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	<description>kio tanaka's website</description>
	<pubDate>Mon, 05 Jan 2009 17:29:12 +0000</pubDate>
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		<title>世界を語るということ</title>
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		<pubDate>Mon, 05 Jan 2009 17:23:23 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[philosophy]]></category>

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		<description><![CDATA[平行線の定理が世界を論じる際に必要ないことに勘付いた近代の科学者たちは、そのとき、すでにその手に絵筆を握っていた。世界は、線分でできているのではない。色彩によって実現されているのだ。彼らはそのことに気づいた。だが、今日、 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>平行線の定理が世界を論じる際に必要ないことに勘付いた近代の科学者たちは、そのとき、すでにその手に絵筆を握っていた。世界は、線分でできているのではない。色彩によって実現されているのだ。彼らはそのことに気づいた。だが、今日、別種の平行線の定理が復活している。すなわち、カント主義の主張する現象－物自体の一対である。これらは、弁証法的に統合されることさえなく、ついに平行線を描き上げる。</p>
<p>とはいえ、私見によるなら、この平行線を弁証法的に統合したりしなかったり、つまりは脱構築したりしなかったりするということは、じつは、まったく問題ではなかった。たんに、この平行線は、必要ないのである。</p>
<p>近代の画家にとって、絵画とは、ひとつの世界論だった。世界とは、こうなっている。これが、彼らの絵画であった。もちろん、それは美でもあるだろう。真理でもあるだろう。だが、なにより、《わたし》が語るというそのことにおいて、絵画とは、一個の世界論なのである。</p>
<p>セザンヌは「自然を円筒形、球形、円錐形として扱いなさい」といった。それは、世界がこれらの図形でできているという意味である。彼が自然をそのように認識するということではない。画家にとって、色彩は言葉であり、絵筆はそれを操る咽喉であり気息である。そしてもっと重要なことは、色彩は、言葉であると同時に、世界そのものである、ということである。</p>
<p>ある小説家―もったいぶることはない、志賀直哉にとって、言葉とはリズムであった。そのことは、同時に、世界そのものが、リズムを持っているということである。すなわち、リズムであるような言葉とは、世界そのもののことである。言葉は、世界が奏でているリズムによりそい、それとひとつになる。自然にできた木立は、適当な間隔で、すなわちリズムを刻んでいる。空に群がる鳥たちは、おたがいに適当な距離を保ちながら、すなわちリズムを空に刻印している。雲もまたそうである。波もまたそうである。ついには人間もまたそうである。ひるがえって、人間と切り離されたものとして人間の言葉を眺める時、そこにリズムがあることは、誰もが思い知ることだろう。言葉もまた、言葉でできているのである。小説家は、リズムを刻む。それも、世界そのものであるようなリズムを刻む。近代のある種の小説家にとって、小説とは、ひとつの世界論でなければならなかった。</p>
<p>わたしが、わたしに語らせるのではない。世界は、いつもわたしたちに世界を語らせている。鳥が囀るように、わたしたちは世界を語る。それは、わたしがわたしに語らせるということにほかならない。そうした非‐思考を超えて、思考そのものであるためには、言い換えれば、言葉が、世界論であるためには、なによりわたしが語るのでなければならない。それが、絵を描くということであり、小説を書くということである。則天去私を語る必要はどこにもない。</p>
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		<title>高見と小林の墓参り</title>
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		<pubDate>Wed, 31 Dec 2008 06:52:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
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		<description><![CDATA[一昨日、鎌倉は東慶寺を訪れたときの出来事。
まずは高見順の墓参り。相手が作家であると思うと、それも死人であればなおさら、こちらも裸にならざるを得ない。とりわけ彼の前では、隠し事はできない。自分でも思いもよらなかった言葉が [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>一昨日、鎌倉は東慶寺を訪れたときの出来事。</p>
<p>まずは高見順の墓参り。相手が作家であると思うと、それも死人であればなおさら、こちらも裸にならざるを得ない。とりわけ彼の前では、隠し事はできない。自分でも思いもよらなかった言葉が口をつく。「迷っている……」。ぼくは、歴史について思考し、そして哲学について思考し、巡り巡って文学にたどりついた。文学、この言葉は、ぼくにとって、もっとも《現実》的なものだ。本当の意味での思考、本当の意味での出来事、つまり現実は、ここにしかないということに、最近になってようやく気づくことができた。それは幸運なことだった。</p>
<p>文学が虚構であることを笑うひとびとがいる。多くは、批評家であったり、研究者であったりするひとたちだ。だが、じつは歴史が虚構であることをついに否定できないように、どのような批評も研究も、虚構なのである。大学の外にいる「実業家」たちからみれば、大学そのものが、充分に「虚業」である。だが、歴史がついに虚構を超えないということ、そのことは、突き詰めれば、大学の外でさえ、虚構の可能性を払拭できないということでもある。「実業家」と呼ばれるひとたちのことを考えてみればいい。彼らは、作家たちが虚を実にせんと欲望するその強さに引き換え、なんと虚に塗れていることか。要するに、資本主義という虚構を盲目的に信じることにおいて、実業ほど虚構的なものはないのである。</p>
