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	<title>ex-signe &#187; Godard</title>
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		<title>新しい芸術哲学のために（下）　欲望について</title>
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		<pubDate>Fri, 27 Aug 2010 15:29:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>
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		<description><![CDATA[対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心をすべて括弧に入れることによってはじめて、美は真の美となる。つまり、美の前でひとは無力であるし、また無力でなければならない。無力ゆえもはや美を感受することさえできず、圧倒的な力や量としてあらわれる自然の前で耐え忍ぶ崇高だけが、ひとの寄る辺である。いまは自然の浸食によって廃墟となった、かつて人が生み出した建築物は、崇高を意味すると同時に「表象不可能性」をも意味している。廃墟とは、表象不可能なもののモニュメントである。ひとはいつも美を掬い損ね瓦礫を掴んでいる。</p>
<p>しかし、「無関心」の態度は、美から人間的なものを取り去り、美を自然のなかに見いだそうとする努力にもみえる。ならばはじめから、美はわれわれの感性にではなく、自然の側にある、と仮定してみよう。というより、自然との「関わり」のなかでしか美は見出されない、と考えてみよう。「関心」は、そこでは、意味を変える。主観と対象のあいだで弁証法的な作用を繰り返すのではなく、ただ「関心」だけが残る。</p>
<p>ニーチェは美は「関心」のなかでしか見いだされないと言った。ハイデガーは、カントの「無関心」を非難したニーチェの「誤解」を指摘したが、「誤解」もまた誤解である。ニーチェの言葉も正解である。やや難解ではあっても、じつはずっと自然な別種の哲学である（たとえば小林秀雄の「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」（「当麻」）という主張は、美を花から抽象するカントの哲学ではなく、美を花という具象の側に置くニーチェの哲学に属する）。</p>
<p>純粋な顔――それは見る者が彼女への関心を括弧に入れなければ現れない。目というカテゴリー、肌というカテゴリー、唇というカテゴリー、その他さまざまなカテゴリーがあって、これが彼女の純粋な顔をみることを妨げている。こうしたものをすべて括弧に入れたときに、はじめて彼女の顔が、すなわち美があらわれる、と『判断力批判』のカントは考えた。だが、ニーチェは別な風に考えたのだ。彼女は私にむかって生き生きとほほ笑んでいる。だからこそ彼女は美しい。美のためには無関心が必要だって？　それでは恋愛に興じる男女が美しいことを説明できないではないか……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>言葉を、しっかりと自然のなかに参与させよう。「美」が自然のなかに存在していることが事実なら、「崇高」もまた、自然のなかに存在しているはずである。美がもたらす精神の《振動》が自然の事実なら、崇高がもたらす精神の《動揺》もまた自然の事実である。そのことはどれくらい確証があるだろうか。にわかには読者には信じがたいかもしれないが、こういうことが考えられる。</p>
<p>崇高を、自然の圧倒的な力や物量による美の浸食や崩壊と捉える場合がある。そこで、人間が作り出した当初の原型をとどめていないパルテノン神殿やミロのヴィーナスについて考えてみよう。思うに、芸術は、原型の崩壊によって揺らぐことはない。むしろそれらの破壊は芸術のうちに含み込まれるのであって、もとの形態の破壊がかえって芸術を彩りさえすることがある。原型に近づけることを選択した室生寺の修復は、やむをえないとはいえ、それによって神さびた芸術性が失われた部分があることに同意するひとは多いだろう。インドや東南アジアの現用の寺院にも同じことがいえる。きらびやかなそれらよりも、もはや風や草木の浸食を受け入れた崩壊のさなかにある古いアユタヤ王朝などの寺院のほうが、芸術性が高いことは、あきらかなのだ。これらのことは、芸術が、人間のみの概念ではないことを意味している。人間は、もはやその起源のはっきりしないあやふやなきっかけを与えるにすぎない。人間がつくった当時の原型にこだわることは、芸術においては積極的な価値を認めるのがむずかしい。自然において芸術はたえず浸食を受け、原型を保つことは不可能であるにもかかわらず、そのことが芸術の価値を奪うとは決まっていないからである。美や崇高などの芸術の概念は、たんに人間の手によるものではなく、もともと自然のものであると考えたほうが、パルテノン神殿やミロのヴィーナスの芸術性を合理的に説明できる。美の形成からその崩壊にいたる崇高、自然のなかでたえず演じられるそのドラマ全体が美であり芸術であると考えたほうが、ずっと説得的なのだ。</p>
<p>また、かつて崇高は、その名が示すとおり、とりわけ「高さ」の観念と結びついていた。それは、われわれの低さでもある。自然における美は、おそらく対称性を意味する。同様に自然における崇高は、非対称性を意味している。実際、自然界にはきわめて高い水準で対称性が備わっている。物理学者が反物質の世界を想定するのは、彼らが、自然が対称性をもつことを確信しているからである。この対称性を道しるべに、彼らは自然界の理を探っている。荘子の「源天地美而達万物之理」（天地の美に原（もと）づきて万物の理に達す）という言葉はそのことの表現である。</p>
<p>むろん、対称性は破れもする。崇高の意味は、ここでは、美＝対称性が崩壊した状況を指す。しかし、われわれは、美を欲望の観点から考えたい。すなわち、対称性と非対称性のあいだの形成と崩壊の運動として、つまり振動や動揺として、美を捉えたい。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ゲーテの色彩論を敷衍して言えば、光と闇の対称性が保たれているかぎり、色彩は生まれない。逆にいうと、色彩は対称性が崩壊するときに生まれる。真空とは完全な対称性を実現している世界である。それが崩れるときに色が生まれる。すなわち、空から色が生まれる。</p>
