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	<title>ex-signe &#187; Freud</title>
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		<title>皮膚としての国家――独白は可能か？（カント・フロイト・デリダ）</title>
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		<pubDate>Sat, 28 May 2011 18:00:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
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		<category><![CDATA[Kant]]></category>

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		<description><![CDATA[独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわされる会話だろうと、ある種の公共性を欠いたお喋りであるなら、それは独り言と同じなのだ。だが、その場合、「社会」をどのように定義するかによって得られる回答が変わってしまうという難点がある。とりわけ「社会」は、論者によって使用法が異なるきわめて多様な概念である。この難点を避けたいのであれば、独白、すなわちひとりで語ること、という用語に内在的な意味内容に即して、この状態がどのようなものかを考えていかねばならない。またこうした考え方のもうひとつの難点は、この定義によって生じる独白には、まったく価値が認められない点である。社会的に認められないような言葉は、当然価値がない。したがって、そもそも独白について考察を巡らせることに積極的な意義が見出せなくなってしまう。</p>
<p>さて、独白について思考を巡らせるとき、思い至るのは、この相手のいない言葉には偽がありえないということ、したがって偽と対称的な真もまたありえないということである。真か偽を判断する他人が存在しないからである。独り言で、自分を偽るひとはあまりいない。というか、偽るという観点そのものが出てこない。それはすべてが自分の考えの表明であって、嘘であるとか真理であるとかそういう判断や審判とは無縁の状態にある。</p>
<p>ふつう、自分を偽るのは他人と接するときである。内心疲れていても大丈夫と口にするとき。楽しいわけではないのに笑顔を作ってみせるとき。独り言にもかかわらず自分を偽るとすれば、それは意識的にせよ無意識的にせよ、おのれの言葉を聞く内なる他者が、おのれのなかにいるということである。また同様の観点から、自分の独り言を疑うときには、すでに話す自分とそれを疑う自分との対話がはじまっている。この告白者はおのれをひとつの人格に纏めきれずに、対話の状態に留め置かれている。この対話を独り言ということはできない。</p>
<p>そう考えると、独白はきわめて困難になる。多くの場合、ある時点での自分の独り言を、別の時点の自分が聞いているからである。ジャック・デリダのいわゆる「自分が―話すのを―聞く」、それはこうした状態についての優れた考察である。デリダは独り言とふつう考えられているもの、つまり偽であるとは考えられないような自己同一的なもののなかにさえ、差異を見出していく。それは話す自分と聞く自分の時間的差異によって規定されている。時間の最小単位である《刹那》を同じ存在が分け合うことはできず、《刹那》にしたがって存在はたえず分割されている。こうした差異を、時間的延長の意味を込めて、彼は《差延》と呼んでいる。</p>
<p>われわれは皮膚によって外界と隔てられている。皮膚の外に出た言葉は、どこかで折り返して耳から再び自分の体内に入ってくる。内と外を隔てると同時に繋いでいるこの皮膚が、独り言をほとんど不可能にしている原因である。思えばカントは内なる理性の世界と、外なる感性の世界を悟性によって区別していた。われわれの皮膚は、言葉にとっての悟性のはたらきを担っている。</p>
<p>皮膚としての悟性は、内からの刺激と外からの刺激を区別する。したがって、内（口）から外に向かって示された言葉は、外から内（耳）に向かってやってくるこの言葉を別のものとして把握する。皮膚は、もっぱらこれらの同じ言葉を区別するのであって、どちらが正しいかを判断するのではない。悟性からすれば、感性にせよ理性にせよ、一方が他方に優越するというわけではない。ただただ差異として区別される。悟性にとって、問題は外なる他者だけではない。内なる他者もまた問題である。</p>
<p>かつてなら、内なる精神世界の他者を神として超越させておけばよかった。あるいは精神世界の神を投影した物神を崇めていればよかった。神の超越を前提できぬ近代において、この手は使えない。しかしこのままでは分裂病を発症する。そこでひとまず理性に仮の高い地位を与える。それが、理性の《超越論的》といわれる状態である。超越論的理性は感覚によってはあらわれない神を仮象として悟性に提示する。悟性はただちにこれを感覚の世界にはありえないものとして否認するが、これを《超越論的に》に認める。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>皮膚によって、ひとは独白が不可能な場所につねに-すでに、投げ出されている。皮膚によって、ひとはつねに-すでに、他者とのコミュニケーションを強いられている。皮膚のおかげで、ひとは一人でありながら複数である。ひとりでいながら、共同体を形成する。つまり、悟性としての皮膚こそ、近代における国家にほかならない。</p>
<p>皮膚としての国家は、分裂病をわずらっている。国家は、内側では内なる他者の声に耳を傾け、外側では外なる他者の声に耳を傾ける。二つの声が対立していたとしても、この国家にはせいぜい、いずれにせよ頷くことはできても、面と向かって反対することはできない。この国家は、誰に対しても本音を隠しながら、相槌を打つことしかできない。彼は判断しない。区別する。彼は審判しない。認識する。《超越論的に》、内なる他者、すなわち国民の声を重要視する《ふり》をするが、外なる他者に対しても、同じような態度を取ることしかできない。かならずしも現実の外部そのものとはいえない、おのれの皮膚感覚のなかで、それを肯定する《ふり》をする。皮膚としての国家は、ついに本当のことをいうことができない。</p>
<p>皮膚とは、フロイトがいうように、外的な刺激の防衛機構である。皮膚という防衛機構をとおしてしか、外からの声が内に伝わることはない。また逆に、同じく皮膚としての防衛機構をとおしてしか、内からの声が外に伝わることもない。言葉はかならず媒介され、屈折する。</p>
<p>この国家は内に対して正直であれば外を裏切り、外に対して正直であれば内を裏切る。皮膚としての国家はいつも誰かの期待に応えようとして、誰かを裏切ってしまう。誰かを裏切ることなしに言葉を口にすることができず、嘘を吐きつづけるか沈黙するかの二者択一しか、彼には残されていない。</p>
<p>皮膚としての国家は防衛する。内部を守るために、あるいは外部を守るために、彼は嘘を吐きつづけ、それができなければ、やはりそのいずれかを守るために、沈黙する。皮膚は独白を憎んでいる。真偽の問いから離れたところで語られるという独白など、どうしようもないロマンティシズムに思え、独白に他者の存在を気づかせたがっている。言葉は本質的に嘘であることを教えたがっている。赤裸な他者を互いから隠すためにそれを嘘で塗り固めるか、あるいは沈黙によって覆い隠す。内部を防衛し、外部に取り繕うための嘘を手放すことはできなくなっている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>皮膚は独白を憎んでいる。独白が不可能なことを、独白は知らないからである。われわれは独白とはなにかと問うた。そこで独白は無価値であるか、それとも不可能であるかの、二つに一つだった。しかしわれわれは、いかにして価値であるような独白が可能なのかと問わねばならなかった。</p>
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		<title>ポストモダニストたち（２）――ヴァルター・ベンヤミン</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/1957.html</link>
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		<pubDate>Fri, 22 Jan 2010 20:30:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[aeon]]></category>
		<category><![CDATA[Angel of History]]></category>
