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	<title>ex-signe &#187; elliptic dialectic</title>
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	<description>kio tanaka's website</description>
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		<title>弁証法の彼方へ</title>
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		<pubDate>Thu, 27 Aug 2009 15:29:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[Frankfurter Schule]]></category>
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		<category><![CDATA[lie and fiction]]></category>
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		<description><![CDATA[われわれの思考は、アドルノやデリダ、そしてハバーマスのあいだで揺れ動いている。弁証法に反対する人も、賛成の人も、結局は、彼らのつくる三角形のなかで藻掻いているにすぎない。全体化に強く反対したアドルノが、差異化の運動そのも [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>われわれの思考は、アドルノやデリダ、そしてハバーマスのあいだで揺れ動いている。弁証法に反対する人も、賛成の人も、結局は、彼らのつくる三角形のなかで藻掻いているにすぎない。全体化に強く反対したアドルノが、差異化の運動そのものである否定弁証法に可能性をみたのは、時代の悲劇だ。それは、極度の屈折である。われわれの世代は、最大限の敬意を払うべきアドルノの屈折した叫びによって、始まったのである。</p>
<p>Ｓ＝Ｘ。しかし、「真」の命題はついに存在しない。世界の表現である詩がついに野蛮のまま終わるように、対象Ｘが存在するかぎり、それ（ら）は主体に対する不断の異議申し立てである。アウシュビッツの後で、詩を書くことは野蛮である、という命題でさえ、その真を保証されえない。かくして、詩が力をもつこともまたあるだろう。芸術がすべての力を失うぎりぎりのところで、“否”によって、詩を逆説的に、アイロニカルに救おうとしたアドルノ。否こそが、ひとびとのもつ最強の武器である……。かくして、われわれの世代のすべての力が、この“否”になだれ込んでいく。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、わたしにとって、もっと不思議なことは、次のことである。偽であるということがどうして存在しうるのか。そして、そのことの実践的な言い方である《嘘》は、いかにして《存在》しているのか、ということである。《嘘》は、悪しきものであるにもかかわらず、悪い結果をもたらすと決まっていない。それは本当に不思議なことなのだ。</p>
<p>詩とは、真か偽か、という問いの前では、つねに偽であろう。裁判官の前で、科学の前で、詩はついに偽でしかありえない。世界の表現である詩は、表現である、というただそれだけの理由から、否を突きつけられる嘘なのだ。しかし、渇きを覚えた人間に梅の実を想像させることが一瞬の潤いをもたらしうるように、偽が力をもつことがありうるというのは、いったいどういうことなのか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>驚くべきストア派のひとたちは言っていた。偽は、真になるものとならないものがある。それにひきかえ、真は真であることしかできない、と。わたしは彼らの物言いに笑いを禁じえない。心の底からすばらしい表現だと思う。われわれは、彼らに倣って、現代の人々がすべて虚構とみなしている表象を、二つに分けなければならない（ストア派の言い方に倣うなら、よい表象をパンタシアと呼び、悪い表象をパンタスマと呼ぶ）。前述のドイツ人とフランス人の作る三角形から一歩踏み出して、《どのような嘘が真でありうるのか》を思考しなければならない。別の言い方をすれば、言葉がいかにして出来事となるのか、それを思考しなければならない。</p>
<p>そのためには、すでに真となった表象をそこから取り除いておく必要がある。それらは、すでに役割を終えているからだ。本当の真理は、アインシュタインや湯川秀樹がそうであったように、すべて、《予言》の形で現れる。それらは、別の側面からみれば、かつて《嘘》だったものであり、しかも《真》となりうる《嘘》だったのである。狼少年の嘘は、現実には、ある種の宙吊りの結末しかもたらさない。つまり、つねに未来に真となりうる可能性を残し続ける。したがって、嘘であるかどうかさえ、実際にはわからない。「彼の言っていることは本当ではない」という「否」によっては、そうした宙吊りを大地に引き摺り下ろすことはついにかなわない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>歴史は、それが最終的に肯定されるにせよ、否定されるにせよ、弁証法の運動の範疇にある概念である。そこから踏み出すためには、予言を自己実現する悲劇が必要とならざるをえない。天才ソフォクレスが表現したのは、それである。オイディプスは、自らにまとわりつく運命の糸を感じていながら、歴史の宙吊りを克服するために、予言の自己実現を意志し、文字の世界からおさらばするために、自分の目を突いて光を奪ってしまう。そして王であった彼は、ひとりの人間として、しかも最後の人間として、地上に降り立つ。これが文学である。アドルノやデリダ、そしてハバーマスは、たしかに真摯なひとたちだった。だが、文学は、彼らの彼方にあるように、わたしには思える……。</p>
<div class="post-rl"><a href="http://www.amazon.co.jp/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A1%E3%83%B3%E2%80%95%E6%96%87%E5%8C%96%E6%89%B9%E5%88%A4%E3%81%A8%E7%A4%BE%E4%BC%9A-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BBW-%E3%82%A2%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%8E/dp/4480082476%3FSubscriptionId%3DAKIAJTU5FBML3HWXOESQ%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4480082476"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/themes/ex-signe_II/images/amazon_noimg.png" style="float: left; margin-right: 10px;" /></a>
<span style="text-indent: 0em;">テオドール・W. アドルノ『プリズメン―文化批判と社会 (ちくま学芸文庫)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span></div>
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		<title>唯物論的な歴史学</title>
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		<pubDate>Sun, 31 May 2009 12:08:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[history]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[fairy/nymph]]></category>
		<category><![CDATA[Hume]]></category>
		<category><![CDATA[the present is always new]]></category>
		<category><![CDATA[ファントム]]></category>

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		<description><![CDATA[文献学者が日々量産しているカント主義観念、すなわち原因―結果の観念は過去をどんどん遠い彼方へと送り返している。なぜなら、原因とは、結果ではないからだ。原因と結果の両者は手をつないで、交わることなく、弁証法という名の楕円を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">
文献学者が日々量産しているカント主義観念、すなわち原因―結果の観念は過去をどんどん遠い彼方へと送り返している。なぜなら、原因とは、結果ではないからだ。原因と結果の両者は手をつないで、交わることなく、弁証法という名の楕円を描く。天才ヒュームが一度はほどいたこの原因と結果の紐帯をカントが結び直した時、かくして過去はもうわれわれの前には姿をあらわさなくなってしまった。過去は地中奥深くに沈みゆき、つねに諸原因の結果であるところの現在がふたたび原因を規定するという悪夢のような循環のなかで、世界は日々閉塞の度合いを強めてゆく。しかし思えば子供時代、わたしはいつも、地中で集くこおろぎを聴いた。闇を集めて集くこおろぎの集きが、闇を掴むことのできるものにした。こおろぎの鳴く声は姿とひとつであった。
</p>
<p class="post">
われわれは、いまもこおろぎの集きを聴く。だが、その姿はみかけない。たまに見かけても、その姿が声の主だとは信じない。形を失ったファントムのように、声だけが当たりに散乱しているのをいつも聞き流している。子供時代には知っていた声の物質性をわれわれは信じられなくなってしまったのだ。
