<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?>
<rss version="2.0"
	xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/"
	xmlns:wfw="http://wellformedweb.org/CommentAPI/"
	xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"
	xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"
	xmlns:sy="http://purl.org/rss/1.0/modules/syndication/"
	xmlns:slash="http://purl.org/rss/1.0/modules/slash/"
	>

<channel>
	<title>ex-signe &#187; Nietzsche</title>
	<atom:link href="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/tag/nietzsche/feed" rel="self" type="application/rss+xml" />
	<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka</link>
	<description>kio tanaka's website</description>
	<lastBuildDate>Sat, 17 Dec 2011 15:59:02 +0000</lastBuildDate>
	<language>ja</language>
	<sy:updatePeriod>hourly</sy:updatePeriod>
	<sy:updateFrequency>1</sy:updateFrequency>
	<generator>http://wordpress.org/?v=3.3</generator>
		<item>
		<title>正義と文学、高さをいかに実現するか</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2500.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2500.html#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 27 Jan 2011 12:53:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Anarchism]]></category>
		<category><![CDATA[Foucault]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2500</guid>
		<description><![CDATA[アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない（作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない（作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せている）。マルクス主義にせよ、ポストモダニズムにせよ、（新）自由主義に対抗するフラットネスに可能性を見出す議論に比べると、アナーキズムには「高さ」の概念が目につくのだろう。</p>
<p>しかし、「高さ」の概念を解消するフラットネスだけでは、どうしても有機体の概念に引き寄せられてしまう。完全に上下関係を欠いた状態でなんらかの秩序を実現しようと思えば、なにか別の要素を付け加えざるをえないからである。有機体（あるいは弁証法）は、絶対主義的な国家とは異なる《自然な（科学的な）秩序》を社会に導入しようとする際に持ち出される。その有機体や弁証法に対して、アナーキストは否定的である。有機体というよりは、個人のなかに不均質な「高さ」を認める（たとえば「戴冠せるアナーキスト」）ことで、それに変えようとする。アナーキストが導入する「高さ」の概念は、有機体なしに済ませるためのひとつの条件である。この「高さ」が、ひとによっては保守的に見えてしまうのだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>平面的なデータの集積である実証主義（科学）を担保しつつ、そこに擬似的な高さを与えようとしたのがカントである。神の喪失。それは、まさにフラットネスの到来である。逆説的にも、それは今日、さまざまな形で持ち出されるフラットネスよりはるかに深刻だったはずだ。それに対してカントがひねり出した結論は、《超越論》である。彼はあるかなきかの精神を宙づりにすることで、それに答えようとするだろう。</p>
<p>暗にフラットネスを認める《超越論》と比較すると、《崇高》は、そのはるか上空にある。それは、観念的理想的にもたらされたフラットネスを打ち破る《もの》の高みだからである。本来なら、カントの試みは逆転せざるをえなかったはずだ。データを集積する実証主義とそれに価値を与える超越論は、ここで何らかの形で塗りかえられざるを得なかったはずだ。</p>
<p>ニーチェの世界は、はじめからここにある。したがって、彼は、一度「没落」せねばならなかった。高みから降りるところから、ストーリーは始まる（そして彼はストーリーの要所要所に垂直の運動を配置することを忘れない）。この観点からいうと、昨今喧しい議論のどこが新しいのか、面白いのか、よくわからない、というのが率直な感想である。二十世紀末以降のフラットネスと質は異なるとはいえ、その衝撃からいえば匹敵するかそれ以上のフラットネスを、十九世紀の社会はすでに経験している。実証主義という用語がナイーヴな「データベース」という用語に変わった以外は、とりたてて新しい事件だとはいえない。もちろん、部分的には面白い議論もみられる。だが、なぜそのゴージャスな議論をそんなところで拙速に使ってしまうのか、という感が否めない。エウリポスの激流をさらに混ぜ返す無意味を、そこに付け加えることにしかならないのは明白ではないか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>実証主義が集積する個々のデータには、実際には均一でない高さが内包されている。これが主体と呼ばれるものの実質である。この高さをデータから切り離し、統計的に平均処理したものが国家と呼ばれる。差異を統計的に平均化（フラットに）する手法を学んだ近代国家は、ある程度の逸脱ならば、むしろ自覚的に遊ばせておくことを選ぶ。健全な状態では、（国民）国家はむしろそれによって力を増す。これを自由主義という。</p>
<p>ある程度まで「高さ」を許容するこうした主張を貫き通せるのは、一部の覇権国家のみである。というのも、この議論は、暗に無限の富が世界市場にあることを前提しているからであり、ここで行われる平均処理は、個々の主体が資本主義市場のサイクルに完全に従う賃金労働者であることを前提しているからである。実際には、世界の富が無限などということはありえないし、たとえば失業者がそうであるように、すべての人間が資本主義市場のサイクルに従属的であるともかぎらない。したがって、こうした自由主義を十分に実現できるのは同じ時点で最強の覇権国家だけである。この国家は、他国に対し、まずは資本主義を受け容れさせる。そしてさらにはおのれの無制限な自由を認めさせる。それによって国家の平均的膨張を実現しようとする。</p>
<p>絶対的高みからひとの低きに向かってなされる神の「恩寵」から、フラットな成員同士の公平な分配という「正義」に問題関心が移行したのが近代である。そういう時代に正義を実現するひとつの方法が、不均一な「高さ」を促しつつ回収し、それを平均化することである。この「正義」は、不思議なことに国家の帝国主義的膨張に結実するのであり、逆からいえば、帝国主義的膨張にはそれなりの「正義」がある。</p>
<p>むろん、別の正義もある。そしてたいていは先の「正義」とこの別の正義のミックスによって政治経済は成立している。すなわち、「高さ」を認めないことだ。こうしたフラットで協同主義的な正義は、十九世紀から存在するが、こうした正義を選択する理由にはさまざまなものがある。ひとつの極はそもそも資本主義体制を受け容れないこと、すなわち「自由な」平均処理を拒絶することであり、もうひとつの極は、覇権国家に圧迫されて平均的膨張を実現するに十分な「高さ」を得られない場合である。</p>
<p>これらの国家では、結果的に逸脱を遊ばせる余裕がなくなり、まもなく差異の統計的平均値は下がっていく。ここで市民の側が国家の弱体化を望みフラット化を選んでも、国家として衰微することはあっても、実際に滅亡したりはしない。むしろ「高さ」を吸収した国家権力だけは肥大化し、死に臨むことになるのはたんに低い位置で均衡している市民である、という結果に陥る（ロールズやサンデルたちの議論は、基本的にこの二つの正義のあいだの弁証法でしかない）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>本質的かつ現実的には、国家は最初の「正義」以外に選択肢がない。つまり共同体成員にある程度の自由を認めつつ全体として（つまり統計的平均としては）膨張しつつ公平を実現する、という選択肢しかない。後者の「正義」はあくまで、失業者の増加のように、平均値の弾力に影響を与える場合にだけ適用される。</p>
<p>このことから逆にいうと、国家が自由を認めるのは、ひとがその本質を平均処理の網にかけることを認めるかぎりにおいてである。つまり、データから切り離された平均処理可能な高さ以外の高さを、国家は認めない。国家はこうした不均一な高さを力づくで均そうとするだろう。近代国家は本質的に、「正義」（＝公平な分配）に依拠しているからである。したがって社会主義体制だろうと資本主義を受け容れていようと、結局、近代国家というものは、事後的な平均処理によってフラット化できる自由主義以外の自由を認めることができない。こうした高さは、国家にとって、完全な異物となる。すなわち、アナーキストと呼ばれる。</p>
<p>とはいえ、これだけでは、たんに疎外論的な自意識が立ち上がるにすぎない。問題は、この「高さ」をどこで実現せねばならないのか、ということである。わたしの考えでは、この「高さ」を実現するのは、ほかでもない、データや情報である。フラットなデータや情報に「高さ」が加えられること、それはすなわち、データや情報が《言葉》になることを意味している。労働といってもいいとはいえ、とりわけ言葉なのだが、この言葉から取り残された主体は、かならず国家あるいはシニフィアンによって回収され「意味」化されてしまう。疎外論的に自意識を立ち上げたとしても、それを国家は、監獄によってか、病院によってか、生活保護によってか、ナショナリズムによってか、とにかくなんらかの形で主体として回収する。したがって、のたれ死にしたくなければ、もはや道はひとつしかない。言葉に主体を結びつけてしまうことである。平均化可能な高さとしての主体を消し去り、言葉のなかで、純粋な「高さ」に生成することである。こうしてできる「高さ」は意味を構成しない。《出来事》に結実する。労働／言葉に主体をまるごと結びつけることによって、さまざまな「高さ」からなる不均一な平面を作り上げなければならない。それをわたしはスタイルといい、文学と呼ぶ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>それでもフラットに向かう力は圧倒的だろう。瓦礫さえなくなってしまうと、もはや革命に頼るほかなくなってくる。ここで革命の先頭に立つのは、高さを実現しようとする高貴なひとたち、つまりかつて「貴族」であるとか「武士」と呼ばれた人たちである。それが人類の歴史であるように思われる。彼らはふやけた正義を棚上げにする。高貴な者たちにとって正義とは、おそらく賭けの領域に属する言葉だからだ。そしておのれの言葉に存在ごと賭けてもいいと思える彼らのような人間は、当のおのれが正義であると感じていることだろう。</p>
<p>この観点でいうと、いくら主体から切り離された実証主義的データ（情報）を重ねても当然高さは実現されないし（高さは国家が回収している）、また情報を使用して「消尽」するといっても、その使用がさらなる平均化を促すことはあっても、なくなることはない。</p>
<p>また、実証主義的データを相互に交通させることも高さを実現するうえでは逆効果である。ここでの交通は、むしろ差異を消尽し、平均化を促す方向にしか働かない。むしろ孤独を強めることの方が、高さを実現するうえでははるかに役に立つ。</p>
<p>ありうべき誤解を恐れて付け加えると、低さを実現する、ことも当然ありうる。ニーチェの没落のように。たとえば統計的平均の増大しているあいだ、人びとに望まれるのは、そうした増大を逆の方へと導く独自の低さを実現することである（フーコーならこれを自己の「陶冶」と呼ぶだろう）。わたしが先ほどから疑問視しているのはフラットネスである。一体、なにに対して、なにを基準にフラットといっているのか？　統計的平均というほかないのだが、わたしに合わせてくれる必要はないし、わたしのほうで、あなたに合わせる気もないのだ。</p>
<p>ともあれ、繰り返しておけば、そうした統治構造に対するわれわれに可能な抵抗のひとつは、言葉に主体を重ねること、言葉のなかにおのれの主体を宿すことである。すなわち、言葉をリプレゼンテーションではなく、重み（軽快さ）において使用することである。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2500.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>ニーチェについての断章</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2468.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2468.html#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 24 Nov 2010 07:57:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2468</guid>
		<description><![CDATA[人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称的でない。世界はその根底において、本質的に、決定的に、宿命的に、非対称である。</p>
<p>たとえば過去は、現在と似たなにかに思える。ならば未来もまた、現在と似たなにかだろう。だが、時間のどの瞬間も、かけがえがない。つまり交換不可能ななにものかである。たとえば過去と現在は、お互いの共存を許さぬほど致命的に、非対称である。</p>
<p>ニーチェは考える。われわれは、「高さ」の観念を必要としている。たとえば「高貴」さ。たとえば「崇高」さ。より高くなろうとする意志と、より高いものに打ちのめされようとする意志と。すなわち非対称の意志を。ニーチェには、貴族主義がある。</p>
<p>美しい女にむらがる醜い男どもをみるがいい。年老いた教師にむらがる若い学生たちをみるがいい。ものを売りに来る商人にむらがるもの持たぬ民をみるがいい。われわれは似ているから結びついているのではない。根本的に非対称であるがゆえに、結びついている。おたがいに足りないものを求めて彼らは結びついている。それを「交換」と呼ぶのはあまりに観念的だ。真に交換であるかどうかなど、誰にもわからない。商品交換においてでさえ、結局は、持てる者はますます富み、持たざる者はますます失うではないか。交換というべきではない、われわれはむしろそれを、麗しき協同と呼ぼうではないか。</p>
<p>非対称とは、誤解を恐れずにいえば「個性」である。あるいは「かけがえのなさ」である。交換不可能性である。個性が、人間という名のもとに解消されてしまうものならば（つまり個々人の差異よりも人間の概念のほうが大きい）、人間をさえ超え出ようとする、かけがえのなさである。</p>
<p>思えば人間の歴史は、超越を生み出そうとする意志によって貫かれてきた。たとえば運命を自在に作り出す神々（神話）。たとえば運命を超克する英雄（物語）。たとえば運命に巧みに寄り添う帝王（歴史）。近代は、それを必要としなくなるのだろうか。人類の名のもとに、すべての差異が解消される。それは結構なことだ。だが、たとえば男にとって女とは何だろう？</p>
<p>ニーチェは考える。当然、マルクスに代表される社会主義を、つまり平等を志向する哲学のことを知っている。また同時に、「人類」を頂点とする進化論も知っている。近代以降、神が死に、王が途絶え、人類が人類に優越するものをもたなくなれば、その非対称性は消滅する。</p>
<p>だが、そうはいっても、ニーチェには、近代がとても不十分なものにみえた。神を殺害し、おかげで進化の頂点に君臨した人類は、そうはいいながら、神のかわりに法や国家を、奴隷制のかわりに資本制を推戴している。非対称性を隠蔽する数々の装置を張り巡らせながら、同時に、潜在的な非対称性を本源的に蓄積している。</p>
<p>非対称性を隠蔽する装置はますます巧妙になり、ひとびとのあいだの非対称性を吸収する国家や社会はますます強力になっていく。自由な等価交換の名のもとに、貧しい者はさらに貧しくなり、平等を謳う社会主義の名のもとに、すべての人間が奴隷となる。</p>
<p>かりそめの非対称をもたらすために持ち出したカントの「超越論」が、ニーチェには我慢ならなかった。それは非対称を隠蔽することしか教えない。</p>
<p>近代に超越は必要ないのか。もっと正確にいえば、超越的身体を必要としないのか。人類はいとも簡単に超越を諦め、超越論でだましだましやっていくつもりなのか（人類の平等の名のもとに、ひとはファシストを、独裁者を渇望するのではないのか）。</p>
<p>奴隷の哲学。万人が等しく主体であるためには、すべての差異を回収する装置が必要だ。すなわち国家が、社会が、独裁が……。国家、社会、独裁は対称性を実現する。すべては等しい。しかしそれらの統治の外側には、非対称性がひしめきあっている。この非対称性を隠ぺいし続けることは可能だろうか。可能ではなかろう。</p>
