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	<title>ex-signe &#187; traces</title>
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		<title>生の速度、あるいは色彩についての覚書</title>
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		<pubDate>Sun, 15 Nov 2009 04:10:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[ニーチェはいう。 すなわち貧弱な心理学者であり人間通。…徹頭徹尾の独断論者であるが、この傾向に重苦しく倦怠し、ついにはそれを圧制しようとねがったものの、懐疑にもただちに疲れてしまう。いまだ世界市民的趣味や古代の美の息吹き [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ニーチェはいう。</p>
<blockquote><p>すなわち貧弱な心理学者であり人間通。…徹頭徹尾の独断論者であるが、この傾向に重苦しく倦怠し、ついにはそれを圧制しようとねがったものの、懐疑にもただちに疲れてしまう。いまだ世界市民的趣味や古代の美の息吹きをうけたことがない……遅延せしめ媒介する者ではあるが、なんら独創的なものではない…カントは、すぐれて遅延せしめる者である。</p>
<p class="post-r">ニーチェ「権力への意志」</p>
</blockquote>
<p>遅延せしめる者、カント。ここに、さらにニーチェのすぐれた分類を用いるとすれば、《カント》とは、ディオニュソス的な光速の空間に生じたアポロンであろう。限界を付与するひと、カントのおかげで、われわれは右手と左手を区別すると同時に、その対称性を知る（カントは、超越を実現する神のことを、きわめて経済学的な呼び名――すなわちただ《限界》と呼んだ）。われわれは、かの『純粋理性批判』のページを、右手でめくっても、左手でめくってもかまわない。ただし、その手がどちらなのかを認識しているのならば。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>死は、あまりにも高速に過ぎ去る。そのためひとは、死を《認識》することができない。だが、ひとが死を認識できないのであれば、生もまた知らないはずだろう。死を知らずして、われわれは、いかにして《生》にたどりつけるというのか。カントは、死を彼方へと送り込み、死を生の防波堤とすることで、生にひとときの憩いの場を与えた。しかし、その停滞のまどろみのおかげで、生は次のものに偽装されてしまった――すなわち、《存在》である。純粋悟性の行なう《認識》は、ひとの生を、《存在》という形でしか捉えることができない。純粋悟性は、ディオニュソスのもたらす非対称の畸形に、西欧的趣味にかなった対称性、《現象―認識》を与える。神を窒息させるかわりに、ひとの死を神に明け渡す《物自体》という思考法は、過ぎ去っていく死を光の彼方――すなわち永久（とこしえ）の闇の国へと亡命させる。かくして生は回復された――かにみえた。しかし、そこにあったのは、生ならぬ質量であり、要するに、《存在》であった。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、わたしは疑う。すべては光なのではないか。そしてまた、すべては闇なのではないか、と。死があまりに高速に過ぎ去るからといって、それを光の彼方に送り込むのは早計だろう。また、生が死に対してあまりに遅いからといって、それを静止に近しい《痕跡》と捉えるのも拙速だろう。たしかに、《認識》は、痕跡と結びついて離れない。だからといって、痕跡が速度を持たないと考えるのはあまりにも迂闊だろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>カントの作りあげた世界は、彼の『判断力批判』が働いているかぎりにおいて、激流のなかに立つ古い城塞である。コンスタンティノープルの三重の城壁さながらに、激流のなかで――つまり時代の変遷に対応するために、何度も弥縫を講じられて立つ奇怪な古い城塞である。わたしは、彼の書物の順序をひっくり返すかぎりにおいて、その価値を認める。ただし、その城塞が、彼の最後の批判によって、いつかは消え去る運命にあることを知っているのならば（よくいわれるように、彼の二つの批判は、第三批判によって包囲されている）。あるいは、こう言ってもいい。往々にして、激流のなかで消え去る古い秩序にかわって、「新しいカントへの回帰」が唱えられる。だが、この激流は――すなわち遊牧民たちは、そもそもはじめから、古くて新しいカントの秩序に狙いを定めていたのではなかったか。</p>
<p>光と闇とを分かち、そこに城壁ならぬ境界線を引くカントの価値は、境界線そのものを色彩で埋めてしまうニーチェなしには、語ることができない。ゲーテのなかのスピノザがカントに色彩を与え、ニーチェの色彩はモノクロームの存在を生に変える。ニーチェの磨き上げたディオニュソス的空間とは、虚無（ニヒリズム）のそれではなく、真空のそれである。さまざまな速度を実現する多様体としての、真空の場所、すなわち極彩色の神、ディオニュソス。生と死の境界があるとしても、それは速度の違いがそう見せるだけであって、重要なことは、そのあいだの境界線よりも、その境界線を押し広げる差異である。さまざまな速度が、線分に色彩を与えていく。この空間のなかでは、静止したカントでさえ、アポロンの呼び名とともに速度を付与される。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ひとはいつも、生に速度を、そして死に永遠を付与してきた。ひとは死に永遠を見いだす。そして消え去るこの世に虚無を思い、そしてすべてが虚無であると知るだろう。だがここに、二重の誤解がある。死は永遠ではない。むしろ飛び退る光である。死はひとつの場所にとどまっていない。ひとが認識できないほどに、素早い。そして、死の速さを知っているひとだけが、生もまた速度であることを知る。ヘーゲルは言っていた。「感覚的対象の実在性についての例の真理と確信を主張する人々に対しては、次のように言っても差し支えあるまい。そういう人々は智恵の最下級学校に、つまりケレスとバッカスのエレウシスの密儀に送りかえさるべきであり、パンを食べ葡萄酒を飲むという秘密をまず習うべきである」と。そのとおりである、ただし、それは「最下級学校」どころではない。それこそが、最高級の智恵の密儀なのである。</p>
<div class="post-rl">
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<span style="text-indent: 0em;">アイザック・ニュートン『光学 (岩波文庫 青 904-1)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span>
