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	<title>ex-signe &#187; Eros and Thanatos</title>
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		<title>彼岸の快感原則（フロイトに寄せて）</title>
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		<pubDate>Wed, 09 Dec 2009 15:55:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」＝感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」＝感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そこでは、時間は、蓄積された記憶痕跡（時間性を欠いた）と時間とともに消え去る感覚（傷）との対立的な（質的な）差異として捉えられる。そこにあるのはクロノスの時間である。未来から現在に到来し、現在から過去へと消え去る時間イメージは、広大無辺の無意識の領域に蓄えられてゆく。それもすべてが蓄えられていく。こうして蓄積された原時間とでもいうべき記憶痕跡は、「想起」（再現）によって、定期的に（事後的に）時間的な秩序、すなわち《過去》を与えられる。</p>
<p>この想起に失敗し、反復強迫を促す場合もある。過去が現在にあわれること、それは病である。ここから生の欲動（エロス）と死の欲動（タナトス）という二元論が推定される。エロスにもとづく有機体と、タナトスにもとづく無機物の対立過程として、生命体は把握される。したがって、これは歴史のモデルでもある。われわれは、テクストに蓄積された記憶痕跡をできるかぎりすべて、しかも完全な形で保存しようとするだろう。この無時間的な世界に蓄積された書庫をひっくりかえし、過去を再現representすることで秩序を与えるのが、歴史家の役目である。フロイトの精神分析は、原理的には人類に対して歴史家の行なう仕事と同じである。また、言葉は、内部に蓄えられた意味と外部表象の結合体として理解される。言葉に隠された意味を解釈し、意識化することが、歴史家＝精神分析家の仕事である。この歴史家は、忘却を否定する。というより、忘却は存在できない。忘却はあくまで一時的なもので、記憶と想起を橋渡す媒介であるにすぎない。彼らは忘却という言葉を好まない。むしろ、それを精神と呼ぶことを好む。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>フロイトの勇気ある探究に敬意を払い、それをさらに推し進めてみよう。とはいえ、無機物と己を分かつ有機体の古いイメージに囚われた小胞イメージは採用しない。われわれは、彼と異なり、一種の筒や管、漏斗のようなものを考える（わたしはここでロバチェフスキーのことを考えている）。あらゆる物体がそこを遅延しつつ通り抜けるのだ（この場合、外から自分に向かって飛んでくる刺激を選別することは不可能である）。したがって、そこを通過する物体を遅延させることはあるとしても、通常は蓄積されない。逆に、漏斗を通り抜ける物体がうまく排出されない場合もある。われわれは、それが無意識を構成すると考えるが、いずれにしても、それらの物質は、なんらかの形で変容を被りつつも、最後には排出されざるをえない。時間は、この物体が被った遅延によって構成される。小胞イメージのように、動いているものと動かないものの対立的な差異が時間をもたらすのではない。むしろ、漏斗を通り抜ける物体と外部の物体の速度の（量的な）差異、というか差分商として時間は理解される。そして、有機体と無機物の差異もまた、この速度の差異によって理解される。無機物は止まっているのではない。われわれが有機体とみなしているものの速度に対して、無機物それ自体があまりに早い速度をもっているため、止まっているように見えるだけである（われわれはわれわれと同じような速度をもっているものほど、それを有機体とみなしている）。</p>
<p>ここでの時間は、アイオーンの時間となる。われわれの中を物体が通り過ぎているとき、それが現在をなす。というより、漏斗としてのわれわれの存在そのものが、現在である（ハイデガーの現存在を意味すると考えて差し支えない）。これからそこをいままさに通過しようとする物体は現在についての現在であり、そこを通過している物体は過去についての現在である。そしてまさにそこを通り過ぎようとする物体が未来についての現在である。そして、未だそこを通り過ぎてもいない物体は真の未来をなし、もうそこを通り過ぎてしまった物体は真の過去をなす。それらはわれわれの外にあって、認識不能である（それらがそれとして認識不能なことは重要ではない）。このことからするに、知覚‐認識システムとは、ミクロ化された物体の摂取と排泄のプロセスを指す。高次の現在において、時間は現在から過去へ、過去から未来へと流れる。漏斗上では、「事後性」や「アプリオリ」のようなトリッキーな概念は必要がなくなる。事実上、過去は現在の後に訪れる。ここに、生の欲動と死の欲動の質的な対立は存在しない。生の欲動とは、遅延した死の欲動であり、要するに生は死の遅延や迂回である。いかにして遅延を実現するか、という生にまつわる問いは、死となんら矛盾しない。漏斗であるわれわれのなかで、死に向かう直線は曲がっている。この屈曲が生である。</p>
<p>そしてイデアとは、この漏斗そのもの、すなわち高次の現在を指す（だから超越論的統覚は必要ない、イデアで十分である）。物体が漏斗としてのわれわれを通りぬけるとき、物体は変容をこうむりつつも、この物体の形に応じて、われわれの漏斗そのものも変化する。たとえば四角いものが漏斗を通れば、漏斗は四角くなる。丸いものが通れば、丸くなる。《イデアとしての蝋》がまだ柔らかければ、そこに流し込まれた液体の熱が、蝋の形自体を変えてしまうことは、よくあることだ。しかしわれわれは硬い蝋を実現すべきである。液体はいずれ流れ去る。ただし、入ってきたときとは、別のものになっている。これをわれわれは想起と呼び、そして同時に忘却と呼ぶ。</p>
<p>いたるところで水漏れを起こしている漏斗としてのわれわれは、いわば空虚（ケノン）を内側にもった物体である。この空虚は、世界とつながっている。よって世界そのもののことである。われわれはこのようにして空間と物質を同時に実現している。この空間を通りぬけるのが時間であり、したがってわれわれは空間と時間とを内部に実現する肉である。この漏斗イメージは未来の歴史家／人文学者のイメージでもある。この歴史家は、忘却を肯定するだろうし、プラトンのイデアシステム（記憶‐想起システム）を、忘却にもとづく差分（シムラクラ）の発生装置として理解する（ソクラテスは文字とは忘却装置だと言っていた）。そして、《精神とは、この忘却のことだ》と指摘するだろう。現にわたしはそうしているし、あなたもそうしているのである。よく忘れるひとだけが、よく想い出すことができる……。</p>
