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	<title>ex-signe &#187; Chrysippus of Soli</title>
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	<description>kio tanaka's website</description>
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		<title>《文学》のプログラムII、もうひとつのヒルベルト計画</title>
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		<pubDate>Mon, 08 Jun 2009 13:32:43 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
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		<category><![CDATA[バートランド･ラッセル]]></category>
		<category><![CDATA[無知の知]]></category>

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		<description><![CDATA[「無知の知」というソクラテスの言葉がある。この言葉には、人間は有限の生き物である、という認識の重要性と同時に、有限なものを超えた無限なものに対して人間が抱く意志が含まれている。「知る」ということが、本質的に有限であるとこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">
「無知の知」というソクラテスの言葉がある。この言葉には、人間は有限の生き物である、という認識の重要性と同時に、有限なものを超えた無限なものに対して人間が抱く意志が含まれている。「知る」ということが、本質的に有限であるところの人間が無限を支配下に置くこと―つまり無限を有限の立場から知ること―なのだとすれば、「無知の知」とは、限界のある人間知を超えたものへの拝跪を意味しよう。
</p>
<p class="post">
だが、「無知」がはじめからたんに人間知を超えたものを意味するのであれば、そしてその知を越えたものを知ることができるのであるとすれば、それを知ろうとすることは、まさに人間が人間自身を超え出ることを意味する。簡潔にいえば、無知の知とは、無限を積極的に知ろうとすることにほかならない。かくして、「無知の知」には、知ることへの諦念によって導かれるネガティヴな無限と、もっと積極的な無限への意志とが含まれていると考えることができる。そして、この有限と無限の観点の違いから、次のことがいえる。カントールのパラドックス（≒すべての集合の集合は存在するか）に端を発し、無限を有限の立場から証明しようとしたヒルベルト計画と、その不可能を証明したゲーデルの議論は、じつは、表面的な論理の上では、同じ「無知の知」でありうる、ということである。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
ヒルベルト計画に代表される、数学そのものを数学的に（＝厳密に）基礎付けようとする（＝数学概念が存在することを証明しようとする）数学基礎論を頓挫させたゲーデルの証明について、われわれはこれを二つの方向で考えることができる。ひとつは、ブルバキたちのように、はじめから「数学者は証明する」人間と規定し、ひるがえって数学概念の存在証明を最初から不問にすることである。これによって、数学者は、現実とは切り離された構造だけを問題にすればよくなる。数とはもともと構造的なものであって、こうした意味で数を用いるかぎり、たとえば負の数や虚数が現実に存在するのか、という問いは、もはや必要がない。
</p>
<p class="post">
そして、驚くべきことに、こうした見解は、結局は数学を進展させ、さらにはレヴィ＝ストロースが行なったように、ひとびとの現実の世界認識をも拡張した。このことから、世界を、《ある種の対応関係》をもった虚（イデア）と実の、二つの領域からなる構造的な世界として考察することの妥当性を導くことができる。知性（美）と感性（自然）を区別したプロティノス風のイデア論の隆盛である。こうした議論は、結局のところ、ついには保証されないその対応関係を「信」に置くことしかできないし、その意味では、非常に強い宗教的誘惑を孕んでいる。また、無限を徹頭徹尾、想像（イデア）の側に置くこの議論は、数学者（人間）の肉体的有限性を強く意識することによって導かれていることも指摘できる。つまり、冒頭のソクラテスの「無知の知」の説明でいえば、有限性を超えた無限への拝跪である。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
