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		<title>新しい芸術哲学のために（下）　欲望について</title>
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		<pubDate>Fri, 27 Aug 2010 15:29:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>
		<category><![CDATA[sublime]]></category>

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		<description><![CDATA[対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心をすべて括弧に入れることによってはじめて、美は真の美となる。つまり、美の前でひとは無力であるし、また無力でなければならない。無力ゆえもはや美を感受することさえできず、圧倒的な力や量としてあらわれる自然の前で耐え忍ぶ崇高だけが、ひとの寄る辺である。いまは自然の浸食によって廃墟となった、かつて人が生み出した建築物は、崇高を意味すると同時に「表象不可能性」をも意味している。廃墟とは、表象不可能なもののモニュメントである。ひとはいつも美を掬い損ね瓦礫を掴んでいる。</p>
<p>しかし、「無関心」の態度は、美から人間的なものを取り去り、美を自然のなかに見いだそうとする努力にもみえる。ならばはじめから、美はわれわれの感性にではなく、自然の側にある、と仮定してみよう。というより、自然との「関わり」のなかでしか美は見出されない、と考えてみよう。「関心」は、そこでは、意味を変える。主観と対象のあいだで弁証法的な作用を繰り返すのではなく、ただ「関心」だけが残る。</p>
<p>ニーチェは美は「関心」のなかでしか見いだされないと言った。ハイデガーは、カントの「無関心」を非難したニーチェの「誤解」を指摘したが、「誤解」もまた誤解である。ニーチェの言葉も正解である。やや難解ではあっても、じつはずっと自然な別種の哲学である（たとえば小林秀雄の「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」（「当麻」）という主張は、美を花から抽象するカントの哲学ではなく、美を花という具象の側に置くニーチェの哲学に属する）。</p>
<p>純粋な顔――それは見る者が彼女への関心を括弧に入れなければ現れない。目というカテゴリー、肌というカテゴリー、唇というカテゴリー、その他さまざまなカテゴリーがあって、これが彼女の純粋な顔をみることを妨げている。こうしたものをすべて括弧に入れたときに、はじめて彼女の顔が、すなわち美があらわれる、と『判断力批判』のカントは考えた。だが、ニーチェは別な風に考えたのだ。彼女は私にむかって生き生きとほほ笑んでいる。だからこそ彼女は美しい……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>言葉を、しっかりと自然のなかに参与させよう。「美」が自然のなかに存在していることが事実なら、「崇高」もまた、自然のなかに存在しているはずである。美がもたらす精神の《振動》が自然の事実なら、崇高がもたらす精神の《動揺》もまた自然の事実である。そのことはどれくらい確証があるだろうか。にわかには読者には信じがたいかもしれないが、こういうことが考えられる。</p>
<p>崇高を、自然の圧倒的な力や物量による美の浸食や崩壊と捉える場合がある。そこで、人間が作り出した当初の原型をとどめていないパルテノン神殿やミロのヴィーナスについて考えてみよう。思うに、芸術は、原型の崩壊によって揺らぐことはない。むしろそれらの破壊は芸術のうちに含み込まれるのであって、もとの形態の破壊がかえって芸術を彩りさえすることがある。室生寺の修復は、やむをえないとはいえ、それによって神さびた芸術性が失われた部分があることに同意するひとは多いだろう。インドや東南アジアの現用の寺院にも同じことがいえる。きらびやかなそれらよりも、もはや風や草木の浸食を受け入れた崩壊のさなかにある古いアユタヤ王朝などの寺院のほうが、芸術性が高いことは、あきらかなのだ。これらのことは、芸術が、人間のみの概念ではないことを意味している。人間は、もはやその起源のはっきりしないあやふやなきっかけを与えるにすぎない。人間がつくった当時の原型にこだわることは、芸術においては積極的な価値を認めるのがむずかしい。自然において芸術はたえず浸食を受け、原型を保つことは不可能であるにもかかわらず、そのことが芸術の価値を奪うとは決まっていないからである。美や崇高などの芸術の概念は、たんに人間の手によるものではなく、もともと自然のものであると考えたほうが、パルテノン神殿やミロのヴィーナスの芸術性を合理的に説明できる。美の形成からその崩壊にいたる崇高、自然のなかでたえず演じられるそのドラマ全体が美であり芸術であると考えたほうが、ずっと説得的なのだ。</p>
<p>また、かつて崇高は、その名が示すとおり、とりわけ「高さ」の観念と結びついていた。それは、われわれの低さでもある。自然における美は、おそらく対称性を意味する。同様に自然における崇高は、非対称性を意味している。実際、自然界にはきわめて高い水準で対称性が備わっている。物理学者が反物質の世界を想定するのは、彼らが、自然が対称性をもつことを確信しているからである。この対称性を道しるべに、彼らは自然界の理を探っている。荘子の「源天地美而達万物之理」（天地の美に原（もと）づきて万物の理に達す）という言葉はそのことの表現である。</p>
<p>むろん、対称性は破れもする。崇高の意味は、ここでは、美＝対称性が崩壊した状況を指す。しかし、われわれは、美を欲望の観点から考えたい。すなわち、対称性と非対称性のあいだの形成と崩壊の運動として、つまり振動や動揺として、美を捉えたい。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ゲーテの色彩論を敷衍して言えば、光と闇の対称性が保たれているかぎり、色彩は生まれない。逆にいうと、色彩は対称性が崩壊するときに生まれる。真空とは完全な対称性を実現している世界である。それが崩れるときに色が生まれる。すなわち、空から色が生まれる。</p>
<p>したがって、画家がなんらかの色彩を生み出すとき、かならず、彼のなかで対称性の崩壊が起こっていると考えられる。ところで、精神は、なんと肉体と似通っていることか。精神と肉体の均衡が徐々に破れ始めると、画家は、ある欲望を抱く。すなわち、色彩が生まれる。</p>
<p>色彩をカンヴァスに定着させたとき、この画家はようやく精神と肉体の均衡を取り戻す。つまり、彼の精神のなかの色彩と、カンヴァスの色彩が、対称性を描く。美は、対称性が破れ、またそれが均衡を回復する、その短い間に明滅している（この対称性が破れているとき、彼は精神をもっていない――つまり行為している）。対称性をもつ女性の対称性を破ること、そこに男は美を見いだす。</p>