<div class="post-rl">
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		<title>デリダ／フーコー・ドゥルーズ、そして第九条について</title>
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		<pubDate>Tue, 26 Feb 2008 14:40:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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			<content:encoded><![CDATA[<p>この三人について、ずいぶん、言葉を費やしたと思う。とくに、デリダについては、ここでは比較的たくさん語ったし、本当のところをいえば、もうあまり文句はいいたくない。きっと彼の人柄は、素晴らしいものだと思うから。それに、わたしは、べつに哲学研究者ではないし、その理論に対する実感を、学術論文に高めるという欲望をもたない。しかし、この三人が曖昧に一緒くたにされてきた日本の言説空間には、なにか不穏なものを感じないではない。というのも、やはり、デリダとフーコー・ドゥルーズは、理論的な方向性がまったく異なるからである。もちろん、フーコーとドゥルーズのあいだにも差異はあるし、また逆から言えば、デリダがフーコーたちと異なるのも当然なのだが、しかし、わたしには、この差異は、致命的に巨大なものに思えるのだ。たしかに、フーコーとデリダとのあいだに、表向きの和解はあったし、一時的な共闘は望むところでもあろう。だが、やはりそれは一時的なものにしかなりえないと思う。いまはまだ、デリダとフーコーたちの差異は、微細なものだ。彼らの理論は、結果的に同じ表現に帰着しているようにみえる。この差異は、デリダのフッサール論からして、すでに垣間見えていた。この初期値のちがいは、あとあともっと、それこそ取り返しの付かなくなるほどに、大きくなるだろう。左派を気取るなら、この差異は、もっと強調しておかねばならない。</p>
<p>わたしは、ここ最近直覚したこの差異についての正当性を、確信している。そして、もっと厄介に感じているのは、デリダの議論を批判しながら、それでいて、彼の音声中心主義の周辺をうろついている、日本の理論家たちのあいまいさである。私見によるなら、彼の理論の本質を批判するかぎり、音声中心主義批判に対して疑問を抱かないでいることはむずかしい。音声中心主義批判の恐さは、それが、ブラックホールのような禍々しい正しさに満ち満ちていることである。</p>
<p>プラトンやルソーにみられる音声中心主義を批判するにしたところで、わたしたちが触れることができるのは、彼らのものとされているエクリチュールだけである。彼らの声を聴くことは絶対にできない。もしかりに、なんらかの形でそれが録音されていたとしても、それは声ではなく、その本質から言えば、それもエクリチュールである。したがって、エクリチュールしか残していない人間の音声中心主義を批判することは、本来は不可能なのだが、その一方で、この批判は、現在の人間が過去の人間に対してもっている不可逆の権力関係によって、かならず成功してしまう。わたしたちは、エクリチュールにその基礎をおくかぎり、プラトンやルソーの議論を、一方的に裁く権利をもっているからである。</p>
<p>本来、デリダのような文献学者が持たねばならないのは、テクストに残された痕跡のあいだから、痕跡なき声を聴こうとする態度である。わたしたちの言葉は、声であろうと、文字であろうと、つねに、「彼岸」を渇望し、欲望する矢や弾丸である。テクストの外部はない、テクストの起源などないのだ、などと文献学者が語ることは、はっきりいえば、すでに届いている言葉から、目や耳を塞ぐ行為以外のなにものでもない。そのことに気づかないのは、現在の人間ならば誰もがもっている傲慢さのゆえなのである。そしてこの傲慢さが厄介なのは、現在のすべての人間が、これを慎ましさだと誤解していることなのである。「わたしは、あなたの意見がわかったなんていうつもりはありません」というわけだ。だが、本当に必要なことは、わかったか、わからなかったかではないし、相手の論理を自壊させることでもない。むしろ、いかに、生産的でポジティヴな差異を、そこから直接引き出せるかどうか、である。欲望は、つねに、外への欲望であり、だから、欲望本位の言葉はたえずテクストの外へとはみ出しているような、そんな実践なのである。こうした欲望を、否定することはできない。否定するなら、それは欲望の定義からははずれてしまう。欲望は、徹頭徹尾肯定的ななにものか、ポジティヴな差異として実現されるからだ。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>欲望はしてもかまわない。だが、それを実践に移すのは勘弁してもらいたい。これが、ふやけた民主主義的な学者流の、デリダ読解の中心である。ひとは、たえず他を犯したい、他に犯されたいという、主客未分の淫らな欲望を心に抱きながら、電車に乗り、道を歩き、そして食事している。こうした欲望をその内部に溜め込むこと、外部への発露を禁じることは、それは、欲望本来のありかたとは考えられない――というか、そうした禁止さえ、欲望が能動的に行なうのでなければならない（ちなみに、これがストア派流の考えかたである）。欲望と実践とを分割する学者流の理解は、たとえば、軍隊をもつことはかまわないが、それを解き放つことは許されないという、今日、どこの国でもまかりとおっている論理と、どのように違っているのだろうか。わたしには、まったく同じものにしかみえないし、むしろ、それらは混同されるべきものとさえ思っている。欲望を屈折させ、自身のうちに溜め込むことは、暴力を軍隊にまで膨れ上がらせることと、ほとんど大差ないのである。</p>
<p>むしろ、わたしなら、なんの考えもなしに母親が子の尻を叩くのと同じように、直線的で、なんら屈折していない暴力を、たえず発揮せねばならないのだと思う。欲望は発揮されねばならないが、発揮されてはならない、などというデリダ流のパラドックスなど、観照的な場所にいればとりあえず安心できる学者という人種のひねくれた欲望しか満足させないだろう。だが、そうしてひとびとの欲望を屈折させ、暴力を内側に向けることが、倫理的には使い道のない軍隊を膨れ上がらせることとどのようにちがうのか。そうした議論は、わたしにはまったく説得的ではないのである。</p>
<p>欲望は、本質的に実践であり、つねにはけ口を求めるものである。それを内側に向けて屈折させればさせるほど、暴力は、肥大化していく。言葉から拳に、拳から銃に、銃からミサイルに、そしてミサイルから原子爆弾に、といった具合である。</p>