</p>
<p class="post">
だが、子供は知っている。その鳴き声のある《ところ》に姿があるのではないことを。そうではなくて、その鳴き声こそが、姿なのだ。だから彼らは容易にこおろぎをその手に捕らえることができる。文献もまた、同じことだ。文献は、過去の《原因》を伝える《結果》ではない。文献を紐解く、とは、まさに、ヒュームがそうしたように、原因と結果の観念から自由になることだ。つまり、われわれが文献を紐解くとき、そこにまた新たな歴史が生起するのだ。歴史は何度も繰り返す。といっても、抽象化されてしまった出来事の残滓が現在に再現されるのではない。たったいま、またカエサルがブルータスに討たれ、仏さえ斬って捨てる関羽の大刀が大将の頸を刎ね、馬上のチンギス＝ハーンが敵の返り血を浴びて笑う。過去は地中奥深くに伏流し、その出来事の乱舞を繰り返している。過去は地中にその根をめぐらせ、いったい自分がどの層にいるべきなのか、わからなくなっているのだ。文献学者が苦労して過去を順序付けたとしても、本人のほうで、そんなことはおかまいなしなのである。
</p>
<p class="post">
妖精はかならずいる。神もまたかならずいる。読むひとを驚嘆させるあのスピノザがそうだったように、そのことをほんとうに信じているひとは、べつに宗教など必要ないし、神秘主義とも無縁である。この肉体が、わたしの精神だ。自意識などとは、さっさとおさらばしよう。過去は妖精のように、不意に姿をあらわす。毎度遅ればせながら、わたしは妖精たちに出会うために、今日もまた歴史を紐解く。</p>
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		<title>醜悪な戦争、精神と肉体の弁証法</title>
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		<pubDate>Tue, 06 Jan 2009 15:02:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[God is dead]]></category>
		<category><![CDATA[Nation-State]]></category>
		<category><![CDATA[war]]></category>
		<category><![CDATA[情報]]></category>

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		<description><![CDATA[イスラエル軍は空爆の映像を世界に配信している。とにかくひどいという印象をわたしに抱かせる。この映像のフレームそのものが醜悪であり、撮影する者が代表している人間の醜悪さ、まるで人類の善を気取り、代表するような傲然とした態度 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>イスラエル軍は空爆の映像を世界に配信している。とにかくひどいという印象をわたしに抱かせる。この映像のフレームそのものが醜悪であり、撮影する者が代表している人間の醜悪さ、まるで人類の善を気取り、代表するような傲然とした態度が、かえってわたしを戸惑わせる。映画的訓練を受けたひとなら、カメラが世界を二つに分割することを知っているはずである。撮影する者（見る者）と、被写体（見られる者）とにである。わたしはどちら側にいるか。間違いなく、この被写体を眺める、イスラエル軍の側にいる。この居心地の悪さは、カメラがもつ、もっとも低俗で、なおかつもっとも強力な能力である、世界を見る者と見られる者に分かつ二分法がもたらしているのだろう。</p>
<p>われわれはこれをどう考えるべきなのだろうか。人間がロケットの周りを徘徊している。それにむけて照準を何度も合わせなおし、ついに彼はミサイルのスイッチを押す。車に積まれたロケットは、周囲の人間もろとも木っ端微塵であろう。飛来する爆弾の炸裂をまともに受けて死んだひとびとは、まだ、自身が次の瞬間にはあの世の人間となっていることを知りもしない。もしかしたら、死んだパレスチナ人たちは、自身の運んでいたロケットが事故を起こしたと勘違いしていたかもしれない。とまれ、そこには、戦争というよりは、神の懲罰に似た倣岸さだけが瀰漫している。これは戦争ではない。とはいえ、こうした審判あるいは懲罰は、今日の戦争の主要な側面である。一方には、弱者であることを傘に着た、しかし勇敢なテロリズムという、犯罪に似た戦争。他方には、テロを雲の上から一方的に裁く、神の懲罰に似た卑劣な戦争がある。犯罪とその懲罰こそが、二十一世紀の戦争である。</p>
<p>そうはいっても、これはただの映像にすぎない？　これは情報であって、現実にはもっと別のことが起きている？　そうかもしれない。だが、戦争の分析よりも前に、まず考えなければならないのは、人間が、映像の《とおりに》死んでいるという、不思議な事実である。</p>
<p>真理と現象を別のところに配置し、区別する思考は、現象を真理もろとも情報に変えてしまう。現象に対して、情報学的な判断が要求されるようになる。それが、ジャーナリズムの勃興から世界大に広がったインターネットの普及によってきわまった、今日の視線のあり方である。だが、わたしは思うのだが、こういうときこそ、物自体と現象とを区別するような、そうした態度を捨て去るべきなのではないだろうか。イスラエル軍自らが配信している映像に対して、そうした区別はなんら必要がない。たんに人が、肉体的に死んでいるということである。戦争とは、おそらく、現象と物自体とを区別しようとする、そうした人間性の揚棄にほかならない。</p>
<p>真理と現象（あるいは認識）の区別は、もとを正せば、精神と肉体の区別に起因している。精神にとっては、肉体こそが真理への道程を邪魔する現象であり、また肉体にとっては、精神こそ、真理を遮断する認識論を構築する。精神にとって、肉体とはまやかしであり虚構だが、肉体からすれば、精神ほど虚偽であるものはない。驚くべき明快さによって、心身二元論は、世界を真実と嘘の世界に二分してしまう。カメラを挟んだ向こう側、そこには、被写体であるにすぎない、つまりは虚偽そのものであるような敵がいる。その一方のこちら側には、正義を気取って撮影に勤しむ、真理の裁定者がいる。かくして、世界は二分されるのだ。</p>
<p>だが、現実的には、精神と肉体とが別々の状態のままでは、なかなかひとはうまく生きることができない。むしろ、心身二元論とは、病のことである。ニーチェが自身を健康だといったのは、いかに衰弱していようと、精神と肉体とが、完全に同じ場所を占めていることを誇ったからだ。真理と嘘は、同じ場所を占めるのでなければならない。</p>
<p>このことから、逆に、戦争がなにを行なうのかが、見えてくる。――それは、精神と肉体とが別々に存在していると考える人間をあざ笑うことである。ただ肉体的に死ぬということが、精神の死をも意味するのであり、戦争とは、精神と肉体とを別々のものと考えがちな人間が、望むと望まざるとにかかわらずとらざるをえない、快癒のプロセスであり、最後の弁証法なのである。戦争の前では、現象と物自体の区別はまったく無駄なことである。たんに、精神と肉体の二重体である人間を木っ端微塵にする。</p>
<p>だが、もとを正せば、人間は、精神と肉体とを極端に分割するからこそ、戦争という、極端な回復プロセスが必要になるのではないのか。だとするなら、戦争に対して、物自体の回復を唱えても無駄である。人間性の回復を唱えることも、それが精神と肉体の分裂を回復しようとするものであるかぎりは、無駄というよりは有害である。わたしには、むしろ、そうした区別が、この醜悪な戦争を要求するように思われる。精神と肉体の分裂を、死によってしか回復できないほどに、ひとは人間でありすぎることがある。</p>
<p>こうした極端な弁証法的過程を歩む戦争において、敵を殺害し、なおかつ生き残った者は、かえって著しい分裂状態に苛まれることになるだろう。死による弁証法的統合過程から取り残されるということ、それは、精神と肉体の分裂状態を生きることを意味する。死の欲動が強く生まれるのは、まさにこのときなのだろう。</p>
<p>どうしてひとは、心身二元論を作り出してしまうのか。本来、精神と肉体とが、別々の場所にあったことなど、一度もない。わたしはいつも《ここ》にいるが、精神は《故郷》に、すなわちパレスチナに、イェルサレムに所属している――こうした思考はナショナリズムを可能にする。だが、実際には、それは病なのだ。</p>
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		<title>理論家の任務――丸山真男について</title>
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		<pubDate>Mon, 04 Feb 2008 14:30:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[Gödel]]></category>
		<category><![CDATA[Gödelsche Unvollständigkeitssatz]]></category>
		<category><![CDATA[Hegel]]></category>
		<category><![CDATA[machine de guerre]]></category>
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		<category><![CDATA[reconcile/abandon]]></category>
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		<description><![CDATA[丸山真男はこういっている。 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>丸山真男はこういっている。</p>
<blockquote><p>本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の広野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある<span style="font-weight:bold;">断念</span>〔強調は丸山、原文は傍点〕と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。（『日本の思想』岩波新書、60ページ）</p></blockquote>