もうひとつの考え方がある。ゲーデルの不完全性定理が主張する点をよく飲み込んだうえでいえば、彼ら構造主義者が用いる公理的集合論は、前述のパラドックスの問題はあるにしても、ある意味で、すでに相当に強い基礎付けを含んでいたという風にも考えられる。つまり、数学が依然として現実の物理的空間において発揮している有効性は、たんにわれわれが「知らない」基礎付けの可能性を支持していると考えることもできるのである。ゲーデルの不完全性定理は、数学基礎論の可能性を奪ってしまったが、それは、それまでのカントールやラッセルやヒルベルトのパラドックスのなかに、すでに別種の基礎論が含まれていた可能性を示唆していると考えればいいのである。すなわち、われわれは、数学の基礎付けにかんして、「いま現在自覚的には無知であるとしても、すでに知っていたかもしれない、あるいはこれから知りうるかもしれない」のである。これを、「無知の知」ということももちろん可能である。要するに、われわれは、すでに無限に触れていたかもしれないのであり、人間は、そのことを、望むと望まざるとにかかわらず、《意志している》のである。これもまた、ソクラテスのいう、「無知の知」でありうるだろうし、これこそが、有限の立場から無限を知る、ヒルベルト計画の中心であったろう。実際、ヒルベルトの公理論が行なう論証は、こうした意味での「無知の知」に非常に近い形で行なわれる。かくして、ゲーデルの証明を、かつてのヒルベルト計画に近しい形に導くことも不可能ではないのである。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
さて、うそつきのパラドックスを解決する非常に簡単な方法がある。それは、《言葉が物質と同じ力強さで存在している可能性》を探究することである。すなわち、クリュシッポスのいう、「車といえば、口から車が飛び出す」である。本当に口から車（＝「うそつき」）が飛び出すのならば、言葉が存在している以上、基礎付けは必要ないばかりか、すでに基礎付けは済んでいると考えられる。数学よりは物理学に近しい、この不思議な思考、おそらくはひとが「狂気」と呼んできたこの思考は、しかし、基礎付け不能のイデア的存在として数学を「信じる」側が笑えるほどに、確実さに差があるわけではない。そして思うに、前述のプロティノス風の思考をひとが宗教と呼ぶのだとすれば、神なしに言葉の実在を探究しようとするこの思考は、《文学》と呼ばれるべきなのである。</p>
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		<title>哲学者と芸術家III――フーコーとエノンセ</title>
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		<pubDate>Fri, 10 Oct 2008 00:52:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[assujettissement et subjectivation]]></category>
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		<description><![CDATA[五月革命以降、一九七〇年代を前後するわずかな期間に、フランスには哲学の帝王が君臨していた。ミシェル・フーコーである。もちろん、帝王という用語には注意せねばならない。というのも、後世の歴史家に誤解を与えてはならないからだ。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>五月革命以降、一九七〇年代を前後するわずかな期間に、フランスには哲学の帝王が君臨していた。ミシェル・フーコーである。もちろん、帝王という用語には注意せねばならない。というのも、後世の歴史家に誤解を与えてはならないからだ。実際、フーコー本人が言っていたように、五月革命当時、一般にアクチュアルな議論として許容されていたのは、ライヒやマルクーゼといった、一種の疎外論である。フーコーの哲学は、あくまで、潜勢的なものにとどまっていた。だが、だからこそ、彼の哲学は革命を実現し、そして、その結果として、彼はアカデミー・フランセーズに君臨しえたのである。</p>
<p>革命の唯一の主体である民衆とは、つねに潜勢的（ヴァーチュアル）なものである。無名の民衆に固有名が与えられた瞬間に、民衆は民衆であることをやめ、革命は革命であることをやめる。つまり、歴史となる。革命は任意の固有名によってテクストのうちに封じ込められて矮小化し、たんなる権力闘争や嫌悪すべき暴力の歴史に変えられてしまう。固有名を与えられてアクチュアルとなった出来事は、じつはすでに死んでおり、要するに、それが歴史である。潜勢力として溢れんばかりの生を開放していた民衆は、墓に刻まれた銘となる。アクチュアリティとは、要するに、力が力としての自身を終えることである。フーコーは、そうした潜勢力としての民衆が唯一認めた死であり、その本質からして真の好ましい歴史家であった彼は、革命の最中に真っ先に死んだ男なのである。帝王とは、自身を民衆のうちに生成させるひとのことであり、彼は民衆として主体化する（野心的な多くのひとたちは、たとえばローマのマリウスのように、まちがって主体化ならぬ大衆化を遂げてしまう）。つまり、帝王とは、自身の主体を捨て去り、その代わりに民衆の意志をわが意志に転生させられる人間をいう。</p>