<p>こう考えると、カントが先に思い描いていた美学を捨て崇高へと突き進んだときに、はじめて、画家が到達していた実践的な美の世界に踏み入れたことになる。自然に対する圧倒的非対称に耐え抜く崇高こそ、美の大前提である。美と崇高は、どちらも芸術家の主要な、しかも〈たったひとつの〉テーマなのだ。ともあれ、画家は、精神のなかにある種の不均衡を抱えていた。彼は、カンヴァスに色彩を描かぬかぎり、均衡を取り戻せなかった。対称性があるということ、たとえば右手と左手を区別できるということ、こうした世界は、均衡が保たれていて、それゆえ美的ではあるが、実際には、そこで画家は色彩を思い描くことができない。画家はむしろ、美しい女性のなかのわずかな均衡の破れを、いかにして描くかに、神経を集中させる。対称性は、つねに破られる手前にあって、むしろ破られることを願っている。自然は真空を嫌う、とはそのことの謂いである。芸術家が主に描いているのは、対称が非対称となりまた対称を獲得する、そのプロセス全体であるように思われる。このプロセスは、欲望とよく似ている（そこには、《彼岸の快感原則》がある）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>美に対する批判哲学、という意味では、美学（形式）を否定する崇高に至ったカントやデリダ、リオタールやジャン＝リュック・ナンシーらの議論は極北に位置する。たしかに、くだらぬ美学的なディシプリンは、脱構築すべきものではある。しかし、芸術家の実践はこの問題構成を共有しない。形式を前提にするコンセプチュアル・アートを除けば、もともとアートは形式に従って創作していないからである。形式に従っているようにみえたとしても、彼らに素材やきっかけを提供したに過ぎない。結果的に形式を越えられなかったとしたら、そもそも芸術を生み出したことにならない。</p>
<p>一般に、カントのいうような美と崇高は、芸術作品のなかで混淆している。美だけが存在していることは少ない。むしろ芸術家を駆り立てているのは、美（対称性）と崇高（非対称性）の反復である。たとえばブルーノートやシンコペーション、不協和音のような違和とその解決が、音楽を駆動させていることは周知であろう。自然が生み出した富士山にティピカルな芸術性を認めるとしたら、ある種の鏡面対称性（あるいは回転対称性）を備えると同時に、人間に対する圧倒的量感という非対称性を備えている点であろう。</p>
<p>また、ふつうの鑑賞者にとって、対称性が保たれているだけで美を感じるのは困難である。エジプトの古美術がもっている極端に均整のとれた造形物は、あまりに美的であるがゆえに芸術性を感じない。ギリシアの造形物のほうがずっと芸術的にみえるのは、均整のとれた顔、肉体、衣服が崩壊する瞬間を彫琢しているからである。つまり、不快な非対称性を取り込むことを厭わなかった。ギリシア彫刻がオリエントに伝播する過程で失われていくのが、この非対称性であることに、多くの読者は同意してくれるはずである。衣服のひだ、風を含んだ髪、微笑の口の端に、余計な対称性を付け加える。おそらく、そちらのほうが、より美的になると思ってのことだ。</p>
<p>われわれは、ひとつ作品のなかで、対称性がどのように崩壊し、またどのように対称性を取り戻すのかをみている。視線は、非対称的な姿形のなかに対称性を求め、また均整のとれた肢体のなかの非対称性に単純な快を越えた悦びを見いだす。要するに、われわれは「顔」ではなく、遷り行く「表情」をみている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は、心ひかれる女性を笑わせたいと願う。それは、それまで保たれていた対称性が崩れる瞬間でもあるし、また、醜い（非対称の）男にとっては、それによって、対称性が回復される瞬間もである。いずれにせよ男は、顔だけでなく、そのプロセス全体を所有したいと願う。</p>
<p>肖像画の女性の姿、そこに描かれているのは女の顔なのか、表情なのか。それは判断がつかない。顔であるとしたら、それは鑑賞者が関心を括弧に入れていることになる。彼女が微笑みかけていると思ったなら、それは彼が己の関心にしたがってみたことになる。</p>
<p>これらはそれぞれ別の哲学を形成する。一方の考えが他方の考えを一方的に批難できるようなものではない。われわれがみているものが、顔なのか、表情なのかは、みている人間の関心のありかた次第だからである。</p>
<p>しかし、不思議なことに、無関心によって見出された顔、すなわち美の純粋性は、崇高によって打ち破られる。つまり、顔は、次の瞬間に崩壊する、と、崇高の哲学者たち自身が言っていた。それは何を意味しているか。結局、ニーチェに回帰しているのではないのか。</p>
<p>いや――もちろん、これらは別の哲学である。美の崩壊に崇高を覚えるひとたちが、ときにカンヴァスを切り刻み、金閣寺に火を放つとすれば、ニーチェは不思議そうに答えるだろう、彼女は微笑んでいるし、金閣寺はつねにすでに朽ちていたではないか、と。美から崇高へ至る道は、極端なもの、けれん味たっぷりの大げさな身振りを必要としない。もっと微妙な、さりげないもので十分だった。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>写真が美でありうるとしたら、そのフレームに写真家の「関心」が現れている場合だけである。こうした写真は、被写体の「表情」を撮（つか）むことができるだろう。したがって、「顔」を写す機械の証明写真には、美はほとんど存在しない。もし「無関心」が美をもたらすのであれば、証明写真にこそ美がなければならないはずなのに、そうなっていない。なんの関心も示さずレンズに微笑みかけてくれるような被写体は存在しない。それは、ひとが恐怖を感じる場所で撮影した写真に霊やお化けが写ることと同じである。恐怖を感じないのであれば、お化けは写ってくれない。</p>
<p>ゴダールはとにかく女性を美しく映す。アンナたちに向けられたレンズの前で、彼が「関心」を括弧に入れていたはずはないと感じる。レンズを挟んで交錯する恋人たちの視線が、彼の作品の生産性に少なからず寄与していると感じる。彼の特権は、カメラの手前にある欲望を否定しなかったことである（彼はとりわけポルノ映画と勝負している）。彼の映画は、つねに、撮影する者とされる者のあいだで起こる事件であり、かつそのドキュメントである。</p>
<p>モナリザは微笑んでいる。素顔と、そして風景があるのではなくて、レオナルドに向かって、あのような表情を作った。逆にいえば、レオナルドは、彼女からあのような表情を引き出すことに成功した。レオナルドが彼女に無関心だったはずもないし、彼女が彼に無関心だったはずもない。</p>
