなくても、自然か人工かは決定材料に乏しいし、そこに問題の焦点をもっていくことに生産性があるとは思えない。かまどの炎――それは人工的な炎であろう――にも神の姿をみたヘラクレイトスは言った、「火を消すよりも、傲慢な心を先ず静めるべきだ」。先にみたように、技術にもまた、古代世界の思考同様に、忘却の力は生きていた（わたしはそのことを証明したと信じる）。問題は、技術に与えたひとの同意、すなわち技術とはもっぱら記憶のみを司るなどという、暗黙か自覚してかは知れぬあやしげな同意のほうなのではないだろうか。はたして、あなたの証明写真は、あなたと同じものを再現しているだろうか？　磁気テープやディスクに録音された声は、本当にあなたの声だろうか？　むしろ、これらの技術は、あなたの顔や声の表情や色彩を、つまり一連の変化そのものを、つまりただ一度かぎりの《出来事》を、撮（つか）もうとしているのではないのか？　技術もまた、忘却を――エピメテウスあるいはその娘のピュラを伴侶として、さらなる差異を加速させるものだと考えてはいけないのだろうか？</p>
<p>文字も同じことである。そこにあるのは、同じものの再現などではなく、日々変化する色彩に満ちた表情なのである（だからこそ、アートとしてのカメラがあると同様に歴史と小説が両立するのだ）。書くという行為には、表情の追究、《スタイル》の追究がなければ、かならず堕落する。事実だけを報道しようとする歴史は、結局は、同じものを伝え、すくなくとも同じものを伝えようとする「情報」へと堕落していく。そこには、《誰がそれを言っているのか》という視点は欠落しているし、欠落していることが望ましいとされる。技術がひとを追い越すにまかせ、生活が時間を実現するのではなく、生活のほうが時間を追いかけはじめる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>今日、歴史は想像力を欠いているし、芸術は記憶力を欠いている。なのに芸術は想像力のことばかり気にしているし、歴史は記憶のことばかり気にかけているというのは、空しいかぎりである。どちらか一方を唱えてもまるで無駄なことだ。かつて起こったことだけが繰り返される、プロメテウス的悲劇に捕えられた空しい事実ばかりがあふれかえる今日にあって、なにより欠けているのは、〈忘却〉なのだ……。</p>
<p><a name="n01"></a></p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01">(1)</a> ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」（1935-6）におけるアウラの議論はことのほか有名だが、ここでは、この概念はまだそこまで深まりを見せていないように思われる。というのも、ベンヤミンの議論に忠実にこの概念を延長するなら、おそらくアウラは思い返されると同時に忘れられねばならないものだからである。つまり、二つの態度が〈連続的に〉行なわれねばならない。そうでなければ、たとえば《星座》の概念が意味をなさなくなる。</li>
</ul>
<div class="post-rl">
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		<title>ポストモダニストたち（２）――ヴァルター・ベンヤミン</title>
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		<pubDate>Fri, 22 Jan 2010 20:30:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つまり武器を与えらたように思う。神秘主義ともいわれる彼のスタイルが、歴史を探究するに際していかに正当性をもっているか、ということを説明するのは、骨の折れる仕事である。思えば、一九世紀の実証主義者たちは、おぼろげで程度に差はあれ、正しくそのことを指摘していたものだった（打ち明け話をしておけば、ニーブールやミシュレといった一九世紀の実証史家を、昔はそれなりに愛していた。モムゼンなどよく読んだものだ）。いささか迂遠になるかもしれないが、記憶と忘却をテーマに、すこし込み入った話をしよう。ベンヤミンを読む際の序論になれば幸いであるが、本当のベンヤミン読みには、必要のない代物であるかもしれない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>かつて《記憶》は、イデアあるいはロゴスと呼ばれ、われわれの知の玉座に君臨していた。日々感覚してはいてもまったく秩序だっていない諸々の経験は、たんなる無価値の差異として与えられるだけである。それを秩序だったものとするのが、ロゴスであり、プラトンの言葉でより厳密にいえばイデアにほかならない。それは、ひとが《生まれながらにしてもっている記憶》である。ひとが、経験においては互いに異なる無数の諸個人を、《人間》と識別できるのは、ひとが前世から受け継いでいる《人間のイデア》を分有しているからである。ソクラテスによるなら、知の探究とは、こうした記憶を適切に《想起（アナムネーシス）》することと定義される。</p>
<p>輪廻転生を前提とする古代世界において、記憶が玉座に君臨するためには、逆説的なことだが、忘却が存在しなければならなかった。忘却なくして《想起》は不可能だからである（むろん、記憶することなしに忘却することも不可能である）。したがって、ソクラテスにおいて、忘却は、人間の条件である。冥界をさまよい帰還したエルの物語によって、ソクラテスが示唆しようとしているのは、世界の起源や終末には、たえず忘却が存在していることである。千年の賞罰期間を経てひとが現世に帰還するとき、かならず、一木一草さえ生えない焼けつくレーテーの野に流れる放念の河の水を飲む。この忘却があるからこそ、生は生を再生させることができる。したがって、ここに真の意味での滅びはない（「このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ……」）。というよりも、滅びとは、この忘却の謂いであって、無を意味しない。一種の真空を意味する。また忘却は、イデアを可能にするために、必要とされる（「われわれは《忘却の河》をつつがなく渡って、魂を汚さずにすむことだろう……」）。だから起源（オリジナリティ）を可能にするのも、この忘却である。したがって、イデアは、ヘラクレイトスとパルメニデスのあいだで思考される――すなわち動（差異）のなかの不動（同一性）を実現する《運動としてのイデア》は、忘却と記憶のあいだを移行するものである。そこには、つねに差異が孕まれていて、記憶のなかには、近代のひとびとが想像力と呼ぶものが、幾分か折りたたまれて共存している。記憶と忘却が一体である度合いは、そのまま、記憶力と想像力との一体性を示す。それらが一体のものである以上、イデアの運動は、同一性の運動ではなく、類似性の運動でもある。</p>
<p>行為としての忘却とは、行為がかつてもっていた意味（意識）を捨て去ることである。だが、それによってのみ、行為は行為となることができる（忘却がなければ、それはつねに‐すでに、行為というより再認リコグニションである）。その行為は、行為であるがゆえに、ふたたび意味を回復する、すなわち記憶となる。したがって、はじまりには、たえず言葉が、しかも意味（対象）を失った言葉――《嘘》（構造主義の言葉でいえば、「浮遊するシニフィアン」）が存在する。これがしばらくして意味を回復すると信じられるかぎりで、予言と呼ばれ知と呼ばれる。神託を授ける知の神アポロンが遠矢の神と呼ばれた所以もここにあるし、ニーチェがアポロンをディオニュソスの遅延だと呼んだ理由もある。アポロンの遠矢が描く痕跡をたどっているかぎり、それは意味に先行されており、したがって、ひとは行為することができない。オイディプスが、父を殺し母と寝た、と言いうるとすれば、彼が神託を忘却していたかぎりであって、神託を記憶していたのなら、彼が行為したのではなく、アポロンの指令にしたがっただけである。つまり、オイディプスという主語に父殺しと母との同衾を可能にするのも忘却だが、この神託から逃れることを可能にするのもまた忘却なのである。