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	<title>ex-signe &#187; Prometheus and Epimetheus</title>
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		<title>忘却の系譜学</title>
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		<pubDate>Sat, 30 Jan 2010 12:46:22 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Arts of Extinction]]></category>
		<category><![CDATA[différen(t/c)iation]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
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		<description><![CDATA[ニーチェは、『楽しい科学』のなかで、「忘却の音楽」について語っていた。たしか、彼はそこで、芸術を二つに分類していたはずだ（不確かな書きかたをするのは、いま手許にこの本がないから。今月二度目の満月の光を浴びながら、これを書 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ニーチェは、『楽しい科学』のなかで、「忘却の音楽」について語っていた。たしか、彼はそこで、芸術を二つに分類していたはずだ（不確かな書きかたをするのは、いま手許にこの本がないから。今月二度目の満月の光を浴びながら、これを書いている）。作者が観客を起点として作りあげるものと、ただ独白に終わるもの。望ましいのは、前者ではなく、後者である。</p>
<p>ニーチェは、たとえ一見独白ではあっても、神との対話において作られるものは、前者（観客の視線を前提したもの）に含めている。神の視線を精神のうちに拵えているかぎり、それは観客を起点とするものとなんら変わりはない。結局、彼は独白のために必要な孤独を知らないのである。だからニーチェは、徹底した不信心が生まれた近代において、はじめてこの分割が可能になったことを指摘していた。神に回収されることなき真の独白は、稀有なものである。おそらく前者には、ナルシシズムも含まれるだろう。ナルシシストによって極限まで超越化された自己は、神に等しいからである。というか、観客の視線を前提したものは、じつは、ナルシシズムの範疇に含まれる、といったほうがよいのかもしれない。観客がどう思うかなど、究極的にはわからないからである。それは、精神のうちに拵えあげられた神と同種の不確かさをもっている。ナルシシストにとって、作者としての自己は、超越的な自己をみつめる観客なのである。結局、はじめから世界を求めて行なわれる芸術には、多かれ少なかれナルシシズムが含まれている。したがって、もっともすばらしい芸術は、ただ独白であるような芸術である。そうした芸術は、あえて世界を忘却しているのだと、ニーチェはいう。忘却の音楽、それが、独白芸術の中心であると、ニーチェはいう。</p>
<p>ニーチェの分類を展開してみよう。われわれは、ここに、二つのタイプの世界喪失をみることができる。ひとつは、世界を求めるあまり、自己の鏡像、すなわち〈記憶のなかの他者〉を観客に投影した芸術。もうひとつは、世界（観客）をはじめから忘却することで、観客の向こうの〈世界に向かって〉語る芸術である。この芸術家は、どちらを選んでも、世界を忘却することになる。だがすくなくとも、神なしに語ろうとする後者の行なう忘却は、あきらかにポジティヴである。他人の力を借りることなく、自身の力で芸術を創造する。忘却は、けっして「欠失」などではない。われわれは、両の手に、記憶の世界と、忘却の世界という、二つの世界を手にしているのである。「忘却の音楽」は、記憶の世界からわれわれを遠ざけるかわりに、忘却の世界を手にすることを許す。それもまた、世界である。記憶の向こう側にひろがる、忘却の世界。そこはおそらく、彼岸であり、言葉の真の意味で《外》である。思うに忘却とは、きわめて不思議なものである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>スティグレール（彼の本も、いま手許にない。部屋に忘れてきてしまった）は、プロメテウス、エピメテウス兄弟の古い神話を紐解く。神々は、地上に、人間を含む動物を作り出した。兄プロメテウスは、動物どもに武器や衣服を分配する役目を仰せつかる。兄は弟にその仕事を任せ、自分はそれを検査する役に回った。この愚鈍な弟が仕事を終えたとき、人間にはすっかり武器や衣服を分配することを忘れていた。そこで一計を案じた兄は、へパイストスから火を、アテナからそれを用いる知恵を盗み出し、これを代わりに与えたという。スティグレールが注目するのは、火や言葉などの〈技術〉が、愚鈍なエピメテウスの「欠失」に依存していたことであり、この「欠失」を起源として、二本足の毛のない動物――これはプラトンの人間の定義である――は、いわゆる《人間》となった、という点である。</p>
<p>彼は、哲学にとってもっとも重要なのは、《技術》だという。技術がきわめて重要なものであることは論を待たない。火しかり、文字しかり、これら技術がなければ、ひとはひととしての能力を十全に発揮できなかっただろう。だが、スティグレールがいいたいのはそういうことではない。技術を哲学する、とはこういうことだ――《技術》を、人間の存在論的な「欠失」そのものとして読み解くことであり、したがって、存在論的・時間的差異としての技術の哲学は、人間そのものの解体や脱構築を目論んでいる。</p>
<p>スティグレールによれば、プラトン以来の西欧形而上学は、こうした意味での技術を見過ごしてきたという。ここには、技術に刻み込まれた「欠失」の欠失、二重の忘却がある。人間は、この「欠失」を忘却することなしには、欠如態を脱出し、実定的（ポジティヴ）な意味での人間となることができない。デリダの音声中心主義批判を受け容れるなら、文字痕跡――これも技術である――に先立たれることなしにはありえないとされる音声中心主義の広まりは、まさにこの二重の忘却が存在していることの証左であろう。しかも、スティグレールによるなら、技術は、文字が典型であるように、全体として、それ自体が記憶を司るものである。というのも、技術は、時間を圧縮するか、あるいは同じものを再現するかして、記憶‐想起と同じはたらきを行なうからである。にもかかわらず、プラトンは、ヘルメス＝トトによってもたらされた文字の技術を、忘却に属するものとして、彼が最重要視した《想起》の術から取り除いた（『パイドロス』）。だが、《想起》もまた、疎外された技術に先立たれることなしには不可能であるとするなら、やはり、ここにもまた、二重の忘却があることになる。</p>
<p>かくして、スティグレールは、プラトン以来の西欧形而上学を批判する権利を得ることになる。ハイデガーからデリダに至る系譜の哲学者にみられるこうした《自己批判》は、ハイデガーの時代ならまだしも、われわれにはほとんど無用の代物だとわたしは思う。哲学史を全否定できれば楽しかろうが、わたしはもっと生産的な響きを歴史に求めたい。また、彼がプラトンを読解した際に行なった脱構築的手法も揚げ足を取るようで、あまり好みではない（ほとんどの場合、脱構築が作品の解体のために取り出す作者の無意識は、作者には意図的なものであると思う――というか、すぐれた作家は、無意識や忘却を、むしろ自分の責任で使用することを好むのであり、なにがなんでも無意識を無意識のままに回収しようとするものである）。人間を解体する、という点で共感はするが、そもそも、技術について、人間について、そして忘却について、ニーチェの徒であるわたしはこうした見方をとらない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>カント以来、近代の哲学には、二つの系譜があるように思われる。ひとつは、忘却に抵抗する哲学であり、もうひとつは、忘却を取り込んだ哲学である。《忘却》という概念は、きわめて照準をあわせるのが困難なものである。というのも、それは、一種の裂け目であり、割れ目であり、その本質からして表象を伴わないものと考えられているからである。したがって、この二つの系譜のちがいはなかなか顕在的にはならなかったのだ。だが、おそらく、この隠された系譜は、はっきりと区別される。カントやフロイト、アーレントやデリダ、そしていま話題に上っているスティグレールは、前者に属する。彼らはより確固たる記憶のうえに自身の哲学を構築し、そのあとで、ネガティヴな忘却に抵抗するか、より高次の記憶のためにこれを受け容れるかする。したがって、忘却は、この哲学の内部では、基本的にネガティヴな意味合いをもつ。その一方、ニーチェやベンヤミン、フーコーやドゥルーズは後者に属する。忘却に抵抗しようとする前者の努力には、心の底から敬服するが、後者はそうしたところからは、すこしだけずれている。彼らは、はじめから記憶が忘却を伴わないかぎり存在しないという、このパラドックスの上に哲学を構築した。忘却と記憶はあくまで連続的なものとして、カップルとして把握される。忘却は時と場合に応じて、記憶同様にポジティヴかつ生産的な意味合いをもつことがある。彼らは、記憶忘却、双方に対して、中立な姿勢を崩さない。彼らの哲学は、〈ここからはじまる〉。</p>