<p>超越が必要というなら、われわれはそれをいかに実現すべきなのか。かつては神がいて、王がいて、そして貴族がいた。奴隷がいて、家畜がいた。われわれは、われわれのそばに、つねにおのれを越える者を有し、またおのれに劣る者を有していた。神が死に、王が息絶えた近代において、優位や劣位はいかにして実現さるべきなのか。</p>
<p>ふたたび神を崇めることによってか。王を戴くことによってか。あるいは奴隷を、あるいは家畜を所有することによってか。自らを弱者と認めることによってか。それとも他者を見下すことによってか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ニーチェは根本的に問題を変えようと思った。人間は、非対称を必要としている。超越論や、等価交換や、社会主義のように、人間の対称性を前提するのはおかしい。すべての人間は異なる。人間とは、交換不能の非対称の螺旋の結果である。</p>
<p>超越「論」が、実際には超越者などいない、すべては等しい、という意味にとれるとしたら、ニーチェはそれを逆転させる。超越の意志をもて、と。その結果が等しいのか、それとも差異をもつのかは重要ではない。</p>
<p>高さの観念なしには、右手はいつまでも右手のまま、左手を知ることはなかろう。右手と左手が対称性を得るのは、それを判断する高さの観念によってこそである。持てる者と持たざる者のやりとりを交換とみなせるのは、そのやりとりを超越する高さによってこそである。</p>
<p>神が死んだ今、もはや古い高さの観念に頼ることはできない。人類を越える存在を、われわれは持たなくなった。われわれは、なにを高さとして受け容れるべきなのか。</p>
<p>誰もが超越の意志を失うならどうか。ひとは根こそぎ衰弱する。衰弱の意志をもつ。こうして対称性は実現する。あらゆるものが対称的である、とは、虚無であろう。すべては等しいとすべては空しい、は同じであろう。あらゆる概念が根拠を喪失する。</p>
<p>われわれは、過去に後戻りできない。過去の非対称に羨望の眼差しをおくっても、われわれはそれを取り戻すことはできない。この非対称は、未来に実現しなければならない。神なしに、王なしに、奴隷なしに、家畜なしに、非対称性を実現する道がひとつある。すなわち、この均質化を進めることだ。</p>
<p>すべてが雑多となり、同じことだが均質化し、さらに同じことだが空虚となっていく。すべてが同じである、つまりすべては空しい。しかしそれは、かえって差異が極限に達することだ。</p>
<p>すべてが等しく、またかつすべてが空しい世界とは、たった一滴の水滴が加わるだけで、決定的な変化がもたらされる寸前の世界であることを意味する。すべてが等しく空しい。この世界にあらわれたもっとも小さな超越の意志は、おのれを概念にまで高めざるをえない。それほどに、ただ一滴の水滴は異質である。</p>
<p>すべてが雑多であり、すべてが均質であり、すべてが等しく、ゆえにすべては空しい。すべてのものを飲み込む沈黙の海、この世界においてただ一滴の水滴であることは、世界を一変させるほどに、美しい。灰色の世界のなかに、雪の純白よりも白い白を、空の青よりももっと深い青を描くに十分である。概念が始まるのだ。</p>
<p>超人とは、いわば、沈黙の海を振り切った、ひとりの子供である。ただ「あ」と声を発するだけの、ひとりの子供。われわれは、超人の親にはなれると、ニーチェは言った。《そのとき》には、徹頭徹尾人間を指し示すだけの「われわれ」の主語は、もはや必要がなくなっているだろうから。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>精神にまで至らぬ肉体のもっとも深いところで、ニーチェを響かせる……。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2468.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>新しい芸術哲学のために（下）　欲望について</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2354.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2354.html#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 27 Aug 2010 15:29:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>
		<category><![CDATA[sublime]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2354</guid>
		<description><![CDATA[対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心をすべて括弧に入れることによってはじめて、美は真の美となる。つまり、美の前でひとは無力であるし、また無力でなければならない。無力ゆえもはや美を感受することさえできず、圧倒的な力や量としてあらわれる自然の前で耐え忍ぶ崇高だけが、ひとの寄る辺である。いまは自然の浸食によって廃墟となった、かつて人が生み出した建築物は、崇高を意味すると同時に「表象不可能性」をも意味している。廃墟とは、表象不可能なもののモニュメントである。ひとはいつも美を掬い損ね瓦礫を掴んでいる。</p>
<p>しかし、「無関心」の態度は、美から人間的なものを取り去り、美を自然のなかに見いだそうとする努力にもみえる。ならばはじめから、美はわれわれの感性にではなく、自然の側にある、と仮定してみよう。というより、自然との「関わり」のなかでしか美は見出されない、と考えてみよう。「関心」は、そこでは、意味を変える。主観と対象のあいだで弁証法的な作用を繰り返すのではなく、ただ「関心」だけが残る。</p>
<p>ニーチェは美は「関心」のなかでしか見いだされないと言った。ハイデガーは、カントの「無関心」を非難したニーチェの「誤解」を指摘したが、「誤解」もまた誤解である。ニーチェの言葉も正解である。やや難解ではあっても、じつはずっと自然な別種の哲学である（たとえば小林秀雄の「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」（「当麻」）という主張は、美を花から抽象するカントの哲学ではなく、美を花という具象の側に置くニーチェの哲学に属する）。</p>
<p>純粋な顔――それは見る者が彼女への関心を括弧に入れなければ現れない。目というカテゴリー、肌というカテゴリー、唇というカテゴリー、その他さまざまなカテゴリーがあって、これが彼女の純粋な顔をみることを妨げている。こうしたものをすべて括弧に入れたときに、はじめて彼女の顔が、すなわち美があらわれる、と『判断力批判』のカントは考えた。だが、ニーチェは別な風に考えたのだ。彼女は私にむかって生き生きとほほ笑んでいる。だからこそ彼女は美しい。美のためには無関心が必要だって？　それでは恋愛に興じる男女が美しいことを説明できないではないか……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>言葉を、しっかりと自然のなかに参与させよう。「美」が自然のなかに存在していることが事実なら、「崇高」もまた、自然のなかに存在しているはずである。美がもたらす精神の《振動》が自然の事実なら、崇高がもたらす精神の《動揺》もまた自然の事実である。そのことはどれくらい確証があるだろうか。にわかには読者には信じがたいかもしれないが、こういうことが考えられる。</p>
<p>崇高を、自然の圧倒的な力や物量による美の浸食や崩壊と捉える場合がある。そこで、人間が作り出した当初の原型をとどめていないパルテノン神殿やミロのヴィーナスについて考えてみよう。思うに、芸術は、原型の崩壊によって揺らぐことはない。むしろそれらの破壊は芸術のうちに含み込まれるのであって、もとの形態の破壊がかえって芸術を彩りさえすることがある。原型に近づけることを選択した室生寺の修復は、やむをえないとはいえ、それによって神さびた芸術性が失われた部分があることに同意するひとは多いだろう。インドや東南アジアの現用の寺院にも同じことがいえる。きらびやかなそれらよりも、もはや風や草木の浸食を受け入れた崩壊のさなかにある古いアユタヤ王朝などの寺院のほうが、芸術性が高いことは、あきらかなのだ。これらのことは、芸術が、人間のみの概念ではないことを意味している。人間は、もはやその起源のはっきりしないあやふやなきっかけを与えるにすぎない。人間がつくった当時の原型にこだわることは、芸術においては積極的な価値を認めるのがむずかしい。自然において芸術はたえず浸食を受け、原型を保つことは不可能であるにもかかわらず、そのことが芸術の価値を奪うとは決まっていないからである。美や崇高などの芸術の概念は、たんに人間の手によるものではなく、もともと自然のものであると考えたほうが、パルテノン神殿やミロのヴィーナスの芸術性を合理的に説明できる。美の形成からその崩壊にいたる崇高、自然のなかでたえず演じられるそのドラマ全体が美であり芸術であると考えたほうが、ずっと説得的なのだ。</p>
<p>また、かつて崇高は、その名が示すとおり、とりわけ「高さ」の観念と結びついていた。それは、われわれの低さでもある。自然における美は、おそらく対称性を意味する。同様に自然における崇高は、非対称性を意味している。実際、自然界にはきわめて高い水準で対称性が備わっている。物理学者が反物質の世界を想定するのは、彼らが、自然が対称性をもつことを確信しているからである。この対称性を道しるべに、彼らは自然界の理を探っている。荘子の「源天地美而達万物之理」（天地の美に原（もと）づきて万物の理に達す）という言葉はそのことの表現である。</p>
<p>むろん、対称性は破れもする。崇高の意味は、ここでは、美＝対称性が崩壊した状況を指す。しかし、われわれは、美を欲望の観点から考えたい。すなわち、対称性と非対称性のあいだの形成と崩壊の運動として、つまり振動や動揺として、美を捉えたい。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ゲーテの色彩論を敷衍して言えば、光と闇の対称性が保たれているかぎり、色彩は生まれない。逆にいうと、色彩は対称性が崩壊するときに生まれる。真空とは完全な対称性を実現している世界である。それが崩れるときに色が生まれる。すなわち、空から色が生まれる。</p>
<p>したがって、画家がなんらかの色彩を生み出すとき、かならず、彼のなかで対称性の崩壊が起こっていると考えられる。ところで、精神は、なんと肉体と似通っていることか。精神と肉体の均衡が徐々に破れ始めると、画家は、ある欲望を抱く。すなわち、色彩が生まれる。</p>
<p>色彩をカンヴァスに定着させたとき、この画家はようやく精神と肉体の均衡を取り戻す。つまり、彼の精神のなかの色彩と、カンヴァスの色彩が、対称性を描く。美は、対称性が破れ、またそれが均衡を回復する、その短い間に明滅している（この対称性が破れているとき、彼は精神をもっていない――つまり行為している）。対称性をもつ女性の対称性を破ること、そこに男は美を見いだす。</p>
<p>こう考えると、カントが先に思い描いていた美学を捨て崇高へと突き進んだときに、はじめて、画家が到達していた実践的な美の世界に踏み入れたことになる。自然に対する圧倒的非対称に耐え抜く崇高こそ、美の大前提である。美と崇高は、どちらも芸術家の主要な、しかも〈たったひとつの〉テーマなのだ。ともあれ、画家は、精神のなかにある種の不均衡を抱えていた。彼は、カンヴァスに色彩を描かぬかぎり、均衡を取り戻せなかった。対称性があるということ、たとえば右手と左手を区別できるということ、こうした世界は、均衡が保たれていて、それゆえ美的ではあるが、実際には、そこで画家は色彩を思い描くことができない。画家はむしろ、美しい女性のなかのわずかな均衡の破れを、いかにして描くかに、神経を集中させる。対称性は、つねに破られる手前にあって、むしろ破られることを願っている。自然は真空を嫌う、とはそのことの謂いである。芸術家が主に描いているのは、対称が非対称となりまた対称を獲得する、そのプロセス全体であるように思われる。このプロセスは、欲望とよく似ている（そこには、《彼岸の快感原則》がある）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>美に対する批判哲学、という意味では、美学（形式）を否定する崇高に至ったカントやデリダ、リオタールやジャン＝リュック・ナンシーらの議論は極北に位置する。たしかに、くだらぬ美学的なディシプリンは、脱構築すべきものではある。しかし、芸術家の実践はこの問題構成を共有しない。形式を前提にするコンセプチュアル・アートを除けば、もともとアートは形式に従って創作していないからである。形式に従っているようにみえたとしても、彼らに素材やきっかけを提供したに過ぎない。結果的に形式を越えられなかったとしたら、そもそも芸術を生み出したことにならない。</p>
<p>一般に、カントのいうような美と崇高は、芸術作品のなかで混淆している。美だけが存在していることは少ない。むしろ芸術家を駆り立てているのは、美（対称性）と崇高（非対称性）の反復である。たとえばブルーノートやシンコペーション、不協和音のような違和とその解決が、音楽を駆動させていることは周知であろう。自然が生み出した富士山にティピカルな芸術性を認めるとしたら、ある種の鏡面対称性（あるいは回転対称性）を備えると同時に、人間に対する圧倒的量感という非対称性を備えている点であろう。</p>
<p>また、ふつうの鑑賞者にとって、対称性が保たれているだけで美を感じるのは困難である。エジプトの古美術がもっている極端に均整のとれた造形物は、あまりに美的であるがゆえに芸術性を感じない。ギリシアの造形物のほうがずっと芸術的にみえるのは、均整のとれた顔、肉体、衣服が崩壊する瞬間を彫琢しているからである。つまり、不快な非対称性を取り込むことを厭わなかった。ギリシア彫刻がオリエントに伝播する過程で失われていくのが、この非対称性であることに、多くの読者は同意してくれるはずである。衣服のひだ、風を含んだ髪、微笑の口の端に、余計な対称性を付け加える。おそらく、そちらのほうが、より美的になると思ってのことだ。</p>
<p>われわれは、ひとつ作品のなかで、対称性がどのように崩壊し、またどのように対称性を取り戻すのかをみている。視線は、非対称的な姿形のなかに対称性を求め、また均整のとれた肢体のなかの非対称性に単純な快を越えた悦びを見いだす。要するに、われわれは「顔」ではなく、遷り行く「表情」をみている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は、心ひかれる女性を笑わせたいと願う。それは、それまで保たれていた対称性が崩れる瞬間でもあるし、また、醜い（非対称の）男にとっては、それによって、対称性が回復される瞬間もである。いずれにせよ男は、顔だけでなく、そのプロセス全体を所有したいと願う。</p>
<p>肖像画の女性の姿、そこに描かれているのは女の顔なのか、表情なのか。それは判断がつかない。顔であるとしたら、それは鑑賞者が関心を括弧に入れていることになる。彼女が微笑みかけていると思ったなら、それは彼が己の関心にしたがってみたことになる。</p>
<p>これらはそれぞれ別の哲学を形成する。一方の考えが他方の考えを一方的に批難できるようなものではない。われわれがみているものが、顔なのか、表情なのかは、みている人間の関心のありかた次第だからである。</p>
<p>しかし、不思議なことに、無関心によって見出された顔、すなわち美の純粋性は、崇高によって打ち破られる。つまり、顔は、次の瞬間に崩壊する、と、崇高の哲学者たち自身が言っていた。それは何を意味しているか。結局、ニーチェに回帰しているのではないのか。</p>
<p>いや――もちろん、これらは別の哲学である。美の崩壊に崇高を覚えるひとたちが、ときにカンヴァスを切り刻み、金閣寺に火を放つとすれば、ニーチェは不思議そうに答えるだろう、彼女は微笑んでいるし、金閣寺はつねにすでに朽ちていたではないか、と。美から崇高へ至る道は、極端なもの、けれん味たっぷりの大げさな身振りを必要としない。もっと微妙な、さりげないもので十分だった。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>写真が美でありうるとしたら、そのフレームに写真家の「関心」が現れている場合だけである。こうした写真は、被写体の「表情」を撮（つか）むことができるだろう。したがって、「顔」を写す機械の証明写真には、美はほとんど存在しない。もし「無関心」が美をもたらすのであれば、証明写真にこそ美がなければならないはずなのに、そうなっていない。なんの関心も示さずレンズに微笑みかけてくれるような被写体は存在しない。それは、ひとが恐怖を感じる場所で撮影した写真に霊やお化けが写ることと同じである。恐怖を感じないのであれば、お化けは写ってくれない。</p>
<p>ゴダールはとにかく女性を美しく映す。アンナたちに向けられたレンズの前で、彼が「関心」を括弧に入れていたはずはないと感じる。レンズを挟んで交錯する恋人たちの視線が、彼の作品の生産性に少なからず寄与していると感じる。彼の特権は、カメラの手前にある欲望を否定しなかったことである（彼はとりわけポルノ映画と勝負している）。彼の映画は、つねに、撮影する者とされる者のあいだで起こる事件であり、かつそのドキュメントである。</p>
<p>モナリザは微笑んでいる。素顔と、そして風景があるのではなくて、レオナルドに向かって、あのような表情を作った。逆にいえば、レオナルドは、彼女からあのような表情を引き出すことに成功した。レオナルドが彼女に無関心だったはずもないし、彼女が彼に無関心だったはずもない。</p>