したがって、記憶と同様、忘却には、積極的なものと消極的なものの二つがあるが、記憶が行為を批判する（押し止める）という点において、消極的な積極性を有する場合があるのに対し、忘却は（善かれ悪しかれ）ひとに行為を促すものである<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>中世にいたっても、《記憶》は依然として、知の玉座に君臨している。神は記憶に住まう。アウグスティヌスが、神を自身の「広大無辺の」記憶のうちに探したのは有名な話だが、ひとは、神のロゴス、とりわけ天国と地獄のイメージを、《生来の記憶》として分有していると考えられた。そして天国と地獄の記憶痕跡が消えてしまわないように、たえずそれを補強しておくことが推奨された。「輪廻」（反復）のイメージを棄て、その代わりに「進歩procursus」（一回性）のイメージを選んだ中世において、忘却は不必要なものとなる。そこには、明確な起源と終末がある。起源と終末が忘却のうちにあるなどということはない。聖書に書かれたとおり、それらは神の記憶そのものである。ひとは、かつては自身が保有していた忘却を、神の記憶に預けてしまったのである。ソクラテスは、ヘルメス＝トトのもたらした《文字》を忘却の術に与するものとした。だが、中世において、文字はやはり、記憶の、それも神の記憶に与するものである。中世において、ヘルメス（・トリスメギストス）の重要性は測り知れない。なぜなら、世界とは、そのすべてが、神の記憶＝文字痕跡だったからである。</p>
<p>文字と、それを記憶する媒体がほとんど存在しない世界を想像してみよう。原理上、実証的な形で歴史的に証明することはできないが、記憶が知の玉座にあった前近代において、むしろ忘却はいたるところに転がっていたはずである。しかしそれらは、中世にはすべて神が、君主が、あるいは天が回収した。ひとはそれを《生来の記憶》と呼び、のちにフロイトによって《無意識》と呼ばれることになる概念に余地を与えていなかった。無意識の行為、すなわち忘却は、すべて神という主語が命じた行為であり、神の記憶の《再現》であった（フーコーのいう狂気の概念が、前近代には知の枠内に収まっていた理由はおそらくそこにある）。フロイトは、無意識は《時間》を超越しているといった。無意識において、記憶痕跡は、時間的秩序を有していないと考えられた。おそらくこの意見は正しいが、むしろそのゆえにおいてこそ、神の記憶は歴史を超越することができた。時間的秩序を逸脱しているということは、人間にとっては悪だが、逆に神においてはむしろ自由な能力を意味するからだ。これまで起こったこと、これから起こることすべてを事前に承知し、網羅する神の記憶において、歴史の価値はかえって極大に達している（前近代には「歴史」という観念は存在しなかった、などというべきではない）。なぜなら、人類の歴史はすべて神の記憶に委ねられているからであり、またそのかぎりで、歴史とは超越そのものを意味することになるからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、事態は一変する。記憶は、近代において、ロゴスという名の知の玉座を降りてしまう。記憶（理性）と経験（感性）の差異を忘却（＝神の記憶）によって解消することがあまりにも困難になったからである。経験的な事実が記憶を上回る事態が頻発したとしても、忘却は、それを解消するよき手立てのひとつでありえた。経験がいくら記憶を上回ったとしても、それを埋め合わせするに充分の忘却が用意されていたし、またそれを神の記憶と呼ぶことで、さらに増大させることもしてきた。だが、忘却の余地はどんどん縮小していく。《紙》などの媒体の大量生産のためである。この媒体の増大によって、かつては制限されてきた記憶容量が、理念上、無限大に達したと考えられる（活字技術だけで、紙が大量生産されないかぎり、この理念上の転換は起きない。紙なしには、依然として記憶領域は経済的に限定されているからである）。暗黙のうちに、《模倣ミメーシス》は、《複製》へと意味を変える。記憶とその想起は、自己同一的なものの《再現》に変わる。かつてはどのみち差異（＝忘却）を孕むことが前提されざるをえなかった模倣や想起から、注意深く、一分の隙も許さない厳密さで、差異が取り除かれていく。なぜ、文字には、《同じもの》の再現が可能なのだろうか？　それは、文字が対象を模倣するのではなく、対象が文字を模倣させるように仕向けるからである――アポロンの神託さながらに。というのも、文字を読むわれわれにとっては、文字こそが世界だからである。そしてもっと重要なことは、文字を読む近代的人間は、同時に文字を書きもするからである。文字から文字へ、声という生の世界を差し挟まない、死の運動――これが歴史である。したがって、かつて、たとえばキケロを想起することが、かならず忘却を伴って行なわれたのに対し、近代における「キケロ」の想起は、同じ「キケロ」を再現representする〈とみなす〉。差異を実現してしまう想像力は、記憶力から分離する。想起の概念が致命的な変更を被るのである<sup><a name="p02" href="#n02">(2)</a></sup>。</p>
<p>この状況下で哲学を組み立てたのはカントである（カントやヘーゲルの登場は、ちょうど紙の大量生産が実現するのと軌を一にしている。この状況に対する時代の応答が彼らの哲学であった）。デカルトには、まだ、「良識ボンサンス」の観念が残っている。万人に分有されているというこの観念は、中世以来の「生来の記憶」に余地を与えていたし、そこから神の存在を証明することさえできた。しかし、カントにおいて、それは、たかだか「共通感官（常識）」を示すにすぎない。共同体という人間の外部から与えられたものにすぎず、先験的なものではけっしてない。カントは、内容を欠いた時空間以外のあらゆるアプリオリテートを、理性（ロゴス）から完全に排除したのである。</p>
<p>記憶の王朝がついに終わりを告げる。だが、ロゴスは、神（絶対者）や永遠（時間における無限）、宇宙（空間における無限）や自由（運命における無限）といった仮象をもたらすばかりであって、個別に限界づけられた記憶とは結びついていないし、記憶に相反する蛮勇さえも慎まない。たしかに、記憶は理性という頂点から没落した。ただし、理性はそれによって《形骸化》したのであり、もはやロゴス＝言葉という呼び名は適切ではなくなる。下野した記憶に、カントは特別な場所を用意していた。《悟性》である。悟性を打ち立てるためには、想像力と記憶力の分割が、自然に受け容れられる状況が用意されていなければならない。かつては一体のものであったそれらが、分割されるということ。それは、同じものを再現する力である記憶力と、差異が孕まれざるをえない想像力とが、別々の力であるという、それまでとは異なる知の規準が生まれていることを示す。そして悟性に蓄えられたカテゴリー（記憶）は、感性が想像力によって与える表象を従属させ、これを総合するとさえいわれることになる（Einbildungskraftにせよ、Imaginationにせよ、訳語の問題なので慎重さが必要だが、ふつうにカントを読むかぎり、感性と悟性を最終的に総合するのは記憶力（カテゴリー）の側であって、想像力ではない。感性に端を発する想像力がつねに‐すでにカテゴリーに従属しているのでないかぎり、コペルニクス的転回が成立しない<sup><a name="p03" href="#n03">(3)</a></sup>）。</p>
<p>したがって、じつは悟性を発祥地とする（か、あるいは最終到着地とする）「共通感官」の重要性は、結局はいや増すことになる。無手勝手な差異をもつ諸々の表象を総合（＝認識）するのは悟性である。外部からの経験を蓄積する記憶層をなす悟性は、架空の感官である（というのは、そう考えないと悟性など必要ないからである）「共通感官」を作りあげる。これをあえて「感官」と呼ぶのは、光や音など、ほかの感覚と同じように、外からやってくるからであり、理性（身体内部）に淵源するのではないからである。また、これが架空であるといわれることのもうひとつの理由は、複数形の人間――たとえば人類であるとか、国民であるとか――においてはじめて、保持していると〈みなせる〉ものだからである。感官はもちろん感性を宿しているが、共通感官の居場所は悟性である。</p>