<p>忘却は表象を伴わないといった。だが、ニーチェの系譜に属する哲学からすると、むしろ忘却こそ、表象を伴うのである。忘却が表象を伴うとき、それはほとんどの場合、怪物の姿をまとう。たとえば、人間に目が二つあることを忘れてしまったひとは、それをひとつや三つにするだろう。人間の下半身がどんな姿だったか忘れた者は、それを馬や魚の姿に描くかもしれない。なにもかも忘れてしまったひとは、きっとほとんど液体と変わらぬような軟体動物を思い描くだろう。すぐれた芸術家は、この忘却を意図的に使用することができる。たとえば、プルーストが発見した「無意志的記憶」とは、まさに文学者が住まう〈忘れられた〉土地である。この土地は豊かである。というのも、芸術は、ここでのみ、花開くからである。彼らは、怪物の代わりに、美しい妖精を思い描く。</p>
<p>スティグレールは、忘却に先立たれることなしに、記憶は存在することはなかったという。それはそのとおりである。だが、忘却は「欠失」ではない。忘却は豊かである。さきにみたように、ここは、あらゆるものが生まれ出る《真空》である。『国家』におけるソクラテスの言葉にならっていえば、忘却は、穢れなき魂の新たなる再生のために、必要なものである。ナーガールジュナに非‐認識論的に従っていえば、色彩は、この《真空》から生まれ出る。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、人間とはなにか、それも技術にかかわるかぎりでの人間は、どういった点でほかの動物と、あるいは自然と区別されるのか。スティグレールがいうように、技術は、とりわけ記憶に関わっている。それはたしかである。炎を実現可能なものにする木切れとその技術は、人間にとって偶発的な出来事でしかなかった炎を、再現可能なものにする。木切れには、一回限りの出来事の記憶が詰め込まれていて、木切れの道具としての使用は、この記憶を再現する。つまり複製する。</p>
<p>しかし、この技術は、いまだ人間的なものとはいえない。炎になんらかの象徴的な意味合いがあることはたしかだとしても、依然として、この技術は自然に属している。偶然に起こった山火事と、木切れの燃焼とのあいだには、結果においてなんら違いはない。意図的に燃やされたのか、そうでないかにしか違いはないし、そもそも、そのような意図に自然は頓着しない。したがって、この技術には、火の想起があるが、同時に忘却がある。生まれ、そして消え去るこの技術は、そのかぎりで、自然に属している。技術が自然から乖離するためには、文字の発明を待たねばならない。というのも、文字は、その本質からいって、消えないからである。</p>
<p>むろん、文字もまた、その他の現象同様に、本来は消え去るものである。たとえば、ひとの肌に刻まれたタトゥーは、肉体の分解速度に応じて消え去る。石盤に刻まれた文字も、石盤の分解速度に応じて消え去る。消えない、という夢想をひとに抱かせる権利は、どうして生じるのか。文字痕跡を残した主体の寿命を超えて残る、ということによってである。痕跡を残した主体の死後も、消え去らない痕跡があるとすれば、それはある観点からいって、消えないといわれる権利を持つ。ここには、万物の起源を人間に置くプロタゴラス風の人間中心主義がある。</p>
<p>消え去る速度が早いか遅いかの違いしかない声と文字を、人間の寿命を規準に、消える消えないという観点から区別するとき、はじめて、この技術は人間的なものとなる（消滅についてのスティグレールの考察は、余計なことをしているとしか考えられない）。だがもちろん、同時に、この技術は自然にも属している。けっして、スティグレールのいうような人間の「欠失」の埋め合わせなどではなく、たんにポジティヴな面をもっている。その点について、まず簡単に説明しておこう。文字は、その他の動植物の行なう技術的行為と比較すれば、圧倒的なポテンシャルを秘めたものである。というのも、その他の動植物は、自身の外部に、ここまで長期的に保存される痕跡を残すことができないからである。その他の動植物は、胎内で交わされる言葉である遺伝子に頼るほかない。したがって、進化（差異化）の可能性は、まさに種が引き継がれる瞬間にしか訪れない。しかし、人間は違う。読み読まれる文字を実現することによって、時空間的な限界を超えたのである。たしかに、声（口伝）もまた、差異化の機会を増やしはしたが、あくまで加算的であった（ここでは詳しくは触れないが、声には、とりわけ主体にかかわるさまざまな制約が顕在化している）。だが時空をこえて読み継がれる文字によって、差異化の機会は圧倒的に、累乗的に増大した。人間は、書物を生み出す。自然史の内部に《歴史》を実現し、自身の王国を作り上げるほどに、この技術は驚異的だったのである。</p>
<p>しかし、この技術が圧倒的な差異化を生み出すためには、ひとつ条件がある。自然に属するかぎりで、この技術を使用することである。すなわち、遺伝子同様、言葉を引き継いだ瞬間に前の言葉は喪失し（忘却され）、新たにすぐれた差異を実現した言葉がこれを塗り替えなければならない。そうでなければ、差異化は実現せず、せいぜいオリジナルの解釈であるとか誤読であるとかで終わってしまうからである。こうなると、親と子が別々の個体であることがむずかしくなってしまう。残念ながら、文字は、往々にして、差異化ではなく、解釈の対象になってしまうし、親が子に優越する結果さえ生まれてしまう。子はたんなる親のヴァリエーションに過ぎず、個に種が優越してしまう。なぜか。消えないからである。自然界でつねに発揮されている《忘却》がなくなってしまうのである。文字がサトゥルヌス（クロノス）的な禍々しさを発揮するのは、このときである。我が子を喰らう悲劇的な力を、文字は有する。文字は、〈記憶することしかできなくなる〉。……</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>要するに、エピメテウス＝忘却の存在喪失が、忘却の忘却が、つまり単独で生じる記憶が（忘却の忘却は記憶であって、スティグレールのいうような忘却の二重性は生まれないように思われる）、文字技術を人間的なものにしたのである。スティグレールは「動物的均衡」からの「隔たり」として、人間を捉える。エピメテウスの忘却によって、人間は消えゆく者となり、動物的均衡を失ったというのである。だが、消えゆくという規定は、自然あるいは動物のものである。不死や永遠こそ人間的なものである。エピメテウスは、むしろ、人間に動物性を回復させる者であり、〈自身をつねに第一世代と考える人物〉である。「エピメテウスの過失」によって炎と知恵とが与えられたとしても、それは、まだその他の動物に比して質的な飛躍を可能にするのではなかったと考えるべきだ（不用意な言い方を許してもらえれば――文字を持たなかったアイヌなどをみればそれは一目瞭然であろう）。また、歴史的時間が可能になるのは、エピメテウスが先立つかぎりで、プロメテウス的な知が起動する場合だが、過去と現在の対称性にもとづく歴史的時間は、エピメテウスによって再度破られるのである。ともあれ、動物は観衆に向かって話したりしない。エピメテウスもまた、観衆に向かって話したりなどしない。愚鈍な彼は、それが誰かなど忘れてしまうからだ。エピメテウスは、相手が誰かなど、覚えていない。〈彼らはいつも、世界に対して独白する〉。言った後で、相手が誰だったかは、きっと思い出す。人間が技術の観点からその他の動物と区別されるとすれば、愚鈍というよりは動物を贔屓しているだけかもしれないエピメテウスを、「欠失」などという言葉で蔑む人間の視線そのものによってである。動物のよき伴侶であるエピメテウスが可能にするのは、技術ではない。むしろ芸術である。彼は、《希望の神》という側面をもっていることを、忘れてはならない。すべてを先んじて知る兄プロメテウスが、弟の愚鈍さを知らないはずはなかった。それでもなお、兄は弟に重大なものを託すのをやめなかった。動物を愛する弟のためなら、窃盗さえ厭わなかった。弟の忘却は織り込みずみであるはずの兄にとって、窃盗は予定されていた行為である。この窃盗に、罪の意識や負い目などまったくない。</p>
