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	<title>ex-signe &#187; Derridianism</title>
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		<title>二つの時間概念――純粋な現在とはなにか</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 06:24:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[aeon]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
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		<description><![CDATA[社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められよ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められようと願う社会の劣悪を認めるなら、それこそ己の試みが無意味なものになるからである。</p>
<p>かくして社会は己の才能が足りないと考えている連中で埋め尽くされてゆく。だが、社会は無謬ではありえない。それは歴史が証明している。悪いのは本当に自分なのか。若者たちよ、こういう古い「社会主義」とはおさらばして、次のように考えてみよう――われわれは社会を認めていない。問題は、われわれが、社会を認めるかどうかだ。社会が己を認めるかどうかという発想は誤りなのだ。いま社会に参画している連中を支え尻拭いさせられるのは将来の若者だということを忘れてはならない。</p>
<p>もちろん、こうした解決法も万全ではない。この選択はひとに狂気の誹りと孤独とに耐えることを強いるからである。社会の外にいる孤独に耐えるのは容易なことではない。また、「社会」を否定しても、社交的な態度までは失ってはいけない。孤独を愛する勇気が、ひととの「社交」を受け容れる勇気を排除するのであってはならない。いずれにしても、社会の側が劣悪だとすればそちらはよくある集団的狂気だが、結局、どちらの狂気を選ぶのかという問いになる。</p>
<p>黄金時代はとうの昔に終わっていた。われわれはずっと残照を黄金と取り違えてきた。だが、いまや多くのひとたちが、それが残照に過ぎなかったことを知りつつある。なのにわれわれときたら、目前に迫る闇を恐れて残照にすがる選択肢以外思い浮かばない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>孤独を恐れてか、それとも社会を「脱構築」しようとしてか、若者たちはいう。わたしにあなた方の尻拭いをさせてください、あなた方が逃げ切るお手伝いをさせてください。大人たちはいう。いやいや、それには及ばない、われわれのやっている失敗に手を貸してくれるだけでかまわない……。かつての「脱構築」のよき意図は、失敗に失敗を重ねる《なし崩し》にとってかわる。とある哲学者――ジャック・デリダは言っていた。過去に汚染されていない純粋な「現在」などない、それは西欧形而上学の悪しき伝統であると。</p>
<p>すでに大人たちによって汚染された現在を若者たちは受け容れねばならない。若者たちは、ほとんど泣き寝入りに近い形で、甘んじてそれを受け容れている。かつて大人たちが、そのまた大人たちの汚染を受け容れたように（しかし本当は、上の上の世代は上の世代にできるかぎりの白紙を残そうとしたのだ――ただ、わたしの願いは戦火なしに第一世代を実現することである）。この哲学はこう言っているかのようだ、西欧形而上学の伝統を破壊するために、この汚染を受け容れてくれ、と。</p>
<p>しかし、ニーチェは言っていた。ひとはみな「第一世代」になるべきだ、と。第一世代とは、振り返ることをやめ、纏わりつく過去を振り払い「現在」を生きるひとたちである。歴史ではなく、汚れなき白紙に地図を書く世代である。ニーチェがそれを言う以上、簡単ではないが、可能である。過去に汚染されていない「現在」は、強い意志があれば、生じうる。かの哲学者は、ニーチェを褒めそやしながら、彼と逆のことを言っている。第一世代など存在しないということが、「起源」であり、「起源」を超える／「起源」なき「起源」だと、そう言っているのだ。いったい、どれだけ失敗を繰り返せば、自分たちこそ第一世代の人間と自覚する若者たちの時代が来るのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>世代について考えることは、時間について考えることである。デリダの哲学はほとんど正しい。「起源」は、多くの場合に虚偽であり権力を可能にする神話である。にもかかわらず、ニーチェのような「第一世代」への意志、要するに起源や根源の自覚が必要な場合がある。</p>
<p>起源を求める欲望が、かえって起源という思考の欺瞞、起源など理念にすぎないという認識をもたらすのはよくある「深い」話である。だが、欲望が認識を突き抜けて、自らを起源とみなす、もっとも「浅い」意志にまで成長することがある。ひとたび認識が意志にまで成長すると、現在が過去に汚染されているという思考法は、現在を生きるわれわれが、過去に責任を押し付ける怠慢にしか見えなくなる。</p>
<p>「理論」の根底が異なる二つの時間概念があるようだ。そしてデリダの哲学は、これら二つの時間概念の「ごちゃ混ぜ」である。実際、管見に触れたかぎり、古今東西、「理論」のタイプは二つしかなかった。声と文字である。理論とは、ロゴス＝言葉である。ひとは現実にこの二つの言葉を駆使して思考しており、これらの技術がもつ欲望にしたがって、思考は無意識のうちに規定されている。両者は、それぞれ異なる形でおたがいを欲望し、必要としている――声は文字のように現在に定着し続けることを欲望し、文字は声のように流れて消える現在（つまり過去）を欲望している。その意志に応じて、二つの時間概念が生じる。</p>
<p>なんらかの媒体に定着することで時間に抵抗し、たえず現在を占め続ける文字は、そのつど過去を隠しながら存在する。文字は過去を露わにしながら隠している。隠しそして露わにする過去と現在の共犯関係は、実際には文字の自作自演である。真の現在は、むしろ文字が取りこぼしたものであり、この取りこぼされたものが、真の過去を形成する。つまり本当に隠ぺいしているのは真の過去だが、文字は、本当はこの消え去る現在としての真の過去を欲望しているのである。この過去を、文字は「取りこぼす」あるいは「隠ぺいする」という形でしか、もっといえば「痕跡」の形でしか表現できない。したがって、文字は、起源に永久にたどりつけないにもかかわらず、起源を追い求めるほかない、そうしたやるせない技術なのである。真の過去にはどのみちたどり着けないのだから、ここでの「知」のあり方は、もっぱら〈黄昏どきの診断〉となる。こうした技術は、理念＝欲望を統整的なものとしてみせるが、統整的理念は、別の言い方で、《歴史》と呼ばれることがある。文字なしに歴史を思考することは困難だが、そもそも歴史的思考法それ自体が、文字に影響されている。文字と歴史は、同時に発生したのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この理論の上では、デリダの議論は正当性をもつ。というより、この理論的根底にもとづくなら、デリダ以上の解は存在しない。文字こそが歴史の起源なのであり、突き詰めて言えば、文字痕跡より先に歴史的起源は存在しないのである。ただし、そこから先の深度に差はあれ、この地点に到達しているとみなしてよい哲学はほかにもいくつかある。カントやフロイト、柄谷行人などがそれである。</p>
<p>しかし、もっと別種の哲学がある。それが声の哲学である。声は、時間軸上のある一点しか占めることができず、現在と呼ばれる瞬間は原理的にほとんど訪れない。過去に汚染された現在という言い方はできない。現在がつねに流れ去っている以上、むしろ現在を定着させようとする努力の方が推奨される。声はもともと消え去るものであり、消え去る現在、すなわち過去にはほとんど価値がない。声は、もっぱら現在を欲望し、自身が過去になってしまわないよう、現在を追い越すことすら欲望している。つまり、次の現在がどのように流れるかを、あらかじめ予測しておかなければならない。そうでないと、声は容易に足元を掬われ過去に流されてしまう。ここでの知のあり方は、〈朝の予言〉である。ニーチェの言葉でいえば、「午前の哲学」である。文字の哲学において、それが欲望する流れ去った《現在》は、もはやたどりつけない統整的理念だが、声の哲学において、それが欲望する《現在》は、まれにたどりつくことはできるが、その次の瞬間に別のものに変わる、という類のものである。</p>
<p>要するに、声の哲学は、激流に耐え忍ぶ欄干のような努力を必要としている。ひとの努力の結果が文字として結晶したわけだが、結晶した瞬間に、別の時間概念、つまり文字の時間概念が発生する。声の時間概念は消失する。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の哲学そのものは、文字を遠ざけておらず、むしろ文字を欲望している。その一方で、文字の哲学は、声を〈たどりつけない〉理念として欲望している。したがって、結果的に、両者の混在は、文字の哲学に有利に働く。だが、それにもかかわらず、声の哲学はかならず文字の哲学を凌駕する。なぜか。</p>
<p>じつは、文字の時間がたえず現在を見せ続けると言ったとしても、実際には、文字が定着する媒体の消滅速度にしたがって、ゆっくりと過去に流れ去っている。つまり、文字のみせる現在は「観念」である。石板に刻まれた文字は、ひとの死を越えて残るがゆえに永遠を夢想させるが、当然、石板そのものは風化を免れえない。紙であろうがレコード盤であろうが燃えればそれで終わりである。そして実際、ローマの王政時代の歴史がそうであるように、歴史は、なによりこの燃焼によって、とりわけ戦火によって、たえず失われてきたのである。歴史を忘却の底に沈めてきたのは、なによりひとが味方につけたはずの炎である。そして現実にどうやって歴史が残されてきたのかといえば、媒体の不滅性ではなく、写本によってである。今日目にする聖書も古事記も写本であって、マスターは存在しない。「歴史を語り継ぐ」という言葉は比喩ではないのだ。いずれにしても、文字の哲学は、実際には、声の哲学によって内包されており、文字のみせる永遠はいかにも「観念」である。というか、文字の哲学それ自体が、現在を「観念化」する。両者は、一般に、自然（声）と文化（文字）の差異としてなじみ深いものであり、要は自然のほうが優位にある、ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ここにきて、はじめて、声と文字とを区別する必要がなくなる。というのも、文字は声と対立するのではなく、声の遅延であることがわかるからである。文字は、声とは別の速度をもった、一種の声なのだ。</p>
