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	<title>ex-signe &#187; Gödel</title>
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		<title>《文学》のプログラムIV、荘子とヒルベルト</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Jul 2009 02:46:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Gödel]]></category>
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		<description><![CDATA[荘子の言葉をもう一度引用する。 荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや（魚）がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">荘子の言葉をもう一度引用する。</p>
<p>
<blockquote>
荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや（魚）がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「君は魚ではない、どうして魚の楽しみがわかろうか。」荘子「君は僕ではない、どうして僕が魚の楽しみをわかっていないとわかろうか、」恵子「僕は君ではないから、もちろん君のことはわからない。君はもちろん魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ。」荘子は答えた、「まあ初めにかえって考えてみよう。君は『お前にどうして魚の楽しみがわかろうか、』といったが、それはすでに、僕の知識のていどを知ったうえで、僕に問いかけたものだ。（君は僕ではなくても、僕のことをわかっているじゃないか。）僕は濠水のほとりで魚の楽しみがわかったのだ。」<br />金谷治訳『荘子』秋水篇、岩波文庫
</p></blockquote>
<p class="post">普通に読むかぎり、荘子と恵子の違いはこうである。恵子は、「わからない」という状態を、「魚の気持ちなどわかるものでは《ない》」という否定文と考える。この否定文からある種の決定不能を導き、命題を宙吊りにもっていくことで、荘子を論駁しようとするのだ。だが、荘子はこう考える。「わからない」という文を、理解の否定ではなく、実践的な理解の程度を示すとした。そこから、決定不能の宙吊りを大地に引き摺り下ろし、命題を肯定の側へと大きく転回させるのだ（この議論の差異は、無限と無際限の違いとして有名である。無限を、際限がない、という意味の無限と、実無限とに分けるのである。カントールの集合論は、無際限よりも、実無限の方が大きいことを証明する）。</p>
<p class="post">この会話の論理学的なカラクリはこれだけなのだが、われわれがもっと気にしなければいけないのは、にもかかわらず、荘子が《嘘》をついている、ということである。魚の楽しみを知る、などということは、科学的な観点、あるいはカント的な観点からは、まずまちがいなく真理とはなりえない。恵子の論理学的な議論とは無関係に、魚の楽しみなどそもそもわかるわけがないのである。《他者》の感情は、基本的にはカントがいうように不可知である。彼女が泣いているからといって、本当に悲しんでいるかどうかは他人にはわからないし、つきつめていけば、本人にさえわからない。つまり、どう考えても、《荘子は嘘をついている》のだ。そして、もっと不思議なことは、《他者》の不可知性にもかかわらず、そして荘子の言葉が《嘘》であるにもかかわらず、恵子の決定不能よりも、真理に一歩踏み出しているという不思議な事態が発生していることである。</p>
<p class="post">これは本当に不思議なことである。嘘が真理に触れる？　虚構が真理に触れる瞬間がここに現れているのだろうか？　たとえば、無実のひとは、「わたしは犯人ではない」という否定文が信用してもらえないとき（この事態がひとを極限状態に追い込むことが容易に想像できる）、ときに《嘘》をつくことで自身の潔白を証明しようとすることがある。「わたしがやった」というわけである。こうした嘘の自白が行なわれることは、たとえば刑事がふるう暴力とは間接的な関連しかもたない。むしろ、言語と出来事そのものの構造上の特性から必然的に、もっとも真っ直ぐに導かれるのである。というのも、本質的に《正直》である彼は、「わたしは犯人ではなく、わたし以外の者（というかほかならぬ別人）が真犯人である」と述べる術を持たなかったからである（この嘘は、否定文と同じ自己言及しかもたらさない）。だから、ひとは、自身が無実であればあるほど、そして正直であればあるほど、かえって追い詰められて嘘の自白―最小の嘘であるような―を行なってしまうだろう（刑事はそのことを知っておくべきだった）。