<p>文字が、忘却を否定する消滅不可能な特性においてただちに使用されたわけではない。《想起》に力点が置かれているかぎり、記憶が忘却に優越する状況は完璧に回避できる。兄弟は、まだ仲良く手を取り合っていたのだ。スティグレールの指摘するように、ソクラテスは、奴隷少年に《想起》させる際に、文字を使用している。だが、重要なことは、それが砂の上に書かれたことである。砂の上に描かれた文字は、簡単に消すことができる。デリダのいうような痕跡など残らないのは確実である。その点で、この技術の使用法は、声と変わらない自然さを有しているのである（雨の日にはいつもそわそわしている犬のマーキングと違いはない）。ギリシア悲劇や哲学は、文字技術の陥る悲劇を回避するためにわれわれに与えられた警鐘であると理解される。また、マーシャル・マクルーハンの指摘するような前近代の写本文化は、速度のゆったりした口伝であると考えることができる点で、古代の《想起》技術の範疇に属していたし、活字技術ができたとしても、紙などの媒体が大量生産されないかぎりは、そこまで大きな変革が起こるわけではない。</p>
<p>やはり問題は、紙の大量生産である。《人間》は、もっと最近の発明だと、フーコーは言った。世界大戦などをやらかした近代的《人間》の罪を、古代人にまで遡って着せるようなやりかたは、すべきではないと考える。ギリシア人の明朗さ、プロメテウスの罪にまで品と位を与える彼らの快活さは、陰鬱な近代にはなかったものだ。ともあれ、この大量生産は、つかのま、爆発的な差異化の力を生み出した。だが、年月を重ねるにつれ、奇妙なことが明らかになっていった。言葉が、つねに燃え残っている……。痕跡や灰がたえず存在し、動物としての人間につきまとう。みよ、痕跡や灰が、傷や炎に先行している……！　カントやヘーゲルが、そして資本主義がほくそえむ。それでこそ人間だと、彼らはいう。新しい芸術が、新しい哲学が生まれたとしても、アーカイヴズを刷新するのではなく、付け加えることしかできなくなる。われわれの生の帰結としてアーカイヴズが残されるのではなく、われわれはアーカイヴ化された生をより巨大なアーカイヴズに付け加えていくだけなのだ。主語を、ひとびとは古文書にあずけてしまったのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>今日、オリジナルなものをみることはほとんどなくなってしまった。すべてはすでに起こったことの繰り返しなのだ。新しいことなど、なにひとつ起こらない。出来事など、どこにもない。オリジナルへの意志など、もはやなくなっている。真にオリジナル＝固有なものは、オリジナル＝根源への意志なしには生まれえない。無限につづくいまここ、すなわちアーカイヴズにこれだけ埋もれていれば、歴史を求める必要などありはしない。歴史の必要などほとんどないほどに、われわれは、ニーチェのいう「歴史病」に犯されている。だが、今日、歴史のうちに根源を求めるひとだけが、真にオリジナルなものを実現できると、わたしは思う。たとえば、ジャン＝リュック・ゴダールのように。</p>
<p>その点で、今日のインターネットの世界には、もちろん可能性がある。とくにわたしが注目するのは、消滅を基本とするＲＡＭ的な技術である。よくいわれるように、コンピューターの歴史において、画期をなすのは、自ら忘れることのできる記憶装置、ＲＡＭの発明である。ハードディスクなどの大量記憶装置にまつわる技術は、忘却＝洪水を塞き止めはするが、完全に防ぐことはできない巨大なダムのようなものである。したがって、カントの悟性同様、一種の遅延装置であると理解される（「バックアップ」を取ることほど、馬鹿馬鹿しい気分にさせてくれるものはすくない――バックアップなど取らないことを推奨する）。いずれにしても、重要なことは、アーカイヴ化を逃れる可能性があるか否かである。われわれは、この方向で、この技術を使用しなければならない。つまり、文字を声のように使用しなければならない。〈新しい言文一致運動が必要だ〉。この点ではおおいに勝ち目がある。というのも、インターネットの世界は、基本的に生成変化しているからである。これほどアーカイヴ化に反しているものは、今日見当たらないほどである。</p>
<p>しかし、今日、インターネットの世界を跋扈しているのは、まさに逆の発想からこれを使用するひとたちであるようにみえる。古い時代の最後の世代が、ネット社会を歓迎しながら、文字技術を人間の世界につなぎとめている。独白のための技術が、観客のために用いられている。征服は、始まって久しい。われわれはむしろ、忘却を回復せねばならないのに、その美しい使用法を知らないのである。……</p>
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		<title>記憶と忘却の娘としての《技術》（スティグレールによせて）</title>
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		<pubDate>Sun, 24 Jan 2010 17:09:55 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
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		<description><![CDATA[わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じている点でも、驚くほどよく似ている。その点で、わたしの思考もいっぱしに《同時代的》であるのだろう（逆にいうなら、日本の知識人たちは同時代的であろうとしているにもかかわらず、なんと迎合的で結局は時代と乖離していることか。同時代的に気のきいた批評をしていればそれで仕事をした気になっているひとたちと比べれば、「哲学」しようとしているスティグレールには心の底から共感する）。しかし、デリダの弟子という点をふまえるなら、デリダとなんの関係もないわたしの哲学は、それとは当然異なる方向性をもっている。昨日届いた『技術と時間１―エピメテウスの過失』を読んだだけの感想である。そして、微細なものでもある。だが、結局は決定的であるように思う。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>スティグレールは、哲学がいつも技術の存在を忘れてきたという。わたしもその点にはある程度賛成する。たとえば近代の哲学者、とりわけカントやヘーゲルの哲学は、文字と紙という記憶装置なしには、承服しかねる部分がある。しかし、すべての哲学がそうだったと考えるのはむずかしい。プラトンが、アナムネーシス（第一次想起）を重視し、ヒュポムネーシス（文字など外在的かつ人工的な記憶＝記録）を忘却の術と呼んで記憶術から退けたことはよく知られている。だが、スティグレールは、プラトンが最重要視していたアナムネーシスに〈先立って〉、より軽視していたと思われている外在化された記憶技術であるヒュポムネーシスが存在している、と指摘し、プラトンを批判的に脱構築していく。この議論は、音声に対する痕跡の優越を語ったデリダの批判的後継者の評判にたるものである。だが、わたしなら、すべてに先立つのは、技術というよりは《忘却》であるというだろう。外在的な記憶術を意味するヒュポムネーシスが、《忘却》の術と考えられるかぎりでのみ、技術はつねに有意義なのである。プロメテウスがひとに与えた技術の存在を忘却の底に沈めるといわれるエピメテウスは、しかしとりわけ希望の神でもある。私見によるなら、彼は、「欠失」でもなければ歴史意識を可能にするのでもない。むしろ彼が実現するのは《真空》であり、歴史意識の超越である。彼は、つねに自分の世代を第一世代だと考えるきわめて動物に近い男であり、ゼウスによって自身に与えられる無限の懲罰の結果を先んじて知っているプロメテウス的悲劇とは無縁のアンチ・オイディプス的な男でもある。</p>