<p>それは、ゴダールの映画同様、描き、そして描かれることのドキュメントであって、それが彼女の表情に凝縮している。そして、わたしは、そのことが美であると感じる。この絵画を鑑賞するのに、「無関心」のような高尚な態度は必要ない。欲望に忠実であればよい。女からあのような表情を引き出したレオナルドに、男として感心する。そのことが、そのままこの絵画の偉大さである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>欲望や関心と、美が関係しない、ということは不自然である（もちろん、あとで崇高を持ち出して純粋な美を否定するわけだが）。むしろ、もっとも古いソクラテスともっとも新しいニーチェが考えていたように、美しいものは、ひとを自然に引き寄せる性質をもっている、という定義から出発すれば十分ではないのか。</p>
<p>この定義の延長線上に、折口信夫の次の言葉は位置している。「人生に最も重大なる欲望は、自己保存に関する食欲、ならびに性欲である。この二つは、厳乎として生の根本に、大問題を横たえているのだ。…ただ大なる芸術品であるためには、この生の大問題におのずから触れていて、この欲望を暗示的に表現するところがなくてはならぬ。囚えられたる欲望が、自由に超経験的に活動をはじめたのは、この時からである」（「零時日記」）。</p>
<p>崇高の哲学者たちは、プラトン以来の西欧哲学の欺瞞を批難することに躍起である。だがそもそも、イデア哲学と批判哲学は美に対する理論的根底がまったく異なる。プラトンは批判哲学の問題構成を共有しないし、自分を西欧の哲学者と規定もしないだろう。「判断力」は、もともと批判哲学の構造が呼び寄せたものである。理性と感性のあいだに悟性を立てる、というこの哲学によって、逆説的に過剰に照射されてしまった。あるものを美しいと判断するか否か、という問いを批判哲学者は立てた。しかし、ソクラテスたちによれば、美しいものに、ひとは自然に引き寄せられてしまう。――つまり、彼は思わず「美しい」と呟いてしまう。判断力という問いは立たない。ひとは、美の前で、判断力（われ）を失う。</p>
<p>主観的な趣味判断がいかに普遍妥当性を得るか、という問いに答えるのは容易ならざることである。この不可能な問いは、答えるよりも先に問いを破壊する。つまり、ここで召喚された美は崇高によって打倒される運命にある。美の崩壊は、それを構成したカント哲学自身の崩壊にもみえる。つまり、彼が打ち立てた超越論的主観は、美の前で自壊する。ところで、ソクラテスはすでにこう考えていた、ひとは、美の前では「われ」を失う、と。そしてニーチェは言っていた、（「同情」とは区別される）われを失わせる「陶酔」は人間の最高の能力である、と。</p>
<p>美のもたらす統整的な作用は、ひとにかえって崇高を与えるものだった。美は捉えられる手前で足踏みするか先へと行き過ぎてしまう。しかし、別種の哲学において、美はもともと形成と崩壊の運動だった。つまりもともと消え行くものだったのであり、したがって、消え行くということにおいて、ひとはつねにすでに美を手にしている。ひとは、たえず美の恩寵に与っている。</p>
<p>美は、真理とは異なるやりかたで客観性を獲得する。すなわち、《われを失う》、判断を他に委ねるという形で客観性を実現する。よくいえば自意識を捨て去ることだが、悪くすれば自己を見失う。したがって、美の前でいかに自己を保つか、という問いが、ソクラテスとニーチェによって開かれる。</p>
<p>しかし同時に、自己を保つ、とは、美が消え行くものであることを認めることにある。というのも、欲望が成就する手前でとどまることが、美をもっとも長く享受するための、最高最善のやりかただからだ。したがって、ソクラテスとニーチェにおいて、自己を保つことと、欲望の追求は、齟齬しない。この哲学は、他者ではなく、自己を相手にする。</p>
<div class="post-rl">
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC-%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF-%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%95-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF/dp/B000BU6P8K%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB000BU6P8K"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41AV6R3KQGL._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">『ドビュッシー:ヴァイオリンソナタ』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC-3%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E3%80%81%E5%B0%8F%E7%B5%84%E6%9B%B2%E3%80%816%E3%81%A4%E3%81%AE%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E7%A2%91%E9%8A%98%E4%BB%96-%E5%86%8D%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9/dp/B0000ARKEQ%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB0000ARKEQ"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/61gZJ32yhsL._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">『ドビュッシー:3つのソナタ、小組曲、6つの古代碑銘他(再プレス)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span>
</div>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2354.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>反脱構築――新しい芸術哲学のための前哨戦</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2313.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2313.html#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 06 Aug 2010 14:09:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Beethoven]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
		<category><![CDATA[différance]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Sakae Osugi]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2313</guid>
		<description><![CDATA[ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。２０世紀後半から今日に至るまで、これらの概念（デリダは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。２０世紀後半から今日に至るまで、これらの<del>概念</del>（デリダは、この「概念」という言葉に抹消線を付す）のアカデミズムの領域での世界的流布は、目を見張るものがある。わたしがこの概念に懐疑的なことは、多くの読者がご存知だろう。だが、かつてはわたしもこの概念に刺激を受けた人間のひとりだった。この概念ならざる概念について、ここでわたしなりに決着をつけておくことにする。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>音声を通じたコミュニケーションは自己同一的で直接的かつ純粋なものである、という音声中心主義を、デリダが批判したことはよく知られている。「自分が話すのを聞く」という円環は、きわめて自己同一的にみえるが、実際には、「話す自分」と「聞く自分」とのずれが生じている。これを、彼は差延と呼ぶ。</p>
<p>話す自分と聞く自分がつくる円環は、一種の自己相互作用である。音声は、周囲の空間を巻き込みながら、自分に帰ってくる。音声は周囲の空間を同一化しながら再帰する、といってもいい。発された声と自身が受け取った声とのあいだには相互作用、すなわち差延が生じている。周囲の空間を通過する過程で、音声は変化を被らざるをえない。にもかかわらず、この差延をひとは黙殺し、忘却する。黙殺し忘却することで、閉じた共同体が形成され、この暗黙の同意のもとで「概念」が成立する。つまり強引に各々の自己同一性が成立しているとみなす。近代がひとに要請する自己同一性とは、こうした差延を黙殺せよという命令にほかならない。</p>
<p>差延を自覚するのは容易ではない。だが、意識のなかにわずかにあるにちがいない記憶痕跡は、かつて話し、そして聞いたということを教えてくれるはずである。痕跡――つまりエクリチュールに、彼は可能性を見いだす。</p>
<p>そこでデリダの戦略は、次のようなものになる。あえて空間（テクストといってもいい）の内部に切り込み、いたるところに痕跡を見出し、エクリチュールをまき散らし（散種）、話す主体とそれが所属する空間のあいだに相互作用を起こさせ、差延を押し広げる。このようにして、脱構築は遂行される。</p>
<p>このデリダの戦略が、善良な意図で貫かれているのはあきらかである。しかしおそらく、この戦略を本気で実践しようとしたひとは、この世に存在しない。実践できないからである。その理由を以下に述べる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>差延になんらかの積極的な可能性を認めてみよう。そうすると、この概念は、とにかく自己および周囲の空間になんらかの現実的な作用を及ぼすのでなければならない。したがって、その力を認めなければならない。しかし、この相互作用の力を認めると、逆説的にこの概念は破綻する。厳密に考えると、この力は瞬間的に無限大に達するからである。自分の声が周囲の空間を変化させるとしよう。その変化を受けた声が自身に作用することで、自分もまた変化する。その変化はさらに声に影響し、その変化を受けた声がさらに周囲の空間を変化させる。その変化がさらに自分に再帰し……。</p>
<p>「自分が話すのを聞く」という円環を、社会に拡大してみよう。当然、ここでも差延は無限大になる。ある個人が社会に参入することで、自分は変化するが、社会も変化する。その社会の変化をさらに自分が被り、その自分の変化をさらに社会も被る。こうして差延の力は一瞬にして無限大に達し、バーストする。デリダが発見した自己再帰的な概念である差延は、原理的にいって、どう考えても無限大に達する。いくらわずかな差異とはいえ、それは次の瞬間には無限大に陥ってしまうのである。意図的に散種するかどうかとは無関係に、この概念は、発散してしまう。</p>
<p>しかし、そんなことはありえない。〈世界は有限だからである〉。実際、自己や社会がバーストするようなことは起こっていない以上、この差延の力は黙殺されるか忘却されているのだが、どのみち黙殺／忘却せざるをえないのである。わたしからすれば、この無限大を黙殺しているのは、ほかならぬデリダ自身である。彼は適当なところで差延を飼いならしている。</p>
<p>社会が個人を参入させても、その結果得られるはずの差延による変化は、生じた瞬間にどこかにアブソーブされている。自覚するか、しないかとは別に、日々、厖大な量の差延が発生しているにもかかわらず、なにも起こっていない。起こる気配もない。おそらく、どこかで、差延の無限大を吸収する装置が働いている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>「自分が話すのを聞く」という円環は一度しか発生しないのではない。文章、語、音節にいたるまで、すべてを自分の耳が聴き続ける。そしてそのつど、この相互作用は蓄積されてますます巨大なものになっていく（実際、マジックメモよろしく、デリダは痕跡は消えないと言っていた）。ここで発生する差延を物理的に吸収しているのは、有限の身体、すなわち耳である。無限を有限が吸収できるわけがない。にもかかわらず、身体がバーストするようなことがないとすると、この思考法自体のどこかに誤りがある。</p>
<p>差延それ自体を全否定すべきだろうか？　おそらくそうすべきでないだろう。差延が発生しているのは確実である。「自分が話すのを聞く」ということは、どう考えても起こっている。ということは、ここで発生してしまうはずの無限大の力を、有限の社会や耳が吸収している、ということなのだろうか。有限は無限を吸収できると考えるべきなのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、もう一度もとに戻って考えてみよう。差延がもたらす無限にひとはどうやって対処しているのか。それは「黙殺」あるいは「忘却」することによってである。この黙殺や忘却に積極的な意味を認めてみよう。つまり実践としての黙殺や忘却がある、と考えてみよう。ところで、無限を吸収するためには、やはり無限の器が必要である。したがって、有限の器（耳）が吸収する、ということはありえない。もっとも合理的なのは、無限の力を生み出した力自身に無限を吸収させることである。</p>
<p>どこに無限があるか。それは精神、自意識である。ひとは、自意識（主体／実体substance）と空間（場所／形式form）とのあいだで発生している無限の差延を、自意識に再吸収させることで、キャンセル（ゼロに）している、と考えられる。これを、実践的な言い方で、「黙殺」する、あるいは「忘却」する、という。差延の運動とは、もともと自意識内部の葛藤にすぎない。したがって、差延は「黙殺」するか「忘却」するのが正しい。実践的にはそれしかできない。デリダが望むような脱構築は、原理的に発生しない。</p>
<p>ひとは、この無限の差延を、意識に捨てているのである。話すことによって生じるのが意識だとすれば、おそらく、自分の話を聞く際に生じているのが無意識であろう。デリダが推奨するように、本当に意識の差延を自覚しようとするひとがいるとしたら（つまり、無意識に捨てた差延を再び拾いなおすようなことをしたら）、ただちに差延は無限の弧を描いて彼を分裂病に至らしめるだろう。つまり、バーストしてしまう。この無限の力を侮ってはならない。それはおそらく死に至る病である。</p>
<p>顎と耳との距離が、「自分が話すのを聞く」というデリダの概念の有限な前提である。有限の身体によって、この差延は保証されている。しかし、デリダのいう<del>概念</del>としての差延はそういうものではない。顎で発生し、耳から抜けていく有限の差延は、テクストや共同体とはなんの関係もない。その一方で、無限の差延は、無限の自意識が再吸収して、本来はゼロになっている。</p>
<p>有限の声には有限の耳が対応し、無限の自意識は無限の自意識（のなかの無意識に相当する部分）が再吸収する。したがって有限の差延以外は発生していない。デリダの誤りは、有限の差延を無限の自意識と関係づけてしまったことである。この非対称を彼は可能性だと思ってしまった。また有限の差延を、無限の自意識が不当に黙殺していると勘違いしてしまった。しかし、無限を維持したまま有限の世界を往還することはできない。無限は、有限の世界では自動的にキャンセルされる。結局のところ、差延は、自覚しようがしまいが、自意識から自意識へ、自意識内部の葛藤以上のものではない。</p>
<p>付け加えておけば、おそらく主体とは、厳密には、差延の発生装置にして吸収装置である。というか、差延がはたらいているあいだ、ひとは自らを主体であると感じている。しかし、実践の段階では、主体もろとも、差延は消滅する。救いを求める声のなかに、差延は存在しない（救いを求めるひとに、自分の話す声をいちいち聞いている暇などない）。</p>
<p>デリダの望むのとは逆に、差延の運動とは、《実践》とは真逆の、内面化のそれである。この運動の脅威は、個人であろうと社会であろうと、「主体」を形成し、かつ内面化し、そして縮小し崩壊する、そういう過程に自らを導くことである。いわば社会的分裂病の症候を示す。われわれは、差延の運動の外に出なければならない。</p>
<p>たとえば中上健次の文学の中心に位置すると考えられてきた「路地」は、デリダの脱構築にきわめて似通っている。しかし、この概念は、外部なき若者の奇怪な葛藤にすぎない。この路地（＝無限の世界）を捨て岬（＝有限の世界）に出ることによって、彼の小説は純文学の領域に到達する、とわたしは考える。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さらに抽象的な話になるが、ここで問題になるのは、「場」あるいは「空間」とはなにか、ということである（上記の問題はミンコフスキーがいうような空間把握Raumerfassen／空間体験Raumerlebnisの問題につながっている）。形式といってもいいし、形態といってもいい。ともかくその「場」を占める実体（実質／主体）とのあいだの相互作用を考慮に入れようとすると、どうしても無限が発生（発散）してしまう。実体は、ここでは「点」だからである。</p>
<p>点である以上、その場における位置を正確に測ろうとしても、その正確さを競えば競うほど、点は無限に遠ざかってしまう。その場を占める点は、場から無限に遠ざかっている、というおかしなことになってしまう。場あるいは形が有限な――すなわち具体的な「もの」であるのに対して、点は抽象的だからである。</p>
<p>場（形）は具体的なものである。したがってこれはひとまず取り除けない。そこで「点」という思考法を回避することが求められる。「点」をいかに具体的なものとして思考するか。さらにいえば、場とその場を埋める主体、という思考法そのものをいかに回避するか。</p>