<p>憲法第九条を、わたしは愛している。この条項は、とにかく、戦争を、わたしたちの極限まで、近づけているからだ。この条項は、人間はかならず戦争してしまう生物だという前提なしには、文章として成立しない。憲法第九条は、ひとがそうみなしているのとは逆に、ロマンチックな理想論でもなんでもない。もっと過酷であり、現実的である。ひとはかならず戦争するということを忘れているひとたちだけが、憲法第九条を不要だとみなすのである。軍隊を恒久的に手放さねばならないのは、ひとが、暴力装置を持とうとする欲望を恒久的に手放せないからである。軍隊を手放す、とは、軍隊を持たないことではない。むしろ、軍隊は、たえず手放されねばならないということである。手放すということの意味は、すなわち、外に向けて発露させるという意味であり、したがって、軍隊にまで膨れ上がるまえに、つねに、直線的で、無垢で、そして痕跡の残らない暴力を、つねに発揮し続けなければならないということを意味している。……</p>
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		<title>言葉という出来事（ラフ）</title>
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		<pubDate>Wed, 07 Nov 2007 01:13:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか！」と言ったかと思うと、それで [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか！」と言ったかと思うと、それで目が覚めた。</p>
<p>つい先日のことだが、われながら、じつにくだらない夢をみたと思う。いま時間に追われて書いている文章が、頭から離れないから、こんな夢をみるのだろう。よく寝付けない。パソコンに向かって、毎日キーボードを叩いている。文章を書くたびに、孤独が増していくような、そんな感覚を抱くこともある。どうして、こういう表現しかできないのか。もっとよい表現があるはずだ……。</p>
<p>何度もいうが、こんな夢は、どうだっていいことである。たかだか自意識がこの夢を見せているにすぎないし、こういう夢をみること自体が、非常に自意識的なことだと思う。とにかく、そういう葛藤を振り捨てて、書かなければならない。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>わたしがはじめて歴史に触れたとき――小学校の三年くらいのことだと思うが――、奇妙な昂奮を感じたことを覚えている。歴史は、桃太郎や鶴の恩返しのような、いわゆる「昔話」ではない。本当の話なのだ。子供は、ほとんど生まれてすぐに、言葉を括弧に入れることを教えられる。つまり、親から、物語を聞かされる。もちろん子供のわたしは昂奮するが、それは本当の出来事ではなく、すぐに、それが架空の物語であることを学ぶだろう。サンタクロースはいない。仮面ライダーもいない。ガンダムもいない。しかし、歴史にかんしては、大人はこういったのだ――それは、本当の出来事だよ、と。祖父の祖父の祖父の…そのまた祖父の時代に本当に起こった出来事。カエサルは本当にいたし、ナポレオンも、豊臣秀吉も、本当にいた。あのホメロスの『イリアス』でさえ、じつは、《本当の出来事》だったのだ。わたしははじめて、括弧に入れないで言葉を使用することがありうるのだということを、知った。歴史という剥き出しの言葉――わたしにとっては、それ自体が、出来事だった。本棚にしまわれた無数の物語のなかで、歴史の本は、燦然と光り輝いてみえた。</p>
<p>わたしは読書が嫌いで、家でも一番本を読まない人間だった。が、中学のときに、読書を強制されて、それなら、と手にとったのが、数多い小説ではなくて、『旧約聖書』であり、すぐに挫折したが、そのあとで、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読んだ。親に聞くと、やはり、それは本当の出来事だと言った。そしてわたしは、再び昂奮した。それからエドガー・アラン・ポーを読むようになり、小説にも、なにがしかの真実が書かれていることを知った。マリー・ロジェの謎に昂奮した。メエル・シュトレエムに飲まれてにも昂奮した。振り子と陥穽や黄金虫にも昂奮した。それから森&#40407;外を読んだ。家に全集があって、全部読んだが、これには昂奮できず、ただ惰性で読んだ。そこでわたしの読書熱は冷め、わたしはもっぱら音楽を聴くようになった。ニーチェやプラトンは読んだが、それ以外は、ほとんど音楽を聴いて過ごすようになった。受験勉強などほとんどしなかった。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>大学に入り、歴史学を専攻した。音大を薦められたこともあったが、歴史学を選んだ。おそらく、子供のころに感じた《本当の出来事》に対する昂奮を、身体のどこかが覚えていたのだろう。それに、言葉に対する未練があったのかもしれない。もちろん、その選択は、歴史学がどういうものなのか、なにも知らない、幼稚臭い選択だったといえる。わたしは本当に幼かった。ただ漠然と、歴史学を選び、そして歴史学の現状に、いっぱしに絶望していたように思う。実証主義は、小説とは距離をとろうとするし、だから、科学的であろうとする。だから実証主義は、「実態」をあつかう。「実態」とはなにか――それは、たとえば、こういうことだ。外務大臣が、他国とある条約を結ぶ。これが「実態」である。ある戦争で、戦車が何台破壊された。これが「実態」である。しかじかの制度は、しかじかの官職は、いついつに、だれかれを支配するためにつくられた。これが「実態」である。</p>
<p>子供なら、《本物のような絵》には、誰でも昂奮する。もしかしたら、これは本物かもしれない、と思うからだ。これって、本物じゃない？　何度も見返す。本物かな？　美術館にあるけれど、なんだかこれだけ本物みたいだ。もちろん、すぐに、それは絵であり、そうした感情を括弧に入れることを学ぶ。だが、しかし、その絵を描いた画家は、見る人に、そんな昂奮を喚起させたいから、そういう風に描くのだ。もしわたしがその画家なら、「これは絵ですよ」と教える親を憎むだろう。そんなことは、子供は、とっくの昔に知っている。これはもちろん、絵だ。だが、にもかかわらず、子供はそれを本物だと思うのだ。もっと複雑な動揺を覚えているのだ。しかし、大人は、「これは絵ですよ」という回答で、子供を無理やり安心させてしまう。</p>
<p>それに、サイコロを、本物のように描くのは簡単である。だが、木や森や、そして動物や人は、そうはいかないだろう。目を鍛え、腕を鍛えなければならない。歴史も、これと同じである。簡単だからといって、サイコロだけを描けばいいというわけにはいかない。だが、歴史学者は、サイコロだけを描いているのだった。なぜか――それが「実態」だからだ。</p>
