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	<title>ex-signe &#187; negation</title>
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	<description>kio tanaka's website</description>
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		<title>パーン・ホ・メガス・テトウネーケ</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Aug 2009 11:01:06 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
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		<description><![CDATA[ひとが作り出したもっとも古い観念のひとつに《神》がある。《神》は実在するのか、しないのか。それとも、《実在》という語がそぐわない、ある種の超越それ自体を指すのか。実在や経験、あるいは精神や観念、そしてそれらすべての超越者 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ひとが作り出したもっとも古い観念のひとつに《神》がある。《神》は実在するのか、しないのか。それとも、《実在》という語がそぐわない、ある種の超越それ自体を指すのか。実在や経験、あるいは精神や観念、そしてそれらすべての超越者としての《神》、実在を存在に取って代える《神》、ときに《自然》と呼ばれもするその《神》の姿を、ひとはさまざまな形で思い描いてきた。</p>
<p>デカルトにせよ、スピノザにせよ、パスカルにせよ、キルケゴールにせよ、彼らはさまざまな形で《神》と語らい、対話者を極限まで希薄化することによって、神の存在を証明している。そのことは後の時代からみれば、超越者としての《神》の否定にかえって肉薄するようにみえる。今日では、宗教という語の意味同様に受け容れ難いものとなったはずの神にまつわる彼らの思考は、しかし、彼らの思考全体の拒絶にはつながらない。政治から宗教を切り離したはずの近代の人々は、それゆえに神についての思考を括弧に入れることにあまりにも慣れている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、彼らの思考は、神の否定ではない。やはり肯定に属する。神を否定したのは、おそらくはカントである。それも、人間の側に限界を設けることによって、そうしたのである。もし、彼に示唆されて、神が存在する《かのように》思いなすことが、神の存在を意味するのだと考えたとすれば、それはむしろ神の不在に等しいことを指摘しておかなければならない。神はいないと語ることも、神がいる《かのように》考えることも、率直に言って同じことだ。それらのあいだに違いはない。《実践的には》、いずれも、神の不在を指し示している。</p>
<p>フォイエルバッハは、もはや不在となった神を、ひとびとの心のなかに、作り出そうとした（逆にいうと、神に見離され、疎外されたわれわれの精神のうちに、神を取り戻そうとした）。だが、それは、あらかじめ仕込まれたカントのプログラム――傷ではなくつねに痕跡としてしか現れないカントのプログラムを実行しているにすぎない。いやむしろ神は、つねにそうして復活と死を反復してきた。わたしからすれば、このprocursusという名の（悪）循環こそが、宗教の別の名である。神を盲目的に信仰することは、かえって神を不在にする。盲目的な恋が、崇め奉られた当の女性の不在を意味するように。そしてこの不在のゆえに、宗教は無敵の思考なき思考となる。というのも、《もともと、神は通常の実在ではないと考えられた》からだ。</p>
<p>祭壇のうえには、《なにもない》。宗教とは、神の不在を意味すると同時に、それを覆い隠すことである。繰り返すが、神はいないと語ることも、神はいる《かのように》考えることも、同じことだ。そしてまた、神を盲目的に信仰することも同じことなのである。表現は違えど、そしてプロセスは違えど、三つとも同じ結果しか生まない。そして一見してそうみえるのとは反対に、《神はいる》と語ることだけが、異なる結果をもたらす。それは、盲目的な狂信の手を離れるためには、おそらくよほどましな一手なのだ。《神はいる！》と断定したデカルト達の思考に一辺の曇りもないことが、そのことを証明している。したがって、神にまつわる彼らの思考を括弧に入れる必要などどこにもない。彼らの言葉は、厳密には次のように読まれるべきだ。《神はいる、ただし、お前ではない！》　肯定するという行為が、ひとつの哲学であるためには、どのようなものにもせよ、神の存在が必要なのである<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>だが、われわれは俊足のニーチェの徒である。彼は、一九世紀の終わりに、きわめて奇妙な問題をうち立てて過ぎた。神は存在するのでもなく、不在なのでもない。《死んだ》のだ、と。それは、宗教を信じることとも異なるし、信じないこととも異なる。神の不在を声高に語るわけでもなく、神を精神のうちに復活させようとするのでもない。むしろ、神が《歴史上の》実在であったことを示しているという点ではカント主義者とは真逆の意見であり、神の実在を証明したデカルトやパスカルたちにより近い意見である。したがって、彼の言葉は厳密にはこうなるだろう、《神はいる、ただし、もう死んでしまった！》<sup><a name="p02" href="#n02">(2)</a></sup>　そして、その死が示すもっとも重要なことは、腐臭を放つゾシマ長老の遺体のように、《神》が肉体をもっていたことである。</p>