<p>理論家は、現実に対する「断念」と、そして理論化（抽象化）の過程でとり残されたものに対する「いとおしみ」とを有している――これが、丸山の主張である。ぼくには、この議論から、即座に、彼がもっている、あるひとつの論理的根底のようなものを見つけ出すことが出来る。それは、カント‐ヘーゲル主義であり、とどのつまり、《弁証法》である。当然、このようなタイプの議論は、戦後のある時期以降には、散々批判されてきたものである。この議論の粗を指摘するのは、いまでは、それほどむずかしくはない。丸山のいうように、理論家の行なう操作が、たえず現実から、なにかをこぼれ落ちさせるのだとしよう。抽象化という語を、この学者特有の意味で厳密に使用するかぎり、それは、避けられない。むしろ、そのことを受け容れなければならない。だが、にもかかわらず、理論家には、指のあいだからこぼれ落ちたものを再び掬おうとする「衝動」がある、という。この「衝動」の根拠は明らかではないが、それはひとまず問わないでおこう。問題は、丸山のような形で「抽象／理論」化という語を使用するかぎり、なにをどうあがこうが、永久に真理には到達し得ないことが、その学究のはじめから承認されてしまうことである。</p>
<p>それにもかかわらず、この理論化（抽象化）の過程がなんらかの真実に近づいている、と理論家自身にみなされているのであれば、それは、弁証法以外のなにものでもない。つまり、彼の言葉はつねに現実とは異なる、抽象化された理念なのだが、にもかかわらず、それが現実に近づくというのだから。この理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」が、そうして真理に近づいていくという夢想を根拠としているのであれば、彼は、ヘーゲル的な観念論者、もっというなら、彼がこの引用の冒頭で批判したとおぼしきロマン主義的な観念論と、結果的にはなんらかわりはない。そもそも、彼は対象の背景に「無限の広野」を認めている。したがって、じっさいには、彼がなにを行なおうと、真理には永久に到達できないし、そればかりか、近づきもしないのである。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>とはいえ、そうしてヘーゲル主義的に丸山を読んでも、おもしろくもなんともない。「断念」という語の強調を、極大まで拡大してみよう。そうすれば、この発言は、ただちに、もっとデリダ的なものに変身する。テクストの外部について、理論家は、「断念」せねばならない。そうであるがゆえにこそ……というわけだ。</p>
<p>かりに、ヘーゲル主義的な、理論と現実の弁証法を前提しないでこれを読むなら、丸山は、けっして、この議論において、理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」の根拠を明かしていない。この理論家は、はじめから理論が現実に到達するのではないことを知っていながら、にもかかわらず、そうした理論化を行なおうとする。したがって、この「衝動」は、彼をすこしも前進させない「衝動」なのであるし、じつは、この丸山の議論は、もっと奇妙である。おそらくは、丸山が、心のどこかで無自覚のうちに認めていたような、こうした無根拠な「衝動」において、読むべきなのだ。……</p>
<p>実際には、丸山は、構造主義的な観点、もっといえばデリダ的な観点から非難されてきた。それは、ぼくがいまさきにうえで行なったようなやり口で、である。だが、丸山の議論の構造は、ぼくらが思っている以上に、もっとデリダ的である。大胆な言い方をすれば、印象はずいぶんちがうが、丸山とデリダは、それほどちがっているわけではない。現実について「断念」しつつ、「いとおしみ」と「衝動」をもつ、という、この学者のスタイルは、テクストと外部とを遮断しつつ、その断絶を受け容れたうえで、脱構築を試みようとしていたデリダのスタイルと、同じである。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>この手の議論は、その断絶の大きさを競う議論になりがちである。丸山は、ロマン主義的な、つまり即自的な自他の統一を認めない。デリダは、ヘーゲル的な弁証法も認めない。ここにはもちろん差異はあるが、しかし、質的には変わらないのである――というか、まさに、こうした違いのことを、ひとは思い入れを込めて、「質的に違う」と言いたがるのだろう。この方向で議論していけば、いずれ、カントの《物自体》にまで行き着くことは眼に見えているのである。もちろん、そこまで遡らなくとも、ゲーデルの不完全性定理で充分なのである。柄谷行人が典型的だが、柄谷はデリダを批判して、その枝葉を刈り込んで、ゲーデルの不完全性定理からカントの物自体にまで洗練してしまったわけである。丸山にせよ、デリダにせよ、柄谷にせよ、その無根拠な「衝動」には感心するし、認めもするが、しかし、もはやぼくは関知しない（ぼくのほうでされているはずもないのだが）。</p>
<p>そもそも、ゲーデルの不完全性定理はどう考えても二流の議論である。たしかに、現実と言葉とが、一致するなどと考えている三流は批判できるだろうが、じつは、そんなひとは、たぶん、ほとんどいない。いたら狂人である。そのレヴェルでは、まちがいなく、言葉と現実とが違うことくらいはあきらかに知っている。もともと、一流は、そんな議論とは無縁にやっているのである。たとえば、絵と現実は、あきらかに違うし、数学と現実も、あきらかに違う。だが、にもかかわらず、画家や数学者は、それを真理として、絵を描き、真理として、公式を編み出しているのである。アインシュタインの相対性理論は、あきらかに、彼なりに研ぎ澄まされた絵筆で描かれた絵画なのである。彼は、量子力学には反対したが、それは、ゴッホがゴーギャンのような絵を描かなかったのと、同じことである。</p>
<p>花田清輝のように、アヴァンギャルド芸術を非現実とみなし、そこから反転し、現実世界へと目を向けるための否定的媒介とみなすような論者がある（だから、花田は、彼一流の「レトリック」を弄して、アヴァンギャルド芸術を否定的に絶賛してみせる）。これも、じつは、丸山や柄谷の議論とそう変わるわけではない。非現実。虚構。彼らは、こう考えている。学者や芸術家に求められているのは、ひとを現実へと振り向けさせるための非現実や虚構を仮構することだと。そしてそれこそが、真のリアリズムだと考えている。このようなひとたちは、哲学や芸術、科学が、本当はなにをやっているのか、わかっていない。あげくのはてに、今日では、現実との接点を欠き、ついでに緊張感も欠いたマンガやゲームが、花田がアヴァンギャルド芸術を褒めたのと同じやり口で称賛され、腐敗が進んでいる、というわけだ。ぼくらは、戦争という悪性の腫瘍を外科手術をやって取り除いたはいいが、そのとき、大事な《戦争機械》（ドゥルーズ＆ガタリ）という神経も一緒に切り取ってしまったらしい。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>絵画と現実がちがうだとか、数学と現実がちがうだとか、そんなことを、ゴッホやアインシュタインにいえば、もちろん笑って、こういうだろう。「そのとおり」と。ぼくならそこに「よかったな」とも付け加えるだろう。しかし、それは、出発点とさえ意識されないような、前提中の前提なのであって、そんな議論をことさら強調する必要はないのだ。べつに否定はされない――というか、ぼくらは、なにひとつ否定などしないのだ。ニーチェのいった、三度ヤーだ。だから、彼らは、たんに、そんな議論とは、いちはやくおさらばした。労働者が穴を掘るのと同じ力強さで、ぼくらは、ぼくらで、ほんものの作品を作りあげるのだ。だから、ぼくらもさっさとそんな議論にはおさらばしよう。ゲーデルの不完全性定理だって、立派に現実である。なぜなら、この定理は、なにも起こさない、ということを起こしたからだ。丸山も、デリダも、その理論が、なにも生み出さなかったというそのことにおいて、立派に現実的だった。</p>
<p>穴を掘り、ビルを建て、絵を描き――そういえば、スーラは、絵を描くことを、壁に穴を開けることだと言っていた――、数学の公式を作りあげるように、ぼくらはぼくらで、三流と呼ばれてもいいから、立派な作品をつくればよいのだ。そして、こう言えばいい、優れた理論と、そして優れた現実は、あなたがたが思っているようにではないとしても、必ず《一致する》のだ、と。もちろん、それは、丸山やデリダが忌み嫌う狂気であるけれども。……</p>
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		<title>言葉の無力</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Jan 2008 12:08:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[déconstruction]]></category>
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		<category><![CDATA[Romanticism]]></category>

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		<description><![CDATA[Ａ：　言葉は無力である、とあなたは言った。 Ｂ：　そうだ。言葉は無力だ。言葉は、本質的に、比喩なのだ。レトリックといってもいいし、現実のまとうリプレゼンテーションといってもいい。ただし、リプレゼンテーションは、じつは、現 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post-n">