<p>したがって、画家がなんらかの色彩を生み出すとき、かならず、彼のなかで対称性の崩壊が起こっていると考えられる。ところで、精神は、なんと肉体と似通っていることか。精神と肉体の均衡が徐々に破れ始めると、画家は、ある欲望を抱く。すなわち、色彩が生まれる。</p>
<p>色彩をカンヴァスに定着させたとき、この画家はようやく精神と肉体の均衡を取り戻す。つまり、彼の精神のなかの色彩と、カンヴァスの色彩が、対称性を描く。美は、対称性が破れ、またそれが均衡を回復する、その短い間に明滅している（この対称性が破れているとき、彼は精神をもっていない――つまり行為している）。対称性をもつ女性の対称性を破ること、そこに男は美を見いだす。</p>
<p>こう考えると、カントが先に思い描いていた美学を捨て崇高へと突き進んだときに、はじめて、画家が到達していた実践的な美の世界に踏み入れたことになる。自然に対する圧倒的非対称に耐え抜く崇高こそ、美の大前提である。美と崇高は、どちらも芸術家の主要な、しかも〈たったひとつの〉テーマなのだ。ともあれ、画家は、精神のなかにある種の不均衡を抱えていた。彼は、カンヴァスに色彩を描かぬかぎり、均衡を取り戻せなかった。対称性があるということ、たとえば右手と左手を区別できるということ、こうした世界は、均衡が保たれていて、それゆえ美的ではあるが、実際には、そこで画家は色彩を思い描くことができない。画家はむしろ、美しい女性のなかのわずかな均衡の破れを、いかにして描くかに、神経を集中させる。対称性は、つねに破られる手前にあって、むしろ破られることを願っている。自然は真空を嫌う、とはそのことの謂いである。芸術家が主に描いているのは、対称が非対称となりまた対称を獲得する、そのプロセス全体であるように思われる。このプロセスは、欲望とよく似ている（そこには、《彼岸の快感原則》がある）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>美に対する批判哲学、という意味では、美学（形式）を否定する崇高に至ったカントやデリダ、リオタールやジャン＝リュック・ナンシーらの議論は極北に位置する。たしかに、くだらぬ美学的なディシプリンは、脱構築すべきものではある。しかし、芸術家の実践はこの問題構成を共有しない。形式を前提にするコンセプチュアル・アートを除けば、もともとアートは形式に従って創作していないからである。形式に従っているようにみえたとしても、彼らに素材やきっかけを提供したに過ぎない。結果的に形式を越えられなかったとしたら、そもそも芸術を生み出したことにならない。</p>
<p>一般に、カントのいうような美と崇高は、芸術作品のなかで混淆している。美だけが存在していることは少ない。むしろ芸術家を駆り立てているのは、美（対称性）と崇高（非対称性）の反復である。たとえばブルーノートやシンコペーション、不協和音のような違和とその解決が、音楽を駆動させていることは周知であろう。自然が生み出した富士山にティピカルな芸術性を認めるとしたら、ある種の鏡面対称性（あるいは回転対称性）を備えると同時に、人間に対する圧倒的量感という非対称性を備えている点であろう。</p>
<p>また、ふつうの鑑賞者にとって、対称性が保たれているだけで美を感じるのは困難である。エジプトの古美術がもっている極端に均整のとれた造形物は、あまりに美的であるがゆえに芸術性を感じない。ギリシアの造形物のほうがずっと芸術的にみえるのは、均整のとれた顔、肉体、衣服が崩壊する瞬間を彫琢しているからである。つまり、不快な非対称性を取り込むことを厭わなかった。ギリシア彫刻がオリエントに伝播する過程で失われていくのが、この非対称性であることに、多くの読者は同意してくれるはずである。衣服のひだ、風を含んだ髪、微笑の口の端に、余計な対称性を付け加える。おそらく、そちらのほうが、より美的になると思ってのことだ。</p>
<p>われわれは、ひとつ作品のなかで、対称性がどのように崩壊し、またどのように対称性を取り戻すのかをみている。視線は、非対称的な姿形のなかに対称性を求め、また均整のとれた肢体のなかの非対称性に単純な快を越えた悦びを見いだす。要するに、われわれは「顔」ではなく、遷り行く「表情」をみている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は、心ひかれる女性を笑わせたいと願う。それは、それまで保たれていた対称性が崩れる瞬間でもあるし、また、醜い（非対称の）男にとっては、それによって、対称性が回復される瞬間もである。いずれにせよ男は、顔だけでなく、そのプロセス全体を所有したいと願う。</p>
<p>肖像画の女性の姿、そこに描かれているのは女の顔なのか、表情なのか。それは判断がつかない。顔であるとしたら、それは鑑賞者が関心を括弧に入れていることになる。彼女が微笑みかけていると思ったなら、それは彼が己の関心にしたがってみたことになる。</p>
<p>これらはそれぞれ別の哲学を形成する。一方の考えが他方の考えを一方的に批難できるようなものではない。われわれがみているものが、顔なのか、表情なのかは、みている人間の関心のありかた次第だからである。</p>
<p>しかし、不思議なことに、無関心によって見出された顔、すなわち美の純粋性は、崇高によって打ち破られる。つまり、顔は、次の瞬間に崩壊する、と、崇高の哲学者たち自身が言っていた。それは何を意味しているか。結局、ニーチェに回帰しているのではないのか。</p>
<p>いや――もちろん、これらは別の哲学である。美の崩壊に崇高を覚えるひとたちが、ときにカンヴァスを切り刻み、金閣寺に火を放つとすれば、ニーチェは不思議そうに答えるだろう、彼女は微笑んでいるし、金閣寺はつねにすでに朽ちていたではないか、と。美から崇高へ至る道は、極端なもの、けれん味たっぷりの大げさな身振りを必要としない。もっと微妙な、さりげないもので十分だった。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>写真が美でありうるとしたら、そのフレームに写真家の「関心」が現れている場合だけである。こうした写真は、被写体の「表情」を撮（つか）むことができるだろう。したがって、「顔」を写す機械の証明写真には、美はほとんど存在しない。もし「無関心」が美をもたらすのであれば、証明写真にこそ美がなければならないはずなのに、そうなっていない。なんの関心も示さずレンズに微笑みかけてくれるような被写体は存在しない。それは、ひとが恐怖を感じる場所で撮影した写真に霊やお化けが写ることと同じである。恐怖を感じないのであれば、お化けは写ってくれない。</p>