<p>イェルムスレウの言理学の不思議な主張の正しさは、ここではっきりする。ソシュールは文字を声の補助物にすぎないといって自身の言語学から排除し、声を優先的に取り扱ったが、師ソシュールの教えの結論部分に従うなら、かえって文字も声と同様に取り扱うべきなのである。声帯をあつかう器械音声学があるのなら、ペンや筆をあつかう器械書字学があってもよいのだ。デリダのようにソシュールを反転して文字の優位を主張するのはやりすぎであり、跨ぐべきでない理論的根底を不当に横断することになってしまう。声と文字を反転させるためには、それらが対立しているという観点が不可欠だが、文字もまたいずれ消え去る以上、両者の対立は結局維持できないし、そもそも、消える、消えない、という対立自体が、「人間」の寿命を前提した偽の対立だからである。消え去る宿命をもった声の哲学はもとより万能ではありえないが、声の劣位と文字の優位を語ることは、声のもつよき意図をも抹消してしまう。たとえば、自分の話すのを聞く、という円環は、自分の書いたものを読む、という形で起こっているのであり、こうした現前の共同体から文字だけが逃れているなどということはありえない（わたしに言わせれば、自分が話すのを聞く、というこの問題はむしろ記憶痕跡の問題であって、音声中心主義ではなく、内なるエクリチュール中心主義の問題であると思う）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の優位が明らかである以上、むしろわれわれは、究極的には純粋な現在というものを意志せねばならないということである。だが、本質的に声の世界を生きているわれわれには、たえず過ぎ去る現在に身を任せているだけでは、現在――「今」はついに訪れない。</p>
<p>途上で、文字に助けを借りるさまざまな迂回、激流をなだめる遅延が必要ではあるかもしれない。しかし、そのことが、声の哲学を忘れさせることであってはならない。写真に残しておけばよい、紙に書いておけばよい、現在を定着させるのは簡単なことだ、という思考は、声の哲学を忘れて文字の哲学に、つまり観念に逃避しているだけである。</p>
<p>純粋な現在への意志、すなわちわれわれこそ「第一世代」であるという気概、要するに「今」、それは、エクリチュールの魔法を振り切ったときに、かならず現われる。わたしはそのことを確信している。ひとは、「今」を渇望しなければならないし、またそのようにしか生きられないのである。</p>
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		<title>二つの言語論（「精神の歴史」のためのプロレゴメナ３）</title>
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		<pubDate>Sun, 11 Apr 2010 14:23:51 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[History(s) of Spirits]]></category>
		<category><![CDATA[Linguistic Turn]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>

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		<description><![CDATA[ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味（こう言ってよければ《意味されるも [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャック・デリダは言う。</p>
<blockquote><p>比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味（こう言ってよければ《意味されるもの》）の過程として理解されねばならない。観念とは意味される意味であり、語が表現するところのものである。だがこれはまた事物の記号であり、私の精神における対象の代理でもある。対象を意味し、語あるいは言語的な《意味するもの》一般によって意味されるこの対象の代理は、けっきょく間接的に感情や情念を意味することもできる。</p>
<p class="post-r">『グラマトロジーについて』（足立和浩訳）</p>
</blockquote>
<p>彼は言語をある種の「隔たり」であると考える。というか、「隔たり」を作り出すものだと考える。彼の用語で、「間化（エスパスマン）」という。別の言い方をすれば、「隠喩」である。言語とは、究極的になにものかの隠喩であり、しかもそれが名指す対象はついに痕跡の形でしか捉えることはできないものである。言語の対象は、必然的にそれ自身が担う《隠喩性》そのものであって、それを越えることはない。こうした言語観にもとづいて、彼はパロールに対するエクリチュールの優越性を指摘する。というのも、後者が前者の代理物だったとしても、そもそも、言語とははじめから代理物だからである。「それゆえ問題なのは、固有の意味と比喩的意味とを逆転させることではなく、エクリチュールの「固有の」意味を隠喩性そのものとして想定することであろう」（同書）。それによって、彼は意味の解体を、そして言語そのものの解体を目論むことができる。意味が、なにものかの隠喩――というより「隠喩性」そのもののうちに溶解するなら、言語は指示対象を失い戯れのなかにしか存在することができなくなる。根源としての痕跡は、同時に、根源なき、しかし原初的な（つまり根源としての傷を欠いた、そうであるがゆえに傷そのものからは自由となった――とはいっても痕跡の指示する範囲からは逃れられないという点で痕跡は結局根源そのものである）戯れを可能にするからである。</p>
<p>この観点は、ある程度まで正しいが、同程度、誤っている可能性がある。正しい、というのは、方便（レトリック）としてそういう言語観が妥当する場面は実生活上は多々ある、という意味である。しかし、原理的にはおそらくたいていの場合に正しくない。言語が隠喩であるという観点は、そもそも言語がその指示対象そのものではなく、しかもなんらかのつながりをもっている場合に限定される。しかし、言語が隠喩性のうちに溶解して対象とのかかわりを失うと、逆に隠喩という観点そのものが成り立たなくなる。デリダがそうしたように、われわれは、たとえば人体や草や動物や鉱物などと同様に、言語そのものを対象にすることができる。言語は、その他の感覚的な表象と同様に、われわれを喜ばせたり悲しませたりし、またたとえばロープのように対象を死に追いやったり死から救ったりすることもできる。その点では、言語に、その他の対象と異なる「隠喩」という特権を与える必要はない。われわれとあまりに近すぎる物体――たとえば眼球――が目に見えないのと同様に、言語はわれわれの肉体とあまりに近すぎるために隠れてしまう――つまり隠喩となってしまうと考えることは不可能ではない。というか、眼球同様、言葉は《見えすぎている》だけであり、別に隠れているのではないかもしれない。その点で、言語にだけ、その他の自然現象とは異なる奇怪な特権性を与えるのは早計である。</p>
<p>ソクラテスはこう言っている。</p>
<blockquote><p>「…しかし先ず、われわれはある出来事に襲われないように気をつけよう」とあの方は言われました。<br />
「どんな出来事でしょうか」と私は訊ねました。<br />
「言論嫌いにならないようにしよう、ということだ。ちょうど、ある人々が人間嫌いになるように。というのは、言論を嫌うよりもより大きな災いを人が蒙ることはありえないからである。言論嫌いと人間嫌いとは同じような仕方で生じてくる。つまり、人間嫌いが人の心に忍び込むのは、心得もなしにある人を盲信し、その人がまったく真実で健全で信頼に値すると考えた後に、しばらく経ってからその当の人が性悪で信頼に値しないことを発見することから始まる。他の人についても、再び同じ経験をする。こういうことを人が何度も蒙ると、とりわけ、それまでもっとも近しくもっとも親しいと考えていた人々によってこのような仕打ちを受けると、遂には度重なる怒りの果てにすべての人を憎むようになり、どんな人にもいかなる健全さもまったくない、と考えるようになるのだ。…」<br />
「…人が言論についての心得もなしに、ある言論を真実であると信じ込み、それからわずか後になって、それを偽りであると思うようなときに――本当にそうである場合もそうでない場合もあるだろうが――そして、再び他の言論についてそのような経験をくり返すときに、言論と人間は似ているのだ。とくに矛盾対立論法にたずさわって時を過ごしている連中は、君も知ってのとおり、ついには最高の賢者になったつもりになり、自分たちだけが真理を見抜いた、と思い込んでいるのである。すなわち、およそ事物についても言論についてもなにも健全で確実なものは存在せず、すべてのものは、あたかもエウリポスの流れの中にあるかのように、かなたこなたへと変転し、片時もいかなるところにも留まることがないのだ、と」</p>
<p class="post-r">『パイドン』（岩田靖夫訳）</p>
</blockquote>
<p>デリダとソクラテス、言語に対する二つの思考法のどちらが正しいか、俄には判断し難いが、いずれにしても、これらの観点がずいぶん異なっていることだけはたしかである。言語と対象のつながりを完全に切断したデリダ。そんなことはないというソクラテス。言語が真実を述べている場合、言語はそれにもかかわらず隠喩であるというべきなのだろうか。それとも、言語が真実を述べているなら、言語もまた真実なのだろうか。言語が真実であることを信じきっていた人間が裏切られて逆の立場――すなわち言論嫌いに陥る、というソクラテスの主張は、ある出来事を想起させずにはおかない。それは、近代における二つの潮流、実証主義と言語論的転回である。近代において、科学が真理に到達するという確信が実証主義をもたらし、その挫折が言語論的転回をもたらしたことは、記憶に新しい。ソクラテスの発言はそのことの予言でもある。</p>
<p>さらにソクラテスはこう言葉をつなげる。</p>
<blockquote><p>「言論にはなにも健全なものはないかもしれない、という考えが心の中に忍び込むのを許さないようにしようではないか。むしろ、われわれ自身がいまだ健全ではない、という考えをもっと受け入れることにしよう。そして、健全であるべく勇気をふるって努力しなければならない。君やその他の人々はこれから先の全生涯のために、僕は死そのもののためにね。…」</p>
<p class="post-r">同前</p>
</blockquote>