<strong>Ａ</strong>：　言葉は無力である、とあなたは言った。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうだ。言葉は無力だ。言葉は、本質的に、比喩なのだ。レトリックといってもいいし、現実のまとうリプレゼンテーションといってもいい。ただし、リプレゼンテーションは、じつは、現実と結びついてはいない。本質的に虚構であり、媒介的なもの、ヘーゲル的なものだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　ヘーゲル……。あなたはずいぶんヘーゲルがお好きなようだが、ならば、あなたはいったい、なにによって戦うのか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　いやいや、ちょっと待ってくれ。ヘーゲルは好きではないよ。むしろ、ヘーゲルに反対しているのだ。言葉がヘーゲル的なものだからこそ、最終的に、言葉そのものが、否定されねばならないと言っているのだ。だから、その質問に答えるなら、こう――現実だ。言葉と現実は違う、現実において戦うのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　いや、あなたはぼくの問いに答えていない。あなたは言葉は無力だと言った。現実において、どのように戦うのか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ふふ……それは悪かった。たしかに君の質問には答えていないようだね。君の質問は本質をついていて、それだけ大変難しいのだけれど、……あえて、いってみれば、こういうこと――言葉が無力であるということを、言葉で示すことによって、戦うのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　それは、もっともらしい言い方だが、あなたの言葉に説得力があるとは思えない。そういう言葉に満足するのは、むしろ、言葉を用いることを常としている学者や政治家ではないのか。言葉を語る権利を持つ者だけが、言葉の無力を主張できるのではないか？<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ん？　……どういうことだ？<br />
<strong>Ａ</strong>：　ぼくはあなたのようには考えない。ぼくは、言葉は暴力であると思う。けっして無力ではない。言葉はときに、ひとを本当に殺す。あなたがいかに言葉の無力を主張したところで、剣や爆弾よりも、言葉こそが……。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ちょっと待った、君の話を途中でさえぎって申し訳ないが、それは誤解だ。言葉は無力だ。なにも行いはしない。君は、どうやら言葉と現実を混同している。だってそうだろう、たとえば椅子を持ち上げるように、言葉を持ち上げることなどできないのだから。言葉とモノは違うのだ。たしかに、多くのひとが、美と自然を混同している。美は、自然を享受する認識の側にある。美と自然とが分かたれねばならないように、言葉と現実は区別されなければならない。<br />
<strong>Ａ</strong>：　カント……。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうだ。君がそれを知っているならば、話ははやい。《物自体》は、他者であり、わたしたちの認識からは区別されねばならない。<br />
<strong>Ａ</strong>：　この二人の対話も、本質的に遮断されている、と。断絶があって、コミュニケーションは成立していない、ということか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そういうことだ。もちろん、君のように考えてしまうのは無理もないとも思うけどね。君は、言葉がひとを殺すといったが、そうではなくて、言葉と現実を混同する、この誤解のほうが、ひとを殺すのだよ。嘆かわしいことだが、多くのひとびとが、君同様に、言葉と現実を混同している。だからわたしはなんとかしてその誤解を取り除こうと、日々無駄な努力をしているのさ。情けないことだが、そうして、身近なところからコツコツやっていくしかないのさ。君のように血気盛んな若者があせる気持ちもわかるがね。ところで、いまわたしの用いている言葉も、比喩にすぎない。けっして現実ではない、ということは、重々承知しておいてくれたまえ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　…………。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　不満そうな顔をしているな。なら、もうすこし希望に満ちた話をしよう。たしかに、わたしたち二人の会話は、結局なにも通じ合っていない。だが、そこにこそ、可能性があるのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　（笑）。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　なにがおかしい？<br />
<strong>Ａ</strong>：　脱構築……？<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうだ、知っているのか？<br />
<strong>Ａ</strong>：　知っている――というか、よくわからないな、それは。弁証法とどう違うのか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　おいおい、やめてくれたまえ、なんだ、君はたしかによくわかっていないようだ。弁証法と脱構築はまったく反対の概念だよ。君の言うその弁証法を批判するのだよ、脱構築は。言葉は無力である、現実とは結びついていない、そのことが、可能性／不可能性なのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　可能性なのか、不可能性なのか、どっちだ？<br />
<strong>Ｂ</strong>：　おいおい、困ったな……。たしかに、脱構築は、微妙な概念だからね。可能性であると同時に不可能性なのだ。人生はそんな簡単なものではない。こうした二者択一をこね合わせてひとつにするべきではないのだよ。デリダは、そう言って、弁証法の概念にとどめを刺したのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　…………。<br />
Ｂ：　つまり、言葉は、無力なのだ。だから、言葉の無力を言葉によって示すことによって、われわれは戦うことなく戦うのだよ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　勘弁してくれ………<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ん？　なにか言ったか？<br />
<strong>Ａ</strong>：　勘弁してくれと言ったのだ。いや、もうあなたと付き合っている暇はない。ぼくは別のところに行くことにする。どうやら、あなたとは理解しあえないようだ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　どこかにいってくれてもかまわないし、べつに困りはしないが……。おせっかいを承知で一言忠告しておけば、そうやって君がいうように「理解しあう」ことなど、できないのだよ。君も、もうすこし大人になってくれるといいのだが……。はっきりいうが、理解しあえる閉じた場所でだけコミュニケーションしようとするのはいい加減止めたまえ。君は要するに、ロマン主義者なのだよ。若いうちはそれでもいいが……。<br />
<strong>Ａ</strong>：　ははは。なるほどね。ぼくは、デリダは好きではない、とだけ言っておくよ。ヘーゲルの方が、「まし」だと思う、とも言っておこうか。とにかく、あなたとのおしゃべりはもうたくさんだ。たしかに、あなたのいうように、無力な言葉というものも、あるらしい。あなたはあなたのやりかたで、「戦うことなく」戦ったらいい。ぼくはぼくの道を、つまり戦うことのできる道をいくことにするよ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうしたまえ。……君は見込みがあると思ったが……。<br />
<strong>Ａ</strong>：　思い違いだろう。とにかく、さようなら。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　さようなら。（やれやれ、コミュニケーションは、やはり、成立しないことが、また実証されたというわけだ。君にそれがわかるといいが……。）<br />
<strong>Ａ</strong>：　そうだ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　なんだ？<br />
<strong>Ａ</strong>：　ぼくもおせっかいついでに一言いっておこう。あなたが持ち上げたのは、本当に椅子だったろうか――この質問を餞別に残しておくよ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　なにを言っている？<br />
<strong>Ａ</strong>：　いや、たんなるおしゃべりだ。今度こそ、さようなら。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　……さようなら。</p>
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		<title>ダンスとダンサーは区別できるか？</title>
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		<pubDate>Sun, 26 Nov 2006 16:26:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[history]]></category>
		<category><![CDATA[ashes]]></category>
		<category><![CDATA[de Man]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[flame]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Science of Incidents]]></category>
		<category><![CDATA[Yeats]]></category>
		<category><![CDATA[舞踏]]></category>