<p>プロメテウスが与えた炎＝《技術》とは、端的に記憶であると、スティグレールはいう。しかし、わたしなら、もっと端的に、記憶であると同時に忘却である、というだろう。プロメテウスとエピメテウスの関係は、ひとが思っているよりも、そしてスティグレールが思っているよりも（というのも、彼においてエピメテウスは、プロメテウスを補完するにすぎない）、もっと苛烈に一体化している。この兄弟には、ひとかたならぬ、尋常ならざる友愛の絆が感じられる。この両者が不思議に一体化しているときにのみ、技術は真の有用性をもつ。実際、わたしは、記憶と忘却とを区別する術を知らない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえばこういうことだ。技術には、つねにこういう特性がある――すなわち、一回限りで消え去るものを、《再現》可能にするときに現われるのが技術である。木切れが炎を起こす技術になるとき、この木切れには炎が起きたという一回限りの出来事の記憶が詰め込まれている。技術としての木切れの使用とは、出来事（炎）を再現可能なものにする、ということである。この場合、技術は記憶を再現するものであって、〈炎を燃焼させるのではない〉。そこでの炎の燃焼は、出来事そのものではなく、木切れの能力の再認（レコグニション）、再現前化（リプレゼンテーション）である。徹頭徹尾、技術は《複製》を司っている<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。木切れは、たしかに、炎を起すための文字――炎という出来事の記憶装置である。</p>
<p>しかし、重要なことは、次の点である。記憶の再現としての技術の使用には、結局は《二つの忘却》が紛れもなく存在している、ということである。木切れが、炎を起こす道具として使用されるとき、かつてなんらかの偶然で炎が燃焼したという出来事を、ひとはすでに忘れている。要するに、炎が再現可能なものとなるとき、かつての炎の一回性は、つねに‐すでに忘却されている。これがひとつめの忘却である。</p>
<p>ふたつめの忘却は、ひとつめの忘却を意識したときに（つまり思い出したときに）はじめて忘れられるものである。つまり、意図的に燃焼させられた当の炎は、かつて自分が何らかの理由で偶然に燃焼させられたことを、すでに忘れている、ということだ。要するに、炎は、木切れにひとが封じ込めた記憶を《再現》したのではない。そういう考えはアポロンの神託に苦しむオイディプス的人間の隠れた傲慢であって、たんに燃えている、まったく新しい炎である。同じ木切れを使用して二つの炎が生まれたとしても、両者は決定的に異なっている。だからヘラクレイトスはこう言った。「火を消すよりも、傲慢な心を先ず静めるべきだ」。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>したがって、スティグレールの指摘の正当性は、いまのところわたしには半面的なものにしかみえない。たしかに、ヒュポムネーシスがアナムネーシスに先立ってある、という言い方で、彼は過去の炎の一回性が忘却されていることを指摘した。しかし、その指摘は、原理的にいって、かえって現にいまある炎の一回性を忘却させる。それゆえ、技術の使用は、たしかに記憶の再現であるが、同時にどう転んでも忘却を生みもする。だから再びヒュポムネーシス（複製）にアナムネーシス（オリジナル）を先立たせねばならない。たとえばスティグレールは、別の本で、ソクラテスが少年奴隷に幾何学の問題を解かせる際の身ぶりに注目している。というのも、ソクラテスは、《想起》を示す際に、砂の上に図形を〈書く〉からである。ここに、彼は声に先立つ文字＝技術の優位をみる。だが、わたしにとって重要なことは、それが〈砂の上〉に書かれたということである。声と文字は、媒体に対する定着性（空気の振動であってついに定着が困難なのか、それとも、紙や石版などに定着するのか）によって差異化される。現にある机などの表象よりも、いまここにない「机というもの」という《イデア》が重視されるプラトン哲学において、なんらかの図形が現在に定着した表象によって説明されることがあってはならない。その点で、図形を消し去ることのできる〈砂の上〉でなければならなかった。砂上に《痕跡》など残らないのはいうまでもない――というか、砂上とは、痕跡を残さないものの謂いである。現在を汚染する痕跡に対して、現在から遠ざかり消滅する声が、外在的記憶装置とされる文字に対して忘却が、ふたたび優位に立つのである。技術は、その前と後ろとをつねに忘却によって挟まれている。そのかぎりではじめて、記憶も技術もそれとして機能する。技術にとって、プロメテウスとエピメテウスは一体である。記憶を司る技術を、ひとは忘却なしに使用することができない。ソクラテス‐プラトンが指摘しようとしているのは、そのことであると考えなければならない。</p>
<p>してみると、問題は、内在的な記憶であるいわゆる《記憶》に対して、《技術》を《外在的な記憶》として立てるだけでは終わらないことがわかる。前者を《自然》と呼び、後者を《文化》と呼ぶことがあるが、両者を対立させているかぎり問題が解決しないのと同じことである。技術を記憶の側面から読み込みすぎるのはよくない。《記憶》と《技術》は、一次的か、二次的かという違いはあるにせよ、いずれも記憶であるが、しかも同時に忘却でもある。そのことのほうがずっと大きな問題である。オリジナル（もっとベンヤミン風に根源というべきか）にこだわるかぎり、完全に同じものの《再現》は、原理上、ありえないことである。つまり、その《再現》は、つねに差異を、つまり忘却を含んでいる。記憶は、忘却なしには成立しない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、上記の問題は、スティグレールを離れて次のように展開できる。忘却は、より積極的な言い方で、《想像力》と呼ぶことができる――そのため、記憶、忘却、想像の三つの様態は、なにかひとつの力を別の角度から論じたものにすぎないようにみえる、ということである。ひとは、まったくの《無》から、なんらかの表象を想像（創造）することなど絶対にできない。きわめて想像的な、まったく現実と乖離してみえる架空の表象であっても、それはつねに、よく知られている表象の対位法的な組み合わせの産物である。スフィンクスしかり、シレノスしかり、ドラゴンしかり……。ここに記憶が介在していない、ということはありえないし、当然、そうであるからには忘却も介在している。とくにここには、おそらくは意図的な忘却があって、忘却を悪意をもって使用しているかぎり、ファンシーなものにしかならないが、だからといって、かぎりなく学問的な見地から（つまり記憶に忠実に）表象の復原を目ざしたとしても、そこには少なからぬ忘却と想像とが紛れ込むだろう。したがって、それらの差異は、真（オリジナル）を目ざそうとする意志や態度にかかってくるし、そのかぎりでのみ、美は実現されると考えたほうがよいだろう。ともあれ、記憶・忘却・想像力は、結局はひとつのものであるし、学問と芸術は、むしろ一体であるべきものとして考えたほうがよいのではないか。</p>
<p>とするなら、疑問は次の点にある。なぜ、いかにして、そしてどのような権利でもって、カントは、感性と悟性とを分割したのか、ということである。感性には想像力が、悟性には記憶力（カテゴリー）が用意されている。この両者をひとつにすることが、《総合》であり、《認識cognitio》であるといわれる。しかも、カントにおいて、結局、想像力は記憶力に従属するのであり、総合はカテゴリーにもとづいて行なわれる、といわれる（だから認識はつねにre-cognitioである）。いずれにしても、総合が行なわれるというのなら、前もってその分割が、すなわち記憶力と想像力の分割が用意されていなければならない。しかし、この諸力を厳密に考えれば考えるほど、分割はますます不可能になっていく。はたして記憶力と想像力とは分割可能なのだろうか？　カントは、かの純粋悟性の〈演繹〉にどうやって成功したのだろうか？　カントの哲学に従う、とは、要するに、この分割を無条件に受け容れることではないのか？　演繹を命令と受けとることではないのか？　悟性などを立てるから、「考えることだけは可能な」ヌーメノンたる《物自体》などが必要になってしまうのではないのか？</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>オリンポス山を彩る主要な神々のうちのひとり、ポイボス・アポロンは、学問の神であると同時に、芸術の神でもあった。もちろん、二つの属性をもっていたのではない。フーコー風にいえば、たんに、古代において、それらを分割する知の規準（エピステーメー）がなかったということである。記憶の女神、ムネモシュネとゼウスの娘であるムーサの女神たちを主宰したのは彼である。九人のムーサの名をあげておこう。『神統記』によるなら、叙事詩を司るは第一等のカリオペ。歴史を司るクレイオ。抒情詩を司るエウテルペ。喜劇を司るタレイア。メルポメネは悲劇を司る。テルプシコラは合唱や舞踏を司り、エラトは独唱歌を司る。ポリュムニアは物語を、ウラニアは天文（占星術）を司る。学問と芸術が、記憶と想像が複雑に絡み合った古代世界。こうした古代世界に住まうプラトンたちが、《想起》を、たんに近代的な意味での「記憶」にまつわるものとだけみなしていたと考えるのは、困難である。ソクラテスにイデアを語らせるときでも、プラトンは、いつもそこに忘却を指摘している。かの『国家』は、忘却の逸話によって、終わることなく閉じられるのだ。彼らの忘却への配慮を感じないでいるのは、むずかしい。実際、まったく同じものの再現など不可能なのだから、ホメロスの歌う〈迫真の〉トロイア戦争を、ついには〈迫真にとどまる〉歴史学の語るトロイア戦争と区別するなど、できようはずもない。異なるスタイルがある、それによって別の姉妹があてがわれる、というだけのことである。</p>