否定文ではない形で自身の潔白を証明するには、《嘘をつくほかない》のだ。そして、事実、より真理に近づいているのは、理論上は否定文である前者ではなく、後者なのである。徹頭徹尾自己言及である否定文は、なにしろ、自分自身を否定することしかしない。……</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">ゲーデルは、不完全性定理によってヒルベルトの数学基礎論にとどめを刺した。この証明を、ヒルベルトは同僚のベルナイスから聞いた。ベルナイスにはヒルベルトが一瞬、「怒った」ように見えたという。そして最晩年のヒルベルトは、こう言っている。</p>
<p>
<blockquote>ゲーデルの結果により証明論が実行不可能となったという見解は間違いであり、それは有限の立場の拡張が必要であることが判明しただけだ。<br />『数学の基礎』前書き（林晋訳『ゲーデル 不完全性定理』岩波文庫より再引用）</p></blockquote>
<p class="post">ヒルベルトのそれまでの基礎論の試みが誤っていたとしても、彼のこの言明そのものは、わたしには正しいように思われる。有限であるひとが、無限に触れるためにもっているもっとも強力な手段が、《嘘》である。《嘘》があれば、ひとは神とさえ話すことができる。だからひとは《文学》を書く。そして、もっと重要なことは、《嘘》には、おそらく種類が二つあるということである。ひとつは、たんに自身に帰ってくる嘘である。自己回帰的な嘘は、実際には否定文と呼ばれることが多い。「わたしは犯人ではない」というのがそれであり、恵子は言語をこうした本質的に自己回帰的な嘘だと考えている。そしてもうひとつの嘘は、他者を巻き込みながら自分に返ってくる嘘である。荘子は、まるで山に登ればいつも獲物を携えて戻ってくる狩人のように、言葉を発するのだ。この豊かな嘘も否定文の形をして現れることがままあるが、嘘であるにもかかわらず、真理に向けて発声される嘘である（この両者の違いは、ひとから聞いておもしろくない《夢》とおもしろい《夢》を分かつ中心的な分水嶺といってもいい）。ともかく、虚構には、二つの区別が必要だし、この区別なしに虚構という語を用いたとしても、たいていは、カント主義に搦めとられてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
出来事の科学的基礎を与えようとしてきた歴史学は、つねに、自身のうちから《文学》を排除しようと試みてきた。実際、虚構をものす《文学》は、あまりにも科学とは、そして真理とはかけ離れているように思えたからだ。その場合、歴史学がもっとも忌み嫌ってきたのは、デリダの想定とは逆に、《声》である。《声》は、出来事に基礎を与えるには、あまりにも弱々しいものだったからだ。なにしろ、紙や石版といった媒体という定着物を有していないのだから（だが、実際には、この媒体という定着物が、言葉をリプレゼンテーションに変えてしまう……）。歴史主義は、声ではなく、文字に対する極端な傾斜によって、はじまっている。会話文が存在しているだけで、それは歴史学ではなく、歴史小説だと考えられてさげすまれてきたのである。
</p>
<p class="post">むろん、ありきたりの歴史小説のように会話文を挿入することが、出来事の学にとって重要だというのではない。そうではなくて、出来事の基礎にとって、もっとも重要なことは、むしろ《声》を弁証法的に統合することなく、つまり声を文に還元することなく声を扱う、一種の特異な書物を書くことなのではないか。つまり、出来事の基礎論にとって本当に必要な行為は、《文学》することなのではないか。「有限の立場の拡張」。最晩年のヒルベルトの言葉は、おそらく、そのことを指摘している。</p>
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		<title>《文学》のプログラムIII、否定と虚構</title>
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		<pubDate>Mon, 29 Jun 2009 16:00:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[archive(s)]]></category>
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		<description><![CDATA[嘘とはなにか。そしてまた否定とはなにか。嘘と否定とは、よく似ている。実際、区別するのはむずかしい。したがって、ありきたりの仕方で両者を区別しようとは思わない。たとえば、次のような文章があるとしよう。 《私は犯人ではない。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">