<p>そして、こうした一組の運動こそが、出来事の素粒子である《エノンセ》の真のはたらきである。エノンセは、波動であると同時に物質であり、たんなる観念ではない。「もっとも言表は、いつでもなにがしかの物質性を付与され、それはいつでも空間＝時間的座標にしたがって位置づけられうるものであるが」（『知の考古学』）。フーコーは、自身のテクストのみならず、その活動のすべてが、エノンセのはたらきによって説明されることを欲している。エノンセは、はじめからテクストの外部にあり、その意味において、フーコーの活動は、歴史家ではなく、哲学者のそれなのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>エノンセについての記述のなかで、もっとも美しいくだりだとぼくが思うのは、タイプライターの鍵盤によって、それを説明した箇所である。それは、他の箇所の高級さと比べれば、いわばＢ級映画のようなものだろうが、それでも、必要なものが、すべて揃っていると思う。</p>
<p>日本人であるわれわれになじみやすいように、AZERTといわずに、QWERTYと言おうか。読者がいま自分の前で目にしているキーボードをみてほしい。そこには、QWERTY（たていすかん）と書かれているはずだ。</p>
<p>これについて、まずはエノンセの議論とは対照的なテクスト主義者の議論を考えてみよう。彼らは、こう考える。それらの文字列は、現実のQ、W、E、R、T、Yという文字列からなるテクストだが、それらの鍵盤を打ったとして、本当に実態的に表示されるのかどうかは、証明されえない。&#8221;Q&#8221;と打ったとしても、&#8221;P&#8221;と表示してしまう壊れたキーボードがあるかもしれないからだ。したがって、真理として最大限言いうるのは、ひとつの鍵盤に&#8221;Q&#8221;と印字されているという当のそのことだけであり、われわれはテクストから出るべきではないのだ、と。現実にはQであるのかPであるのか証明されえないにもかかわらず、Q=Qという暗黙の前提のうえに積み重ねられてきた解釈を、Qの、そしてその他の文字列のもちうるわずかなエラーによって瓦解させること。それが、脱構築である。</p>
<p>フーコーはそんなことは気にしない。鍵盤に印字されたQWERTY、そんなものはエノンセではない、という。端的に、上記の可能性は、思考の外に放擲される。微に入り細を穿つテクスト主義者が好みそうなことだが、QWERTYという文字列自体に意味がない以上、PWERTYになろうがなんだろうが、その点は、いまのところどうでもいいことだからである。つまり、言葉の「意味」が重要なのではないし、またその「意味」を瓦解させることも重要なのではない。「意味」はこの際、どうでもよく、むしろ言葉が現実にはなにを生み出すのか、そのことのほうが問題なのである。</p>
<p>したがって、このキーボードの教則本（テクスト）に書かれたQWERTYが、このキーボードQWERTYとのあいだに持っている関係性において、テクストに書かれたQWERTYは、エノンセでありうる、と言われることになる。要するに、教則本のQWERTYには、ひとがそれをもとにして現実の鍵盤を指で叩いたという、わずかながらの出来事の煌きが封じ込められている。そのことにおいて、教則本のQWERTYは、エノンセなのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、じつは、鍵盤上のQWERTYもまた、エノンセでありうる。ためしに、エディターを開いて、Q、W、E、R、T、Yと打ち込んでみよう。おそらくほとんどの場合、鍵盤に書かれているとおりに、ディスプレイにそれらが表示されるはずだ。それが何を意味するかは、さしあたりどうでもよい。キーボードに印字されたQWERTYが、ディスプレイに表示されたQWERTYと関係をもっているかぎり、キーボードに印字されたQWERTYは、現実のQWERTYの、エノンセである。</p>
<p>クリュシッポスを再び召還しよう。彼はいう、「車と口にすると、口から車が飛び出す」。QWERTYと打ち込むと、QWERTYとディスプレイに表示される。つまり、これは《悲劇》として理解されねばならない。狼少年が、狼に喰われ、そして町の人間もまた狼に喰われた時、狼少年の言葉は、エノンセとなった。テクスト主義者にうそつきのレッテルを貼られた鍵盤たちは、必死で、自身をQやWやEといった文字列に生成させようとするのだ。ある実践の流れのなかに含み込まれないかぎり――つまり、Qと打ち込むかぎりでしかQであることができない彼らは、ぼくには、とても悲劇的な存在であるように思える。彼らは、自身に付与された潜勢的なQという力を、現実のQに生成させることによって、死ぬ。つまり歴史となる。主体化を遂げることで、彼らは死ぬと同時に生きた証を残すのだ。テクスト主義者が、彼がQかどうかは、証明されえない、などと言っているあいだに、Qは頭を紙に打ち付けて、Qに生成するのだ。</p>
<p>もうすこし説明を加えてみよう。たとえば、今日では、インターネットがあり、なんらかの文字列を検索する、という行為が一般化している。何らかの語を検索した時にあらわれる文字列は、その文字列が意味するもののエノンセではない。それこそが、フーコーがまっさきに遠ざける実証主義的な思考である。検索結果をただちにそれが表示する意味の言表だというフーコー研究者の意見をどこかで見かけたが、最悪だと思う。むしろ、検索エンジンの検索結果は、その文字列を検索したという行為の言表でしかない。つまり、それは、主体の行為のなかに収束してしまうのであり、この場合は、テクスト論でも対応可能な事態である。なんらかの文字列が、文字列を打つ行為に収束する場合は、テクスト論とエノンセ論のあいだに、差異が生じないことがありうる（この点からフーコーとデリダが混同されてしまう）。</p>