</div>
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		<title>デリダ／フーコー・ドゥルーズ、そして第九条について</title>
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		<pubDate>Tue, 26 Feb 2008 14:40:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>この三人について、ずいぶん、言葉を費やしたと思う。とくに、デリダについては、ここでは比較的たくさん語ったし、本当のところをいえば、もうあまり文句はいいたくない。きっと彼の人柄は、素晴らしいものだと思うから。それに、わたしは、べつに哲学研究者ではないし、その理論に対する実感を、学術論文に高めるという欲望をもたない。しかし、この三人が曖昧に一緒くたにされてきた日本の言説空間には、なにか不穏なものを感じないではない。というのも、やはり、デリダとフーコー・ドゥルーズは、理論的な方向性がまったく異なるからである。もちろん、フーコーとドゥルーズのあいだにも差異はあるし、また逆から言えば、デリダがフーコーたちと異なるのも当然なのだが、しかし、わたしには、この差異は、致命的に巨大なものに思えるのだ。たしかに、フーコーとデリダとのあいだに、表向きの和解はあったし、一時的な共闘は望むところでもあろう。だが、やはりそれは一時的なものにしかなりえないと思う。いまはまだ、デリダとフーコーたちの差異は、微細なものだ。彼らの理論は、結果的に同じ表現に帰着しているようにみえる。この差異は、デリダのフッサール論からして、すでに垣間見えていた。この初期値のちがいは、あとあともっと、それこそ取り返しの付かなくなるほどに、大きくなるだろう。左派を気取るなら、この差異は、もっと強調しておかねばならない。</p>
<p>わたしは、ここ最近直覚したこの差異についての正当性を、確信している。そして、もっと厄介に感じているのは、デリダの議論を批判しながら、それでいて、彼の音声中心主義の周辺をうろついている、日本の理論家たちのあいまいさである。私見によるなら、彼の理論の本質を批判するかぎり、音声中心主義批判に対して疑問を抱かないでいることはむずかしい。音声中心主義批判の恐さは、それが、ブラックホールのような禍々しい正しさに満ち満ちていることである。</p>
<p>プラトンやルソーにみられる音声中心主義を批判するにしたところで、わたしたちが触れることができるのは、彼らのものとされているエクリチュールだけである。彼らの声を聴くことは絶対にできない。もしかりに、なんらかの形でそれが録音されていたとしても、それは声ではなく、その本質から言えば、それもエクリチュールである。したがって、エクリチュールしか残していない人間の音声中心主義を批判することは、本来は不可能なのだが、その一方で、この批判は、現在の人間が過去の人間に対してもっている不可逆の権力関係によって、かならず成功してしまう。わたしたちは、エクリチュールにその基礎をおくかぎり、プラトンやルソーの議論を、一方的に裁く権利をもっているからである。</p>
<p>本来、デリダのような文献学者が持たねばならないのは、テクストに残された痕跡のあいだから、痕跡なき声を聴こうとする態度である。わたしたちの言葉は、声であろうと、文字であろうと、つねに、「彼岸」を渇望し、欲望する矢や弾丸である。テクストの外部はない、テクストの起源などないのだ、などと文献学者が語ることは、はっきりいえば、すでに届いている言葉から、目や耳を塞ぐ行為以外のなにものでもない。そのことに気づかないのは、現在の人間ならば誰もがもっている傲慢さのゆえなのである。そしてこの傲慢さが厄介なのは、現在のすべての人間が、これを慎ましさだと誤解していることなのである。「わたしは、あなたの意見がわかったなんていうつもりはありません」というわけだ。だが、本当に必要なことは、わかったか、わからなかったかではないし、相手の論理を自壊させることでもない。むしろ、いかに、生産的でポジティヴな差異を、そこから直接引き出せるかどうか、である。欲望は、つねに、外への欲望であり、だから、欲望本位の言葉はたえずテクストの外へとはみ出しているような、そんな実践なのである。こうした欲望を、否定することはできない。否定するなら、それは欲望の定義からははずれてしまう。欲望は、徹頭徹尾肯定的ななにものか、ポジティヴな差異として実現されるからだ。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>欲望はしてもかまわない。だが、それを実践に移すのは勘弁してもらいたい。これが、ふやけた民主主義的な学者流の、デリダ読解の中心である。ひとは、たえず他を犯したい、他に犯されたいという、主客未分の淫らな欲望を心に抱きながら、電車に乗り、道を歩き、そして食事している。こうした欲望をその内部に溜め込むこと、外部への発露を禁じることは、それは、欲望本来のありかたとは考えられない――というか、そうした禁止さえ、欲望が能動的に行なうのでなければならない（ちなみに、これがストア派流の考えかたである）。欲望と実践とを分割する学者流の理解は、たとえば、軍隊をもつことはかまわないが、それを解き放つことは許されないという、今日、どこの国でもまかりとおっている論理と、どのように違っているのだろうか。わたしには、まったく同じものにしかみえないし、むしろ、それらは混同されるべきものとさえ思っている。欲望を屈折させ、自身のうちに溜め込むことは、暴力を軍隊にまで膨れ上がらせることと、ほとんど大差ないのである。</p>
<p>むしろ、わたしなら、なんの考えもなしに母親が子の尻を叩くのと同じように、直線的で、なんら屈折していない暴力を、たえず発揮せねばならないのだと思う。欲望は発揮されねばならないが、発揮されてはならない、などというデリダ流のパラドックスなど、観照的な場所にいればとりあえず安心できる学者という人種のひねくれた欲望しか満足させないだろう。だが、そうしてひとびとの欲望を屈折させ、暴力を内側に向けることが、倫理的には使い道のない軍隊を膨れ上がらせることとどのようにちがうのか。そうした議論は、わたしにはまったく説得的ではないのである。</p>
<p>欲望は、本質的に実践であり、つねにはけ口を求めるものである。それを内側に向けて屈折させればさせるほど、暴力は、肥大化していく。言葉から拳に、拳から銃に、銃からミサイルに、そしてミサイルから原子爆弾に、といった具合である。</p>