<p>場は、社会に置き換えることができる。当然、社会を取り除くことはできない。したがって、社会を占めるアトムとしての個人、という概念を取り除かねばならない。そして結局、社会と個人、という思考法そのものが、問題ということになる。この一対には、合理的な解が存在しない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ヘーゲルが取り組んだのは、ある意味ではこの問題の解決である。ひとはいかにして社会のなかで個人となるか。彼はこれを弁証法という概念でごまかした――要するに、差延とその吸収という自意識内部のはたらきそれ自体を、現実の歴史とみなす精神主義的解決に逃げ込んでしまった（彼は一度外へ出ているのにまた内側に戻ってしまっている）。とはいえ、デリダと好一対をなすのはジョージ・ハーバート・ミードのような社会心理学であろう。自我と他我のあいだの自己相互作用のはてに自己同一性を獲得するという、やや楽観主義的な議論は、自己相互作用が同一性を破綻させるというデリダの議論のちょうど逆になっているが、やはり、自己相互作用の力を甘く見積もりすぎている。現実的には、ミードの想定するような自己同一化のプロセスは発生しない。場（社会）を前提とする個人は「点」だが、現実には、点は場と接点をもたないからである。</p>
<p>カントは、場（形態／時空間）を重視し、時空間をアプリオリとしてもつ有限の感性に依拠する科学の可能性を認めたひとである。だがその一方に無限を事とする理性を保存したため、無限と有限を区別する悟性の責任が極端に重くなった。彼は、いわば「点」を超越論的理念として受け入れようとしたが、点は場と究極的に接点をもたないし、結果としてその乖離を埋めるために、「考えることだけができる」物自体を設定せざるを得なくなる。いうなれば、神を殺しておきながら、その骸が揮発する寸前で宙づりにしてしまったのである。だが、原理的にいって、悟性に頼らずとも、無限を維持したまま有限の世界に渡ることはできない。したがって、必要なのは、本来、もっと別の問題構成だったはずである。すなわち、ひとの精神はいかにして、自身が生み出す無限を振り切りつつ、有限の実践世界を旅するのか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、芸術家は、徹底して、自己を表現しようとするひとである。この単純な思考法が、なにゆえラディカルでありうるのか。たとえば同世代のナポレオンとヘーゲルとベートーヴェンがいる。なにゆえ、この音楽家は彼らのうちでもっともラディカルに見えるのか。</p>
<p>芸術家は、社会（現代的な言い方をすると大衆）との相互作用という考え方を遠ざける。そしてむしろ社会を突きぬけて自然を見ようとする。ニュートンと戦ったゲーテや耳の聞こえないベートーヴェンは、それをもっともわかりやすく表現していたひとたちである。</p>
<p>ベートーヴェンは、デリダの言う「自分が話すのを聞く」ことができなかった。つまり、自分の声が周囲の空間を巻き込みながら耳に帰ってくる、という考えをもたなかった。徹底して、顎の振動としての自分の声を聞いていた。</p>
<p>なにゆえ、自己を表現する、というこの単純な思考法が、これほど困難であり、またなおかつラディカルなのか。それは、結局、無限を回避すること、自意識の葛藤を振り切ること、万人がうちに飼っている“デリダ”を捨て去ることを教えるからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<blockquote><p>
われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。このゼロに達した時に、そしてそこから更に新しく出発した時に、はじめてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げて行く。
</p>
</blockquote>
<p>大正期のアナーキスト、大杉栄の言葉である。大杉のこの言葉は、自意識内部の意識と無意識とのぶつかりあいの結果、自意識そのものがキャンセルされることを教える。つまり、行為のための真空、ゼロこそ、精神の理想的な在り方であることを教える。</p>
<p>ニーチェの「噛み切れ！」もまた、ここで響いている。デリダの円環を断ち切ること。そうしてはじめて、ひとは、いかに表現するか、という唯一の問題を手にするのである。</p>
<div class="post-rl">
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E4%B8%8A-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80/dp/4329000296%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4329000296"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/4162wDS9I-L._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">ジャック・デリダ『グラマトロジーについて 上』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E4%B8%8B-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80/dp/432900030X%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D432900030X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41ffXgf--uL._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">ジャック・デリダ『グラマトロジーについて 下』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%8A%9B-%E5%8F%A2%E6%9B%B8%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%8B%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%BF%E3%82%B9-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF-%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%80/dp/4588006517%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4588006517"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/512ZAZHSSDL._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">ジャック デリダ『法の力 (叢書・ウニベルシタス)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span>
</div>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2313.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>言葉の肉体についての序論</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/fragment/2303.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/fragment/2303.html#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 14:08:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[fragment]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2303</guid>
		<description><![CDATA[おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ！》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ！》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の死があるなら、言葉の生もあろう。そこにわれわれの生もあるにちがいない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ニーチェの講義ノートをみて感銘を受けたことがある。他人の非難ばかりしているようにみえるあの攻撃的なニーチェが、ギリシアの古い歴史を教えるに際して、なにも否定していない。彼の哲学からすれば批判に値するかもしれないような宗教的問題についても、淡々と、肯定的に講義していた。</p>
<p>運命という観点からみるなら、歴史を「否定」するのは愚かである。だがそればかりでなく、彼の哲学的な「敵」でさえ、否定していなかった。それは謎だった。だが、第二次世界大戦について論じたとき、わたしもなぜか同じ意見になった。いわゆる右翼ではないにもかかわらず、あの戦争を「肯定しよう」という気になっていた。</p>
<p>自分は間違っているかもしれないが、歴史は肯定せねばならないと思った。凄惨極まるあの戦争でさえも、である。そこからすれば、カントやヘーゲル、フロイトやデリダなど、肯定するのは容易い。彼らは、歴史的にいって、必ず肯定されねばならない。ニーチェにならい、講義では、彼らを一切批判していない。彼らの言葉がもっとも輝くであろう配置を考えながら話をすることは、骨が折れるが、あまり味わえない楽しさもある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さらに間違っているかもしれないが、戦中の労働者たちの言葉に触れていると、それが戦争協力であろうと、どこかしら美しい響きがあるのを感じないわけにはいかない。それを主導した知識人の言葉でさえも、やはり美しい響きがある。なぜなら、彼らは、子供のように言葉を信用しているからだ。言葉を信用するということ、それは未来の子供たちの耳を信用するということでもある。声は届いたよと、そう言ってあげたくなった。だが、われわれの声が過去に届くことはない。それが悲劇ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>その観点でいくと、「否定する人たち」の言葉が、やや空しく響くようになった。この手の言語使用は、もとをただせば言葉の不信から来ている。しかし、死んだ人間にとっての肉体とは、言葉である。死んで肉体まで朽ちてしまった人間は、消え去るための物質を失う。消え去るという要素をかろうじてつなぐのは、言葉だけである。われわれが触れることのできる唯一の肉体が、言葉である。彼らがいかに言葉を否定しても、歴史は消え去るものとしての言葉を残す。</p>
<p>言語を内在的に使用しようとする誤った問題を立てると、かならず言語は否定によって埋め尽くされる。肯定的命題は不可能になる。「内在的使用」は、論理的一貫性の意味、あるいは数学的証明の問題にとどめ置くべきであって、この語を拡張すると、決定不能に陥るのは当然である。だが、歴史は、内在的使用が不可能だった言葉の集合である。また別の見方をすれば、歴史そのものが、潜在的な力の顕在化過程である。この観点からすると、歴史における「否定」的表現とは、否定による宙づりではなく、自らを肯定するための、一種のイロニーであり、迂回であり、屈折である。</p>
<p>ニーチェが否定するとき、彼はそれがイロニーであることを自覚している。したがって、彼は「神はいない」ではなく、「神は死んだ」という言い方をする。彼は神の存在（実在）を肯定しているのである。デカルトやパスカルのようなフランス人に対する彼の賛意は、神の存在を証明したという点にある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>戦後の日本人を覆っていたのは、言語の否定的使用である。すなわち、決定（決断）を回避し、宙づりにしておくために、否定する。この手の用法は、ヘーゲルの否定とは異なるが、スピノザのそれとも異なる。カントであり、じつはもっといえば去勢されたヘーゲルである。言語そのものの否定、すなわち、肯定に至らぬ否定の否定である。これはいまに至るまで一貫している。右も左も、あの戦争を非難するふりをして、なにより言葉を否定している。言葉は信用ならないと言っている。言語論的転回は、デカルト的に理解されるべきだったが、カントに引き寄せられていた。</p>
<p>言語を否定するひとたちを肯定するのは骨が折れる。いったい、彼らは否定したことを肯定してほしいのか。それとも否定してほしいのか。民衆同様、言葉しか持たない、もっとも弱い人間である死者が、どうして自身の最強の武器である言葉を否定してしまうのか。結局、論文などでは、もっと大きな肯定のための下地になってもらうほかなくなってしまう。</p>
<p>ニーチェは、そうした否定するひとたちを否定しようとはしなかった。ただ、幾ばくかの友愛を込めて、「敵」と呼んだ。ヘーゲルによるなら、否定の否定は肯定だが、否定する者たちを否定しても、べつに肯定になりはしない。歴史の上ではなにも起こらない。結局、「敵」と呼ぶのがもっともふさわしい。彼らには、言葉の力を妄信する冒険者の打ち倒す「竜」になってもらうのがよい。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>残念ながら、歴史学者の多くは、言葉を否定的に扱う。つまり、歴史を否定する。わたしもそうだったが、この資料は信用ならない、という観点から研究を開始する。しかし、そういう仕事は空しい。資料の粗を探すやり方は、資料を細らせ、仕舞いには駆逐してしまう。歴史学者の机には、何も残らない。そうならないのは、彼らが半端だからである。どこかで、そういう原理を曖昧にやり過ごしているにすぎない。本当は、つきつめていけば、歴史学者は、無言で頷きあう以外のことができないはずなのだ。</p>
<p>美しいものをみてストレートに、「美しい」という。美しいものをみて、美しいと思いつつ「まあ、いいんじゃない」という。後者が自意識で溢れているのは明らかだろう。自分の好みを知られるのが恥ずかしかったのかもしれない。こういう恥ずかしさは誰にでもあって、前者のような使用は訓練がいる。しかし、じつは、歴史に残っているのは、原則的に前者の使用法だけである。というか、後者の使用法をしても、歴史はそれを前者とみなす。しかし、歴史学者は、後者の使用法から、そのうちに隠された自意識をやたら取り上げたがる性質をもっている。</p>
<p>いずれにしても、否定、すなわち迂回は、その迂回が大きければ大きいほど、より大きな精神を構成する。エスプリには精神と同時に機知の意味があるが、言葉の迂回的な使用法は、実際に、言葉を精神的なものにする。言葉の肉体は失われていく。否定する言葉は、なにより言葉に向けられた刃である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>だが、言葉をもっと信頼していい。そうすると、言葉はもっとシンプルなものになる。シンプルであっても、充分すぎるほどに言葉は複雑である。そしてふと歴史をみて、こう思うだろう――歴史はすばらしい。ひとの知はすばらしい。なにより肯定に値する、と。</p>
<p>システムを非難するのは重要なことである。すばらしさを覆い隠すものがシステムだからである。「ちょっとどいてくれませんか」というわけだ。だが、それと一緒に中身まで一蓮托生させてしまう必要はない。不思議なことだが、ゲーデルに反して、ひとは、肯定することしかできない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ！》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の死があるなら、言葉の生もあろう。そこにわれわれの生もあるにちがいない。</p>
<div class="post-rl">