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		<description><![CDATA[ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つまり武器を与えらたように思う。神秘主義ともいわれる彼のスタイルが、歴史を探究するに際していかに正当性をもっているか、ということを説明するのは、骨の折れる仕事である。思えば、一九世紀の実証主義者たちは、おぼろげで程度に差はあれ、正しくそのことを指摘していたものだった（打ち明け話をしておけば、ニーブールやミシュレといった一九世紀の実証史家を、昔はそれなりに愛していた。モムゼンなどよく読んだものだ）。いささか迂遠になるかもしれないが、記憶と忘却をテーマに、すこし込み入った話をしよう。ベンヤミンを読む際の序論になれば幸いであるが、本当のベンヤミン読みには、必要のない代物であるかもしれない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>かつて《記憶》は、イデアあるいはロゴスと呼ばれ、われわれの知の玉座に君臨していた。日々感覚してはいてもまったく秩序だっていない諸々の経験は、たんなる無価値の差異として与えられるだけである。それを秩序だったものとするのが、ロゴスであり、プラトンの言葉でより厳密にいえばイデアにほかならない。それは、ひとが《生まれながらにしてもっている記憶》である。ひとが、経験においては互いに異なる無数の諸個人を、《人間》と識別できるのは、ひとが前世から受け継いでいる《人間のイデア》を分有しているからである。ソクラテスによるなら、知の探究とは、こうした記憶を適切に《想起（アナムネーシス）》することと定義される。</p>
<p>輪廻転生を前提とする古代世界において、記憶が玉座に君臨するためには、逆説的なことだが、忘却が存在しなければならなかった。忘却なくして《想起》は不可能だからである（むろん、記憶することなしに忘却することも不可能である）。したがって、ソクラテスにおいて、忘却は、人間の条件である。冥界をさまよい帰還したエルの物語によって、ソクラテスが示唆しようとしているのは、世界の起源や終末には、たえず忘却が存在していることである。千年の賞罰期間を経てひとが現世に帰還するとき、かならず、一木一草さえ生えない焼けつくレーテーの野に流れる放念の河の水を飲む。この忘却があるからこそ、生は生を再生させることができる。したがって、ここに真の意味での滅びはない（「このようにして、グラウコンよ、物語は救われたのであり、滅びはしなかったのだ……」）。というよりも、滅びとは、この忘却の謂いであって、無を意味しない。一種の真空を意味する。また忘却は、イデアを可能にするために、必要とされる（「われわれは《忘却の河》をつつがなく渡って、魂を汚さずにすむことだろう……」）。だから起源（オリジナリティ）を可能にするのも、この忘却である。したがって、イデアは、ヘラクレイトスとパルメニデスのあいだで思考される――すなわち動（差異）のなかの不動（同一性）を実現する《運動としてのイデア》は、忘却と記憶のあいだを移行するものである。そこには、つねに差異が孕まれていて、記憶のなかには、近代のひとびとが想像力と呼ぶものが、幾分か折りたたまれて共存している。記憶と忘却が一体である度合いは、そのまま、記憶力と想像力との一体性を示す。それらが一体のものである以上、イデアの運動は、同一性の運動ではなく、類似性の運動でもある。</p>
<p>行為としての忘却とは、行為がかつてもっていた意味（意識）を捨て去ることである。だが、それによってのみ、行為は行為となることができる（忘却がなければ、それはつねに‐すでに、行為というより再認リコグニションである）。その行為は、行為であるがゆえに、ふたたび意味を回復する、すなわち記憶となる。したがって、はじまりには、たえず言葉が、しかも意味（対象）を失った言葉――《嘘》（構造主義の言葉でいえば、「浮遊するシニフィアン」）が存在する。これがしばらくして意味を回復すると信じられるかぎりで、予言と呼ばれ知と呼ばれる。神託を授ける知の神アポロンが遠矢の神と呼ばれた所以もここにあるし、ニーチェがアポロンをディオニュソスの遅延だと呼んだ理由もある。アポロンの遠矢が描く痕跡をたどっているかぎり、それは意味に先行されており、したがって、ひとは行為することができない。オイディプスが、父を殺し母と寝た、と言いうるとすれば、彼が神託を忘却していたかぎりであって、神託を記憶していたのなら、彼が行為したのではなく、アポロンの指令にしたがっただけである。つまり、オイディプスという主語に父殺しと母との同衾を可能にするのも忘却だが、この神託から逃れることを可能にするのもまた忘却なのである。したがって、記憶と同様、忘却には、積極的なものと消極的なものの二つがあるが、記憶が行為を批判する（押し止める）という点において、消極的な積極性を有する場合があるのに対し、忘却は（善かれ悪しかれ）ひとに行為を促すものである<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>中世にいたっても、《記憶》は依然として、知の玉座に君臨している。神は記憶に住まう。アウグスティヌスが、神を自身の「広大無辺の」記憶のうちに探したのは有名な話だが、ひとは、神のロゴス、とりわけ天国と地獄のイメージを、《生来の記憶》として分有していると考えられた。そして天国と地獄の記憶痕跡が消えてしまわないように、たえずそれを補強しておくことが推奨された。「輪廻」（反復）のイメージを棄て、その代わりに「進歩procursus」（一回性）のイメージを選んだ中世において、忘却は不必要なものとなる。そこには、明確な起源と終末がある。起源と終末が忘却のうちにあるなどということはない。聖書に書かれたとおり、それらは神の記憶そのものである。ひとは、かつては自身が保有していた忘却を、神の記憶に預けてしまったのである。ソクラテスは、ヘルメス＝トトのもたらした《文字》を忘却の術に与するものとした。だが、中世において、文字はやはり、記憶の、それも神の記憶に与するものである。中世において、ヘルメス（・トリスメギストス）の重要性は測り知れない。なぜなら、世界とは、そのすべてが、神の記憶＝文字痕跡だったからである。</p>
<p>文字と、それを記憶する媒体がほとんど存在しない世界を想像してみよう。原理上、実証的な形で歴史的に証明することはできないが、記憶が知の玉座にあった前近代において、むしろ忘却はいたるところに転がっていたはずである。しかしそれらは、中世にはすべて神が、君主が、あるいは天が回収した。ひとはそれを《生来の記憶》と呼び、のちにフロイトによって《無意識》と呼ばれることになる概念に余地を与えていなかった。無意識の行為、すなわち忘却は、すべて神という主語が命じた行為であり、神の記憶の《再現》であった（フーコーのいう狂気の概念が、前近代には知の枠内に収まっていた理由はおそらくそこにある）。フロイトは、無意識は《時間》を超越しているといった。無意識において、記憶痕跡は、時間的秩序を有していないと考えられた。おそらくこの意見は正しいが、むしろそのゆえにおいてこそ、神の記憶は歴史を超越することができた。時間的秩序を逸脱しているということは、人間にとっては悪だが、逆に神においてはむしろ自由な能力を意味するからだ。これまで起こったこと、これから起こることすべてを事前に承知し、網羅する神の記憶において、歴史の価値はかえって極大に達している（前近代には「歴史」という観念は存在しなかった、などというべきではない）。なぜなら、人類の歴史はすべて神の記憶に委ねられているからであり、またそのかぎりで、歴史とは超越そのものを意味することになるからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、事態は一変する。記憶は、近代において、ロゴスという名の知の玉座を降りてしまう。記憶（理性）と経験（感性）の差異を忘却（＝神の記憶）によって解消することがあまりにも困難になったからである。経験的な事実が記憶を上回る事態が頻発したとしても、忘却は、それを解消するよき手立てのひとつでありえた。経験がいくら記憶を上回ったとしても、それを埋め合わせするに充分の忘却が用意されていたし、またそれを神の記憶と呼ぶことで、さらに増大させることもしてきた。だが、忘却の余地はどんどん縮小していく。《紙》などの媒体の大量生産のためである。この媒体の増大によって、かつては制限されてきた記憶容量が、理念上、無限大に達したと考えられる（活字技術だけで、紙が大量生産されないかぎり、この理念上の転換は起きない。紙なしには、依然として記憶領域は経済的に限定されているからである）。暗黙のうちに、《模倣ミメーシス》は、《複製》へと意味を変える。記憶とその想起は、自己同一的なものの《再現》に変わる。かつてはどのみち差異（＝忘却）を孕むことが前提されざるをえなかった模倣や想起から、注意深く、一分の隙も許さない厳密さで、差異が取り除かれていく。なぜ、文字には、《同じもの》の再現が可能なのだろうか？　それは、文字が対象を模倣するのではなく、対象が文字を模倣させるように仕向けるからである――アポロンの神託さながらに。というのも、文字を読むわれわれにとっては、文字こそが世界だからである。そしてもっと重要なことは、文字を読む近代的人間は、同時に文字を書きもするからである。文字から文字へ、声という生の世界を差し挟まない、死の運動――これが歴史である。したがって、かつて、たとえばキケロを想起することが、かならず忘却を伴って行なわれたのに対し、近代における「キケロ」の想起は、同じ「キケロ」を再現representする〈とみなす〉。差異を実現してしまう想像力は、記憶力から分離する。想起の概念が致命的な変更を被るのである<sup><a name="p02" href="#n02">(2)</a></sup>。</p>