<p>憲法第九条を、わたしは愛している。この条項は、とにかく、戦争を、わたしたちの極限まで、近づけているからだ。この条項は、人間はかならず戦争してしまう生物だという前提なしには、文章として成立しない。憲法第九条は、ひとがそうみなしているのとは逆に、ロマンチックな理想論でもなんでもない。もっと過酷であり、現実的である。ひとはかならず戦争するということを忘れているひとたちだけが、憲法第九条を不要だとみなすのである。軍隊を恒久的に手放さねばならないのは、ひとが、暴力装置を持とうとする欲望を恒久的に手放せないからである。軍隊を手放す、とは、軍隊を持たないことではない。むしろ、軍隊は、たえず手放されねばならないということである。手放すということの意味は、すなわち、外に向けて発露させるという意味であり、したがって、軍隊にまで膨れ上がるまえに、つねに、直線的で、無垢で、そして痕跡の残らない暴力を、つねに発揮し続けなければならないということを意味している。……</p>
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		<title>ジャック・デリダについて走り書き</title>
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		<pubDate>Wed, 16 May 2007 03:51:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
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		<description><![CDATA[最近、ジャック・デリダの文句ばかり言っている気がするが、どう読んでも納得がいかないのだから仕方がない。とはいえ、自戒しておくが、勘違いしてはいけない。彼の行なう、微に入り細を穿つテクスト読解は、それはすばらしいものだ。わ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>最近、ジャック・デリダの文句ばかり言っている気がするが、どう読んでも納得がいかないのだから仕方がない。とはいえ、自戒しておくが、勘違いしてはいけない。彼の行なう、微に入り細を穿つテクスト読解は、それはすばらしいものだ。わたしのような若造が太刀打ちできるような代物ではないし、そもそもそんな気が起きない。デリダの議論において、きわめて厄介なのは、デリダの議論が理論的に納得できないとしても、結果においてはおおむね正しいことだ。彼はおそらく、哲学者というよりは、作家なのだ。思うに、わたしの考える前提をある程度ふまえておけば、べつにテクストといってもかまわないし、またべつにデリダの議論を活用してもかまわない。だいいち、デリダにこんなところで喧嘩を売っても、なんの意味もないし、なにしろ相手はすでに天国にいる。彼の議論を可能性において活用していく方が、生産的だし、健全だ。だが、そのためにはちょっとした工夫がいると思う。そうしなければ、おおかた、日本のデリディアンのようなことにしかならなくなる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>理論的にいって、そしてこの場を借りて何度も言っているように、デリダのテクスト論に、納得していない。《起源》にエクリチュールやテクストを見出す手法は、学問全般に対する批判にはなりうる。とりわけ学問が想定しがちな観念論――このテクスト、あるいはこの学問上の成果は、何らかの現実の、帰結あるいは分析である――を批判する際には、こうしたテクスト論は有効でありうる。とはいえ、わたしはそうは考えない。こうしたテクスト論は可能だが、理論的な可能性を十分に尽くした結論とはいえない。なぜなら、テクストそのものが、つねに‐すでにある連鎖の中にあるからである。</p>
<p>デリダに反して言うのだが、古いロゴスと新しい理性とは、やはりあらゆる意味で区別せねばならないと思う。それは記憶力と想像力との関係で見ればよくわかる。カント以前において、想像力は、感性にもとづく（誤った）表象を夢想させる点で、排除されるべきものであった。それを逆転させたのがカントだと言われる。カントは、《想像力》に、不在のものを現前させる新しい可能性をみてとったのである。だが、元来、それを行なっていたのは《記憶力》である。前近代において、記憶術がことのほか重視されたことを考えればよい。ところで、何度も言うように、前近代の《記憶力》は、今日の記憶力と同じではない。前近代の《記憶力》は、とりわけ想起と呼ばれ、芸術（とくに音楽や文学）にも関わる重要な能力であった。たとえば、音が何らかの音楽を実現するとき、そのことは、音と音との対位法的な《出会い》であると同時に、あるイデアの再現（想起）だったのである（楽譜‐テクストはその記録にすぎない）。つまり、イデアを再現しようとする記憶術は、近代人が芸術の分野に含めてしまうような、ある種の想像力をすでに含んでいる。したがって、前近代の想像力は、すでに想像力を含む記憶力の残滓にすぎないし、その意味では軽視され、ときに排除されて当然なのである。こうした記憶術を実現するのが、ロゴス（言葉／理性）であった。</p>
<p>（このような古い理性を代表し、そしてそれをもっとも精錬した哲学者として、デカルトをあげよう。こうした理性に依存する古い記憶術が前提にあってこそ、デカルトの次の言葉――《われ思う、ゆえにわれありCogito ergo sum.》が、存在論となりうる。この言葉は、近代的な視点からみれば、たんに《わたしは存在していると思っているI think I am.》という語に変換されてしまうだろう。つまり、「わたし」は「思う」という不確かな言葉もろとも消え去るのである。「われ思う（コギト）」ということが、「われあり（スム）」を保証するためには、「思う」に特別な能力が付与されていなければならない<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。そうでなければ、フッサールのように意識の自己現前を前提する現象学を生むか、保田與重郎のようなロマン主義者を生むだけだからである。この「思う」は、先述した記憶術にもとづくものであると考えねばほとんど意味を持たない。カントは、「生来の記憶（＝万人に備わったロゴス）」という概念を全否定するところから哲学を開始している。そうした哲学において、デカルトのコギトが不十分なものにみえるのはやむをえないが、それは歴史的文脈の違いを示しはしても、優劣を示すのではない。）</p>
<p>それが近代においてかわるのは、テクストが圧倒的な物量であらわれてからである。聖書がヴァナキュラーな言語に翻訳され、大量生産された紙に印字されてやはり大量に出版され、そしてさらに写真技術や録音技術が発達すれば、古い《記憶力》の地位が相対的に下がるのは当然である。写真はすでに、かつての記憶を完全に再現していると見なすことが可能だからである。この場合、もはや古い理性ロゴスは一新されざるをえない。過去を再現すること自体が特別な能力でありえた時代は終わる。すでに過去がテクストによって確定している以上、記憶力による再現は、確実性（客観性）を獲得するものの、他者をむしろ想像力の領域に逃がしてしまうからである。こうした記憶力と想像力のエコノミーの変化に応じて、近代においては、学問と芸術とが分割される。こうしたエコノミーがテクストに依存しているために、問題が二つ生じる。テクストが保証する客観性を中心に同心円状に弁証法的共同体が作られること。そして、テクストから正確に読解できる内容を越えた内容については、想像力の分野に押し込めるか、あるいは形而上学のレッテルを貼るしかなくなってしまうこと。前者がヘーゲルであり、後者が残念ながらデリダである<sup><a name="p02" href="#n02">(2)</a></sup>。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえば、デリダは、「秘密」を次のように考える。完全に隠された秘密はそうである以上、存在しないことになる。だが、曝露されてしまえば、それは秘密ではなくなる。隠されてはいるが隠されていないもの、それが「秘密」である、と。「痕跡」も同じである。それと同定可能な「痕跡」はむしろ傷というべきであって「痕跡」ではない。そうした同定可能性から絶えず逃れ続けるようなものこそが、真の「痕跡」である、と。</p>