<p>つまり、虚や実という区別は、ついに意味をなさない。物自体の世界と現象の世界という区別は、ついに意味をなさなくなる。世界そのものが、劇場なのだ。重要なことは、虚や実といった区別ではなく、虚を実にせんとするその実践、その意志のみである。そして、「劇場」という言葉が、もしその外部を想定した言葉であるなら、この語も不十分である。フランスの天才哲学者が言ったように、だから「工場」というべきなのかもしれない。なにかが生み出されるという、そのことを思考できるのは、もっと正確に言えば、思考そのものがなにかを生み出すような、そうした空間とは、劇場―工場のシリーズにおいてのみあらわれる。それを日本人は文学といった。ここにいたるまでにぼくはずいぶん回り道をした。それはもしかしたら、苦悩の軌跡といってよいかもしれない。</p>
<p>だが、戦前の作家たちは、さらに先を歩んでいた。彼らは、現実と文学の断絶に苦悩するようなナイーヴさはとっくの昔に克服していたし（むろんその問いにはたえず向き合わされていたとしても）、虚構にこそ深い現実が現れることを、とっくの昔に知っていた。高見順はぼくに言った。「よろしい、君は文学を発見したのだな？　文学にこそ、君が求めていた真理があること、それを発見したのだな？　なら次は、《君の》文学を発見することだ。そうしてはじめて、君は本当の意味で文学を発見したことになるのだ。そこに至らぬかぎり、文学を発見したなどとは言えぬのだ。」</p>
<p>そうかもしれない。ぼくの文学？　それはいったいなんだろうか。戦前の作家たちは、みな、自分のスタイルを見つけ出していた。文学という空間のなかで、さらにそこに驚異的な飛躍を可能にする斜線を引いて回っていたのだ。ぼくは全然甘いのだ。どうすればよいのだろう。ぼくの問いに、高見は答えた。「いいからなにか書きなさい。」</p>
<p>さて、このお寺には、たくさんの著名人の墓がある。高見順をはじめ、西田幾多郎、和辻哲郎、鈴木大拙、阿部能成、岩波茂雄、そして小林秀雄。小林秀雄の墓か。ぼくは墓の前で、こんなことを思わず考えた。「志賀直哉について、なにか書けたらと思っている……」。すると、墓のなかから顔を出して、小林はこう言った。「お前が？」　不服そうな彼の口調に、思わず立ち上がった。どうしてこんな自問自答が浮かぶのか。ぼくが喋っているのは、小林ではなく、自分なのだ。動揺と不満とがないまぜになって、ぼくは墓に尻を向けた。同行者がぼくを不審そうに見ているのを知っていたが、とりあえず小林の墓の前を去ることにした。ぼくは小林以外の批評家をまったく認めていない。つまり、小林は認めている。たが、こうした物言いは、小林には傲慢に映ったのだろう。当然だ。彼の墓の前で、まったくいい気になっている若造以外のなにものでもなかった。</p>
<p>小林の墓を後にすると、石段の底で、カメラを持った六、七人の集団がぼくの横を通り過ぎた。ひとりは、かつて小林秀雄賞を受賞された方だと記憶するが、間違っているかもしれない。彼らも、小林の墓参りらしい。同行者は彼らより先に小林の墓参りができてよかったと言った。ぼくはなんの感想もなかったが、小林とはもっと長く喋っておけばよかったかもしれないと思った。</p>
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		<title>コロー讃</title>
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		<pubDate>Tue, 30 Dec 2008 05:25:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[review]]></category>

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		<description><![CDATA[春に東京、秋に神戸で行なわれていたコロー展のカタログを手に入れた。それを読むと、彼を評価する過去の芸術家のさまざまな言葉を見つけることができる。それを紹介する文章を適当に引用してみよう。たとえば、エミール・ゾラ。
もし彼 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>春に東京、秋に神戸で行なわれていたコロー展のカタログを手に入れた。それを読むと、彼を評価する過去の芸術家のさまざまな言葉を見つけることができる。それを紹介する文章を適当に引用してみよう。たとえば、エミール・ゾラ。</p>
<blockquote><p>もし彼がよく使う霞がかった色調によって、夢想者や理想主義者のなかに分類されているようなら、その筆触の堅固さや厚み、自然から受け取った真の感情、大づかみな全体把握、とりわけヴァルールの調和の正確さによって、彼は現代の自然主義の巨匠たちの一人に数えられる。（15ページ）</p></blockquote>
<p>そのゾラに対しては、ポール・セザンヌがこう言っている。</p>
<blockquote><p>セザンヌは笑いに喉を詰まらせながら、こういった。「もしニンフたちの代わりに農婦たちが森に集っているなら、コローの絵を存分に満喫するのだ、とエミール[・ゾラ]はいっていたよ」。そして立ち上がり、そこにいるかのごとくゾラに拳を振り上げていった、「バカな奴だ！」（26ページ）</p></blockquote>
<p>つまり、ゾラからすれば、ニンフが農婦であれば、もっと社会主義的な観点からも評価し得た、ということなのだろう。ゾラの正確な発言は次のとおりである。「もし彼の森に集まるニンフたちを、これを限りに殺してしまい、その代わりに農婦を置くことに、コロー氏が同意するならば、私は彼の作品をどこまでも愛するだろう」。だが、セザンヌからすれば、貧しい農婦たちこそ、ニンフとして描かれねばならないのだ。ゾラはなにもわかっちゃいないのだ。セザンヌは、マネに対しても、「君のコローだが、ちょっと個性を欠いていると思わないか」、などといって批判しているが、実際、十九世紀後半のフランスの画家たちにとって、コローはアイドルの一人だった。</p>
<p>たとえば、モーリス・ドニは、一九二三年に行なわれた「最も偉大なフランス画家」についてのアンケートにおいて、こう言ったという。</p>
<blockquote><p>ドニは、ほとんどすべての長所を併せもつドラクロワに投票しようと考える。「画家としてドラクロワに欠けているのは…コローの長所だけだ。ドラクロワはフランス絵画の知性だ。しかしコローはフランス絵画の本能だ。簡潔なるコロー、正確なるコロー、フランシスコ会士で敬虔なコロー。最終的に私はコローに投票することになるのだろうか。</p></blockquote>
<p>ドニはまた、次のようにも言ったという。</p>