<p>この状況下で哲学を組み立てたのはカントである（カントやヘーゲルの登場は、ちょうど紙の大量生産が実現するのと軌を一にしている。この状況に対する時代の応答が彼らの哲学であった）。デカルトには、まだ、「良識ボンサンス」の観念が残っている。万人に分有されているというこの観念は、中世以来の「生来の記憶」に余地を与えていたし、そこから神の存在を証明することさえできた。しかし、カントにおいて、それは、たかだか「共通感官（常識）」を示すにすぎない。共同体という人間の外部から与えられたものにすぎず、先験的なものではけっしてない。カントは、内容を欠いた時空間以外のあらゆるアプリオリテートを、理性（ロゴス）から完全に排除したのである。</p>
<p>記憶の王朝がついに終わりを告げる。だが、ロゴスは、神（絶対者）や永遠（時間における無限）、宇宙（空間における無限）や自由（運命における無限）といった仮象をもたらすばかりであって、個別に限界づけられた記憶とは結びついていないし、記憶に相反する蛮勇さえも慎まない。たしかに、記憶は理性という頂点から没落した。ただし、理性はそれによって《形骸化》したのであり、もはやロゴス＝言葉という呼び名は適切ではなくなる。下野した記憶に、カントは特別な場所を用意していた。《悟性》である。悟性を打ち立てるためには、想像力と記憶力の分割が、自然に受け容れられる状況が用意されていなければならない。かつては一体のものであったそれらが、分割されるということ。それは、同じものを再現する力である記憶力と、差異が孕まれざるをえない想像力とが、別々の力であるという、それまでとは異なる知の規準が生まれていることを示す。そして悟性に蓄えられたカテゴリー（記憶）は、感性が想像力によって与える表象を従属させ、これを総合するとさえいわれることになる（Einbildungskraftにせよ、Imaginationにせよ、訳語の問題なので慎重さが必要だが、ふつうにカントを読むかぎり、感性と悟性を最終的に総合するのは記憶力（カテゴリー）の側であって、想像力ではない。感性に端を発する想像力がつねに‐すでにカテゴリーに従属しているのでないかぎり、コペルニクス的転回が成立しない<sup><a name="p03" href="#n03">(3)</a></sup>）。</p>
<p>したがって、じつは悟性を発祥地とする（か、あるいは最終到着地とする）「共通感官」の重要性は、結局はいや増すことになる。無手勝手な差異をもつ諸々の表象を総合（＝認識）するのは悟性である。外部からの経験を蓄積する記憶層をなす悟性は、架空の感官である（というのは、そう考えないと悟性など必要ないからである）「共通感官」を作りあげる。これをあえて「感官」と呼ぶのは、光や音など、ほかの感覚と同じように、外からやってくるからであり、理性（身体内部）に淵源するのではないからである。また、これが架空であるといわれることのもうひとつの理由は、複数形の人間――たとえば人類であるとか、国民であるとか――においてはじめて、保持していると〈みなせる〉ものだからである。感官はもちろん感性を宿しているが、共通感官の居場所は悟性である。</p>
<p>共通感官は、いったいどのような形でやってくるのか。《歴史》である。かつて、自身の内側に、《忘却》として、あるいは《生来の記憶》として探究された《起源》は、今度は、身体の外側において探究されることになる。先述したように、ソクラテスは、文字を忘却の術と言っていた。というのも、人間にしっかりそれとして意識されていないというかぎりでは、身体内部の忘却であろうと、その外部にある文字であろうと同じことだからである（ソクラテスにとって、内か外かは重要ではなく、問題は境界線上で行なわれるドラマの方なのである）。かつては、神の記憶であるがゆえに極大の力をもっていた歴史は、その力を半分失う。だが、そのおかげで、人間のものになり、それゆえ逆説的に、正真正銘の歴史となる。そして、忘却のうちにしか行なわれえなかった《行為》の主語を、歴史に取って代わらせる。歴史は忘却ではない。神の記憶ではないとしても、すくなくとも、《人類の記憶》である。しかも、文字から文字へ、すなわち「キケロ」からキケロではなく、「キケロ」から「キケロ」へ、《完全な再現》を夢想させるものである。</p>
<p>内なる神という主語を失った精神は、外部にその《起源》を求めた。それが歴史である。しかし、おかげで、内部には空洞が広がることにもなった。中世には《生来の記憶》という名で呼ばれたその場所、その亀裂が、ふたたび古代同様に《忘却》として光を浴びる可能性が、生まれていたのである。そのことを発見し、明確に示したのはプルーストである。ベンヤミンが「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」のなかで注目し、高く評価した《無意志的記憶（メモワール・アンヴォロンテール）》は、端的に忘却のことである。この忘却の領土こそが、文学者の新たなる大陸なのである。だが、それは、しばらくすれば、時代精神によって、そして「無意識」によって、埋められてしまう。想起と記憶とを（あえて？）区別しない精神分析は、忘却に時間的秩序を与え、古代以来、ようやく内部に回復された忘却の領土を奪い取ろうとするだろう。外部の忘却は歴史によって、内部の忘却は精神分析によって奪われる。忘却、それはむしろあなたの精神だと、彼らはいう。ひとは《父》に、《過去》にその主語を預けてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>これが、ニーチェのいう「歴史病」（『反時代的考察』）である。本来、時間は、ひとの生に従って生じるものである。生の消滅速度、それこそが、時間である。生があり、そのあとで、それは歴史となる。この順序は覆すべきものではない。だが、歴史は、この「時間」を追い越そうとする。過去は、あなたを先んじて存在していると、歴史はいう。資本主義社会において、あらゆる技術革新が時間を追い越すための技術であるように、歴史もまた、このもっとも健全な、もっとも自然な「時間」を追い越すための努力である。過ぎ去る時間を、幸福を「いまここ」につなぎとめ、インデックスをつけて保存しておくことこそ、歴史と科学技術が結託して行なう不健全な目標なのである。その点では、歴史病は、一九世紀や二〇世紀にだけあったのではない。今日はもっと深刻な状況となっている。あまりに大量に生産される《古文書（アーカイヴズ）》に対して、もはやかつての歴史家が苦労して行なった時間的秩序をもたらす時間さえ惜しいのである。その厖大さは、機能的かつ合理的な方法で、たんなるＩＤの意味しかもっていない年代記号のもとに秩序付けられ、「情報」として処理されるほかないというところまで、ひとを追い詰めていく。「情報」から「情報」へ、すべては「情報」である。すべては、かつて模倣されたものの模倣でしかない。この歴史病の狂熱は、現実の歴史家さえ無用にするほどに、激烈である。たんに歴史を知らないひとびと（わたしも、というかすべての人間はどちらかといわれればそちらに属す）に《忘却》のレッテルを貼るほどに、この病は倣岸である。</p>
<p>歴史は、それが歴史であるかぎり必然的に、ひとの生や行為を奪い、法則を再認する実験結果だとみなす。そこでは、アポロンの遠矢がもたらす神託よりも、はるか先を歴史が生を追い越している。われわれの生があり、そしてそれが事後的に歴史となる、というあの単純さ、「生と歴史のあの関係のすべての明晰さ、すべての自然さと純粋さ」は失われている。歴史はいう、その行為は、すでに行なわれたものである、と。人間のあらゆる行為が、すでに起こったことの再認である。なにしろ歴史は、起こったことにしか注目しない。歴史が夢想する無限の「いまここ」は、過去に先立たれ、頭を押さえつけられることによって、可能となる。われわれは、《起源》を歴史に預け、われわれ自身の生産力を、オリジナリティを奪うに任せる。歴史は、原理上、かならず生を歴史に従属させる。文字から文字へ、同じものの反復を可能にする歴史は、同時に充実した差異をなす生を《学》にそぐわぬ劣ったものとみなしている。したがって、歴史を生に奉仕させるためには、かならず反歴史的なもの――《忘却》と、超歴史的なもの――《芸術》とが必要とされている、とニーチェは言った。いずれも積極的な《忘却》である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>われわれの行為が、《生》が、ドラマが演じられ、それがそのあとで歴史となる、という、ニーチェのいう健全さは、炎のまえに灰が、傷よりまえに痕跡が存在しえないのと同じほどにたしかなことだが、しかし、よくよく考えてみると奇妙なことである。というのも、それはひとが思っているのとは異なる不思議な時間概念によってしか可能にならないからだ。この時間概念上で、歴史は、かならず、現在の〈あとで〉過去になる。そしてその過去は現在よりも未来にある。このもっとも健全な、しかし不思議な時間概念にもとづくかぎり、われわれより以前には、なにひとつ歴史など存在していない。われわれの現在はつねに新しい。過去に汚染などされていない。ここで、カントのコペルニクス的転回は、さらに一段上の転回を遂げる。というのも、認識に対象が従属するか否かとは関係なく、われわれのうちに痕跡を残す対象そのものが、そもそも存在していないからである。すでに消え去っているかぎり、〈すべては仮象である〉。したがって、カントのいうような現象は、じつは、痕跡（灰）が傷（炎）を追い越すと考えるかぎりでしか発生しない。そして、同じものの反復を、すなわちrepresentationを可能にするのが、痕跡であり、文字であり、この痕跡に依存するかぎりでしか、カントのコペルニクス的転回は正当性をもたない。</p>