<p>このような概念は、一見正しいし、また別段間違っているというわけでもないのだが、しかし、わたしには受け容れられない。こうした概念には、彼が引きずっている《テクスト》あるいは《エクリチュール》によって引き起こされていると思われる、重大かつ微妙な問題がある。わたしは確信しているが、なんの「痕跡」も残さずに死んでいく人々はたくさんいる。彼らは、完全に隠された「秘密」というべきなのであって、だからといって、存在していないことにはけっしてならない。むしろ、デカルトが「われ思う」の中に自分の存在を抹消させるようにして、いまも《存在している》のである。ホロコーストによって、「痕跡」を残して死んだ人間だけが、死んだ人間なのではない。なんの「痕跡」も残さず、完全に「秘密」のままで、人知れず死んだ人間は、ホロコーストによって「痕跡」を残して死んだ人間よりも、もっとたくさん《いる》のだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>歴史は勝者の歴史といわれる。誰であろうと、「痕跡」を残せた人間こそが、勝者なのだ。じつは、歴史を動かし、そうしながら自身の「痕跡」をたえず抹消しているような、そんなマイナーな存在がある。わたしたちが《想起》せねばならないのは、「痕跡」を残さずに死んだ敗者なのである。</p>
<p>彼らは隠れながら存在していて、だから、歴史には現れないが、にもかかわらず、《現われない》ということにおいて、存在していることを、わたしは知っている。なぜだろうか？　そんなにむずかしいことではない。誰でも、想像することができるだろう。というか、想像する前に、わたしたちはすでにそういうことを経験して、覚えているのだ。呼びかければ必ずそれに答えるような、そんな応答責任を果す人間ばかりがいるわけではない。呼びかけが空虚に消え去る時、ひとは呼びかけた他人というよりは、むしろ自身の不在を痛感する。だから悲しむのだ。だが、にもかかわらず、わたしは悲しみに塗れて存在している。この手の悲しみはむしろ生涯の伴侶というべきであって、声が消え去っていくこと、それを受け容れることによって、ひとは自立する。ひとが、シュティルナーやキルケゴールのいう単独者となるのは、このときである。こういう記憶があれば、たとえ「痕跡」を残せずとも存在した死人がいることは、すぐに想像できるはずだ。デカルトの《われ思うゆえにわれあり》は、こういう消え去る存在の存在を語っている。デカルトの《コギト》をテクストとして読んだカントには、それは理解できなかったに違いない。</p>
<p>そして、じつは、こうした空虚に消え去る呼びかけ、という概念を、ブロックしている邪魔者がいる。それがエクリチュールである。エクリチュールは、時間に対する抵抗力が《声》に対してあまりに大きいために、ひとびとに、いつかは聞いてもらえるかもしれない、という夢想、あらゆる意味において《精神ガイスト》的な憩いの場を与えてしまうからだ。歴史をたえず生産しているエクリチュールこそが、二重三重の意味で、《不在の存在》という、きわめてありふれた概念を形而上学の領域に追いやっている張本人なのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、わたしは、デリダの《灰》の概念を好んでいる。《灰》は、それを語った彼がどう言おうと、むしろ「痕跡」とは関係がないし、テクストやエクリチュールとも関係がない。むしろ、《灰》は、不在の存在そのものなのである。テクストがあろうがなかろうが存在する《灰》、ミクロな粒子として「痕跡」を笑いながら宙を舞い、踊るようにはじけ飛ぶ《灰》。今日デリダの可能性があるとすれば、このあたりにあるのだろう。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a name="n01" href="#p01">(1)</a> デカルトのコギトを証明ではないとしたスピノザは正しい。ergo（ゆえに）は「左様に」ととってもかまわない。ちなみにcogitoは「追想する」という意味もあるし、「想起する」とか「想像する」という意味もある。つまり、cogitoは、漠然と「思う」ことではなくて、何らかの《表象》を思い浮かべることである。</li>
<li class="note"><a name="n02" href="#p02">(2)</a> こうしたエコノミーにおいては、とりわけ文学者は次第に不幸を託つことになる。というのも、彼らがたとえ真理を語ったとしても、それが《テクスト》を逸脱しているかぎり、真理からは分断された想像力の領域に囲い込まれ、さらにそれを超ようとすれば、形而上学者と呼ばれ、ひどいときには狂人とさえ呼ばれるようになるからである。といっても、それは、近代において、そして今も、たえず文学者の可能性でもあった点を強調しておかねばならない。</li>
</ul>
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		<title>アーレントとデリダ</title>
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		<pubDate>Sat, 06 May 2006 03:56:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[歴史家であるハンナ・アーレントの概念に、「忘却の穴」がある。ユダヤ人を焼き尽くしただけでなく、焼け残った髪や骨までも消し去ろうとしたナチスの行為は、民族そのものの存在の記憶――痕跡――すら抹消しようとしたのであり、これを [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>歴史家であるハンナ・アーレントの概念に、「忘却の穴」がある。ユダヤ人を焼き尽くしただけでなく、焼け残った髪や骨までも消し去ろうとしたナチスの行為は、民族そのものの存在の記憶――痕跡――すら抹消しようとしたのであり、これをアーレントは「忘却の穴」と呼んだのである。こうした概念の批判対象は、もちろん、ホロコーストの歴史を抹消しようとする西欧の歴史修正主義者の議論である。ホロコーストを連合軍の捏造に仕立て上げ、その記憶を忘却の穴に投げ捨てようとする歴史修正主義者の行為は、その点で、ナチスが行なったホロコーストと同断の非道なのである。</p>