<p>だが、稀に、検索結果が、なんらかの出来事を招来させる場合がある。たとえば、“死”という文字列を検索したとしよう。検索者は、ただ、死がいかなるものなのか、死とはなにか、そうした情報を得ようとして検索したのだが、偶々、自身の死を宣告するような遺書を検索エンジンにひっかけてしまった場合、その瞬間にはじめて、検索結果は、死という出来事を招来させるエノンセとなる。つまり、検索した主体＝重力に言葉が収束してテクストになるのではなく、主体を極端に離れて出来事に結びついてしまうような、《強い言葉》があるということだ。主体の意図としては、死とはなにか、その意味を調べようと思っただけなのだが、その意図にかかわらず、死という出来事をディスプレイの中に招来してしまったのである。こうした出来事に直接的に結びついた言葉は、テクストの外にある、エノンセである（だから、おいそれと“死”などという単語を検索するものではない）。この場合には、もはやテクスト論では説明不能であり、エノンセ論でしか対応できないのは明白すぎる事実である。なにしろ、S、H、Iという文字列は、その意志にかかわらず、テクストの外の“死”に生成してしまったのだから。</p>
<p>このとき、鍵盤たちの悲しみはいかばかりであろうか。だが、こうした悲劇を感じられるかどうか、それが、エノンセの概念を理解するための最大の鍵であると、ぼくは思う。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、日本の文学者の多くが、私小説を書いた。現実と虚構の境目で書かれた、私小説を、テクスト主義者は、認めない。テクスト外の現実を前提にしているからだ。戦後大挙して訪れたテクスト主義者の群れによって、私小説はほとんど絶滅してしまった。だが、私小説家は、テクスト論者ではなく、エノンセ主義者なのだ。私小説とは、まさに、言葉が出来事に生成する境界線上に位置する、エノンセなのである。歴史家として言わせてもらうが、たとえば田山花袋の『蒲団』における「横山芳子」ほど、現実の岡田美千代を生き生きと表現している資料は存在しないと、ぼくは考える。美人というよりは、その生き生きとした表情によって、田山花袋を魅了した岡田美千代の姿は、彼の言文一致体によって描かれることで、まさに、出来事に実現する――横山芳子の名は、岡田美千代の生のエノンセなのである。そこには、花袋でさえ自覚していなかった、そしてテクスト主義者が見向きもしなかった、《大逆》を可能にする革命的ななにものかがあったのである。……</p>
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		<title>哲学者と芸術家II――カントとドゥルーズの場合</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/philosophy/824.html</link>
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		<pubDate>Wed, 24 Sep 2008 10:41:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ニーチェというひとりの人物が成長し、文献学者から哲学者へと変貌する姿は、ぼくたちを感動させる。そこには、なにひとつ無駄なものはない。そうした成長の物語――ひとりの独身ドイツ人の伝記作品を、ニーチェの生涯に見ることは、もち [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ニーチェというひとりの人物が成長し、文献学者から哲学者へと変貌する姿は、ぼくたちを感動させる。そこには、なにひとつ無駄なものはない。そうした成長の物語――ひとりの独身ドイツ人の伝記作品を、ニーチェの生涯に見ることは、もちろん可能だ。それは、可能というよりは、むしろ推奨される。バーゼル周辺にいた若い彼には、まだまだアカデミックなところがある。言い換えれば、現象と物自体の対立を信じるカント的なところがあり、それが抜けきっていない。アポロンが、じつはディオニュソスのもうひとつの仮面にすぎないことを、そしてディオニュソスでさえ仮面であることを、まだ知らないのだ。だが、彼は、そのはじまりから、すでに《悲劇》を発見していた。『悲劇の誕生』である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>《悲劇》とは、言葉が現実に機能する、その特別なあり方のことだ。ぼくたちは、プラトンやソクラテスのこと、あるいは紫式部や空海のことを、テクストによってしか知らない。だから、彼らの存在を、現実にではなく、テクストの中に解消してしまうのは簡単なことだ。彼らが本当に存在していたかどうか、そんなことはわからない、と言ってしまうのは、簡単なことなのだ。世界は、テクストという現象の世界と、存在という物自体の世界に分かたれている。ぼくたちは、ただ、テクストの内部で戯れることができるだけなのだ。</p>