嘘とはなにか。そしてまた否定とはなにか。嘘と否定とは、よく似ている。実際、区別するのはむずかしい。したがって、ありきたりの仕方で両者を区別しようとは思わない。たとえば、次のような文章があるとしよう。
</p>
<p class="post-c">《私は犯人ではない。》</p>
<p class="post">
さて、この文章の主語である「私」は、犯人なのか？　犯人ではないのか？　そもそも、「私」はいったい、なにものなのか？　ふつうに考えて、つまりたんに文法どおりに受け取るかぎり、この文章は、主語を占めている書き手が、自分がなんらかの罪の主謀者ではないと考えていることを伝えるように思われる。したがって、「私」は、「犯人」以外のなにものかである、という主張を行なっているように思われる。しかるに「私」は誰だろうか？　この文章が真であるとすると、「私」は、犯人以外のあらゆる可能性をもったひとりの人間である、ということになるにちがいない。ところで、「私」が犯人ではない、ということはわかったが、それだけでは、結局、なにもわからない。この文章は、「私は犯人である」という命題を、たんに否定しているだけだからである。そこで考えを進めていくと、A is not Bという命題は、おそらく、A is Bという命題をひとに仮定させるのではなかろうか。というか、この仮定なしには、A is not Bを生じさせることはできない。したがって、厳密に上記の命題を書くと、</p>
<p class="post-c">《私は犯人である、という文章は私は犯人ではないという意味である。》</p>
<p class="post-n">という奇怪な文章になってしまう。肯定文がその対象を外にもっているのとは異なり、ごらんのとおり否定文の対象は自身のなかに含まれている。いわゆる「自己言及」である。したがって、内在的な証明は不可能である。その点から考えるに、否定文は、実際には、肯定文の否定ではなく、むしろ真偽の問いを宙吊りにする力だというように考えられる。ヒルベルトは、無矛盾であればその数学的存在が認められる、という風に規定した。矛盾が「ない」ならば、数学概念は存在する。しかし、この規定は、ほぼ必然的に、ゲーデルの不完全性定理を導く。矛盾が「ない」、ということによって、矛盾がないことを証明できないからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">しかしわたしは、この文章を、言語学者のようには考えない。むしろ、古文書学者のように考える。すなわち、7000年前に書かれた文章であり、しかも、同時代の同じ地域の文書としては、われわれに伝わっている唯一のものだと考える。いってみれば、この文章は、書かれた時点から今日まで、7000年間、宙吊りの状態で保たれてきた。むしろもっぱら7000年という時間だけを示し続けてきた。しかし、ともかくも、この言葉が風変わりな古文書学者の手に渡ったことによって、この文章は、不思議なやり方である内容を示し始めた。というのも、「私は犯人であるという文章は私は犯人ではないという意味である」という上記の展開された命題は、次のように圧縮できてしまうからである。</p>
<p class="post-c">《私は犯人である、というのは嘘である。》</p>
<p class="post">つまり、否定文が、嘘（虚）という一語に圧縮されたわけである。嘘とは、否と異なり、ひとつの出来事、すなわち嘘をついた、という「こと」を示している。この点にこだわるのは、わたしがいま、古文書学者だからである。古文書であるからには、言葉は、とにかくなんらかの出来事を対象として持っている。すると、統語論的には究極の矛盾を示すだけのこの文書が、いかにも多くのことをわれわれに伝える豊かなものであることがわかってくる。このときこの場所で、ある犯罪があったことが予測できる。そしてなおかつ、容易に犯人を特定できないようなやや込み入った犯罪で、彼が犯人であると疑われていた、ということを示唆している。したがって、「私は犯人ではない」は、むしろかえって、ほかならぬ彼が犯人だったのではないか、という可能性を導く。というのも、この事件の犯人の可能性は、じつは、彼がもっとも高いからである。しかるに、この点では、統語論が陥った決定不能と同じ無意味さを持っているのだが、ただし、違っているところもある。この点が、今述べたことにも増して実りの多い点なのだが、「私」が嘘をついているにせよ、「私は犯人である」というのが嘘であるにせよ、いずれも嘘をついている、という出来事が示されていることには変わりがなく、否定文のように宙吊りになったりしないのである。要するに、否定文があくまで内面にとどまるのとは異なり、言葉が、なんらかの対象を外側、つまり《現実》にもつことが、はっきりと示されている。この言葉が真であろうが偽であろうが、ともかく、誰かが嘘をついていることには変わりがない。
</p>
<p class="post">