<p>ゴダールはとにかく女性を美しく映す。アンナたちに向けられたレンズの前で、彼が「関心」を括弧に入れていたはずはないと感じる。レンズを挟んで交錯する恋人たちの視線が、彼の作品の生産性に少なからず寄与していると感じる。彼の特権は、カメラの手前にある欲望を否定しなかったことである（彼はとりわけポルノ映画と勝負している）。彼の映画は、つねに、撮影する者とされる者のあいだで起こる事件であり、かつそのドキュメントである。</p>
<p>モナリザは微笑んでいる。素顔と、そして風景があるのではなくて、レオナルドに向かって、あのような表情を作った。逆にいえば、レオナルドは、彼女からあのような表情を引き出すことに成功した。レオナルドが彼女に無関心だったはずもないし、彼女が彼に無関心だったはずもない。</p>
<p>それは、ゴダールの映画同様、描き、そして描かれることのドキュメントであって、それが彼女の表情に凝縮している。そして、わたしは、そのことが美であると感じる。この絵画を鑑賞するのに、「無関心」のような高尚な態度は必要ない。欲望に忠実であればよい。女からあのような表情を引き出したレオナルドに、男として感心する。そのことが、そのままこの絵画の偉大さである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>欲望や関心と、美が関係しない、ということは不自然である（もちろん、あとで崇高を持ち出して純粋な美を否定するわけだが）。むしろ、もっとも古いソクラテスともっとも新しいニーチェが考えていたように、美しいものは、ひとを自然に引き寄せる性質をもっている、という定義から出発すれば十分ではないのか。</p>
<p>この定義の延長線上に、折口信夫の次の言葉は位置している。「人生に最も重大なる欲望は、自己保存に関する食欲、ならびに性欲である。この二つは、厳乎として生の根本に、大問題を横たえているのだ。…ただ大なる芸術品であるためには、この生の大問題におのずから触れていて、この欲望を暗示的に表現するところがなくてはならぬ。囚えられたる欲望が、自由に超経験的に活動をはじめたのは、この時からである」（「零時日記」）。</p>
<p>崇高の哲学者たちは、プラトン以来の西欧哲学の欺瞞を批難することに躍起である。だがそもそも、イデア哲学と批判哲学は美に対する理論的根底がまったく異なる。プラトンは批判哲学の問題構成を共有しないし、自分を西欧の哲学者と規定もしないだろう。「判断力」は、もともと批判哲学の構造が呼び寄せたものである。理性と感性のあいだに悟性を立てる、というこの哲学によって、逆説的に過剰に照射されてしまった。あるものを美しいと判断するか否か、という問いを批判哲学者は立てた。しかし、ソクラテスたちによれば、美しいものに、ひとは自然に引き寄せられてしまう。――つまり、彼は思わず「美しい」と呟いてしまう。判断力という問いは立たない。ひとは、美の前で、判断力（われ）を失う。</p>
<p>主観的な趣味判断がいかに普遍妥当性を得るか、という問いに答えるのは容易ならざることである。この不可能な問いは、答えるよりも先に問いを破壊する。つまり、ここで召喚された美は崇高によって打倒される運命にある。美の崩壊は、それを構成したカント哲学自身の崩壊にもみえる。つまり、彼が打ち立てた超越論的主観は、美の前で自壊する。ところで、ソクラテスはすでにこう考えていた、ひとは、美の前では「われ」を失う、と。そしてニーチェは言っていた、（「同情」とは区別される）われを失わせる「陶酔」は人間の最高の能力である、と。</p>
<p>美のもたらす統整的な作用は、ひとにかえって崇高を与えるものだった。美は捉えられる手前で足踏みするか先へと行き過ぎてしまう。しかし、別種の哲学において、美はもともと形成と崩壊の運動だった。つまりもともと消え行くものだったのであり、したがって、消え行くということにおいて、ひとはつねにすでに美を手にしている。ひとは、たえず美の恩寵に与っている。</p>
<p>美は、真理とは異なるやりかたで客観性を獲得する。すなわち、《われを失う》、判断を他に委ねるという形で客観性を実現する。よくいえば自意識を捨て去ることだが、悪くすれば自己を見失う。したがって、美の前でいかに自己を保つか、という問いが、ソクラテスとニーチェによって開かれる。</p>
<p>しかし同時に、自己を保つ、とは、美が消え行くものであることを認めることにある。というのも、欲望が成就する手前でとどまることが、美をもっとも長く享受するための、最高最善のやりかただからだ。したがって、ソクラテスとニーチェにおいて、自己を保つことと、欲望の追求は、齟齬しない。この哲学は、他者ではなく、自己を相手にする。</p>
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		<title>中平卓馬</title>
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		<pubDate>Thu, 11 Sep 2008 08:58:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[diary]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>
		<category><![CDATA[中平卓馬]]></category>

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		<description><![CDATA[中平卓馬という写真家がいる。１９７７年の９月１１日、つまり今日からちょうど３１年前に、アルコール中毒で倒れ、記憶や言語に障害を負いながら、今日もまだ、写真家でありつづけているひとである。ぼくが彼のことを知ったのは、一昨年 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>中平卓馬という写真家がいる。１９７７年の９月１１日、つまり今日からちょうど３１年前に、アルコール中毒で倒れ、記憶や言語に障害を負いながら、今日もまだ、写真家でありつづけているひとである。ぼくが彼のことを知ったのは、一昨年の暮れごろだったと思う。尊敬する方が――といっても、いまでは、理論的にはぼくはだいぶ違うところにいるのかもしれないが――いや、本当はそんなことはないのかもしれない――、教えてくれたのだ。彼の映画がある、それを観に行ってみてはどうか、といわれたのである。ぼくは、そのときはじめて、彼の名前を知った。</p>