<p>ともあれ、カントの演繹がたんに彼の命令であるなら、われわれは逆にそれに従わない権利もあるわけだ。しかし、近代において、悟性と感性とを分割するカントの議論は、あまりに説得的に響いた。芸術を都合よく排除し、というかむしろ芸術学科のなかに閉じ込めてしまった今日の学問の姿勢をみるかぎり、カントの議論は時代に対するそれなりの正当性をもっていたのだろう。芸術からその母たる記憶の力（ムネモシュネ）を奪い、想像力の世界に押し込めた今日の芸術において、程度の低い対位法を駆使した架空の表象が溢れかえるばかりである。文学だけが、学問の世界にも身を置くことを許されたが、「終焉」という言葉で虐殺をはかる連中によって、息の根を止められかかっている。</p>
<p>カント哲学にここまでの制覇を可能にしたのは、近代の技術――活字印刷術と、製紙技術である（だからいたずらにカントを責めるべきではない、カントにはもっと別の課題があった）。さらに相次いで生まれたカメラや映写機などの記録技術は、おそらく、同じものの再現が可能であると、ひとに信じ込ませるにたるものだったのだろう。同じものの再現が可能であるなら、記憶力と想像力は、たやすく分割することができる。悟性の演繹など必要のないほどに、書き付けたとたんに言葉が現在に定着し、同じものを再現しつづける不可解な力をもった紙が、溢れかえっていたのである（ベンヤミンは、これを地獄の現在としてのモダンといった）。かくして、記憶と忘却は、対立するものとなる。カリオペたちと並んでムネモシュネの娘であった、歴史を司るクレイオは、気づけばほかの姉妹を追放し、母を独占するに至った。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>問題は技術だろうか？　むろん、ひとは技術をしっかりと握っていなければならない。だが、技術に対して過度に焦点をあわせるのもよくない。たしかに、悪い技術というものも存在する。とりわけ、それは《模倣の模倣》を司る技術である。すでに模倣されたものは、原理的にいって、そっくりそのまま模倣されうると、みなされてしまいやすいからである（プラトンがいった悪しき芸術はこうした技術にもとづくものであり、これらは、オリジナルへの意志を欠いたところに成立している）。とはいえ、技術を用いるのは人間だけではないし、だからそれを使用する側の問題のほうがはるかに大きいのはいうまでもないことである。おそらく技術それ自体は、《自然》に属する。そうでなくても、自然か人工かは決定材料に乏しいし、そこに問題の焦点をもっていくことに生産性があるとは思えない。かまどの炎――それは人工的な炎であろう――にも神の姿をみたヘラクレイトスは言った、「火を消すよりも、傲慢な心を先ず静めるべきだ」。先にみたように、技術にもまた、古代世界の思考同様に、忘却の力は生きていた（わたしはそのことを証明したと信じる）。問題は、技術に与えたひとの同意、すなわち技術とはもっぱら記憶のみを司るなどという、暗黙か自覚してかは知れぬあやしげな同意のほうなのではないだろうか。はたして、あなたの証明写真は、あなたと同じものを再現しているだろうか？　磁気テープやディスクに録音された声は、本当にあなたの声だろうか？　むしろ、これらの技術は、あなたの顔や声の表情や色彩を、つまり一連の変化そのものを、つまりただ一度かぎりの《出来事》を、撮（つか）もうとしているのではないのか？　技術もまた、忘却を――エピメテウスあるいはその娘のピュラを伴侶として、さらなる差異を加速させるものだと考えてはいけないのだろうか？</p>
<p>文字も同じことである。そこにあるのは、同じものの再現などではなく、日々変化する色彩に満ちた表情なのである（だからこそ、アートとしてのカメラがあると同様に歴史と小説が両立するのだ）。書くという行為には、表情の追究、《スタイル》の追究がなければ、かならず堕落する。事実だけを報道しようとする歴史は、結局は、同じものを伝え、すくなくとも同じものを伝えようとする「情報」へと堕落していく。そこには、《誰がそれを言っているのか》という視点は欠落しているし、欠落していることが望ましいとされる。技術がひとを追い越すにまかせ、生活が時間を実現するのではなく、生活のほうが時間を追いかけはじめる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>今日、歴史は想像力を欠いているし、芸術は記憶力を欠いている。なのに芸術は想像力のことばかり気にしているし、歴史は記憶のことばかり気にかけているというのは、空しいかぎりである。どちらか一方を唱えてもまるで無駄なことだ。かつて起こったことだけが繰り返される、プロメテウス的悲劇に捕えられた空しい事実ばかりがあふれかえる今日にあって、なにより欠けているのは、〈忘却〉なのだ……。</p>
<p><a name="n01"></a></p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01">(1)</a> ベンヤミンの「複製技術時代の芸術作品」（1935-6）におけるアウラの議論はことのほか有名だが、ここでは、この概念はまだそこまで深まりを見せていないように思われる。というのも、ベンヤミンの議論に忠実にこの概念を延長するなら、おそらくアウラは思い返されると同時に忘れられねばならないものだからである。つまり、二つの態度が〈連続的に〉行なわれねばならない。そうでなければ、たとえば《星座》の概念が意味をなさなくなる。</li>
</ul>
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		<title>神に肉を与える―パーン・ホ・メガス・テトウネーケII</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Sep 2009 14:55:34 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[God is dead]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Prometheus and Epimetheus]]></category>
		<category><![CDATA[swift Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[The wounded Aphrodite]]></category>
		<category><![CDATA[ディオニュシオス・アレオパギタ]]></category>
		<category><![CDATA[神に肉を与える]]></category>

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		<description><![CDATA[パウロの弟子ディオニュシオス・アレオパギタ、あるいはネオ・プラトニズムを信奉する人たちによって、神は肯定の世界から取り除かれ、否定の祭壇へと祭り上げられた。《神はいない》。存在の影としての神。この影が世界を覆い尽くしたと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>パウロの弟子ディオニュシオス・アレオパギタ、あるいはネオ・プラトニズムを信奉する人たちによって、神は肯定の世界から取り除かれ、否定の祭壇へと祭り上げられた。《神はいない》。存在の影としての神。この影が世界を覆い尽くしたとき、中世は始まる。己さえ知らない男、知覚を超えた男、そうであるがゆえに否定的言辞によってしか表現されえない男、そうした思考の実りなき結実としての《神》。</p>