<p>ベンヤミンの固有の歴史哲学は、ニーチェとともに、ここにおいて始まる。《模倣》から《複製》へ、《想起》から《再現》へ。アウラ（一回性）を喪失させる主題の変動のなかで、アウラ同様に失われたかにみえる《忘却》は、どう転んでも結局は奪回されなければならない。だが、それはどのようにして？　歴史病に犯されたわれわれには、もはや超越論などと悠長なことをいっていることはできない。歴史は、実際にわれわれを超越しているからだ。歴史そのものが超越〈論〉的な仮象、理念だとするなら、われわれが健全にも歴史を追い越すためには、もっとシンプルな《超越》が必要なのである（ラッセルの健康さが指摘するように、嘘つきのパラドックスに直面して逃げ場のない懐疑に陥ったなら、そこにレベル（階型理論）を導入するのがもっとも簡単な脱出方法である――ゲーデルにしたがうかぎり、内在的な乗り越え（＝超越論）の不可能は証明されている）。したがって、問題は、いかなる超越を選ぶのか、である。すなわち、他の屈強な身体にそれを求めるファシズムか、それとも、外といっても自身の弱い肉体にそれを求める超人か……。</p>
<p>ひとは、歴史から逃れるために、別種の歴史を必要としている。ベンヤミンのいう歴史は、あらゆる意味で過去の破壊であり、むしろ自然のままに跡形もなく消滅させることを欲している。消え去る時間のなかで一瞬だけ輝く星座を実現すること。ショーレムの『天使の挨拶』からの引用が示しているとおり、この新しい歴史において、「いまここ」の幸福など無縁である。</p>
<p><a name="n01"></a></p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01">(1)</a> プラトンの書物の重要性は、概念そのものではない。概念が繰り広げるドラマ（ここでは、イデアという概念がもつ忘却と記憶の運動）をしっかりと見定めることである。そうでなくては、プラトンがわざわざ対話編のスタイルでソクラテスを表現した意味がなくなってしまう。</li>
<li class="note"><a name="n02" href="#p02">(2)</a> 近代において、同じものを再現する記憶力と、オリジナルなものに差異を付け加える想像力とが分割される。その副次的な結果を述べると、芸術が《学》から分離する。というのも、かつてはムーサの女神のうちで一体であった記憶力と想像力とが、分割されるからである。フーコーが論じたように、知でもありえた狂気をこの《学》は病に代えたが、《学》から分離されたおかげで、芸術は、狂気としての知を保持することができた。しかし、もっぱら想像力・忘却の側に属する芸術は、同時に権力を失う。芸術が被っている二一世紀の惨状をみるかぎり、もとより忘却の側に属している芸術が必要としているのは、新たな想像力などではなしに、記憶力を回復することである。</li>
<li class="note"><a name="n03" href="#p03">(3)</a> このところ、「感性と悟性とは、想像力によってしか総合されない」、というような意見を耳にするが、カントの議論に従うかぎり、総合は、悟性のアプリオリであるカテゴリー（記憶）において行なわれ、想像力はカテゴリー（記憶力）に従属しているように思われる。それをあえて感性の側からの想像力に限定してこれを国民国家に結びつける議論が意図しているのは、想像力をその中心的な手段とする芸術、とりわけ文学を批判の標的にすることなのだろう。だが、ナショナリズムを供給しているのが、文学より歴史に見える点を、この議論はどう説明するつもりなのだろうか？　訳語の問題もあるため、あまり込み入った議論をするつもりはないしカントの解釈学にかかわるつもりもないが、しかし、この点は文学が標的になっている点で見過ごすことがむずかしい。もともと、カントにおいても、ヒュームを受けついで、感覚はひとによってさまざまに異なるものとみなされている。だからこそ、デカルト以来、表象とロゴスの差異が問題にされたのである。それを統一するのは、諸々の外部表象の場合は、悟性のカテゴリーであり、自己の場合は理性における超越論的統覚である。ひょっとしたら、「共通感官」という語に囚われてしまったのかもしれないが、この感官はもっぱら悟性に存する。総合は、やはり、対象や感覚ではなく（それゆえ想像力ではなく）、認識に従属する形で行なわれる。つまり、総合とは、つねに‐すでに認識cognitioなのである。「共通感官」という表現は、複数の人間を問題にしたときに可能となる一種の比喩であって、これが文字通り感覚に備わっているなら、わざわざ悟性を論じる必要はないし、第三批判も無用のものとなる。デカルトの懐疑は無駄骨であり、コペルニクス的転回もなかったことにさえなる。</li>
</ul>
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		<title>時について、若干の考察</title>
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		<pubDate>Sat, 12 Dec 2009 14:24:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[天から降りてくる無数の雫。漏斗としてのわれわれ(1)は、そのいくつかはあふれさせながらも、いくつかを受けとめることに成功した。受け止められた雫は滞留しながら中心に向かってゆっくりと流れ、次第に速度を増して大地に落ちるだろ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>天から降りてくる無数の雫。漏斗としてのわれわれ<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>は、そのいくつかはあふれさせながらも、いくつかを受けとめることに成功した。受け止められた雫は滞留しながら中心に向かってゆっくりと流れ、次第に速度を増して大地に落ちるだろう。その雫は、もうかつての雫ではなかった。しかし、大地に落ちた無数の雫と混じり合い、ふたたび上空へと舞い上がるのだ。このプロセスは、おそらく無限に繰り返される。否、無限という言葉は正確ではないかもしれない。有限を超えたところに無限が、無限を超えたところにまた有限が。そしてまた有限を超えたところに……。</p>
<p>有機体は、こうした循環のシステムをある程度自分のなかに実現する（たとえば生殖機能として）。しかし、有機体が有機体であるのは、有機体自身がもっと高次の循環システムに所属するかぎりにおいてである。そのことを知らなければ、有機体は未然の有機体、すなわちドラコーン・ウロボロス（自らの尾を飲み込む蛇）かサトゥルヌス（クロノス、子を食べる親）となるほかない。そして、結局のところ、あらゆる有機体のイメージは、すべてこのドラコーン・ウロボロスに終わる。たとえば、論理実証主義者を当惑させた嘘つきのパラドックスは、この刹那の怪物と重なりあうだろう。ニーチェの「噛み切れ！」の声は、ここにおいて聞こえてくる。超人は、高次の有機体を自らのうちに特別な形で――すなわち、《精神》において／として実現する者である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<blockquote>
<p>彼は顔を過去の方に向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹き付けていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。</p>
<p class="post-r">ヴァルター・ベンヤミン「歴史哲学テーゼ 第９テーゼ」<br />（浅井健二郎・久保哲司訳『ベンヤミン・コレクション１ 近代の意味』所収）</p>
</blockquote>
<p>われわれは、高次の有機体におけると、有機体であるわれわれ自身におけるとで、異なる時間を有する。驚くべきことであるが、未来から到来して束の間の現在をなし、そして過去に流れ去ると思われる時間は、われわれ（＝現存在）のなかでは、奇妙に反転している。惜しくも、ハイデガーはこれを見落としたが、実際にこれはきわめて重要な点である。外からやってきて、われわれに受け止められた《未来》は、われわれの体内で《現在》となる。その後、まもなく時間は体内で《過去》となる。そうした時間が表出されるときになって、その《過去》は《未来》となる。しかし、その《未来》は、われわれの外では《過去》として振舞う。つまり、順を追っていけば、未来⇒現在［現在→過去→未来］⇒過去という時間の流れがある。ヴァルター・ベンヤミンは、「歴史の天使」を過去だけを見つめて後ろ向きに未来に飛ばされる姿として描いた。歴史の天使とは、いわばわれわれの体内を通り抜ける時間である。われわれの内部で、天使は未来に背を向け、瓦礫としての過去を遺していく。楽園からの風、あるいは時の雫の流れは、やむことがない。歴史の天使は漏斗としてのわれわれをすりぬけ、じきにわれわれの目の前を過ぎ去っていくだろう。そのときには、おそらく彼はこちらに背を向けているにちがいない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>カントの《先験性／アプリオリテート》や、フロイトの《トラウマ》は、事実上、事後的に構成された過去である。しかし、これらの概念は、時間的に異なる順序で現れるものを不当に逆立させている点で、彼らがいかに自覚的であったとしても、いささかトリッキーである（それはヘーゲルの「精神」においても同様である）。通念的には考えることが困難でも、現存在としてのわれわれにおいて、過去は、現在より後にやってくると考えたほうがよいのである。つまり、歴史は、現在が現在から構成する過去であり、それらの過去は、構成されるということによって、不可避的に過去とは異なるもの、すなわち未来となる。現存在であり漏斗であるわれわれが摂取した「歴史の天使」は、われわれに過去の残像を見せながら、未来として排泄される。</p>