否定文の力が、《現実的には》、「私」とわたしをつないでいる《時間》だけを示しつづけたのに対し、嘘には、その時間を圧縮し、過去を今ここに呼び寄せる奇妙なところがある。つまり、そこで行なわれるのは、たしかに捏造ではあるものの、なにはともあれ、《現実》に参与せざるをえない捏造なのである。これを、むしろ創造と呼んでもよいようにも思われるし、だとするなら、《文学》と呼ぶことさえ、差し支えない場合があろう。虚構が、現実に参与する瞬間である。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
わたしがこれを歴史学と呼ばず、また風変わりな、という注釈つきで古文書学者という言葉を使うのは、結局、通例の歴史学者は、否定文と嘘とを混同しつつ、嘘を否定文のなかに解消してしまうからである。つまり、彼らは、現実に参与する権利をもちながら、その権利を自ら放棄して統語論の世界に戻ってしまうのだ（歴史学者のこうした足取りは、カントによく似ている）。だが、ここで必要なのは、嘘に力を与える《文学》なのだ。嘘と否定のちがいを明白に意識しつつ、そのうえであえて混淆的な哲学を構築していたのは、荘子である。彼はこういっている。
</p>
<p>
<blockquote>
荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや（魚）がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「君は魚ではない、どうして魚の楽しみがわかろうか。」荘子「君は僕ではない、どうして僕が魚の楽しみをわかっていないとわかろうか、」恵子「僕は君ではないから、もちろん君のことはわからない。君はもちろん魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ。」荘子は答えた、「まあ初めにかえって考えてみよう。君は『お前にどうして魚の楽しみがわかろうか、』といったが、それはすでに、僕の知識のていどを知ったうえで、僕に問いかけたものだ。（君は僕ではなくても、僕のことをわかっているじゃないか。）僕は濠水のほとりで魚の楽しみがわかったのだ。」<br />金谷治訳『荘子』秋水篇、岩波文庫
</p></blockquote>
<p class="post">
一方の恵子には、嘘と偽を混同し、言葉を時空間から切り離す学者風のところがあり、他方の荘子には、言葉を、たえず現実のなかで用いようとする実践論がある。恵子はゲーデル主義的な統語論者であり、荘子は（風変わりな）古文書学者である。</p>
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		<title>《文学》のプログラムII、もうひとつのヒルベルト計画</title>
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		<pubDate>Mon, 08 Jun 2009 13:32:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
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		<description><![CDATA[「無知の知」というソクラテスの言葉がある。この言葉には、人間は有限の生き物である、という認識の重要性と同時に、有限なものを超えた無限なものに対して人間が抱く意志が含まれている。「知る」ということが、本質的に有限であるとこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">
「無知の知」というソクラテスの言葉がある。この言葉には、人間は有限の生き物である、という認識の重要性と同時に、有限なものを超えた無限なものに対して人間が抱く意志が含まれている。「知る」ということが、本質的に有限であるところの人間が無限を支配下に置くこと―つまり無限を有限の立場から知ること―なのだとすれば、「無知の知」とは、限界のある人間知を超えたものへの拝跪を意味しよう。
</p>
<p class="post">
だが、「無知」がはじめからたんに人間知を超えたものを意味するのであれば、そしてその知を越えたものを知ることができるのであるとすれば、それを知ろうとすることは、まさに人間が人間自身を超え出ることを意味する。簡潔にいえば、無知の知とは、無限を積極的に知ろうとすることにほかならない。かくして、「無知の知」には、知ることへの諦念によって導かれるネガティヴな無限と、もっと積極的な無限への意志とが含まれていると考えることができる。そして、この有限と無限の観点の違いから、次のことがいえる。カントールのパラドックス（≒すべての集合の集合は存在するか）に端を発し、無限を有限の立場から証明しようとしたヒルベルト計画と、その不可能を証明したゲーデルの議論は、じつは、表面的な論理の上では、同じ「無知の知」でありうる、ということである。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