<p>ニーチェの問いは、神がいるのか、いないのか、などというところには向けられていない。そうではなく、神亡きこの世にあって、ひとは何を超えようとしているのか、という点に向けられている。ひとはおそらく、いつも超越者を必要としてきた。神であろうと、王であろうと、自然であろうと、ひとを超えたものを構想することなしに、ひとの生はありえない。エンペドクレスがそうしたように、次々に目標を乗り越え、靴の底で踏みしだいてゆくこと、それがひとの生だからだ。だが、神は死んだ。神が死んだということ、それは、われわれが精神の産物だと考えていたそれが、肉体を持っていたことを意味する。つまり、われわれが足下に踏みしだいたのは、空虚を意味する古い精神だったのではなく、肉だったのである。ならば、神亡きこの世界にあって、次なる目標もまた、肉体を持っていなければならない。むしろ近代のほうが、そのことを強く要請する。それゆえに、それはどうしても、《超越論》などという言葉遊びではすまされない。そうした言葉遊びは、結局は後戻りすることしか教えない。実際には肉をもった《神》を、再びヴェールで覆い隠すだけのことなのだ（この結果、言葉は肉を隠すヴェールの働きしかしなくなってしまう）。われわれは肯定を必要としている。無限の否定だけで生きていくことはできない。死ぬことさえできない。「大いなる神は死せり」。神が死んだいま、われわれは、いかにして肯定を実現すべきなのか。百の精神よりも、一の肉が必ず勝利する。肉体をもった、新しい超越者が要請されている。</p>
<p>かくして、われわれには、二つの選択肢がある。ひとつは、超人である。そしてもうひとつは、ファシズムの戴く空虚な第一人者である。そしてもどかしいことに、この分岐において、ひとはどうしても後者を選んでしまう。自己による自己の内在的な乗り越えではなく、外在的な他に自己を結びつけるだけで満足してしまうのだ。このとき、カント主義は後戻りして宗教に立ち返ることしか教えないし、あるいは後者を選ばずして選んでいることを隠蔽することしかしない。なぜなら、彼らの吐く言葉はすべて肉を覆うヴェールだからだ。中世の闇とは、まさに、この肉を覆うヴェールの別の名であり、それが宗教だった。カント主義者は、それを言葉に代える。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>肉に曝された近代人は、つねに、超人とファシズムの分岐の前にいる（両者はともに民主主義といわれることがある）。歴史上のファシズムのあとで、それは超人と宗教の分岐に変わったのかもしれない。ポストモダンをもたらす唯一の思考、唯一の分岐の前で、ひとは相も変わらず近代に立ち戻る後者だけを選び続けているのである。ともあれ、超人とは、おおいなる謎である。ニーチェは、アポロンの神託さながらに、超人についてなにも包み隠さなかったが、なにも語らなかった。ただ、徴だけを与えたのである（徴は、シンボルではなく、ある種のエンブレムと解すべきだ）。すくなくともいえることは、われわれの精神は、肉である、ということだけである。おそらく、すべてはここから始まるのだろう。</p>
<p><a name="n01"></a></p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01">(1)</a> クルト・ゲーデルの不完全性定理は内在的な証明＝肯定の不可能を証明した。そのことは、肯定の思考に超越者が必要なことを意味する。</li>
<li class="note"><a href="#p02" name="n02">(2)</a> ドゥルーズは、神の死を語ったのはフォイエルバッハであり、ニーチェはそう語るだけでは十分ではないと言った、と指摘している。この指摘は間違いではないが、正確とはいえない。ニーチェの表現に忠実にいうなら、神の死を指摘したのはやはりニーチェである。フォイエルバッハはその不在を指摘したにすぎない。そしてニーチェのいう死の意味するところを、人口に膾炙された意味を超えて問うべきなのである。</li>
</ul>
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		<title>《文学》のプログラムIV、荘子とヒルベルト</title>
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		<pubDate>Mon, 06 Jul 2009 02:46:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[荘子の言葉をもう一度引用する。 荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや（魚）がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">荘子の言葉をもう一度引用する。</p>
<p>
<blockquote>
荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや（魚）がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「君は魚ではない、どうして魚の楽しみがわかろうか。」荘子「君は僕ではない、どうして僕が魚の楽しみをわかっていないとわかろうか、」恵子「僕は君ではないから、もちろん君のことはわからない。君はもちろん魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ。」荘子は答えた、「まあ初めにかえって考えてみよう。君は『お前にどうして魚の楽しみがわかろうか、』といったが、それはすでに、僕の知識のていどを知ったうえで、僕に問いかけたものだ。（君は僕ではなくても、僕のことをわかっているじゃないか。）僕は濠水のほとりで魚の楽しみがわかったのだ。」<br />金谷治訳『荘子』秋水篇、岩波文庫
</p></blockquote>
<p class="post">普通に読むかぎり、荘子と恵子の違いはこうである。恵子は、「わからない」という状態を、「魚の気持ちなどわかるものでは《ない》」という否定文と考える。この否定文からある種の決定不能を導き、命題を宙吊りにもっていくことで、荘子を論駁しようとするのだ。だが、荘子はこう考える。「わからない」という文を、理解の否定ではなく、実践的な理解の程度を示すとした。そこから、決定不能の宙吊りを大地に引き摺り下ろし、命題を肯定の側へと大きく転回させるのだ（この議論の差異は、無限と無際限の違いとして有名である。無限を、際限がない、という意味の無限と、実無限とに分けるのである。カントールの集合論は、無際限よりも、実無限の方が大きいことを証明する）。</p>
<p class="post">この会話の論理学的なカラクリはこれだけなのだが、われわれがもっと気にしなければいけないのは、にもかかわらず、荘子が《嘘》をついている、ということである。魚の楽しみを知る、などということは、科学的な観点、あるいはカント的な観点からは、まずまちがいなく真理とはなりえない。恵子の論理学的な議論とは無関係に、魚の楽しみなどそもそもわかるわけがないのである。《他者》の感情は、基本的にはカントがいうように不可知である。彼女が泣いているからといって、本当に悲しんでいるかどうかは他人にはわからないし、つきつめていけば、本人にさえわからない。つまり、どう考えても、《荘子は嘘をついている》のだ。そして、もっと不思議なことは、《他者》の不可知性にもかかわらず、そして荘子の言葉が《嘘》であるにもかかわらず、恵子の決定不能よりも、真理に一歩踏み出しているという不思議な事態が発生していることである。</p>
<p class="post">これは本当に不思議なことである。嘘が真理に触れる？　虚構が真理に触れる瞬間がここに現れているのだろうか？　たとえば、無実のひとは、「わたしは犯人ではない」という否定文が信用してもらえないとき（この事態がひとを極限状態に追い込むことが容易に想像できる）、ときに《嘘》をつくことで自身の潔白を証明しようとすることがある。「わたしがやった」というわけである。こうした嘘の自白が行なわれることは、たとえば刑事がふるう暴力とは間接的な関連しかもたない。むしろ、言語と出来事そのものの構造上の特性から必然的に、もっとも真っ直ぐに導かれるのである。というのも、本質的に《正直》である彼は、「わたしは犯人ではなく、わたし以外の者（というかほかならぬ別人）が真犯人である」と述べる術を持たなかったからである（この嘘は、否定文と同じ自己言及しかもたらさない）。だから、ひとは、自身が無実であればあるほど、そして正直であればあるほど、かえって追い詰められて嘘の自白―最小の嘘であるような―を行なってしまうだろう（刑事はそのことを知っておくべきだった）。否定文ではない形で自身の潔白を証明するには、《嘘をつくほかない》のだ。そして、事実、より真理に近づいているのは、理論上は否定文である前者ではなく、後者なのである。徹頭徹尾自己言及である否定文は、なにしろ、自分自身を否定することしかしない。……</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">ゲーデルは、不完全性定理によってヒルベルトの数学基礎論にとどめを刺した。この証明を、ヒルベルトは同僚のベルナイスから聞いた。ベルナイスにはヒルベルトが一瞬、「怒った」ように見えたという。そして最晩年のヒルベルトは、こう言っている。</p>
<p>
<blockquote>ゲーデルの結果により証明論が実行不可能となったという見解は間違いであり、それは有限の立場の拡張が必要であることが判明しただけだ。<br />『数学の基礎』前書き（林晋訳『ゲーデル 不完全性定理』岩波文庫より再引用）</p></blockquote>
<p class="post">ヒルベルトのそれまでの基礎論の試みが誤っていたとしても、彼のこの言明そのものは、わたしには正しいように思われる。有限であるひとが、無限に触れるためにもっているもっとも強力な手段が、《嘘》である。《嘘》があれば、ひとは神とさえ話すことができる。だからひとは《文学》を書く。そして、もっと重要なことは、《嘘》には、おそらく種類が二つあるということである。ひとつは、たんに自身に帰ってくる嘘である。自己回帰的な嘘は、実際には否定文と呼ばれることが多い。「わたしは犯人ではない」というのがそれであり、恵子は言語をこうした本質的に自己回帰的な嘘だと考えている。そしてもうひとつの嘘は、他者を巻き込みながら自分に返ってくる嘘である。荘子は、まるで山に登ればいつも獲物を携えて戻ってくる狩人のように、言葉を発するのだ。この豊かな嘘も否定文の形をして現れることがままあるが、嘘であるにもかかわらず、真理に向けて発声される嘘である（この両者の違いは、ひとから聞いておもしろくない《夢》とおもしろい《夢》を分かつ中心的な分水嶺といってもいい）。ともかく、虚構には、二つの区別が必要だし、この区別なしに虚構という語を用いたとしても、たいていは、カント主義に搦めとられてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