<p>われわれは、ここでオヴィディウスが伝えた神話を思い出す。パンドラの箱がすべての災厄を吐き出したあと、大地を狂乱が覆い尽くす。ゼウスは大洪水を起こして人類を死滅させようとする。しかし、そこに一組の男女が残った。記憶の神プロメテウスの子デウカリオンと、忘却の神エピメテウスの娘ピュラである。荒廃した大地だけを残して仲間を失い、涙に濡れ、悲しみに打ちひしがれる彼らに、ひとつの神託が降りた。「神殿を出でよ。頭をおおって、帯で結んだ衣を解くように。そして大いなる母の骨を背後に投げよ」。忘却の神の娘、美しく誠実な女、ピュラはいう。母親の魂を傷つけるなどできない。デウカリオン。「大いなる母」とは「大地」のこと、「骨」は大地の「石」のこと……。彼らは神託を実践する。彼らは大地の石を拾う。しかし、それはやはり母の骨であった。背後にうち捨てられた母の骨は、次第に肉や血管をまとい始め、ついには人間の姿となり、かくして、彼らはそれ以後生まれた人間の父母になった。つまり人間は、記憶と忘却の子。……</p>
<p>瓦礫を見つめる歴史の天使は、その背後に未来があることを知っている。デウカリオンとピュラの二人に訪れたのは、ベンヤミンも発見した「歴史の天使」であると考えて、おそらく間違いない。彼らは、荒廃した大地、すなわち過去をみつめ、そしてその背後に未来を作り上げる。骨であり大地の石ころでもある母の記憶を捨て去ることによってである。彼らが棄てた過去は、子供に、すなわち未来へと生まれ変わるのだ。この神話は、先に述べた時間の流れとまったく矛盾しない。漏斗であるわれわれは、現在が蓄えた過去を吐き出すことによって、それを未来に変えるからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ここにひとりの風変わりな古文書学者がいる。古文書学者である彼は、かつて、砂浜に書かれた「人間」という文字が、波にさらわれ、いつしか消え去ってしまうことを善しとしていた（彼はあのハイデガーに似ていたが、その点ではハイデガーより優れた哲学者であった）。砂浜にコンクリートを流したり、文字を深く刻み直したり、写真を撮ったりして、手を変え品を変え「人間」という文字を保存しようとする本来の古文書学者とは、まるで異なっていた。彼は、大笑いの準備でもするように、「人間」という文字が消え去ってしまうことを、いまかいまかと待ち構えていたのだ。彼は、肯定的な忘却があるということを知っている。……</p>
<p>この古文書学者の行為として、もう一度上で述べた複雑な時間の流れを追っていこう。数十年間眠ってたったいま目覚めた彼は、「人間」と書かれた古文書を探している。いまではもう、「人間」はいなくなってしまったからだ。はたして「人間」が存在していたのかどうかさえ定かではなく、多くのひとは、「人間」は昔のひとが拵えたなにか架空の存在なのではないかと疑いさえしていた。だが、彼は「人間」がいたことを信じきっている。今日はありつけなかったが、明日にはそんな古文書が出てくることを期待してやまない。翌朝、父親が残した古い書庫をあさっていると、あやしげな文書を見つけ出した。彼はそれをみてこみ上げてくる笑いを抑えきれない。もしかすると「人間」と書かれているかもしれない！　狂喜乱舞したのも束の間、ただちに文書の読解に没頭した。あまりに断片的で、彼はそれを試行錯誤して纏め直さなければならなかった。彼は注意深く、自分のなかから「人間」のイメージを取り除き、その文書から読みとれるイメージを、できるだけ素直に、そしていろいろに思い描いた。そして文書は、彼の手の中で、ついに「人間」の形に纏め直された。《人間はいた！》　彼は我慢していた狂喜を爆発させる。そして語る、《それはわれわれの可能性だ！》……。</p>
<p>彼は、いまも書庫をあさっているが、もう「人間」は探していない。別の存在を探している。たとえば、「超人」とか……。彼にとって、「人間」はもう、過去の産物である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>風変わりな古文書学者が探していたテクストに今日はありつけず、明日出くわしたからには、あきらかにそれは《未来》からやってきたのだろう。彼は彼の《現在》のなかで、そのテクストに没頭しながら、《過去》を作り出した。そしてそれをついに完成させたとき、それを「可能性」として、つまり《未来》として論じたのである。しかし、その彼は、いまはもう、別のテクストを探している。彼が論じたテクストは、もう《過去》のものである。</p>
<p>つまり、時間は、どう考えても、未来⇒現在［現在→過去→未来］⇒過去として流れたのである。そしてこの時の推移は、どのような古文書学者／文献学者／歴史学者であろうと、本質的に同じである。彼らの視線が、「過去」を現在のあとに作り上げるのだ。漏斗によって遅延させられた時間は、その速度の変化によって、外界に対して反転した時間を実現する。前方で同じ方向を向いて走っている車を追い越した時、その車輪が反対方向に回っているように見えるのと同じことである（付記しておくと、真空中を最高速度で飛び交う光の粒子がなんらかの仕方で《遅延》を実現するとき、一種の時間的逆行を実現する。質量や色彩が生じるのはそのときである）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>過去とはなにか。それは程度の差はあれ、本質的に忘却である。というのも、想起によって現在に再現（represent）することでしか、現れないからである。つまり、《記憶》は、それが体内に蓄積されているとしても（あるいは紙や石版に定着した人為的な蓄積であろうと）、それが表皮を超えて入ってくる瞬間（つまり体験の瞬間）と、表皮を超えて外へ出て行く瞬間（想起の瞬間）にしか、意識されないのである。フロイトは、この忘却を「精神」と呼んだが、歴史家もまた、この忘却を「精神」と呼ぶ。「精神分析」は、その名と裏腹に、忘却を「精神」として総合するものである。同様に、歴史家は、複数形の人間を対象に、忘却を歴史として総合する。</p>
<p>想起によってかつての体験が再現される、とひとがいうとき、それは暗黙に過去の体験と現在の想起とのつながりを想定している（カント風にいえば、忘却は想像力を悟性に従属させることによって取り除かれ、像は概念と総合される）。しかし、この想定は、どうしても保証されえない。というのも、それらをつないでいるのは、実際には《忘却》だからである。ニーチェは言っていた。「忘却。――忘却が存在するということは、まだ証明されていない」。また忘却を、「われわれの力の割れ目」と呼んでいた（『曙光』第二書）。</p>
<p>したがって、それを「再現」（あるいはフロイト的にいえば「回想」）と呼ぶことは、現実に即しているとはいえない。むしろ、想起によって再現されるのは、もとのものとは致命的に異なるものなのである。すなわち、われわれは、《過去》を再現するのではなく、《過去》を《未来》として到来させるのである。それだから、むしろ再現させようとすることが、神経症者の「反復強迫」かえって強めてしまう結果を生む場合があるはずである。ドゥルーズとガタリがフロイトを批判し、「分裂病分析」を提唱したのは、おそらくこの観点からであろう。</p>
<p>同じことが、歴史についてもいえる。歴史家の意識がどうあろうと、現実には、テクストから過去を再現するのではない。むしろ、テクストから「過去（についての現在）」を「未来の可能性（＝未来についての現在）」として到来させるのである。というのは、真の過去とは、徹底的な（高次の、より完全な）忘却だからである。この観点からみるかぎり、「テクストの外部はない」と指摘することはあまり意味をもたない。意味をもつとすれば、テクストが現在に対して過去を開示するという常識的で暗黙の（アプリオリな）了解を批判する場合だけである。だが、元来、テクストは過去ではなく、現在に所属している。テクストは媒体の酸化速度に応じてたえず現在にあり、そのかぎりでテクストはわれわれとともに世界を構成する一部分だからである。したがって、われわれはこう言わねばならない、「テクストはわれわれとともに外部にある」。テクストの外部はない、という言い方は、結果的にはテクストから得た思考を内面化する――というか内面を作り出す傾向しか生まない。むしろ、過去を現在に再現すると確信している実証主義者のほうが、（実証主義者の思ったとおりにではないとしても、またこの無自覚さが別種の問題を引き起こすことは確かであるとしても）結果的には実践的な意味を有するのである。</p>
<p>いずれにしても、こうした観点によるなら、歴史家もまた、その立ち位置を変えざるをえない。ミシェル・フーコーは、「砂浜に書かれた人間」という概念を提唱していた（「人間の死」よりもこちらのほうがよほど重要な概念である）。このテーマは、『言葉と物』以降、あまり取り上げられることはなかったが、フーコーの描く社会は、つねに、こうした高次の忘却、ドゥルーズ風にいえば「水漏れ」<sup><a name="p02" href="#n02">(2)</a></sup>を可能性として有していた。</p>