<p>つまり、言論が往々にして対象と関係しないからといって、その本質を《隠喩性》のうちに解消するのではなく、たんに、われわれが言語をうまく使えていないだけかもしれない、と考えるようにしよう、というわけである。もちろん、わたしはデリダよりソクラテスの発言を好む。同じ国語にかぎっても、言語を完全に使いこなせる人間など滅多にいない。矢が的中しないからといって、矢の本質を的中しないことに置くのがおかしいことは、誰でもわかる。自分が下手な射手だと考えるのがふつうだろう。「ライオン」という言葉がライオンそのものではないからといって、「ライオン」がライオンの隠喩だと考えるのは、矢が的そのものではないから矢は的の隠喩だと考えることと同じくらい、おかしなことである。逆にいえば、言語とは本質的に比喩である（＝的に当たらない、あるいは的ではない）、というような発言は、言語について相当の努力を払ってきた人間だけが、なんとか許される謙遜やユーモアであって、デリダならまだしも、わたしに許されるはずもない。「サッカーとは点が入らないものだ」、という言い方は比喩としては許される（し、その発言者がたとえばリオネル・メッシのようなプレイヤーならなおさらだ）が、現実にはそんなことはないように、「言葉とは本質的に隠喩である」、というような発言は、それ自体が、言葉がじつは隠喩ではないことの隠喩である。そうはいっても、言葉が真理を射抜く場面は、いたるところに転がっている。少ないとはいってもサッカーにはゴールシーンがある。「言葉とは隠喩である」という発言をしたのが、全身全霊を賭けて言語に挑んだ小説家ならまだ納得するが、批評家や駆け出しの小説家が、それがさも真実であるかのように言うべき言葉ではないはずだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>いくらか蛮勇を奮って、すこしこの議論を先まで進めてみよう。</p>
<p>言語そのものを言語の対象とするいわゆる「自己参照」は、粒子と場の自己相互作用と同じように、必ず無限ループに陥る。この無限ループは対象との不一致を主体の側に引き起こさないわけにはいかない。この不一致こそが精神（主体）と呼ばれるものである。普通は、精神が同時にこの不一致を引き受けることで（つまり精神とは自己相互作用に対するマイナスの相互作用だと考える）、これを解消する。しかしこの不一致が精神に引き受けられないほど巨大になる場合がある。というより、無限ループによって生み出された精神自身が、上記の解決法を拒絶する場合がある（拒絶こそ治癒だと誤解されるのだ）。このとき、ひとは、それを精神病と呼んで医者の治療に委ねるか、あるいは歴史に委ねるという他力本願的な方法を取る。後者の場合にあらわれるのが《民族nation》である。この無限ループは、原理的には、対象の側が有限である以上、それを生み出した自分（精神）の側にしか解決できる可能性がない（医者に頼ったとしても、結局精神病を治すのは自分自身である）。したがって、「自分」を拡張しなければならなくなる。拡張した「自分」、すなわち民族である。たとえば「わたしは日本人である」ということが成立するなら、問題なく、この無限ループは日本人に委ねることができる。</p>
<p>こうしたナショナリズムを非難しようと思えば、ひとつは、言語と言語のあいだに生じる無限ループ、要するに観察する自己と対象としての自己との不一致を、《差異》として受け容れることである。これがデリダの解決方法であり、彼はこれをとくに「差延」という。それは、この無限ループを解決しないことであり、そうした態度のことを、彼は言語学的な言い方をして《隠喩性》といっているわけである。傷ではなく痕跡に留まることが、もっとも正しいひとのあり方だと言いたいのだろう。かくして、知は「エウリポスの流れ」（アリストテレスは予測不能のこの海峡の流れに身を投げて自殺したという伝説がある）のなか、差異の戯れのなかに埋没した――これが、悪い意味でのポストモダンといわれるものであろう。というのも、この態度は、無限ループの解決ではなく、つねに‐すでにひとが行なっている無限ループを増大させることにしか貢献しないからである（だから可笑しなことだが、デリダ自身が差延とは両義的なものだと言っていた）。</p>
<p>さて、近代以前のひとびとは、対象としての自己と、対象を眺める自己との不一致が引き起こす無限ループを、どうやって解消してきたのか。当然、《神》が推測される。現代人ならば御存知のとおり、《神》は人間が生み出したものである。したがって、この場合でも、結局は自己解決である。無限の精神が、無限ループを引き受けるわけである。しかし、ソクラテスの態度を見ていると、もうひとつの解決方法があるように思われる。すなわち、たんにその無限ループを引き受けるにたるだけの精神的成長を遂げることである。《わたしは狂気を受け容れる》……本当の作家は狂気を伴侶としている。狂気――すなわち無限ループを、自分自身の精神で引き受けるのだ。にもかかわらず、あるいはそうであるがゆえにこそ、この作家は健康である。医者や歴史や神に狂気を委ねるのではなく、未来の自分に委ねること――それをニーチェは、超人といったと、わたしは思う。</p>
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		<title>ただ、彼らの横を通り過ぎた</title>
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		<pubDate>Fri, 19 Dec 2008 16:37:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Critique of Phonocentrism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Dragon]]></category>
		<category><![CDATA[Science of Incidents]]></category>
		<category><![CDATA[背面世界論]]></category>

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		<description><![CDATA[言葉がみちて、やがてあふれて現実を穿つとき、わたしたちは、それを《出来事》と呼ぶことがある。それは真理の名に値する唯一のものであり、そして同時に名状しがたい美しさをもっている。 だが、こうした「思考」を否定する背面世界論 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>言葉がみちて、やがてあふれて現実を穿つとき、わたしたちは、それを《出来事》と呼ぶことがある。それは真理の名に値する唯一のものであり、そして同時に名状しがたい美しさをもっている。</p>
<p>だが、こうした「思考」を否定する背面世界論者や皮肉屋たちの群れがある。夕暮れ時の色をした言葉の指差しているのは、出来事というよりは、「意味」である。いつも振り返る者たち、すなわち歴史家が若くして老いたその指に触れるのは、《出来事》ではなく、「歴史」である。つまり、《出来事》にたどり着くには「意味」や「歴史」はあまりに非情なのだ。</p>
<p>ここでわたしたちは、二人の人間に出会う。ひとりは、出来事にたどり着けないことに目をつぶって実証主義者として振舞う裏返しの背面世界論者。そしてもうひとりは、出来事を諦めること、たとえばテクストの内側にとどまること、それ自体を、最大限に可能な真理ならざる真理として受け容れる、脱構築主義者である。</p>
<p>彼らは、多かれ少なかれ、歴史家である。出来事を目ざして進むひとたちが、出会う最初の障壁が、「意味」であり、そして最後のそれが「歴史」である。出来事はつねに彼岸にあり、わたしたちはそこにたどり着くことができない。だが、わたしはそうした思考とは無縁の人間である。</p>
<p>こうした歴史学的な思考、要するに非―思考には、もう飽き飽きしている。良くも悪くも混濁しているジャック・デリダには、まだ可能性がある。だが、やはり良くも悪くもデリダほど混濁していない柄谷行人には、もはや可能性はあまりない。いずれにしても、彼らはよく似ているし、わたしは、彼らとは無縁でいたい。要するに、わたしの哲学は、カントとは無関係でありたい。音声中心主義批判が取り出す差延は、カントの超越論的主観とほぼ正確に同じものである。それらは、可能性であると同時に不可能性だが、こうした両義性を、彼らは保持し続ける。両義性、それは、過去を解釈し、未来を予言しようとする現在の人間には必要不可欠なものだ。こうした言説は見かけ上つねに正しいが、なにも生産しない。なにも判断せずに懐疑にとどまっているうちは、本当は正しいも間違っているもない。ニーチェ風にいえば、現在の人間のために語る彼らは、いまだ竜ではない。わたしは、わたしの竜を探している。</p>
<p>ともあれ、わたしは引き返しはしなかった。ただ、彼らの横を通り過ぎた。</p>
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		<title>プラトニズムを追求すれば、ひとは外へ出てしまう</title>
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		<pubDate>Thu, 21 Aug 2008 13:13:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Critique of Phonocentrism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Homeros]]></category>
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		<category><![CDATA[Platon]]></category>
		<category><![CDATA[実態]]></category>

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		<description><![CDATA[いつしか、わたしは不思議な感覚に囚われるようになった。それは、歴史よりも、文学のほうが、大きな概念なのではないか、ということだ。なぜ、ホメロスは、歴史家ではなく、文学者と呼ばれるのだろうか。『イリアス』は、なぜ、歴史書で [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>いつしか、わたしは不思議な感覚に囚われるようになった。それは、歴史よりも、文学のほうが、大きな概念なのではないか、ということだ。なぜ、ホメロスは、歴史家ではなく、文学者と呼ばれるのだろうか。『イリアス』は、なぜ、歴史書ではなく、文学なのだろうか。また、歴史家と呼ばれるヘロドトスやトゥキュディデスは、ドキュメンタリー作家と同じことをやったと考えてよいのだが、だとするなら、史料＝テクストから《実態》を構成しようとする近代の歴史家とも同じことをやったと考えてよいのだろうか。</p>