ヒルベルト計画に代表される、数学そのものを数学的に（＝厳密に）基礎付けようとする（＝数学概念が存在することを証明しようとする）数学基礎論を頓挫させたゲーデルの証明について、われわれはこれを二つの方向で考えることができる。ひとつは、ブルバキたちのように、はじめから「数学者は証明する」人間と規定し、ひるがえって数学概念の存在証明を最初から不問にすることである。これによって、数学者は、現実とは切り離された構造だけを問題にすればよくなる。数とはもともと構造的なものであって、こうした意味で数を用いるかぎり、たとえば負の数や虚数が現実に存在するのか、という問いは、もはや必要がない。
</p>
<p class="post">
そして、驚くべきことに、こうした見解は、結局は数学を進展させ、さらにはレヴィ＝ストロースが行なったように、ひとびとの現実の世界認識をも拡張した。このことから、世界を、《ある種の対応関係》をもった虚（イデア）と実の、二つの領域からなる構造的な世界として考察することの妥当性を導くことができる。知性（美）と感性（自然）を区別したプロティノス風のイデア論の隆盛である。こうした議論は、結局のところ、ついには保証されないその対応関係を「信」に置くことしかできないし、その意味では、非常に強い宗教的誘惑を孕んでいる。また、無限を徹頭徹尾、想像（イデア）の側に置くこの議論は、数学者（人間）の肉体的有限性を強く意識することによって導かれていることも指摘できる。つまり、冒頭のソクラテスの「無知の知」の説明でいえば、有限性を超えた無限への拝跪である。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
もうひとつの考え方がある。ゲーデルの不完全性定理が主張する点をよく飲み込んだうえでいえば、彼ら構造主義者が用いる公理的集合論は、前述のパラドックスの問題はあるにしても、ある意味で、すでに相当に強い基礎付けを含んでいたという風にも考えられる。つまり、数学が依然として現実の物理的空間において発揮している有効性は、たんにわれわれが「知らない」基礎付けの可能性を支持していると考えることもできるのである。ゲーデルの不完全性定理は、数学基礎論の可能性を奪ってしまったが、それは、それまでのカントールやラッセルやヒルベルトのパラドックスのなかに、すでに別種の基礎論が含まれていた可能性を示唆していると考えればいいのである。すなわち、われわれは、数学の基礎付けにかんして、「いま現在自覚的には無知であるとしても、すでに知っていたかもしれない、あるいはこれから知りうるかもしれない」のである。これを、「無知の知」ということももちろん可能である。要するに、われわれは、すでに無限に触れていたかもしれないのであり、人間は、そのことを、望むと望まざるとにかかわらず、《意志している》のである。これもまた、ソクラテスのいう、「無知の知」でありうるだろうし、これこそが、有限の立場から無限を知る、ヒルベルト計画の中心であったろう。実際、ヒルベルトの公理論が行なう論証は、こうした意味での「無知の知」に非常に近い形で行なわれる。かくして、ゲーデルの証明を、かつてのヒルベルト計画に近しい形に導くことも不可能ではないのである。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
さて、うそつきのパラドックスを解決する非常に簡単な方法がある。それは、《言葉が物質と同じ力強さで存在している可能性》を探究することである。すなわち、クリュシッポスのいう、「車といえば、口から車が飛び出す」である。本当に口から車（＝「うそつき」）が飛び出すのならば、言葉が存在している以上、基礎付けは必要ないばかりか、すでに基礎付けは済んでいると考えられる。数学よりは物理学に近しい、この不思議な思考、おそらくはひとが「狂気」と呼んできたこの思考は、しかし、基礎付け不能のイデア的存在として数学を「信じる」側が笑えるほどに、確実さに差があるわけではない。そして思うに、前述のプロティノス風の思考をひとが宗教と呼ぶのだとすれば、神なしに言葉の実在を探究しようとするこの思考は、《文学》と呼ばれるべきなのである。</p>
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		<title>《文学》のプログラム、ゲーデルとヒルベルトのあいだ（メモ）</title>
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		<pubDate>Sat, 06 Jun 2009 01:50:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[命題Ａ：「わたしは嘘をついている」。この命題が真なのか偽であるのかを、内在的に証明することはできない。この自己言及的な「嘘つきのパラドックス」を起因として、ゲーデルに導かれ、ある種の数学基礎論―ヨーロッパ的合理主義の極致 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">