<p>それは、ゴダールの映画同様、描き、そして描かれることのドキュメントであって、それが彼女の表情に凝縮している。そして、わたしは、そのことが美であると感じる。この絵画を鑑賞するのに、「無関心」のような高尚な態度は必要ない。欲望に忠実であればよい。女からあのような表情を引き出したレオナルドに、男として感心する。そのことが、そのままこの絵画の偉大さである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>欲望や関心と、美が関係しない、ということは不自然である（もちろん、あとで崇高を持ち出して純粋な美を否定するわけだが）。むしろ、もっとも古いソクラテスともっとも新しいニーチェが考えていたように、美しいものは、ひとを自然に引き寄せる性質をもっている、という定義から出発すれば十分ではないのか。</p>
<p>この定義の延長線上に、折口信夫の次の言葉は位置している。「人生に最も重大なる欲望は、自己保存に関する食欲、ならびに性欲である。この二つは、厳乎として生の根本に、大問題を横たえているのだ。…ただ大なる芸術品であるためには、この生の大問題におのずから触れていて、この欲望を暗示的に表現するところがなくてはならぬ。囚えられたる欲望が、自由に超経験的に活動をはじめたのは、この時からである」（「零時日記」）。</p>
<p>崇高の哲学者たちは、プラトン以来の西欧哲学の欺瞞を批難することに躍起である。だがそもそも、イデア哲学と批判哲学は美に対する理論的根底がまったく異なる。プラトンは批判哲学の問題構成を共有しないし、自分を西欧の哲学者と規定もしないだろう。「判断力」は、もともと批判哲学の構造が呼び寄せたものである。理性と感性のあいだに悟性を立てる、というこの哲学によって、逆説的に過剰に照射されてしまった。あるものを美しいと判断するか否か、という問いを批判哲学者は立てた。しかし、ソクラテスたちによれば、美しいものに、ひとは自然に引き寄せられてしまう。――つまり、彼は思わず「美しい」と呟いてしまう。判断力という問いは立たない。ひとは、美の前で、判断力（われ）を失う。</p>
<p>主観的な趣味判断がいかに普遍妥当性を得るか、という問いに答えるのは容易ならざることである。この不可能な問いは、答えるよりも先に問いを破壊する。つまり、ここで召喚された美は崇高によって打倒される運命にある。美の崩壊は、それを構成したカント哲学自身の崩壊にもみえる。つまり、彼が打ち立てた超越論的主観は、美の前で自壊する。ところで、ソクラテスはすでにこう考えていた、ひとは、美の前では「われ」を失う、と。そしてニーチェは言っていた、（「同情」とは区別される）われを失わせる「陶酔」は人間の最高の能力である、と。</p>
<p>美のもたらす統整的な作用は、ひとにかえって崇高を与えるものだった。美は捉えられる手前で足踏みするか先へと行き過ぎてしまう。しかし、別種の哲学において、美はもともと形成と崩壊の運動だった。つまりもともと消え行くものだったのであり、したがって、消え行くということにおいて、ひとはつねにすでに美を手にしている。ひとは、たえず美の恩寵に与っている。</p>
<p>美は、真理とは異なるやりかたで客観性を獲得する。すなわち、《われを失う》、判断を他に委ねるという形で客観性を実現する。よくいえば自意識を捨て去ることだが、悪くすれば自己を見失う。したがって、美の前でいかに自己を保つか、という問いが、ソクラテスとニーチェによって開かれる。</p>
<p>しかし同時に、自己を保つ、とは、美が消え行くものであることを認めることにある。というのも、欲望が成就する手前でとどまることが、美をもっとも長く享受するための、最高最善のやりかただからだ。したがって、ソクラテスとニーチェにおいて、自己を保つことと、欲望の追求は、齟齬しない。この哲学は、他者ではなく、自己を相手にする。</p>
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		<title>新しい芸術哲学のために（上）　崇高について</title>
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		<pubDate>Wed, 25 Aug 2010 08:37:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Kant]]></category>
		<category><![CDATA[sublime]]></category>

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		<description><![CDATA[自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。
自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。</p>
<p>自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き、林檎が重力の法則にしたがって落下することでさえ、固定観念である。この束が強力に維持されているからこそ、われわれはそれを「法」として抽象化することができた。人間を含まない場合には「法則」と呼び、含まれれば「法律」や「習慣」と呼ぶ。ポアンカレがいうように、すでに科学の法則は絶対的客観的なるものを失っている。日差しと夏とを同一視する固定観念を抜け出した蝉は、夜啼くことを覚える。すべての物体が、重力に従うのでもないように。法が相対的なものにすぎないのであれば、むしろ「固定観念」の語でひとくくりにもできる。ひとがあらゆる判断の根拠としている「法」は、化学反応や末梢神経の反射とそう変わらない。そもそもひとは、連綿と続く生命の歩みの末梢神経のごときものにすぎない。</p>
<p>わたしは、こうした場所から思考したい。この場所でしか思考できない。つまり言葉を、しっかりと自然に参与させてはじめて、思考が可能になる。たとえば「法」は人間の所有物ではないが、「固定観念」でさえ、人間の独占物ではなかった。しかし、そうした反射と「法」とを、とくに後者を人間にまつわるものとして区別したがるひともいる（そうすることで、彼は無意識にすでにカントの側にいる）。そういう議論につけるには、《崇高》は苦く、そしてよい薬である。《崇高》とは、人間的な意味での法の破壊だからである。《崇高》は、ひとに沈黙を強いるものだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>批判哲学の基本は、分割することである。もともと、クリティークの語源となったギリシア語は、「分ける」という語から派生している。理性と感性の混同に端を発するアンチノミーの解決を目指すカントは、理性と感性を厳密に分割する悟性の能力を人間に付与し（悟性を演繹し）、さらに感性を悟性に従属させた（コペルニクス的転回）。</p>