<blockquote><p>ローマから、何度も描いたフランス・アカデミーの噴水を前にして、ドニはアンドレ・ジッドにこう書き送っている。「このすばらしい噴水の周辺は、いつも柔らかな影に包まれている。ヴィラ・メディチの前のコロー泉！　ああ！　そこでわれわれの印象派理論と古典的方法とが対面している。何という高揚感か！」（27ページ）</p></blockquote>
<p>また、コローとその父親との関係が自分とよく似ていると感じていたゴッホは、北国の景色を眺めながら、コローの精神に気づいたといい、弟のテオにこう書き送っている。</p>
<blockquote><p>僕たちが通りがかった寂しい小屋、痩せ細ったポプラに囲まれ、黄色い葉の落ちる音が聞こえる。ブナ垣と土壁に囲まれた小さな墓地には、ひしゃげた古い鐘楼。平らな風景、荒れ地、麦畑、何もかもがコローの最も美しい作品のモティーフそのものを目の当たりにさせる。ただコローのみが描いたかのような、沈黙、神秘、平穏……。（24ページ）</p></blockquote>
<p>コローの影響を自らのうちに認めていた画家たちをあげれば、きりがないほどである。ゴーギャン、ピカソ、マティスやカンディンスキー、はてはピエト・モンドリアンまで、つまり印象派から絵画的抽象に到達した二十世紀の芸術家まで、彼らはコローから、思い思いに自分なりのコローを読みとっている。だが、ここは、印象的なルノワールの言葉を引用しておこう。</p>
<blockquote><p>ある日、幸せなことに、私はコローの前にいました。戸外制作の難しさを彼に話すと、彼はこう答えました。「外では、自分がすることに決して確信などもてないということです。常にアトリエでやり直す必要があります」。それにもかかわらず、コローは「印象派」の誰もが到達できない現実性によって自然を表現したのです！　私は、シャルトル大聖堂の石の色調や、ラ・ロシェルの家の赤煉瓦を彼のように表そうと苦労しました！</p>
<p>コローは世紀の偉大な天才であり、これまでで最も偉大な風景画家です。彼を詩人と呼ぶ人もいますが、何という誤りでしょう！　彼は自然主義者です。私は彼を研究しましたが、彼の芸術には決して到達できませんでした。…私は彼を真似しようとしました。ラ・ロシェルの塔に、彼は石の色を与えましたが、私には決してできませんでした…。(26ページ)</p></blockquote>
<p>ルノワールは、映画監督となった息子のジャン・ルノワールにこう言っている。</p>
<blockquote><p>私はすぐさま、偉い男というのはコローのことだとわかった。彼は決して消え去ることはないだろう。デルフトのフェルメールのように、流行とは別のところにいるのだ。（15ページ）</p></blockquote>
<p>塔の石に色彩を与えたというコロー。ジャン・ルノワールがモノクロームのフィルムに与えた色彩は、おそらくは、コローの色彩なのである。親愛なる読者たち、みなさんは、コローの色彩を見る機会に預かることができただろうか。最近のわたしの心配事といえば、これに尽きる。わたしたちは、色彩を実現せねばならない……。</p>
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		<item>
		<title>模倣か虚構か</title>
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		<pubDate>Wed, 24 Dec 2008 14:52:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[philosophy]]></category>

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		<description><![CDATA[芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣？　それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること？
どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわってい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣？　それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること？</p>
<p>どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわっているかぎり、よい芸術はなかなか生まれてこない。</p>
<p>芸術における真のリアリティとは、結局、自然との差異において現れるものである。逆に言えば、本物とまったく同じものを作りあげることが、芸術なのではない。その観点からすると、模倣論よりも虚構論の方が、芸術にふさわしいものに思えてくる。だが、後述するように、結局は、虚構論も問題にならないだろう。虚構論は、当然、その一方にそれと対立する真理の世界を想定せざるをえない。だとすると、われわれの知りうる世界そのものが、ヘーゲル的な弁証法を前提しないかぎり、まったくの虚構であり、そこでは、芸術とその他の営みとを区別することが不可能になる。われわれの営み、それが人間的な営為であるかぎり、虚構であるとするなら、虚構論を、芸術論に限定する理由はどこにもない。それでは芸術論としては無意味であろう。</p>
<p>視点をすこし変えて、もう一度説明しよう。われわれの認識する世界が虚構かもしれない、というのは誰しもが考えることだ。だからひとは知りもしない《物自体》を仮構して当座の満足を得る。それは、われわれの知りえない起源＝自然を仮構する、ということでもある。こうした観点からすると、虚構論に食指が動くのはもっともである。</p>
<p>しかし、本来、われわれが仮構する物自体もまた、われわれが便宜上、適当に生み出したものにすぎない以上、認識と物自体とは、対立すると言っても、たんにひとの精神の上で並列されるふたつのよく似た経験というほかない。対立するとしても、結局は、精神の上で起こる一連の経験なのである。したがって、人間が認識できる世界にかぎったとしても、その世界が完全無欠の虚構であるとすれば、虚構論といっても、それは、虚構としての表象の上に、さらなる虚構としての表象を重ね合わせることにすぎないし、また逆に、模倣論といっても、それは、模倣としての表象に模倣としての表象を重ねることでしかなくなってしまう。いずれにせよ、実体が必要ない以上、そもそも模倣も虚構もないのである。</p>