<p>盲目的な信仰は神を不在にする。神はいないと語ることは当然として、神がいるかのように思いなすことも、盲目的な信仰も、すべてが神の不在に収束していく。そしてそれこそが、まさに肉体なき神の証なのだ。不在こそが、神の存在を証明する？　簡単なことだ。存在という語の意味を変えればよい。存在は、たかだか自然主義でしかないような実在とは異なる。nemo（none）であり、nihil（nothing）でもあるもの、それが場としての存在、すなわち神である。</p>
<p>宗教は、神から肉体を奪い去ることによって始まる。腐敗する肉が、神のものであるはずがない。神とは、「肉でないもの」としか表現しようのないものであり、肉の残余として玉座に君臨する精神、それが神である。なにもなき場所としての、ニヒルな祭壇、神の場所であると同時に、神そのもの。</p>
<p>ところで、他の民族にもましてギリシア人が興味深い点は、肉を欲し、肉体を持った者として神を描いたことである。全能のゼウスに精神ならぬ骨を、人間に肉を与える契約を結ばせたプロメテウスの神話が語っているのは、神が肉を欲するものとして描写されたということである。またイリアスにおいて、交戦中、アルゴスの将ディオメデスがアフロディテの腕を切りつけるシーンが描写されている。不思議なことに、神は、われわれと同じ肉体をもっている。</p>
<p>肉を欲するにもかかわらず、精神の代わりに骨を捧げられる神、槍に切りつけられる肉体をもった神。そして、地球上のありとあらゆる民族のなかで、ギリシア人だけが、聖典をもたず、文学をもった。それは、次のことを意味しているように思われる。宗教が、神から肉体を奪うことによって始まるのだとするなら、《文学は、神に肉体を与えることによって始まる》、と。</p>
<p>神を肯定するということ、そのことは、神に肉を与えることを意味する。いったい、肉とはなにか。時とともに腐臭を放つ肉、それが、物質の定義であるとするなら、肉とは、変容の謂いである。たとえば、さまざまに形を変える貨幣の流通は、それが物質であることを意味する。したがって、この変容の流れを遮り貨幣を退蔵することは、貨幣から肉を奪うことである。マルクスはこれをフェティシズムと呼んだ。ものから肉を奪うフェティシズムは、われわれがよく知っているように、別種の宗教である。物質や感情のはたらきを証明するのと同じ力強さで神を証明しようとしたデカルトやスピノザたちが開いた重い中世の扉を、資本主義は、半分だけ、閉ざすかのようだ。知の扉を開き、そして半分だけ閉ざすヘーゲルの思考が近代そのものを意味するのだとすれば、資本主義とヘーゲルとは、われわれが思っている以上にもっと親密なのだ。カントはどうか。彼の彫琢した物自体の概念、あるいは扉に鍵をかける者としてのカントは、むしろ、宗教に近づいているようにみえる。</p>
<p>だが、わたしは宗教よりも文学を愛する。わたしの知っている文学者は、神を肯定する。あるいは、神に肉を与える者、それこそが文学者である。あの足速きニーチェが「大いなる神は死せり」と語るのはこの地点である。肉なしに死を語ることができないように、死は、生の否定ではない。死もまた、生の肯定である。いったい、われわれは、いかなる肉を、いかなる超越を思考すべきなのか。それこそ、《文学》の取りくんできた、そして取りくむべき問いである。</p>
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		<title>希望について</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/57.html</link>
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		<pubDate>Mon, 25 Sep 2006 04:51:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Angel of History]]></category>
		<category><![CDATA[Benjamin]]></category>
		<category><![CDATA[Deukalion and Pyrrha]]></category>
		<category><![CDATA[Ovidius]]></category>
		<category><![CDATA[Prometheus and Epimetheus]]></category>
		<category><![CDATA[テミストクレス]]></category>
		<category><![CDATA[パンドラ]]></category>

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		<description><![CDATA[ニーチェは、どこかで、ギリシア人が「希望」にほとんど価値を与えていなかったことに注意を促している。そのことは、近代人には不可解なパンドラの神話にも明らかである。この神話のプロット――といっても、諸説あるストーリーを、いく [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ニーチェは、どこかで、ギリシア人が「希望」にほとんど価値を与えていなかったことに注意を促している。そのことは、近代人には不可解なパンドラの神話にも明らかである。この神話のプロット――といっても、諸説あるストーリーを、いくらか史的かつ哲学的なエッセンスを加えつつ、わたしなりに総合したものだが――を話す前に、登場人物に少しだけ注意を喚起しておこう。</p>
<p>この神話における重要な登場人物に、プロメテウスとエピメテウスという兄弟神がいる。古いギリシア語を文字通りに読めば、前者は“前もって知る者”であり、後者は“後から知る者”である。今日の日本でも、プロローグ（プロロゴス）やエピローグ（エピロゴス）という語は人口に膾炙しているし、また、メティスという知の女神（アテナの母にして、エロスの祖母）がいたことを想起しておくのも悪いことではないだろう。ともかく、プロ‐メテウスは、すべてを前もって承知しており、彼はゼウスとティターンの争いの勝者がいずれになるかも知っていれば、のちにゼウスから与えられることになる惨たらしい責め苦――すなわち、コーカサスの岩に縛り付けられ、一羽のはげ鷹に永久に自分の肝臓を給餌しつづけるという――をも、事前に承知していたのである。他方のエピ‐メテウスは、“後から知る者”である。すなわち、忘却の神である（後から知る、という契機がなければ、ひとは忘れていることにさえ気づかないからだ）。彼の名が明快に示している通り、忘却は、単なる無知とは違う。とはいえ、普通、彼はいかにも愚かな神として描かれる場合が多い。</p>
<p style="text-align: center;">◆</p>
<p>プロ‐メテウスは、土くれと雨水をこね合わせ「人間」を作り、そして彼らに火を与えた。また、神々に供物を捧げる際、肉を人間が食べ、骨をゼウスへ捧げるよう決め（させ）たのも、プロ‐メテウスである。このあたりのゼウスとプロ‐メテウスの痛快なやりとりはまたどこかで触れることもあるだろうが、パンドラの話に進もう。いずれにしてもプロ‐メテウスに反感を感じていたゼウスは、懲らしめのために、プロ‐メテウスお気に入りの人間に災厄をもたらすことを思いついた。すなわち、アフロディテの美とヘルメスの狡知を持つ、あの、「女」を作ったのである。個人的にはこの論理展開もにやりとさせられるのだが、いずれにしても、「女」――パンドラは、プロ‐メテウスの弟、エピ‐メテウスに花嫁として与えられた。</p>
<p>もちろん、プロ‐メテウスはゼウスの悪巧みを承知しているから、エピ‐メテウスに対してパンドラの動向に注意するよう、忠告を与えている。そしてもちろん、エピ‐メテウスはそんな忠告のことはきれいさっぱり忘れているから、パンドラの行動などおかまいなしである。そして悲劇は起こった――兄弟の家に代々伝わっていた甕――あらゆる災厄の詰まった甕の蓋を、あろうことかパンドラは開けてしまったのである。あらゆる災厄が人間世界にあふれ出した。かつて聞いたことのないような嘆きや怒号が耳をかすめ、大地を見晴るかす地中海の太陽をアスファルトのような暗雲が覆い隠した。オリュンポスの輝かしい絶巓さえ見えなくなった。突然あたりが暗くなり、エピ‐メテウスはふと何かを思い出した。つまり、誰かの忠告を忘れていたことに気づいた。いや、忠告だったかどうかも定かではない。胸騒ぎがして彼は奔馬のように帰路についた。そこには、口を開けた甕と、頬を涙で濡らす美しい女。神だろうか、人だろうか。そうだ、思いだした、彼女は人間だ。彼は、蓋の外れた甕をみて、血相を変えて甕にしがみついた。怒り狂う兄の姿が、彼の脳裏に浮かんだだろうか。それとも、兄のこともまだ忘れていたと考えるべきだろうか。いや、血相を変えたことも、家に帰ったことになにか因果性があるかどうかも、保証はできない。なにしろ彼は忘却の神だからだ。いずれにしても彼は、甕の底に何かが残っていることに気づいた――すなわち、《希望》である。</p>