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		<description><![CDATA[ウィリアム・バトラー・イェイツの著名な詩、「学童たちのあいだで（Among School Children）」の最終行に、次のような一節がある。 How can we know the dancer from the d [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ウィリアム・バトラー・イェイツの著名な詩、「学童たちのあいだで（Among School Children）」の最終行に、次のような一節がある。</p>
<blockquote><p>
How can we know the dancer from the dance?<br />
（ダンスとダンサーは区別できるのか？）
</p></blockquote>
<p>この疑問文を、実存と実存者とが区別不能であることを主張したハイデガー流の修辞疑問文と受け取るのではなく、リテラルに読むことで、ある種のアポリアを表現したものと考えようとしたのが、ポール・ド・マンである。わたしの理論的な立ち位置はド・マンのそれとは異なるが、『記号論とレトリック』における彼の読解に敬意を表して、これを、歴史と歴史学の区別、あるいは歴史と歴史家の区別にも適用してみよう。冒頭のイェイツの詩は、次のように読み替え可能である。</p>
<p>「How can we know the spirit of historian from the history?」<br />
（歴史と歴史家の精神は区別できるのか？）</p>
<p>文法の問題として提起されたド・マンの示唆は、ときに表象の問題に還元されてしまいがちであり、また事実そうした読解があとを絶たないが、おそらく、ド・マンが示唆したかったのは、ダンスとダンサーとが区別できなくなるような事態が、現実には何を意味するのか、ということのように思われる。そこで、この“ダンス”を“歴史”に置き換えることで、いまいちど、ド・マンの問いを引きついでみたい。そうすることが、このパラドックスにひそむ問題をより鮮明にするように思われるからである。</p>
<p>試みに考えてみてほしい。歴史と歴史学、あるいは歴史と歴史家の精神とは区別できるのか。</p>
<p>実際、歴史学が歴史的真実の解明を目標とする点で歴史学と呼ばれるのだとすれば、事実上歴史学は、歴史と一致することを欲望している。要するに、歴史と歴史学とが区別できなくなる地点を欲望している。もし仮に、実証に成功したとすれば、そこでは、歴史と歴史学との区別は不可能になるだろう。歴史学者が記したその学術上の知見は、実際に生じた歴史そのものだからである。</p>
<p>しかし、それは、歴史学の華々しい達成というよりは、歴史学の終焉であり、危機であり、ひるがえって人類の危機となるかもしれない。歴史家が真実を明らかにしたと考えるとき、いったいそこで何が起こるのか。真実が、ひとつの主観のもとにひとまとめにされ――逆に真実は歴史家の見えないところに逃げ去り、ただ真実に偽装した自分の意見が残されるのである。真実を求めて《外》へと到達した歴史家が、やっとの思いで吸い込むのは、かつて自分が吐いた息、というわけだ。もちろん、この歴史家は、これこそ歴史の事実であると信じて疑わないだろう。かくしてひとびとのさまざまな生活は、歴史家によってひとまとめにされ、窒息死する。幾人かのひとびとは、歴史に残るためならなんでもするし、そう望まないひとびとでも、そのように追い込まれる。歴史家の吐いた息を嬉々として吸い込みながら、自ら望んで窒息死する羽目になる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>こんな事態は起こりえないと、歴史と歴史学とは別のものではないかと、笑って済ますことができるなら、あなたは幸せであるし、わたしもそうありたいものだといつも思っている。きっとあなたはこう言いたいのだろう。歴史学は、たかだかエクリチュールにすぎず、実際の歴史は、もっと物質的なもの――そういって不満ならば、《出来事》に属しているはずではないか、と。言語や記号と、日々の現実とはもともと別のものなのだから、歴史学が歴史を解明したといっても、完全に同一化することはありえないし、だから、別に歴史学が真実に到達したといってもいいのではないか、と。</p>
<p>だが、歴史的事実よりも、歴史家の歴史認識の方が問題にされる昨今にあって、こうした事態はけっして哲学的な詭弁というわけではない。歴史は、そうした暢気な解釈に好都合にはできていない。ヘーゲルが歴史を出来事と歴史叙述の弁証法においてみていたように、歴史は、それを叙述する歴史家なしには存在することはできない。誰かが死ぬ前になにかを書き残さなければ、歴史は存在できない。つまり、歴史ははじめから言語の姿をして現われるしかないのである。歴史と、それを叙述する歴史家とのあいだには、きわめて不平等な非対称性が存在している。歴史において、歴史家の方が、はじめから圧倒的な優位に立っている（歴史とは過去との対話である、と言ったカーには容易には同意できない）。なにしろ、こうした弁証法的な構図にもかかわらず、歴史には、歴史学者の不法を訴える権利がまったくないのだから。わたしたちは、歴史を解明しようともがけばもがくほど、イェイツの詩によく似た事態――しかも、その最悪の事態を招かざるをえない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ド・マンは、イェイツの詩の一節を分裂症の事例としても語っている。その意味では、この修辞疑問文を、くそまじめに受け取り、歴史と歴史学の区別を付けようと苦労するようなひとは、そしてまたこの区別が可能だと思っているようなひとは、病人や狂人なのだ。そして、この疑問文を修辞疑問文として受け取ることが健康や快癒を意味するのだとすれば、いったい、わたしたちの健康や快癒は、何を指して呼ばれる言葉なのだろうか。歴史と歴史学の区別を付けないことが、はたして本当に健康と呼ばれるべきなのだろうか。</p>
<p>だが、事実、ひとびとは、とりわけ近代人は、歴史と歴史学の区別を付けないところに理性的な健常者を見いだし、歴史と歴史学の区別をつけようと欲して言語をこねくり回すような人々を病院や監獄に送り込んできたのだ。だから、ニーチェの狂気に導かれながら、フーコーは言ったのだ。「狂気の歴史」が書かれねばならない、と。</p>
<p>歴史とは、一種の病であり、その快癒がむしろ別種の病でもあるような、そうした病なのである。歴史に携わる者は、つねに、こうした絶望的な病を背負い込む。その場にいても病、進んでも病である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>歴史学は、真実にはけっしてたどりつけないと、絶望しながら、にもかかわらず真実を目ざしてすすむ一種の統整的理念の支配下にある。だが、ひとびとは、とりわけ歴史家は、そうしたカント主義的な諦念にはけっして満足しない。自分が苦労してたどりついた考察に対して、「これは真実ではない」といえる歴史家は歴史家ではないし、そうした状況で、歴史学を志すまっとうな人間が減少したとしても、不思議ではない。</p>
<p>しかし、統整的理念になにかしら希望のようなものを残しているうちは、おそらくわたしたちの未来は暗い。いずれにしても、先へと進まねばならないのだとすれば、永久に目的にたどり着くことのない統整的理念という名のおぼろげな道標に従って歩くのはあまり賢い選択とはいえない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>《出来事》とはいったい、何であったか。それは、本当に、言語と異なるものなのか。異なるとして、ならばどのように異なっているのか。わたしはストア主義者のように考える、歴史とは、つねに‐すでに、《出来事》の死んだ形態である、と。絶対にこの形態から逸脱することはない。ダンスとダンサーを区別する前に、わたしたちにはできることがあったはずだ。すなわち――自分で踊りを踊ることである。そこでは、そもそも区別は不要である。踊っているのは、あなただからだ。区別したがるのは歴史家の悪い癖だ。炎が、歴史にはけっして痕跡を残すことのない、耐えざる運動なのだとすれば、歴史からたえず逸脱する運動こそ、舞踏なのである。歴史はけっして、舞踏ではないし、炎でもない。作物の育たぬように大地に巻かれた灰なのだ。</p>
<p>ニーチェは、ディオニュソスを称賛し、踊り狂いながら、次のように言っている。</p>
<blockquote><p>
私は病人の正反対である、実は私はきわめて健康なのだ。
</p></blockquote>
<p>人は、この言葉自体が踊りであることを、理解しない。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>《戦争》について</title>
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		<pubDate>Thu, 09 Dec 2004 11:03:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
		<category><![CDATA[war]]></category>

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		<description><![CDATA[《戦争》について、少し考えておきたい。書きながら考えるので、おそらくまともな文章にならないことを断っておく。 さて、まずこの場合、問わねばならないのは、“《戦争》とは何か”、という問いがそもそも立てられるか否かである。一 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>《戦争》について、少し考えておきたい。書きながら考えるので、おそらくまともな文章にならないことを断っておく。</p>
<p>さて、まずこの場合、問わねばならないのは、“《戦争》とは何か”、という問いがそもそも立てられるか否かである。一般的に言って、このようなタイプの問いが立てられるのは、問いに対する解が、トートロジーにならない場合のみである。すなわち、Ａとは何（Ｘ）か、という問いは、その“何”（Ｘ）がＡではないかぎりにおいてのみ可能なのである。したがって、ＡとはＡである、というトートロジーの可能性が皆無でなければならず、まずそのことが調べられなければならない。</p>