<p>共通感官は、いったいどのような形でやってくるのか。《歴史》である。かつて、自身の内側に、《忘却》として、あるいは《生来の記憶》として探究された《起源》は、今度は、身体の外側において探究されることになる。先述したように、ソクラテスは、文字を忘却の術と言っていた。というのも、人間にしっかりそれとして意識されていないというかぎりでは、身体内部の忘却であろうと、その外部にある文字であろうと同じことだからである（ソクラテスにとって、内か外かは重要ではなく、問題は境界線上で行なわれるドラマの方なのである）。かつては、神の記憶であるがゆえに極大の力をもっていた歴史は、その力を半分失う。だが、そのおかげで、人間のものになり、それゆえ逆説的に、正真正銘の歴史となる。そして、忘却のうちにしか行なわれえなかった《行為》の主語を、歴史に取って代わらせる。歴史は忘却ではない。神の記憶ではないとしても、すくなくとも、《人類の記憶》である。しかも、文字から文字へ、すなわち「キケロ」からキケロではなく、「キケロ」から「キケロ」へ、《完全な再現》を夢想させるものである。</p>
<p>内なる神という主語を失った精神は、外部にその《起源》を求めた。それが歴史である。しかし、おかげで、内部には空洞が広がることにもなった。中世には《生来の記憶》という名で呼ばれたその場所、その亀裂が、ふたたび古代同様に《忘却》として光を浴びる可能性が、生まれていたのである。そのことを発見し、明確に示したのはプルーストである。ベンヤミンが「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」のなかで注目し、高く評価した《無意志的記憶（メモワール・アンヴォロンテール）》は、端的に忘却のことである。この忘却の領土こそが、文学者の新たなる大陸なのである。だが、それは、しばらくすれば、時代精神によって、そして「無意識」によって、埋められてしまう。想起と記憶とを（あえて？）区別しない精神分析は、忘却に時間的秩序を与え、古代以来、ようやく内部に回復された忘却の領土を奪い取ろうとするだろう。外部の忘却は歴史によって、内部の忘却は精神分析によって奪われる。忘却、それはむしろあなたの精神だと、彼らはいう。ひとは《父》に、《過去》にその主語を預けてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>これが、ニーチェのいう「歴史病」（『反時代的考察』）である。本来、時間は、ひとの生に従って生じるものである。生の消滅速度、それこそが、時間である。生があり、そのあとで、それは歴史となる。この順序は覆すべきものではない。だが、歴史は、この「時間」を追い越そうとする。過去は、あなたを先んじて存在していると、歴史はいう。資本主義社会において、あらゆる技術革新が時間を追い越すための技術であるように、歴史もまた、このもっとも健全な、もっとも自然な「時間」を追い越すための努力である。過ぎ去る時間を、幸福を「いまここ」につなぎとめ、インデックスをつけて保存しておくことこそ、歴史と科学技術が結託して行なう不健全な目標なのである。その点では、歴史病は、一九世紀や二〇世紀にだけあったのではない。今日はもっと深刻な状況となっている。あまりに大量に生産される《古文書（アーカイヴズ）》に対して、もはやかつての歴史家が苦労して行なった時間的秩序をもたらす時間さえ惜しいのである。その厖大さは、機能的かつ合理的な方法で、たんなるＩＤの意味しかもっていない年代記号のもとに秩序付けられ、「情報」として処理されるほかないというところまで、ひとを追い詰めていく。「情報」から「情報」へ、すべては「情報」である。すべては、かつて模倣されたものの模倣でしかない。この歴史病の狂熱は、現実の歴史家さえ無用にするほどに、激烈である。たんに歴史を知らないひとびと（わたしも、というかすべての人間はどちらかといわれればそちらに属す）に《忘却》のレッテルを貼るほどに、この病は倣岸である。</p>
<p>歴史は、それが歴史であるかぎり必然的に、ひとの生や行為を奪い、法則を再認する実験結果だとみなす。そこでは、アポロンの遠矢がもたらす神託よりも、はるか先を歴史が生を追い越している。われわれの生があり、そしてそれが事後的に歴史となる、というあの単純さ、「生と歴史のあの関係のすべての明晰さ、すべての自然さと純粋さ」は失われている。歴史はいう、その行為は、すでに行なわれたものである、と。人間のあらゆる行為が、すでに起こったことの再認である。なにしろ歴史は、起こったことにしか注目しない。歴史が夢想する無限の「いまここ」は、過去に先立たれ、頭を押さえつけられることによって、可能となる。われわれは、《起源》を歴史に預け、われわれ自身の生産力を、オリジナリティを奪うに任せる。歴史は、原理上、かならず生を歴史に従属させる。文字から文字へ、同じものの反復を可能にする歴史は、同時に充実した差異をなす生を《学》にそぐわぬ劣ったものとみなしている。したがって、歴史を生に奉仕させるためには、かならず反歴史的なもの――《忘却》と、超歴史的なもの――《芸術》とが必要とされている、とニーチェは言った。いずれも積極的な《忘却》である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>われわれの行為が、《生》が、ドラマが演じられ、それがそのあとで歴史となる、という、ニーチェのいう健全さは、炎のまえに灰が、傷よりまえに痕跡が存在しえないのと同じほどにたしかなことだが、しかし、よくよく考えてみると奇妙なことである。というのも、それはひとが思っているのとは異なる不思議な時間概念によってしか可能にならないからだ。この時間概念上で、歴史は、かならず、現在の〈あとで〉過去になる。そしてその過去は現在よりも未来にある。このもっとも健全な、しかし不思議な時間概念にもとづくかぎり、われわれより以前には、なにひとつ歴史など存在していない。われわれの現在はつねに新しい。過去に汚染などされていない。ここで、カントのコペルニクス的転回は、さらに一段上の転回を遂げる。というのも、認識に対象が従属するか否かとは関係なく、われわれのうちに痕跡を残す対象そのものが、そもそも存在していないからである。すでに消え去っているかぎり、〈すべては仮象である〉。したがって、カントのいうような現象は、じつは、痕跡（灰）が傷（炎）を追い越すと考えるかぎりでしか発生しない。そして、同じものの反復を、すなわちrepresentationを可能にするのが、痕跡であり、文字であり、この痕跡に依存するかぎりでしか、カントのコペルニクス的転回は正当性をもたない。</p>
<p>ベンヤミンの固有の歴史哲学は、ニーチェとともに、ここにおいて始まる。《模倣》から《複製》へ、《想起》から《再現》へ。アウラ（一回性）を喪失させる主題の変動のなかで、アウラ同様に失われたかにみえる《忘却》は、どう転んでも結局は奪回されなければならない。だが、それはどのようにして？　歴史病に犯されたわれわれには、もはや超越論などと悠長なことをいっていることはできない。歴史は、実際にわれわれを超越しているからだ。歴史そのものが超越〈論〉的な仮象、理念だとするなら、われわれが健全にも歴史を追い越すためには、もっとシンプルな《超越》が必要なのである（ラッセルの健康さが指摘するように、嘘つきのパラドックスに直面して逃げ場のない懐疑に陥ったなら、そこにレベル（階型理論）を導入するのがもっとも簡単な脱出方法である――ゲーデルにしたがうかぎり、内在的な乗り越え（＝超越論）の不可能は証明されている）。したがって、問題は、いかなる超越を選ぶのか、である。すなわち、他の屈強な身体にそれを求めるファシズムか、それとも、外といっても自身の弱い肉体にそれを求める超人か……。</p>
<p>ひとは、歴史から逃れるために、別種の歴史を必要としている。ベンヤミンのいう歴史は、あらゆる意味で過去の破壊であり、むしろ自然のままに跡形もなく消滅させることを欲している。消え去る時間のなかで一瞬だけ輝く星座を実現すること。ショーレムの『天使の挨拶』からの引用が示しているとおり、この新しい歴史において、「いまここ」の幸福など無縁である。</p>
<p><a name="n01"></a></p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01">(1)</a> プラトンの書物の重要性は、概念そのものではない。概念が繰り広げるドラマ（ここでは、イデアという概念がもつ忘却と記憶の運動）をしっかりと見定めることである。そうでなくては、プラトンがわざわざ対話編のスタイルでソクラテスを表現した意味がなくなってしまう。</li>