<p>存在のみならず、その《記憶痕跡》をも抹消する「忘却の穴」を、アーレントは恐れ、そして批判したが、わたしは、この概念について、彼女とは違った印象をもっている。というのも、おそらく、彼女の「忘却の穴」への恐怖には、歴史家の傲慢、あるいは歴史的に思考しがちなアカデミシャンの傲慢とでもいうものが幾分含まれているように感じるからである。</p>
<p>フロイトの研究した戦争神経症の事例は、この「忘却の穴」を、穴の最奥の暗闇から逆照射するように思われる。というのも、彼らのような患者が恐れているのは、なにより、忘れることだからである。わたしたちが、なにか物事を記憶しようとする際に、たえずその名を反復するように、戦争神経症を患った患者は、かつてのひどい経験の記憶を再現し、絶えず反復しようとする。彼らは、忘れることを恐れるあまり、病から抜け出せなくなっているのだし、さらにいえば、この忘却恐怖こそが、この病の根源なのである。</p>
<p>真に恐ろしい、正気を失うような経験を記憶しておくほどつらいことはない。記憶を頼りに怒り狂うことのできる人間は、まだ、その経験がひどいものであると判断できる論理を保ちえている分だけ、ましなのである。いまだその経験のさなかにいて、あるいはその経験の記憶に囚われているひとは、もしできうることなら、なかったことにしたいに違いないし、その記憶をアーレントの言う「忘却の穴」にでも放り込みたいところだろう。マジックメモに残された筆跡（＝痕跡）よろしく、記憶はいつなんどき、どんなきっかけで呼び出されるかわからないものだ。忘れていたとしても、なにかのきっかけで出てくるということは当然ありうる。それゆえ根本的な治癒になりえないのは明らかだとしても、歴史修正主義者の議論は、患者に対する一時的な快癒をもたらすに違いないのである。彼らはいうのだ、そんなことはなかった、あなたは間違って記憶しているのだ、と。いや、むしろ、根本的な治癒とは、この忘却のことを言うのであり、意図せざる結果だとしても、かえって、歴史修正主義者は、歴史主義者よりもよき精神分析医である可能性がある。歴史主義者は被害者に向かって言うのだ、善人の顔をして言うのだ、あなたは、人類のためにホロコーストの記憶を忘れるべきではないし、それを白日の下にさらして国家主義者どもを糾弾すべきなのだ、と。わたしが代弁してもいい、とにかくわたしにその恐ろしい経験を語ってくれたまえ、なぜなら、あなたが正気を失うようなその恐ろしい記憶は、事実なのだから……。</p>
<p>人間は、少なくとも近代的人間は、多かれ少なかれ、この戦争神経症者と同じ病を患っている。だから、わたしたちは、歴史の反復を強いられている。この病にとって、歴史主義者と歴史修正主義者のどちらがいいというものでもない。重要なことは、歴史修正主義を非難するあまり、歴史主義に陥ってはならないということだ（別に気取る必要はないのでありていな言い方をするが、かつては右翼の専売特許だった歴史主義は、いまや左翼のものなのであり、しかしたちの悪いことに、表面的に、あるいはとってつけたように歴史主義を批判する）。</p>
<p>今手許に資料がないので数年前に読んだときの記憶に頼って言うが、フロイトは記憶を二重化、否、二層化している。すなわち、記憶を呼び出し、記憶を（時系列的に）整合性のある意識的なものにする層と、記憶が無時間的かつ断片的に蓄えられた層とにである（「マジック・メモについてのノート」）。前者はいわば短期的な記憶を司り、必要に応じて書き換えられ、また消去されるものである。他方、後者は、誕生以来の記憶が無茶苦茶に詰め込まれ、生涯消え去ることはなく、また生涯にわたって蓄え続けられる。ふつう、わたしたちが「忘却」と呼んでいるのは、前者が後者に蓄えられた記憶をうまく呼び出せなくなっている状態のことを言う。当然、知らないことと忘却とは、後者にすら記憶が蓄えられていないことによって区別される。また、戦争神経症者のケースは、なんらかの、おそらくは社会的な抑圧によって、快感原則とは無関係に、意図に反して記憶が呼び出されてしまう状態であると考えればよいだろう（フロイトの戦争神経症の事例が第一次世界大戦後であることと、ナショナリズムの実質的な起源がおよそ同時期であることはきわめて興味深いことである）。</p>
<p>この二層化された記憶という考え方が、現実世界における歴史学者と資料の関係に似通っていることに注意しよう。無時間的かつ断片的に記憶が蓄えられた層とは、まさに世界中にばら撒かれ（＝《散種》され）、無方向的に蓄積されている資料群に対応しているのであり、歴史学者の仕事は、それらを時系列的に整合し、意識的なものにする（＝再現前化［リプリゼンテイト］する）記憶の層に対応していると考えられる。ここで再びアーレントの議論を振り返っておけば、断片的な資料群を湮滅すること、すなわち無意識の層に蓄えられた消えない記憶を抹消することを、「忘却の穴」と呼んでいることがわかる。</p>
<p>さて、ジャック・デリダは、フロイトの上記の議論を参照しつつ、無意識の層に刻み込まれた消えない記憶の束、これを《痕跡》と呼びさらに複雑な考察を加えた。歴史の起源を、なんらかの具体的な出来事ではなく、この《痕跡》にあるとしたのだ。彼のこの徹底した歴史主義批判が示唆しているのは、歴史がいくら起源を事実に求めたところで、歴史が見出すのは、決まって身体の内側、おそらくは精神とでも呼ばれるべき場所に刻まれた《痕跡》であるということだ。歴史がさかのぼることができるのは、内側の《痕跡》までなのであって、けっして、傷そのもの、あるいは身体の外部で、もっと正確を期せば身体と外気が接触するそのちょうど間のところで繰り広げられた《出来事＝他者》そのものにたどり着くことはできない（傷とは、内部を外部へと繋げる開口である）。歴史の探求とは、ふつう考えられているのとは逆に、外部へ向かう運動ではなく、徹頭徹尾、内部に向かう運動だということだ。ここでストア派の議論を引いておけば、歴史とは、過去についての現在である。同じく、なまなましい傷が過去であるとすれば、当たり前のことだが、痕跡とは、あくまで、過去についての現在なのである。</p>
<p>ジャック･デリダのこうした微妙かつ繊細な議論は、よくよく考えれば、アーレントの「忘却の穴」についての徹底的な批判になっていることを見逃してはならない<sup>(1)</sup>。彼が言いたいのは、アーレントがいくら資料を、あるいは民族を「忘却の穴」から守ったところで、すでに資料が語る内容、あるいは民族は、もっとも重要なことをつねに‐すでに忘れている、要するに、知らないということだ。すなわちそれは、傷痕が覆い隠した傷そのものであり、民族が覆い隠した個人的な体験である。アウシュビッツでは、ナチスによって《ユダヤ人》が迫害された以上のことが、ユダヤ人であるというだけで殺された《個人》に対して行なわれていたのである。だが、歴史家はそれを《ユダヤ人》の虐殺としてしか扱わないし、扱うことができない。こうした思考は、極端な言い方をすれば、結局はナチスと同じところに行き着くということを、歴史家はいつも忘れているし、しかも忘れていることに気づいていない。アーレントが恐れる「忘却の穴」よりも深い穴が、すでにいたるところに開いているのだ。</p>