<p>このような存在のペシミズム、いわゆる&#8220;言語論的転回&#8221;を、たんに否定してはならない。言語論的転回を諦め、実証の可能性を盲目的に前提にすることも、同じくらいに簡単なことなのだ。むしろ、突破口は、転回を徹底することによって開かれる。この思考を徹底したなお先に、歴史上の人物の存在を否定しえない、最後の可能性が残っている。すなわち、不可知の物自体の実在は、その定義上、証明不能であるという一点である。物自体でさえ、不確かであるという点では言葉＝仮象かもしれないのだ。したがって、世界そのものが、《すべて言葉でできている》、という最後にして唯一の、そして証明不能の世界把握の可能性が、物自体の実在可能性と拮抗し、さらには物自体をも内包してしまうのだ。</p>
<p>存在そのものが、言葉のようにあるのだとすればどうか――たしかに聞いた、あの《声》が、いまはもうぼくたちの手の中から消え去っているように、存在そのものが、こうした《声》の形式を持つものだとすればどうか。だとするなら、歴史上の登場人物の存在の手がかりが、テクストしかないとしても、そのことは、もはや問題ではなくなる。なぜなら、存在とは、《声》のように、今ここから消え去ることによってはじめて成立するからだ。存在は物自体だから不可知なのではなく、消え去るせいで、不可知だと思いこむだけだ。テクストしか残っていないからといって、消え去ることによって定義される《声》としての存在を否定することはできないのである。歴史上の登場人物は、テクストではなく、言葉のなかに住まう。本当の本当の世界において、歴史は、ひとが間違ってそう思っているような文献ではなく、言葉のなかにしか存在できない。プラトンや空海たちは、妖精のようにこの世に存在しているのだ。言葉は、声のように、ひとの主体を離れた無署名なものとして、この世界に実現される。テクストから逃げ去っていく声、差異としての言葉。それこそが、《悲劇》としての歴史なのである。《文学者》を除くと、十九世紀には、この《悲劇》を明晰に発見した人物が二人いた。もちろんひとりはニーチェであるが、そこにマルクスを数えることは不可能ではない。二十世紀には三人。ベンヤミンとフーコー、そしてドゥルーズである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>かつて、ストア派哲学者のクリュシッポスは、こんなことを言っていた。「車と口にすると、口から車が飛び出す」。ぼくはこの言葉が大好きだ。これを論理学上のパラドックスだと考えてはいけない。そうした思考法は、書物のなか、大学の図書館のなかでだけ、可能なものだ。もちろん可能であるからには、そういう思考法も許されてはいる。だが、大学の外でそんなことを論じているようなひとは、本来なら避けられたはずの車に轢かれてお陀仏するほかない。「車」が車であるか、内在的には証明されない、などと言っているあいだにゲーデル主義者は車に轢かれてあの世行きなのだ。</p>
<p>クリュシッポスの奇妙な言葉は、まさしく《悲劇》として理解されねばならない。おそろしく悲観的で、それでいて真剣に笑う準備をいつも怠らないぼくは、この言葉が、証明不能であるにもかかわらず、本当に実現するのだと考える。彼の言うことは、パラドックスでもなんでもない。真理だ。ひとが車と口にするとき、実際に口から車が飛び出すのでなければならない（だから、おいそれと車などと口にしてはいけない）。ニーチェはストア主義者には厳しかったが、といって、彼が、プラトンからヘラクレイトスへ、というクリュシッポスと同じ思考の歩みを歩んだことを忘れてはならない。ニーチェの本質は、クリュシッポスの言葉が《悲劇》であることを、即座に理解したはずである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>だが、カントならどうだろう？ 限界を設け、限界を超えることを嫌う彼は、こうした操作を行なうにちがいない。車と口にすると、口から括弧つきの「車」が飛び出す。&#8230;&#8230;</p>
<p>こんなことをいまにも言いそうなカントは、ぼくにとっては、真っ向からの敵である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>マルクスは、こう言っている。「歴史は繰り返す、一度目は《悲劇》として、二度目は《笑劇》として&#8230;&#8230;」。この謎めいたマルクスの言葉を借りるなら、カントは、《悲劇》を、《笑劇》に変えてしまう張本人である。カントは、一度目の反復である《悲劇》を見ようとせず、二度目の反復だけを見ている。一度目の《悲劇》を物自体と考えて黙殺し、二度目の《笑劇》を現象として批判的に受け容れる。たしかに、車という言葉をなかなか信じられず、そのあげくに車に轢かれたとしたら、それは《笑劇》だろう。だが、ニーチェなら、こう考える。《たしかに、車など来ない。だけどぼくは、それでも言葉どおり、車に轢かれて死ぬのだ》。ニーチェは轢かれて死に、そして彼は死にながら笑う。これはもちろん、《悲劇》であり、そしてなおかつ《笑劇》である。</p>
<p>カントは、言葉を、意味のなか、たとえば車なら車の「意味」に回収してしまう。車という語は、意味に触れているだけで、現実の、つまり物自体としての車には、触れることができない&#8230;&#8230;。カントの批判が息の根を止めるのは、理性ではない。先のクリュシッポスの言葉が実現する、《芸術》である。ドゥルーズが、彼を「敵」だと言い放ったのも、もっともなことなのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>だが、ニーチェは言っていた、「おお、敵よ。敵がいない！」 ニーチェにとっても、カントは、ほとんど最大の敵なのだが、にもかかわらず、《敵はいない》のだ。ドゥルーズがカントについて論じるのは、この観点からである。</p>