命題Ａ：「わたしは嘘をついている」。この命題が真なのか偽であるのかを、内在的に証明することはできない。この自己言及的な「嘘つきのパラドックス」を起因として、ゲーデルに導かれ、ある種の数学基礎論―ヨーロッパ的合理主義の極致であるような―は終焉を迎えたのだが、われわれに必要な哲学は、このあとでどのように数学基礎論を行なうか、である。わたしの考えでは、ここで終焉を迎えた数学基礎論とは、ひとがもはや忘れてしまった、《出来事の学》としての数学基礎論だからである。数学基礎論という、きわめつけの合理主義は、非合理的なものの合理化という、ミシェル・フーコー的な意味での《狂気》を孕んでいる。この《狂気》を、わたしは《出来事》と呼ぶ。
</p>
<p class="post">
さて、存在を形式のなかに還元することで数学の可能性を切り開いた公理主義者ヒルベルトと、存在の数学的証明が不可能であるとしたゲーデルのどちらが好きかといわれれば、わたしは圧倒的に前者を推す。前者にこそ、ニーチェやイェーツのような《文学》を感じる。どちらが《より》正しいか、という点では、もちろん後者ということになるのだろうが、それは、存在を形式に還元するというその勇気のために、かえって、存在というものを証明しようとしたもとの目論見を超え出てしまったからである。だが、本当に重要なことは、存在ではなかったのだ。《存在》は、エクリチュールにより近い概念だ。むしろ、ひとが《存在》という文字を、たえず書いては消し、消しては書いて書き換えているということのほうが、ずっと重要なのであって、われわれは、それを、《存在》ならぬ《生》と呼ぶのである。存在を形式のなかに消し去ろうとする勇気、それこそが、まさに《生》にほかならない。自覚していなかったとしても、ヒルベルトは、ゲーデルよりも、この《生》に近いところにいたのだと思う。
</p>
<p class="post">
だが、われわれの課題は、ヒルベルトとゲーデルのあいだを通ることである。つまり、自覚的に存在ならぬ生にたどりつくことである。これを《出来事の学》と呼ぶ。そして彼らのあいだに引かれた一筋の細い路を、わたしはまたの名、《文学》と呼ぶ。《文学》は、「わたしは嘘をついている」という命題をどのように考えるか。さきに答えをいえば、この命題は真である。つまり、彼は嘘つきであるし、嘘をついているのである。この命題は、はじめは嘘をついている状態と、ついていない状態、二つの世界を混在させる。つまりと真と偽が混在してしまう。かくしてゲーデルは正しさを得る。だが、この二つの状態の「混在」という事態そのものが、あることを主張している。《こいつは、ひとをおちょくっている》……というのは冗談でもないのだが、わたしは嘘つきだ、などとのたまっている野郎は、基本的に「やなやつ」なのである。
</p>
<p class="post">
歴史上、いつも勝利してきたのは懐疑論である。独断論はいつも敗北してきた。命題Ａが真か偽か、という問題は、じつは答えた方が負けなのである。なぜなら、言葉とは、その本質において、《嘘》だからであり、またこの《嘘》という事態が、結果的にゲーデルの定理を保証している。命題Ａにひとは答えることができない。つまり二つの状態が混在する。ひとつしかないはずの真理が二つあるとすれば、それはどちらかが嘘であるということであり、真理が本質的に複数あるのだとすれば、どちらかひとつだけを選択しようとする言葉は嘘しか吐けないということである。この不可能性は、言葉が本質的に《嘘》であることを示す。ゲーデルのプログラムは、結果的には、言葉を偽の領域に囲い込んでゆく。
</p>
<p class="post">
そしてこの勝利のために、ひとは、かならずしもプラトン本人とは関係があるとはいえないプラトニズムに救いを求めるしかなくなってしまう。つまり、存在とは切り離されたイデア界にこそ、ひとびとの知がいまだ可能であるような世界が広がっている、と。新プラトン学派プロティノスに著しく接近した思考が、おそらくは昨今の知識人の主要な思考の中心であろう。プラトンの本質とは異なり、ここでは、真と美は分離してしまう。
</p>
<p class="post">
しかし、そんなはずはないのだ。世界が真であるのなら、言葉もまた真でなければならない。つまり、美（＝言葉）は真（＝世界）でなければならない。歴史において勝利してきたのがつねに懐疑論だったとしても、それは、そもそも歴史が存在を扱うものだったからだ。われわれの興味は、存在ではなく、《生》にある。《生》とは、懐疑の果てにある独断であり、嘘ではなく、真を吐こうとする意志である。ひとは、嘘をついているときでさえ、その嘘が真になることを望んでいる。その嘘が嘘であることを望むようなことは、ひとにはできないのである。命題Ａ：「わたしは嘘つきである」の真偽を答える前に、嘘とは一体なんであるのか、そしてついには言葉とはそもそも何であるかと、われわれは問うべきだった。そしてその問いこそが、《文学》に突きつけられている。そして《文学》において、言葉はその趣を一変させる。言葉は、その本質において、真なのである。したがって、どれほど嘘をつこうとも、そのことにおいて、ひとは真実しか語ることができない。したがって、命題Ａは、実際にはつねに真なのである。これは、本当に不思議なことではないだろうか。ゲーデルは正しい。だが、《文学》はもっと正しいのである。</p>