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%A6%E2%80%95%E3%82%BD%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E5%BE%8C%E7%B6%99%E8%80%85-%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%AB-%E3%83%90%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%AB/dp/446921311X%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D446921311X"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41MSsIHLIKL._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">セミル バディル『イェルムスレウ―ソシュールの最大の後継者』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E5%90%8D%E8%91%97%E9%81%B8%E9%9B%86%E3%80%88%E7%AC%AC6%E5%B7%BB%E3%80%89%E8%A8%80%E8%AA%9E%E7%90%86%E8%AB%96%E5%BA%8F%E8%AA%AC-%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9-%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%A6/dp/4897144124%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4897144124"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/themes/ex-signe_II/images/amazon_noimg.png" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">ルイス イェルムスレウ『世界言語学名著選集〈第6巻〉言語理論序説』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%AE%E7%A2%BA%E7%AB%8B%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6-%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%AC%E3%82%A6/dp/4000005731%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4000005731"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/themes/ex-signe_II/images/amazon_noimg.png" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">ルイ・イェルムスレウ『言語理論の確立をめぐって』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E8%A8%80%E8%AA%9E%E7%90%86%E8%AB%96%E5%BA%8F%E8%AA%AC-%E8%8B%B1%E8%AA%9E%E5%AD%A6%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-41-L-Hjelmslev/dp/4327233412%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4327233412"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/themes/ex-signe_II/images/amazon_noimg.png" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">L.Hjelmslev『言語理論序説 (英語学ライブラリー (41))』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span>
</div>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/fragment/2303.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>二つの時間概念――純粋な現在とはなにか</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2288.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2288.html#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 06:24:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[aeon]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Khronos]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Time]]></category>
		<category><![CDATA[écriture]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2288</guid>
		<description><![CDATA[社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められよ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められようと願う社会の劣悪を認めるなら、それこそ己の試みが無意味なものになるからである。</p>
<p>かくして社会は己の才能が足りないと考えている連中で埋め尽くされてゆく。だが、社会は無謬ではありえない。それは歴史が証明している。悪いのは本当に自分なのか。若者たちよ、こういう古い「社会主義」とはおさらばして、次のように考えてみよう――われわれは社会を認めていない。問題は、われわれが、社会を認めるかどうかだ。社会が己を認めるかどうかという発想は誤りなのだ。いま社会に参画している連中を支え尻拭いさせられるのは将来の若者だということを忘れてはならない。</p>
<p>もちろん、こうした解決法も万全ではない。この選択はひとに狂気の誹りと孤独とに耐えることを強いるからである。社会の外にいる孤独に耐えるのは容易なことではない。また、「社会」を否定しても、社交的な態度までは失ってはいけない。孤独を愛する勇気が、ひととの「社交」を受け容れる勇気を排除するのであってはならない。いずれにしても、社会の側が劣悪だとすればそちらはよくある集団的狂気だが、結局、どちらの狂気を選ぶのかという問いになる。</p>
<p>黄金時代はとうの昔に終わっていた。われわれはずっと残照を黄金と取り違えてきた。だが、いまや多くのひとたちが、それが残照に過ぎなかったことを知りつつある。なのにわれわれときたら、目前に迫る闇を恐れて残照にすがる選択肢以外思い浮かばない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>孤独を恐れてか、それとも社会を「脱構築」しようとしてか、若者たちはいう。わたしにあなた方の尻拭いをさせてください、あなた方が逃げ切るお手伝いをさせてください。大人たちはいう。いやいや、それには及ばない、われわれのやっている失敗に手を貸してくれるだけでかまわない……。かつての「脱構築」のよき意図は、失敗に失敗を重ねる《なし崩し》にとってかわる。とある哲学者――ジャック・デリダは言っていた。過去に汚染されていない純粋な「現在」などない、それは西欧形而上学の悪しき伝統であると。</p>
<p>すでに大人たちによって汚染された現在を若者たちは受け容れねばならない。若者たちは、ほとんど泣き寝入りに近い形で、甘んじてそれを受け容れている。かつて大人たちが、そのまた大人たちの汚染を受け容れたように（しかし本当は、上の上の世代は上の世代にできるかぎりの白紙を残そうとしたのだ――ただ、わたしの願いは戦火なしに第一世代を実現することである）。この哲学はこう言っているかのようだ、西欧形而上学の伝統を破壊するために、この汚染を受け容れてくれ、と。</p>
<p>しかし、ニーチェは言っていた。ひとはみな「第一世代」になるべきだ、と。第一世代とは、振り返ることをやめ、纏わりつく過去を振り払い「現在」を生きるひとたちである。歴史ではなく、汚れなき白紙に地図を書く世代である。ニーチェがそれを言う以上、簡単ではないが、可能である。過去に汚染されていない「現在」は、強い意志があれば、生じうる。かの哲学者は、ニーチェを褒めそやしながら、彼と逆のことを言っている。第一世代など存在しないということが、「起源」であり、「起源」を超える／「起源」なき「起源」だと、そう言っているのだ。いったい、どれだけ失敗を繰り返せば、自分たちこそ第一世代の人間と自覚する若者たちの時代が来るのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>世代について考えることは、時間について考えることである。デリダの哲学はほとんど正しい。「起源」は、多くの場合に虚偽であり権力を可能にする神話である。にもかかわらず、ニーチェのような「第一世代」への意志、要するに起源や根源の自覚が必要な場合がある。</p>
<p>起源を求める欲望が、かえって起源という思考の欺瞞、起源など理念にすぎないという認識をもたらすのはよくある「深い」話である。だが、欲望が認識を突き抜けて、自らを起源とみなす、もっとも「浅い」意志にまで成長することがある。ひとたび認識が意志にまで成長すると、現在が過去に汚染されているという思考法は、現在を生きるわれわれが、過去に責任を押し付ける怠慢にしか見えなくなる。</p>
<p>「理論」の根底が異なる二つの時間概念があるようだ。そしてデリダの哲学は、これら二つの時間概念の「ごちゃ混ぜ」である。実際、管見に触れたかぎり、古今東西、「理論」のタイプは二つしかなかった。声と文字である。理論とは、ロゴス＝言葉である。ひとは現実にこの二つの言葉を駆使して思考しており、これらの技術がもつ欲望にしたがって、思考は無意識のうちに規定されている。両者は、それぞれ異なる形でおたがいを欲望し、必要としている――声は文字のように現在に定着し続けることを欲望し、文字は声のように流れて消える現在（つまり過去）を欲望している。その意志に応じて、二つの時間概念が生じる。</p>
<p>なんらかの媒体に定着することで時間に抵抗し、たえず現在を占め続ける文字は、そのつど過去を隠しながら存在する。文字は過去を露わにしながら隠している。隠しそして露わにする過去と現在の共犯関係は、実際には文字の自作自演である。真の現在は、むしろ文字が取りこぼしたものであり、この取りこぼされたものが、真の過去を形成する。つまり本当に隠ぺいしているのは真の過去だが、文字は、本当はこの消え去る現在としての真の過去を欲望しているのである。この過去を、文字は「取りこぼす」あるいは「隠ぺいする」という形でしか、もっといえば「痕跡」の形でしか表現できない。したがって、文字は、起源に永久にたどりつけないにもかかわらず、起源を追い求めるほかない、そうしたやるせない技術なのである。真の過去にはどのみちたどり着けないのだから、ここでの「知」のあり方は、もっぱら〈黄昏どきの診断〉となる。こうした技術は、理念＝欲望を統整的なものとしてみせるが、統整的理念は、別の言い方で、《歴史》と呼ばれることがある。文字なしに歴史を思考することは困難だが、そもそも歴史的思考法それ自体が、文字に影響されている。文字と歴史は、同時に発生したのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この理論の上では、デリダの議論は正当性をもつ。というより、この理論的根底にもとづくなら、デリダ以上の解は存在しない。文字こそが歴史の起源なのであり、突き詰めて言えば、文字痕跡より先に歴史的起源は存在しないのである。ただし、そこから先の深度に差はあれ、この地点に到達しているとみなしてよい哲学はほかにもいくつかある。カントやフロイト、柄谷行人などがそれである。</p>
<p>しかし、もっと別種の哲学がある。それが声の哲学である。声は、時間軸上のある一点しか占めることができず、現在と呼ばれる瞬間は原理的にほとんど訪れない。過去に汚染された現在という言い方はできない。現在がつねに流れ去っている以上、むしろ現在を定着させようとする努力の方が推奨される。声はもともと消え去るものであり、消え去る現在、すなわち過去にはほとんど価値がない。声は、もっぱら現在を欲望し、自身が過去になってしまわないよう、現在を追い越すことすら欲望している。つまり、次の現在がどのように流れるかを、あらかじめ予測しておかなければならない。そうでないと、声は容易に足元を掬われ過去に流されてしまう。ここでの知のあり方は、〈朝の予言〉である。ニーチェの言葉でいえば、「午前の哲学」である。文字の哲学において、それが欲望する流れ去った《現在》は、もはやたどりつけない統整的理念だが、声の哲学において、それが欲望する《現在》は、まれにたどりつくことはできるが、その次の瞬間に別のものに変わる、という類のものである。</p>
<p>要するに、声の哲学は、激流に耐え忍ぶ欄干のような努力を必要としている。ひとの努力の結果が文字として結晶したわけだが、結晶した瞬間に、別の時間概念、つまり文字の時間概念が発生する。声の時間概念は消失する。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の哲学そのものは、文字を遠ざけておらず、むしろ文字を欲望している。その一方で、文字の哲学は、声を〈たどりつけない〉理念として欲望している。したがって、結果的に、両者の混在は、文字の哲学に有利に働く。だが、それにもかかわらず、声の哲学はかならず文字の哲学を凌駕する。なぜか。</p>
<p>じつは、文字の時間がたえず現在を見せ続けると言ったとしても、実際には、文字が定着する媒体の消滅速度にしたがって、ゆっくりと過去に流れ去っている。つまり、文字のみせる現在は「観念」である。石板に刻まれた文字は、ひとの死を越えて残るがゆえに永遠を夢想させるが、当然、石板そのものは風化を免れえない。紙であろうがレコード盤であろうが燃えればそれで終わりである。そして実際、ローマの王政時代の歴史がそうであるように、歴史は、なによりこの燃焼によって、とりわけ戦火によって、たえず失われてきたのである。歴史を忘却の底に沈めてきたのは、なによりひとが味方につけたはずの炎である。そして現実にどうやって歴史が残されてきたのかといえば、媒体の不滅性ではなく、写本によってである。今日目にする聖書も古事記も写本であって、マスターは存在しない。「歴史を語り継ぐ」という言葉は比喩ではないのだ。いずれにしても、文字の哲学は、実際には、声の哲学によって内包されており、文字のみせる永遠はいかにも「観念」である。というか、文字の哲学それ自体が、現在を「観念化」する。両者は、一般に、自然（声）と文化（文字）の差異としてなじみ深いものであり、要は自然のほうが優位にある、ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ここにきて、はじめて、声と文字とを区別する必要がなくなる。というのも、文字は声と対立するのではなく、声の遅延であることがわかるからである。文字は、声とは別の速度をもった、一種の声なのだ。</p>
<p>イェルムスレウの言理学の不思議な主張の正しさは、ここではっきりする。ソシュールは文字を声の補助物にすぎないといって自身の言語学から排除し、声を優先的に取り扱ったが、師ソシュールの教えの結論部分に従うなら、かえって文字も声と同様に取り扱うべきなのである。声帯をあつかう器械音声学があるのなら、ペンや筆をあつかう器械書字学があってもよいのだ。デリダのようにソシュールを反転して文字の優位を主張するのはやりすぎであり、跨ぐべきでない理論的根底を不当に横断することになってしまう。声と文字を反転させるためには、それらが対立しているという観点が不可欠だが、文字もまたいずれ消え去る以上、両者の対立は結局維持できないし、そもそも、消える、消えない、という対立自体が、「人間」の寿命を前提した偽の対立だからである。消え去る宿命をもった声の哲学はもとより万能ではありえないが、声の劣位と文字の優位を語ることは、声のもつよき意図をも抹消してしまう。たとえば、自分の話すのを聞く、という円環は、自分の書いたものを読む、という形で起こっているのであり、こうした現前の共同体から文字だけが逃れているなどということはありえない（わたしに言わせれば、自分が話すのを聞く、というこの問題はむしろ記憶痕跡の問題であって、音声中心主義ではなく、内なるエクリチュール中心主義の問題であると思う）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の優位が明らかである以上、むしろわれわれは、究極的には純粋な現在というものを意志せねばならないということである。だが、本質的に声の世界を生きているわれわれには、たえず過ぎ去る現在に身を任せているだけでは、現在――「今」はついに訪れない。</p>
<p>途上で、文字に助けを借りるさまざまな迂回、激流をなだめる遅延が必要ではあるかもしれない。しかし、そのことが、声の哲学を忘れさせることであってはならない。写真に残しておけばよい、紙に書いておけばよい、現在を定着させるのは簡単なことだ、という思考は、声の哲学を忘れて文字の哲学に、つまり観念に逃避しているだけである。</p>
<p>純粋な現在への意志、すなわちわれわれこそ「第一世代」であるという気概、要するに「今」、それは、エクリチュールの魔法を振り切ったときに、かならず現われる。わたしはそのことを確信している。ひとは、「今」を渇望しなければならないし、またそのようにしか生きられないのである。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2288.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>芸術のエチカ――欲望中心の表象の強さについて</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/2202.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/2202.html#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 21 May 2010 17:44:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2202</guid>
		<description><![CDATA[欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を奪ってしまう。別にその表象は生身の人間である必要はない。なにかしら異性を思わせるシンボルがあるだけで充分である。というよりは、その欲望中心のシンボルの抽象性が高ければ高いほど、かえって視線を誘う。なにしろ「欲望」は、表象をもたない。だから抽象的だが、同時に、欲望ほど具体性に恋い焦がれているものもない。この抽象的なシンボルは、次の瞬間には具体物であるかもしれない。そう思わせるだけで、ひとの視線は奪われ、このシンボルに吸い付けられてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえば昨今のアニメや漫画で描かれる人物は、それはいじらしい。なぜなら、彼らは人間になろうとしているからだ。抽象性から具体性へと至るプロセスの中心で、いまだ胚といってもよい状態のまま、奇妙に凍結され、宙づりになってこちらを見つめている。この欲望中心の表象の力強さは驚くほどだ。かつて泉鏡花が自然主義文学について言ったように、十の精神でさえ、一の肉に勝てない。もし、芸術があるかないかもわからぬ精神の領域を占めているとすれば、肉に依拠し、覇権主義的で帝国主義的なこの「サブカルチャー」の力には、ほとんど歯が立たない。</p>