<li class="note"><a name="n02" href="#p02">(2)</a> 近代において、同じものを再現する記憶力と、オリジナルなものに差異を付け加える想像力とが分割される。その副次的な結果を述べると、芸術が《学》から分離する。というのも、かつてはムーサの女神のうちで一体であった記憶力と想像力とが、分割されるからである。フーコーが論じたように、知でもありえた狂気をこの《学》は病に代えたが、《学》から分離されたおかげで、芸術は、狂気としての知を保持することができた。しかし、もっぱら想像力・忘却の側に属する芸術は、同時に権力を失う。芸術が被っている二一世紀の惨状をみるかぎり、もとより忘却の側に属している芸術が必要としているのは、新たな想像力などではなしに、記憶力を回復することである。</li>
<li class="note"><a name="n03" href="#p03">(3)</a> このところ、「感性と悟性とは、想像力によってしか総合されない」、というような意見を耳にするが、カントの議論に従うかぎり、総合は、悟性のアプリオリであるカテゴリー（記憶）において行なわれ、想像力はカテゴリー（記憶力）に従属しているように思われる。それをあえて感性の側からの想像力に限定してこれを国民国家に結びつける議論が意図しているのは、想像力をその中心的な手段とする芸術、とりわけ文学を批判の標的にすることなのだろう。だが、ナショナリズムを供給しているのが、文学より歴史に見える点を、この議論はどう説明するつもりなのだろうか？　訳語の問題もあるため、あまり込み入った議論をするつもりはないしカントの解釈学にかかわるつもりもないが、しかし、この点は文学が標的になっている点で見過ごすことがむずかしい。もともと、カントにおいても、ヒュームを受けついで、感覚はひとによってさまざまに異なるものとみなされている。だからこそ、デカルト以来、表象とロゴスの差異が問題にされたのである。それを統一するのは、諸々の外部表象の場合は、悟性のカテゴリーであり、自己の場合は理性における超越論的統覚である。ひょっとしたら、「共通感官」という語に囚われてしまったのかもしれないが、この感官はもっぱら悟性に存する。総合は、やはり、対象や感覚ではなく（それゆえ想像力ではなく）、認識に従属する形で行なわれる。つまり、総合とは、つねに‐すでに認識cognitioなのである。「共通感官」という表現は、複数の人間を問題にしたときに可能となる一種の比喩であって、これが文字通り感覚に備わっているなら、わざわざ悟性を論じる必要はないし、第三批判も無用のものとなる。デカルトの懐疑は無駄骨であり、コペルニクス的転回もなかったことにさえなる。</li>
</ul>
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		<title>彼岸の快感原則（フロイトに寄せて）</title>
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		<pubDate>Wed, 09 Dec 2009 15:55:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<category><![CDATA[Eros and Thanatos]]></category>
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		<description><![CDATA[フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」＝感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」＝感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そこでは、時間は、蓄積された記憶痕跡（時間性を欠いた）と時間とともに消え去る感覚（傷）との対立的な（質的な）差異として捉えられる。そこにあるのはクロノスの時間である。未来から現在に到来し、現在から過去へと消え去る時間イメージは、広大無辺の無意識の領域に蓄えられてゆく。それもすべてが蓄えられていく。こうして蓄積された原時間とでもいうべき記憶痕跡は、「想起」（再現）によって、定期的に（事後的に）時間的な秩序、すなわち《過去》を与えられる。</p>
<p>この想起に失敗し、反復強迫を促す場合もある。過去が現在にあわれること、それは病である。ここから生の欲動（エロス）と死の欲動（タナトス）という二元論が推定される。エロスにもとづく有機体と、タナトスにもとづく無機物の対立過程として、生命体は把握される。したがって、これは歴史のモデルでもある。われわれは、テクストに蓄積された記憶痕跡をできるかぎりすべて、しかも完全な形で保存しようとするだろう。この無時間的な世界に蓄積された書庫をひっくりかえし、過去を再現representすることで秩序を与えるのが、歴史家の役目である。フロイトの精神分析は、原理的には人類に対して歴史家の行なう仕事と同じである。また、言葉は、内部に蓄えられた意味と外部表象の結合体として理解される。言葉に隠された意味を解釈し、意識化することが、歴史家＝精神分析家の仕事である。この歴史家は、忘却を否定する。というより、忘却は存在できない。忘却はあくまで一時的なもので、記憶と想起を橋渡す媒介であるにすぎない。彼らは忘却という言葉を好まない。むしろ、それを精神と呼ぶことを好む。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>フロイトの勇気ある探究に敬意を払い、それをさらに推し進めてみよう。とはいえ、無機物と己を分かつ有機体の古いイメージに囚われた小胞イメージは採用しない。われわれは、彼と異なり、一種の筒や管、漏斗のようなものを考える（わたしはここでロバチェフスキーのことを考えている）。あらゆる物体がそこを遅延しつつ通り抜けるのだ（この場合、外から自分に向かって飛んでくる刺激を選別することは不可能である）。したがって、そこを通過する物体を遅延させることはあるとしても、通常は蓄積されない。逆に、漏斗を通り抜ける物体がうまく排出されない場合もある。われわれは、それが無意識を構成すると考えるが、いずれにしても、それらの物質は、なんらかの形で変容を被りつつも、最後には排出されざるをえない。時間は、この物体が被った遅延によって構成される。小胞イメージのように、動いているものと動かないものの対立的な差異が時間をもたらすのではない。むしろ、漏斗を通り抜ける物体と外部の物体の速度の（量的な）差異、というか差分商として時間は理解される。そして、有機体と無機物の差異もまた、この速度の差異によって理解される。無機物は止まっているのではない。われわれが有機体とみなしているものの速度に対して、無機物それ自体があまりに早い速度をもっているため、止まっているように見えるだけである（われわれはわれわれと同じような速度をもっているものほど、それを有機体とみなしている）。</p>
<p>ここでの時間は、アイオーンの時間となる。われわれの中を物体が通り過ぎているとき、それが現在をなす。というより、漏斗としてのわれわれの存在そのものが、現在である（ハイデガーの現存在を意味すると考えて差し支えない）。これからそこをいままさに通過しようとする物体は現在についての現在であり、そこを通過している物体は過去についての現在である。そしてまさにそこを通り過ぎようとする物体が未来についての現在である。そして、未だそこを通り過ぎてもいない物体は真の未来をなし、もうそこを通り過ぎてしまった物体は真の過去をなす。それらはわれわれの外にあって、認識不能である（それらがそれとして認識不能なことは重要ではない）。このことからするに、知覚‐認識システムとは、ミクロ化された物体の摂取と排泄のプロセスを指す。高次の現在において、時間は現在から過去へ、過去から未来へと流れる。漏斗上では、「事後性」や「アプリオリ」のようなトリッキーな概念は必要がなくなる。事実上、過去は現在の後に訪れる。ここに、生の欲動と死の欲動の質的な対立は存在しない。生の欲動とは、遅延した死の欲動であり、要するに生は死の遅延や迂回である。いかにして遅延を実現するか、という生にまつわる問いは、死となんら矛盾しない。漏斗であるわれわれのなかで、死に向かう直線は曲がっている。この屈曲が生である。</p>