<p>歴史もまた、物語である、という言葉に、青臭いわたしは、自分の絶望を肯定された気がして、素直に聞いた。歴史には、「人間」が書かれていない。そのとおりである。人間はもっと内面的で、意識的で、苦悩していて、すべてを面には表さない。言葉は自意識の産物で、現実ではないし、だから歴史もまた《本当の出来事》ではない。言葉は、やはり、全面的に括弧に入れるべきなのだ。できるとすれば、せいぜい、思想史だけだ。実証主義の標榜する客観性よりも、構成主義の主張する統制された主観性を。……</p>
<p>それで、思想史を研究するようになった。当時はそれで納得していた気になっていたが、やはり、それは欺瞞だったように思う。《出来事》は、いったい、どこにあるのか。実証主義があつかう「実態」でもないし、思想史があつかう「思想」でもない。おそらく、《出来事》は、そのあいだにある。剥き出しの言葉、言葉がそのまま、出来事であるような、そんな言葉が、絶対にどこかにある。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>子供は、今日あったことを、ひとに伝えたいと思う。今日、こんなことがあったよ、あんなことがあったよ。それでね……。それは、《出来事》である。「実態」でもないし、「思想」でもない。徹頭徹尾、それは《出来事》でなければならない。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>柄谷行人はこういっている。</p>
<blockquote><p>
漱石は『文学論』の中で、こういう例を挙げています。シェークスピアの『オセロ』という劇で、有名な悪役のイアーゴーという人物が出てきますが、怒った観客が俳優を射殺した事件があったそうです。その観客は、それが演劇であることをわきまえていなかった。しかし、それが芝居であることをわきまえるには、なかなかの文化的訓練がいるのです。その証拠に、今でも、テレビの俳優などを、彼らが演じた役の通りの人物だと思いこむ人たちが大勢います。犯罪者をヒーローにするのは怪しからんという人は今でもいますし、また、事実、映画や小説の真似をしたりする人もいるわけです。漱石は、さらに、裸体画を例にあげています。裸体画を、性的な関心を括弧に入れて見ることは、当初は難しかった。漱石自身もかなりショックを受けたのではないか、と思います。<br />
くりかえすと、カントは、美的判断を、関心を括弧に入れることにおきました。ある物が芸術であるか否かは、それについての諸関心を括弧に入れることによってのみ決められる。その物が自然物であろうと、機械的複製品であろうと、日常的使用物であろうと、関係がありません。それに対する通常の諸関心を括弧に入れて見るということ、そのような「態度変更」が或る物を芸術たらしめるのです。『倫理２１』平凡社、２０００年、６６‐７ページ。
</p></blockquote>
<p>一体、彼は何を言っているのだろうか。わたしには、言っていることがまったくわからない。いや、かつては、わかった、というか、わかった気になっていた。かつて――というのは、思想史に可能性をみていた頃のことだ。物自体‐認識、という対のなかで、ひとが意識的に行なうことは、すべて認識の範疇に収まってしまう。物自体とは区別された、認識の内部で、対象に応じて、態度を変更することが重要である。</p>
<p>わたしは笑ってしまう。柄谷行人を批判することは、かつてのわたしを批判することだ。わたしはいう、否、だ。それはちがう。射殺された俳優は、人間としては不本意だろうが、芸術家であるかぎり、むしろ本望であるはずだ。芸術は、ずっと、入れたりはずしたりできるような、そんな忌々しい括弧を放擲したいと考えているのだ。ひとびとの認識を越え出ることを欲望している。美は認識の側にあるのではない。美は、それ自体が、存在なのだ。カンヴァスを出なければならない。舞台から出なければならない。今日起こったことをひとに伝えようとしている子供は、それが、本当に起こった出来事だと思って欲しいから、喋っているのだ。今日ね、学校でね……。芸術作品が可能になるのは、そうした括弧を放擲するからこそ、可能なのである。裸体画に、性的欲望を掻き立てられる、それで正しいのだ。エロティックなものをいかに括弧に入れたところで、それではいつまでたっても芸術作品は可能にならない。プラトンは、なぜ、エロスを完全に肯定したのか。エロスは、どのような場所であろうと、完全に肯定されねばならない。そこにしか、知はないし、美もないのだ。</p>
<p>彼はまた漱石の言葉を引きつつ、こうも言っている。「しかし、「有りの儘に隠しもせず漏らしもせず描く」ことは、実は不可能です。漱石がその可能性を「小説」すなわち虚構に見出しているのは、そのためなのです」（同書８０ページ）。</p>
<p>ちがう。「有りの儘に隠しもせず漏らしもせず描く」ということは、そもそも必要がないし、どうでもいいことである。わたしが歴史学をやっているのは、そうした括弧をすべて放り投げしまう可能性を追求したいからである。これは《本当の出来事》だ、というただそれだけを言うために、わたしは歴史をやっている。所詮言葉なのだから、本当の出来事とは違うでしょ、という愚かで自意識的な大人がかぶせる括弧を、言葉から取り外したいのである。それは、小説であろうと、同じことである。小説は虚構だから可能性があるのではない。小説は、そして芸術は、真実を描こうとするからこそ、可能性があるのだ。</p>
<p>自意識の球体を破砕せよ、といった小林秀雄は正しい。花の美しさなどない、美しい花があるだけだといった小林は正しい。美は、そして言葉は、認識の側にではなく、自然の側に属している。けっして、日本の文学は、内面的でもないし、国民国家など作ってもいない。そういう勢力があったことはたしかだとしても。戦前の文学は、たしかにすばらしかった。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>フーコーは、そうした言葉の可能性を追求した、数少ない歴史家である（わたしを正しい道に引き戻してくれたのは、ニーチェとフーコーとドゥルーズである）。そうした言葉を、彼は、「言説」といい、もっと厳密化して、「言表」といった。彼は、ディスクールの概念を用いて、ベラスケスを絶賛した。彼の絵画は、カンヴァスをはみ出し、真実の方へと、足を踏み出しているのだ。彼は、カントが――というよりはカント主義者がのちに作り上げることになる馬鹿げた境界線を、露骨にも踏み越えたのだ。だが、どういうわけか、それをひとは、ベラスケス批判だと受け取ったようである。言葉が透明になるというフーコーの表現を、いちいち誤解して、言葉を物に付せられた一種のヴェールだと受け取ってしまったようである。美術批評を否定的判断と心得る日本の知的文脈が、フーコーの絶賛に否定的な響きを加えてしまったのかもしれない。透明な言葉、とは、言葉がそのまま出来事であるような、そうした言葉のことである。そこでは、言葉と出来事とのあいだに、境界線はなくなってしまう。言葉は、それ自体が、意識を飛び出して、《もの》の側に属するようになるのだ。「言説」という語の《意味》を、本当に理解している人は、おそらくほとんどいない。かなりのひとが、どうやら誤解していると思う。ディスクールは、批判の道具ではない。むしろ、徹底的に、ポジティヴである。ディスクールなしには、歴史は不可能である。フーコーは、古典主義時代を、そして自分が所属している以外のあらゆる時代を絶賛したのだ。</p>