<p>こうなると、模倣論とか虚構論とか言っても、無意味である。むしろ、芸術の欲望が《次》の表象を求めるという、当のそのことにおいて、芸術は判断されるべきである。すなわち、この芸術は、いったい何を生み出そうとしているのか。どのような表象を意志しているのか。</p>
<p>子供はそのことをよく知っている。美術館に飾ってある優れた絵画をみて、彼は、「本物みたいだ」と感じる。いまにも、絵画から、美しい女性が飛び出してくるのではないか、そんな風にどきどきする。そこで、野暮な大人がこう言ったとする。「たしかに、本物みたいだねえ（あれは、絵なんだよ。作り物なんだよ）」。だが、《子供はそんなことはとっくの昔に承知しているのだ》。真理の直前で立ち止まる絵画が、まさに直前に立っているからこそ、彼は絵画を真理だと感じているのである。「本物《である》かのようだ」ではない。「本物《になる》かもしれない」なのだ。かの子供は、この二つの文章の違いを、明敏に感じ取っている。</p>
<p>その点でいうなら、アニメやマンガの絵に性的な欲望を掻き立てられる、というのは、別に不思議なことでもなんでもない。それらはおそらく、本当の人間よりも、人間《になる》ことを欲望しているからだ。それらは、芸術の出発点でさえありうる。ただし、虚構という言い方で、それらがもっている現実との接点を切り離してしまうなら、なんの意味もなくなってしまう。虚構論は、人間になろうとする欲望を断ち切り、暗に《なれない》と言う。そのことによって、ついにそれらは本来もっている力を失ってしまう。</p>
<p>わたしは、芸術について述べた。この話の恐るべき点は、じつは、歴史にも当てはまってしまうことである。カントが言うように、われわれのあずかり知らない物自体を認めるとしても、その一方にある人間的な世界のすべてが認識論上の虚構なのだとすれば、歴史とは、とどのつまり、虚構ではないか。そうした恐るべき問いが立てられてしまう。要するに、カント＝ゲーデル風にいうなら、われわれは、嘘と本当とを、ついに区別できないのである。</p>
<p>区別できない、とは、一体どういうことか。見方を変えれば、文学と歴史とが、区別できないということである。虚構と真理とを裁断する規準を、われわれは持ち得ないのだ（この時点で、じつは、上記の虚構論は可能性を失う。一見すればかぎりなく芸術にふさわしい虚構論は、その意義を失ってしまう。同じものを再現しようとするものであるかぎり、模倣論に満足することはできないとしても、模倣という語が、実体の力を借りつつも、それ自体で価値をもつかぎり、模倣論にはまだ可能性がある）。</p>
<p>歴史と文学とを区別するのが無意味となるような空間、ここにおいて、はじめて文学は、そして芸術は真に駆動しはじめる。そうした芸術は、同時に、政治的な行為を促す革命論でもあるはずである。虚構論が跋扈する今日、われわれは、まだスタートラインにさえ立っていない。芸術も革命も、まだまだ遠い。……</p>
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		<title>ただ、彼らの横を通り過ぎた</title>
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		<pubDate>Fri, 19 Dec 2008 16:37:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[言葉がみちて、やがてあふれて現実を穿つとき、わたしたちは、それを《出来事》と呼ぶことがある。それは真理の名に値する唯一のものであり、そして同時に名状しがたい美しさをもっている。
だが、こうした「思考」を否定する背面世界論 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>言葉がみちて、やがてあふれて現実を穿つとき、わたしたちは、それを《出来事》と呼ぶことがある。それは真理の名に値する唯一のものであり、そして同時に名状しがたい美しさをもっている。</p>
<p>だが、こうした「思考」を否定する背面世界論者や皮肉屋たちの群れがある。夕暮れ時の色をした言葉の指差しているのは、出来事というよりは、「意味」である。いつも振り返る者たち、すなわち歴史家が若くして老いたその指に触れるのは、《出来事》ではなく、「歴史」である。つまり、《出来事》にたどり着くには「意味」や「歴史」はあまりに非情なのだ。</p>
<p>ここでわたしたちは、二人の人間に出会う。ひとりは、出来事にたどり着けないことに目をつぶって実証主義者として振舞う裏返しの背面世界論者。そしてもうひとりは、出来事を諦めること、たとえばテクストの内側にとどまること、それ自体を、最大限に可能な真理ならざる真理として受け容れる、脱構築主義者である。</p>
<p>彼らは、多かれ少なかれ、歴史家である。出来事を目ざして進むひとたちが、出会う最初の障壁が、「意味」であり、そして最後のそれが「歴史」である。出来事はつねに彼岸にあり、わたしたちはそこにたどり着くことができない。だが、わたしはそうした思考とは無縁の人間である。</p>
<p>こうした歴史学的な思考、要するに非―思考には、もう飽き飽きしている。良くも悪くも混濁しているジャック・デリダには、まだ可能性がある。だが、やはり良くも悪くもデリダほど混濁していない柄谷行人には、もはや可能性はあまりない。いずれにしても、彼らはよく似ているし、わたしは、彼らとは無縁でいたい。要するに、わたしの哲学は、カントとは無関係でありたい。音声中心主義批判が取り出す差延は、カントの超越論的主観とほぼ正確に同じものである。それらは、可能性であると同時に不可能性だが、こうした両義性を、彼らは保持し続ける。両義性、それは、過去を解釈し、未来を予言しようとする現在の人間には必要不可欠なものだ。こうした言説は見かけ上つねに正しいが、なにも生産しない。なにも判断せずに懐疑にとどまっているうちは、本当は正しいも間違っているもない。ニーチェ風にいえば、現在の人間のために語る彼らは、いまだ竜ではない。わたしは、わたしの竜を探している。</p>
<p>ともあれ、わたしは引き返しはしなかった。ただ、彼らの横を通り過ぎた。</p>
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		<title>坂本龍一</title>
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		<pubDate>Sun, 14 Dec 2008 06:24:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[diary]]></category>