<p>そしてイデアとは、この漏斗そのもの、すなわち高次の現在を指す（だから超越論的統覚は必要ない、イデアで十分である）。物体が漏斗としてのわれわれを通りぬけるとき、物体は変容をこうむりつつも、この物体の形に応じて、われわれの漏斗そのものも変化する。たとえば四角いものが漏斗を通れば、漏斗は四角くなる。丸いものが通れば、丸くなる。《イデアとしての蝋》がまだ柔らかければ、そこに流し込まれた液体の熱が、蝋の形自体を変えてしまうことは、よくあることだ。しかしわれわれは硬い蝋を実現すべきである。液体はいずれ流れ去る。ただし、入ってきたときとは、別のものになっている。これをわれわれは想起と呼び、そして同時に忘却と呼ぶ。</p>
<p>いたるところで水漏れを起こしている漏斗としてのわれわれは、いわば空虚（ケノン）を内側にもった物体である。この空虚は、世界とつながっている。よって世界そのもののことである。われわれはこのようにして空間と物質を同時に実現している。この空間を通りぬけるのが時間であり、したがってわれわれは空間と時間とを内部に実現する肉である。この漏斗イメージは未来の歴史家／人文学者のイメージでもある。この歴史家は、忘却を肯定するだろうし、プラトンのイデアシステム（記憶‐想起システム）を、忘却にもとづく差分（シムラクラ）の発生装置として理解する（ソクラテスは文字とは忘却装置だと言っていた）。そして、《精神とは、この忘却のことだ》と指摘するだろう。現にわたしはそうしているし、あなたもそうしているのである。よく忘れるひとだけが、よく想い出すことができる……。</p>
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		<title>模倣か虚構か</title>
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		<pubDate>Wed, 24 Dec 2008 14:52:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Aristoteles]]></category>
		<category><![CDATA[lie and fiction]]></category>
		<category><![CDATA[mimesis or mimesis of mimesis]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>

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		<description><![CDATA[芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣？　それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること？ どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわってい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣？　それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること？</p>
<p>どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわっているかぎり、よい芸術はなかなか生まれてこない。</p>
<p>芸術における真のリアリティとは、結局、自然との差異において現れるものである。逆に言えば、本物とまったく同じものを作りあげることが、芸術なのではない。その観点からすると、模倣論よりも虚構論の方が、芸術にふさわしいものに思えてくる。だが、後述するように、結局は、虚構論も問題にならないだろう。虚構論は、当然、その一方にそれと対立する真理の世界を想定せざるをえない。だとすると、われわれの知りうる世界そのものが、ヘーゲル的な弁証法を前提しないかぎり、まったくの虚構であり、そこでは、芸術とその他の営みとを区別することが不可能になる。われわれの営み、それが人間的な営為であるかぎり、虚構であるとするなら、虚構論を、芸術論に限定する理由はどこにもない。それでは芸術論としては無意味であろう。</p>
<p>視点をすこし変えて、もう一度説明しよう。われわれの認識する世界が虚構かもしれない、というのは誰しもが考えることだ。だからひとは知りもしない《物自体》を仮構して当座の満足を得る。それは、われわれの知りえない起源＝自然を仮構する、ということでもある。こうした観点からすると、虚構論に食指が動くのはもっともである。</p>
<p>しかし、本来、われわれが仮構する物自体もまた、われわれが便宜上、適当に生み出したものにすぎない以上、認識と物自体とは、対立すると言っても、たんにひとの精神の上で並列されるふたつのよく似た経験というほかない。対立するとしても、結局は、精神の上で起こる一連の経験なのである。したがって、人間が認識できる世界にかぎったとしても、その世界が完全無欠の虚構であるとすれば、虚構論といっても、それは、虚構としての表象の上に、さらなる虚構としての表象を重ね合わせることにすぎないし、また逆に、模倣論といっても、それは、模倣としての表象に模倣としての表象を重ねることでしかなくなってしまう。いずれにせよ、実体が必要ない以上、そもそも模倣も虚構もないのである。</p>
<p>こうなると、模倣論とか虚構論とか言っても、無意味である。むしろ、芸術の欲望が《次》の表象を求めるという、当のそのことにおいて、芸術は判断されるべきである。すなわち、この芸術は、いったい何を生み出そうとしているのか。どのような表象を意志しているのか。</p>
<p>子供はそのことをよく知っている。美術館に飾ってある優れた絵画をみて、彼は、「本物みたいだ」と感じる。いまにも、絵画から、美しい女性が飛び出してくるのではないか、そんな風にどきどきする。そこで、野暮な大人がこう言ったとする。「たしかに、本物みたいだねえ（あれは、絵なんだよ。作り物なんだよ）」。だが、《子供はそんなことはとっくの昔に承知しているのだ》。真理の直前で立ち止まる絵画が、まさに直前に立っているからこそ、彼は絵画を真理だと感じているのである。「本物《である》かのようだ」ではない。「本物《になる》かもしれない」なのだ。かの子供は、この二つの文章の違いを、明敏に感じ取っている。</p>
<p>その点でいうなら、アニメやマンガの絵に性的な欲望を掻き立てられる、というのは、別に不思議なことでもなんでもない。それらはおそらく、本当の人間よりも、人間《になる》ことを欲望しているからだ。それらは、芸術の出発点でさえありうる。ただし、虚構という言い方で、それらがもっている現実との接点を切り離してしまうなら、なんの意味もなくなってしまう。虚構論は、人間になろうとする欲望を断ち切り、暗に《なれない》と言う。そのことによって、ついにそれらは本来もっている力を失ってしまう。</p>
<p>わたしは、芸術について述べた。この話の恐るべき点は、じつは、歴史にも当てはまってしまうことである。カントが言うように、われわれのあずかり知らない物自体を認めるとしても、その一方にある人間的な世界のすべてが認識論上の虚構なのだとすれば、歴史とは、とどのつまり、虚構ではないか。そうした恐るべき問いが立てられてしまう。要するに、カント＝ゲーデル風にいうなら、われわれは、嘘と本当とを、ついに区別できないのである。</p>
<p>区別できない、とは、一体どういうことか。見方を変えれば、文学と歴史とが、区別できないということである。虚構と真理とを裁断する規準を、われわれは持ち得ないのだ（この時点で、じつは、上記の虚構論は可能性を失う。一見すればかぎりなく芸術にふさわしい虚構論は、その意義を失ってしまう。同じものを再現しようとするものであるかぎり、模倣論に満足することはできないとしても、模倣という語が、実体の力を借りつつも、それ自体で価値をもつかぎり、模倣論にはまだ可能性がある）。</p>