<p>カンヴァスを出なければならない。舞台から出なければならない。言葉を意識の檻から脱獄させねばならない。言葉は比ゆではない。言葉は虚構ではない。言葉は、本質的に、自然の側に属している。なぜなら、それは、世界そのものが、カンヴァスであり、劇場だからである。カントのように、カンヴァスとその外とのあいだに境界を設けることでもなく、ヘーゲルのように、その境界の内と外を統合してすべてを精神の世界にしてしまうことでもなく、デリダのように、内と外との境界を受け容れたうえで脱構築することでもない。《すべては、外なのである》。カンヴァスや舞台でさえ、そして言葉や精神でさえ、《外》なのであり、だから逆にいえば、すべてはカンヴァスであり劇場なのである。（精神でさえ、自然なのだ。内という外があり、また外という外がある。過去とは、過去についての現在であり、現在とは、現在についての現在であり、未来とは、未来についての現在である。）だから、生そのものが、美学的でなければならない。そこにしか、出来事はないのである。</p>
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		<title>パイドロス</title>
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		<pubDate>Wed, 10 Jul 2002 10:38:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Eros and Thanatos]]></category>
		<category><![CDATA[insanity]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
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		<category><![CDATA[真実らしくみえるもの]]></category>
		<category><![CDATA[無知の知]]></category>

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		<description><![CDATA[プラトンは、弁論術――あるいは語ることと書くことについて述べた著作、『パイドロス』において、ソクラテスにこう語らせている。 ソクラテス　このぼくはね、パイドロス、話したり考えたりする力を得るために、この分割と総合という方 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>プラトンは、弁論術――あるいは語ることと書くことについて述べた著作、『パイドロス』において、ソクラテスにこう語らせている。</p>
<blockquote><p>
<b>ソクラテス</b>　このぼくはね、パイドロス、話したり考えたりする力を得るために、この分割と総合という方法を、ぼく自身が恋人のように大切にしているばかりでなく、また誰かほかの人が、ものごとをその自然本来の性格にしたがって､これを一つになる方向へ眺めるとともに､また多に分れるところまで見るだけの能力をもっていると思ったならば、ぼくはその人のあとを追うのだ、「神のみあとを慕うごとく、その足跡をたどりつつ」ね。さらにまた、ぼくは、このことを実行できる人たちのことを、正しい呼び方かどうかは神のみが知りたもうところとして、とにかくこれまでのところ、ディアレクティケー（対話）を身につけた者と呼んでいるのだ。（266B、『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫）
</p></blockquote>
<p>この前段で、ソクラテスは、弁論術が、それが正しくも見え、同時に不正でも見えるようなもの、つまり異論の多いもの――たとえば、害悪をもたらすと同時に最善でもあるような「恋（エロス）」――に関して行なわれるものであることを示す。また、異論の多いものとは、「互いに異なるところの多いもの」ではなく、「少ししか違わないもの」であるともいう。今日的に言えば、前者は種的差異ということになろうし、後者は、ドゥルーズが言う意味でのたんなる《差異》ということになろう。さらに、このようにものごとを両義的にみせるもの、すなわち狂気それ自体を、ソクラテスはふたつに分ける。ひとつは、「人間的な病によって生じる」、「われわれの中にある本来一つの種類のもの」であるような「心の錯乱」がもたらす狂気。もうひとつは、「規則にはまった慣習的な事柄をすっかり変えてしまうことによって生じる」、「神に憑かれて」もたらされるような狂気。したがって、この狂気も両義的であり、ソクラテスはさらにこの神的な狂気を四つに分割する。アポロン的な予言の霊感。ディオニュソス的な秘儀の霊感。ムゥサの神々による詩的霊感。そして、ソクラテスがもっとも善きものであるとする、アプロディテとエロスがつかさどる恋の狂気。</p>
<p>このようにして、できうるかぎりの分割――すなわち他なるものを見いだしそれを区別する試みと、それを総合するというやり方――すなわち微積分――こそが、対話である、と、ソクラテスは言うのだが、聞き手のパイドロスは、この言い方に満足せず、「ほのめかし法」だとか、「婉曲賞讃法」だとか、「譬喩的話法」だとか、そのような弁論術を期待する。もちろん、ソクラテスは、そのような弁論術を、予備的に習っておかねばならないことであって、弁論術そのものに関することではない、と言って否定する。ただし、全否定するわけではなく、このような弁論術を語る者は、「真実らしきものが真実そのものよりも尊重されるべきであることを見ぬいた人たち（267A）」であると言う。そうして細目的な弁論術をとりあえず括弧に入れて、「真実」を語るということが、どのようなものであるかを懇々と言って聞かせる。</p>
<blockquote><p>
<b>ソクラテス</b>　そもそも、どのようなものにせよ、あるものの本性について考察するには、次のようなやり方によるべきではなかろうか。まず第一、ぼくたちがあるものに関して、自分でも技術を身につけ、また他人を技術家にしたてるだけの能力をもちたいとのぞむなら、技術を向けるべきその対象が、単一なものか、それとも多種類なものかをしらべること、つぎに、もしその対象が単一のものなら、そのものがもっている機能をしらべてみること。すなわち、それは本来、能動的には何に対してどのような作用をあたえ、受動的には何からどのような作用を受けとるような性質のものであるかを、しらべるのである。またもし、その対象が多種類のものならば、その種類を数え上げ、しかるのち、そのひとつひとつの種類について、単一な種類の場合にやったのと同じことを､つまり、それが本来何によってどのような作用をあたえ、あるいは何からどのような作用を受けるような性質のものかを、見なければならない。<br />