<p>いかにして、生産的に記憶を捨て去るか。未来の人文学者の課題はまさにこの点にこそある。記憶は蓄積されるのではない。滞留している（蓄積という考えには国家主義的な屈折がある）。たとえば、いまも消滅のプロセスを歩んでいるパルテノン神殿は、《永遠》の死であり、墓標である。しかし、だからといって、ロマン主義的な死は、自らの肉体のことを省みていない点で、もっとも醜いものだ。むしろ、たえず死を死んでいる、かの神殿は、そのことによって現にいまも生きているのである（死は生の否定ではない）。それは、この神殿の存在に不朽の価値を与える。ウィリアム・バトラー・イェーツが周の大公にうたわせた詩のとおり、われわれは、これを過ぎ去るままに過ぎ去らせねばならない。かけがえのない（差異としての）瞬間はつねに純粋な差異としての瞬間である。……</p>
<p><a name="n01"></a></p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01">(1)</a> 有機体の漏斗イメージについての考察は<a href="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/history/1387.html">「彼岸の快感原則（フロイトに寄せて）」（2009年12月10日）</a>を参照のこと。この漏斗イメージは、フロイトが「快感原則の彼岸」で考察した小胞イメージを批判的に継承したものである。</li>
<li class="note"><a href="#p02" name="n02">(2)</a> ドゥルーズはフーコーについてこう論じている。「ここに私たち〔ドゥルーズとガタリ〕とフーコーをへだてる違いのひとつを見ることもできるでしょう。つまりフーコーにとって、戦略でがんじがらめになった閉域が社会であるとしたら、私たちが見た社会の領域はいたるところで逃走の水漏れをおこしていたのです」（宮林寛『記号と事件』310頁）。この観点は、より地理学的であったドゥルーズとより歴史学的であったフーコーの差異を考慮しなければ誤解を生む。フーコーが、時間的な概念である「未来」に社会の「水漏れ」の可能性を見ていた時期はたしかにあったのであり、それが《砂浜にあって波間に消え去る人間》のイメージなのである。したがって、フーコーの晩年の時間的な移動（19世紀から古典期へ）は、ドゥルーズにおける分散的な時間移動よりももっと重要な意味を有する。ドゥルーズにおいて、時間は高度に空間化されており、フーコーにおいて空間は高度に時間化されている。</li>
</ul>
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		<title>彼岸の快感原則（フロイトに寄せて）</title>
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		<pubDate>Wed, 09 Dec 2009 15:55:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」＝感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」＝感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そこでは、時間は、蓄積された記憶痕跡（時間性を欠いた）と時間とともに消え去る感覚（傷）との対立的な（質的な）差異として捉えられる。そこにあるのはクロノスの時間である。未来から現在に到来し、現在から過去へと消え去る時間イメージは、広大無辺の無意識の領域に蓄えられてゆく。それもすべてが蓄えられていく。こうして蓄積された原時間とでもいうべき記憶痕跡は、「想起」（再現）によって、定期的に（事後的に）時間的な秩序、すなわち《過去》を与えられる。</p>
<p>この想起に失敗し、反復強迫を促す場合もある。過去が現在にあわれること、それは病である。ここから生の欲動（エロス）と死の欲動（タナトス）という二元論が推定される。エロスにもとづく有機体と、タナトスにもとづく無機物の対立過程として、生命体は把握される。したがって、これは歴史のモデルでもある。われわれは、テクストに蓄積された記憶痕跡をできるかぎりすべて、しかも完全な形で保存しようとするだろう。この無時間的な世界に蓄積された書庫をひっくりかえし、過去を再現representすることで秩序を与えるのが、歴史家の役目である。フロイトの精神分析は、原理的には人類に対して歴史家の行なう仕事と同じである。また、言葉は、内部に蓄えられた意味と外部表象の結合体として理解される。言葉に隠された意味を解釈し、意識化することが、歴史家＝精神分析家の仕事である。この歴史家は、忘却を否定する。というより、忘却は存在できない。忘却はあくまで一時的なもので、記憶と想起を橋渡す媒介であるにすぎない。彼らは忘却という言葉を好まない。むしろ、それを精神と呼ぶことを好む。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>フロイトの勇気ある探究に敬意を払い、それをさらに推し進めてみよう。とはいえ、無機物と己を分かつ有機体の古いイメージに囚われた小胞イメージは採用しない。われわれは、彼と異なり、一種の筒や管、漏斗のようなものを考える（わたしはここでロバチェフスキーのことを考えている）。あらゆる物体がそこを遅延しつつ通り抜けるのだ（この場合、外から自分に向かって飛んでくる刺激を選別することは不可能である）。したがって、そこを通過する物体を遅延させることはあるとしても、通常は蓄積されない。逆に、漏斗を通り抜ける物体がうまく排出されない場合もある。われわれは、それが無意識を構成すると考えるが、いずれにしても、それらの物質は、なんらかの形で変容を被りつつも、最後には排出されざるをえない。時間は、この物体が被った遅延によって構成される。小胞イメージのように、動いているものと動かないものの対立的な差異が時間をもたらすのではない。むしろ、漏斗を通り抜ける物体と外部の物体の速度の（量的な）差異、というか差分商として時間は理解される。そして、有機体と無機物の差異もまた、この速度の差異によって理解される。無機物は止まっているのではない。われわれが有機体とみなしているものの速度に対して、無機物それ自体があまりに早い速度をもっているため、止まっているように見えるだけである（われわれはわれわれと同じような速度をもっているものほど、それを有機体とみなしている）。</p>
<p>ここでの時間は、アイオーンの時間となる。われわれの中を物体が通り過ぎているとき、それが現在をなす。というより、漏斗としてのわれわれの存在そのものが、現在である（ハイデガーの現存在を意味すると考えて差し支えない）。これからそこをいままさに通過しようとする物体は現在についての現在であり、そこを通過している物体は過去についての現在である。そしてまさにそこを通り過ぎようとする物体が未来についての現在である。そして、未だそこを通り過ぎてもいない物体は真の未来をなし、もうそこを通り過ぎてしまった物体は真の過去をなす。それらはわれわれの外にあって、認識不能である（それらがそれとして認識不能なことは重要ではない）。このことからするに、知覚‐認識システムとは、ミクロ化された物体の摂取と排泄のプロセスを指す。高次の現在において、時間は現在から過去へ、過去から未来へと流れる。漏斗上では、「事後性」や「アプリオリ」のようなトリッキーな概念は必要がなくなる。事実上、過去は現在の後に訪れる。ここに、生の欲動と死の欲動の質的な対立は存在しない。生の欲動とは、遅延した死の欲動であり、要するに生は死の遅延や迂回である。いかにして遅延を実現するか、という生にまつわる問いは、死となんら矛盾しない。漏斗であるわれわれのなかで、死に向かう直線は曲がっている。この屈曲が生である。</p>
<p>そしてイデアとは、この漏斗そのもの、すなわち高次の現在を指す（だから超越論的統覚は必要ない、イデアで十分である）。物体が漏斗としてのわれわれを通りぬけるとき、物体は変容をこうむりつつも、この物体の形に応じて、われわれの漏斗そのものも変化する。たとえば四角いものが漏斗を通れば、漏斗は四角くなる。丸いものが通れば、丸くなる。《イデアとしての蝋》がまだ柔らかければ、そこに流し込まれた液体の熱が、蝋の形自体を変えてしまうことは、よくあることだ。しかしわれわれは硬い蝋を実現すべきである。液体はいずれ流れ去る。ただし、入ってきたときとは、別のものになっている。これをわれわれは想起と呼び、そして同時に忘却と呼ぶ。</p>
<p>いたるところで水漏れを起こしている漏斗としてのわれわれは、いわば空虚（ケノン）を内側にもった物体である。この空虚は、世界とつながっている。よって世界そのもののことである。われわれはこのようにして空間と物質を同時に実現している。この空間を通りぬけるのが時間であり、したがってわれわれは空間と時間とを内部に実現する肉である。この漏斗イメージは未来の歴史家／人文学者のイメージでもある。この歴史家は、忘却を肯定するだろうし、プラトンのイデアシステム（記憶‐想起システム）を、忘却にもとづく差分（シムラクラ）の発生装置として理解する（ソクラテスは文字とは忘却装置だと言っていた）。そして、《精神とは、この忘却のことだ》と指摘するだろう。現にわたしはそうしているし、あなたもそうしているのである。よく忘れるひとだけが、よく想い出すことができる……。</p>
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		<title>アーレントとデリダ</title>
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		<pubDate>Sat, 06 May 2006 03:56:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Arendt]]></category>