<p>「敵」であるカントは、ドゥルーズによって、どのように乗り越えられるのだろうか。言い換えれば、どのように肯定されるべきなのだろうか。それはまさしく、カントの哲学を芸術の観点から、芸術的に描くことによって、実現される。芸術を批判し、息の根を止めようとするカントを、芸術化することによって、カントはついに肯定される。ドゥルーズの『カントの批判哲学』のあらすじを大急ぎで書くなら、以下のとおりだ。</p>
<p>カントの三批判――『純粋理性批判』、『実践理性批判』、そして『判断力批判』は、ある無意識的な、そして直観的な哲学者による次のような物語に置き換えられる。物自体と現象の対立を守り、その縛めを自らに課し続けて来た、マゾヒスティックな男が、最後の批判において、趣味判断、すなわち《美》を論じるにあたり、その縛めはひとりでに破られ、彼の秘めた能力が解放される。彼は、われを失って、自身がそれまで築き上げてきた、壁としての哲学のわずかな亀裂に指を差し入れる。そして望んで得たわけではないオルガズムの中で、芸術の可能性に触れる。カントの哲学は、最後の批判によって、完成ならざる開かれた結末を迎える。カントは、ヘラクレイトスに出会うのだ&#8230;&#8230;。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ドゥルーズは、徹頭徹尾、三批判書を一個の文学作品として読んでいる。こうしたドゥルーズの読みは、ニーチェ哲学の正真正銘の勝利を示しているし、誤解の余地はないと思う（ドゥルーズのカント論は、基本的にニーチェ論の一部である）。とはいえ、ドゥルーズをアカデミックに読むことに慣れたひとたちは、これをカントの可能性の意味に、どうも誤解してしまうらしい。たしかに、ドゥルーズは、カントを、例によって最大限可能な形で哲学者として持ち上げているし、可能性がないわけではもちろんないのだが、カントの哲学は、ドゥルーズのそれとはまったく異なる。ドゥルーズの『カントの批判哲学』は、むしろ、カントという大河さえ、差異のままに飲み込んでしまう、巨大な海洋としてのドゥルーズ哲学の本質を、逆説的に示しているだけである（敵も友も同じく飲み込んでしまうのが、ドゥルーズの内在平面である。アラン・バディウのようにそれを「一者」（＝神）だと言って批判したければしたらいいが、内在平面が一者かどうかは、問題の本質ではない）。ドゥルーズ自身が「敵」と呼んだように、彼の肯定の哲学のなかでは傍系に位置するこの小品を、過度に取りあげる必要は、あまりないだろう。度がすぎると、ドゥルーズの本質を見失いかねない。</p>
<p>ドゥルーズは、ときに無味乾燥なアカデミシャンのあいだで、やたらにもてはやされる良識的なカントを、マゾヒストの分裂症患者として描いて見せた。それはそれで興味深く、またこれはこれで、《リアリズム》の表現なのだが、ニーチェの肖像ほどには、美しくない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ところで、カントに見つからないように、物陰に隠れてこっそり言うが、言葉についての言葉の芸術である《文学》には、いつも次のような問いが課せられている。なぜ、歴史は、出来事でありうるのか。いかにして、言葉は出来事へと実現されるのか。こうした問いは、おそらく、さらにもう一歩進められるはずである。《言葉は、いかにして悲劇的な道筋をたどって、つまりその発話者を特別なやり方で巻き込みながら、自己自身を実現させるのか》。ギリシア人は、《悲劇》を最初に発見した民族だが、日本人もまた、そうした民族のひとつであったかもしれない。そのことは、すこし頭の片隅に置いておくべき事柄だと思われる。&#8230;&#8230;</p>
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<span style="text-indent: 0em;">ジル ドゥルーズ『カントの批判哲学 (ちくま学芸文庫)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span></div>
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		<title>メモランダム</title>
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		<pubDate>Tue, 19 Jun 2007 04:49:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Chrysippus of Soli]]></category>
		<category><![CDATA[mode of life]]></category>
		<category><![CDATA[Nihilism/Nothingness/Vacuum]]></category>