<b>パイドロス</b>　おそらく、ソクラテス、そうかもしれません。<br />
<b>ソクラテス</b>　いや少なくとも、こういった手順をふまない方法などというものは、盲人の歩みのごとし、といってよいだろう。だが、何ものかを、いやしくも技術によって追究しようとする者が、めくらにたとえられたり、つんぼにたとえられたりするようなことは、むろん、あってはならない。明らかに、もしひとが技術にしたがって誰かに弁論を授けようとするならば、その弁論が適用されるべき対象の本性がいかなるものであるかを､正確に教え示すべきである。ところで、その対象とは何かといえば、魂にほかならないであろう。<br />
<b>パイドロス</b>　たしかに。<br />
<b>ソクラテス</b>　だから、彼の努力のすべては、この魂の研究に向けられるのではないか。（270D-271A） </p></blockquote>
<p>だが、ソクラテスは、前段でこう語っていた。「少なくともこのぼくは、話すことの技術なんか、何ひとつ身につけてはいない（262C-D）」と（パイドロスはこれを謙遜にとる）。そして、このことによって、以下の言葉は重要な意味を帯びてくる。以下は、ソクラテスが、弁論家たちの主張するところを、パイドロスに伝聞しているにすぎない。だが、伝聞であるということが、それゆえにまた重要な意義をもつ。</p>
<blockquote><p>
<b>ソクラテス</b>　それでは、彼らの主張するところはこうだ。――弁論に関するこれらの事柄を、そんなふうに、もったいをつけて取りあつかったり、まわりくどい話をして、高いとところへもっていく必要はさらにない。なぜならば、…（略）…まったくのところ、弁論の力をじゅうぶんに身につけようとする者は、何が正しい事柄であり善い事柄であるかということに関して、あるいは、どういう人間が――生まれつきにせよ教育の結果にせよ――正しくまた善い人間であるかということに関して、その真実にあずかる必要は、少しもないのだから。じじつ、裁判の法廷において、こういった事柄の真実を気にかける人なんか、ひとりだっておりはしない。そこでは、人を信じさせる力をもったものこそが、問題なのだ。人を信じさせる力をもったもの、それは、真実らしくみえるもののことである。技術によって語ろうとするものは、ほかならぬこの、真実らしくみえるところのものに専心しなければならぬ。すなわち、よしんば実際に行なわれたことであっても、もしそれが真実とは思えないような仕方で行われたとしたならば、それをありのままに述べてはいけない場合さえ、しばしばあるのであって、真実らしくみえるような事柄におきかえなければならないのだ。（272D-E）
</p></blockquote>
<p>また、これに付け加えて、「「真実らしくみえるもの」とは、多数の者にそうだと思われるもの（273B）」であるという。もちろん、この明らかに誤解を生みそうな発言に対して、次のような言葉を付け加えるのを忘れてはいない。「「真実らしくみえるもの」とは、それが真実のものに似ているからこそ、多数の者に真実らしくみえる」のであり、「そのような真実への類似を最もよく発見することのできるのは、いつの場合でも、真実そのものを知っている者なのだ」ということを。だが、もはや、ここまでくれば明らかなのだが、この『パイドロス』の通俗的な理解、言い換えれば、形而上学的な読み方、すなわち、ソクラテスは、「真実そのものの把握なしには真実らしく語ることさえ本来的に不可能であることを立証し」ているのではないし、語ることこそが、魂そのものをあらわす、というような音声中心主義的な言説を語っているのでもない。というよりは、そのような読みは、きわめて浅薄であるというほかなく、むしろ、プラトニックな西洋形而上学的な読みが、プラトンを西洋形而上学者に仕立てているのである。真実を語る技術をもっていないと自ら語るソクラテスが強調しているのは、たとえ、真実そのものを知っていたとしても、それを語るときには「類似」において語るほかないのであり、また、「少ししか違わないもの」、もっといえば、「少し違っているもの」について／として語るほかないということである。だからこそ、彼は、弁論術を、「言論による一種の魂の誘導（261A）」と呼ぶのである。彼が、ディアレクティケー（対話）という言葉で述べているのは、ひとつのものに対してさえ、他なるもの、すなわち、狂気――もちろん、それは、自己から見られる人間的な錯乱と、神によってもたらされる慣習的なものをすっかり変えてしまうような肯定的な狂気とがある――を見いだしてそれを分割し、その分割を保持したまま綜合する、ということであり、言い換えれば、知ることのできる部分と、そうできない部分とにわけ、それを受け入れるということである。彼は、かの「無知の知」を言っているのである。</p>
<p>したがって、ソクラテスが、もし、書くことよりも語ることを賞讃しているとすれば、そのことによって、弁論術の対象である魂そのものをずらしつつ、かつ、その魂を語ることにおいて――言い換えれば、差異と反復において、賞讃しているのである。逆に言えば、彼らが書くことを否定するのは、ものを思い出すという行為にまったくずれが生じないかぎりにおいて否定するのである。したがって、書くことは、「記憶の秘訣」ではなく、「想起の秘訣」となる。ソクラテスによれば、ずれの生じない想起こそが、“忘却”なのである。要は、彼ら自身が提示する“イデア”から、いかに肯定的に逸脱できるか、なのである。そこに、通俗的なプラトニズムを見いだすことは不可能である。</p>
<p>ソクラテスは、最後に、「真実らしくみえるもの」を語ることこそが、弁論の技術の“秘訣”であるという。この“秘訣”は、ジャック・デリダが的確に指摘しているように、ギリシア語で、パルマコン、すなわち“薬”であるが、この語は、同時に“毒”を意味する。この両義性は、残念ながら、英語によろうが、ドイツ語によろうが、日本語によろうが、どのような翻訳語によっても見いだされない。ソクラテスは、最後まで、この両義的な態度を崩していないのである。</p>
<p>こうして、プラトンの対話篇は、閉じられることなく終わる。プラトン―ソクラテスの並外れて戦略的な書物は、未来永劫、効力をもちつづけるだろう。</p>
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		<title>ソクラテスの節制</title>
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		<pubDate>Wed, 22 May 2002 00:55:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Eros and Thanatos]]></category>