<p>そこでプラトンの規定を考えてみよう。プラトンは、『国家』において《戦争》を次のように規定した。すなわち、“内戦”（スタシス：ギリシア人同士の争い）と、“外戦”（ポレモス：ペルシア人など、ギリシア人以外の人々＝バルバロイとの争い）である。この二つの《戦争》のタイプ分けは、抽象化して言えば、ある争いにおいて、ルールが、共有されているか否か、によって可能になっていると思われる。つまり、あるルールに則って行なわれる《戦争》は、“内戦”であり、お互いが主張するルールなどおかまいなしに、あるいはルールそのものをめぐって行なわれる《戦争》が、“外戦”だ、というわけである。だが、こうした分類は、やはり皮相的なものにしか見えない。むしろ、《戦争》とは、おそらく、概念と現実の、理論と実践の、言葉と物の、完璧な出会いである。逆にいえば、ある概念が、当の現実を正確に指し示しているとき、また、現実が、そっくりそのまま、概念に収まってしまうとき、そのことを、ひとは《戦争》と呼ぶのである。そこでは、そもそもルールが共有されているか否かは問題にならない。なぜなら、《戦争》においては、現実が、即、ルールだからであり、ルールとは、即、現実だからである。</p>
<p>したがって、われわれは、そもそも、《戦争》とは何か、という問いを立てることができない。概念と現実とが差異をもつ、ということが、まったくありえないからである。本来、《戦争》は、《戦争》以外のなにものでもなく、また、それ以外のものであってはならないのである。《戦争》は、《戦争》である――すなわち、《戦争》とは、きわめつけのトートロジー（反復）なのだ。あるいはこうも言っていい。《戦争》とは、それ自体が差異なのだ、と。《戦争》とは、やはり、概念と現実という二分法そのものすら廃棄してしまうような、両者の正確無比な出会いの謂いにほかならない。</p>
<p>そのうえで、先のプラトンの規定をもう一度考えてみよう。“内戦”、すなわち、ギリシア内部での戦争が、《戦争》と呼ばれうるかぎりにおいて、じつは、その争いの中心にあるのは、ルールを書き換えることなのであり、既存のルールは破壊されるべきものとしてある――つまり、より“外戦”に近いのである。また、ギリシアとその他の地域とのあいだで行なわれる“外戦”は、《戦争》が現実であると同時にルールである以上、まるでその争いは、世界をあるルールの内部に引き入れよう、すなわち“内戦”に引き入れようとするのだ、と考えることも不可能ではないだろう。</p>
<p>その意味では、このプラトンの分類はむしろ興味深いものである。プラトンは、《戦争》を“外戦”において捉えたカール・シュミットに反して、《戦争》は“内戦”的であるべきだ、と言っていたが、わたしも、じつは、それに賛成である。“外戦”も“内戦”も含みこむ高次の“内戦”を考えることは、たしかに可能だからであり、そのことは、おそらく、《戦争》とは、概念であると同時に現実である、ということを、うまく「表現」してくれるだろうからである。“外戦”の概念について語ることは、むしろ、《戦争》にかんする思考の放棄であるように思える。なぜなら、われわれは、《戦争》が“外戦”であるかぎり、他者は彼方に遠ざけられ、自己のいる此方だけが思考の対象となる。つまり、“外戦”では、《戦争》の半分についてしか語ることができないのだ。あらゆる《戦争》を（外戦を含む高次の）“内戦”として捉えることによってのみ、内なる他者を思考し、《戦争》に対する責任を問うことが可能になるだろう。《世界》というテーマは、その表現とは裏腹に、“内戦”によってのみ、見出されるのである。《戦争》を“外戦”として捉えるかぎり、思考の平面は、《国家》以外のものを形成しない。《世界》という平面は現れないのである――対岸の火事だから、放っておけ、というわけだ。</p>
<p>たしかに、プラトンが“内戦”を顕揚したことは、皮相的に見れば、ルールに則って争いをするべきだ、ということであるように見える。だが、それは同時に、ギリシア人ソクラテスがギリシア人に対して行なったような共同体批判の顕揚をも含むということを忘れるべきではない。ソクラテスの自殺は、アテネの法に則ったものと見ることもできれば、アテネ人たちとの論争＝戦争に敗れたものが負うべき必然として受け入れたと見ることもできるだろう。言論の人、ソクラテスが、ある意味で、自身の言論に命を賭けていた、と考えてもよいわけである。また、別の側面から見れば、ギリシア語の“外戦”＝ポレモスを語源として持つ、ポレミカル（論争的な）というヨーロッパ語が、ソクラテスほど似合う人間も、そうはいないわけで、事態はそれほど単純ではない。“死に至る対話”を、普通の意味での（ルールに則った）“対話”と考えることは不可能である。“対話”とは、一般に、《戦争》に反するもの――平和の手段として考えられているはずだからである。ソクラテスの“対話”とは、きわめて《戦争》的なものと、考えられなくてはならない。</p>
<p>プラトンの読解はこのあたりにとどめておくとして、ともかく皮相的な意味での“内戦”と“外戦”、あるいは概念と現実という古い二分法を、弁証法のはたらき抜きに破壊的に合一化するものとして、《戦争》を考えるべきであろう（弁証法のはたらき抜きに考えるのだから、そもそも「合一《化》」という時間的でダイナミックな表現は避けるべきだろうが、ほかによい表現が見当たらない。本当は、ドゥルーズに倣って、「スタティック」な表現を探すべきだろう――もちろん、「スタティック」は、ギリシア語の“内戦”＝スタシスを語源として持つ）。</p>
<p>しかし、この時点で、不思議なことが起こる。というのも、以上の視座からすると、《戦争》は、概念と現実の出会いを夢見ていることになるし、また、《戦争》は、そもそも概念と現実の出会いの謂いだったはずである。だが、少し考えてみればわかるはずなのだが、実は、仮に、概念と現実とが正確に出会うならば、《戦争》は、戦争を引き起こさない。そうした議論の余地のない両者の一致は、そもそも争いの芽を摘み取ってしまうからである。そこでわれわれは気づく。《戦争》は、戦争しない、ということに。現実に戦争が起こるのは、概念が現実と混同されるときであり（これをわたしは《怪物》的な事態と呼ぶ）、また、現実が、概念と混同されるとき（これをわたしは《人間》的な事態と呼ぶ）なのである。すなわち、真の危険は、概念と現実とが出会ったと誤って考えられたときなのである。そしてわけても最大の危険は、《怪物》的な事態と《人間》的な事態とが同時に起こったときなのである。かつて、一度たりとも現実と一致したことのない「国民＝国家」という概念が、にもかかわらず、現実を装い、現実的に響くという点で、きわめて危険なものであることも、それでわかるだろう。</p>
<p>われわれが行なうべきことは、《戦争》を、《怪物》や《人間》たちの手から取り戻すことなのである。《戦争》は、戦争しないのだ。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>世界はよくなっている</title>
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		<pubDate>Fri, 05 Nov 2004 11:01:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[Sartre]]></category>

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		<description><![CDATA[世界はいつまでたっても進歩しないし、変わっているように見えるが、何も変わっていない。相も変わらず奪いあい、騙しあい、殺しあっている。そればかりか、昨今の環境問題をみるかぎり、あるいは政治問題をみるかぎり、かつてみられた、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>世界はいつまでたっても進歩しないし、変わっているように見えるが、何も変わっていない。相も変わらず奪いあい、騙しあい、殺しあっている。そればかりか、昨今の環境問題をみるかぎり、あるいは政治問題をみるかぎり、かつてみられた、あるいはそう思い込んでいた進歩とは、むしろ変わらない現状を覆い隠す手の込んだ幻想であったようにすら感じられる。……</p>
<p>こういうシニカルな認識は、このところの現実的諸問題がわたしに負わせた個人的な実感だが、しかし、この実感は、おそらくどこか間違っている。一方で「世界は進歩しない」と嘆いてみせながら、しかし、他方で、にもかかわらずわたしは思考し、物を書いている。嘆きという、ある意味で非生産的な行為と、物を書くという生産的な行為とが、まるで両立するかのように映るその裏には、なにか重大な《矛盾》が含まれていてしかるべきである。ここで言われている《世界》には、まちがいなく《わたし》が含まれているのであり、したがって、進歩もせず変わりもしない世界に含まれ、それに寄与している《わたし》は、どうして、思考している・物を書いている、などと言えるのだろうか。いくらわたし個人の取るに足らないものであろうと、思考がそもそも生産的である、ということを示すかぎりにおいて、それは《世界》を変えずにはおかないはずなのだから。</p>
<p>だから、わたしは、そのようなことを考えている《わたし》を疑う。《世界》が何も変わらないのだとしたら、誰も思考などしないだろうし、そして誰も物を書こうなどとは思わないだろう。《世界》がよりよく変わるということがありうるからこそ、人は思考するのだし、また、人は思考するからこそ、《世界》はよりよく変わるのだ。だから、「世界は何も進歩しない」という思考そのものが、間違っている。どこかで間違えたから、そのような結論に達したのだ。つまり、おそらく事実はこうだ。少なからず、誰かが思考した、と言いうるかぎりにおいて、「それでも、《世界》は、よくなっている」。……</p>
<p>いま、こんなことを言うのは、とても骨が折れることだ。なにか、冗談を言っているのではないかとさえ思う。「世界はよくなっている」だって？　この期におよんで、そんなことが言っていられるなんて、なんて君は幸せな人間だろう！！　事態はもっと深刻なんだ。</p>
<p>そう。わたしもそれに同意する。事態は深刻だ。ハーバーマスのように暢気なのはごめんだ。すべての物が重力を持っている、というのと同じくらいに彼は暢気である。しかしだからといって、そうした深刻さにすべてのひとが同意してくれるとは、どうしても思われない。おそらく、ここでいう《事態の深刻さ》とは、完全にわたし個人に属する《事態の深刻さ》なのであって、たぶん、この《事態》をいまの段階で一般化して考えることはできない。要するに、《事態の深刻さ》を前提に議論を進めることはできない。</p>