<p>わたしたちは、なぜ、ホロコーストの死を重視するのだろうか。それはもちろん、思い出すことができるからである。手っ取り早く思い出すことのできる、最悪の悲劇がそれだからである。普段は忘れていても、たとえば、このエッセイそのものが間接的な仕方でそうであるように、いろんな《痕跡》を見つけて、思い出すことができる。だが、もっと重要なことは、《痕跡》では思い出すことのできないたくさんの死があるということであり、いつだって、そういう死の方が思いだせる死よりも多いということなのである。ホロコーストで死んだ人は覚えていても、その横で戦って死んだであろうドイツ兵のことは知らないように。事実、わたしたちは、ホロコーストにおいて起こった《個人》の死でさえ、もう《ユダヤ人》の死としてしか思い出せなくなってきている。《痕跡》は、傷を、《個人》を覆い隠してしまったのだ。真に重要なのは、名前ではない。ミシェル・フーコーが畏怖し、正しく称賛した名も無き人々――つまり誰もその名を覚えることができなかった人々の名、忘れ去られ、忘却の底で地下生活を繰り広げる人々の、その《無名性》なのである。</p>
<p>わたしたちは、注意深く、忘却という概念を再考する必要がある。なぜなら、忘却は、フロイトの説が正しいとすれば、無意識に蓄えられた記憶痕跡を消し去ることではないからである。むしろ、意識と無意識のあいだの距離の謂いなのだ。重要なことは、いかに記憶痕跡を呼び出すことができるか、なのであって、その意味で言えば、適切に忘れられることこそが、よりよき記憶なのであり、また、よりよき記憶とは、適度に忘れていることなのである。肝心なことは、記憶していることではなく、痕跡と適切な距離を保つことなのだ。また、思い出され、再現された記憶にも、あまりたいした意味はない。それは名についての思考だからである。それよりも大事なのは、はっきりと意識された記憶と、その根源である《痕跡》との間に広がる、忘却のプロセスなのである。この忘却のプロセスにおいてのみ、わたしたちは、無名性の概念を思考することができるからである。</p>
<p>デリダは《散種》ということを言った。記憶（記録という方が正確だしこの場合はこの区別がとても重要だ）をばら撒くのだ、もっと無数の痕跡があることを思い知らせるのだ、と。それは、記憶を統整しようとする歴史家に対する抵抗であり、記憶に対して忘却の地位を逆転させることなのだ。重要なことは、ばら撒かれた《痕跡》ではなく、それをばら撒く《散種》なのだ。《傷》そのものの生成なのだ。デリダは「そこに灰がある」と言った。それは、歴史家がいくら「忘却の穴」を恐れようとも、あるいはユダヤ人の髪や骨まで焼き尽くしてしまったとしても、そこに灰が必ず残る、ということを言いたかったからだ。フロイトが、《痕跡》はけっして消えないと言ったことを信じよう。真の忘却の穴――つまり、無知の穴は、今日もいたるところに開いているのだし、そんなものを恐れても仕方がない。むしろ、記憶を玉座から引き摺り下ろし、忘却に戴冠させるのだ。それでも歴史家が勝利し続けるかもしれない、だが、灰は必ず残るのだ。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note">
(1) わたしは詳細を知らないのだが、アーレントとデリダの議論を借用してナショナル･ヒストリーの内在的批判を繰り広げる、というような議論があるという。だが、私見に拠れば、内在的な批判とは、論理の一貫性のことを言うのであって、アーレントとデリダという位相の違う議論を併用することが内在的な批判になるとは思えない。
</li>
</ul>
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		<title>歴史の罠と差異化</title>
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		<pubDate>Tue, 01 Nov 2005 03:27:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[歴史とは、何か。つきつめていえば、それは、過去を現在に回収する装置である。もっと端的にいえば、過去を現在に変える装置である。歴史の装置は、だから、過去ではなく、《現在》に置かれている。純粋に過去そのものであるような歴史は [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>歴史とは、何か。つきつめていえば、それは、過去を現在に回収する装置である。もっと端的にいえば、過去を現在に変える装置である。歴史の装置は、だから、過去ではなく、《現在》に置かれている。純粋に過去そのものであるような歴史は、存在できない。“過去そのものであるような歴史”とは、錯乱せる人間の理性が生み出した、端的な誤謬である。したがって、むしろ、誤解を恐れずにいえば、歴史の探求とは《現在》の探求であり、一般化を犠牲にしてより正確を期せば、過去についての《現在》と現在についての《現在》の差異を明るみにすることである。つまり、歴史は《過去》を扱うのではない。</p>
<p>資本主義とは、何か。つきつめていえば、それは、過去の生産形態と現在の生産形態の差異を通約可能にする装置であり、もっと端的にいえば、過去を現在にもってくることで、価値を生産する装置である。商人資本は空間的差異から価値を生み出したが、資本主義は、その場にいながらにして、差異を生み出すことに成功したのである。</p>
<p>このように、これら二つの装置は、過去と現在を通約（＝通訳）するという点で、奇妙に重なり合っている。資本主義は、ある意味で、歴史的時間にまつわる上記の人間的誤謬を利用することで、「剰余価値」（マルクス）を生み出していると考えて差し支えない。</p>
<p>欠損を含む過去世界からの手紙（＝「痕跡」（デリダ））を読む古文書学者は、いわば、近代資本家の集約された姿である。手紙の欠損、それは、他者ではない。欠損を含む手紙全体の記述＝痕跡もまた、他者ではない。むしろ、《現在》である。にもかかわらず、この欠損が、“古さ”に見え、しかも、書き手の時間上の立ち位置（過去）がもたらしたものに見えるということが、歴史という装置のもっているひとつの罠である。“古さ”とは、《現在》である。過去ではない。このように、歴史は、徹頭徹尾、《現在》であるにもかかわらず、それが《過去》に見えるという、きわめて重大な欠陥を持っている。この欠陥は、文字から、「亡霊」（デリダ）を浮かび上がらせる。「亡霊」、それは無数の読者の影である。手紙が書かれて以来、さまざまな読者がいた。もちろん、読者には、あなたが含まれている。問題は、けっして書き手の「亡霊」ではないということである。</p>