出来事の科学的基礎を与えようとしてきた歴史学は、つねに、自身のうちから《文学》を排除しようと試みてきた。実際、虚構をものす《文学》は、あまりにも科学とは、そして真理とはかけ離れているように思えたからだ。その場合、歴史学がもっとも忌み嫌ってきたのは、デリダの想定とは逆に、《声》である。《声》は、出来事に基礎を与えるには、あまりにも弱々しいものだったからだ。なにしろ、紙や石版といった媒体という定着物を有していないのだから（だが、実際には、この媒体という定着物が、言葉をリプレゼンテーションに変えてしまう……）。歴史主義は、声ではなく、文字に対する極端な傾斜によって、はじまっている。会話文が存在しているだけで、それは歴史学ではなく、歴史小説だと考えられてさげすまれてきたのである。
</p>
<p class="post">むろん、ありきたりの歴史小説のように会話文を挿入することが、出来事の学にとって重要だというのではない。そうではなくて、出来事の基礎にとって、もっとも重要なことは、むしろ《声》を弁証法的に統合することなく、つまり声を文に還元することなく声を扱う、一種の特異な書物を書くことなのではないか。つまり、出来事の基礎論にとって本当に必要な行為は、《文学》することなのではないか。「有限の立場の拡張」。最晩年のヒルベルトの言葉は、おそらく、そのことを指摘している。</p>
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		<title>《文学》のプログラムIII、否定と虚構</title>
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		<pubDate>Mon, 29 Jun 2009 16:00:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[archive(s)]]></category>
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		<description><![CDATA[嘘とはなにか。そしてまた否定とはなにか。嘘と否定とは、よく似ている。実際、区別するのはむずかしい。したがって、ありきたりの仕方で両者を区別しようとは思わない。たとえば、次のような文章があるとしよう。 《私は犯人ではない。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">
嘘とはなにか。そしてまた否定とはなにか。嘘と否定とは、よく似ている。実際、区別するのはむずかしい。したがって、ありきたりの仕方で両者を区別しようとは思わない。たとえば、次のような文章があるとしよう。
</p>
<p class="post-c">《私は犯人ではない。》</p>
<p class="post">
さて、この文章の主語である「私」は、犯人なのか？　犯人ではないのか？　そもそも、「私」はいったい、なにものなのか？　ふつうに考えて、つまりたんに文法どおりに受け取るかぎり、この文章は、主語を占めている書き手が、自分がなんらかの罪の主謀者ではないと考えていることを伝えるように思われる。したがって、「私」は、「犯人」以外のなにものかである、という主張を行なっているように思われる。しかるに「私」は誰だろうか？　この文章が真であるとすると、「私」は、犯人以外のあらゆる可能性をもったひとりの人間である、ということになるにちがいない。ところで、「私」が犯人ではない、ということはわかったが、それだけでは、結局、なにもわからない。この文章は、「私は犯人である」という命題を、たんに否定しているだけだからである。そこで考えを進めていくと、A is not Bという命題は、おそらく、A is Bという命題をひとに仮定させるのではなかろうか。というか、この仮定なしには、A is not Bを生じさせることはできない。したがって、厳密に上記の命題を書くと、</p>
<p class="post-c">《私は犯人である、という文章は私は犯人ではないという意味である。》</p>
<p class="post-n">という奇怪な文章になってしまう。肯定文がその対象を外にもっているのとは異なり、ごらんのとおり否定文の対象は自身のなかに含まれている。いわゆる「自己言及」である。したがって、内在的な証明は不可能である。その点から考えるに、否定文は、実際には、肯定文の否定ではなく、むしろ真偽の問いを宙吊りにする力だというように考えられる。ヒルベルトは、無矛盾であればその数学的存在が認められる、という風に規定した。矛盾が「ない」ならば、数学概念は存在する。しかし、この規定は、ほぼ必然的に、ゲーデルの不完全性定理を導く。矛盾が「ない」、ということによって、矛盾がないことを証明できないからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">しかしわたしは、この文章を、言語学者のようには考えない。むしろ、古文書学者のように考える。すなわち、7000年前に書かれた文章であり、しかも、同時代の同じ地域の文書としては、われわれに伝わっている唯一のものだと考える。いってみれば、この文章は、書かれた時点から今日まで、7000年間、宙吊りの状態で保たれてきた。むしろもっぱら7000年という時間だけを示し続けてきた。しかし、ともかくも、この言葉が風変わりな古文書学者の手に渡ったことによって、この文章は、不思議なやり方である内容を示し始めた。というのも、「私は犯人であるという文章は私は犯人ではないという意味である」という上記の展開された命題は、次のように圧縮できてしまうからである。</p>