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		<description><![CDATA[最近、坂本龍一を聴くことが多い。小さい頃からファンだった手前、坂本を聴いているときは、自分が「衰弱」しているときだと認識することにしている。
「衰弱」というとわかりにくい？　衰退といってもいいが、疲労ではない。没落でもな [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>最近、坂本龍一を聴くことが多い。小さい頃からファンだった手前、坂本を聴いているときは、自分が「衰弱」しているときだと認識することにしている。</p>
<p>「衰弱」というとわかりにくい？　衰退といってもいいが、疲労ではない。没落でもない。要するに、演歌的なものに食指が動くということか。身体的には健康でも「思考」がはたらかない状態にあるということか。頭に意味が溢れてしまい、「思考」を身体が拒絶しているというべきか。ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』を読んでも、変に頭が「理解」しようとする方向にはたらいて、感じることができない。この本から意味を求めているときは、たいてい頭が馬鹿になっているときだ。『ツァラトゥストゥラ』は「歌」だ。この本の奏でる音楽を聴かずに意味を求めるなんて、馬鹿げたことだ。そういうとき、ぼくは自分が「衰弱」していると感じる。</p>
<p>そういう場合の処方箋として、ぼくは坂本を聴く。実際、聞いているのは、『０４』で、Asienceだとか、Roningai-symphonicだとか、こんなものを作って、坂本だってずいぶん衰弱していると思う。</p>
<p>だが、衰弱を共有したって、嬉しくない。そうじゃなくて、坂本のよさは、彼の独特の「音作り」にあると思う。</p>
<p>ぼくは、彼の曲を聴くと同時に、音も聴いている。音楽的には、浅田彰が的確に、そしてじつは好意的に表現するような、アカデミズムが抜けきらない印象を拭えないし、また同時にその裏返しのロマンティシズムも、好きではあるが、気恥ずかしい。それはそれで衰弱している自分には都合がよいのだけど、ただ、音は別だ。こんなに音を作りこんだ作曲家は、いないと思われる。</p>
<p>バッハの時代には、楽器の製作は、演奏や楽曲の製作がそうであったように職人の領域にあり、ラヴェルの時代になって、演奏がアートの領域を開拓しても、楽器は変わらず職人の領域にあった。だが、坂本はシンセサイザーの時代の申し子であり、かくして、音そのものが、アートの領域に突入したのだが、それと同時に、坂本を、かえって“職人”に見せるようになった。職人芸としての彼の音作りは、やはり際立っていると思う。そこに衰弱はないし、この音を聴いて、ぼくの「思考」は知らず快癒するのかな。</p>
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	<p><a href="http://www.amazon.co.jp/04-%E5%88%9D%E5%9B%9E%E7%9B%A4-%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E4%B8%80/dp/B00030GPZ6%3FSubscriptionId%3D10J7BBWBHFNGXM612JR2%26tag%3Dkiotanaka-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3DB00030GPZ6" target="_blank">/04 (初回盤)</a> / Array / CD ( Music )</p>
	<p>ワーナーミュージック・ジャパン( 2004-11-24 )</p>
	<p><em>定価：</em>￥ 2,940 ( 中古価格 ￥ 1,480 より )</p>
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		<title>コローの偉大</title>
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		<pubDate>Sun, 30 Nov 2008 16:38:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[review]]></category>

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		<description><![CDATA[いま、神戸市立博物館でコロー展が開催されている。十九世紀フランスを代表する画家であるジャン＝バティスト・カミーユ・コローといっても、知っているのは名前くらい、かの「真珠の女」でさえ、かつて教科書で見たかどうか、あるかなき [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>いま、神戸市立博物館でコロー展が開催されている。十九世紀フランスを代表する画家であるジャン＝バティスト・カミーユ・コローといっても、知っているのは名前くらい、かの「真珠の女」でさえ、かつて教科書で見たかどうか、あるかなきかのおぼろげな記憶がある程度である。彼がどういった系譜に位置するのか、また彼がどういった動機で絵画を制作していたのか、美術史の知識も端から乏しい。要するに完全な素人であることを承知で、それでも、彼の絵画をみて感じたこと、考えたことをここに記しておく。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>まず、正直に告白しておくと、わたしは「真珠の女」をみて泣いてしまった。別に悲しかったわけではない。たんに衝撃から涙が出たのである。これはちょっとすごい。展示は六章構成。イタリアの風景をモチーフとした初期の作品を中心とした第一章から、二章から四章にかけては風景画のコロー、そして五章では人物画のコローをまとめ、最後の六章で彼の「想い出（スヴニール）」を題材としたやや虚構的な風景画を中心とした晩年の作品で幕を閉じる、といったもので、非常に手際よくまとまっていたと思う。</p>
<p>まずは彼の光の表現に注目しよう。習作時代のそれは、いわば、光のイデアリズムというべきもの、ほとんどプラトニックな、理想主義的な光の表現が画面全体に広がるのを見てとることができる――かにみえる。だが、それは、あまりに皮相的な見方だろう。それは、コローの影響のもとに描かれた&#8220;コロー風&#8221;の絵画が、あまりに明るすぎる感じを与えることからもあきらかだ。コローの絵は、もっと暗い、というか、明るすぎない。影は光に従属していないし、光が影によって補完されるのでもない。光のみならず、影もまた、光のコントラストと言い切るにはあまりに深く、そして淡い。光は影であり、影は光であるといった弁証法はそこにはなく、むしろ、光から影へのグラデーションは、おたがいを差異化しながらミルフィーユ状に重なってゆく。それでいて、光は光としての、影は影としてのイデアを失わない。グラデーションといっても、科学的に単純化された光量の調節の問題に還元されていないのだ。なぜか？ なぜそれが可能なのか。それは、彼が、まさに《見るという経験》をキャンパスに描いているからだ。見るという行為が、さまざまな光の粒子に陰と陽の名と統一とを与えるのだ。</p>