<p>当時、ぼくは記憶やら忘却やらのことについて、巡らぬ頭を巡らせて考えていたので、その示唆はものすごくタイムリーだった。だが、その頃は学会の準備などで微妙に忙しく、結局その映画には行かなかった。それで数年が経ち、そして一昨日のことだ。交叉点の本屋で、偶々、彼の『なぜ、植物図鑑か』を見かけた。そして手にとって、驚いた。彼は、わたしがゴダールの『東風』を観て感じたことを、もっと的確な言葉でそこに記していた。すこし前に、ぼくは『東風』について語り合う革命家たちのくだらない話を書いた。ぼくは、血液を赤インクだというアンヌ・ヴィアゼムスキーの台詞――いや、『中国女』だったか？　ヴィアゼムスキーでもなかったか？――にいつもどきどきするのだが、やはり、彼もそうだったらしい。そのことは、すでに『なぜ、植物図鑑か』に書かれていたのだった。</p>
<p>読むにつれて、興奮が抑えられなくなってきた。どこを切り取っても、そこには一流だけがもっている鋭利な、ほんものの視座がある。こんなひとが、まだいたのだ。読んでいくと、アルベール・カミュが引用されていたりするので、ぼくもカミュを本棚の後ろの方から引っ張り出してきた。論点はちがうが、「価値無きものの価値の哲学」は、中平のおかげで書けたものである。</p>
<p>そのとき、偶々隣にいた知己の女性に見せると、「文章があなたに似てるね」という。そうだろうか。そうなら、彼は迷惑かもしれないが、すごくうれしい。遅れ馳せながら、ファンになった。</p>
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</div>
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		<title>ゴダールの偉大</title>
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		<pubDate>Tue, 22 Apr 2008 00:55:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[diary]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>
		<category><![CDATA[ポップ]]></category>

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		<description><![CDATA[毎度自分のことばかりで恐縮だが、ゴダールの映画に出会えたことは、本当によかったと思っている。十代の終わりに、レンタルビデオ屋でゴダールの『気狂いピエロ』を借りて震撼させられて以来、いつも彼のことを考えていた。ゴダールの映 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>毎度自分のことばかりで恐縮だが、ゴダールの映画に出会えたことは、本当によかったと思っている。十代の終わりに、レンタルビデオ屋でゴダールの『気狂いピエロ』を借りて震撼させられて以来、いつも彼のことを考えていた。ゴダールの映画は、ぼくの考える芸術というものの感覚に、完全にぴったり来ていた。まだその頃は、そうした感覚を言葉にするにはあまりにも幼稚だったが、ならば、いまはどうかと問われれば、もちろん、感覚的に答えるほかない。</p>
<p>ぼくは、別に映画鑑賞は趣味ではない。絵や音楽とちがい、自分でそこにアクセスするには、映画はあまりに巨大なものだったからだ。絵画や音楽には、すでに、《アート》と呼べる領域が存在していた。たとえば、音楽。アイドルの歌う歌と、ベートーヴェンのそれがちがうことくらいは、子供でもなんとなくわかる。といって、それほど明確な差があるわけではない。ならば絵画はどうか。漫画の表紙と、レオナルドの描いた絵がちがうことくらいも、やはりわかる。しかしもちろん、それほど明確な《区別》があるわけではない。量的な違いが質的な差異に変化するほど大きい差があるとしても、そこにあるのは、あくまで、《差》なのだ。そういうことは、子供でも認識する（おそらくは大人たちの弁証法に感化されて）。だから、漫画の絵を追求していく果てに、芸術としての絵画に到達する、ということは、あってもよいように思える。音楽もまたしかり。ぼくの子供時代は、親の影響からビートルズをよく聞かされたが、ビートルズは、音楽におけるベートーヴェンと歌謡曲のあいだを埋めてくれる、よいアイテムだった。</p>
<p>思えば、ぼくの幼年期は、知識人と大衆のあいだをつなぐものが求められていた世代によって影響されていた頃である。それは多分にマルクス主義の影響だが、べつにそれだけではなく、もっといたるところから、《民主主義》の名の下に、すべてが許されていた時代である。政治はポップでなければならず、また、アートもポップでなければならなかった。坂本龍一が結局はポップスの道を歩んでいたのも、そういう時代であるがゆえに、である。実際、ぼくも、おそらくは政治的に暗示されて、そういうものを好んで聴いていたと思う。たとえば、ジミヘンのギターもいいけど、イーグルスのギターの音もなかなかいいね、だとか、若い頃のスティーヴィー・ワンダーはよかった、だとか、そういう大人の言葉を嬉々として聞き、それを学校の級友に話して、何度も反芻していたのである。</p>
<p>ともあれ、音楽にせよ、絵画にせよ、すべてがポップ化していた時代に、ぼくが出会った気狂いピエロは脅威だった。それは、多分に映画というものをぼくがまったく知らなかったことに起因している。ぼくにとっての映画の観念には、アートの領域はまったく存在していなかったからだ。ぼくは、ゴダールが誰なのかも知らなかったのだ。まだ、浅田彰や蓮実重彦なんて、名前すら知らず、当時の知識人やアーティストで積極的に知っているとすれば、せいぜい坂本龍一（か、父親の本棚によく見かけた吉本隆明）くらいのものだった。ゴダールに対する前知識などまるでなかった。おしゃれなパッケージに惹かれたというくらいで、いや、そんなパッケージよりも、ただ、「ゴダール」という監督名がぼんやり輝いているようにみえたというただそれだけの理由であの映画を借りて夜中にひとりでみたとき、本当におしっこをちびりそうになったのだ。《なんだ、これは？？》</p>