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		<title>理論家の任務――丸山真男について</title>
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		<pubDate>Mon, 04 Feb 2008 14:30:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
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		<description><![CDATA[丸山真男はこういっている。 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>丸山真男はこういっている。</p>
<blockquote><p>本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の広野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある<span style="font-weight:bold;">断念</span>〔強調は丸山、原文は傍点〕と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。（『日本の思想』岩波新書、60ページ）</p></blockquote>
<p>理論家は、現実に対する「断念」と、そして理論化（抽象化）の過程でとり残されたものに対する「いとおしみ」とを有している――これが、丸山の主張である。ぼくには、この議論から、即座に、彼がもっている、あるひとつの論理的根底のようなものを見つけ出すことが出来る。それは、カント‐ヘーゲル主義であり、とどのつまり、《弁証法》である。当然、このようなタイプの議論は、戦後のある時期以降には、散々批判されてきたものである。この議論の粗を指摘するのは、いまでは、それほどむずかしくはない。丸山のいうように、理論家の行なう操作が、たえず現実から、なにかをこぼれ落ちさせるのだとしよう。抽象化という語を、この学者特有の意味で厳密に使用するかぎり、それは、避けられない。むしろ、そのことを受け容れなければならない。だが、にもかかわらず、理論家には、指のあいだからこぼれ落ちたものを再び掬おうとする「衝動」がある、という。この「衝動」の根拠は明らかではないが、それはひとまず問わないでおこう。問題は、丸山のような形で「抽象／理論」化という語を使用するかぎり、なにをどうあがこうが、永久に真理には到達し得ないことが、その学究のはじめから承認されてしまうことである。</p>
<p>それにもかかわらず、この理論化（抽象化）の過程がなんらかの真実に近づいている、と理論家自身にみなされているのであれば、それは、弁証法以外のなにものでもない。つまり、彼の言葉はつねに現実とは異なる、抽象化された理念なのだが、にもかかわらず、それが現実に近づくというのだから。この理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」が、そうして真理に近づいていくという夢想を根拠としているのであれば、彼は、ヘーゲル的な観念論者、もっというなら、彼がこの引用の冒頭で批判したとおぼしきロマン主義的な観念論と、結果的にはなんらかわりはない。そもそも、彼は対象の背景に「無限の広野」を認めている。したがって、じっさいには、彼がなにを行なおうと、真理には永久に到達できないし、そればかりか、近づきもしないのである。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>とはいえ、そうしてヘーゲル主義的に丸山を読んでも、おもしろくもなんともない。「断念」という語の強調を、極大まで拡大してみよう。そうすれば、この発言は、ただちに、もっとデリダ的なものに変身する。テクストの外部について、理論家は、「断念」せねばならない。そうであるがゆえにこそ……というわけだ。</p>
<p>かりに、ヘーゲル主義的な、理論と現実の弁証法を前提しないでこれを読むなら、丸山は、けっして、この議論において、理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」の根拠を明かしていない。この理論家は、はじめから理論が現実に到達するのではないことを知っていながら、にもかかわらず、そうした理論化を行なおうとする。したがって、この「衝動」は、彼をすこしも前進させない「衝動」なのであるし、じつは、この丸山の議論は、もっと奇妙である。おそらくは、丸山が、心のどこかで無自覚のうちに認めていたような、こうした無根拠な「衝動」において、読むべきなのだ。……</p>