<p class="post-c">《私は犯人である、というのは嘘である。》</p>
<p class="post">つまり、否定文が、嘘（虚）という一語に圧縮されたわけである。嘘とは、否と異なり、ひとつの出来事、すなわち嘘をついた、という「こと」を示している。この点にこだわるのは、わたしがいま、古文書学者だからである。古文書であるからには、言葉は、とにかくなんらかの出来事を対象として持っている。すると、統語論的には究極の矛盾を示すだけのこの文書が、いかにも多くのことをわれわれに伝える豊かなものであることがわかってくる。このときこの場所で、ある犯罪があったことが予測できる。そしてなおかつ、容易に犯人を特定できないようなやや込み入った犯罪で、彼が犯人であると疑われていた、ということを示唆している。したがって、「私は犯人ではない」は、むしろかえって、ほかならぬ彼が犯人だったのではないか、という可能性を導く。というのも、この事件の犯人の可能性は、じつは、彼がもっとも高いからである。しかるに、この点では、統語論が陥った決定不能と同じ無意味さを持っているのだが、ただし、違っているところもある。この点が、今述べたことにも増して実りの多い点なのだが、「私」が嘘をついているにせよ、「私は犯人である」というのが嘘であるにせよ、いずれも嘘をついている、という出来事が示されていることには変わりがなく、否定文のように宙吊りになったりしないのである。要するに、否定文があくまで内面にとどまるのとは異なり、言葉が、なんらかの対象を外側、つまり《現実》にもつことが、はっきりと示されている。この言葉が真であろうが偽であろうが、ともかく、誰かが嘘をついていることには変わりがない。
</p>
<p class="post">
否定文の力が、《現実的には》、「私」とわたしをつないでいる《時間》だけを示しつづけたのに対し、嘘には、その時間を圧縮し、過去を今ここに呼び寄せる奇妙なところがある。つまり、そこで行なわれるのは、たしかに捏造ではあるものの、なにはともあれ、《現実》に参与せざるをえない捏造なのである。これを、むしろ創造と呼んでもよいようにも思われるし、だとするなら、《文学》と呼ぶことさえ、差し支えない場合があろう。虚構が、現実に参与する瞬間である。
</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">
わたしがこれを歴史学と呼ばず、また風変わりな、という注釈つきで古文書学者という言葉を使うのは、結局、通例の歴史学者は、否定文と嘘とを混同しつつ、嘘を否定文のなかに解消してしまうからである。つまり、彼らは、現実に参与する権利をもちながら、その権利を自ら放棄して統語論の世界に戻ってしまうのだ（歴史学者のこうした足取りは、カントによく似ている）。だが、ここで必要なのは、嘘に力を与える《文学》なのだ。嘘と否定のちがいを明白に意識しつつ、そのうえであえて混淆的な哲学を構築していたのは、荘子である。彼はこういっている。
</p>
<p>
<blockquote>
荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや（魚）がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「君は魚ではない、どうして魚の楽しみがわかろうか。」荘子「君は僕ではない、どうして僕が魚の楽しみをわかっていないとわかろうか、」恵子「僕は君ではないから、もちろん君のことはわからない。君はもちろん魚ではないのだから、君に魚の楽しみがわからないことも確実だよ。」荘子は答えた、「まあ初めにかえって考えてみよう。君は『お前にどうして魚の楽しみがわかろうか、』といったが、それはすでに、僕の知識のていどを知ったうえで、僕に問いかけたものだ。（君は僕ではなくても、僕のことをわかっているじゃないか。）僕は濠水のほとりで魚の楽しみがわかったのだ。」<br />金谷治訳『荘子』秋水篇、岩波文庫
</p></blockquote>
<p class="post">
一方の恵子には、嘘と偽を混同し、言葉を時空間から切り離す学者風のところがあり、他方の荘子には、言葉を、たえず現実のなかで用いようとする実践論がある。恵子はゲーデル主義的な統語論者であり、荘子は（風変わりな）古文書学者である。</p>
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		<title>戦前と戦後 ＩＩ（ラフ）</title>
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		<pubDate>Fri, 27 Feb 2009 13:19:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