<p>しかし、この哲学にまったく従わなかったひとつの能力があった。それが「判断力」である。人間の行為には、つねになんらかの判断力が働いていると考えられる。なぜなら彼は、あらゆる可能性のなかから、ただひとつの行為を選んでいるように見えるからである。しかし、この判断力は、なにしろ悟性に従っているとは思われない。というのも、どれほど悟性に過去の記憶を蓄えたひとであっても、また物事に対する明晰なカテゴリーをもっているひとであっても、さらにまた血のにじむ勉学を己に課してきたひとであっても、実践においてはいともあっけなく誤ってしまうことが多々あるからである。それは、知的エリートばかりのはずの日本の支配層がなぜここまで愚かな判断を繰り返すのか、ということと似ている。むしろ判断力は、経験が彼に蓄積させた諸々の記憶、そしてそれをもとに対象を同定する認識能力とは無関係であると考えざるを得ない。</p>
<p>もちろん、多くの場合、先述した「法」に従って、ひとは判断している。これを規定的判断という。だが、これはたんに判断を他に委ねているだけ（あるいは、悟性に従っているだけ）であって、実際には、彼は判断していない。むしろ本当に判断力が試されるのは、そうした規定が存在しない場合である。この場合は自己自身が判断を与えなければならない。これを反省的判断という。カントが注目するのはこの反省的判断である。</p>
<p>これがもっとも試されるのが、美（趣味判断）である。というのも、美的判断は、本性上、主観的でなければならないからである。たとえば、親に決められた結婚相手を、親に決められたという理由で美しいと感じるひとはいない。美的判断は、もっぱら主観に存する。したがって、客観的な合理性はその与件から排除すべきだろう。たとえば、この女性と街を歩けば鼻が高い、というような要素は美的判断とは関係がない。結局、厳密には、あらゆる「関心」は括弧に入れなければならない――すなわちカントのいう「裁判官を演じる」ような《無関心》が、美を鑑賞するためのもっとも適切なあり方となる。徹底して主観にこだわること、それによってのみ、この判断は普遍妥当性にたどりつく、という不思議な構想をカントは描いている。</p>
<p>こうした関心の排除、いわゆる現象学的判断中止は、よくよくみると、美を人間の側の判断力ではなく自然の側に認めるための努力である。つまり、美から人間的なものをはぎ取っていくことである。関心を排除し、より純粋な主観を抽出することと、普遍妥当性を得ることは矛盾しない。かくして、美的判断のために必要なことは、判断中止である、というアポリアにたどりつく。それは、美的判断の権利を自然に委ねることであり、したがって美を人間じみた手のなかから失わせることである。圧倒的な自然を前にした人間の判断能力の欠如と（かつては人間の判断力のものであったはずの）美の喪失、ここで出会うのが、《崇高》であるという。《崇高》の前で、彼は裁判官の職を失う。《崇高》は「無形式」であり「不快」であり、彼の「構想力」を絶してしまう（リオタールは「限界への侵犯」という）。《崇高》は、彼のそれまでの批判哲学を裏切って、本来の批判哲学が想定すべき超越論的な判断力の不在に直面させる。そればかりか、理性と悟性とを結合してしまう。</p>
<p>カントの三批判を総合的に評価すべきなのか、それとも第一批判、第二批判と順を追ってみていくのかによって意見は分かれるだろうが、すくなくとも『判断力批判』は、評価に値するものである。この哲学は、ここにきてはじめて実践的な境位を得たようにみえる。――しかし結局、この哲学が美にたどりつくことはなかったようにもみえる。美学をつくり、そして破壊し、その結果あらわれたのは美そのものではなく崇高であった。ここでは、美は一種の統整的理念に似た役割は果たしている。美を追い求めた結果、そこにたどりつく寸前で、それは自身の無能力とそれを圧倒する自然がもたらす崇高にとって代わるからである。この哲学は、自身の超越論的主観を破壊する瓦礫に出会う。ジンメルが言うような廃墟／崇高である。崇高は、ひとに沈黙を強いる。この哲学が教えるのは、言葉の無力である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、この議論は、表象不可能性というゼロ地点にむかって収束する。言葉はついには無力であり、あらゆる多様性をこのゼロが飲み込んでしまう。ここでは、芸術、すなわち多様なものの開花は期待できそうもない。われわれの世代は、もっと別種の哲学を必要としている。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>反脱構築――新しい芸術哲学のための前哨戦</title>
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		<pubDate>Fri, 06 Aug 2010 14:09:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Beethoven]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
		<category><![CDATA[différance]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Sakae Osugi]]></category>

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		<description><![CDATA[ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。２０世紀後半から今日に至るまで、これらの概念（デリダは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。２０世紀後半から今日に至るまで、これらの<del>概念</del>（デリダは、この「概念」という言葉に抹消線を付す）のアカデミズムの領域での世界的流布は、目を見張るものがある。わたしがこの概念に懐疑的なことは、多くの読者がご存知だろう。だが、かつてはわたしもこの概念に刺激を受けた人間のひとりだった。この概念ならざる概念について、ここでわたしなりに決着をつけておくことにする。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>音声を通じたコミュニケーションは自己同一的で直接的かつ純粋なものである、という音声中心主義を、デリダが批判したことはよく知られている。「自分が話すのを聞く」という円環は、きわめて自己同一的にみえるが、実際には、「話す自分」と「聞く自分」とのずれが生じている。これを、彼は差延と呼ぶ。</p>
<p>話す自分と聞く自分がつくる円環は、一種の自己相互作用である。音声は、周囲の空間を巻き込みながら、自分に帰ってくる。音声は周囲の空間を同一化しながら再帰する、といってもいい。発された声と自身が受け取った声とのあいだには相互作用、すなわち差延が生じている。周囲の空間を通過する過程で、音声は変化を被らざるをえない。にもかかわらず、この差延をひとは黙殺し、忘却する。黙殺し忘却することで、閉じた共同体が形成され、この暗黙の同意のもとで「概念」が成立する。つまり強引に各々の自己同一性が成立しているとみなす。近代がひとに要請する自己同一性とは、こうした差延を黙殺せよという命令にほかならない。</p>