<p style="text-align: center;">◆</p>
<p>その甕に入っていたのは、今後、人間世界で生じることになる、あらゆる災厄である。痛風やリウマチ、争いや死、嫉妬や怨恨、そして希望である。もちろん、わたしたち近代人は、どんなにつらく苦しい時でも、希望だけはなくならない、という辻褄合わせで、この神話を微温的に解釈するのが通例だが、どう考えても、ギリシア人にとって、《希望》は「女」同様、災厄のひとつである。</p>
<p>つまり、こう解釈すべきなのだ。運命があらゆる人間の死を宣告しているにもかかわらず、この忘却の神が残した《希望》のせいで、人間は、悲劇的な生を歩まねばならなくなったのである。したがって、エピ‐メテウス同様、蒙昧とは言わぬまでも、《希望》は、ほとんど無知に近いネガティヴな言葉である。</p>
<p style="text-align: center;">◆</p>
<p>歴史において、すべては、あらかじめ定められた運命に従う。歴史において偶然は存在しない、というのは本当である。ひとが過去を振り返るとき、すべてが必然であったことを知るだろう。中国大陸でひそやかに行なわれた小さな蝶の皇かなはばたきが、アメリカ大陸で巨大で寧猛なハリケーンになることも、結果としては起こりうる。雨の天気予報が外れたとしても、それは天気予報が外れたのであって、偶々だということはできない。後から考えれば、実際には晴れると予報すべきだったということになる。歴史において、偶然は存在しないのだ。ただし、人間がそのことを知るのは、やはり後から、すなわち反省においてである。現在は、すべてを偶然の相に見せるが、それは、すべての因果関係を忘却しているがゆえにであり、そうした忘却から発するのが、《希望》なのである。</p>
<p>この《希望》のゆえに、人間は反省を忘れて、後悔する。今わの際で、「後の祭り」を嫌というほど味わわされる。あのときこうしていれば、わたしは自由だったのに。どうしてわたしは《希望》してしまったのか。カントが言うように、人間はいつも、自由の存在を後から知る。過去を振り返り、反省する。すなわち、自己嫌悪＝歴史に塗れる。そして死ぬとわかっているのに、《希望》し、生きてしまう。まるで、《希望》はむしろ、歴史と死とを繋ぐ一種の蝶番か何かのようだ。</p>
<p style="text-align: center;">◆</p>
<p>わたしが気に入っている歴史的エピソードがある。それは紀元前五世紀のアテネで起こったことだが、近代の歴史家に、長く信じられてこなかったエピソードである。すなわち、第二次ペルシア戦争時にとった、アテネの将軍、テミストクレスの作戦である。いや、作戦と言うべきではないかもしれない。というのも、この「作戦」は常軌を逸しているからだ。</p>
<p>俗にサラミスの海戦と呼ばれるこの戦闘において、テミストクレスの採った「作戦」はこうだ。女、子供、老人はすべて同盟市に退去させる。そして戦える男たちは、みな海上へ出る。要するに、自分たちの住んでいた土地を、完全に放棄したのである。ペルシア帝国の大軍がギリシア最強のスパルタ軍を破るなどの戦勝を重ねて、大挙アテネに進軍する。だが、勝ち誇るクセルクセスが見たのは、無人の都市である。彼は勝ったと思っただろう。目標としていた都市を占領したのだから。スーサからアテネまで、長い長い行軍の日々は終わる。目標は達成されたのだ。ペルシア軍は高笑いにアテネの広場を軍靴の底で踏みつけにした。だが、そんな高笑いも、すぐに空しい響きに変わる。貧しいアテネを占領したところで、一体、何になるというのだ？　やっと掴んだ拳が握り締めていたのは、おのれの汗と、吐く息だけ。結局、彼らは敵を求めて、すなわち充実した勝利を求めて、狭いサラミス湾に出ることになる。……</p>
<p>わたしはこのエピソードが痛快でならない。本当に腹を抱えて笑いたいくらいだ。彼我の差は絶望的である。世界の富を集め、巨象のように地上を闊歩する文明国ペルシアと、片田舎に住み、そのほとんどの時間を海上で過ごしている小さな蛙のごときアテネ。おそらく、アメリカとイラクの差の比ですらないだろう。ほとんどの都市が、ペルシア側についた。唯一ヘラス側に残った頼みのスパルタも、もはやない。この絶望的な差が、アテネ人をしてこのような「作戦」に踏み切らせたのだ。もちろん、海戦で勝てる保証があるわけではない。勝てるだって？　もう勝敗は決している。ゲーム盤の上では、ペルシア人の勝利なのだ。あとは、ギリシア人が逃げる番である。逃げることに何の躊躇があろう？　敗北したら、逃げると、相場が決まっているではないか。とはいえ、一目散に逃げる必要もない。妻子は遠く同盟市にあり、男たちは、進むも退くも、自由だからだ。逃げる前に一泡吹かせたってよいのである。彼らは海の民だ。気が向いたときに、群島のあいだを縫って逃げればいいだけだ。逃げるときくらい、こちらの逃げたいときに逃げさせてもらう。</p>
<p style="text-align: center;">◆</p>
<p>近代人は、この事蹟を伝える碑文が発見されるまで、これが「作戦」であると、信用しようとはしなかった。そもそも、アテネを占領された時点で、負けではないか。ペルシア人同様、大地に縛られた文明人である近代人は、これが「作戦」であることを理解できない。だから、彼らは、この「作戦」を、「作戦」ではなく、逃走であると理解した。つまり、なにかひどい混乱の内に逃走状態になり、軍をまとめて引き返したテミストクレスによって、追跡してきたペルシア軍が奇跡的に打ち破られたのだ、と。だが、碑文が発見されるや、近代人は今度は手のひらを返したように、アテネを守った策略として、この作戦を称賛し始めるだろう。</p>
<p>わたしは、どちらも間違っていると考える。前者にはあれは「作戦」だと言うが、後者には、あんなもの「作戦」であるはずがないと言うだろう。要するに、彼らは土地を捨てて逃げたのであり、それもひどい混乱の内にではなく、テミストクレスに率いられて、粛々と逃げたのである。アテネを守る気などさらさらなかった。彼らはあまりにも鮮やかに負けた。その鮮やかさは、ひとりも死者を出さなかったほどなのであり、そればかりか、当の勝利者であるクセルクセスに、その勝利を気づかせなかったほどなのだ。彼らは、《希望》なんて、これっぽっちも考えなかった。完全に《絶望》していたからである。アテネはもう終わりであり、死んだのである。要するに、運命は死と決まっていたのであり、彼らは最初から逃げるつもりで戦ったのである。そもそも、ペルシア軍が都合よく海に出てくる可能性なんて、ほとんどなさそうなことではないか。</p>
<p>だが、テミストクレスは確信していたに違いない。そもそも、彼は《希望》などとは無縁なのだ。だから、ペルシア軍が「都合よく海に出てくる可能性」なんて、まったく考えなかった。つまり、彼は、「必ず海に出てくる」と確信していたのである。希望などという非‐知性的なものには一切頼らなかった。彼は、ついに、アテネの滅亡という《絶望》に至るまで、考え抜いたのである。</p>
<p style="text-align: center;">◆</p>
<p>この抱腹絶倒のエピソードは、じつは、《絶望》が、きわめて知的なものであることを教えてくれている。すべてを前もって知る者、プロ‐メテウス。彼がそのような属性を持っている限り、結局のところ、パンドラの神話は、プロ‐メテウスの《絶望》によって、最初から仕組まれていたと考えざるをえない。つまり、エピ‐メテウスの忘却は、はじめから織り込みずみだったはずであり、わざと、エピ‐メテウスの属性を、《忘れて》忠告したとしか考えられないのである。忘却は、知的な選択なのだ。</p>
<p>この言い方はきわめて逆説的なものになるので、いささか難解になるのを承知で言うが、すべては、プロ‐メテウスの《絶望》の支配下にある。だとするなら、痛風や怨恨といった災厄はおろか、《希望》もまた、《絶望》の産物なのだ。わたしたちは、つい、安易に《希望》を口にする。だから、盲目的に運命に付き従うことになる。そして、後悔を避けることができない。「あのときアテネを出ていれば、わたしは自由だったのに！」　そのような《希望》は、たしかに災厄であると言うべきだろう。わたしたちは、むしろ、《絶望》せねばならないのだ。《絶望》に至るまで考え抜くことによってのみ、わたしたちは、真の《希望》に至ることができる。テミストクレスが、アテネを捨てるまでに《絶望》したとき、はじめて、《希望》の光が差したように。</p>