<p>われわれは、歴史や文学を、十把一絡げに《物語》と呼ぶことがある。だが、歴史と文学は、まったく異なる概念である。それは、一方が事実を、他方が虚構を扱うからではない。むしろ、そのちがいは、両者が生成される瞬間にある。一方の歴史は――とりわけ近代の歴史学は、一般的には、残されたテクストから、《実態》を生成させようとするものである。逆に文学は、一般的にいって、出来事を言葉に封じ込めようとするものである。つまり、端的に、逆の運動である。かつてジャック・デリダがいったように、テクストに外部はない。これは正しい。だが、外部を言葉によって表現しようとすることは、まったく別の問題である。問題構成がそもそも異なっている。したがって、「音声中心主義」批判を文学に拡張することは、じつは許されないはずである。自分の声を聞くことが、差異（差延）を実現し、言葉（声）を実現するとして、それが、意味とシニフィアンの（悪）循環を構成する、という理論は、文献学の批判としてはつねに正しい。つまり、文献学的な歴史は、結局は、「音声中心主義」的な閉じた円環がつくる物語に過ぎない、そして言葉は、ついに「比喩」であることを越えることができない。</p>
<p>だが、「物語」と言ってしまった瞬間に、歴史が文学と混同されてしまう。文学は、はじめから「物語」だったからだ。歴史は、期待しているほど真実に似てはいなくて、「物語」にすぎなかった。それを認めるとして、ならばはじめから「物語」だった文学も、同じように真実ではないものとして非難することは許されるのだろうか。もちろん、そうではない。むしろ、デリダの観点を忠実に踏襲するなら、じつは、文学の方が、真実にもっと似てくるはずなのである。なぜなら、文学は、どう考えても、音声を文字に変換する実践的な運動（すなわち言文一致運動）だからだ。端的に、文学の実践は、音声中心主義批判の実践なのである。つまり、デリダがただ理論的に口にしたにすぎない音声中心主義批判を、実際に行なってみせていたのは、しかもデリダが言い出すよりももっとはやくに行なっていたのは、文学なのである。</p>
<p>しかし、多くのデリダ主義者たちは、誤りを犯した。言葉は比喩にすぎない、というデリダのテーゼを、文学にも拡張するという、怠慢をやってのけたのである。それを聞いたら、本当の文学者はきっと腹を抱えて大笑いしたことだろう。「アーハッハッハ、イーヒッヒッヒ……。そりァそうですよ、言葉は比喩に決まってるじゃないですか。なにをそんな大そうに言ってるんです？」</p>
<p>デリダ主義者の批判以後、文学者は、ついに笑い死にしてしまった。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>われわれは、なにはなくとも、自然を目ざす。しかし、歴史の運動は、そうした自然に対する欲望をブロックする。なぜなら、テクストの外部はない――「ない」という言い方がまずければ、《物自体》と言ってもいい――からだ。テクストから出来事＝自然を目ざそうとしても、われわれは、テクストから出ることはできないのだ。テクストの探求は、むしろかえって、自己認識――歴史認識を構成する。学校の教師が教えるような歴史学をひとたび忠実に実践すれば、出会うのは、客観的な真実ではなくて自意識ばかりであり、またそれで正しいのである。歴史学者がいう客観的な事実など、通例の手続きに則ったものというだけにすぎないし、また、歴史学者は、自身の結論が、客観的な事実ではありえないことを、実際には重々承知しているものなのである。実証主義者がいう《実態》とは、結局は歴史認識のことであり、そして、「あなたの言う《実態》とは、歴史認識のことではありませんか」という人間が、思想史家と呼ばれるひとたちである。つまり、よく考えてみると、《実態》と歴史認識は、同じものなのだ。そして、だとするなら、実証主義者と思想史家も、同じ人種でいがみ合っているだけ、ということになる。</p>
<p>ここから、歴史とは、イロニーの運動である、というテーゼが成立する。すなわち、自然を目ざしながらそこを迂回する、否定の運動である。つまり、歴史とは、徹頭徹尾、《批評》的なものなのである。ここでは、どうしても、理論は現実ではない、という考えに食指が動いてしまいがちになる。言葉は現実ではなく、理論も現実ではない、したがって、歴史とは歴史認識のことである……。こうした思考は、ヘーゲルにそっくりである。そして、出口なき道を進みながら、それを自壊させることで脱構築する、という考えも、ヘーゲルにそっくりである（とわたしは思う）。なぜなら、出口なき道を自壊させたあとも、痕跡だけになった道から出ることを、デリダは許していないからだ。そこから出てしまえるのなら、そもそも、出口なき道は自壊してくれるくれない以前に、成立もしない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>文学者はいう。言葉は比喩だとして、ならば、自然はなんなのか、と。人間は、猿にそっくりだ、と文学者はいう。文学者にとって、人間は、猿の比喩なのだ。わたしは何が言いたいのか――要するに、自然は、すべて比喩でできている、ということだ。自然科学者と同じように、文学者もまた、人間が猿の比喩であることを認める。自然そのものが、つねに-すでに、なにものかの比喩なのだ。マルクスが、「人間の解剖は、猿の解剖に役立つ」と言ったとき、これがきわめて優れた文学的な比喩であることを、誰が理解しただろうか。だから、言葉は比喩にすぎない、という指摘をしたって、とりたてて意味がない。自然もなにものかの比喩だからである。マルクスをもじっていえば、文学の探求は、自然の探求に、役立つのである。あるいはこうもいっていい。つねになにものかのイデアを思考し続けるプラトニズム、永久にとどまることのない連鎖をつづける、この《プラトニズムを、本気で追求すれば、ひとは、外に出てしまう。》不思議なことに、プラトニズムは、プレソクラティクスに合流してしまうのだ。</p>
<p>言葉は出来事である、言葉は自然である――嘘でもいいから、そう口にしてみよう。後のことは、わたしが責任をもつ。もはや、こうした思考は、弁証法とも、脱構築とも、まったく関係がない。なぜなら、はじめから、《外》に出ているからである。つまり、《自然》なのだ。だから、ヘーゲルのように、外に出ようとすることは問題ではないし、デリダのように、内側にとどまり続けることも、問題ではない。弁証法や脱構築が、いかに優れた手法であろうと、わたしのいう言葉＝出来事という奇妙な思考は、それとは無縁なのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>歴史よりも、自然の方が大きな概念である。そして、このテーゼが成立するのなら、同時に、歴史よりも、文学の方が大きな概念である、ということも成立する。歴史＝批評＜自然＝文学、というわけである。</p>
<p>しかし、こんなことをいっても、ひとは信用しないだろう。文学に対する過剰な偏愛だというだろう。そのとおりだ。中上健次は、かつて、折口信夫を「偏愛」していると言った。そのとき、わたしは、彼がわたしと同じ道を歩んでいることを確信したが、たしかに、「偏愛」にはちがいない。だが、そんなことはどうでもいいことだ。わたしは、なによりも、《出来事》になりたいと思っているからだ。それは、歴史に残るということではないし、歴史家になることでもない。たんに、《自然》とひとつでいたいと思っていただけだ。文学のことなど、それほど強く考えていたわけではなかった。ただ、気づけば、こんなところにいた、というだけのことだ。</p>
<p>それにしても、本当に不思議で、奇妙な思考である。文学のほうが、歴史よりも大きな概念なのだ。……</p>
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		<title>狂気について</title>
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		<pubDate>Wed, 09 Apr 2008 04:18:07 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[literature]]></category>
		<category><![CDATA[Critique of Phonocentrism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[insanity]]></category>
		<category><![CDATA[revolution]]></category>

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		<description><![CDATA[わたしは、病院で、こういう話をした。医者は黙って聞いていた。わたしは、この話をするまで、彼のことを、すっかり忘れていた。 ◇ ある男――つまり《彼》が、こんなことを言っていた。 「最近、ひとから、本気の言葉をついぞ聞かな [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>わたしは、病院で、こういう話をした。医者は黙って聞いていた。わたしは、この話をするまで、彼のことを、すっかり忘れていた。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>ある男――つまり《彼》が、こんなことを言っていた。</p>
<p>「最近、ひとから、本気の言葉をついぞ聞かなくなった。言葉を、出来事に生成させようとする意志を、ひとから感じなくなった。こういう国家に、歴史は存在できない。当然だろう、というのも、言葉はいつまでたっても出来事とは無関係なのだから。こういう国家では、言葉は、なにも起こさないのだ。こういう国家には、ほとんど、語るべき歴史が存在できない。つまり、腐敗していくのだ。」</p>
<p>彼によると、とにかく、音声中心主義批判がいけないのだという。「それ以外の点については、批評家という人種を許容できる。が、とにかく、この一点において、彼らは最悪だ。」</p>
<p>彼はつづけた。</p>
<p>「プラトン以来西欧の哲学に存する欺瞞を批判する？　ここには、二重の誤解がある。まず、プラトンは、西欧に固有の哲学者ではない。古代ギリシアは、べつに近代西ヨーロッパとだけ関係を結んでいるのではない。むしろ、プラトンの哲学が直接の関係を結んでいるのは、アジアである。西洋の自己批判といえば聞こえはいいが、プラトンも、勝手に西洋の人間にされてはたまらないだろう。もうひとつは、彼は、一度もプラトンたちの声を聞いたことも、聞こうとしたこともないのに、その音声中心主義を批判したことである。そもそも、テクストの外部がないというのなら、音声中心主義は、まったく批判できないはずである。彼が批判したのは、テクストにあらわれた音声中心主義であって、本当の音声中心主義を批判したのではないし、できっこない。これは屁理屈ではない。デリダに対する、まったく正当な、可能なる批判である！」</p>