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		<category><![CDATA[Freud]]></category>
		<category><![CDATA[historical revisionism]]></category>
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		<category><![CDATA[traces]]></category>
		<category><![CDATA[戦争神経症]]></category>
		<category><![CDATA[忘却の穴]]></category>

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		<description><![CDATA[歴史家であるハンナ・アーレントの概念に、「忘却の穴」がある。ユダヤ人を焼き尽くしただけでなく、焼け残った髪や骨までも消し去ろうとしたナチスの行為は、民族そのものの存在の記憶――痕跡――すら抹消しようとしたのであり、これを [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>歴史家であるハンナ・アーレントの概念に、「忘却の穴」がある。ユダヤ人を焼き尽くしただけでなく、焼け残った髪や骨までも消し去ろうとしたナチスの行為は、民族そのものの存在の記憶――痕跡――すら抹消しようとしたのであり、これをアーレントは「忘却の穴」と呼んだのである。こうした概念の批判対象は、もちろん、ホロコーストの歴史を抹消しようとする西欧の歴史修正主義者の議論である。ホロコーストを連合軍の捏造に仕立て上げ、その記憶を忘却の穴に投げ捨てようとする歴史修正主義者の行為は、その点で、ナチスが行なったホロコーストと同断の非道なのである。</p>
<p>存在のみならず、その《記憶痕跡》をも抹消する「忘却の穴」を、アーレントは恐れ、そして批判したが、わたしは、この概念について、彼女とは違った印象をもっている。というのも、おそらく、彼女の「忘却の穴」への恐怖には、歴史家の傲慢、あるいは歴史的に思考しがちなアカデミシャンの傲慢とでもいうものが幾分含まれているように感じるからである。</p>
<p>フロイトの研究した戦争神経症の事例は、この「忘却の穴」を、穴の最奥の暗闇から逆照射するように思われる。というのも、彼らのような患者が恐れているのは、なにより、忘れることだからである。わたしたちが、なにか物事を記憶しようとする際に、たえずその名を反復するように、戦争神経症を患った患者は、かつてのひどい経験の記憶を再現し、絶えず反復しようとする。彼らは、忘れることを恐れるあまり、病から抜け出せなくなっているのだし、さらにいえば、この忘却恐怖こそが、この病の根源なのである。</p>
<p>真に恐ろしい、正気を失うような経験を記憶しておくほどつらいことはない。記憶を頼りに怒り狂うことのできる人間は、まだ、その経験がひどいものであると判断できる論理を保ちえている分だけ、ましなのである。いまだその経験のさなかにいて、あるいはその経験の記憶に囚われているひとは、もしできうることなら、なかったことにしたいに違いないし、その記憶をアーレントの言う「忘却の穴」にでも放り込みたいところだろう。マジックメモに残された筆跡（＝痕跡）よろしく、記憶はいつなんどき、どんなきっかけで呼び出されるかわからないものだ。忘れていたとしても、なにかのきっかけで出てくるということは当然ありうる。それゆえ根本的な治癒になりえないのは明らかだとしても、歴史修正主義者の議論は、患者に対する一時的な快癒をもたらすに違いないのである。彼らはいうのだ、そんなことはなかった、あなたは間違って記憶しているのだ、と。いや、むしろ、根本的な治癒とは、この忘却のことを言うのであり、意図せざる結果だとしても、かえって、歴史修正主義者は、歴史主義者よりもよき精神分析医である可能性がある。歴史主義者は被害者に向かって言うのだ、善人の顔をして言うのだ、あなたは、人類のためにホロコーストの記憶を忘れるべきではないし、それを白日の下にさらして国家主義者どもを糾弾すべきなのだ、と。わたしが代弁してもいい、とにかくわたしにその恐ろしい経験を語ってくれたまえ、なぜなら、あなたが正気を失うようなその恐ろしい記憶は、事実なのだから……。</p>
<p>人間は、少なくとも近代的人間は、多かれ少なかれ、この戦争神経症者と同じ病を患っている。だから、わたしたちは、歴史の反復を強いられている。この病にとって、歴史主義者と歴史修正主義者のどちらがいいというものでもない。重要なことは、歴史修正主義を非難するあまり、歴史主義に陥ってはならないということだ（別に気取る必要はないのでありていな言い方をするが、かつては右翼の専売特許だった歴史主義は、いまや左翼のものなのであり、しかしたちの悪いことに、表面的に、あるいはとってつけたように歴史主義を批判する）。</p>
<p>今手許に資料がないので数年前に読んだときの記憶に頼って言うが、フロイトは記憶を二重化、否、二層化している。すなわち、記憶を呼び出し、記憶を（時系列的に）整合性のある意識的なものにする層と、記憶が無時間的かつ断片的に蓄えられた層とにである（「マジック・メモについてのノート」）。前者はいわば短期的な記憶を司り、必要に応じて書き換えられ、また消去されるものである。他方、後者は、誕生以来の記憶が無茶苦茶に詰め込まれ、生涯消え去ることはなく、また生涯にわたって蓄え続けられる。ふつう、わたしたちが「忘却」と呼んでいるのは、前者が後者に蓄えられた記憶をうまく呼び出せなくなっている状態のことを言う。当然、知らないことと忘却とは、後者にすら記憶が蓄えられていないことによって区別される。また、戦争神経症者のケースは、なんらかの、おそらくは社会的な抑圧によって、快感原則とは無関係に、意図に反して記憶が呼び出されてしまう状態であると考えればよいだろう（フロイトの戦争神経症の事例が第一次世界大戦後であることと、ナショナリズムの実質的な起源がおよそ同時期であることはきわめて興味深いことである）。</p>
<p>この二層化された記憶という考え方が、現実世界における歴史学者と資料の関係に似通っていることに注意しよう。無時間的かつ断片的に記憶が蓄えられた層とは、まさに世界中にばら撒かれ（＝《散種》され）、無方向的に蓄積されている資料群に対応しているのであり、歴史学者の仕事は、それらを時系列的に整合し、意識的なものにする（＝再現前化［リプリゼンテイト］する）記憶の層に対応していると考えられる。ここで再びアーレントの議論を振り返っておけば、断片的な資料群を湮滅すること、すなわち無意識の層に蓄えられた消えない記憶を抹消することを、「忘却の穴」と呼んでいることがわかる。</p>
<p>さて、ジャック・デリダは、フロイトの上記の議論を参照しつつ、無意識の層に刻み込まれた消えない記憶の束、これを《痕跡》と呼びさらに複雑な考察を加えた。歴史の起源を、なんらかの具体的な出来事ではなく、この《痕跡》にあるとしたのだ。彼のこの徹底した歴史主義批判が示唆しているのは、歴史がいくら起源を事実に求めたところで、歴史が見出すのは、決まって身体の内側、おそらくは精神とでも呼ばれるべき場所に刻まれた《痕跡》であるということだ。歴史がさかのぼることができるのは、内側の《痕跡》までなのであって、けっして、傷そのもの、あるいは身体の外部で、もっと正確を期せば身体と外気が接触するそのちょうど間のところで繰り広げられた《出来事＝他者》そのものにたどり着くことはできない（傷とは、内部を外部へと繋げる開口である）。歴史の探求とは、ふつう考えられているのとは逆に、外部へ向かう運動ではなく、徹頭徹尾、内部に向かう運動だということだ。ここでストア派の議論を引いておけば、歴史とは、過去についての現在である。同じく、なまなましい傷が過去であるとすれば、当たり前のことだが、痕跡とは、あくまで、過去についての現在なのである。</p>
<p>ジャック･デリダのこうした微妙かつ繊細な議論は、よくよく考えれば、アーレントの「忘却の穴」についての徹底的な批判になっていることを見逃してはならない<sup>(1)</sup>。彼が言いたいのは、アーレントがいくら資料を、あるいは民族を「忘却の穴」から守ったところで、すでに資料が語る内容、あるいは民族は、もっとも重要なことをつねに‐すでに忘れている、要するに、知らないということだ。すなわちそれは、傷痕が覆い隠した傷そのものであり、民族が覆い隠した個人的な体験である。アウシュビッツでは、ナチスによって《ユダヤ人》が迫害された以上のことが、ユダヤ人であるというだけで殺された《個人》に対して行なわれていたのである。だが、歴史家はそれを《ユダヤ人》の虐殺としてしか扱わないし、扱うことができない。こうした思考は、極端な言い方をすれば、結局はナチスと同じところに行き着くということを、歴史家はいつも忘れているし、しかも忘れていることに気づいていない。アーレントが恐れる「忘却の穴」よりも深い穴が、すでにいたるところに開いているのだ。</p>