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		<description><![CDATA[われわれは、戦前と戦後を見渡すことのできる世代である。戦前の60年と戦後の60年を比較して、そのどちらにも、ある種の共感を覚える。またそこに、思考の絶対的条件とでもいうべき不可避的な病があることも承知している。 ◆ たと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>われわれは、戦前と戦後を見渡すことのできる世代である。戦前の60年と戦後の60年を比較して、そのどちらにも、ある種の共感を覚える。またそこに、思考の絶対的条件とでもいうべき不可避的な病があることも承知している。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえば戦後。ロラン・バルトが「テクストの快楽」について語ったとき、ジャック・デリダはすぐに、「テクストの外部はない」と言い直した。ミシェル・フーコーが「エノンセ」について語ったとき、あるいはジル・ドゥルーズが「差異」について語ったとき、柄谷行人はすぐに「固有名」と言い「物自体」と言い直した。これらの言葉の変更は、一見すればわずかなものだし、ほとんど同じものに聞こえる。すくなくとも同じ文脈のなかで出てきた概念であるようにみえる。変更といっても、より倫理的で、正当な進歩にさえ聞こえた。今から思えば驚くべきことだが、彼らは、だからおおむねひとくくりにあつかわれた。</p>
<p>ゲーデルやデリダの脱構築、いわば内部からの破壊を、柄谷は外側からのそれに変える。すなわち他者としての「物自体」、ここを批判の起点にするのである。それはヴィトゲンシュタイン的な転回だといわれる。だが、ヴィトゲンシュタインの「ゲーデルの脇を通る」「たとえば外国人」というやや《文学》的な表現、それがたとえ「物自体」とほとんど同じ意味を表すのだとしても、意味が同じであるなら、同じものといってよいのだろうか。認識しえぬものを表す、潜在的に否定形の表現を内包する「物自体」と、「たとえば外国人」という否定でも肯定でもないさりげない言い方が、本当に同じものなのだろうか。この微妙な差異は、その微妙さにもかかわらず、おそらくとてつもなく大きな差異である。いまはそのことを深く論じない。ただいえること、これは、戦後60年の思考の条件であり、病だろう、ということである。真っ直ぐに伸びるはずだった木の幹が、右や左に折れ曲がる。そのように、思考にはつねに屈曲がある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、わが身を振り返って考えれば、そのことは、われわれにも病が用意されているということを示している。それはおそらく、戦前と戦後の120年、世界大戦へと突き進む60年と、世界大戦後の60年とを、天秤にかけてしまうという、当のそのことが、一つ目の病である。われわれが、この病を拒絶できるとは思われない。だとするなら、むしろ望んでこの病を天秤ごと受け容れよう。そしてそのとき、「わたしはじつは健康なのだ」と言うだろう。</p>
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		<title>戦前と戦後（ラフ）</title>
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		<pubDate>Tue, 24 Feb 2009 14:51:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[antagonistic peace]]></category>
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		<category><![CDATA[lie and fiction]]></category>
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		<category><![CDATA[戦士の蜂の一刺し]]></category>

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			<content:encoded><![CDATA[<p>たとえば晩年のジャック・デリダがハバーマスと共闘したように、晩年の柄谷行人は丸山真男に共感する。ここに共通したなにかはないか。それも、戦後の病そのものであるような。といっても、それは不可避的な病であり、戦前のひとびとが、《戦争》を病として抱えていたことと、同じである。要するに、戦後の知識人は、《平和》という病から、抜け出せなかった。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>丸山にかぎらず、戦後の人々は、「断念」や「ためらい」といったネガティヴな態度を逆説的に評価したがる屈折を持っている。「決断」や「主体性」といった言葉を、極力回避しようとする。米国と開戦するに至る決断、大東亜共栄圏を主体的に作りあげようとする夢、外部に肯定性の夢を追い求めるのはロマン主義のもたらす罠にすぎない。外部は、否定性においてしか現れない。……</p>
<p>われわれが青と信じる（つまり意識内部において青である）それは、青ではないかもしれない（他人にとっては青ではないかもしれない）。理想は、そこにたどり着けないというそのことにおいてのみ、理想でありうる。翻訳が不可能であるからこそ、言葉のうちでも固有名だけは外部たりうる。</p>