<p>彼はなおも口吻を飛ばして語り続けた。「哲学者を全否定できて、いい気になっているようだが、そんな論理は馬鹿げている。人類を全否定できればそれは楽しかろうが、人類にだって、いくばくかの賞賛を受ける権利はあるのだ。そんなことをしている暇があったら、むしろ、プラトンやルソーのような、掛け値なしに偉大な人物から、もっと生産的な声を聞く努力をするべきではないのか。」……どうやら、ずいぶんアルコールが入っているらしい。彼は、何度もテーブルを叩き始めた。そのたびに、グラスや皿が悲鳴を上げた。彼の言葉はなんとなくわかったが、しかし、なにか騙されているような気もした。なにか勘違いをしているのではないか。デリダは、プラトンが、テクストのなかで、音声について語ったことを批判しているのではないのか。テクストのなかで、音声について語ることなどできないのに。つまり、デリダはプラトンではなく、プラトンのテクストを批判したのだ。プラトンという主体が前もってあるなどという保証はどこにもないのだから。それに、そういうのなら、自分こそ、デリダからもっと生産的な論点を引き出すべきではないか。……</p>
<p>「国家は、よい国家であるべきである。そんなことは当然のことだ。」</p>
<p>彼はまだ喋っていた。わたしは、思い切って、よい国家とはどういう国家のことか、と尋ねた。彼は、そのとき、はじめてわたしの存在に気づいたように、やや驚いた視線をわたしの上に投げかけた。彼は、わたしの目をまっすぐに見据えて（わたしはすぐに目を逸らした）、こう話した。</p>
<p>「その問い方はデリダ的だぞ！　しかし、答えてやらなくもない。よい国家とは、そこに属する成員が、自由に語ることのできる国家のことだ。自由に語る、というのは、けっして、好き勝手に語ることではないし、そんなことは、じつはできはしないのだ。自由に語る権利、とは、言葉を、出来事に生成させる権利のことでなければならない。現実の出来事に結び付けないかぎりで、言葉を自由に語ることが許される、というのは、デリダ的には正当なことかもしれないが、それは、不自由の謂いなのだ。そのことにひとが気づかないかぎり、国家は腐敗しながら肥大化し、肥大化しながら腐敗する。わたしは、革命を起こそうなどとはこれっぽっちも思わないし、またつねづね自分の所属するこの国が、よい国家であることを望んでいる。が、こうした不自由な国家は、かならず、望んでもいない革命に出くわすことになるし、それを妨げることはできなくなってしまう。そうでなければ、腐敗のなかで、気づかないうちに、他国に吸収されてしまうのだ。本当に気づかないうちに。」</p>
<p>わたしには、彼のいっていることがよくわからなかったが、どうも、彼は革命を起こしたくてうずうずしているようにみえた。そんなわたしの心を読みとってか、彼はこう言葉をつないだ。</p>
<p>「文学！　ああ、文学よ。革命とは、望むべからざるものだ。わたしが、つね日頃、どれだけ革命を遠ざけようとしているか、君は知らないのだ。革命など嫌いだ！　わたしは、進化したいのだ。……国家は、けっして腐敗すべきではないし、肥大化するべきでもない。国家の自壊は、不幸しか生み出さない。国家の自壊によって、不利益を被るのは、大多数の国民、とりわけ最下層のひとびとだからだ。国家には、百人の、いや千人の、いや百万人のデリダがいて、しかも、批評家という枠に収まって安穏としているという意味では、デリダ以上にデリダ的なやつらなのだ――じつは、わたしはデリダ本人はそれほど嫌いではないのだが――国家を自壊させようとしているのだ。しかし、まあ、いまはそんなことはどうでもいい。肝心なことは、わたしの声を自分の耳で聞こうとすることだ。わたしは、いつも、本気で語る。言葉を出来事に実現しようと、いつも努力している。けっして、斜に構えたりしない。だから、君たちは、いつも、本気で聞こうとしなければならない。そういうひとだけが、時空を超えて、わたしの声を聞くことができるのだ。……君がデリダでなければ、わたしの声が聞こえるはずだ。それとも、君もデリダなのか？」</p>
<p>じつは、わたしは、デリダについて言っていることは除いて、彼の言葉に、共感しないではなかった。ただ、彼の異様な剣幕が、安易な共感をはねつけていたし、わたしの共感など、望んでいないような気もした。だから、わたしは、肯きも否定もせず、ただ、黙って聞いていた。彼は、やや不安そうに（そう見えた）つづけた。</p>
<p>「最近、大人がいなくなった。近頃の大人は、言葉と出来事とが、結びついていないことを示すのが、大人らしい振る舞いだと勘違いしているからだ。みんなデリダなのだ。右も左も、左も右も、デリダばかりだ。デリダを批判するデリダ、デリダに媚を売るデリダ、デリダのことなど知らないデリダ……。だが、そうではない。むしろ、大人なら、そして男なら、一度でいいから、自分の言葉が、現実に実践されるということを、子供に示さねばならないのだ。言葉が、出来事であることを、むしろ率先して示すべきだし、そう努力すべきなのだ。わたしたちは、《言表を意志せねばならない》……。なのに、誰もが、それと逆のことを行なっているというのは、なんと切ないことだろう。情けないことだろう。可哀想な子供たちよ！　尊敬すべき大人など、どこにもいないのだ。ただ、《この社会はよくない》という、ただひとことが言えない大人たちばかりになってしまった。社会のなかに入れてもらおうとするだけなら、かまわない。ひとはなんといっても、生きていかなくてはならないし、そんなことをしなくたって、本当は生きていけるのだとしても、そういう人間がたくさんいるのは、仕方のないことだ。本当は、社会は前もってあるのではなく、わたしたちの後ろにあるのだがな！　《よい社会》ほど、わたしたちの後ろにあるのだし、《悪い社会》ほど、わたしたちの前にあるのだ。だが、それだけでは飽き足らず、社会に媚を売り、他人に社会を強いるなど、卑劣以外のなにものでもない。これをまさに卑劣というのだ。社会を神棚に祭り上げ、わたしもひれ伏しているのだから、あなたもひれ伏すべきだというのだ。……たしかに、“プラトン”などという主体はいないし、立てるべきでもない。だが、出来事としてのプラトンは、充分、彼のテクストからあふれているよ。……しかし、デリダは出来事としてのプラトンを、彼の主体ごと葬り去ろうとし、批評家は、文学を……偉大な文学を、国民国家ごと葬り去ろうというのだ。テクストの内部でたわむれているくらいなら、国民国家は葬り去るべきだ。……しかし、そんなことは、本当に馬鹿げている。文学は別なのだ！　哲学だって別だ。しかし、しかしもう、そうした批評家たちの愚考を止めさせることはできないだろう。彼らは、デリダよりも、心底デリダ的なのだ。もう、脳みそに深く刻まれた溝以外のところに、水が流れなくなってしまっているのだ。ああ、デリダ的だ、それはデリダ的なことだ。……しかし、どうして、わたしはこうもデリダ的ではないのだろう？　もっとデリダ的ならば、わたしも狂人扱いされずにすんだものを！　わたしは、自分が狂人であることくらい、とっくの昔に知っている！」</p>
<p>彼はこう結んで、そのまま沈黙した。長い沈黙の後、驚いたことに、彼は突然泣き出してしまった。そして、仰け反るように、けたたましい音を立てて椅子から転落した。どうやら、癲癇の発作を起こしたらしかった。彼は、誰かが呼びつけた救急車で近くの（いや、そんなことは運転手以外には誰にもわからない）病院に運ばれていった。彼は、担架のうえで痙攣しながら、まだ何か喋っていたが、それはよく聞き取れなかった。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>わたしは、たしかに、彼の声を聞いたと思います。ですが、その意味するところは、結局、よくわかりませんでした。彼はたぶん、正しすぎたのです。だから、狂人扱いされていたのです。わたしたちの社会は、“正しすぎる”という言い方で、ひとを狂人扱いします。本当です。その後、彼には二度と会うことはなかったし、また彼のことを思い出すこともありませんでした。</p>
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		<title>理論家の任務――丸山真男について</title>
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		<pubDate>Mon, 04 Feb 2008 14:30:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[elliptic dialectic]]></category>
		<category><![CDATA[Gödel]]></category>
		<category><![CDATA[Gödelsche Unvollständigkeitssatz]]></category>
		<category><![CDATA[Hegel]]></category>
		<category><![CDATA[machine de guerre]]></category>
		<category><![CDATA[Masao Maruyama]]></category>
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		<category><![CDATA[Seurat]]></category>

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		<description><![CDATA[丸山真男はこういっている。 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>丸山真男はこういっている。</p>
<blockquote><p>本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっぽりと包みこむものでもなければ、いわんや現実の代用をするものではない。それはいわば、理論家みずからの責任において、現実から、いや現実の微細な一部から意識的にもぎとられてきたものである。従って、理論家の眼は、一方厳密な抽象の操作に注がれながら、他方自己の対象の外辺に無限の広野をなし、その涯は薄明の中に消えてゆく現実に対するある<span style="font-weight:bold;">断念</span>〔強調は丸山、原文は傍点〕と、操作の過程からこぼれ落ちてゆく素材に対するいとおしみがそこに絶えず伴っている。この断念と残されたものへの感覚が自己の知的操作に対する厳しい倫理意識を培養し、さらにエネルギッシュに理論化を推し進めてゆこうとする衝動を喚び起すのである。（『日本の思想』岩波新書、60ページ）</p></blockquote>
<p>理論家は、現実に対する「断念」と、そして理論化（抽象化）の過程でとり残されたものに対する「いとおしみ」とを有している――これが、丸山の主張である。ぼくには、この議論から、即座に、彼がもっている、あるひとつの論理的根底のようなものを見つけ出すことが出来る。それは、カント‐ヘーゲル主義であり、とどのつまり、《弁証法》である。当然、このようなタイプの議論は、戦後のある時期以降には、散々批判されてきたものである。この議論の粗を指摘するのは、いまでは、それほどむずかしくはない。丸山のいうように、理論家の行なう操作が、たえず現実から、なにかをこぼれ落ちさせるのだとしよう。抽象化という語を、この学者特有の意味で厳密に使用するかぎり、それは、避けられない。むしろ、そのことを受け容れなければならない。だが、にもかかわらず、理論家には、指のあいだからこぼれ落ちたものを再び掬おうとする「衝動」がある、という。この「衝動」の根拠は明らかではないが、それはひとまず問わないでおこう。問題は、丸山のような形で「抽象／理論」化という語を使用するかぎり、なにをどうあがこうが、永久に真理には到達し得ないことが、その学究のはじめから承認されてしまうことである。</p>