<p>そこには、大衆と知識人のあいだだとか、風俗と芸術のあいだだとか、そんな生ぬるい問題構成は一切存在していなかった。たんにアートだった。ショットとショットのあいだの飛躍、台詞と台詞のあいだの飛躍、あのすべての飛躍が、ぼくをアートの世界まで三段飛ばしで運んでくれたのだ。いまでは、あれほどポップな映画もないと思うだろうし、誰もがそれに同意してくれるだろう。みんなが、そういう風に、彼の映画をポップに楽しんでいる。ともあれ、それまで、結局は大衆のひとりに過ぎず、大衆的なものに塗れていたぼくに、《個人》というものを教えてくれたのだ。大衆と知識人、という二項対立的な問題構成そのものでさえ、大衆的なのだ。そうではなく、ぼくらは、《個人》にならねばならない。《勝手にしやがれ》、というわけだった。</p>
<p>音楽であろうが、絵画であろうが、量や質の問題を超えて、ただ強度としてあるような、芸術の領域。漫画や歌謡曲が、けっしてたどりつけない、芸術の領域があるのだ――といって、じつは、芸術など、けっしてそんな大そうなものでも立派なものでもない。求められてひとに憩いを与える漫画や歌謡曲の方が、よっぽど立派である。むしろ、芸術の方が、漫画や歌謡曲のような、憩いを求めてしまうのだ――つまり、芸術とは、個人そのものであり、人生そのものなのである。労働者は、べつに、芸術など求めはしない。労働者が求めるのは、ひとときの憩いであり、いつも目の前に広がっている《人生》を遠ざけてくれるものの方が、よっぽど重要なのだ。芸術は、労働者の憩いになど、なろうと思っていない。たんに、労働者に、あるいはたんに《人生》になりたいと思っているのだ。本当の本当のリアリズムを求めているのだ。</p>
<p>いまのぼくがゴダールの映画をはじめて観たならば、即座に《文学》と叫んだことだろう。彼の映画は、ぼくにとっての文学的体験そのものだったのである。戯作と呼ばれ、たかだかエンターテイメントにすぎなかった小説を、芸術にまで高め、純文学の領域を作り出した戦前の文学者と同じ努力を、ゴダールはしていたのである。戦後の文学者たちが負った仕事は、それをまた大衆の足下に引き摺り下ろすことであり、あろうことか、そうした近代文学がポップな《国民国家》を作ったとまで言われるようになるのだが、そういうことと、戦前の真の文学者が無縁であるように、ゴダールもまた、無縁である。ゴダールの映画は、大衆とも、労働者階級とも無縁の芸術である。だからといって、芸術が、王や領主を選ぶと考えるとすれば、それはあまりに二項対立的な考えである。芸術は、王か、民か、ならば、もちろん、民を選ぶ。ただし、大衆は別である。そんな抽象的な《マス》よりも、具体的な《個人》と、あるいは、定冠詞の付かない、ただひとりの《労働者》と、関係を結びたいと思っているのだ。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>まとまっていないが、彼への賛辞を書きたくなったので、書いたまでである。ゴダールは、批評家としても、きわめて明晰である。だが、彼のような批評を、日本の戦後の文学批評家からは、一度も聞いたことがない。べつに、非難していうのではなく、戦後の批評家は、相当に特殊な領域を築いていたということである。ゴダールに、映画など虚構にすぎない、などと、唖然とするようなことをいうひとはどこにもいないだろう。だが、戦後の批評家は、そういうことを、文学者に言い続けてきたのである。これはこれで、戦後の日本を研究対象とする場合には、とても重要な事実となるだろう。ぼくは、戦前にばかり目が向く古くさい人間だが、《芸術など虚構にすぎない》という言説が、戦後の日本を作りあげたと考えて、おそらく差し支えない。思えば、ゴダールは、《ドキュメンタリー》と《フィクション》という二つの極について、次のように言っていた。</p>
<blockquote>
<p><b>〔インタビュアー〕</b>――それで、あなたはどの極から出発されたのですか？<br />
<b>ゴダール</b>　どちらかと言えば、ドキュメンタリーから出発し、ドキュメンタリーにフィクションによる真実をもちこもうとしているということになると思う。…<br />
　ぼくはまた、演劇的側面にも興味をひかれている。『小さな兵隊』では具体性に到達しようとしたわけだが、ぼくはあの映画ですでに、具体性に近づけば近づくほど演劇に近づくことになるということに気づいた。そして『女と男のいる舗道』は、きわめて具体的であると同時にきわめて演劇的な映画だ。…リアリズムにうちこむことによって演劇を発見し、演劇にうちこむことによって……。演劇の背後には人生があり、人生の背後には演劇があるというわけだ。ぼくは想像的なものから出発し、現実的なものを発見した。でも現実的なものの背後には、もう一度想像的なものがあるわけだ。</p>
<p class="post-r">（『ゴダール全評論・全発言I』、奥村昭夫訳、筑摩書房、一九九八年、508ページ）</p>
</blockquote>
<p>そういえば、志賀直哉のおかげで論文が書けたと前に言った。それと同じくらい大きかったのは、ゴダールの『映画史』である、ということを、あのとき、付け加えておいてもよかっただろう。ゴダールの態度は、『映画史』においても、変わっていない。彼は、歴史のドキュメントのなかに、ゴダール自身という、きわめつけの演劇的なものを登場させたのだから。それと同じことを、論文を書いていて、ぼくにも感じられた。真理に近づこうとすればするほど、それはより虚構的になるという事実に。それは、真理か、それとも虚構か、などというふやけた二項対立とは無関係なのだ。……</p>
<div class="post-rl">
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</div>
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		<title>歴史の罠と差異化</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Nov 2005 03:27:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Deleuze]]></category>
		<category><![CDATA[différen(t/c)iation]]></category>
		<category><![CDATA[erewhon]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>
		<category><![CDATA[traces]]></category>
		<category><![CDATA[ブラックホール]]></category>