<p>つまり、彼は、古い科学のように、自己をたんに否定していない。彼の目は手とひとつであり、したがって、見るという経験は即座にキャンパスに描かれる手の速度となって実現する。《自然》をことのほか愛好したという彼は、だからといって、《見るという経験》をそれに対立させなかった。そのことがその他のバルビゾン派などはるかに超えて彼を偉大にしたと思う。彼はオペラを愛したともいうが、そのことと彼の自然への深い愛情もまた、対立しない。むしろ彼は、自然のなかに、すでにオペラ的虚構の世界は織り込まれていると、そう考えている。ふつう、ひとが虚構を自然や物自体に対立させるのだとすれば、コローは虚構を自然のなかに認めたのだ。つまり、《虚構は実在する》。</p>
<p>彼の人物画もまた、そうした観点から見られねばならない。彼の描く人物は、ニンフ（妖精）であると同時に現実の人間であり、かぎりなく虚構的でありながら、現実に存在する市井のひとたちとなる。幾重にも積み重なった光のカーテンの狭間で、ふいにキャンパスに捉えられたモデルたちの色彩は、彼の《見るという経験》によってついに可能になる。潜在的な差異化を繰り広げていたモデルたちの放つ光の粒子が、コローの視線によって、色彩となる。要するに、モデルたちは、コローの色彩を得てはじめて真に実在する力を得るのだ。絵画とは、コローにとって、言葉の真の意味できわめて《実践的な》リアリズムである。かの「青い服の婦人」の奇跡のような美しさは、光と影の交錯するわずかな隙間にコローが切り開いた色彩の実在を物語っている。というか、実在とは、色彩である、そういうことを彼の絵画は感じさせる。</p>
<p>そして、五章のクライマックスが「真珠の女」である。《見るという経験》が、すでにして自然のなかに属するのであれば、もはや対象（オブジェ＝物自体）という思考は存在しなくてもよいはずだ。というのも、自己と対象を分かつ分水嶺は、もはやそこにはないからである。したがって、見る／見られるという一対の概念にも変更が加えられなければならない。それらは、結局、別々の行為ではなく、ひとつの行為だからである。見る／見られるという一対、作者と対象という思考は、あまりにも主体中心の思考なのである。だから、コローは「真珠の女」に、こちらを見させることを躊躇わなかった。彼女の視線は、自身を描くコローか、さもなければコローの手を見ている。《見るという経験》は、《見られるという経験》とひとつであり、いうなれば相互扶助的な関係なのだ。彼の言葉でいえば、それが「感情」である。彼は言う。</p>
<blockquote><p><font color="#888888">芸術における美とは、われわれが自然の外観から受けとった印象のなかに浸された真実である。どうということもない場所を見ていて私は胸を衝かれる。模倣を追及しているにもかかわらず、私は自分を捉えた感動を片時でも失うことがない。現実は芸術の一部であり、感情は芸術を完全なものとする。</font></p>
</blockquote>
<p>「感情」はすでに自然に属す。したがって同時に美は自然の真理であり、現実とは芸術の一部である。美や芸術、理想や真理、そして感情、それらすべてが自然の名のもとに混在する世界。ここには、カント的な区分はいっさい必要がない。むしろ端的に、《私小説的なもの》がある。つまり、フローベールが「ボヴァリー婦人は私だ」、と言ったのと同じ意味で、「真珠の女」はカミーユ・コローなのである。われわれが「真珠の女」をみていると思っているとき、じつは、コローがわれわれを見ている。この視線の異常な強さは、イングマール・ベルイマンの『不良少女モニカ』か、あるいはゴダールの『勝手にしやがれ』のヒロインたちのカメラ目線に匹敵しよう。というよりは、美術史的にいえば、映画のヒロインたちの視線は、コローの「真珠の女」の遺伝子の遅れた開花であると考えるのが正しいにちがいない。</p>
<p>六章、すなわちコローが晩年にとりかかったのが、「想い出（スヴニール）」と称される一群の諸作品である。彼は記憶の重要性を語る。だが、それをもって、対象なき虚構の世界の知的な構築などとは考えないことだ。やはり、ここにもカント的な区分はすこしも必要がない。彼が必要としているのは、もちろん対象ではないが、かといって対象とは切り離された虚構の世界でもない。彼は、ただ次のことだけを行なえばいいことに気づいたのだ――すなわち、自然に等しい彼の感情＝経験が積み重ねてきた記憶の湖の底から湧き上がる、尽きせぬイメージを汲み上げること。なぜなら、記憶は、それが経験によって得られたものであるかぎり、すでにして芸術であり、現実であり、そして自然だからである。見るという瞬間的な経験をキャンパスに封じ込めてきた彼の絵画が、記憶に向かうのは必然的だったろう。《見る目》と《描く手》をひとつのものと考えたように、今度は《想起》と《描く手》をひとつのものと考えるのだ。記憶とは、ひとつの絵画なのである。</p>
<p class="post-c">◇</p>
<p>あまりに急ぎすぎて、いつにもまして文章がよくまとまっていないのはよく承知している。というか、彼の絵画を語るには、わたしの文章はいかにも貧しい。いずれにせよ、近代絵画の近代的ではなかった真の出発点のひとつがここにあったことは、よくわかった。だが、そんな美術史的な観点などどうでもよくなるくらいの感動を得ることができた。どうしてこんなひとがいたのに今まで気づかなかったのだろう！</p>
<p>会期はあとわずかである。どうか、できるだけ多くのひとが、コロー展の感動に浴さんことを。&#8230;&#8230;</p>
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		<title>音楽で革命を起こそう</title>
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		<pubDate>Fri, 28 Nov 2008 02:42:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[literature]]></category>