<p>それは、中世ヨーロッパの芸術が、ついに古代ギリシア・ローマの芸術に勝てなかったことにもよく現われている。それは、宗教が欲望に勝てないことと同義である。かつて白樺派のひとたちは、内村鑑三の洗礼を受けながら、ほとばしる欲望についに勝てなかった。「自分は女に飢えている」と語ることから文学を始めた。だからこそ、この芸術は強い。魂に禁欲を強い、その禁忌がもたらす崇高に軸足を置く宗教的な芸術が、欲望中心の芸術に勝てなかったことは、歴史がよく示している。</p>
<p>古典時代とは、欲望中心の時代の謂いである。ソクラテスの言葉は、ギリシア人が、知とエロスとを同じ高さに並べることに、なんの抵抗も感じないのでなければ、すこしも説得的ではない。ソクラテスは美に畏敬を抱かぬひとを「快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしない」と言って非難する。とはいえ禁欲を説くわけではまったくない。彼は美に出会い、恋に狂った人間が陥る〈好ましい〉例を、次のように語る。</p>
<blockquote><p>聖像や神に対するごとくに、彼はその愛人にいけにえを捧げることであろう。…その姿を見つめているうちに、あたかも悪寒の後に起こるような一つの反作用がやってきて、異常な汗と熱とが彼をとらえる。それは、彼が美の流れを――翼にうるおいを与える美の流れを――眼を通して受け入れたために、熱くなったからにほかならない。そしてこの熱によって、翼が生え出てくるべきところがとかされる。…いまや養分がつぎこまれると、翼の軸は膨れ、その根から、魂の姿の全体を蔽うまでに成長しようとする躍動をはじめる。</p>
<p>…かくして、このような状態のとき、魂の全体は、熱っぽく沸きたち、はげしく鼓動する。それはちょうど、歯が生えはじめたばかりのとき、人々の歯のまわりに感じるあの状態――歯ぐきのところに感じるむずがゆさといら立ち――あれと同じ感覚なのだ。翼が生えかけている人の魂は、まさにそれと同じ経験を味わい、翼が生じるにあたって、熱っぽく沸きたち、いらいらし、うずくものを感じる。そこで、この魂が、少年にそなわる美をまのあたりに見つめながら、そこから流れてやってくる粒子を――このように粒子（メレー）の流れ（ロエー）の放射（ヒーエナイ）であるがゆえに、それは「愛の情念」（ヒーメロス）と呼ばれるのであるが――この愛の情念を受け入れて、うるおいを与えられ、熱くなるときは、魂はそのもだえから救われて、よろこびにみたされることになる。</p>
<p class="post-r">プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫</p>
</p>
</blockquote>
<p>この言葉が、性的な欲望がいかに表現（発現）されるべきかをリアルに示すものであるのはあきらかである。ここでのソクラテスの言葉は、それ自体が欲望の表現（発現）であることに注意しておこう。つまり、この言葉は、それによって「意味されるもの」を想起させようとしているのではない。美は、「四つ足の動物の行う交尾」として《表現》されるのではなく、「翼をもった魂の潤いのほとばしり」として《表現》されなければならない。なぜなら、ひとを惹き付ける美とは、対象そのものではなく、対象が抱かせる期待、すなわち《距離》によってこそ、美だからである。安易に対象と同化するよりも、「翼」によって表現される対象との《距離》が、ひとをして欲望の虜にするのであり、この同化に至る《距離》こそが、美であると同時に表現であると言いたいのである。要するに、ソクラテスは全然欲望を否定していない。欲望を描くとは、四つ足の獣のように即席の同一化を与えることではないし――これをポルノと呼ぼう――、そうした即席の快楽は、ほとんどここちよさを与えない。それは、結合の瞬間、絶頂の瞬間が、それまで感じていた《美》などどうでもよくなっていることによって説明される。むしろ、結合にいたるプロセス、絶頂の途上で感じられる埋めがたい距離のすべてが、美であり欲望であり快楽なのである。芸術の中心はここにある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は手淫し、女は想像で妊娠する。われわれは、それを「抽象的」と言ったり、「観念的」と言ったりする。それはけっして虚構ではない。なぜなら、自然は、それによって実際に欲望を満足させるようにひとを作ったからである。犬のディオゲネスは人のみている広場で自慰に耽りながら言った。「ああ、お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえすれば満足できるならいいのになあ」。しかし、これは不思議なことなのだ。遺伝子が死を超えて残ること――作られた子供については、欲望はこの際関係しないらしい。手淫は観念的だ、などと言ったところで、これが現実に行われていることを否定することはできない。芸術は、虚構というよりは、こうした奇妙な《現実》にかかわっている。つまり対象それ自体とかかわるよりは、対象への意志とかかわる。欲望は、対象の直前で立ち止まる、いわば手淫や想像妊娠なのだ。それを表象するのが古典芸術だとするなら、アニメや漫画は、対象を人間未然のなにかとして、しかも人間になろうとするその《距離》として描いているという点で、無自覚に古典芸術と同じ地平に立っている。その意味では、サブカルチャーとメインカルチャーを区別する必要はほとんどない。純文学であろうが、漫画であろうが、それらが宗教的ではない動機、すなわち欲望の屈折なき放射であるかぎり、芸術の最初の門をくぐったものと考える（その点、コンセプチュアル・アートは古典芸術とはまったく無関係である）。問題は質ではなく強度である。</p>
<p>欲望が快楽そのものというよりは快楽の遅延なのだとすれば、その表現は驚くほど複雑化する。なるほど快楽は一に基礎を置く。だが、欲望は多に基礎を置いている。したがって、肉を晒すことは快楽へ至る最初の一歩だとしても、欲望にとっては多様な道のひとつにすぎない。中世の宗教芸術から一線を画すルネサンス期、レオナルドは、「教会は血を忌む」といって遠ざけられていた人体解剖に興味を示している。したがって、解剖学的な欲望は、中世を卒業する芸術の最初の動機の一つであると考えられる。だが、解剖学だけですべてが解決するわけではないし、欲望が静まるわけでもない。むしろ欲望は、ポルノに至らぬぎりぎりのところでとどまることを欲しているし、その点からいえば、じつは欲望はポルノを拒絶している。</p>
<p>たとえばゴダールは、『映画史』のなかで、浴槽のジュリー・デルピーとポルノビデオを対比している。彼は言いたいのだ、どちらがひとを欲情させるのか、また同時に、同じことだがどちらが美しいのか、と。むろん、ジュリー・デルピーよりポルノビデオに軍配を上げるひとも多いだろう。強度を問わず、ただ快楽にたどりつけばいいというのなら、ほとんどのひとがそうだろう。ゴダールが言いたいのは、映画はポルノビデオと勝負し、あるいはもっとおぞましい薬物とさえ勝負し、それに勝つことを夢見ている、ということだ。今日では、純文学とポルノ小説の差異はほとんどなくなっている。作家たちのあいだで、欲望と快楽とが混同されているからである（はっきりいって、純文学と称する昨今の代物はほぼすべてポルノである）。こうしてポルノを政治的に法で囲い込むより手段がなくなっていくのだが、本当の芸術は、結局、ポルノを法で囲い込むよりも、勝つことを夢見ている。芸術も子供を作ることができると言いたいのだ。</p>
<p>しかし、芸術がポルノに陥ることなく、美や欲望、快楽を《距離》によって表現することを仕事としているなら、アニメや漫画は、本質的にポルノに近すぎるのではないだろうか。ある女性の声、肉体、精神、そしてその生涯を、つまりこの女性の美を一枚の絵画におさめることができたなら、余計なものはいらないはずだ。ただ言葉だけで女性の美しさを表現できたとすれば、やはりもう余計なものはいらない。すでに美であるそれらに加えられた補助線は、快楽を不必要に近づけ、かえって快楽を小さくするポルノにかぎりなく近づいていく。アニメや漫画の補助線は、あまりに親切で、説明的で、こちら側の呼びかけを無視して進むがゆえに、かえって戸惑う。人間は、たった一本の線にでさえ、欲情することができる。この線がついに美につながるとすれば、そのときの快楽はほとんど極大に達しよう。芸術が究極的にはシンプルな形式を求めるのは、その方が複雑な快楽に達する可能性をもつ場合が多いからである。ただ一枚の絵画、言葉だけで描かれたストーリーこそ、アニメや漫画の目指すところではないのか、という疑念を払うことは、なかなかできない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>老いの手前にとどまる若さや、目的を達しようとそれに打ち込む姿は美しい。それは、あらゆる芸術上の登場人物が、人間の手前で人間たらんとリアリティを求める姿と重なりあう（たぶん、美はある種の期待であり、美的な知はある種の予言であろう）。結局、芸術は、つぎの問いをつきつけている。人間が美しいとすれば、それはなんによってか、と。己を超えたものを欲することによってではないのか、と。しかし芸術は、だからといって神を選べとは言わない。というのも、それは欲望を屈折させ、たどりつくことのできない統整的なものとして目標を提示するからである。だからこそニーチェは「超人」といった。芸術は、人間を超えたものを宗教に依らずに提示しなければならない。つねに大人になることを目指している子供は、その比喩である。</p>
<div class="post-rl">
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B4%87%E9%AB%98%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%83%8E%E3%82%B9/dp/4879999989%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4879999989"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51NwYvvVW1L._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">ロンギノス『崇高について』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B4%87%E9%AB%98%E3%81%A8%E7%BE%8E%E3%81%AE%E8%A6%B3%E5%BF%B5%E3%81%AE%E8%B5%B7%E5%8E%9F-%E3%81%BF%E3%81%99%E3%81%9A%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AF/dp/4622050412%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4622050412"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/415Q59GJG8L._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原 (みすずライブラリー)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E5%88%A4%E6%96%AD%E5%8A%9B%E6%89%B9%E5%88%A4-%E4%B8%8A-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%9D%92-625-7/dp/4003362578%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4003362578"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51jGBElQOvL._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">カント『判断力批判 上 (岩波文庫 青 625-7)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span>
</div>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/2202.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>文体について――蛇とQ・E・D（ラフ）</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2147.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2147.html#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 05 May 2010 17:23:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Hideo Kobayashi]]></category>
		<category><![CDATA[mimesis or mimesis of mimesis]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Spinoza]]></category>
		<category><![CDATA[style]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2147</guid>
		<description><![CDATA[小林秀雄は、かつて「どんなに正確な論理的表現も、厳密に言へば畢竟文体の問題に過ぎない」（『Xへの手紙』）と語り、文学の本質を文体に求めていた。当然、芸術の本質は「フォーム（姿）」（「美を求める心」）にあると考えられた。文 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>小林秀雄は、かつて「どんなに正確な論理的表現も、厳密に言へば畢竟文体の問題に過ぎない」（『Xへの手紙』）と語り、文学の本質を文体に求めていた。当然、芸術の本質は「フォーム（姿）」（「美を求める心」）にあると考えられた。文体とは、もちろん言語芸術のまとう「姿」を意味する。</p>
<p>ところで、「意味する」とは、どういう状況を指して言われるのか。「意味する」は、主語と述語、ここでは「文体」と「姿」の共通性を指摘する語である。したがって、こう言い換えることは自然である。すなわち、《文体と姿とは似ている》。</p>
<p>スピノザは言っている。</p>
<blockquote><p><b>定理三</b>　相互に共通点を有しない物は、その一が他の原因たることができない。<br /><b>証明</b>　もしそれらの物が相互に共通点を有しないなら、それはまた（公理五により）相互に他から認識されることができない、したがって（公理四により）その一が他の原因たることができない。Q・E・D・</p>
<p class="post-r">スピノザ『エチカ』（上）、畠中尚志訳、岩波文庫</p>
</blockquote>
<p>ここで言及されている公理四、および五は以下の通りである。「四　結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む」、「五　たがいに共通点を持たないものはまたたがいに他から認識されることができない。すなわち一方の概念は他方の概念を含まない」。したがって、「意味する」という語を「似ている」という語に置き換えることは正当性をもつように思われる。というのも、似ている、という語は、一方に原因を、そして他方に結果をもつことが確実だからである。スピノザは定理一で「実体は本性上その変状に先立つ」とも言っていたが、「意味する」あるいは「似ている」という語には、一方から他方への「変状」をも認めることができるだろう。小林は「言葉の姿と言つても、眼に見える活字の恰好ではない。諸君の心に直かに映ずる姿です」（「美を求める心」）と言った。にもかかわらず、「意味する」という言葉は表面から表面への移行、あるいは変状を意味するものであることに、小林は同意するだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、「意味する」という語が語と語の変状ではなく屈折や格納として機能するなら、この話は極端に異なった様相を呈する。屈折も格納も、ここでは同じように機能する。すなわち、述語が主語の内部に隠されてしまい、「似ている」という観点は維持できなくなる。述語はここでは隠れており、表象をもたない。述語が内面に隠されている以上、表面から表面への移行という観点は取りようがなく（模倣論はとれない）、異なる二つの語がつくる構造が問題となる。ここでは、主語は述語によって暗黙かつ適度に限界づけられており（それでも、というよりはそれゆえに「解釈」の余地は残されているが）、一方が他方の概念を含むというよりは、一方は他方によって否定されている。つまり「似ている」というよりは「偽」という観点が必要となる。</p>