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		<description><![CDATA[歴史とは、何か。つきつめていえば、それは、過去を現在に回収する装置である。もっと端的にいえば、過去を現在に変える装置である。歴史の装置は、だから、過去ではなく、《現在》に置かれている。純粋に過去そのものであるような歴史は [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>歴史とは、何か。つきつめていえば、それは、過去を現在に回収する装置である。もっと端的にいえば、過去を現在に変える装置である。歴史の装置は、だから、過去ではなく、《現在》に置かれている。純粋に過去そのものであるような歴史は、存在できない。“過去そのものであるような歴史”とは、錯乱せる人間の理性が生み出した、端的な誤謬である。したがって、むしろ、誤解を恐れずにいえば、歴史の探求とは《現在》の探求であり、一般化を犠牲にしてより正確を期せば、過去についての《現在》と現在についての《現在》の差異を明るみにすることである。つまり、歴史は《過去》を扱うのではない。</p>
<p>資本主義とは、何か。つきつめていえば、それは、過去の生産形態と現在の生産形態の差異を通約可能にする装置であり、もっと端的にいえば、過去を現在にもってくることで、価値を生産する装置である。商人資本は空間的差異から価値を生み出したが、資本主義は、その場にいながらにして、差異を生み出すことに成功したのである。</p>
<p>このように、これら二つの装置は、過去と現在を通約（＝通訳）するという点で、奇妙に重なり合っている。資本主義は、ある意味で、歴史的時間にまつわる上記の人間的誤謬を利用することで、「剰余価値」（マルクス）を生み出していると考えて差し支えない。</p>
<p>欠損を含む過去世界からの手紙（＝「痕跡」（デリダ））を読む古文書学者は、いわば、近代資本家の集約された姿である。手紙の欠損、それは、他者ではない。欠損を含む手紙全体の記述＝痕跡もまた、他者ではない。むしろ、《現在》である。にもかかわらず、この欠損が、“古さ”に見え、しかも、書き手の時間上の立ち位置（過去）がもたらしたものに見えるということが、歴史という装置のもっているひとつの罠である。“古さ”とは、《現在》である。過去ではない。このように、歴史は、徹頭徹尾、《現在》であるにもかかわらず、それが《過去》に見えるという、きわめて重大な欠陥を持っている。この欠陥は、文字から、「亡霊」（デリダ）を浮かび上がらせる。「亡霊」、それは無数の読者の影である。手紙が書かれて以来、さまざまな読者がいた。もちろん、読者には、あなたが含まれている。問題は、けっして書き手の「亡霊」ではないということである。</p>
<p>じつのところ、《現在》を扱う歴史においては、真の《過去》は置き去りにされている。また、同じことだが、歴史は《ここ》だけを扱っているのであり、したがって、《よそ》は置き去りにされている。文字は古い。だが、過ぎ去る現在――つまり過去――にある声と違って、文字は、つねに《今ここ》に定着している。つまり、文字は、《現在》にある。だから、本当に《過去》や《よそ》を扱おうと思うなら、歴史は、《今ここ》もろとも消滅しなければならない。</p>
<p>“ここ”と“よそ”。あるいは、“今”と“過去”。それらが通約可能な差異であるうちは、コミュニケーションは、この差異を同一化するプロセスとして捉えられ、また、そのことの不可能性が、同時にコミュニケーションの不可能性として把捉される。基本的に、デリディアンの議論は、この同一化のプロセスを、同一化不能のプロセスに重ね合わせることである。すなわち、同一化を志す思考が同一化不能の地平に到達することで、差異の通約可能性を疑い、さらには、通約不能の差異を見出すこと、これを脱構築と考える。したがって、同一化と同一不能性とのあいだの“揺らぎ”や、あるいは“ためらい”に可能性を見出すというパターンを取りがちである。この“揺らぎ”や“ためらい”が、デリダの用語で「差延」と呼ばれることになる。</p>
<p>だが、“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”とが、通約可能な差異ではなく、絶対的な差異をもっているのだとしたらどうだろうか。その場合、こうしたプロセスそのものが不可能になるはずである。つまり、通約可能な差異という発想を疑うための通約可能性を想定することができず、結果として、脱構築の手続きを踏むことができないことになる。したがって、デリディアンの議論は、じつは、袋小路だとわかっている道を選ぶようなものである。というか、最初からいきなり壁にぶつかるのである。強力なブラックホールであるヘーゲルを内側から破壊することはできない。内側に入った時点で一巻の終わりである。</p>
<p>考え方を変えよう。“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”とは、絶対的な差異をもっている。<strong>にもかかわらず、わたしたちは、コミュニケーションしている</strong>。だとすると、問題は、時空間の差異とは別のところにある。すなわち、コミュニケーションが、差異を同一化していくプロセス（脱構築の場合は、その逆）として捉えられているという、この部分に誤りがある。同一化が不可能であるとわかっていながら同一化を欲望することができるのはデリディアンだけであり、要するに間違っている。むしろ、コミュニケーションが、差異Ａから差異Ｂへの《差異化》のプロセスであるとすればどうか。だとすれば、絶対的な差異は、むしろコミュニケーションの可能性である。“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”との差異が、別種の差異にもち来たされることが、コミュニケーションである。したがって、真に問題なのは、“ここ”<strong>と</strong>“よそ”、“今”<strong>と</strong>“過去”を繋いでいる「と」である。この新しい「と」は、古い「と」のように両者を対立させつつ、通約可能なものとして、繋げているのではない。むしろ、両者を引き離しつつ、併置している。両者の、通約不能の絶対的距離が、同時に併置を可能にしている。「と」は、その表現である<sup><a name="p1" href="#n1">(1)</a></sup>。</p>