<p>実際には、丸山は、構造主義的な観点、もっといえばデリダ的な観点から非難されてきた。それは、ぼくがいまさきにうえで行なったようなやり口で、である。だが、丸山の議論の構造は、ぼくらが思っている以上に、もっとデリダ的である。大胆な言い方をすれば、印象はずいぶんちがうが、丸山とデリダは、それほどちがっているわけではない。現実について「断念」しつつ、「いとおしみ」と「衝動」をもつ、という、この学者のスタイルは、テクストと外部とを遮断しつつ、その断絶を受け容れたうえで、脱構築を試みようとしていたデリダのスタイルと、同じである。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>この手の議論は、その断絶の大きさを競う議論になりがちである。丸山は、ロマン主義的な、つまり即自的な自他の統一を認めない。デリダは、ヘーゲル的な弁証法も認めない。ここにはもちろん差異はあるが、しかし、質的には変わらないのである――というか、まさに、こうした違いのことを、ひとは思い入れを込めて、「質的に違う」と言いたがるのだろう。この方向で議論していけば、いずれ、カントの《物自体》にまで行き着くことは眼に見えているのである。もちろん、そこまで遡らなくとも、ゲーデルの不完全性定理で充分なのである。柄谷行人が典型的だが、柄谷はデリダを批判して、その枝葉を刈り込んで、ゲーデルの不完全性定理からカントの物自体にまで洗練してしまったわけである。丸山にせよ、デリダにせよ、柄谷にせよ、その無根拠な「衝動」には感心するし、認めもするが、しかし、もはやぼくは関知しない（ぼくのほうでされているはずもないのだが）。</p>
<p>そもそも、ゲーデルの不完全性定理はどう考えても二流の議論である。たしかに、現実と言葉とが、一致するなどと考えている三流は批判できるだろうが、じつは、そんなひとは、たぶん、ほとんどいない。いたら狂人である。そのレヴェルでは、まちがいなく、言葉と現実とが違うことくらいはあきらかに知っている。もともと、一流は、そんな議論とは無縁にやっているのである。たとえば、絵と現実は、あきらかに違うし、数学と現実も、あきらかに違う。だが、にもかかわらず、画家や数学者は、それを真理として、絵を描き、真理として、公式を編み出しているのである。アインシュタインの相対性理論は、あきらかに、彼なりに研ぎ澄まされた絵筆で描かれた絵画なのである。彼は、量子力学には反対したが、それは、ゴッホがゴーギャンのような絵を描かなかったのと、同じことである。</p>
<p>花田清輝のように、アヴァンギャルド芸術を非現実とみなし、そこから反転し、現実世界へと目を向けるための否定的媒介とみなすような論者がある（だから、花田は、彼一流の「レトリック」を弄して、アヴァンギャルド芸術を否定的に絶賛してみせる）。これも、じつは、丸山や柄谷の議論とそう変わるわけではない。非現実。虚構。彼らは、こう考えている。学者や芸術家に求められているのは、ひとを現実へと振り向けさせるための非現実や虚構を仮構することだと。そしてそれこそが、真のリアリズムだと考えている。このようなひとたちは、哲学や芸術、科学が、本当はなにをやっているのか、わかっていない。あげくのはてに、今日では、現実との接点を欠き、ついでに緊張感も欠いたマンガやゲームが、花田がアヴァンギャルド芸術を褒めたのと同じやり口で称賛され、腐敗が進んでいる、というわけだ。ぼくらは、戦争という悪性の腫瘍を外科手術をやって取り除いたはいいが、そのとき、大事な《戦争機械》（ドゥルーズ＆ガタリ）という神経も一緒に切り取ってしまったらしい。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>絵画と現実がちがうだとか、数学と現実がちがうだとか、そんなことを、ゴッホやアインシュタインにいえば、もちろん笑って、こういうだろう。「そのとおり」と。ぼくならそこに「よかったな」とも付け加えるだろう。しかし、それは、出発点とさえ意識されないような、前提中の前提なのであって、そんな議論をことさら強調する必要はないのだ。べつに否定はされない――というか、ぼくらは、なにひとつ否定などしないのだ。ニーチェのいった、三度ヤーだ。だから、彼らは、たんに、そんな議論とは、いちはやくおさらばした。労働者が穴を掘るのと同じ力強さで、ぼくらは、ぼくらで、ほんものの作品を作りあげるのだ。だから、ぼくらもさっさとそんな議論にはおさらばしよう。ゲーデルの不完全性定理だって、立派に現実である。なぜなら、この定理は、なにも起こさない、ということを起こしたからだ。丸山も、デリダも、その理論が、なにも生み出さなかったというそのことにおいて、立派に現実的だった。</p>
<p>穴を掘り、ビルを建て、絵を描き――そういえば、スーラは、絵を描くことを、壁に穴を開けることだと言っていた――、数学の公式を作りあげるように、ぼくらはぼくらで、三流と呼ばれてもいいから、立派な作品をつくればよいのだ。そして、こう言えばいい、優れた理論と、そして優れた現実は、あなたがたが思っているようにではないとしても、必ず《一致する》のだ、と。もちろん、それは、丸山やデリダが忌み嫌う狂気であるけれども。……</p>
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