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		<description><![CDATA[「音楽では革命は起こせない、というのを最近知ったよ。若い頃にはそう思っていろいろやったけどね。音楽はひとを教育する。それはとても国家的な教育なんだ。だから、いつも教育してしまう音楽を、なんとか別の方向に持っていければ、そ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「音楽では革命は起こせない、というのを最近知ったよ。若い頃にはそう思っていろいろやったけどね。音楽はひとを教育する。それはとても国家的な教育なんだ。だから、いつも教育してしまう音楽を、なんとか別の方向に持っていければ、それで革命が起こるんじゃないかって、本気で思ってた。だけど、それは若い頃の話。そう&#8230;&#8230;いまから三十年くらい前の話。&#8230;&#8230;だけど予示的に別の、革命的な世界を想像し、構想することはできる。未来にあるべき世界をいまここで想像する。それが大事だと思っているよ。」    <br />「かのようにの哲学？」     <br />「まあ&#8230;そういうことになるかな？ 言葉にするとつまらないんだけどね。」     <br />「うーん&#8230;&#8230;。あなたまでそんなことを言うとは驚きです。ぼくはあなたは違うと思っていました。」     <br />「どういうこと？」     <br />「いや&#8230;&#8230;音楽で革命は起こせるってことです。」     <br />「そう？」     <br />「はい。起こせますよ。絶対。ルソーは、言葉を音楽にしようとしていた、とドゥルーズ＝ガタリは言っていたと思います。それをぼくはこう理解しています。ルソーにとっての革命とは、言葉を音楽として扱うことだと。」     <br />「ふん&#8230;&#8230;君、おもしろいね。」     <br />「はい、たまに言われます。」     <br />「うん&#8230;&#8230;つづけて」     <br />「革命って&#8230;&#8230;つまり閉塞を打破する、というのは、政権を打倒することとは異なると思うんです。もちろん、それも含まれるんですが、それだけじゃない。それでぼくは、労働者が本気で穴を掘れば、もう革命だと思うんです。道路の真中に大きな穴が開く。それで世界は変わる。ただその労働者が本気で穴を掘らなければ、たとえ道の真中にぽっかり穴が開いたって、革命じゃない。」     <br />「意図次第ってこと？ 精神主義？ ロマン主義じゃない？」     <br />「いや、ちがいます。ロマン主義じゃない。だって、道路の真中に穴が開くんですよ。それって革命でしょう。問題は、そこに必要な精神があるかどうか、です。道路に穴があいても、そこに精神がなければ、ただの穴で終わってしまう。新たに埋められて、それで終わりです。だからぼくは、音楽家が本気で&#8230;&#8230;&#8220;かのように&#8221;なんて言わず、本気で音楽を演奏したら、それは絶対に革命なんですよ。音楽は、それ自体が、政治的なものであり、革命的なものです。道路に空いた穴とおんなじです。だけど、そこに必要な精神がなければ、音楽は、国家的なものという最悪の教育を残してぼくらの耳から耳へ通り過ぎていくだけです。新しい平らなアスファルトで埋められて、自動車に乗っている連中が国家に感謝する。それで終わりです。むかし、革命芸術と芸術革命についての花田清輝と高見順のくだらない論争がありましたが――いや、くだらないというのは、花田がくだらないというんですが――高見の方が圧倒的に正しいんです――ともあれ、芸術は革命を起こす。それは労働者の本気の労働と同じことです。」     <br />「君、おもしろいよ。」     <br />「はい。たまに言われます。&#8230;&#8230;ぼく、花田とちがって、マンガやアニメは嫌いなんですよ。くだらない。馬鹿じゃないかと思う。いい大人がなにやってんだ、って思いますよ。」     <br />「そうだな。それは同意だ。君のような若いのはめずらしいよ。」     <br />「そんなことありません。ぼくの周りにはいっぱいいますよ。世間がそういう若者を見えなくしてるだけです。情報って、そういうもんです。」     <br />「そう？ こっちにはあんまりいないよ、そういうの。みんなマンガとか大好きでしょう。」     <br />「そうですね。みんな、結局、気楽なのが好きなんですよ。おもしろくもない労働に精神を費やしている大衆が求めるひとときの憩い。それで、マンガ読んで、回復した&#8220;かのように&#8221;考える。べつに、日々に疲れたらマンガくらい読んだっていいですよ。テレビ見たっていい。だけど、そういう思考自体が疲労をもたらしてるってことも、真理ですよ。外でマンガとかアニメとか言ってる連中は、自分は疲れてるんです、って言って回ってるようなものですよ。ほんとにくだらない。マンガなんて読んでるのは、疲れた大人だけだってことを、もうちょっと深く考えなきゃいけない。そこにどういった哲学があるのか。社会に疲れるということ、革命なんて起こせないと認識することが大人になることだと考えてるような連中は、こぞってマンガ読むんですよ。社会に疲労している大人こそ！　というわけです。子供なんて、誰も読んでませんよ。マンガは。いまでは大人が反革命のために子供にマンガを読ませてるんだ。」     <br />「そういう考え方もあるかね。」     <br />「話を戻しますが&#8230;&#8230;。」     <br />「いや、わかった。ぼくも考え直す。音楽で革命を起こすよ。」     <br />「あれ、まだいろいろ言い足りないんですが。」  <br />「いや、あっちで話を聞こう。君の話はおもしろそうだ。」  <br />「そうですか。とにかく、音楽のような労働があり、そんな労働は、革命を起こします。絵画のような労働があって、それも革命を起こす。音楽のような音楽だって、なければ嘘です。音楽のような音楽があれば、音楽は、革命を起こす。そこに必要な精神がなければ、すべて、&#8220;かのように&#8221;で終わってしまう。&#8230;&#8230;ニーチェは、カントのようには考えなかった。自分が三十いくつになって、父親が死んだ年齢を超えて晩年を迎えても、彼はそれでもこう言ったんです。ひとは、超人にはなれなくても、超人の親にはなれる、と。自分が革命を起こせなかったからと言って、晩年に&#8220;かのように&#8221;の哲学に走るひとはよく見かけます。革命なんて起こせない。革命が起こる&#8220;かのように&#8221;考えるのが正しいって。だけど、そんなの間違ってる。自分が革命を起こせなかっただけじゃないか。次の世代は、音楽で革命を起こすかもしれないじゃないか。みんな、&#8220;かのように&#8221;なんて言わずに、超人の親になろうとすべきなんだ。」 </p>