<p>ところで、《差異化》は、ジル・ドゥルーズの概念differen<strong><em>t</em></strong>iationである<sup><a name="p2" href="#n2">(2)</a></sup>。この概念の、もっとも優れた例のひとつが、柄谷行人の言う、「教える」立場<strong>と</strong>「学ぶ」立場である。この場合、重要なのは、二つの立場の差異は、“今”と“過去”という絶対的な差異を内包しているという点で特徴づけられるということであり、にもかかわらず、この絶対的な差異なしには両者の関係が形成されないという、（同一化を志向する古いコミュニケーション論からすると）一種の逆説が成立していることである。したがって、ここで柄谷は、コミュニケーションの概念そのものの変更を迫っていることになる。つまり、コミュニケーションとは、差異を同一化することでも、同じものを差異化することでもない。差異から差異への《差異化》なのである。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a name="n1" href="#p1">(1)</a> この議論は、ご承知のとおり、ジャン＝リュック・ゴダールの『ヒア＆ゼア　こことよそ』（1974年）およびジル・ドゥルーズの『シネマ』（1983-5年）のゴダール論を念頭に置いている。</li>
<li class="note"><a name="n2" href="#p2">(2)</a> ドゥルーズの「差異化」と、デリダの「差延」はまったく意味が違うという事実を確認しておきたい。</li>
</ul>
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		<title>ジャン＝リュック・ゴダール『東風』</title>
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		<pubDate>Sat, 30 Jun 2001 17:41:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[cinema]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>

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		<description><![CDATA[東風と西風。かの５月革命の影響のなか、ＪＬＧを中心とするジガ・ヴェルトフ集団によってつくられたもっとも美しい闘争映画のひとつ。政治的西部劇の自己批判といった形で展開する本作は、「二つの戦線を同時に戦う」「造反有利」という [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>東風と西風。かの５月革命の影響のなか、ＪＬＧを中心とするジガ・ヴェルトフ集団によってつくられたもっとも美しい闘争映画のひとつ。政治的西部劇の自己批判といった形で展開する本作は、「二つの戦線を同時に戦う」「造反有利」という宣言に到達して未完のフィナーレを迎える。二つの戦線とは、アメリカのスパゲティ西部劇であり、ソ連のエイゼンシュテインによる修正主義的リアリズムであり、それはすなわちベトナム戦時下のアメリカのイデオロギーであり、ソ連のスターリニズムである。映画がブルジョワもプロレタリアートも同じ強度でフレームに収めてしまうことをためらいつつ、しかしそのことによって表象批判を徹底的に推し進めていく。映画においては、スターリンもブルジョワも同じに映る。赤を背景にしたポスターに同居する毛沢東とスターリンはあきらかに同等であり、ＪＬＧはそれを差異化するためにスターリンに黒い斜線を入れる。「この映画にスターリンの顔が映ることが問題だ」、「ジャン＝リュック、その考えは間違っている」。……</p>
<p>アンヌ・ヴィアゼムスキーの首を締め上げる南北戦争の軍服を来た男に、カメラの外からふりかけられる大量の血はあきらかに赤い絵の具である。これらのあからさまな表象に奥行きを与えようと、フィルムには荒々しい引っかき傷が大量に刻まれるが、その引っかき傷は映像そのものを無残にかき消してゆき、ただただ赤画面と黒画面が交錯するばかりになる。</p>
<p>この映画は生きている。「歴史の孤独」は、少なくとも６８年５月に関しては、この映画が見事に救ったのではないだろうか。この映画には、ヨリス・イヴェンスの『北緯１７度――ベトナム戦争実録』とはまた違った意味での、あるいはまったく同じ「命がけの美」があった。</p>
<div class="post-rl">
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<span style="text-indent: 0em;">『東風 [DVD]』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span></p>
<p>監督：ジガ・ヴェルトフ集団<br />
製作：クロード・ネジャール<br />
脚本：ジャン＝リュック・ゴダール、ダニエル・コーン＝ベンディット、セルジョ・バッツィーニ<br />
撮影：マリオ・ブルビアーニ<br />
編集：ジャン＝リュック・ゴダール、ジャン＝ピエール・ゴラン<br />
録音：アントニオ・ヴェントゥーラ、カルロ・ディオタレッリ<br />
助監：クロード・ミレール<br />
記録：セザンヌ・シフマン<br />
製作：フィリップ・センネ<br />
製作総指揮：ラルフ・ボーム<br />
 出演：ジャン・マリア・ヴォロンテ（騎兵隊仕官）、アンヌ・ヴィアゼムスキー（革命家）、パオロ・ポッツェジ（指揮官）、クリスティアーナ・トゥリオ・アルタン（ブルジョワ娘）、アレン・ミジェット（インディアン）、ダニエル・コーン＝ベンディット、グラウベル・ローシャ、ゲッツ・ゲオルゲ、リック・ボイド、マルコ・フェッレーリ<br />
1969年／フランス＝イタリア／100分／イーストマンカラー／16ミリ／スタンダード
</p></div>
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		<title>ゴダール『はなればなれに』</title>
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		<pubDate>Tue, 27 Mar 2001 00:39:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[cinema]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>