<p>差延を自覚するのは容易ではない。だが、意識のなかにわずかにあるにちがいない記憶痕跡は、かつて話し、そして聞いたということを教えてくれるはずである。痕跡――つまりエクリチュールに、彼は可能性を見いだす。</p>
<p>そこでデリダの戦略は、次のようなものになる。あえて空間（テクストといってもいい）の内部に切り込み、いたるところに痕跡を見出し、エクリチュールをまき散らし（散種）、話す主体とそれが所属する空間のあいだに相互作用を起こさせ、差延を押し広げる。このようにして、脱構築は遂行される。</p>
<p>このデリダの戦略が、善良な意図で貫かれているのはあきらかである。しかしおそらく、この戦略を本気で実践しようとしたひとは、この世に存在しない。実践できないからである。その理由を以下に述べる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>差延になんらかの積極的な可能性を認めてみよう。そうすると、この概念は、とにかく自己および周囲の空間になんらかの現実的な作用を及ぼすのでなければならない。したがって、その力を認めなければならない。しかし、この相互作用の力を認めると、逆説的にこの概念は破綻する。厳密に考えると、この力は瞬間的に無限大に達するからである。自分の声が周囲の空間を変化させるとしよう。その変化を受けた声が自身に作用することで、自分もまた変化する。その変化はさらに声に影響し、その変化を受けた声がさらに周囲の空間を変化させる。その変化がさらに自分に再帰し……。</p>
<p>「自分が話すのを聞く」という円環を、社会に拡大してみよう。当然、ここでも差延は無限大になる。ある個人が社会に参入することで、自分は変化するが、社会も変化する。その社会の変化をさらに自分が被り、その自分の変化をさらに社会も被る。こうして差延の力は一瞬にして無限大に達し、バーストする。デリダが発見した自己再帰的な概念である差延は、原理的にいって、どう考えても無限大に達する。いくらわずかな差異とはいえ、それは次の瞬間には無限大に陥ってしまうのである。意図的に散種するかどうかとは無関係に、この概念は、発散してしまう。</p>
<p>しかし、そんなことはありえない。〈世界は有限だからである〉。実際、自己や社会がバーストするようなことは起こっていない以上、この差延の力は黙殺されるか忘却されているのだが、どのみち黙殺／忘却せざるをえないのである。わたしからすれば、この無限大を黙殺しているのは、ほかならぬデリダ自身である。彼は適当なところで差延を飼いならしている。</p>
<p>社会が個人を参入させても、その結果得られるはずの差延による変化は、生じた瞬間にどこかにアブソーブされている。自覚するか、しないかとは別に、日々、厖大な量の差延が発生しているにもかかわらず、なにも起こっていない。起こる気配もない。おそらく、どこかで、差延の無限大を吸収する装置が働いている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>「自分が話すのを聞く」という円環は一度しか発生しないのではない。文章、語、音節にいたるまで、すべてを自分の耳が聴き続ける。そしてそのつど、この相互作用は蓄積されてますます巨大なものになっていく（実際、マジックメモよろしく、デリダは痕跡は消えないと言っていた）。ここで発生する差延を物理的に吸収しているのは、有限の身体、すなわち耳である。無限を有限が吸収できるわけがない。にもかかわらず、身体がバーストするようなことがないとすると、この思考法自体のどこかに誤りがある。</p>
<p>差延それ自体を全否定すべきだろうか？　おそらくそうすべきでないだろう。差延が発生しているのは確実である。「自分が話すのを聞く」ということは、どう考えても起こっている。ということは、ここで発生してしまうはずの無限大の力を、有限の社会や耳が吸収している、ということなのだろうか。有限は無限を吸収できると考えるべきなのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、もう一度もとに戻って考えてみよう。差延がもたらす無限にひとはどうやって対処しているのか。それは「黙殺」あるいは「忘却」することによってである。この黙殺や忘却に積極的な意味を認めてみよう。つまり実践としての黙殺や忘却がある、と考えてみよう。ところで、無限を吸収するためには、やはり無限の器が必要である。したがって、有限の器（耳）が吸収する、ということはありえない。もっとも合理的なのは、無限の力を生み出した力自身に無限を吸収させることである。</p>
<p>どこに無限があるか。それは精神、自意識である。ひとは、自意識（主体／実体substance）と空間（場所／形式form）とのあいだで発生している無限の差延を、自意識に再吸収させることで、キャンセル（ゼロに）している、と考えられる。これを、実践的な言い方で、「黙殺」する、あるいは「忘却」する、という。差延の運動とは、もともと自意識内部の葛藤にすぎない。したがって、差延は「黙殺」するか「忘却」するのが正しい。実践的にはそれしかできない。デリダが望むような脱構築は、原理的に発生しない。</p>
<p>ひとは、この無限の差延を、意識に捨てているのである。話すことによって生じるのが意識だとすれば、おそらく、自分の話を聞く際に生じているのが無意識であろう。デリダが推奨するように、本当に意識の差延を自覚しようとするひとがいるとしたら（つまり、無意識に捨てた差延を再び拾いなおすようなことをしたら）、ただちに差延は無限の弧を描いて彼を分裂病に至らしめるだろう。つまり、バーストしてしまう。この無限の力を侮ってはならない。それはおそらく死に至る病である。</p>
<p>顎と耳との距離が、「自分が話すのを聞く」というデリダの概念の有限な前提である。有限の身体によって、この差延は保証されている。しかし、デリダのいう<del>概念</del>としての差延はそういうものではない。顎で発生し、耳から抜けていく有限の差延は、テクストや共同体とはなんの関係もない。その一方で、無限の差延は、無限の自意識が再吸収して、本来はゼロになっている。</p>
<p>有限の声には有限の耳が対応し、無限の自意識は無限の自意識（のなかの無意識に相当する部分）が再吸収する。したがって有限の差延以外は発生していない。デリダの誤りは、有限の差延を無限の自意識と関係づけてしまったことである。この非対称を彼は可能性だと思ってしまった。また有限の差延を、無限の自意識が不当に黙殺していると勘違いしてしまった。しかし、無限を維持したまま有限の世界を往還することはできない。無限は、有限の世界では自動的にキャンセルされる。結局のところ、差延は、自覚しようがしまいが、自意識内部の葛藤以上のものではない。</p>
<p>付け加えておけば、おそらく主体とは、厳密には、差延の発生装置にして吸収装置である。というか、差延がはたらいているあいだ、ひとは自らを主体であると感じている。しかし、実践の段階では、主体もろとも、差延は消滅する。救いを求める声のなかに、差延は存在しない。</p>