<p>この地点までくれば、じつは、プロ‐メテウスがあえて《忘却》を選び取ったということ――エピ‐メテウスの兄に対する超越をみてとることすら可能だろう。《絶望》が善きものであり、そして《希望》が《絶望》の産物であるならば、《希望》もまた、“病”や“怨恨”、そして“生”や“女”同様に、つまりあらゆる災厄もまた、善きものであるはずなのだ。コーカサスの岩に縛り付けられている兄は、喜んで、弟に未来を託した。この兄弟のあいだに流れる深い絆や愛情を、わたしは感ぜずにはおれない。《希望》が善きものでありうるのは、それが《絶望》の産物である場合だけなのである。</p>
<p>だから、わたしたちは、《希望》はできるだけ遠ざけるようにしよう。《希望》は、甕の底に閉まったまま忘れておくくらいで、ちょうどよいのである。まずもって、わたしたちは、本当に《絶望》できるようにこころがけねばならない。</p>
<p style="text-align: center;">◆</p>
<p>ギリシア神話によれば、パンドラのエピソードの後、大地を狂乱が覆いつくし、ゼウスはついに大洪水を起して人類を死滅させようとする。だが、そこに一組の人間のカップルが残った。プロ‐メテウスの子、デウカリオンと、エピ‐メテウスの娘、ピュラである。荒廃した大地だけを残して仲間を失い、涙に濡れ、悲しみに打ちひしがれる彼らに、ひとつの神託が降りた。「神殿を出でよ。頭をおおって、帯で結んだ衣を解くように。そして大いなる母の骨を背後に投げよ」（オウィディウス『変身物語』）。エピ‐メテウス――忘却の神の娘であり、美しく誠実な女、ピュラはいう、母親の魂を傷つけるなどできない、と。デウカリオンは、「大いなる母」を「大地」と、そして「骨」を「石」と解釈することで、ピュラに決断を促そうとする。だが、彼女は、いずれにせよ、それらが母親の魂を傷つけることになるということを、知っていたようである。結局、彼らは、絶望のうちに神託を実践する。というよりも、その行為自体が絶望そのものを表わしているのである。捨てられた母の骨は次第に肉や血管をまとい始め、ついには人間の姿となり、かくして、彼らはそれ以後生まれた人間の父母になった。彼らは、あえて母の記憶――歴史――を捨て去ることで、人間に別の未来を与えたのだ。わたしたちは、だから、記憶と忘却の子なのである。</p>
<p>ベンヤミンの語る歴史の天使が過去の廃墟を見つめ、後ろ向きに未来に飛ばされるのと同様、彼らは後ろ向きに過去を投げ捨てることで、未来の人間を生み出す。彼らは、絶望的な荒廃だけを目の当たりにした。したがって、未来など見えるはずもなかったし、未来を見ることなどできない以上、当然《希望》もなかったのである。彼らにできるのは、《絶望》に至るまで過去を見つめることだけだったのである。本当に《絶望》したとき、ひとは、忘却を選択する。この忘却こそが、真の意味での、つまりより善き、《希望》である。記憶と忘却の結婚、絶望と希望の結婚、これが、人間である。</p>
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		<title>アンチ・カンティアニズムIV――世界理性</title>
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		<pubDate>Wed, 02 Aug 2006 02:51:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>世界は、今も、ストア派のひとたちや、カントの言った「世界共和国」に向かってまい進している。世界は可能なかぎり最善の秩序において構成されている。世界理性というものがあるとすれば――それは、すべてを《緩慢に》焼き尽くす炎だ。世界で起こることのすべてをあらかじめ知っている、あのプロメテウスが人間に与えた、《炎》こそ、人間のすべての権利の源なのだ。世界理性、それはすべてを知っている。世界で起きたあらゆる出来事を理解しているばかりか、世界理性は、むしろ真実そのもの、出来事そのものなのである。</p>
<p>とはいえ――世界理性、すなわち炎が焼き尽くす「すべて」とは、まさに、そうした思考（「すべて」であるとか、「つねに」であるとか、「必ず」であるとか、そういう思考）そのもののことである。もちろん、世界理性は、「すべて」をたちどころに燃やし尽くすのではない。緩慢に、ゆっくりと、である。「すべて」を緩慢に焼き尽くす炎こそが、理性の真の働きである。この緩慢さは、とにかく人々に時間と空間の観念をもたらした。炎の権利をわたしたちに与えた、すべてを事前に知っている巨人プロメテウスは、同時に、即死を猶予する時間をも与えたのである。以来、わたしたちは、この世界理性に対する受動的主体として生を受けた。世界によって、わたしたちは、動かされている。生きとし生けるもの、すべての存在が、この世界によって、動かされているのだ。人々がそれを知った時、きっと顔を見合わせてげらげら笑うだろう。それは、これ以上ないほどに民主的な真理だからだ。王であれ、貴族であれ、ブルジョワであれ、すべての人間が、この世界理性によって、動かされている。</p>
<p>精神とは、じつのところ、呼吸である。誰もが知っていて、そして誰もが行なっている、あの呼吸である。呼吸は、あの世界理性の緩慢な炎のように、ゆっくりと、精神そのものを燃焼させる。わたしたちが母親の胎内からこの世に生まれ出た時にはじめて吸ったあの息、それが、わたしたちの精神の正体である。そのとき、わたしたちの体内に入り込んだ小さな炎――しかし世界のすべての出来事を網羅しているこの小さな炎――は、わたしたちと混じり合い、「まず中心から始まって末端に達し、それから、それが隅々にまでいきわたってある限界に達したとき、回れ右して自己自身に帰ってくる」。この巨大な伸縮運動こそが、精神に、時間と空間の観念を与えたのである。以来、精神はささやく。伸縮運動が可能であるのは、時間と空間があるからだ、と。さらにささやく、伸縮運動は、時間と空間のつづくかぎり、可能である、と。こうして、わたしたちは、経験と呼ばれるものすべてを、理性で挟撃し、わたしたちを苛む経験の鋭い棘を抜き取った。</p>
<p>わたしたちは、目的なしに行動することはできない。できたとしても――すぐに疲れてしまうだろう。消耗と疲労が、この目的なしの行動によって与えられるわずかばかりの贈り物だ。シーシュポスがいまも地獄の底で味わっている、あの苦々しい「無益」の責め苦に耐えることができるのは、なにより、彼が、地獄から抜け出そうという目的をもっているからなのである。彼は「然り」とつぶやいて、唯々諾々と背中を丸めて、険しい坂を登り続けるのだ。地上の光を目指して、自分の吐き出した息を吸い続けるのだ。自分の吐き出した息を再び吸い込むこと――これが、目的と呼ばれているものの正体だ。この目的を、ひとまず、統整的（超越論的）理念と呼ぼう。</p>
<p>しかし、理性の炎がもたらしたはずの目的を、炎は、自ら焼き尽くしてしまうだろう。なぜなら、理性の炎は、「すべて」を焼き尽くすからである。統整的・超越論的理念は、ついに燃え尽きるのだ。最後に残るのは、希望ではない。灰が残る。あるいは、希望とは、灰である。目的を失った精神は、行き場を失って揮発してしまうだろう。彼は、このときはじめて、たんに行動する。あの、悪夢のように重く固い岩を押すのをやめて、地獄に落ちたコリントの王は、ふっと、ひと息つくのだ。彼は、かつて、はじめて吸ったあの呼吸を、ここで反復する。目的などなかった、彼はただ、呼吸したのだ。いったい、なんのために、長くこの岩を押していたのだろうか。その問いこそ無益だった。彼は、目的のことなど、もう忘れてしまっていた。目的はもはや忘却の海底に沈潜して見えなくなった。もう、彼は岩を押すのをすっかり止めてしまっていた。彼は疲労しきっていたはずの身体のことなど忘れて、ああ、なんなら、あの岩を押してみせてもいいとさえ、言うだろう。彼は、そのとき、いったい何を見たであろうか。</p>
<p>岩を押すのをやめたシーシュポスが地獄の底で見たものは、おそらく、「世界共和国」であった。けっしてたどりつけぬ大地を目指して、血を吐きながら飛びつづけた、あの鳥たちの悲しく高らかな歌声は、もう、やんでいたに違いない。心の底から湧き上がる美しい静寂と、歌うように笑う鳥たちの朗らかな舞踏が、彼の周囲を巡っていたに違いない。「すべて」は燃え尽きた。時間や空間は、あの、呼吸が行なう伸縮運動とひとつになった。時間や空間は、呼吸の一部であった。理性はついに、実践されたのである。</p>
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