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		<description><![CDATA[《無》とは、多様性のことだ、といえば、読者は混乱するだろうか。あるいは、《無》が「存在」を可能にするのだ、といっても、読者は混乱するだろうか。とはいえ、「存在」は、多様性を抹消する《無》のおかげで可能になる、というのは、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>《無》とは、多様性のことだ、といえば、読者は混乱するだろうか。あるいは、《無》が「存在」を可能にするのだ、といっても、読者は混乱するだろうか。とはいえ、「存在」は、多様性を抹消する《無》のおかげで可能になる、というのは、おそらく真理である。</p>
<p>サルトルは、《無》と存在の関係について考えた数少ない哲学者だが、しかし、重要なことは、「存在」ではなかった。そして《無》でもなかった。《無》が消し去った多様性の方が、もっと重要なのである。世界がもっているあらゆる可能性／多様性を抹消するかぎりにおいて、わたしたちは、「存在」することができる。この「存在」を成立させる抹消記号こそが、《無》である。したがって、デリダがいうように、痕跡とは抹消記号のことだが（そしてその抹消記号こそが「存在」のことだが）、とはいえ、それは同語反復にすぎない。</p>
<p>痕跡は、多様性に《無》の符牒をはりつけて人間を限界づけているわけだが、そうして「存在」という語のなかにあらゆる可能性を消し去ってしまう前に、わたしたちは、たとえば目の前のパソコンを壁に向かって投げるとか、あるいは今イヤホンで聴いているミュージックプレイヤーの電源を切るとか、あるいは家の外に出て蛙の鳴き声に耳を澄ますとか、あるいは美しい女性がこちらを振り向く姿を思い浮かべるとか、あるいは自分が食べようと思っていた葡萄をすべてロバが食べてしまったのを知って笑い死にするとか、そういうことができるわけである。つまり、わたしたちの生とは、「存在」という限界を越えること――なのかもしれない。</p>
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		<title>記憶・忘却・想像力</title>
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		<pubDate>Tue, 30 Jan 2007 01:30:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Chrysippus of Soli]]></category>
		<category><![CDATA[oblivion]]></category>
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		<description><![CDATA[わたしたちが普段何気なく、そして区別しつつ用いている言葉に「想像力」と「記憶力」とがある。いずれにしても、不在のものの現前という意味では同じものであろう。いまここにないものを現前させる、そうした力こそが、この二つに割り当 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>わたしたちが普段何気なく、そして区別しつつ用いている言葉に「想像力」と「記憶力」とがある。いずれにしても、不在のものの現前という意味では同じものであろう。いまここにないものを現前させる、そうした力こそが、この二つに割り当てられた力である。とはいえ、もちろん、これらは次の点で区別される。アリストテレスが、あるいは最近ポール・リクールがしたように、記憶力が「過去」に生じた何らかの痕跡に結びついているのだとすれば、想像力は、過去とは関係がない、という点によってである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>わたしたちは、この点で、想像力と記憶力を厳格に区別している。それは、過去のどこかで実際に起こった出来事を扱う歴史学と、実際には起こっていない物語を描こうとする文学との違いに等しい。とはいえ、わたしは、こうした区別が必要であるとは考えていない。おそらく、それは外在的な区別に過ぎないし、同じものが状況に応じて繰り広げるヴァリエーションにすぎない。そして、こうした区別こそが、プラトン以上にプラトン的な近代人が必要としている重大な区別なのである。「記憶」、「忘却」、そして「想像力」について行なったリクールの考察に一定の敬意を示すべきだろうが、しかし、基本的に、そうした三位一体について、さっさと同じものであることを認めてしまってはどうかと考える。リクールがたどり着いた結論、そこからわたしたちは出発すべきなのだ。さらに付記しておくなら、「記憶力」「忘却力」「想像力」という三位一体について、古代ギリシアの哲学者が、近代と同じやり方で分節を行なっていたとも思われず、彼の解釈学的な考察にはつねに留保がつかざるをえない。フーコーなら言うかもしれない、彼には《考古学》的な考察が欠けている、と。むしろ、ギリシア人が、それらの《力》について行なった分節の仕方にこそ、彼らの思考の特異性が現われていると考えねばならない。プラトンやアリストテレスをリクールのように読むのは、まずそうした分節のあり方をしっかり解明してからのことでなければならない。彼のようなやり方は、結局、もろもろの哲学の解釈の歴史――要するに哲学史を生むだけだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、プラトンに対して一定の距離を保ち、また反対の態度をとることの多かったストア派のひとびとは、世界についての体系的な哲学のあり方を考察する際、三つの学的な区分を設けている。