<p>デリダの望むのとは逆に、差延の運動とは、《実践》とは真逆の、内面化のそれである。この運動の脅威は、個人であろうと社会であろうと、「主体」を形成し、かつ内面化し、そして縮小し崩壊する、そういう過程に自らを導くことである。いわば社会的分裂病の症候を示す。われわれは、差延の運動の外に出なければならない。</p>
<p>たとえば中上健次の文学の中心に位置すると考えられてきた「路地」は、デリダの脱構築にきわめて似通っている。しかし、この概念は、外部なき若者の奇怪な葛藤にすぎない。この路地（＝無限の世界）を捨て岬（＝有限の世界）に出ることによって、彼の小説は純文学の領域に到達する、とわたしは考える。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さらに抽象的な話になるが、ここで問題になるのは、「場」あるいは「空間」とはなにか、ということである（上記の問題はミンコフスキーがいうような空間把握Raumerfassen／空間体験Raumerlebnisの問題につながっている）。形式といってもいいし、形態といってもいい。ともかくその「場」を占める実体（実質／主体）とのあいだの相互作用を考慮に入れようとすると、どうしても無限が発生（発散）してしまう。実体は、ここでは「点」だからである。</p>
<p>点である以上、その場における位置を正確に測ろうとしても、その正確さを競えば競うほど、点は無限に遠ざかってしまう。その場を占める点は、場から無限に遠ざかっている、というおかしなことになってしまう。場あるいは形が有限な――すなわち具体的な「もの」であるのに対して、点は抽象的だからである。</p>
<p>場（形）は具体的なものである。したがってこれはひとまず取り除けない。そこで「点」という思考法を回避することが求められる。「点」をいかに具体的なものとして思考するか。さらにいえば、場とその場を埋める主体、という思考法そのものをいかに回避するか。</p>
<p>場は、社会に置き換えることができる。当然、社会を取り除くことはできない。したがって、社会を占めるアトムとしての個人、という概念を取り除かねばならない。そして結局、社会と個人、という思考法そのものが、問題ということになる。この一対には、合理的な解が存在しない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ヘーゲルが取り組んだのは、ある意味ではこの問題の解決である。ひとはいかにして社会のなかで個人となるか。彼はこれを弁証法という概念でごまかした――要するに、差延とその吸収という自意識内部のはたらきそれ自体を、現実の歴史とみなす精神主義的解決に逃げ込んでしまった（彼は一度外へ出ているのにまた内側に戻ってしまっている）。とはいえ、デリダと好一対をなすのはジョージ・ハーバート・ミードのような社会心理学であろう。自我と他我のあいだの自己相互作用のはてに自己同一性を獲得するという、やや楽観主義的な議論は、自己相互作用が同一性を破綻させるというデリダの議論のちょうど逆になっているが、やはり、自己相互作用の力を甘く見積もりすぎている。現実的には、ミードの想定するような自己同一化のプロセスは発生しない。場（社会）を前提とする個人は「点」だが、現実には、点は場と接点をもたないからである。</p>
<p>カントは、場（形態／時空間）を重視し、時空間をアプリオリとしてもつ有限の感性に依拠する科学の可能性を認めたひとである。だがその一方に無限を事とする理性を保存したため、無限と有限を区別する悟性の責任が極端に重くなった。彼は、いわば「点」を超越論的理念として受け入れようとしたが、点は場と究極的に接点をもたないし、結果としてその乖離を埋めるために、「考えることだけができる」物自体を設定せざるを得なくなる。いうなれば、神を殺しておきながら、その骸が揮発する寸前で宙づりにしてしまったのである。だが、原理的にいって、悟性に頼らずとも、無限を維持したまま有限の世界に渡ることはできない。したがって、必要なのは、本来、もっと別の問題構成だったはずである。すなわち、ひとの精神はいかにして、自身が生み出す無限を振り切りつつ、有限の実践世界を旅するのか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、芸術家は、徹底して、自己を表現しようとするひとである。この単純な思考法が、なにゆえラディカルでありうるのか。たとえば同世代のナポレオンとヘーゲルとベートーヴェンがいる。なにゆえ、この音楽家は彼らのうちでもっともラディカルに見えるのか。</p>
<p>芸術家は、社会（現代的な言い方をすると大衆）との相互作用という考え方を遠ざける。そしてむしろ社会を突きぬけて自然を見ようとする。ニュートンと戦ったゲーテや耳の聞こえないベートーヴェンは、それをもっともわかりやすく表現していたひとたちである。</p>
<p>ベートーヴェンは、デリダの言う「自分が話すのを聞く」ことができなかった。つまり、自分の声が周囲の空間を巻き込みながら耳に帰ってくる、という考えをもたなかった。徹底して、顎の振動としての自分の声を聞いていた。</p>
<p>なにゆえ、自己を表現する、というこの単純な思考法が、これほど困難であり、またなおかつラディカルなのか。それは、結局、無限を回避すること、自意識の葛藤を振り切ること、万人がうちに飼っている“デリダ”を捨て去ることを教えるからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<blockquote><p>
われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。このゼロに達した時に、そしてそこから更に新しく出発した時に、はじめてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げて行く。
</p>
</blockquote>
<p>大正期のアナーキスト、大杉栄の言葉である。大杉のこの言葉は、自意識内部の意識と無意識とのぶつかりあいの結果、自意識そのものがキャンセルされることを教える。つまり、行為のための真空、ゼロこそ、精神の理想的な在り方であることを教える。</p>
<p>ニーチェの「噛み切れ！」もまた、ここで響いている。デリダの円環を断ち切ること。そうしてはじめて、ひとは、いかに表現するか、という唯一の問題を手にするのである。</p>
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		<title>言葉の肉体についての序論</title>
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		<pubDate>Sat, 31 Jul 2010 14:08:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[fragment]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>