<p>歴史と文学とを区別するのが無意味となるような空間、ここにおいて、はじめて文学は、そして芸術は真に駆動しはじめる。そうした芸術は、同時に、政治的な行為を促す革命論でもあるはずである。虚構論が跋扈する今日、われわれは、まだスタートラインにさえ立っていない。芸術も革命も、まだまだ遠い。……</p>
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		<title>プラトニズムを追求すれば、ひとは外へ出てしまう</title>
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		<pubDate>Thu, 21 Aug 2008 13:13:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Critique of Phonocentrism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Homeros]]></category>
		<category><![CDATA[narrative]]></category>
		<category><![CDATA[naturalism/Zo-ka]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
		<category><![CDATA[実態]]></category>

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		<description><![CDATA[いつしか、わたしは不思議な感覚に囚われるようになった。それは、歴史よりも、文学のほうが、大きな概念なのではないか、ということだ。なぜ、ホメロスは、歴史家ではなく、文学者と呼ばれるのだろうか。『イリアス』は、なぜ、歴史書で [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>いつしか、わたしは不思議な感覚に囚われるようになった。それは、歴史よりも、文学のほうが、大きな概念なのではないか、ということだ。なぜ、ホメロスは、歴史家ではなく、文学者と呼ばれるのだろうか。『イリアス』は、なぜ、歴史書ではなく、文学なのだろうか。また、歴史家と呼ばれるヘロドトスやトゥキュディデスは、ドキュメンタリー作家と同じことをやったと考えてよいのだが、だとするなら、史料＝テクストから《実態》を構成しようとする近代の歴史家とも同じことをやったと考えてよいのだろうか。</p>
<p>われわれは、歴史や文学を、十把一絡げに《物語》と呼ぶことがある。だが、歴史と文学は、まったく異なる概念である。それは、一方が事実を、他方が虚構を扱うからではない。むしろ、そのちがいは、両者が生成される瞬間にある。一方の歴史は――とりわけ近代の歴史学は、一般的には、残されたテクストから、《実態》を生成させようとするものである。逆に文学は、一般的にいって、出来事を言葉に封じ込めようとするものである。つまり、端的に、逆の運動である。かつてジャック・デリダがいったように、テクストに外部はない。これは正しい。だが、外部を言葉によって表現しようとすることは、まったく別の問題である。問題構成がそもそも異なっている。したがって、「音声中心主義」批判を文学に拡張することは、じつは許されないはずである。自分の声を聞くことが、差異（差延）を実現し、言葉（声）を実現するとして、それが、意味とシニフィアンの（悪）循環を構成する、という理論は、文献学の批判としてはつねに正しい。つまり、文献学的な歴史は、結局は、「音声中心主義」的な閉じた円環がつくる物語に過ぎない、そして言葉は、ついに「比喩」であることを越えることができない。</p>
<p>だが、「物語」と言ってしまった瞬間に、歴史が文学と混同されてしまう。文学は、はじめから「物語」だったからだ。歴史は、期待しているほど真実に似てはいなくて、「物語」にすぎなかった。それを認めるとして、ならばはじめから「物語」だった文学も、同じように真実ではないものとして非難することは許されるのだろうか。もちろん、そうではない。むしろ、デリダの観点を忠実に踏襲するなら、じつは、文学の方が、真実にもっと似てくるはずなのである。なぜなら、文学は、どう考えても、音声を文字に変換する実践的な運動（すなわち言文一致運動）だからだ。端的に、文学の実践は、音声中心主義批判の実践なのである。つまり、デリダがただ理論的に口にしたにすぎない音声中心主義批判を、実際に行なってみせていたのは、しかもデリダが言い出すよりももっとはやくに行なっていたのは、文学なのである。</p>
<p>しかし、多くのデリダ主義者たちは、誤りを犯した。言葉は比喩にすぎない、というデリダのテーゼを、文学にも拡張するという、怠慢をやってのけたのである。それを聞いたら、本当の文学者はきっと腹を抱えて大笑いしたことだろう。「アーハッハッハ、イーヒッヒッヒ……。そりァそうですよ、言葉は比喩に決まってるじゃないですか。なにをそんな大そうに言ってるんです？」</p>
<p>デリダ主義者の批判以後、文学者は、ついに笑い死にしてしまった。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>われわれは、なにはなくとも、自然を目ざす。しかし、歴史の運動は、そうした自然に対する欲望をブロックする。なぜなら、テクストの外部はない――「ない」という言い方がまずければ、《物自体》と言ってもいい――からだ。テクストから出来事＝自然を目ざそうとしても、われわれは、テクストから出ることはできないのだ。テクストの探求は、むしろかえって、自己認識――歴史認識を構成する。学校の教師が教えるような歴史学をひとたび忠実に実践すれば、出会うのは、客観的な真実ではなくて自意識ばかりであり、またそれで正しいのである。歴史学者がいう客観的な事実など、通例の手続きに則ったものというだけにすぎないし、また、歴史学者は、自身の結論が、客観的な事実ではありえないことを、実際には重々承知しているものなのである。実証主義者がいう《実態》とは、結局は歴史認識のことであり、そして、「あなたの言う《実態》とは、歴史認識のことではありませんか」という人間が、思想史家と呼ばれるひとたちである。つまり、よく考えてみると、《実態》と歴史認識は、同じものなのだ。そして、だとするなら、実証主義者と思想史家も、同じ人種でいがみ合っているだけ、ということになる。</p>
<p>ここから、歴史とは、イロニーの運動である、というテーゼが成立する。すなわち、自然を目ざしながらそこを迂回する、否定の運動である。つまり、歴史とは、徹頭徹尾、《批評》的なものなのである。ここでは、どうしても、理論は現実ではない、という考えに食指が動いてしまいがちになる。言葉は現実ではなく、理論も現実ではない、したがって、歴史とは歴史認識のことである……。こうした思考は、ヘーゲルにそっくりである。そして、出口なき道を進みながら、それを自壊させることで脱構築する、という考えも、ヘーゲルにそっくりである（とわたしは思う）。なぜなら、出口なき道を自壊させたあとも、痕跡だけになった道から出ることを、デリダは許していないからだ。そこから出てしまえるのなら、そもそも、出口なき道は自壊してくれるくれない以前に、成立もしない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>文学者はいう。言葉は比喩だとして、ならば、自然はなんなのか、と。人間は、猿にそっくりだ、と文学者はいう。文学者にとって、人間は、猿の比喩なのだ。わたしは何が言いたいのか――要するに、自然は、すべて比喩でできている、ということだ。自然科学者と同じように、文学者もまた、人間が猿の比喩であることを認める。自然そのものが、つねに-すでに、なにものかの比喩なのだ。マルクスが、「人間の解剖は、猿の解剖に役立つ」と言ったとき、これがきわめて優れた文学的な比喩であることを、誰が理解しただろうか。だから、言葉は比喩にすぎない、という指摘をしたって、とりたてて意味がない。自然もなにものかの比喩だからである。マルクスをもじっていえば、文学の探求は、自然の探求に、役立つのである。あるいはこうもいっていい。つねになにものかのイデアを思考し続けるプラトニズム、永久にとどまることのない連鎖をつづける、この《プラトニズムを、本気で追求すれば、ひとは、外に出てしまう。》不思議なことに、プラトニズムは、プレソクラティクスに合流してしまうのだ。</p>