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		<title>鏡像の破れ(ラフ)</title>
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		<pubDate>Sat, 15 Nov 2008 13:03:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[「鏡像」という言葉を聞くと、磁力のことを思い出すのだが、今日ではもっと別様な意味で、ラカン風に使われる。「鏡像段階」である。厳密な自己とは異なる鏡に映った像、すなわち虚構としてのイメージ、それを自分自身であると認識するこ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「鏡像」という言葉を聞くと、磁力のことを思い出すのだが、今日ではもっと別様な意味で、ラカン風に使われる。「鏡像段階」である。厳密な自己とは異なる鏡に映った像、すなわち虚構としてのイメージ、それを自分自身であると認識すること、このことが人間を構成する。</p>
<p>こうした自己回帰的な――といっても、その自己はあくまで虚構としての自己なのだが――運動は、わたしには要するに古いアイデンティティ論の変奏にしかみえないし、もっと悪い意味で、古いカント主義的な議論であるとしか考えられない。それは、鏡像段階を抜け出ねばならないとかそういうことではなくて、この論そのものがどうしようもない、というのである。</p>
<p>虚構としての自己に回帰するという先験的な議論は、先験的な自己を事後的に作りあげるという不毛な概念に帰着する。こうした議論そのものが、わたしは国家主義的であると感じてしまう。むしろ、わたしはこう考える。鏡をみる自己Ａは、鏡に写った自己Ｂを模倣することによって、自己Ｃとなる。鏡を見るという行為がもたらすのは、いわば模倣と差異化の運動である。鏡に写った自己Ｂを自己Ａが演じ、自己Ｃに《なる》こと、そうした行為を促すのが、鏡像の真の作用である。したがって、鏡に写った自己Ｂと、自己Ａとのあいだに構造はできない。現実的には、Ａ…Ｂ…Ｃ…という、一種のセリーの運動と捉えるほかない。このことからするに、《鏡像》は、べつにプラトン的な芸術＝模倣〔ミメーシス〕論を遠ざけてはいないだろう。しかもこちらの方が実践的な観点からいえば正確である。</p>
<p>一階にいた人間Ａが、二階に上がって人間Ｂとなり、さらに一階に下りてきたとしても、人間Ａに戻るわけではない。新たに人間Ｃとなる。《一階に下りる》という経験は、ここでははじめての経験だからである。したがって、自己同一性が前もって維持されないかぎり、一階に下りるという経験を自己への回帰と捉えることはできない。この移動に、一階-二階という構造は成立しない。もとの場所に回帰するのではなく、たんに別の空間への移動である。</p>
<p>二階建ての建築物とは、権力者にとっては、高みに昇ることを意味し、それが二階建ての構造物であるということに意味があるのだが、そこに住む人間にとっては、実践的には、「展望」ということはあるとしても、空間の拡張以外の意味はあまりない（展望だけが目的ならば、一階は不要である）。《内在的には》、それは空間の拡張以外のものではなく、それが二階建てであるということは、《超越論的な》視点なしには不可能である。問題は、なにゆえこうした超越論が必要なのか、それは権力的な構造を維持するという以外になんの意味があるのか、ということである。</p>
<p>構造をセリーに分解する実践のなかでもたらされる、構造の破れのほうが、構造を維持しようとする今日流行の議論よりは、よっぽど重要であるように思うし、繰り返すが、たんに議論として正確であると思う。わたしはなにも、鏡像や二階建ての建築物を否定しているのではない。ただ、現実的にいって、それらが、構造をなすという保証は、なにか曖昧さを糊塗する解釈をしないかぎり、どこにもないということだ。</p>
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		<title>大統領選挙</title>
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		<pubDate>Wed, 05 Nov 2008 14:20:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		
		<category><![CDATA[diary]]></category>

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		<description><![CDATA[ひとりの黒人男性がアメリカ大統領となった。すばらしいことだ。彼は、黒人、女性、性同一性障害者、すべてのマイノリティを演じることを、自ら引き受けたひとりの俳優となる。ギリシア悲劇において、《顔》も《仮面》も同じく「プロソポ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ひとりの黒人男性がアメリカ大統領となった。すばらしいことだ。彼は、黒人、女性、性同一性障害者、すべてのマイノリティを演じることを、自ら引き受けたひとりの俳優となる。ギリシア悲劇において、《顔》も《仮面》も同じく「プロソポン」と呼ばれたように（誰だ、仮面から素顔への進歩に近代文学の神髄をみた輩は。文学が誕生したギリシアにおいて、顔も仮面も等しいものだったのに）、彼の素顔は仮面となり、彼は以後、マイノリティを演じる役者となる。彼は、その素顔や内面などとは無関係に、マイノリティの仮面を自ら被り、役者としての生を歩むのだ。</p>
<p>もちろん、役者としての彼が名演技をしてくれる保証はどこにもない。ただ、彼がその役を買って出たことはたしかである。その意気やよし。</p>
<p>アカデミシャンども、評論家どもがくだらぬことを言い、彼の仮面を剥ぐことに必死になるだろう。いな、剥ぐのではなく、彼らは、もうひとつの仮面をかぶせようと躍起になるのだ。わかりやすくいえば、“人種”という《悪い意味での仮面》を作り出すのは、彼らなのだ。だが、ぼくは、今回のことは心から、すばらしいことだと思う。本当に、まったくのひさしぶりに、世界が進歩していることを感じさせてくれた出来事だった。ぼくは彼が民主党だったことと、アメリカ国民であることとは無関係に、ただただ、彼に感謝したいと思う。</p>
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