<p>だが、わたしはそれでも言うだろう。「世界はよくなっている」。そうでも言わなければ、やっていけない、というのは本当なのだ。世界はよくもなっていなければ、悪くもなっていない、などと言えるとすれば、それはおそらく、生と死とを混同している。生も死も、同じに扱う歴史ならば、そうも言えるだろうが、現実はそうではない。「世界はよくなっている」という認識なしに物を語れる者などいない。</p>
<p>間違うのはわれわれである。世界ではない。それは当たり前のことである。だから、「世界がよくなっている」という、正しい認識をわれわれが持てないのだとすれば、せめてそうした認識が持てるように、世界をよりよくしようじゃないか。――こんなことを言っている、自分を笑う。なんとナイーヴな物言いなんだろう。別に知ったことではない。こんな言い方は嫌いだったし、今でも嫌いだ。軽々しく《世界》などという大げさな言葉を吐くべきではない、ということも、本当なのだ。それに、どうせ誤解されるに決まっている。「世界をよりよくしよう」などというのではない、もっと別の言い方があるはずだ。</p>
<p>ところで、最近は、藪睨みのサルトルがお気に入りである。世界・社会とは、《見る／見られる》の闘争である――いいじゃないか。わたしもそう思う。世界・社会とは、《見る／見られる》の闘争である。この闘いに一方的な勝利はない。自分が見ているのか、見られているのか、わかる者はいない。コメディアンと同じで、彼がわれわれを笑わせるとき、それは同時に、彼がわれわれから笑われているのである。敗北と勝利とが、つねに同時に、しかし、区別されながら、お互いに訪れる、というわけだ。量子力学のような話――そういえば、彼は『嘔吐』でそれに言及していた。たしかに、ユダヤ人はいない、ジュネはいない、というのは、いささか短絡的に響くのだが。……</p>
<p>だが、まあ、たとえ弁証法に似通ってくるとしても、敢えてそれも認めてみようじゃないか。ユダヤ人はいない。イスラム人はいない。見知らぬ彼のことをユダヤ人だと思うイスラム人がいるのであり、また、他方に、見知らぬ彼のことをイスラム人だと思うユダヤ人がいる。――つまり、サルトルは、ただ、《人間》がいる（人間という場所がある）、と言っているのであり、しかも、それだけではだめで――つまりそれは、《無》なのであって、だからこそ、《実存》せねばならない（歴史に参加せよ）と言うのだろう。そうした解決法を捨て去ってしまうのはまだ早い。もう少し深読みしてあげていいんじゃないか。……</p>
<p>人間！</p>
<p>むずかしい言葉である。これは、悪い意味で和辻哲郎＝ヘーゲル流の合言葉（シボレート）だ。オイディプスは怪物（スフィンクス）のかけた謎を解き、怪物を倒して、《人間》になった。オイディプスはおかげで父殺しと母との同衾という罪を負い、太陽神アポロンの支配から逃れようと、思い余って目を潰してしまった。彼は、《見る／見られる》という闘争・意味するものと意味されるものとの闘争から、血の涙と一緒にこぼれた高笑いとともに離脱してしまった。……</p>
<p>怪物か、人間か、それとも、盲目かつ流浪の超人か。</p>
<p>プレモダンか、モダンか、それとも、ポストモダンか。</p>
<p>国家か、ネーションか、それとも、資本主義か。</p>
<p>怪物よりも《人間》の方がよいとして、しかし、その《人間》が、父殺しと母との同衾に思い悩むものなのだとすれば、そこにとどまっていてよいわけがなく、だからといって、目を潰し、意味するものと意味されるものとの闘争――記号論から離脱すればいいというわけでもない。「記号論を越えて」と言った浅田彰は、しかし、けっして目を塞いでしまおうとは考えていなかったはずだ。あの眼鏡は、伊達ではない。あるいはこうも言っていい。目を潰すということは、けっして、何も見ないということではない、と。オイディプスは、別の何かを見ようとしたのであり、目を潰したオイディプスの笑いを、われわれは、おそらく、そう解釈すべきなのだ。つまり、間違えたのは、オイディプスではなくて、われわれである。わたしは言おう、『オイディプス王』は、ハッピー・エンドかもしれない、と。</p>
<p>《アンチ・オイディプス》。アンチ・オイディプスとは、ドゥルーズとガタリも、よく言ったものだ。怪物と、人間と、超人とが織り成す、この呪われた三角形から抜け出すこと、これは、古代ギリシア以来、われわれに課せられた、相も変わらず背に課せられた重荷なのだ。たしかに、何も変わっていない。絶望的に、変わっていない。それでもわたしは言うだろう、「世界は、よくなっている」。ソフォクレスから、サルトルへ、サルトルから、ドゥルーズとガタリへ。彼らの間に確実に存在している《進化》evolutionを、《わたし》は見てとっている。</p>
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		<title>回転せるプラトン――柄谷行人『隠喩としての建築』</title>
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		<pubDate>Thu, 19 Feb 2004 02:21:45 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[irrational number]]></category>
		<category><![CDATA[Kojin Karatani]]></category>
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		<description><![CDATA[この、きわめて刺激的な書物について、一言、しておく――もちろん、自らの力量の不足などは省みず。すなわち、柄谷行人による、『隠喩としての建築』（岩波書店『定本柄谷行人集』第二巻収録）である。 この書物は、元来、一九八〇年代 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>この、きわめて刺激的な書物について、一言、しておく――もちろん、自らの力量の不足などは省みず。すなわち、柄谷行人による、『隠喩としての建築』（岩波書店『定本柄谷行人集』第二巻収録）である。</p>
<p>この書物は、元来、一九八〇年代の初めに出て（その後作者の意志で絶版、おそらくその原型は『内省と遡行』に見ることができるはずである）、一九九二年にArchitecture as a metaphorとして英訳されたものに大幅に加筆され“定本”として再販されたものである。おおよその構成を記しておくなら、本書は、三部構成をとる。第一部は「制作making」であり、第二部は「生成becoming」、第三部は「教えることと売ることteaching &#038; selling」である。基本的にこの書物は、「制作」の視座を、ゲーデルの不完全性定理によって極限まで形式化し、「生成」の視座を見出すも、それが、「制作」の残余としてしか見出されえないものであることを指摘し、またそれらを、俯瞰的な立場からヘーゲル的な弁証法によって統合する立場を取ることなく揚棄し、一挙に――まさに跳躍的に――、「教えることと売ること」という、きわめてセキュラー（世俗的）な場所に降りることによって、ウィトゲンシュタインの「外国人」あるいは、カントの「物自体」として、「他者」の存在を語る、という流れを描く。この書物において重要な役割を果たすのは、その批判対象となっているプラトンであることは明白である。加筆箇所のうちでおそらくは大部を占めるであろう、プラトンへの言及箇所が、わたしを刺激して止まなかったのである。この書物にあるのは、私見によれば、真のプラトニズム――おそらく、それは、プラトンを真の意味で批判することでしか得られないもの――である。</p>
<p>近代以降、プラトンは、つねに批判の対象であり――その代表者にニーチェをあげることは衆目の一致するところだろう――、その姿勢は柄谷にも引き継がれている。しかし、筆者は、そうしたアンチ・プラトン的な視座を一切とらない。たとえば、柄谷が、“隠喩としての建築”を称揚した者としてプラトンを語るとき、われわれは、すぐさま『国家』におけるアデイマントスのソクラテスに対する言葉を想起するはずだ。《「けだし」と彼は言った、「比喩を通じて語ることには、不馴れなあなたですのにね！」（『国家』（下）藤沢令夫訳、岩波書店、27ページ）》。</p>
<p>プラトンの哲学とはいかなるものか。かいつまんで説明しておこう、ドゥルーズが言ったように、プラトンが重視した《対話（弁証法）》は「問題」的なものであり、他方の《イデア》は、数学的なもの、いわば「問題（問い）」に対する「解（答え）」にあたるものである。プラトンは有名な洞窟の比喩によって《イデア》を語ったが、けっしてそこで終ったわけではない（下の引用の「ぼく」はソクラテスである）。</p>
<blockquote><p>
（ソクラテス）「彼らが上昇して〈善〉［のイデア］をじゅうぶんに見たのちは、彼らに対して、現在許されているようなことをけっして許さないということ」<br />
（グラウコン）「どのようなことを許さないと言われるのですか？」<br />
「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った、「そして、もう一度前の囚人仲間のところへ降りて来ようとせず、彼らとともにその苦労と名誉を――それがつまらぬものであれ、ましなものであれ――分かち合おうとはしないということをだ」（『国家』（下）、107ページ）
</p></blockquote>
<p>〈善〉の《イデア》に至るために必要な学問として、幾何学や音楽、天文学も含めて諸々の数学（《イデア》）をあげた後、それらすべてを「前奏曲」にすぎないとして、次のように語っている箇所も、ほぼ同じことを語っている部分として引けるだろう。</p>
<blockquote><p>
「それでは、グラウコンよ」とぼくは言った、「いまやようやく、ここに本曲そのものが登場することになるのだ。この本曲を演奏するのは、哲学的な対話・問答にほかならない。それは思惟によって知られるものであるけれども、比喩的にこれを再現しようと思えば、先に述べた視覚の機能に比せられてよいだろう。すなわち、すでにして実物としての動物のほうへ、天空の星々のほうへ、そして最後には太陽そのもののほうへと、目を向けようとつとめるわれわれが語った、あの段階がそれである。ちょうどそれと同じように、ひとが哲学的な対話・問答によって、いかなる感覚にも頼ることなく、ただ言論を用いて、まさにそれぞれであるところのものへと前進しようとつとめ、最後にまさに〈善〉であるところのものそれ自体を、知性的思惟のはたらきだけによって直接把握するまで退転することがないならば、そのときひとは、思惟される世界の究極に至ることになる。それは、先の場合にわれわれの比喩で語られた人が、目に見える世界の究極に至るのと対応するわけだ」<br />