<p>言葉は出来事である、言葉は自然である――嘘でもいいから、そう口にしてみよう。後のことは、わたしが責任をもつ。もはや、こうした思考は、弁証法とも、脱構築とも、まったく関係がない。なぜなら、はじめから、《外》に出ているからである。つまり、《自然》なのだ。だから、ヘーゲルのように、外に出ようとすることは問題ではないし、デリダのように、内側にとどまり続けることも、問題ではない。弁証法や脱構築が、いかに優れた手法であろうと、わたしのいう言葉＝出来事という奇妙な思考は、それとは無縁なのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>歴史よりも、自然の方が大きな概念である。そして、このテーゼが成立するのなら、同時に、歴史よりも、文学の方が大きな概念である、ということも成立する。歴史＝批評＜自然＝文学、というわけである。</p>
<p>しかし、こんなことをいっても、ひとは信用しないだろう。文学に対する過剰な偏愛だというだろう。そのとおりだ。中上健次は、かつて、折口信夫を「偏愛」していると言った。そのとき、わたしは、彼がわたしと同じ道を歩んでいることを確信したが、たしかに、「偏愛」にはちがいない。だが、そんなことはどうでもいいことだ。わたしは、なによりも、《出来事》になりたいと思っているからだ。それは、歴史に残るということではないし、歴史家になることでもない。たんに、《自然》とひとつでいたいと思っていただけだ。文学のことなど、それほど強く考えていたわけではなかった。ただ、気づけば、こんなところにいた、というだけのことだ。</p>
<p>それにしても、本当に不思議で、奇妙な思考である。文学のほうが、歴史よりも大きな概念なのだ。……</p>
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		<title>言葉という出来事（ラフ）</title>
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		<pubDate>Wed, 07 Nov 2007 01:13:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
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		<description><![CDATA[「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか！」と言ったかと思うと、それで [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか！」と言ったかと思うと、それで目が覚めた。</p>
<p>つい先日のことだが、われながら、じつにくだらない夢をみたと思う。いま時間に追われて書いている文章が、頭から離れないから、こんな夢をみるのだろう。よく寝付けない。パソコンに向かって、毎日キーボードを叩いている。文章を書くたびに、孤独が増していくような、そんな感覚を抱くこともある。どうして、こういう表現しかできないのか。もっとよい表現があるはずだ……。</p>
<p>何度もいうが、こんな夢は、どうだっていいことである。たかだか自意識がこの夢を見せているにすぎないし、こういう夢をみること自体が、非常に自意識的なことだと思う。とにかく、そういう葛藤を振り捨てて、書かなければならない。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>わたしがはじめて歴史に触れたとき――小学校の三年くらいのことだと思うが――、奇妙な昂奮を感じたことを覚えている。歴史は、桃太郎や鶴の恩返しのような、いわゆる「昔話」ではない。本当の話なのだ。子供は、ほとんど生まれてすぐに、言葉を括弧に入れることを教えられる。つまり、親から、物語を聞かされる。もちろん子供のわたしは昂奮するが、それは本当の出来事ではなく、すぐに、それが架空の物語であることを学ぶだろう。サンタクロースはいない。仮面ライダーもいない。ガンダムもいない。しかし、歴史にかんしては、大人はこういったのだ――それは、本当の出来事だよ、と。祖父の祖父の祖父の…そのまた祖父の時代に本当に起こった出来事。カエサルは本当にいたし、ナポレオンも、豊臣秀吉も、本当にいた。あのホメロスの『イリアス』でさえ、じつは、《本当の出来事》だったのだ。わたしははじめて、括弧に入れないで言葉を使用することがありうるのだということを、知った。歴史という剥き出しの言葉――わたしにとっては、それ自体が、出来事だった。本棚にしまわれた無数の物語のなかで、歴史の本は、燦然と光り輝いてみえた。</p>
<p>わたしは読書が嫌いで、家でも一番本を読まない人間だった。が、中学のときに、読書を強制されて、それなら、と手にとったのが、数多い小説ではなくて、『旧約聖書』であり、すぐに挫折したが、そのあとで、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読んだ。親に聞くと、やはり、それは本当の出来事だと言った。そしてわたしは、再び昂奮した。それからエドガー・アラン・ポーを読むようになり、小説にも、なにがしかの真実が書かれていることを知った。マリー・ロジェの謎に昂奮した。メエル・シュトレエムに飲まれてにも昂奮した。振り子と陥穽や黄金虫にも昂奮した。それから森&#40407;外を読んだ。家に全集があって、全部読んだが、これには昂奮できず、ただ惰性で読んだ。そこでわたしの読書熱は冷め、わたしはもっぱら音楽を聴くようになった。ニーチェやプラトンは読んだが、それ以外は、ほとんど音楽を聴いて過ごすようになった。受験勉強などほとんどしなかった。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>大学に入り、歴史学を専攻した。音大を薦められたこともあったが、歴史学を選んだ。おそらく、子供のころに感じた《本当の出来事》に対する昂奮を、身体のどこかが覚えていたのだろう。それに、言葉に対する未練があったのかもしれない。もちろん、その選択は、歴史学がどういうものなのか、なにも知らない、幼稚臭い選択だったといえる。わたしは本当に幼かった。ただ漠然と、歴史学を選び、そして歴史学の現状に、いっぱしに絶望していたように思う。実証主義は、小説とは距離をとろうとするし、だから、科学的であろうとする。だから実証主義は、「実態」をあつかう。「実態」とはなにか――それは、たとえば、こういうことだ。外務大臣が、他国とある条約を結ぶ。これが「実態」である。ある戦争で、戦車が何台破壊された。これが「実態」である。しかじかの制度は、しかじかの官職は、いついつに、だれかれを支配するためにつくられた。これが「実態」である。</p>
<p>子供なら、《本物のような絵》には、誰でも昂奮する。もしかしたら、これは本物かもしれない、と思うからだ。これって、本物じゃない？　何度も見返す。本物かな？　美術館にあるけれど、なんだかこれだけ本物みたいだ。もちろん、すぐに、それは絵であり、そうした感情を括弧に入れることを学ぶ。だが、しかし、その絵を描いた画家は、見る人に、そんな昂奮を喚起させたいから、そういう風に描くのだ。もしわたしがその画家なら、「これは絵ですよ」と教える親を憎むだろう。そんなことは、子供は、とっくの昔に知っている。これはもちろん、絵だ。だが、にもかかわらず、子供はそれを本物だと思うのだ。もっと複雑な動揺を覚えているのだ。しかし、大人は、「これは絵ですよ」という回答で、子供を無理やり安心させてしまう。</p>
<p>それに、サイコロを、本物のように描くのは簡単である。だが、木や森や、そして動物や人は、そうはいかないだろう。目を鍛え、腕を鍛えなければならない。歴史も、これと同じである。簡単だからといって、サイコロだけを描けばいいというわけにはいかない。だが、歴史学者は、サイコロだけを描いているのだった。なぜか――それが「実態」だからだ。</p>
<p>歴史もまた、物語である、という言葉に、青臭いわたしは、自分の絶望を肯定された気がして、素直に聞いた。歴史には、「人間」が書かれていない。そのとおりである。人間はもっと内面的で、意識的で、苦悩していて、すべてを面には表さない。言葉は自意識の産物で、現実ではないし、だから歴史もまた《本当の出来事》ではない。言葉は、やはり、全面的に括弧に入れるべきなのだ。できるとすれば、せいぜい、思想史だけだ。実証主義の標榜する客観性よりも、構成主義の主張する統制された主観性を。……</p>