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		<category><![CDATA[饗宴]]></category>

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		<description><![CDATA[《節制》（ソフロシュネー）は、生の過剰を《肯定》したニーチェが批判していたように、悪しきプラトン主義の産物なのであろうか。否、けっしてそうではない。おそらく、この考えは、時代とともに、あるいは政治とともにある。過去にウェ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>《節制》（ソフロシュネー）は、生の過剰を《肯定》したニーチェが批判していたように、悪しきプラトン主義の産物なのであろうか。否、けっしてそうではない。おそらく、この考えは、時代とともに、あるいは政治とともにある。過去にウェーバーやマイヤーが行なった、古代ギリシアが資本主義を経験したか否か、という論争は、再開されてしかるべきである。ソクラテスが、生が、つねに過剰に横溢するがゆえに、単に抑制すべきものと定義した、というのは、あまり正しい解釈だとは思えない。この《抑制》とは、徹底して生の過剰が《肯定》されたのちになされたある《指標》だと考えるべきではないか。そもそも、彼ら自身、不自然であると認識していた同性愛を、徹底的に《肯定》しているプラトンの『饗宴』のテクストを読んで、なお、そこに通俗プラトン主義的《節制》を読みとるのは、ほとんど無理である（もちろん、ニーチェのソクラテスに対する批判は、それがプラトン主義の批判であるかぎりにおいて、絶対的に正しい）。ソクラテスに愛を告げた美貌の青年、アルキビヤデスが、彼の外套の下で「両腕をばこの真に神霊的な、驚嘆すべき人（ソクラテス）に巻きつけたまま一夜中を過し」、なおかつ、「父または兄と一緒に寝たときのように何ごともなく目覚めた」という一文は、まさに象徴的である。ソクラテスは、自分に愛を告げたアルキビヤデスに対してやんわりとそれを拒絶しながら、こう言っている。長くなるが引用しよう。</p>
<blockquote><p>
愛するアルキビヤデス、ぼくが本当に君の主張するとおりの男だったら、そうしてもしぼくの内に君を向上させるようななにかの力でもあるのだったら、君は実際、馬鹿じゃないということになるだろう。すると、君はたぶん、君の美貌よりもはるかに優れた名状しがたき美をぼくのうちに看取しているということになるね。もし君がそういうものを看取して、ぼくとそれを共有しよう、そうして美と美を交換しようとするのなら、君はぼくから少なからず余分の利益を得ようともくろんでいるわけだ。それどころか、君は単に見せかけの美を代価として真実の美を得ようと試みる者、したがって実際、君は青銅をもって黄金に換えようとたくらんでいる者だ。でも、とにかく、優れた人よ、もっとよく考えてごらん、ぼくには何の価値もないということに君が気づかないといけないから。実際、理知の視力は、肉眼の視力がその減退期に入ると、ようやくその鋭さを増し始めるものだ。でも、君は、そこまでには遼遠のようだけど。
</p></blockquote>
<p>ソクラテスは、経済的なメタファーを用いて、見せかけの美をもって、真実の美を手に入れようとするアルキビヤデスを批判しているのだが、それは、青銅をもって黄金に換えようとたくらむようなものであるという。また、そうして手に入れられた黄金にも実は「何の価値もない」のだという。つまり、アルキビヤデスの望む「美と美の交換」は、まったく別の価値をもつ二つの商品をまるで一般的等価物（貨幣）で量りうるかのようにみなすことであり、そればかりか、単に等価物同士の交換であるかのようにみなすことなのである（だが、実際には「価値」そのものが無い）。したがって、ソクラテスは、腕をアルキビヤデスに巻きつけられたまま、「何ごともなく」一夜を明かす、ということを選択する。この何ごともなかった一夜をもって、アルキビヤデスは、ソクラテスの《節制》を激賞するのだが、おそらく、アルキビヤデスは、その一夜の真の意味を理解していない。そこでは、何ごともなかったのではなく、何かが内在的に起こったと考えるべきなのである。そして、そのことのゆえに、ソクラテスの《節制》は、真の《指標》として称賛すべき何かになるのである。（プラトンの対話篇の巧妙なところは、ソクラテスを真に理解しない対話者の称賛を、そのままの形で載せることにあり、この無理解が最後まで継続することにある。要するに、対話者は決まって言い負かされるのだが、彼らはけっしてソクラテスを真に理解せぬままに言い負かされるのである――筆者がそうであるかもしれないように。プラトンの対話篇は、こうして、ついに閉じられることなく中断する。）</p>
<p>『パイドン』において、ソクラテスはこう言っている。</p>
<blockquote><p>
人々が快楽と呼んでいるものは、正反対と思われている苦痛となんと奇妙な関係にあるのだろう、まるで二つでありながら頭は一つ、というみたいにね。
</p></blockquote>
<p>ソクラテスは、エロスとタナトスが、別々の限定された概念ではなく、ある量的な差異を孕んだダイナミックな強度であり、ひとつの源泉から発せられた力のふたつの状態であることを明白に理解していた。このことは、彼が、いわば、エロスとタナトスを、ひとつの出会いとして、出来事として捉えていたことを意味する。</p>
<p>アルキビヤデスとともに過ごした一夜、すなわち、「美と美の交換」が起こるか起こらないか、という二者択一は、出来事の二つの側面を示している<sup><a name="p1" href="#n1">(1)</a></sup>。「美と美の交換」が起こるということは、まさに、あるひとつの主体と関係するかぎりでの、個人が認知しうる出来事性であり、主体の《現在》において起こるひとつの表象であるということを示している。ここでは、出会いは、いつも快楽（エロス）と苦痛（タナトス）の内側にとどまっていて、けっして両方を同時に見ることができない。一方、「美と美の交換」が起こらない出会いそれ自体が《肯定》されるとき、けっして現れることのない出来事が生じる。それは、いわば、あるひとつの主体が認知しえない出会いの残余であり、快楽と苦痛をひとつの強度にしてしまうような、《現在》からつねに逸脱する出会いの《過剰》である。猛スピードで訪れる《未来》、猛スピードで過ぎ去る《過去》、固定的に主体化された個人がけっして把握することのできない出会い、いわば、けっして、ある一者に従属することのない、単独者同士の真の他者との出会いを、ソクラテスは、「美と美の交換」されることのなかったあの一夜によって、見事に表現して見せたというわけなのである（それゆえに、ソクラテスの態度は、単に真の美を“贈与”するという、アルキビヤデスに対する最高の愛情表現であろう――アルキビヤデスにはついに理解されえなかったが）。したがって、ソクラテスの行なった《節制》は、人間の生を牢獄に閉じ込めることなどではけっしてなく、生、あるいは《過剰》の徹底的な《肯定》の果てにある、他者として、単独者として生きる人間の《指標》なのである。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a name="n1" href="#p1">(1)</a> この出来事の二重性を、カフカとその恋人フェリーツェ・バウアーのあいだで交わされた手紙に記された結婚、あるいは会うことの可能性と不可能性に喩えることができるだろう。結婚、あるいは会うことによって、その愛が終りを告げてしまうことに、カフカは十二分に、かつ悪魔的に自覚的である。カフカにとって、手紙は愛の交換のための媒介ではいっさいなく、手紙自体が愛であり、いわば、贈与と盗みとしてある。</li>