<p>じつのところ、《現在》を扱う歴史においては、真の《過去》は置き去りにされている。また、同じことだが、歴史は《ここ》だけを扱っているのであり、したがって、《よそ》は置き去りにされている。文字は古い。だが、過ぎ去る現在――つまり過去――にある声と違って、文字は、つねに《今ここ》に定着している。つまり、文字は、《現在》にある。だから、本当に《過去》や《よそ》を扱おうと思うなら、歴史は、《今ここ》もろとも消滅しなければならない。</p>
<p>“ここ”と“よそ”。あるいは、“今”と“過去”。それらが通約可能な差異であるうちは、コミュニケーションは、この差異を同一化するプロセスとして捉えられ、また、そのことの不可能性が、同時にコミュニケーションの不可能性として把捉される。基本的に、デリディアンの議論は、この同一化のプロセスを、同一化不能のプロセスに重ね合わせることである。すなわち、同一化を志す思考が同一化不能の地平に到達することで、差異の通約可能性を疑い、さらには、通約不能の差異を見出すこと、これを脱構築と考える。したがって、同一化と同一不能性とのあいだの“揺らぎ”や、あるいは“ためらい”に可能性を見出すというパターンを取りがちである。この“揺らぎ”や“ためらい”が、デリダの用語で「差延」と呼ばれることになる。</p>
<p>だが、“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”とが、通約可能な差異ではなく、絶対的な差異をもっているのだとしたらどうだろうか。その場合、こうしたプロセスそのものが不可能になるはずである。つまり、通約可能な差異という発想を疑うための通約可能性を想定することができず、結果として、脱構築の手続きを踏むことができないことになる。したがって、デリディアンの議論は、じつは、袋小路だとわかっている道を選ぶようなものである。というか、最初からいきなり壁にぶつかるのである。強力なブラックホールであるヘーゲルを内側から破壊することはできない。内側に入った時点で一巻の終わりである。</p>
<p>考え方を変えよう。“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”とは、絶対的な差異をもっている。<strong>にもかかわらず、わたしたちは、コミュニケーションしている</strong>。だとすると、問題は、時空間の差異とは別のところにある。すなわち、コミュニケーションが、差異を同一化していくプロセス（脱構築の場合は、その逆）として捉えられているという、この部分に誤りがある。同一化が不可能であるとわかっていながら同一化を欲望することができるのはデリディアンだけであり、要するに間違っている。むしろ、コミュニケーションが、差異Ａから差異Ｂへの《差異化》のプロセスであるとすればどうか。だとすれば、絶対的な差異は、むしろコミュニケーションの可能性である。“ここ”と“よそ”、あるいは“今”と“過去”との差異が、別種の差異にもち来たされることが、コミュニケーションである。したがって、真に問題なのは、“ここ”<strong>と</strong>“よそ”、“今”<strong>と</strong>“過去”を繋いでいる「と」である。この新しい「と」は、古い「と」のように両者を対立させつつ、通約可能なものとして、繋げているのではない。むしろ、両者を引き離しつつ、併置している。両者の、通約不能の絶対的距離が、同時に併置を可能にしている。「と」は、その表現である<sup><a name="p1" href="#n1">(1)</a></sup>。</p>
<p>ところで、《差異化》は、ジル・ドゥルーズの概念differen<strong><em>t</em></strong>iationである<sup><a name="p2" href="#n2">(2)</a></sup>。この概念の、もっとも優れた例のひとつが、柄谷行人の言う、「教える」立場<strong>と</strong>「学ぶ」立場である。この場合、重要なのは、二つの立場の差異は、“今”と“過去”という絶対的な差異を内包しているという点で特徴づけられるということであり、にもかかわらず、この絶対的な差異なしには両者の関係が形成されないという、（同一化を志向する古いコミュニケーション論からすると）一種の逆説が成立していることである。したがって、ここで柄谷は、コミュニケーションの概念そのものの変更を迫っていることになる。つまり、コミュニケーションとは、差異を同一化することでも、同じものを差異化することでもない。差異から差異への《差異化》なのである。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a name="n1" href="#p1">(1)</a> この議論は、ご承知のとおり、ジャン＝リュック・ゴダールの『ヒア＆ゼア　こことよそ』（1974年）およびジル・ドゥルーズの『シネマ』（1983-5年）のゴダール論を念頭に置いている。</li>
<li class="note"><a name="n2" href="#p2">(2)</a> ドゥルーズの「差異化」と、デリダの「差延」はまったく意味が違うという事実を確認しておきたい。</li>
</ul>
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		<title>《差延》の概念</title>
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		<pubDate>Tue, 11 Oct 2005 03:41:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[これは何の記号だろうか……。こんな登場人物がここに存在してよいのだろうか。こんなものは、今の今まで、どこにも現われたことがなかった。お前は誰だ？　“a”の痕跡。少なくとも、わたしは覚えていない。どの登場人物が、“a”に変 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>これは何の記号だろうか……。こんな登場人物がここに存在してよいのだろうか。こんなものは、今の今まで、どこにも現われたことがなかった。お前は誰だ？　“<em>a</em>”の痕跡。少なくとも、わたしは覚えていない。どの登場人物が、“<em>a</em>”に変わってしまったのか？　あるいは、新しい登場人物なのか？　それにしても、ただの一度しか現われないお前は、本当に“何ものか”なのだろうか。まさか、幽霊とか……？</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>“<em>a</em>”の痕跡が空間も時間も超えて《差延differ<strong><em>a</em></strong>nce》でありうるのは、“<em>a</em>”が何ものをも意味しないときだけである。デリダ自身がそう言っている<sup><a name="p1" href="#n1">(1)</a></sup>。それにしても、“<em>a</em>”が何ものをも意味しないとは、一体、いかなる事態なのだろうか。</p>