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		<description><![CDATA[原題は『徒党』。なぜ今まで日本で一般に公開されなかったのかが不思議なくらいポップな映画。タランティーノが、アニエス・Ｂが、ヴェンダースが絶賛するなどカルト的な人気を誇る映画でもある。ベンヤミンが言っていたキッチュと前衛の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>原題は『徒党』。なぜ今まで日本で一般に公開されなかったのかが不思議なくらいポップな映画。タランティーノが、アニエス・Ｂが、ヴェンダースが絶賛するなどカルト的な人気を誇る映画でもある。ベンヤミンが言っていたキッチュと前衛の幸福な融合をこれほど感じさせてくれる映画もそうないのではないかと思う。ＪＬＧは、この作品を失敗作であると言っており、また、私もそれに同意しないでもない。彼の運動神経や卓越した身体感覚は明らかだが、脱構築が形式化（非物語が物語化）されてしまった観は否めない。アンナ・カリーナが、あるいはミシェル・ルグランがそうさせてしまったのかもしれないが、そもそもＪＬＧにはこのようなキッチュさがあるのであって、ＪＬＧだけを擁護することはできない。それはいわばアマチュアリズムと通底しており、だが、私はむしろそのようなアマチュアリズムに賛同する。即興演出に長けたＪＬＧが、さらに早く撮ることを考えれば、このような作品になるのかもしれない。おそらくこの映画は同時期のセーヌ左岸派、ジャック・ドゥミの影響もあると思われ、実際、劇中で、『シェルブールの雨傘』の引用（ルグランの音楽）がある。</p>
<p>ともかく、おもしろい、というほかない。この映画をきっかけに「映画」を観る人が増えることを願う。恋人同士で観にいくべき映画かもしれない。</p>
<div class="post-rl">
<p><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%B0%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%AB-DVD-%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3-%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/B00005RV29%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00005RV29"><img src="http://ecx.images-amazon.com/images/I/41J46DDXHML._SL160_.jpg" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">『はなればなれに [DVD]』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span></p>
<p>監督・脚本：ジャン＝リュック・ゴダール<br />
原作：ドロレス＆バート・ヒッチェンス『Fool&#8217;s Gold』<br />
撮影：ラウル・クタール<br />
音楽：ミシェル・ルグラン<br />
編集：フランソワーズ・コラン／アニエス・ギュモ<br />
録音：アントワーヌ・ボンファンティ／ルネ・ルヴェール<br />
製作主任：フィリップ・デュサール<br />
出演：アンナ・カリーナ（オディール・モノー）、サミー・フレイ（フランツ）、クロード・ブラッスール（アルチュール・ランボー）、ルイザ・コルパン、シャンタル・ダルジェ、エルネスト・マンゼール、ダニエル・ジラール、ミシェル・セゲール、ジョルジュ・スタケ、ミシェル・ドライユ、クロード・マコフスキ、ピーター・カソヴィッツ、ジャン＝クロード・レモルー、ジョジョ氏<br />
フランス／９７分／白黒／スタンダード
</p></div>
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		<title>ゴダール「カメラ・アイ」</title>
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		<pubDate>Sun, 06 Aug 2000 06:10:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[cinema]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>

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			<content:encoded><![CDATA[<p>「もはや沈黙は共謀を意味する」というクリス・マルケルらの言葉に応じて集まったフランスの映画監督たちの、ヴェトナム戦争への映画的闘争、『ベトナムから遠く離れて』。ヨリス・イヴェンス、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ウィリアム・クライン、クロード・ルルーシュ、そしてＪＬＧの作品群は、クリス・マルケルにより最終的に編集され、一本の作品となっている。どの作品も、それぞれ監督の個性が出ていて面白い。ＪＬＧのものを除けば、とくによかったのは、レネとヴァルダ（推定）のシーケンス。ドキュメンタリー映像によって、あるいはインタヴューによってヴェトナムを語るというのは彼ららしい（間違えている可能性あり）。この一連の作品群の中で、とりわけＪＬＧの作品が特異にみえるのは、彼だけが、ヴェトナム戦争という現象を通じて目的としての映画の可能性を問うているからである。他はすべて、ヴェトナム戦争そのものが主題であり、映画に問うているのはその手段としての可能性に他ならない。つまるところ、ＪＬＧは単に当初のテーマに違反（逸脱）しているのである。が、非常にＪＬＧらしい。そして、その態度は結局、事件としての歴史とわれわれとの越えがたい距離を明示することに成功している。短編集のなかのＪＬＧはいつも際立っている。われわれは、決してカメラ・アイを忘れてはならない。</p>
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<p>監督：ＪＬＧ<br />
撮影：アラン・ルヴァン<br />
総編集：クリス・マルケル<br />
製作：SLON集団<br />
1967年/フランス/15分(116分)/16ミリ/カラー/スタンダード
</p></div>
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