</ul>
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		<item>
		<title>パゾリーニ『アポロンの地獄』</title>
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		<pubDate>Thu, 14 Jun 2001 00:54:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[cinema]]></category>
		<category><![CDATA[Eros and Thanatos]]></category>
		<category><![CDATA[Freud]]></category>
		<category><![CDATA[Phoibos Apollon]]></category>
		<category><![CDATA[Sophokles]]></category>

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		<description><![CDATA[パゾリーニ初のカラー作品。パゾリーニ自身、この作品を「映画的」であると評しているように、きわめてよくできた作品であろうと思われる。『奇跡の丘』を撮った後、あいだに３作を経て、それなりに映画的な手法をパゾリーニが身に付けて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>パゾリーニ初のカラー作品。パゾリーニ自身、この作品を「映画的」であると評しているように、きわめてよくできた作品であろうと思われる。『奇跡の丘』を撮った後、あいだに３作を経て、それなりに映画的な手法をパゾリーニが身に付けていったという言い方もできるだろうか。</p>
<p>フロイトによるエディプス・コンプレックスで有名なソフォクレスのギリシア悲劇『オイディプス王』を題材にした作品であるが、もちろん、パゾリーニの作家性が、このギリシア悲劇の名作の忠実な再現など許しはしない。プロローグとエピローグに登場する戦前から戦後にわたる現代と、古代ギリシア世界―それも日本の雅楽が鳴り、ジャワの舞踏曲が奏でられるトルコの荒野で繰り広げられる―を交錯させるパゾリーニは、フロイト的オイディプスが地獄の円環のなかにあることを示しているのかもしれないし、あるいは、フロイトが『快感原則の彼岸』で語らずして語ったように、生と死、エロスとタナトスが、そもそも偽装された反復―同根であること―を示しているのかもしれない（「私はもちろん美しい映画を作りたいが、ただ美しい映画を撮る必要は決してなかった。私には他の刺激が必要だ。ここではそれはオイディプスのテーマのマルクス的、フロイト的発展なのである」）。だが、なににもまして、この作品にしばしば登場する、台詞の文脈を無視した登場人物の「笑い」こそが、オイディプスの地獄の円環を破壊し、脱却する手がかりとしてあるにちがいない。パゾリーニがそのことを意図的に演出したか否かはここでは問題ではない。実の父を殺し、母と寝るというアポロンの神託を聞いたオイディプスがこらえきれずに洩らした「笑い」は、後のドゥルーズ＆ガタリの『アンチ・オイディプス』へと確実に連なっているのである。</p>
<p>例えば、オイディプスが父を殺すシーンの太陽の光。例えば、オイディプスがスフィンクスを打ち倒したあと、歓喜とともに走りだす群集。例えば、疫病で死んだ人々を焼き尽くす炎。この作品を鑑賞した直後に湧きあがったパゾリーニの野蛮さへの興奮がいくらか去った後で、つとめて冷静さを装いつつ、この作品を振り返ってみれば、確かに、ドキュメンタリー的に撮られた（手持ちキャメラによる手触れだらけの映像、極端なクロースアップ、巧みに遠近法を意識させる撮り方、そして自由間接主観ショットなど）映像美や、彼なりの歴史的な（脱歴史学的な）考察などに、いかにも明確に作家性が現われている、あるいは現われすぎているといえるのかもしれない。主演のフランコ・チッティの様式的な（記号的な）演技がそれを助長しているし、如実にわかりやすい身体的な感動を呼び起こしもする。いつものわたしならそのような明白すぎる感動は拒絶しようとするだろう。だが、そもそも、あの野蛮さを作品の始まりから終りまで持続させつづけるというそのことが、もはやわたしを冷静さから遠ざけている。パゾリーニはわたしに野蛮さを強いているのだ。わたしからすれば、冒頭で述べたテクニカルな映画的手法を身に付けつつあったパゾリーニが、なおもこのような野蛮な作品を撮り上げたことが奇跡的なのである。</p>
<p>パゾリーニ、なんたる舞踏、なんたる逃走……！</p>
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<p>監督・脚本・音楽選曲：ピエル・パオロ・パゾリーニ<br />
制作：アルフレッド・ビーニ（アルコフィルム）<br />
原作：ソフォクレス『オイディプス王』『コロヌスのオイディプス』<br />
撮影：ジュゼッペ・ルッツォリーニ<br />
カメラ：オテロ・スピラ<br />
助監督：ジャン・クラウド・ベッティ<br />
美術：ルイジ・スカチアノーチェ、アンドレア・ファンタッチ<br />
衣装：ダニーロ・ドナーティ<br />
編集：ニーノ・バラーリ<br />
音楽：モーツアルト（弦楽四重奏曲ハ長調K４６５「不協和音」）、ルーマニア民謡、雅楽、ジャワ舞踏曲ほか<br />
出演：シルヴァーナ・マンガーノ（母イオカステ）、フランコ・チッティ（オイディプス）、アリーダ・ヴァッリ（メロペ王妃）、カルメーロ・ベーネ（クレオン）、ジュリアン・ベック（予言者テレシアス）、ルチアーノ・バルトーリ（ライオス王）、フランチェスコ・レオネッティ（ライオス王の下僕）、アーメッド・ベルハチミ（ポリュボス王）、ジャンドメニコ・ダヴォリ（ポリュボス王の羊飼い）、ニネット・ダヴォリ（アンゲロス＝アンジェロ）、ピエル・パオロ・パゾリーニ（大司祭）<br />
1967年／イタリア／104分／イーストマンカラー／スタンダード
</p></div>
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