「ええ、まったくそのとおりです」と彼は言った。<br />
「ではどうかね、このような行程を、君は哲学的問答法（ディアレクティケー）と呼ばないだろうか？」（『国家』下、141-2ページ）
</p></blockquote>
<p>こうしてソクラテスは、《イデア》の上位に《対話（弁証法）》を置くことになる。だが、こうした《対話（弁証法）》を、最終的な相互理解が予定された、すなわちヘーゲル的な弁証法的合一と混同することは、大いなる誤りであると言わねばならない。なぜなら、弁証法のはてに理想を置くヘーゲルとは、順路がまったく逆だからである（むしろ、ヘーゲルの弁証法を逆立ちしていると非難したマルクスに対応している）。たしかに、柄谷行人が言うように、プラトンの語る《対話（弁証法）》が、ヘーゲル的な弁証法と同じであるならば、次のように語ることもできただろう。「プラトンの対話は、対話として書かれているだけであって、基本的にモノローグなのである」（150ページ）。だが、少なくとも言えることは、ソクラテスと会話を交わす者たちは、例外なく、“イエス”と肯いて別のことをする者たちでしかないのである。たとえばグラウコンは、「そのとおりです」と語った舌の根の乾かぬうちに、こう言うのだ。</p>
<blockquote><p>
「さあ、それでは話してください。哲学的な対話・問答がはたす機能とは、どのような性格のものなのでしょうか。それはいったい、どのような種類に分かれているのでしょうか。またそれが踏むべき道には、どのようなものがあるのでしょうか。――というのは、どうやらそれらの道こそはすでに、かの目標そのものへと通じる道なのであって、そこへ到着したならば、いわば、歩みを止めてひと息つける旅路の終点となるもののようですからね」（『国家』下、143-4ページ）
</p></blockquote>
<p>はっきり言えば、グラウコンのこの発言は、いままで頷いてきたにもかかわらず、ソクラテスの言うことをなにも理解していないに等しいことを暴露するものである。プラトンの対話篇すべてに言えることだが、ソクラテスの対話相手は、つねに、ソクラテスの発言にそのつど現れる論理に従って、イエスと肯いているだけなのであって、ソクラテスが“言外に――別の言い方をすれば、比喩としてではなく、善きパロールとして――言おうとしていること”については、ほとんどの場合、耳を閉ざしているのである。さらに引用をつづけよう。</p>
<blockquote><p>
「親愛なるグラウコン」とぼくは言った、「これ以上ついてくることは、君にはできないかもしれないね。といって、ぼくのほうにその熱意がないというようなことは、全然ないのだが。それにまた、君に示されるのは、もはやこれまでのように、われわれの言おうとする事柄の似象（比喩）ではなくて、直接真実そのものとなるだろう――少なくとも、ぼくにあらわれたかぎりでのね。ぼくがその真実をほんとうに正しく見ているかどうかということまで、確言することはできないが、しかし何かそのようなものを見なければならぬということだけは、つよく主張してしかるべきだ。そうだろう？」<br />
「ええ、たしかに」（『国家』下、144ページ）
</p></blockquote>
<p>この「ええ、たしかに」も、流れから言って、ソクラテスが言うことを真に理解したうえでの言葉とは到底思えない。ソクラテスは、「ぼくにあらわれたかぎりでの」という言葉で、謙遜しているわけでもなければ、「ぼくにあらわれたかぎりで」しかない真実を、真実としてしまう、矛盾に満ちた答え方をしているのでもない。むしろ、逆に、きわめて厳密に語っている、というほかない。すなわち、《対話（弁証法）》とは、いま、ソクラテスとグラウコンのあいだで《作られている》、自分の会話が正確には理解されない現実の対話そのものだからである。だから、ソクラテスの言葉であるかぎりにおいて、それは、ソクラテスの言葉でしかないとしても、《対話（弁証法）》の上で交わされた言葉という、比喩ではない、真実なのである。</p>
<p>柄谷行人が規則を共有しない他者の例としてなにをあげているかを見てみよう。たとえば、グレゴリー・ベイトソンが分裂病の症例としてあげる患者や、ポール・ド・マンがあげる夫婦は、言葉を受け取りながら、別の行為で（応答も含めて）それに応えるものであり、ウィトゲンシュタインのあげる外国人の例もまた、「石版をもってこい！」に対して、「自分の言語では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない」外国人なのであって、けっして、“ＮＯ”や“わからない”で応える者ではない。つまり、暗黙に、彼らは相手の言葉を少なくとも成立した命題として受け取っているのである。要するに、“イエス”や、“わかりました”で応える者こそが、他者なのである（教師や生徒をやったことがあるひとならわかるだろうが、たいてい、生徒はわからなくても“わかりました”、と言うものだ）。</p>
<p>さらに言えば、柄谷が数学的な形式化の彼岸に見出した「他者」は、教えることによってはじめて生じる「他者」であるが、プラトンの著作が、まさに、歴史的に言って、彼が《哲学者＝王》としてシラクサで失敗した後に創設したアカデメイアのテクストとして作られたものであり、そして全編が、結局のところ、教えることについて書かれたものなのである。数学によって極限まで形式化され、磨き上げられた《イデア》は、しかし、仮設に過ぎない。プラトンは言う。《哲学的問答法の探求の行程だけが、そうした仮設をつぎつぎと破棄しながら、始原（第一原理）そのものに至り、それによって自分を完全に確実なものとする、という行き方をするのだ（146ページ）》。したがって、たしかに対話の相手であるグラウコンが「ついてくること」ができなかったとしても、――というよりも、プラトンの著作中、だれひとりとして、ソクラテスについてきた相手はいないのだ――そのこと自体がひとつの真実であり、そして始原なのだ。《イデア》は、《対話（弁証法）》のうちに含まれているとしても、けっして始原ではないし、言ってみれば、「答え」にすぎない。重要なことは、「問い」としての《対話（弁証法）》なのであり、その「探求の行程」だからである。柄谷も引いているように、プラトンは、別のところでソクラテスにこうも言わせている。《メノン、いいかね。私は――何一つ教えてはいない。私のしていることは問うことだけだ》。「教えること」や「学ぶ」ことが本来的にありえず、そこには「想起」のみがある、とソクラテスが言うとしても、それは、カントが「構想力」によって、物自体と感性をつなげざるをえなかったのと同じ困難な問題がある。柄谷の用語に即して言えば、プラトンは、こう言っているのだ。教えることや学ぶこと、それは、「命がけの飛躍」（マルクス）、「暗黒の中における跳躍」（ウィトゲンシュタイン）でしかありえない、と。</p>
<p>おそらく、歴史的に近代に入って、それもフッサールが述べた「数学の危機」の時代に、プラトンは、再発見されたのである。カントが非ユークリッド幾何学について知っていた可能性を語るならば、プラトンが、ピュタゴラス学派によって、すでにユークリッドの（という言い方は歴史的には転倒しているが、「第五公理」自体はユークリッドの以前からあったものである）「第五公理」が疑われていたことを知っていたと語ることはできないだろうか。その意味で言えば、われわれは次のような物語を描くことができるはずである。つまり、《真》ではなく、《無矛盾》でありさえすればよい、とするヒルベルトの形式主義が、プラトンの公理主義の直系の延長線上にあり、そして、少なくともシラクサで《哲学者＝王》として惨めな失敗をした後のプラトンが《イデア》の上位に《対話（弁証法）》を置いたことは、まさに、ウィトゲンシュタインが、『哲学探究』における転回の後に、ラッセルの論理学を外側から攻撃しようとしたことに対応しているのである。言うなれば、プラトンは、一九世紀以降に（正確にはカント以降）、まさに同時代人として、復活したのである。</p>
<p>柄谷は、『探求I』において、プラトンの《対話（弁証法）》を批判し、ソクラテスのイロニーを評価するという、転倒した解釈を示したが、このこと自体が、じつはプラトンの可能性の中心を語っていたのではないか。あるいは、柄谷が、無理数（たとえば、Ｘの二乗＝２、つまりＸ＝ルート２）を、自己言及的なもの（Ｘ＝２／Ｘ、すなわち、Ｘを知るために、Ｘが必要となる）として正当にも読み替え（84ページ）、たとえばピュタゴラス学派が、無理数を語ること（＝自己言及）を禁止したこと、その禁止によって「建築」が可能になることを述べるとき、われわれは、プラトンの『テアイテトス』を思い出すはずだ。この奇怪な書物においてプラトンは、テオドロスとテアイテトスに無理数を証明させた後、ソクラテスに、自身が知を出産させる産婆であると語らせる。これは、ソクラテスの《対話（弁証法）》が、まさに無理数そのものとしてあることを示している。すなわち、ソクラテスの産婆術とは、Ｘ＝２／Ｘであるような（対話者Ｘから、対話者の分身（差異）としての知２／Ｘを産ませるような）、自己言及によって知へと至る、きわめて刺激的な試みなのである。そこでは、柄谷の言うような「大団円」、弁証法的合一などはありえない。ただ、知とは、それとしては語りえぬもの――しかし、《隠喩》としてではなく、いまここでまさに交わされている対話そのものとして、開かれたまま提示されるばかりである（これについてはまたどこかで述べねばなるまい）。もはや、われわれには、ここで、このように語ることが許されるだろう。すなわち、デカルトやカントやマルクスに対して、あれだけの読みを披瀝する著者が、なぜ、プラトンに対してはそうしないのか、と。</p>
<p>プラトンにかんして、長々と語ってきた。通俗的プラトンの転倒、あるいは《イデア》と《対話（弁証法）》のあいだで回転せるプラトン、それは、おそらく、われわれの世代に残された課題である。プラトンの転倒は、たんに哲学史上の功績（ワードプレイ）を意味しない。それは、おそらくは柄谷行人の後にも生きねばならない、われわれの課題として残されている、弁証法的なものの、真の転倒――それはすなわち、語りえぬ者との対話を実現する技術（「建築術」）にほかならない――を含むのである。</p>
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