<p>それにもかかわらず、この理論化（抽象化）の過程がなんらかの真実に近づいている、と理論家自身にみなされているのであれば、それは、弁証法以外のなにものでもない。つまり、彼の言葉はつねに現実とは異なる、抽象化された理念なのだが、にもかかわらず、それが現実に近づくというのだから。この理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」が、そうして真理に近づいていくという夢想を根拠としているのであれば、彼は、ヘーゲル的な観念論者、もっというなら、彼がこの引用の冒頭で批判したとおぼしきロマン主義的な観念論と、結果的にはなんらかわりはない。そもそも、彼は対象の背景に「無限の広野」を認めている。したがって、じっさいには、彼がなにを行なおうと、真理には永久に到達できないし、そればかりか、近づきもしないのである。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>とはいえ、そうしてヘーゲル主義的に丸山を読んでも、おもしろくもなんともない。「断念」という語の強調を、極大まで拡大してみよう。そうすれば、この発言は、ただちに、もっとデリダ的なものに変身する。テクストの外部について、理論家は、「断念」せねばならない。そうであるがゆえにこそ……というわけだ。</p>
<p>かりに、ヘーゲル主義的な、理論と現実の弁証法を前提しないでこれを読むなら、丸山は、けっして、この議論において、理論家の「エネルギッシュ」な「衝動」の根拠を明かしていない。この理論家は、はじめから理論が現実に到達するのではないことを知っていながら、にもかかわらず、そうした理論化を行なおうとする。したがって、この「衝動」は、彼をすこしも前進させない「衝動」なのであるし、じつは、この丸山の議論は、もっと奇妙である。おそらくは、丸山が、心のどこかで無自覚のうちに認めていたような、こうした無根拠な「衝動」において、読むべきなのだ。……</p>
<p>実際には、丸山は、構造主義的な観点、もっといえばデリダ的な観点から非難されてきた。それは、ぼくがいまさきにうえで行なったようなやり口で、である。だが、丸山の議論の構造は、ぼくらが思っている以上に、もっとデリダ的である。大胆な言い方をすれば、印象はずいぶんちがうが、丸山とデリダは、それほどちがっているわけではない。現実について「断念」しつつ、「いとおしみ」と「衝動」をもつ、という、この学者のスタイルは、テクストと外部とを遮断しつつ、その断絶を受け容れたうえで、脱構築を試みようとしていたデリダのスタイルと、同じである。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>この手の議論は、その断絶の大きさを競う議論になりがちである。丸山は、ロマン主義的な、つまり即自的な自他の統一を認めない。デリダは、ヘーゲル的な弁証法も認めない。ここにはもちろん差異はあるが、しかし、質的には変わらないのである――というか、まさに、こうした違いのことを、ひとは思い入れを込めて、「質的に違う」と言いたがるのだろう。この方向で議論していけば、いずれ、カントの《物自体》にまで行き着くことは眼に見えているのである。もちろん、そこまで遡らなくとも、ゲーデルの不完全性定理で充分なのである。柄谷行人が典型的だが、柄谷はデリダを批判して、その枝葉を刈り込んで、ゲーデルの不完全性定理からカントの物自体にまで洗練してしまったわけである。丸山にせよ、デリダにせよ、柄谷にせよ、その無根拠な「衝動」には感心するし、認めもするが、しかし、もはやぼくは関知しない（ぼくのほうでされているはずもないのだが）。</p>
<p>そもそも、ゲーデルの不完全性定理はどう考えても二流の議論である。たしかに、現実と言葉とが、一致するなどと考えている三流は批判できるだろうが、じつは、そんなひとは、たぶん、ほとんどいない。いたら狂人である。そのレヴェルでは、まちがいなく、言葉と現実とが違うことくらいはあきらかに知っている。もともと、一流は、そんな議論とは無縁にやっているのである。たとえば、絵と現実は、あきらかに違うし、数学と現実も、あきらかに違う。だが、にもかかわらず、画家や数学者は、それを真理として、絵を描き、真理として、公式を編み出しているのである。アインシュタインの相対性理論は、あきらかに、彼なりに研ぎ澄まされた絵筆で描かれた絵画なのである。彼は、量子力学には反対したが、それは、ゴッホがゴーギャンのような絵を描かなかったのと、同じことである。</p>
<p>花田清輝のように、アヴァンギャルド芸術を非現実とみなし、そこから反転し、現実世界へと目を向けるための否定的媒介とみなすような論者がある（だから、花田は、彼一流の「レトリック」を弄して、アヴァンギャルド芸術を否定的に絶賛してみせる）。これも、じつは、丸山や柄谷の議論とそう変わるわけではない。非現実。虚構。彼らは、こう考えている。学者や芸術家に求められているのは、ひとを現実へと振り向けさせるための非現実や虚構を仮構することだと。そしてそれこそが、真のリアリズムだと考えている。このようなひとたちは、哲学や芸術、科学が、本当はなにをやっているのか、わかっていない。あげくのはてに、今日では、現実との接点を欠き、ついでに緊張感も欠いたマンガやゲームが、花田がアヴァンギャルド芸術を褒めたのと同じやり口で称賛され、腐敗が進んでいる、というわけだ。ぼくらは、戦争という悪性の腫瘍を外科手術をやって取り除いたはいいが、そのとき、大事な《戦争機械》（ドゥルーズ＆ガタリ）という神経も一緒に切り取ってしまったらしい。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>絵画と現実がちがうだとか、数学と現実がちがうだとか、そんなことを、ゴッホやアインシュタインにいえば、もちろん笑って、こういうだろう。「そのとおり」と。ぼくならそこに「よかったな」とも付け加えるだろう。しかし、それは、出発点とさえ意識されないような、前提中の前提なのであって、そんな議論をことさら強調する必要はないのだ。べつに否定はされない――というか、ぼくらは、なにひとつ否定などしないのだ。ニーチェのいった、三度ヤーだ。だから、彼らは、たんに、そんな議論とは、いちはやくおさらばした。労働者が穴を掘るのと同じ力強さで、ぼくらは、ぼくらで、ほんものの作品を作りあげるのだ。だから、ぼくらもさっさとそんな議論にはおさらばしよう。ゲーデルの不完全性定理だって、立派に現実である。なぜなら、この定理は、なにも起こさない、ということを起こしたからだ。丸山も、デリダも、その理論が、なにも生み出さなかったというそのことにおいて、立派に現実的だった。</p>
<p>穴を掘り、ビルを建て、絵を描き――そういえば、スーラは、絵を描くことを、壁に穴を開けることだと言っていた――、数学の公式を作りあげるように、ぼくらはぼくらで、三流と呼ばれてもいいから、立派な作品をつくればよいのだ。そして、こう言えばいい、優れた理論と、そして優れた現実は、あなたがたが思っているようにではないとしても、必ず《一致する》のだ、と。もちろん、それは、丸山やデリダが忌み嫌う狂気であるけれども。……</p>
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		<title>言葉の無力</title>
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		<pubDate>Sun, 27 Jan 2008 12:08:59 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[déconstruction]]></category>
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		<description><![CDATA[Ａ：　言葉は無力である、とあなたは言った。 Ｂ：　そうだ。言葉は無力だ。言葉は、本質的に、比喩なのだ。レトリックといってもいいし、現実のまとうリプレゼンテーションといってもいい。ただし、リプレゼンテーションは、じつは、現 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p class="post-n">
<strong>Ａ</strong>：　言葉は無力である、とあなたは言った。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうだ。言葉は無力だ。言葉は、本質的に、比喩なのだ。レトリックといってもいいし、現実のまとうリプレゼンテーションといってもいい。ただし、リプレゼンテーションは、じつは、現実と結びついてはいない。本質的に虚構であり、媒介的なもの、ヘーゲル的なものだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　ヘーゲル……。あなたはずいぶんヘーゲルがお好きなようだが、ならば、あなたはいったい、なにによって戦うのか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　いやいや、ちょっと待ってくれ。ヘーゲルは好きではないよ。むしろ、ヘーゲルに反対しているのだ。言葉がヘーゲル的なものだからこそ、最終的に、言葉そのものが、否定されねばならないと言っているのだ。だから、その質問に答えるなら、こう――現実だ。言葉と現実は違う、現実において戦うのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　いや、あなたはぼくの問いに答えていない。あなたは言葉は無力だと言った。現実において、どのように戦うのか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ふふ……それは悪かった。たしかに君の質問には答えていないようだね。君の質問は本質をついていて、それだけ大変難しいのだけれど、……あえて、いってみれば、こういうこと――言葉が無力であるということを、言葉で示すことによって、戦うのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　それは、もっともらしい言い方だが、あなたの言葉に説得力があるとは思えない。そういう言葉に満足するのは、むしろ、言葉を用いることを常としている学者や政治家ではないのか。言葉を語る権利を持つ者だけが、言葉の無力を主張できるのではないか？<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ん？　……どういうことだ？<br />