<p>わたしたちは、なぜ、ホロコーストの死を重視するのだろうか。それはもちろん、思い出すことができるからである。手っ取り早く思い出すことのできる、最悪の悲劇がそれだからである。普段は忘れていても、たとえば、このエッセイそのものが間接的な仕方でそうであるように、いろんな《痕跡》を見つけて、思い出すことができる。だが、もっと重要なことは、《痕跡》では思い出すことのできないたくさんの死があるということであり、いつだって、そういう死の方が思いだせる死よりも多いということなのである。ホロコーストで死んだ人は覚えていても、その横で戦って死んだであろうドイツ兵のことは知らないように。事実、わたしたちは、ホロコーストにおいて起こった《個人》の死でさえ、もう《ユダヤ人》の死としてしか思い出せなくなってきている。《痕跡》は、傷を、《個人》を覆い隠してしまったのだ。真に重要なのは、名前ではない。ミシェル・フーコーが畏怖し、正しく称賛した名も無き人々――つまり誰もその名を覚えることができなかった人々の名、忘れ去られ、忘却の底で地下生活を繰り広げる人々の、その《無名性》なのである。</p>
<p>わたしたちは、注意深く、忘却という概念を再考する必要がある。なぜなら、忘却は、フロイトの説が正しいとすれば、無意識に蓄えられた記憶痕跡を消し去ることではないからである。むしろ、意識と無意識のあいだの距離の謂いなのだ。重要なことは、いかに記憶痕跡を呼び出すことができるか、なのであって、その意味で言えば、適切に忘れられることこそが、よりよき記憶なのであり、また、よりよき記憶とは、適度に忘れていることなのである。肝心なことは、記憶していることではなく、痕跡と適切な距離を保つことなのだ。また、思い出され、再現された記憶にも、あまりたいした意味はない。それは名についての思考だからである。それよりも大事なのは、はっきりと意識された記憶と、その根源である《痕跡》との間に広がる、忘却のプロセスなのである。この忘却のプロセスにおいてのみ、わたしたちは、無名性の概念を思考することができるからである。</p>
<p>デリダは《散種》ということを言った。記憶（記録という方が正確だしこの場合はこの区別がとても重要だ）をばら撒くのだ、もっと無数の痕跡があることを思い知らせるのだ、と。それは、記憶を統整しようとする歴史家に対する抵抗であり、記憶に対して忘却の地位を逆転させることなのだ。重要なことは、ばら撒かれた《痕跡》ではなく、それをばら撒く《散種》なのだ。《傷》そのものの生成なのだ。デリダは「そこに灰がある」と言った。それは、歴史家がいくら「忘却の穴」を恐れようとも、あるいはユダヤ人の髪や骨まで焼き尽くしてしまったとしても、そこに灰が必ず残る、ということを言いたかったからだ。フロイトが、《痕跡》はけっして消えないと言ったことを信じよう。真の忘却の穴――つまり、無知の穴は、今日もいたるところに開いているのだし、そんなものを恐れても仕方がない。むしろ、記憶を玉座から引き摺り下ろし、忘却に戴冠させるのだ。それでも歴史家が勝利し続けるかもしれない、だが、灰は必ず残るのだ。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note">
(1) わたしは詳細を知らないのだが、アーレントとデリダの議論を借用してナショナル･ヒストリーの内在的批判を繰り広げる、というような議論があるという。だが、私見に拠れば、内在的な批判とは、論理の一貫性のことを言うのであって、アーレントとデリダという位相の違う議論を併用することが内在的な批判になるとは思えない。
</li>
</ul>
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		<title>パゾリーニ『アポロンの地獄』</title>
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		<pubDate>Thu, 14 Jun 2001 00:54:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[cinema]]></category>
		<category><![CDATA[Eros and Thanatos]]></category>
		<category><![CDATA[Freud]]></category>
		<category><![CDATA[Phoibos Apollon]]></category>
		<category><![CDATA[Sophokles]]></category>

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		<description><![CDATA[パゾリーニ初のカラー作品。パゾリーニ自身、この作品を「映画的」であると評しているように、きわめてよくできた作品であろうと思われる。『奇跡の丘』を撮った後、あいだに３作を経て、それなりに映画的な手法をパゾリーニが身に付けて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>パゾリーニ初のカラー作品。パゾリーニ自身、この作品を「映画的」であると評しているように、きわめてよくできた作品であろうと思われる。『奇跡の丘』を撮った後、あいだに３作を経て、それなりに映画的な手法をパゾリーニが身に付けていったという言い方もできるだろうか。</p>
<p>フロイトによるエディプス・コンプレックスで有名なソフォクレスのギリシア悲劇『オイディプス王』を題材にした作品であるが、もちろん、パゾリーニの作家性が、このギリシア悲劇の名作の忠実な再現など許しはしない。プロローグとエピローグに登場する戦前から戦後にわたる現代と、古代ギリシア世界―それも日本の雅楽が鳴り、ジャワの舞踏曲が奏でられるトルコの荒野で繰り広げられる―を交錯させるパゾリーニは、フロイト的オイディプスが地獄の円環のなかにあることを示しているのかもしれないし、あるいは、フロイトが『快感原則の彼岸』で語らずして語ったように、生と死、エロスとタナトスが、そもそも偽装された反復―同根であること―を示しているのかもしれない（「私はもちろん美しい映画を作りたいが、ただ美しい映画を撮る必要は決してなかった。私には他の刺激が必要だ。ここではそれはオイディプスのテーマのマルクス的、フロイト的発展なのである」）。だが、なににもまして、この作品にしばしば登場する、台詞の文脈を無視した登場人物の「笑い」こそが、オイディプスの地獄の円環を破壊し、脱却する手がかりとしてあるにちがいない。パゾリーニがそのことを意図的に演出したか否かはここでは問題ではない。実の父を殺し、母と寝るというアポロンの神託を聞いたオイディプスがこらえきれずに洩らした「笑い」は、後のドゥルーズ＆ガタリの『アンチ・オイディプス』へと確実に連なっているのである。</p>
<p>例えば、オイディプスが父を殺すシーンの太陽の光。例えば、オイディプスがスフィンクスを打ち倒したあと、歓喜とともに走りだす群集。例えば、疫病で死んだ人々を焼き尽くす炎。この作品を鑑賞した直後に湧きあがったパゾリーニの野蛮さへの興奮がいくらか去った後で、つとめて冷静さを装いつつ、この作品を振り返ってみれば、確かに、ドキュメンタリー的に撮られた（手持ちキャメラによる手触れだらけの映像、極端なクロースアップ、巧みに遠近法を意識させる撮り方、そして自由間接主観ショットなど）映像美や、彼なりの歴史的な（脱歴史学的な）考察などに、いかにも明確に作家性が現われている、あるいは現われすぎているといえるのかもしれない。主演のフランコ・チッティの様式的な（記号的な）演技がそれを助長しているし、如実にわかりやすい身体的な感動を呼び起こしもする。いつものわたしならそのような明白すぎる感動は拒絶しようとするだろう。だが、そもそも、あの野蛮さを作品の始まりから終りまで持続させつづけるというそのことが、もはやわたしを冷静さから遠ざけている。パゾリーニはわたしに野蛮さを強いているのだ。わたしからすれば、冒頭で述べたテクニカルな映画的手法を身に付けつつあったパゾリーニが、なおもこのような野蛮な作品を撮り上げたことが奇跡的なのである。</p>
<p>パゾリーニ、なんたる舞踏、なんたる逃走……！</p>
<div class="post-rl">
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<span style="text-indent: 0em;">『アポロンの地獄 [DVD]』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span></p>
<p>監督・脚本・音楽選曲：ピエル・パオロ・パゾリーニ<br />
制作：アルフレッド・ビーニ（アルコフィルム）<br />
原作：ソフォクレス『オイディプス王』『コロヌスのオイディプス』<br />
撮影：ジュゼッペ・ルッツォリーニ<br />
カメラ：オテロ・スピラ<br />
助監督：ジャン・クラウド・ベッティ<br />
美術：ルイジ・スカチアノーチェ、アンドレア・ファンタッチ<br />
衣装：ダニーロ・ドナーティ<br />
編集：ニーノ・バラーリ<br />
音楽：モーツアルト（弦楽四重奏曲ハ長調K４６５「不協和音」）、ルーマニア民謡、雅楽、ジャワ舞踏曲ほか<br />
出演：シルヴァーナ・マンガーノ（母イオカステ）、フランコ・チッティ（オイディプス）、アリーダ・ヴァッリ（メロペ王妃）、カルメーロ・ベーネ（クレオン）、ジュリアン・ベック（予言者テレシアス）、ルチアーノ・バルトーリ（ライオス王）、フランチェスコ・レオネッティ（ライオス王の下僕）、アーメッド・ベルハチミ（ポリュボス王）、ジャンドメニコ・ダヴォリ（ポリュボス王の羊飼い）、ニネット・ダヴォリ（アンゲロス＝アンジェロ）、ピエル・パオロ・パゾリーニ（大司祭）<br />
1967年／イタリア／104分／イーストマンカラー／スタンダード
</p></div>
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