<p>芸術家にとって、「似せる（模倣する）」ということと「偽物をつくる（虚構を作る）」ということは、日本語の音が示すとおり同じ実践を指している。だが、その他のひとびとにとって、とりわけ学問にかかわる人間には、両者は峻烈に対立していると考えられるだろう。というのも、一方にはリアリティが、他方には虚構性が賭けられているからである。とくにベンヤミンの指摘するような複製技術の時代には、《同じ物を作ることが可能である》という偽の同意が受け容れられている以上、両者の差異は大きくなろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>スピノザの定理三およびその証明を疑うことは簡単である。たとえば現実のスピノザに対して「スピノザ」と呼びかけたときのことを想起すればよい。現実のスピノザは「スピノザ」という呼びかけに対する原因を含んでいるだろうか。スピノザと「スピノザ」は相互に共通点を有しているのだろうか。そうではない、たんにスピノザと呼ばれうるユダヤ人が、「スピノザ」という名前に同意したというにすぎず、べつに彼はデカルトともマルクスとも呼ばれてもよかったはずである。あるいはスピノザという人物が二人いて、その二人がまったく共通点をもたなかったとしても、二人ともが振り返る可能性をもつだろう。つまり、スピノザと「スピノザ」の関係はあくまで偶然であって、そこに原因から結果へと至る必然性を見つけ出すのはむずかしい。スピノザと「スピノザ」は結びついていない。そこにあるのは「認識」というよりは暗黙の同意である。だからどうしてもスピノザと「スピノザ」を結びつけるラングのような別の媒介項や入れ子構造を想定したくなる。現実と結びついていない「スピノザ」は真ではない、偽であり虚構である。……かくして、因果律は、特殊な契約によって成立するものとなる。すなわち、「わたしが『スピノザ』であること」に同意を与えるもうひとりの私が可能にするものである。「スピノザ」とスピノザ、そしてもうひとりの名指されざるわたし、あるいはX。</p>
<p>しかし、にもかかわらずスピノザは決然とこう述べる。「これが証明されるべきことであったQuod Erat Demonstrandum」。換言すれば、“これ以上この問いにかかわる必要はない、スピノザとは「スピノザ」の原因である、あるいは「スピノザ」はスピノザを意味する、さあ、次へ行こう”、というわけだ。超越論的統覚Xを破砕するかにみえるこの不思議な言明は、いったいなにを意味しているのだろうか。あるいは、なんの比喩なのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>同じことを、ニーチェは次のように表現している。</p>
<blockquote><p>そしてまことに、そこに見いだしたのは、いまだかつてわたしが見たことのないものだった。一人の若い牧人、それがのたうち、あえぎ、痙攣し、顔をひきつらせているのを、わたしは見た。その口からは黒い蛇が重たげに垂れている。<br />これほど吐気と蒼白の恐怖とが一つの顔に現われているのを、わたしはかつて見たことがなかった。かれはおそらく眠っていたのだろう。そこへ蛇が来て、かれの喉に這いこみ――しっかりとそこに噛みついたのだ。<br />わたしの手はその蛇をつかんで引いた――また引いた。――むだだった。わたしの手は蛇を喉から引きずり出すことができなかった。と、わたしのなかから絶叫がほとばしった。「噛め、噛め。<br />蛇の頭を噛み切れ。噛め！」――そうわたしのなかからほとばしる絶叫があった。わたしの恐怖、憎しみ、吐気、憐憫、わたしの善心、悪心の一切が、一つの絶叫となって、わたしのなかからほとばしった。――<br />君たち、敢為な探求者、探検者よ、またおよそ狡猾な帆をあげて恐ろしい海に乗り出したことのある者たちよ。君たち、謎を喜びとする者たちよ。<br />さあ、わたしがそのとき見たものは何の比喩か。いつの日か来るに相違ないこの者は何びとなのか。<br />このように蛇に喉を犯された牧人はだれなのか。このように最も重いもの、最も黒いものの一切が喉に這いこむであろう人間はだれなのか。</p>
<p class="post-r">『ツァラトゥストゥラ』手塚富雄訳、中公文庫</p>
</blockquote>
<p>牧人に噛みついていた蛇は、牧人の精神である。重く黒いこの精神は、こう考えている、「ほんとうは、わたしは『牧人』などではない」……。ただただXとして振る舞うもうひとりの名指されざるわたしがいる。呼びかけのなかでいつもそれを拒絶しているもうひとりの暗いわたしがいる。それはわたしが隠しもっている「意味」である。だが、ニーチェはその蛇を「噛み切れ」という、あるいはスピノザは謎めいた言葉でいう、「Q．E．D．」と。……</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>小林秀雄は言っている。</p>
<blockquote><p>美しいと思ふことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝へます。文学の姿は、心が感じます。だから、姿とは、さういふ意味合ひの言葉で、ただ普通に言ふ物の形とか、恰好とかいふことではない。あの人は、姿のいい人だ、とか、様子のいい人だとか言ひますが、それは、ただ、その人の姿勢が正しいとか、恰好のいい体附をしてゐるとかいふ意味ではないでせう。その人の優しい心や、人柄も含めて、姿がいいといふのでせう。絵や音楽や詩の姿とは、さういふ意味の姿です。姿がそのまま、これを創り出した人の心を語つてゐるのです。</p>
<p class="post-r">「美を求める心」1957年</p>
</blockquote>
<p>若い頃、Xへの絶縁状を書いた小林は、戦後に至り、「心」こそが「姿」（＝フォーム）だと言っている。つまり、ニーチェの言う「蛇」とはちがう、フォームとしての心、すなわち表面としての心があることを指摘している。肉体も精神も、あるいは言葉も意味も、すべてが表面上のドラマである。もはや問題は表面＝表現にしかない。とはいえ、なにを表現するべきなのか、という問いもよくない。この問いは重い精神を呼び寄せ、表現の層をレトリックのレベルに偽装してしまう。われわれは、結局、ひとつしか目的をもたない。だから、問題は、なにを表現すべきか、という問いが招くレトリックの水準を離れて《いかに表現するか》、ただそれだけなのである。言葉の「姿」、すなわち文体。逆に言えば、「蛇」としての精神を噛み切ったときにはじめて、われわれは自身の文体に出会う。したがって、文体は、よけいなものを削り取ったときに現われるものであり、希少なものである。たとえば超人。あるいは、Q．E．D．</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2147.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>二つの言語論（「精神の歴史」のためのプロレゴメナ３）</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/2091.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/2091.html#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 11 Apr 2010 14:23:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[History(s) of Spirits]]></category>
		<category><![CDATA[Linguistic Turn]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2091</guid>
		<description><![CDATA[ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味（こう言ってよければ《意味されるも [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャック・デリダは言う。</p>
<blockquote><p>比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味（こう言ってよければ《意味されるもの》）の過程として理解されねばならない。観念とは意味される意味であり、語が表現するところのものである。だがこれはまた事物の記号であり、私の精神における対象の代理でもある。対象を意味し、語あるいは言語的な《意味するもの》一般によって意味されるこの対象の代理は、けっきょく間接的に感情や情念を意味することもできる。</p>
<p class="post-r">『グラマトロジーについて』（足立和浩訳）</p>
</blockquote>
<p>彼は言語をある種の「隔たり」であると考える。というか、「隔たり」を作り出すものだと考える。彼の用語で、「間化（エスパスマン）」という。別の言い方をすれば、「隠喩」である。言語とは、究極的になにものかの隠喩であり、しかもそれが名指す対象はついに痕跡の形でしか捉えることはできないものである。言語の対象は、必然的にそれ自身が担う《隠喩性》そのものであって、それを越えることはない。こうした言語観にもとづいて、彼はパロールに対するエクリチュールの優越性を指摘する。というのも、後者が前者の代理物だったとしても、そもそも、言語とははじめから代理物だからである。「それゆえ問題なのは、固有の意味と比喩的意味とを逆転させることではなく、エクリチュールの「固有の」意味を隠喩性そのものとして想定することであろう」（同書）。それによって、彼は意味の解体を、そして言語そのものの解体を目論むことができる。意味が、なにものかの隠喩――というより「隠喩性」そのもののうちに溶解するなら、言語は指示対象を失い戯れのなかにしか存在することができなくなる。根源としての痕跡は、同時に、根源なき、しかし原初的な（つまり根源としての傷を欠いた、そうであるがゆえに傷そのものからは自由となった――とはいっても痕跡の指示する範囲からは逃れられないという点で痕跡は結局根源そのものである）戯れを可能にするからである。</p>
<p>この観点は、ある程度まで正しいが、同程度、誤っている可能性がある。正しい、というのは、方便（レトリック）としてそういう言語観が妥当する場面は実生活上は多々ある、という意味である。しかし、原理的にはおそらくたいていの場合に正しくない。言語が隠喩であるという観点は、そもそも言語がその指示対象そのものではなく、しかもなんらかのつながりをもっている場合に限定される。しかし、言語が隠喩性のうちに溶解して対象とのかかわりを失うと、逆に隠喩という観点そのものが成り立たなくなる。デリダがそうしたように、われわれは、たとえば人体や草や動物や鉱物などと同様に、言語そのものを対象にすることができる。言語は、その他の感覚的な表象と同様に、われわれを喜ばせたり悲しませたりし、またたとえばロープのように対象を死に追いやったり死から救ったりすることもできる。その点では、言語に、その他の対象と異なる「隠喩」という特権を与える必要はない。われわれとあまりに近すぎる物体――たとえば眼球――が目に見えないのと同様に、言語はわれわれの肉体とあまりに近すぎるために隠れてしまう――つまり隠喩となってしまうと考えることは不可能ではない。というか、眼球同様、言葉は《見えすぎている》だけであり、別に隠れているのではないかもしれない。その点で、言語にだけ、その他の自然現象とは異なる奇怪な特権性を与えるのは早計である。</p>
<p>ソクラテスはこう言っている。</p>
<blockquote><p>「…しかし先ず、われわれはある出来事に襲われないように気をつけよう」とあの方は言われました。<br />
「どんな出来事でしょうか」と私は訊ねました。<br />
「言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。ちょうど、ある人々が人間嫌いになるように。というのは、言論を嫌うよりもより大きな災いを人が蒙ることはありえないからである。言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる。つまり、人間嫌いが人の心に忍び込むのは、心得もなしにある人を盲信し、その人がまったく真実で健全で信頼に値すると考えた後に、しばらく経ってからその当の人が性悪で信頼に値しないことを発見することから始まる。他の人についても、再び同じ経験をする。こういうことを人が何度も蒙ると、とりわけ、それまでもっとも近しくもっとも親しいと考えていた人々によってこのような仕打ちを受けると、遂には度重なる怒りの果てにすべての人を憎むようになり、どんな人にもいかなる健全さもまったくない、と考えるようになるのだ。…」<br />
「…人が言論についての心得もなしに、ある言論を真実であると信じ込み、それからわずか後になって、それを偽りであると思うようなときに――本当にそうである場合もそうでない場合もあるだろうが――そして、再び他の言論についてそのような経験をくり返すときに、言論と人間は似ているのだ。とくに矛盾対立論法にたずさわって時を過ごしている連中は、君も知ってのとおり、ついには最高の賢者になったつもりになり、自分たちだけが真理を見抜いた、と思い込んでいるのである。すなわち、およそ事物についても言論についてもなにも健全で確実なものは存在せず、すべてのものは、あたかもエウリポスの流れの中にあるかのように、かなたこなたへと変転し、片時もいかなるところにも留まることがないのだ、と」</p>
<p class="post-r">『パイドン』（岩田靖夫訳）</p>
</blockquote>
<p>デリダとソクラテス、言語に対する二つの思考法のどちらが正しいか、俄には判断し難いが、いずれにしても、これらの観点がずいぶん異なっていることだけはたしかである。言語と対象のつながりを完全に切断したデリダ。そんなことはないというソクラテス。言語が真実を述べている場合、言語はそれにもかかわらず隠喩であるというべきなのだろうか。それとも、言語が真実を述べているなら、言語もまた真実なのだろうか。言語が真実であることを信じきっていた人間が裏切られて逆の立場――すなわち言論嫌いに陥る、というソクラテスの主張は、ある出来事を想起させずにはおかない。それは、近代における二つの潮流、実証主義と言語論的転回である。近代において、科学が真理に到達するという確信が実証主義をもたらし、その挫折が言語論的転回をもたらしたことは、記憶に新しい。ソクラテスの発言はそのことの予言でもある。</p>
<p>さらにソクラテスはこう言葉をつなげる。</p>
<blockquote><p>「言論にはなにも健全なものはないかもしれない、という考えが心の中に忍び込むのを許さないようにしようではないか。むしろ、われわれ自身がいまだ健全ではない、という考えをもっと受け入れることにしよう。そして、健全であるべく勇気をふるって努力しなければならない。君やその他の人々はこれから先の全生涯のために、僕は死そのもののためにね。…」</p>
<p class="post-r">同前</p>
</blockquote>
<p>つまり、言論が往々にして対象と関係しないからといって、その本質を《隠喩性》のうちに解消するのではなく、たんに、われわれが言語をうまく使えていないだけかもしれない、と考えるようにしよう、というわけである。もちろん、わたしはデリダよりソクラテスの発言を好む。同じ国語にかぎっても、言語を完全に使いこなせる人間など滅多にいない。矢が的中しないからといって、矢の本質を的中しないことに置くのがおかしいことは、誰でもわかる。自分が下手な射手だと考えるのがふつうだろう。「ライオン」という言葉がライオンそのものではないからといって、「ライオン」がライオンの隠喩だと考えるのは、矢が的そのものではないから矢は的の隠喩だと考えることと同じくらい、おかしなことである。逆にいえば、言語とは本質的に比喩である（＝的に当たらない、あるいは的ではない）、というような発言は、言語について相当の努力を払ってきた人間だけが、なんとか許される謙遜やユーモアであって、デリダならまだしも、わたしに許されるはずもない。「サッカーとは点が入らないものだ」、という言い方は比喩としては許される（し、その発言者がたとえばリオネル・メッシのようなプレイヤーならなおさらだ）が、現実にはそんなことはないように、「言葉とは本質的に隠喩である」、というような発言は、それ自体が、言葉がじつは隠喩ではないことの隠喩である。そうはいっても、言葉が真理を射抜く場面は、いたるところに転がっている。少ないとはいってもサッカーにはゴールシーンがある。「言葉とは隠喩である」という発言をしたのが、全身全霊を賭けて言語に挑んだ小説家ならまだ納得するが、批評家や駆け出しの小説家が、それがさも真実であるかのように言うべき言葉ではないはずだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>いくらか蛮勇を奮って、すこしこの議論を先まで進めてみよう。</p>
<p>言語そのものを言語の対象とするいわゆる「自己参照」は、粒子と場の自己相互作用と同じように、必ず無限ループに陥る。この無限ループは対象との不一致を主体の側に引き起こさないわけにはいかない。この不一致こそが精神（主体）と呼ばれるものである。普通は、精神が同時にこの不一致を引き受けることで（つまり精神とは自己相互作用に対するマイナスの相互作用だと考える）、これを解消する。しかしこの不一致が精神に引き受けられないほど巨大になる場合がある。というより、無限ループによって生み出された精神自身が、上記の解決法を拒絶する場合がある（拒絶こそ治癒だと誤解されるのだ）。このとき、ひとは、それを精神病と呼んで医者の治療に委ねるか、あるいは歴史に委ねるという他力本願的な方法を取る。後者の場合にあらわれるのが《民族nation》である。この無限ループは、原理的には、対象の側が有限である以上、それを生み出した自分（精神）の側にしか解決できる可能性がない（医者に頼ったとしても、結局精神病を治すのは自分自身である）。したがって、「自分」を拡張しなければならなくなる。拡張した「自分」、すなわち民族である。たとえば「わたしは日本人である」ということが成立するなら、問題なく、この無限ループは日本人に委ねることができる。</p>