<strong>Ａ</strong>：　ぼくはあなたのようには考えない。ぼくは、言葉は暴力であると思う。けっして無力ではない。言葉はときに、ひとを本当に殺す。あなたがいかに言葉の無力を主張したところで、剣や爆弾よりも、言葉こそが……。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ちょっと待った、君の話を途中でさえぎって申し訳ないが、それは誤解だ。言葉は無力だ。なにも行いはしない。君は、どうやら言葉と現実を混同している。だってそうだろう、たとえば椅子を持ち上げるように、言葉を持ち上げることなどできないのだから。言葉とモノは違うのだ。たしかに、多くのひとが、美と自然を混同している。美は、自然を享受する認識の側にある。美と自然とが分かたれねばならないように、言葉と現実は区別されなければならない。<br />
<strong>Ａ</strong>：　カント……。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうだ。君がそれを知っているならば、話ははやい。《物自体》は、他者であり、わたしたちの認識からは区別されねばならない。<br />
<strong>Ａ</strong>：　この二人の対話も、本質的に遮断されている、と。断絶があって、コミュニケーションは成立していない、ということか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そういうことだ。もちろん、君のように考えてしまうのは無理もないとも思うけどね。君は、言葉がひとを殺すといったが、そうではなくて、言葉と現実を混同する、この誤解のほうが、ひとを殺すのだよ。嘆かわしいことだが、多くのひとびとが、君同様に、言葉と現実を混同している。だからわたしはなんとかしてその誤解を取り除こうと、日々無駄な努力をしているのさ。情けないことだが、そうして、身近なところからコツコツやっていくしかないのさ。君のように血気盛んな若者があせる気持ちもわかるがね。ところで、いまわたしの用いている言葉も、比喩にすぎない。けっして現実ではない、ということは、重々承知しておいてくれたまえ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　…………。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　不満そうな顔をしているな。なら、もうすこし希望に満ちた話をしよう。たしかに、わたしたち二人の会話は、結局なにも通じ合っていない。だが、そこにこそ、可能性があるのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　（笑）。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　なにがおかしい？<br />
<strong>Ａ</strong>：　脱構築……？<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうだ、知っているのか？<br />
<strong>Ａ</strong>：　知っている――というか、よくわからないな、それは。弁証法とどう違うのか。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　おいおい、やめてくれたまえ、なんだ、君はたしかによくわかっていないようだ。弁証法と脱構築はまったく反対の概念だよ。君の言うその弁証法を批判するのだよ、脱構築は。言葉は無力である、現実とは結びついていない、そのことが、可能性／不可能性なのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　可能性なのか、不可能性なのか、どっちだ？<br />
<strong>Ｂ</strong>：　おいおい、困ったな……。たしかに、脱構築は、微妙な概念だからね。可能性であると同時に不可能性なのだ。人生はそんな簡単なものではない。こうした二者択一をこね合わせてひとつにするべきではないのだよ。デリダは、そう言って、弁証法の概念にとどめを刺したのだ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　…………。<br />
Ｂ：　つまり、言葉は、無力なのだ。だから、言葉の無力を言葉によって示すことによって、われわれは戦うことなく戦うのだよ。<br />
<strong>Ａ</strong>：　勘弁してくれ………<br />
<strong>Ｂ</strong>：　ん？　なにか言ったか？<br />
<strong>Ａ</strong>：　勘弁してくれと言ったのだ。いや、もうあなたと付き合っている暇はない。ぼくは別のところに行くことにする。どうやら、あなたとは理解しあえないようだ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　どこかにいってくれてもかまわないし、べつに困りはしないが……。おせっかいを承知で一言忠告しておけば、そうやって君がいうように「理解しあう」ことなど、できないのだよ。君も、もうすこし大人になってくれるといいのだが……。はっきりいうが、理解しあえる閉じた場所でだけコミュニケーションしようとするのはいい加減止めたまえ。君は要するに、ロマン主義者なのだよ。若いうちはそれでもいいが……。<br />
<strong>Ａ</strong>：　ははは。なるほどね。ぼくは、デリダは好きではない、とだけ言っておくよ。ヘーゲルの方が、「まし」だと思う、とも言っておこうか。とにかく、あなたとのおしゃべりはもうたくさんだ。たしかに、あなたのいうように、無力な言葉というものも、あるらしい。あなたはあなたのやりかたで、「戦うことなく」戦ったらいい。ぼくはぼくの道を、つまり戦うことのできる道をいくことにするよ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　そうしたまえ。……君は見込みがあると思ったが……。<br />
<strong>Ａ</strong>：　思い違いだろう。とにかく、さようなら。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　さようなら。（やれやれ、コミュニケーションは、やはり、成立しないことが、また実証されたというわけだ。君にそれがわかるといいが……。）<br />
<strong>Ａ</strong>：　そうだ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　なんだ？<br />
<strong>Ａ</strong>：　ぼくもおせっかいついでに一言いっておこう。あなたが持ち上げたのは、本当に椅子だったろうか――この質問を餞別に残しておくよ。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　なにを言っている？<br />
<strong>Ａ</strong>：　いや、たんなるおしゃべりだ。今度こそ、さようなら。<br />
<strong>Ｂ</strong>：　……さようなら。</p>
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		<title>日本の実証主義の特異な構造について</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Jun 2007 18:36:32 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[history]]></category>
		<category><![CDATA[Cézanne]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Frankfurter Schule]]></category>
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		<category><![CDATA[Linguistic Turn]]></category>
		<category><![CDATA[positivisme]]></category>
		<category><![CDATA[social constructionism]]></category>
		<category><![CDATA[遠近法]]></category>

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		<description><![CDATA[いくらか専門的な話になるが、眠気と酔いにまかせて今日はつまらない話をしよう。この現象は、日本の特異な言説空間をよく示しているといっていい――日本の実証主義の構造についてである。構造――構造というのは正確ではない。もっと、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>いくらか専門的な話になるが、眠気と酔いにまかせて今日はつまらない話をしよう。この現象は、日本の特異な言説空間をよく示しているといっていい――日本の実証主義の構造についてである。構造――構造というのは正確ではない。もっと、模糊とした混淆物といったほうがいいのかもしれない。わたしはいくらか怒りを覚えているのでこれを書いているが、他方でどこか醒めている自分がいて、もはや彼らを説得する気はなくなっているし、議論する気もない。わたしはわたしの信じた道を行くのみである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、デリダや、あるいはヘイドン・ホワイトのような言語論的転回（linguistic turn）論者の議論はご存知だろうか。もうずいぶん昔に流行ったもので、いいかげん次のステージに進んだ方がいいと思うが、暴力的に簡略化してしまえば、テクストの向こう側になにか実態があるというような、そうした議論についての根本的な疑義のことである。つまり、歴史学者（や社会学者）を批判していると考えればいい。歴史学は、資料の向こう側に過去のなんらかの事実があったという前提（ア・プリオリ）によって成立している。だが、それがいかに客観的事実と称して提示されようと、ついに歴史学者の解釈を超えることはなく、主観の産物を超え得ない、という批判である。要するに、過去はカントの言う“物自体”であって、“物自体”が不可知であるように、テクストという表象から過去を再現することはついに不可能だ、という議論である。つまり、歴史学とは、科学的な課題というよりは、認識論的な課題なのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>わたしは原則的にこの議論を受け容れる。正しいからである。