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		<description><![CDATA[おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ！》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ！》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の死があるなら、言葉の生もあろう。そこにわれわれの生もあるにちがいない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ニーチェの講義ノートをみて感銘を受けたことがある。他人の非難ばかりしているようにみえるあの攻撃的なニーチェが、ギリシアの古い歴史を教えるに際して、なにも否定していない。彼の哲学からすれば批判に値するかもしれないような宗教的問題についても、淡々と、肯定的に講義していた。</p>
<p>運命という観点からみるなら、歴史を「否定」するのは愚かである。だがそればかりでなく、彼の哲学的な「敵」でさえ、否定していなかった。それは謎だった。だが、第二次世界大戦について論じたとき、わたしもなぜか同じ意見になった。いわゆる右翼ではないにもかかわらず、あの戦争を「肯定しよう」という気になっていた。</p>
<p>自分は間違っているかもしれないが、歴史は肯定せねばならないと思った。凄惨極まるあの戦争でさえも、である。そこからすれば、カントやヘーゲル、フロイトやデリダなど、肯定するのは容易い。彼らは、歴史的にいって、必ず肯定されねばならない。ニーチェにならい、講義では、彼らを一切批判していない。彼らの言葉がもっとも輝くであろう配置を考えながら話をすることは、骨が折れるが、あまり味わえない楽しさもある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さらに間違っているかもしれないが、戦中の労働者たちの言葉に触れていると、それが戦争協力であろうと、どこかしら美しい響きがあるのを感じないわけにはいかない。それを主導した知識人の言葉でさえも、やはり美しい響きがある。なぜなら、彼らは、子供のように言葉を信用しているからだ。言葉を信用するということ、それは未来の子供たちの耳を信用するということでもある。声は届いたよと、そう言ってあげたくなった。だが、われわれの声が過去に届くことはない。それが悲劇ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>その観点でいくと、「否定する人たち」の言葉が、やや空しく響くようになった。この手の言語使用は、もとをただせば言葉の不信から来ている。しかし、死んだ人間にとっての肉体とは、言葉である。死んで肉体まで朽ちてしまった人間は、消え去るための物質を失う。消え去るという要素をかろうじてつなぐのは、言葉だけである。われわれが触れることのできる唯一の肉体が、言葉である。彼らがいかに言葉を否定しても、歴史は消え去るものとしての言葉を残す。</p>
<p>言語を内在的に使用しようとする誤った問題を立てると、かならず言語は否定によって埋め尽くされる。肯定的命題は不可能になる。「内在的使用」は、論理的一貫性の意味、あるいは数学的証明の問題にとどめ置くべきであって、この語を拡張すると、決定不能に陥るのは当然である。だが、歴史は、内在的使用が不可能だった言葉の集合である。また別の見方をすれば、歴史そのものが、潜在的な力の顕在化過程である。この観点からすると、歴史における「否定」的表現とは、否定による宙づりではなく、自らを肯定するための、一種のイロニーであり、迂回であり、屈折である。</p>
<p>ニーチェが否定するとき、彼はそれがイロニーであることを自覚している。したがって、彼は「神はいない」ではなく、「神は死んだ」という言い方をする。彼は神の存在（実在）を肯定しているのである。デカルトやパスカルのようなフランス人に対する彼の賛意は、神の存在を証明したという点にある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>戦後の日本人を覆っていたのは、言語の否定的使用である。すなわち、決定（決断）を回避し、宙づりにしておくために、否定する。この手の用法は、ヘーゲルの否定とは異なるが、スピノザのそれとも異なる。カントであり、じつはもっといえば去勢されたヘーゲルである。言語そのものの否定、すなわち、肯定に至らぬ否定の否定である。これはいまに至るまで一貫している。右も左も、あの戦争を非難するふりをして、なにより言葉を否定している。言葉は信用ならないと言っている。言語論的転回は、デカルト的に理解されるべきだったが、カントに引き寄せられていた。</p>
<p>言語を否定するひとたちを肯定するのは骨が折れる。いったい、彼らは否定したことを肯定してほしいのか。それとも否定してほしいのか。民衆同様、言葉しか持たない、もっとも弱い人間である死者が、どうして自身の最強の武器である言葉を否定してしまうのか。結局、論文などでは、もっと大きな肯定のための下地になってもらうほかなくなってしまう。</p>
<p>ニーチェは、そうした否定するひとたちを否定しようとはしなかった。ただ、幾ばくかの友愛を込めて、「敵」と呼んだ。ヘーゲルによるなら、否定の否定は肯定だが、否定する者たちを否定しても、べつに肯定になりはしない。歴史の上ではなにも起こらない。結局、「敵」と呼ぶのがもっともふさわしい。彼らには、言葉の力を妄信する冒険者の打ち倒す「竜」になってもらうのがよい。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>残念ながら、歴史学者の多くは、言葉を否定的に扱う。つまり、歴史を否定する。わたしもそうだったが、この資料は信用ならない、という観点から研究を開始する。しかし、そういう仕事は空しい。資料の粗を探すやり方は、資料を細らせ、仕舞いには駆逐してしまう。歴史学者の机には、何も残らない。そうならないのは、彼らが半端だからである。どこかで、そういう原理を曖昧にやり過ごしているにすぎない。本当は、つきつめていけば、歴史学者は、無言で頷きあう以外のことができないはずなのだ。</p>
<p>美しいものをみてストレートに、「美しい」という。美しいものをみて、美しいと思いつつ「まあ、いいんじゃない」という。後者が自意識で溢れているのは明らかだろう。自分の好みを知られるのが恥ずかしかったのかもしれない。こういう恥ずかしさは誰にでもあって、前者のような使用は訓練がいる。しかし、じつは、歴史に残っているのは、原則的に前者の使用法だけである。というか、後者の使用法をしても、歴史はそれを前者とみなす。しかし、歴史学者は、後者の使用法から、そのうちに隠された自意識をやたら取り上げたがる性質をもっている。</p>