<p>こうしたナショナリズムを非難しようと思えば、ひとつは、言語と言語のあいだに生じる無限ループ、要するに観察する自己と対象としての自己との不一致を、《差異》として受け容れることである。これがデリダの解決方法であり、彼はこれをとくに「差延」という。それは、この無限ループを解決しないことであり、そうした態度のことを、彼は言語学的な言い方をして《隠喩性》といっているわけである。傷ではなく痕跡に留まることが、もっとも正しいひとのあり方だと言いたいのだろう。かくして、知は「エウリポスの流れ」（アリストテレスは予測不能のこの海峡の流れに身を投げて自殺したという伝説がある）のなか、差異の戯れのなかに埋没した――これが、悪い意味でのポストモダンといわれるものであろう。というのも、この態度は、無限ループの解決ではなく、つねに‐すでにひとが行なっている無限ループを増大させることにしか貢献しないからである（だから可笑しなことだが、デリダ自身が差延とは両義的なものだと言っていた）。</p>
<p>さて、近代以前のひとびとは、対象としての自己と、対象を眺める自己との不一致が引き起こす無限ループを、どうやって解消してきたのか。当然、《神》が推測される。現代人ならば御存知のとおり、《神》は人間が生み出したものである。したがって、この場合でも、結局は自己解決である。無限の精神が、無限ループを引き受けるわけである。しかし、ソクラテスの態度を見ていると、もうひとつの解決方法があるように思われる。すなわち、たんにその無限ループを引き受けるにたるだけの精神的成長を遂げることである。《わたしは狂気を受け容れる》……本当の作家は狂気を伴侶としている。狂気――すなわち無限ループを、自分自身の精神で引き受けるのだ。にもかかわらず、あるいはそうであるがゆえにこそ、この作家は健康である。医者や歴史や神に狂気を委ねるのではなく、未来の自分に委ねること――それをニーチェは、超人といったと、わたしは思う。</p>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/2091.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
		<item>
		<title>コーラー</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2041.html</link>
		<comments>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2041.html#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 04 Mar 2010 13:31:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
		<category><![CDATA[lie and fiction]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[oblivion]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>

		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=2041</guid>
		<description><![CDATA[わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を保つことができた。彼は牢獄に閉じ込められて以来、詩を書くようになったという。そのことを不思議に思ったパイドンたちは、牢獄で毒を仰ぐ当の処刑の日に訪れ、なぜかと問いただした。そこでソクラテスは彼らに驚くべきことを語った。</p>
<blockquote>
<p>これまでの生涯において、しばしば同じ夢が僕を訪れたのだが、それは、その時々に違った姿をしてはいたが、いつも同じことを言うのだった。『ソクラテス、文芸（ムーシケー）を作りなし、それを業とせよ』。そして、僕は以前には、僕がずっとしてきたことをこの夢が僕に勧め命じているのだ、と思っていた。ちょうど走者に人々が声援を送るように、この夢は僕に、僕がまさにし続けてきたことを文芸をなすこととして激励しているのだ、と。なぜなら、僕は、哲学こそ最高の文芸であり、僕はそれをしているのだ、と考えていたからだ。しかし、いまや裁判も終わり、神の祭が僕の死を妨げている間に、僕はこう思ったのだ。もしかしてあの夢は通俗的な意味での文芸をなすようにと僕に命じているのかもしれない。それなら、その夢に逆らうことなく、僕はそれをしなければならない、と。なぜなら、夢に従って詩を作り聖なる義務を果たしてからこの世を立ち去る方が、より安全であるからだ。こうして、先ず、僕は現にその祭が行なわれていた神アポロンへの賛歌を作ったのだ。それから、神への賛歌を後で僕は考えた。詩人というものは、もし本当に詩人〔作る人、ポイエーテース〕であろうとするなら、ロゴス〔真実を語る言論〕ではなくてミュトス〔創作物語〕を作らなければならない、と。</p>
<p class="post-r">岩波文庫、岩田靖夫訳、20ページ</p>
</blockquote>
<p>驚くべき、というのは、齢七〇を超えてまだ矍鑠たるこの老人が、死を前にして、知的な探究心を一切失っていなかったことであり、それまでの生涯を否定しかねない夢の解釈に彼自身が達したとしても、飽くことなく、しかもいけしゃあしゃあと、ムーシケーを実践していたことである（わたしは、プラトンのソクラテスの描写は、モデルにされた師自身がどういう感想をもっていたかとは無関係に、きわめて史的に忠実であると考えている――それは、グールドのバッハ演奏にとてもよく似ている）。真理を司るロゴスから、虚構を司るミュトスへ――裁判が真理にまつわるものであるかぎり、この移行はさまざまなことを示唆してくれるが、そもそも彼は、アテナイ人たちに、《真理》を蔑ろにし若者を扇動する《虚構》をでっち上げたことが、死刑に値すると審判されたのだった。ここにあるのは、ロゴスへの絶望や挫折だろうか。しかし、そういう表現が許されるためには、ソクラテスが、それまでロゴスに底なしの信頼を置いていたことが証明されねばならない。だが、この抜け目ない男がそんな迂闊なことをするとは思われないし、この事例そのものが、ロゴス中心主義の存在を反証している、と考えるべきだ。絶望や挫折といった陰鬱な解釈は、ヨーロッパの人間に任せておこう。むしろわれわれは、死を前にしてなお、軽快に踵を返して行なわれたロゴスからミュトスへの跳躍、弟子たちをさえ欺く彼の舞踏に感嘆する。彼には、ロゴスよりももっと重大なことがあった――それが《哲学》であり、そして《文芸ムーシケー》だったのである。ロゴスやミュトスは、その手段にすぎない。わたしは彼とプラトンに、西欧形而上学に伝統のロゴス中心主義、などというものを感じることができないでいる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ソクラテスは、さらにパイドンたちに、死後の世界がどのようなものかを、滔々と語る。われわれの世界は、真の世界の窪地にすぎない――画家たちは、真の世界の色の見本を使って、世界を描いている――真の世界においては「この地の色よりも遥かに明るく輝き、より純粋」で――「ある部分は驚くばかりに美しい深紫色であり、他の部分は金色、白いかぎりの部分は白亜や雪よりも白く、同様にその他いろいろな色から成り、それらの色はわれわれが見知っているかぎりの色よりも数も多く、より美しい」。</p>
<p>この世界の外側に広がる真の色彩。ソクラテスによれば、優れた画家たちは、この真の色彩を用いる業をもっているのだという。そして嘆きの河コキュートスや炎の河ピュリフレゲトーンの流れる、恐るべき冥府についても言葉を重ねてゆく。語り終えたあと、ソクラテスは次のような悲劇的な台詞を吐露する。</p>
<blockquote>
<p>さて、地下世界に関する以上の話が僕が述べた通りにそのままある、と確信をもって主張することは、理性（ロゴス）をもつ人に相応しくはないだろう。だが、魂がたしかに不死であることは明らかなのだから、われわれの魂とその住処についてなにかこのようなことがある、と考えるのは適切でもあるし、そのような考えに身を托して危険を冒すことには価値がある、と僕には思われる。――なぜなら、この危険は美しいのだから――</p>
</blockquote>
<p>ソクラテスは、悲しみに暮れ、彼の死後のことを案じるクリトンに、ソクラテスの痕跡をたどるべきではなく、自己にのみ配慮すべきことを述べ、そして「微笑して」こう答えることも忘れていない。「いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体として誤謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ。さあ、元気を出すのだ。そして、僕の体を埋葬するのだ、と言いたまえ」。こうしてソクラテスは、真理――すなわちロゴスに対しても目配りをしながら、毒を仰いで死ぬ。</p>
<p>嘘はたしかに魂を汚しもする。だが、現状の規定的な真理のために、嘘を恐れ、未来の美を諦めることがあってはならないだろう。というか、ソクラテスにおいて、《美》は、不確かで未規定な未来における《真理》を約束する予言であり指針なのである。ここでは、真と美は、複雑に絡み合っている。ギリシア人は、ミュトスとロゴスを区別できなかった、などという碩学ポール・ヴェーヌのいうような非難はあまり生産的とはいえない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ソクラテスは、プラトンの兄グラウコンに対して、『国家』のなかで次のような物語を聞かせている。アルメニオスの子、勇者エルは、戦場で最期を遂げた。だが、屍は十日経っても腐らず、十二日目に生き返った。彼は、その間に冥界で体験したさまざまな奇妙な出来事を語った。オデュッセウスや大アイアスが、オルペウスやアタランテが、ふたたびこの世に生まれ変わる輪廻転生の物語である。彼らの魂は最後に、レーテーの野において、忘却の河の水を飲む。そこで、冥界や生前の記憶は綺麗さっぱり忘れてしまう。この忘却を、ソクラテスは否定していない。というのも、次のように語っているからである。</p>
<blockquote>
<p>このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ。もしわれわれがこの物語を信じるならば、それはまた、われわれを救うことになるだろう。そしてわれわれは、〈忘却の河〉をつつがなく渡って、魂を汚さずにすむことだろう。……</p>
<p class="post-r">岩波文庫、藤澤令夫訳、372ページ</p>
</blockquote>
<p>ソクラテスの目論見は、輪廻転生を信じさせることである。ここから次のような問題が生じる――転生があり、したがって滅びがないにもかかわらず、なぜ《始まり》があるのか。物語（始まりと終わりが必ずある）があるにもかかわらず、それは滅びることがない、ということが矛盾でないとすれば、一体どうしてそれが可能なのか。このカラクリにおいて、もっとも重要な役割を果たすのが、レーテーの野に流れる放念の河の水を飲むこと、すなわち《忘却》である。原初には、忘却がある――かくして、不滅性と始まりとが同時に実現可能となる。ソクラテスにおいて、忘却はかくも重要なのである。したがって、たとえば『パイドロス』において、文字を記憶の術ではなくて、魂に忘れっぽい性質を植えつける想起の術としたことをもって、ただちに文字技術を軽視する音声中心主義を見てとるのはむずかしい（むろん、ソクラテス‐プラトンたちに音声中心主義的思考は確実にあるのだが）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ジャック・デリダに、『コーラ プラトンの場』と呼ばれる書物がある。『ティマイオス』において語られた《コーラー》を論じたものである。コーラーとは、ヘシオドスの『神統記』のなかで歌われた、あらゆるものの起源、原初であるカオスを〈抽象化〉した、《場》の概念である。ヘシオドスにおいても、カオス（混沌）とはすでにカスマ（空隙）でもあった。したがって、混沌は空隙を、空隙は場すなわちコーラーの概念を呼び覚ます。おそらくは意図的かつ戦略的に（？）迂回に継ぐ迂回を重ねた結果、コーラーがなにものであるかを名指さなかったデリダに反して、わたしは、これをはっきり名指すべきだと考える。コーラーという〈始まりの概念〉は、むしろ正しく《忘却》と結びついているように思われる。というか、コーラーを《忘却》と呼んだとしても、〈なにかを名指ししたことにはならない〉のだから、回りくどいことをしないで、端的に翻訳すればよいのである。そもそも、ソクラテスもそれを“コーラーkhora”と名指しているのだから。それは、たしかに、なにかいわく言い難いものである。ロゴス（叡知的）でもないし、ミュトス（感性的）でもない。真理でもなく、虚構でもない。ソクラテスのいう「第三の類」としての、忘却。それは、永劫と始まりとを同時に実現する。</p>
<p>人間の力の側からいえば、ロゴスは記憶力の範疇に属し、ミュトスは想像力の範疇に属す。そしてコーラーは忘却の力に属し、それらは想起の概念によって結び合わされている。そして、想起し難いものを想起しようとするとき、われわれは、間違いなく、先にあげた三つの概念――混沌カオスから、空隙カスマへ、そして場コーラーへ――を遡行していく。われわれは、なにかであるにもかかわらず、なにかによって言い表せない《それ》を、忘却と呼んでいるはずである。忘却は、かならずこの回路を通って発見される。デリダは、この概念が哲学の外にあると指摘し、この概念の手前で足踏みしたように見える。というか、飛越すべき境界線の上で、なにかの勘違いで綱渡りをしていたようにしか見えない。だが、ソクラテスは、そうはしなかった。それは、哲学の限界ではなく、哲学に課せられた、哲学が超えるべき境界線である。ロゴスからミュトスのあいだに走る亀裂、カスマ＝カオスを軽やかに渡り、そして跳躍するためには、それらの実践を可能にするより広い概念、すなわち《場（コーラー）》の概念がなければならない。ソクラテスの哲学は、まさにここに根ざすことなく根ざしているのである。忘却の手前で足踏みし、それをはっきりと哲学の限界に仕立てあげ、皮肉にも、そして正しくもその哲学をダニエル・リベスキンドの「ベルリン・ユダヤ博物館」に結び付けてしまった彼の〈躊躇〉を超えて、勇敢なソクラテスの哲学は、〈《忘却》から始まる〉のである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ニーチェは『曙光』において、こう言っていた。</p>
<blockquote>
<p>忘却。――忘却が存在するということは、まだ証明されていない。われわれが知っていることはただ、回想ということはわれわれの力の及ぶところではない、ということだけである。さしあたってわれわれは、われわれの力のこの割れ目にあの「忘却」という言葉を置いた。あたかも能力がもうひとつ登録されたかのように。しかし結局のところ何がわれわれの力の及ぶところだろう！　――あの言葉がわれわれの力の割れ目に位置するとすれば、それ以外の言葉は、われわれの力に関するわれわれの知識の割れ目に位置するのではないだろうか？</p>
</blockquote>
<p>ニーチェは、正しく、忘却を「亀裂」と、すなわちカスマ＝カオスと呼んでいる。忘却とは、この亀裂を可能にする場であると同時にこの場を満たすなにかを意味する（したがって、場は混沌へと回帰する）。さらに、ニーチェは、「生に対する歴史の利害について」において、プラトンの『国家』について、次のように語っていた。</p>
<blockquote>
<p>プラトンは、彼の新しい社会の第一の世代は強力なやむをえざる嘘〔永遠につづく、完全な国家があるという〕の助けによって教育されることが必要だと考えた。…このやむをえざる真理のなかでわれわれの第一の世代は教育されなくてはならぬ。…</p>
</blockquote>
<p>輪廻転生を確信し、そうであるがゆえに原因の鎖列に囚われたソクラテス‐プラトン的な人間像において、《第一世代》を実現するためのもっとも重要な概念が、《忘却》であり、そしてそこから生じる嘘、ポイエーシス（生成）を実現するデミウルゴス（創造神）のもたらす、ミュトス＝虚構である。なぜわれわれは、人類の創生にエピメテウスという忘却の神を必要としたのか。ヘシオドスたちの伝える人類創生の神話ほど、快活な笑いに満ちているものはない。人間を過信する兄プロメテウスと、動物に味方する弟エピメテウス――品と位に満ちた、二人の兄弟の神話。『神統記』、それは神の賛歌に名を借りた、忘却する人間の礼賛なのである。アテナイ民主制崩壊のなか、ロゴスに溢れ、《批判》が機能しなくなった世界において、新たな創造を担うのは、これまでずっと創造を事としてきた芸術以外にはありえない。「やむをえざる嘘」――「この危険は美しい」――齢七十を超えてまだ先へ先へと突き進んでいたソクラテスが到達した頂点、それは《文芸ムーシケー》だった。</p>
<div class="post-rl">
<a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3%E2%80%95%E9%AD%82%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%AD%BB%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%97%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3/dp/4003360222%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4003360222"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/51RT21X2NPL._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">プラトン『パイドン―魂の不死について (岩波文庫)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span>
</div>
]]></content:encoded>
			<wfw:commentRss>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/2041.html/feed</wfw:commentRss>
		<slash:comments>0</slash:comments>
		</item>
	</channel>
</rss>