とはいえ、この批判をそのまま日本の実証主義に敷衍できるとは思われないし、たんにこの批判は上滑りするだけだろう。なぜなら、日本の実証主義者は、そもそも自身の議論が恒久の真理だとは考えていないからである。《実証》という言葉が統整的理念にすぎないことを彼らは最初から知っているのである（こういう彼らの目ざとさは、おそらく、日本の地理的な条件から来ているのだろう）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>昨今の日本の実証主義者の多くが、《言語論的転回》論者の批判に次のように答えるだろう。「自ら提示する記述を永久不滅の真なるものと考える実証史家は存在しない」。つまり、実証主義者にせよ、それが客観的真理などという大仰なご宣託を述べられるわけではないことを知っている、というわけだ。また、彼らは次のようにいう。実証主義とは、理想論なのであって、たとえ目的にたどりつけないとしても、そこに向かって努力せねばならない統整的理念を受け容れることである、と。つまり、《言語論的転回》論者はなんとひどい虚無主義者であることか、というわけである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>こうして彼らの多くがハーバーマスの議論を導入する。つまり、市民相互のコミュニケーションを通じて、独断的ではない合意にもとづく真理あるいは客観性を構築しよう、というわけである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この時点で、おかしいと感じたひとは、わたしは正しいと思う。つまり、彼らの言っていることは、結局《言語論的転回》以後のいわゆる構築主義者と同じことになっているからである。自分で何を言っているかわかっているのだろうか？</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>「わたしの論文は真理とはいえないのです」というわけだ。最初から自分の議論が討論にかけられるという前提で結論を出すような実証主義はありえない。それは実証主義とは呼ばない。しかし、もしそういう言葉で実証主義を擁護しているつもりなのだとしたら、おせっかいもいいところである。自分で仲間の息の根を止めているだけだからである。実証主義（＝ポジティヴィズム）が理想主義的言明なのだとしたら、理想という“ポジ”に対して、個々の議論はつねに理想に対する“ネガ”にしかならないわけで、ネガをポジと言い張っているのであり、はっきりいって詐欺みたいなものである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>少なくとも、実証主義であるかぎり、自分の結論が客観的かつ恒久の真理であるということを、少なくとも結論を提示した本人くらいは主張しなければなんの意味もない。そうでなければ、期待すべき討論すら始らないだろう。教科書という形で国家の歴史が客観的真理として与えられなければならないというのは事実だし、そのことに個々の歴史学者はもっと敏感であるべきだが、そればかりでなく、自身の議論の責任を公共性に委ねるような責任転嫁は、仮にも構築主義者を反批判している実証主義者の言葉とはとうてい思われない。ハーバーマスの議論が受け容れられなくもない部分があるのは、あくまで、真理が《結果として》、よかれ悪しかれ公共性に委ねられざるを得ない、という場合である。たとえば、ニュートンにせよ、アインシュタインにせよ、彼らはそれを恒久の真理として主張した。だが、《結果的には》それらは合意にもとづく客観性を構築するにとどまった、という風には考えられる。とはいえ、彼らは最初から自分の言っていることが真理とはいえない、などとはけっして言わない。そんなものは詐欺なのであって、まともな学者ならそんな意識で学問的なモチベーションを保つのは困難である。そもそも、あるかどうかも定かではない“公共性”に判断を委ねることにしても、言語論的転回風にいえば、十分に形而上学的なのだ（晩年にハーバーマスと結託したデリダは一体なにがやりたかったのだろうか？――まあ、気持ちはよくわかるのだが）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>日本の実証主義者の問題は、要するに、彼らの多くが、一度も本気で実証しようなどとは考えていなかったことなのである。自分が実証主義だと思うのなら、せめて一度くらいは自分の議論が《客観的な真実である》、と言うべきなのだ。統整的理念という言葉に逃げ込んでいるかぎり、実証《主義》にすらなりはしないのだ。だが、もはや空しい期待はすまい。西欧の合理主義が《言語論的転回》に感じた衝撃を、日本の実証主義はほとんど感じていないのだろう。なぜなら、日本の実証主義者は、暗黙の構築主義者だからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>とはいえ、わたしは、《言語論的転回》でとどまっているような、そういう議論を好んでいない。《言語論的転回》は、実証主義の努力が招く最初の挫折であるにすぎない。わたしは実証主義者を愛している。セザンヌが、すべてを「遠近法」に入れようとしたように、歴史学者は、かまわずすべてを「実証」のふるいにかけてみるべきである。遠近法を疑うことは、実証主義を疑うのと同じくらいに簡単なことだが、遠近法や実証主義が摩滅して、しまいには壊れるまで使い尽くしてみるのも悪いことではない。そうして本気で実証すれば、必ず、想像もしなかったような奇妙な出来事を書かされる破目になるはずだ。そうでないなら、おそらく、あなたは、どこかでデリダ主義的なごまかしをやったのである（しかし、こうしてみると、いつかは、《わたしはデリダ主義者である》などと言わねばならない日が来るのだろうか）。歴史は、もっと奇妙なものなのだ。</p>
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		<title>出来事について</title>
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		<pubDate>Thu, 25 Jan 2007 01:38:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[history]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Science of Incidents]]></category>
		<category><![CDATA[silence]]></category>
		<category><![CDATA[Stoicism]]></category>
		<category><![CDATA[ブレイエ]]></category>

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		<description><![CDATA[歴史にとって出来事とはなにか……。この問いに答えるのは容易ではない。わたしはもはや、歴史にはうんざりしているのだが、それはこの装置が徹頭徹尾反復の装置だからである。たしかに、最初の反復には意味がある。意味……。いい加減勘 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>歴史にとって出来事とはなにか……。この問いに答えるのは容易ではない。わたしはもはや、歴史にはうんざりしているのだが、それはこの装置が徹頭徹尾反復の装置だからである。たしかに、最初の反復には意味がある。意味……。いい加減勘弁して欲しいのだが、こうした言葉を不用意にも語らせてしまう、このおしゃべりな言語――この言い方はリダンダントだ、沈黙の言語などないのだから――にもうんざりである。</p>
<p>歴史にとって、出来事とはなにか……。この問いに対しては、とにかくこう答えておくのが一番無難である。文献（テクスト）と日夜にらめっこしている歴史家が出ることのできない、外側に拡がっている世界である、と。こうした絶望が真の絶望か否かはともかくとして、文献（テクスト）と出来事とのあいだには、たしかに断絶がある。デリダが言ったように、テクストには外部など存在しないのだ。カントの物自体を参照しておいてもよいだろう。いずれにしても、理想主義や脱構築のような、こうした目的論的思考（脱構築が「目的」をずらしつつ進むものだと言ったところであまり生産的ではない、この際、カント的な理想主義と同じものであることをさっさと認めてしまおう）は、物自体や痕跡という絶望的な思考にとっては、まことにこの上ない希望となる。デリダもカントも、だいたい同じものだ。世の中、いくらかまともに見えるイデオローグといえば、デリダ／カント主義者ばかりなのだが、それ以外でまともなのを探すとなると、ちょっと数えるのもむずかしくなる。</p>
<p>とはいえ、歴史とは別のやり方で出来事を考えることも許されている。世の中なんだって許されているからだ。脱構築だって、放棄してかまわない。わたしは、こう言ってしまおうと思う。出来事とは、言葉である、と。いや、大急ぎで付け加えねばならないが、ほとんどの言葉は、言葉でしかなく、デリダが言うように、痕跡でしかないし、物自体というか起源というか他者というか出来事というか、とにかくそうしたものにはたどりつけないし、たどりついていない。だが、要は考え方である。出来事とはなにか、と問う前に、言葉とはなにか、と問うことにしよう。いったいぜんたい、わたしたちにとって、言葉なしに出来事があるなどと言えるのだろうか？　どういう口ならば、そんなことが言えるのか、教えて欲しいものだ。別に話し言葉だろうが書き言葉だろうが、どちらでもかまわない。ボディ・ランゲージだってあるが、いずれにしてもそうしたコミュニケーションなしに出来事など存在するだろうか？　そう考えたとき、言葉と出来事の直接的なつながりを邪魔しているなにかが見えてくるはずだ。それはつまり、《意味》である。ブレイエがストア主義者の哲学をひもときつつ考察したように、意味は、かぎりなく出来事に似ているが、同じものではない。しかし、実際、よく似ている。わたしたちはしょっちゅう、出来事を意味に絡め取られている。あるいは、意味を出来事と取り違えている。</p>
<p>とにかく、もっと先へ進もう。デリダやカントは、もうたくさんだ。わたしは、「意味」の障壁を超える言葉が聞きたいのだ。ストア主義者は、世界ではじめて、《外》を《内》に入れて考えた人たちだった。彼らにとって、問題だったのは、アレクサンドロスが身近にした《外国語》だからだ。そこで唐突に思う。大東亜共栄圏、すばらしい言葉ではないか。この言葉は、かつてのように日本人に向けて、日本人を安心させるためではなく、外国人に対してこそ、語られるべき言葉だ。「意味」を貫通し、出来事へとたどりつく言葉が、必ずどこかにある。彼が明示した結論を借用するくらいしか能のないわたしたちのおかげで、依然として孤独をかこつミシェル・フーコーは、たしかにそう言っていたのだ。</p>
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