<p>それで、思想史を研究するようになった。当時はそれで納得していた気になっていたが、やはり、それは欺瞞だったように思う。《出来事》は、いったい、どこにあるのか。実証主義があつかう「実態」でもないし、思想史があつかう「思想」でもない。おそらく、《出来事》は、そのあいだにある。剥き出しの言葉、言葉がそのまま、出来事であるような、そんな言葉が、絶対にどこかにある。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>子供は、今日あったことを、ひとに伝えたいと思う。今日、こんなことがあったよ、あんなことがあったよ。それでね……。それは、《出来事》である。「実態」でもないし、「思想」でもない。徹頭徹尾、それは《出来事》でなければならない。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>柄谷行人はこういっている。</p>
<blockquote><p>
漱石は『文学論』の中で、こういう例を挙げています。シェークスピアの『オセロ』という劇で、有名な悪役のイアーゴーという人物が出てきますが、怒った観客が俳優を射殺した事件があったそうです。その観客は、それが演劇であることをわきまえていなかった。しかし、それが芝居であることをわきまえるには、なかなかの文化的訓練がいるのです。その証拠に、今でも、テレビの俳優などを、彼らが演じた役の通りの人物だと思いこむ人たちが大勢います。犯罪者をヒーローにするのは怪しからんという人は今でもいますし、また、事実、映画や小説の真似をしたりする人もいるわけです。漱石は、さらに、裸体画を例にあげています。裸体画を、性的な関心を括弧に入れて見ることは、当初は難しかった。漱石自身もかなりショックを受けたのではないか、と思います。<br />
くりかえすと、カントは、美的判断を、関心を括弧に入れることにおきました。ある物が芸術であるか否かは、それについての諸関心を括弧に入れることによってのみ決められる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がありません。それに対する通常の諸関心を括弧に入れて見るということ、そのような「態度変更」が或る物を芸術たらしめるのです。『倫理２１』平凡社、２０００年、６６‐７ページ。
</p></blockquote>
<p>一体、彼は何を言っているのだろうか。わたしには、言っていることがまったくわからない。いや、かつては、わかった、というか、わかった気になっていた。かつて――というのは、思想史に可能性をみていた頃のことだ。物自体‐認識、という対のなかで、ひとが意識的に行なうことは、すべて認識の範疇に収まってしまう。物自体とは区別された、認識の内部で、対象に応じて、態度を変更することが重要である。</p>
<p>わたしは笑ってしまう。柄谷行人を批判することは、かつてのわたしを批判することだ。わたしはいう、否、だ。それはちがう。射殺された俳優は、人間としては不本意だろうが、芸術家であるかぎり、むしろ本望であるはずだ。芸術は、ずっと、入れたりはずしたりできるような、そんな忌々しい括弧を放擲したいと考えているのだ。ひとびとの認識を越え出ることを欲望している。美は認識の側にあるのではない。美は、それ自体が、存在なのだ。カンヴァスを出なければならない。舞台から出なければならない。今日起こったことをひとに伝えようとしている子供は、それが、本当に起こった出来事だと思って欲しいから、喋っているのだ。今日ね、学校でね……。芸術作品が可能になるのは、そうした括弧を放擲するからこそ、可能なのである。裸体画に、性的欲望を掻き立てられる、それで正しいのだ。エロティックなものをいかに括弧に入れたところで、それではいつまでたっても芸術作品は可能にならない。プラトンは、なぜ、エロスを完全に肯定したのか。エロスは、どのような場所であろうと、完全に肯定されねばならない。そこにしか、知はないし、美もないのだ。</p>
<p>彼はまた漱石の言葉を引きつつ、こうも言っている。「しかし、「有りの儘に隠しもせず漏らしもせず描く」ことは、実は不可能です。漱石がその可能性を「小説」すなわち虚構に見出しているのは、そのためなのです」（同書８０ページ）。</p>
<p>ちがう。「有りの儘に隠しもせず漏らしもせず描く」ということは、そもそも必要がないし、どうでもいいことである。わたしが歴史学をやっているのは、そうした括弧をすべて放り投げしまう可能性を追求したいからである。これは《本当の出来事》だ、というただそれだけを言うために、わたしは歴史をやっている。所詮言葉なのだから、本当の出来事とは違うでしょ、という愚かで自意識的な大人がかぶせる括弧を、言葉から取り外したいのである。それは、小説であろうと、同じことである。小説は虚構だから可能性があるのではない。小説は、そして芸術は、真実を描こうとするからこそ、可能性があるのだ。</p>
<p>自意識の球体を破砕せよ、といった小林秀雄は正しい。花の美しさなどない、美しい花があるだけだといった小林は正しい。美は、そして言葉は、認識の側にではなく、自然の側に属している。けっして、日本の文学は、内面的でもないし、国民国家など作ってもいない。そういう勢力があったことはたしかだとしても。戦前の文学は、たしかにすばらしかった。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>フーコーは、そうした言葉の可能性を追求した、数少ない歴史家である（わたしを正しい道に引き戻してくれたのは、ニーチェとフーコーとドゥルーズである）。そうした言葉を、彼は、「言説」といい、もっと厳密化して、「言表」といった。彼は、ディスクールの概念を用いて、ベラスケスを絶賛した。彼の絵画は、カンヴァスをはみ出し、真実の方へと、足を踏み出しているのだ。彼は、カントが――というよりはカント主義者がのちに作り上げることになる馬鹿げた境界線を、露骨にも踏み越えたのだ。だが、どういうわけか、それをひとは、ベラスケス批判だと受け取ったようである。言葉が透明になるというフーコーの表現を、いちいち誤解して、言葉を物に付せられた一種のヴェールだと受け取ってしまったようである。美術批評を否定的判断と心得る日本の知的文脈が、フーコーの絶賛に否定的な響きを加えてしまったのかもしれない。透明な言葉、とは、言葉がそのまま出来事であるような、そうした言葉のことである。そこでは、言葉と出来事とのあいだに、境界線はなくなってしまう。言葉は、それ自体が、意識を飛び出して、《もの》の側に属するようになるのだ。「言説」という語の《意味》を、本当に理解している人は、おそらくほとんどいない。かなりのひとが、どうやら誤解していると思う。ディスクールは、批判の道具ではない。むしろ、徹底的に、ポジティヴである。ディスクールなしには、歴史は不可能である。フーコーは、古典主義時代を、そして自分が所属している以外のあらゆる時代を絶賛したのだ。</p>
<p>カンヴァスを出なければならない。舞台から出なければならない。言葉を意識の檻から脱獄させねばならない。言葉は比ゆではない。言葉は虚構ではない。言葉は、本質的に、自然の側に属している。なぜなら、それは、世界そのものが、カンヴァスであり、劇場だからである。カントのように、カンヴァスとその外とのあいだに境界を設けることでもなく、ヘーゲルのように、その境界の内と外を統合してすべてを精神の世界にしてしまうことでもなく、デリダのように、内と外との境界を受け容れたうえで脱構築することでもない。《すべては、外なのである》。カンヴァスや舞台でさえ、そして言葉や精神でさえ、《外》なのであり、だから逆にいえば、すべてはカンヴァスであり劇場なのである。（精神でさえ、自然なのだ。内という外があり、また外という外がある。過去とは、過去についての現在であり、現在とは、現在についての現在であり、未来とは、未来についての現在である。）だから、生そのものが、美学的でなければならない。そこにしか、出来事はないのである。</p>
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