<p>理解不能のこの“<em>a</em>”を、アーキビストは、たんなるシンタックス・エラーとみなした。彼の手は、コーパスから、この“<em>a</em>”を取り除いた。これを書いた（書いてしまった？）作者だって、この“<em>a</em>”が誰なのか、わからないに違いない。このとき、この優れたアーキビストは、ふと考えた。この薄汚れた“<em>a</em>”を取り除く根拠は何だろうか。エラーだからだ――それは根拠になっていない。ここには嫌悪すべき国家主義的な循環がある。むしろ、エラーであるようなこの“<em>a</em>”こそが、“<em>a</em>”以外の語のすべての意味を可能にしているのではなかろうか。むしろ、このエラーこそが、すべての語の意味の根拠なのではなかろうか。だとするなら、この“<em>a</em>”を取り除くなど、なんたる冒涜的な行為であることか。……</p>
<p>この優れたアーキビストは、“<em>a</em>”を再びコーパスに入れなおした。この“<em>a</em>”は、なににもまして記録されねばならない――記憶しつづけるために。そして彼は、これに《歴史》という名を名付けた。物語を不可能にすると同時に可能にする出来事そのものとしての、《歴史》。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この優れたアーキビストは、しかし、次の可能性について考えなかった。“<em>a</em>”がたんなるエラーではないのだとすれば、他の語もまた、単純に文だとは言えないのではないか？　要するに、すべての語が語でない可能性もまた、あるのではないか？　たんなる、アルファベットの戯れの組み合わせにすぎないのではないか。dやe、fやr、そのすべてが戯れなのではないか。これこそが、マラルメが指摘した戯れである。そのすべてが戯れであるのなら、戯れはもはや戯れという意味すら失う。デリダが正確に指摘したように<sup><a name="p2" href="#n2">(2)</a></sup>、それは「二重の戯れ」でなければならない。別の言い方をすれば、戯れているだけでは、真に戯れているとはいえない。むしろ大真面目であることが真に戯れていることだってありうる。なにしろわたしたちの倒すべき相手は、二重にくそ真面目であるために、かえって戯れているようにすらみえる輩なのだから。……</p>
<p>“<em>a</em>”が何ものをも意味しないとは、こういうことである。痕跡は、歴史を作り出し、未来を、あらかじめ約束されたものにする。痕跡はひとに未来を与えると同時に、未来を歴史に明け渡し、回収させる。“痕跡<em>a</em>”に抹消記号を附すこの手は、同時にすべての語に抹消記号を附すのでなければならない。痕跡に抹消記号を附す手だけが、空間も時間も超えて差異であるようなもの、すなわち《差延differ<strong><em>a</em></strong>nce》を作り出すことができる。概念ではないような《差延》だけが、誰も知らない、真の未来を付与する<sup><a name="p3" href="#n3">(3)</a></sup>。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>痕跡は、いずれは消え去るものであるし、また消え去らねばならない。だが、《人間》は、それに逆らって痕跡を残そうとする。残そうとすることで、未来、それも自身の死後の未来の存在することを把握する。かくして、《人間》は、この痕跡の作り出す同心円の内部に縛りつけられる<sup><a name="p4" href="#n4">(4)</a></sup>。この同心円の範囲に許容された運動だけを未来だと考えてしまう。だが、それは、未来が死ぬことにのみ向けられることである。すなわち、未来を歴史に従属させることである。だからこそ、わたしたちは、痕跡に抹消記号を附さねばならない。</p>
<p>痕跡に抹消記号を附す、とは、いったい、どうすることか。それは――ホロコーストの記憶をすっかり忘れ去ってしまうことである<sup><a name="p5" href="#n5">(5)</a></sup>。なぜなら、未来を歴史に従属させることなく、歴史を未来に差し向け、活用するとは、歴史を忘れることだからである。というか、歴史は、じつは忘れることなのである。活用せよ、そして忘れよ――それがわたしたちの標語である。あなたにそれができるか――などという問いかけは無意味だ。忘却を恐れるな。あなたなら、それができる。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a name="n1" href="#p1">(1)</a> ジャック・デリダ『ポジシオン』（高橋允昭訳）青土社、二〇〇〇年。</li>
<li class="note"><a name="n2" href="#p2">(2)</a> 同前、13-14頁。</li>
<li class="note"><a name="n3" href="#p3">(3)</a> 《差延》は経済的な<strong>概念</strong>である。それがオイコス（家）を意味する経済（オイコノミア）の俎上にあるかぎり、《差延》はむしろ意味を生じさせる。資本主義経済の問題は、貨幣資本の特殊なはたらきのために、オイコスが見えにくくなっていることである。だから、逆にオイコスから逃れるのは容易ではない。同前、17頁、およびアリストテレスの家政学と貨殖学の対比（『国家論』、『政治学』のそれぞれ第一巻）を参照のこと。</li>
<li class="note"><a name="n4" href="#p4">(4)</a> フッサールの現象学はこの時空間の内部に開かれる。ジャック・デリダ『グラマトロジーについて』等を参照のこと。</li>
<li class="note"><a name="n5" href="#p5">(5)</a> こういうことを言う場合には、慎重さは不可欠である。だが、いくら慎重になっても十分ということはないだろう。デリダは、ここで、再び幽霊に捕まってしまったように思われる。「《差延》はひとつの概念ですらない（『ポジシオン』）」というその言葉が、ホロコーストの幽霊やマルクス主義の亡霊を召還してしまったのだ。だが、すでにずっと前にデリダは幽霊や亡霊に出会っていたのではなかったか？　むしろ、それは、訣別のための所作なのではなかったか――といっても、この幽霊や亡霊から逃れるのは困難である。痕跡や差延の《概念》は、ヘーゲル的なブラックホールに近寄りすぎているようにみえる。だからこそ、デリダは、《差延》を“概念ではない”と言わねばならなかったのだが、わたしたちは、それに対してこう問い返す欲望を持たざるをえない――概念でない差延は、わたしたちにとって、どれくらい意味があるのか？――この“意味”という語が、差延を概念にしてしまう。だから、わたしたちは、もっと別様の道を考えよう。忘却に力を与えるためには、どうすればよいのか？</li>
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