<p>外部は、否定的な形でだけ現れる。そうした否定性の極致が、カント＝柄谷のいう《物自体》である。どこまでいっても否定の運動であるような、この批判の概念は、ついには、自己を超越論的に眺めることを可能にする。超越論的な自己とは、自己ではないなにかとしての自己、である。そのことを積極的（ポジティヴ）に提示することはできない。否定形で現れる他者の重要性は、ついに自己をも否定形で表現する。肯定はどこにもない。否、否、否、このたえざる否定の運動こそが、真の哲学ならざる哲学である。虚構の重要性……。</p>
<p>否とさえ、というか《否と積極的に向き合おうとする》ハバーマスや丸山真男の議論は、たしかに、デリダや柄谷にとっては許容しうるものだ。しかし、そうした超自我が、世界共和国である可能性はどこまで確かなのか。自我の否定を真っ先に行なうのは、むしろ国家ではないのか。知識人の戦争協力は、日本の外部を想像させる超自我の回路を通ってなされたのではないのか。敗戦後、戦前の国家主義者は、たしかに超自我の回路を通って国連を見いだしたかもしれない。だが、戦前の共産主義者（あるいは個人主義者）は、その同じ超自我の回路を通って国家を見いだしたのではないのか。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>ぼくは、ここで疑問に思う。平和とは、戦争の否定の謂いなのか、と。外国語との通訳不能性が、本当に平和の使節なのか、と。しかし、理論的にも現実的にも、平和が戦争のない状態としてしか定義されないうちは、われわれは、平和を求めることはできないだろう。平和を求めるなど欺瞞である。なぜなら、平和には、たどり着けないからだ。ならば、われわれは、平和を戦争をしないということに求めざるを得ない。</p>
<p>かくして、ひとは、兵士であることをやめる。それはかまわない。だが同時に、戦士であることもやめてしまう。否定形の議論は、ひとから、力と同時に行為をも奪ってしまう。戦争の終結は、たしかに一時の混沌をもたらした。だが、そうした混沌は、否定形の議論のなかに収斂されていった。知識人の戦争協力を即座に否定的に反映させる実態的な論理をたえず内包した戦後の戦前批判は、兵士のなかの兵士性と戦士性の混同という誤りを犯す。兵士であることも戦士であることもやめてしまったひとたちの、屈折した勝利。「これは敗北ではない！」　だが、それは、敗北という究極の屈折に対する卑屈な肯定にかぎりなく似ている。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>ぼくらの世代は、戦前の世代と、戦後の世代を同時に見渡すことのできる世代である。それだけに、《戦争》になだれ込んでしまった世代特有の苦悩と、《戦争》を諦めることに美学を見いだした世代特有の苦悩とが、同時にぼくらを切なくさせる。戦後のひとたちは、だからこぞって漱石を褒めた。漱石はすばらしい、なぜなら、彼ははじめから諦めていたからだ。鴎外も褒めた。鴎外はすばらしい、仕事と友情を選ぶことが、恋愛を諦めることだと知っていたからだ。はじめから諦めていたひとたち、その苦悩を知っていた彼らこそ、真の文学者だ。……</p>
<p>たしかに、彼らのような例外的な《諦めていた人たち》と比較すれば、戦前のひとびとはあまりにも兵士でありすぎたかもしれない。だが、同時に、戦士でもあった。彼ら戦士のもつ独特の緊張、ぼくはそこになにか特別な尊敬の念が沸くのを抑えることができない。戦士とは、ためらわずあきらめず、最後まで戦い抜く男たちのことだ。屈折した勝利でも、卑屈な肯定でもない、純粋な肯定の論理を追究する男たちのことだ。排中律や否定神学の周縁を迂回しながらさまようデリダたちの理論からは、そうした戦士の蜂の一刺しが失われている。</p>
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		<title>否定的なものの存在</title>
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		<pubDate>Sun, 04 Mar 2007 04:21:08 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[negation]]></category>

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		<description><![CDATA[いまの日本は、世界的な公準に照らしてみれば、どう考えても極右政権なのだが、ネオナチの《アウシュヴィッツは存在しない》というテーゼ同様、そうした言質を繰り返すのが彼らの特徴となっている。彼らには、独特の論理学があって、こう [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post">いまの日本は、世界的な公準に照らしてみれば、どう考えても極右政権なのだが、ネオナチの《アウシュヴィッツは存在しない》というテーゼ同様、そうした言質を繰り返すのが彼らの特徴となっている。彼らには、独特の論理学があって、こうした論理学は、どちらかというと、ヘーゲルよりはアリストテレスのそれに近い――という言い方はアリストテレスには迷惑な話で、似ているだけであって、まったく異なるものである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">リハビリ期間に１８０日という制限を設けるくらい健常者の立場でしかものを考えない（去年の四月に始ったこのあきれるばかりの制度について、読者はご存知だろうか――１８０日を終えて身体機能が回復していなければ、貧しい患者は本当に、言うことを聞かない身体を抱えて路頭に迷うのである）、逆に言えば弱きを挫くこのところの政権にはありそうなことなのだが、彼らの論理学の特徴をひとことで言うなら、否定文の独特の扱いにある。すなわち、否定形であらわされた内容は、《存在しない》ことになるのである。</p>