すなわち、言論、倫理、そして自然についての学である。ディオゲネス・ラエルティオスによると、彼らは、この区分を次のように喩えていたという。「彼らストア派の人たちは、哲学を一つの生きものになぞらえて、言論に関する学を骨や腱に、倫理学を肉がより多い部分に、そして自然学を魂に相当するものとしている。あるいはまた、卵になぞらえているが、この場合は、言論に関する学は殻に、倫理学は白身に、そして自然学は一番内部にある黄身に相当するとしている」（『ギリシア哲学者列伝』）。この比ゆにおいて注目せねばならないのは、もちろん、自然（ピュシス）の学をもっとも内部の魂の学としていることである。わたしたち近代人は、逆に次のように考えている。つまり、自然学はわたしたちの身体、あるいは環境といった、いわば外部に当たる客観的な対象をもった学問であり、むしろ、それと対置される倫理学や弁論を扱うような人文的な学こそ、内部的なものとされている、という点である。内部にある精神、外部にある肉体、という一対の組み合わせこそが、わたしたちの思考を形作る主要なあり方であり、こうした内なる魂と外なる肉体という組み合わせが、すべての学的な領域に適用されているのである。したがって、ストア派の思考は、それとは完全に反対なのだ。内なる魂こそ、もっとも自然なものであり、言論についての学や倫理学は、外的な実践行為なのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>プラトンや、そこに描かれたソクラテスの哲学を字義通りに読むかぎり、彼らは、ストア派と好対照を描いているわけではない。エクリチュールに対する距離のとり方をみるかぎり、むしろ、ストア派的な思考と一致している点も少なくない。ストア派の人々、とくにクリュシッポスは、指輪の刻印（つまり文字）と、魂に刻まれた刻印であるところの《印象》とを厳格に区別し、後者に価値を置いている。プラトンが音声的な表象の方に価値を与えていた点を想起するなら、この点で彼らが共通しているのは明らかである。デリダが言うような、《プラトン以来の音声中心主義》が本当にあるのだとすれば、それはたしかに批判されねばならないが、それはプラトンがエクリチュールに与えていた狂気の可能性――これこそ形而上学的な非難にさらされるべきものである――に対する黙認となってはならないのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>したがって、わたしたちがギリシア時代のテクストを、今日の人間から見た《解釈》ではなく、当時実際に機能していたところの《言説》として読み解く際には、人間と世界の接続のあり方についての前提を根本的に変えなければならない。わたしたち近代人が人間の外側に広がっていると考えている《自然》は、ギリシア人にとっては、内なる魂なのだから。ストア派にせよ、プラトン派にせよ、彼らにとって、世界と接続しているのは、外皮ではない。むしろ、魂なのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>不在のものを現前（表象）させる想像力と記憶力の差はほとんどない。じつは同じもののヴァリエーションでしかない。いずれの力も、結局のところ、理性（ロゴス）を通して得られる表象である点で変わりはない。また、それらの表象は、感覚によって得られた通常の表象を、類似／対比／置換／合成などの対位法的な変換を通過させることで得たものである点でも同じである。たとえば、スフィンクスのような怪物の表象は、人間とライオンを合成することで得たものであるし、また「キケロ」というテクストから表象されるキケロの象は、今日生きているそれらしい人間の表象と類比あるいは置換することによって得られたものである（想像力といっても、まったくの無から想像された表象がありえないことはいうまでもない）。架空のモンスターであるキュクロプスやスフィンクスであろうが、あるいは歴史上に存在していたキケロやカエサルであろうが、それらが表象を得る際に、想像力を必要としていることに変わりはないのである。そして、このような表象の想像＝変換が、もっぱら同じものの反復を要求される場合に、《忘却》の名で言い換えられる。したがって、じつは、忘却と想像力もまた、ほとんど同じものである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>記憶力を想像力から峻別するために必要なものは、次のものである。すなわち、「同じもの」を再現前化することである。その場合にのみ、わたしたちは、それを想像力から区別される記憶力の名を適用できる。これは、きわめて困難だが、それを可能にするツールがある。エクリチュールである。エクリチュールは再現する、キケロの名を。ciceroの名を、そっくりそのまま再現する。しかしもちろん、そうした反復は、どのような知見も付け加えない。キケロはキケロである、というだけだからである。したがって、記憶力という近代的な地平は、じつはここにいたって放棄しなければならないことがわかる。「記憶」に含まれている反復の力は、むしろ、表象（ファンタシア）にかかわる想像力の方に属している。だが……</p>
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