<p class="post">たとえばこうだ。《従軍慰安婦の存在は必ずしも証明されているわけではない》。わたしがこの文を読むかぎり、これは歴史学の怠慢を表わしてはいても、現実の存在そのものを否定しているわけではないように思われる。そもそも、これを書いている《筆者》の存在を、わざわざ証明してくれるようなひとは、どこにもいないだろうことが、いくら自己顕示欲の強いわたしでも、すぐにわかる。だが（ここは声を大にして言いたいのだが）、《筆者》は存在しているのだ。むろん、《必ずしも証明されているわけではない》にしても。もうちょっとましな例をあげれば、どちらかといえば、わたしは《卑弥呼》はいたと考えているし、そちらに全財産を賭けてもいいと思っているが、もちろん、このことは《必ずしも証明されているわけではない》。</p>
<p class="post">先に歴史学の怠慢という言い方をした。だが、それもこの場合は無理もない話で、歴史学において、たとえば《ナポレオン》は存在したかどうか、研究した歴史家がいないのと同じことである。もっとわかりやすくいえば、従軍慰安婦の存在を検証した歴史学者がいないのは、昭和天皇が存在したかどうかを検証した歴史学者がいないのと同じことである。哲学者ならまだしも、そんなことを研究する暇のある歴史家はいないのだ。また、たとえその問いに対して真摯に努力したところで、言葉（史料）と現実のつながりを完全かつ無批判に肯定してしまわないかぎり、絶対に《ナポレオン》の存在は証明されない。存在について歴史家が問おうとすれば、基本的には否定的な――すなわち存在しない、という帰結に陥りやすい。とくに実証的な歴史学の場合、対象について、より完全な論証によってはじめて歴史家自身の主張が認められる。そのため、なにものかの《存在》を実証的に証明しようと欲することは、逆説的にその論証が必ず不確実に陥ることによって、存在の不完全さ――ひいては存在の《否》に帰結してしまうのである（歴史がどうやっても勝者の歴史に陥ってしまうのはそのせいなのだ）。つまり、じつのところ、リヴィジョニストの行なう《存在》の否定方法は、実証主義的歴史学者（ポジティヴィスト）のそれと、まったく同じなのである。彼ら双方に欠けているのは、次のものだ。すなわち、《否定的（ネガティヴ）なものの存在》である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p class="post">さて、《存在》という概念そのものは、歴史学的に証明されたことは一度もない。とはいえ、ここでは実証主義者に対する文句はこれくらいにしておこう。いずれにしても今日の政権にもっとも欠けているものが、《否定的なものの存在》という発想である。たとえば、彼らには、《子供を（二人以上）産まない女性》が存在している、ということが、どうしても考えられない。それと同様、証明されていない従軍慰安婦の存在も、どうしても考えられない。さらに付け加えれば、いつも自分たちに否定的なことしか言わない左翼のような連中が、なぜ国家に存在しているのか、その必要性についても、どうしても考えられない。</p>
<p class="post">こうした論理学の行き着く先はすでに見えている。遅かれ早かれ、彼らには、否定的なことしか言わない左翼はおろか、女や外国人まで存在しないことになるのだが、さらにこの論理学を突き詰めていけば、しまいには自分以外の誰も存在しないことになるだろう。ここにあるのは、もっとも幼稚なロマン主義であり、またもっとも幼稚なナルシシズムだけである。おそらく、彼らには何の悪意もないだろうし、無邪気な、純朴な、そして幼い老人たちという表現がもっとも妥当なそれなのだろう。</p>
<p class="post">ここまで露骨だと、おそらく悲劇は、もっとも大きなものよりは、いくらか小さい。というより、かつての悲劇を矮小化して再演している点では、ほとんど喜劇である。彼らの論理学は、世界史上、さまざまな危機をもたらしたものだが、先人と比較した彼らのレベルの低さを考えるかぎり、現実の領域で、なにかしでかすことのできるほどの力はない。せいぜい彼らの論理のなかで駄々をこねるのが関の山だろう。あるとすれば、戦後わたしたちが周辺諸国に対して行なってきた無数の努力を、いくらか水泡に帰してしまうくらいのことだ（いくら論理の内側に閉じこもっているとはいえ、発言すれば外部にたどり着いてしまう以上、この点は如何ともしがたい）。それゆえ、どれほど優秀な政治家が政治を担っていようと必然的に生じる国家の論理にしたがって、数人の人々がつねに犠牲になるほかは、まわりの大人が眉をひそめるだけであり（といっても、日本に大人がいるかどうか、いささか心許ないのだが）、そして無駄な時間が過ぎていくだけである。無力なこちらとしては、もはやこれ以上いらぬ波風が立たぬよう、さっさと次の選挙で敗北して少しは大人になってくれることを願うほかない。</p>
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