<p>いずれにしても、否定、すなわち迂回は、その迂回が大きければ大きいほど、より大きな精神を構成する。エスプリには精神と同時に機知の意味があるが、言葉の迂回的な使用法は、実際に、言葉を精神的なものにする。言葉の肉体は失われていく。否定する言葉は、なにより言葉に向けられた刃である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>だが、言葉をもっと信頼していい。そうすると、言葉はもっとシンプルなものになる。シンプルであっても、充分すぎるほどに言葉は複雑である。そしてふと歴史をみて、こう思うだろう――歴史はすばらしい。ひとの知はすばらしい。なにより肯定に値する、と。</p>
<p>システムを非難するのは重要なことである。すばらしさを覆い隠すものがシステムだからである。「ちょっとどいてくれませんか」というわけだ。だが、それと一緒に中身まで一蓮托生させてしまう必要はない。不思議なことだが、ゲーデルに反して、ひとは、肯定することしかできない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ！》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の死があるなら、言葉の生もあろう。そこにわれわれの生もあるにちがいない。</p>
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		<title>二つの時間概念――純粋な現在とはなにか</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 06:24:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[aeon]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Khronos]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Time]]></category>
		<category><![CDATA[écriture]]></category>

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		<description><![CDATA[社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められよ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められようと願う社会の劣悪を認めるなら、それこそ己の試みが無意味なものになるからである。</p>
<p>かくして社会は己の才能が足りないと考えている連中で埋め尽くされてゆく。だが、社会は無謬ではありえない。それは歴史が証明している。悪いのは本当に自分なのか。若者たちよ、こういう古い「社会主義」とはおさらばして、次のように考えてみよう――われわれは社会を認めていない。問題は、われわれが、社会を認めるかどうかだ。社会が己を認めるかどうかという発想は誤りなのだ。いま社会に参画している連中を支え尻拭いさせられるのは将来の若者だということを忘れてはならない。</p>
<p>もちろん、こうした解決法も万全ではない。この選択はひとに狂気の誹りと孤独とに耐えることを強いるからである。社会の外にいる孤独に耐えるのは容易なことではない。また、「社会」を否定しても、社交的な態度までは失ってはいけない。孤独を愛する勇気が、ひととの「社交」を受け容れる勇気を排除するのであってはならない。いずれにしても、社会の側が劣悪だとすればそちらはよくある集団的狂気だが、結局、どちらの狂気を選ぶのかという問いになる。</p>
<p>黄金時代はとうの昔に終わっていた。われわれはずっと残照を黄金と取り違えてきた。だが、いまや多くのひとたちが、それが残照に過ぎなかったことを知りつつある。なのにわれわれときたら、目前に迫る闇を恐れて残照にすがる選択肢以外思い浮かばない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>孤独を恐れてか、それとも社会を「脱構築」しようとしてか、若者たちはいう。わたしにあなた方の尻拭いをさせてください、あなた方が逃げ切るお手伝いをさせてください。大人たちはいう。いやいや、それには及ばない、われわれのやっている失敗に手を貸してくれるだけでかまわない……。かつての「脱構築」のよき意図は、失敗に失敗を重ねる《なし崩し》にとってかわる。とある哲学者――ジャック・デリダは言っていた。過去に汚染されていない純粋な「現在」などない、それは西欧形而上学の悪しき伝統であると。</p>
<p>すでに大人たちによって汚染された現在を若者たちは受け容れねばならない。若者たちは、ほとんど泣き寝入りに近い形で、甘んじてそれを受け容れている。かつて大人たちが、そのまた大人たちの汚染を受け容れたように（しかし本当は、上の上の世代は上の世代にできるかぎりの白紙を残そうとしたのだ――ただ、わたしの願いは戦火なしに第一世代を実現することである）。この哲学はこう言っているかのようだ、西欧形而上学の伝統を破壊するために、この汚染を受け容れてくれ、と。</p>
<p>しかし、ニーチェは言っていた。ひとはみな「第一世代」になるべきだ、と。第一世代とは、振り返ることをやめ、纏わりつく過去を振り払い「現在」を生きるひとたちである。歴史ではなく、汚れなき白紙に地図を書く世代である。ニーチェがそれを言う以上、簡単ではないが、可能である。過去に汚染されていない「現在」は、強い意志があれば、生じうる。かの哲学者は、ニーチェを褒めそやしながら、彼と逆のことを言っている。第一世代など存在しないということが、「起源」であり、「起源」を超える／「起源」なき「起源」だと、そう言っているのだ。いったい、どれだけ失敗を繰り返せば、自分たちこそ第一世代の人間と自覚する若者たちの時代が来るのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>世代について考えることは、時間について考えることである。デリダの哲学はほとんど正しい。「起源」は、多くの場合に虚偽であり権力を可能にする神話である。にもかかわらず、ニーチェのような「第一世代」への意志、要するに起源や根源の自覚が必要な場合がある。</p>
<p>起源を求める欲望が、かえって起源という思考の欺瞞、起源など理念にすぎないという認識をもたらすのはよくある「深い」話である。だが、欲望が認識を突き抜けて、自らを起源とみなす、もっとも「浅い」意志にまで成長することがある。ひとたび認識が意志にまで成長すると、現在が過去に汚染されているという思考法は、現在を生きるわれわれが、過去に責任を押し付ける怠慢にしか見えなくなる。</p>
<p>「理論」の根底が異なる二つの時間概念があるようだ。そしてデリダの哲学は、これら二つの時間概念の「ごちゃ混ぜ」である。実際、管見に触れたかぎり、古今東西、「理論」のタイプは二つしかなかった。声と文字である。理論とは、ロゴス＝言葉である。ひとは現実にこの二つの言葉を駆使して思考しており、これらの技術がもつ欲望にしたがって、思考は無意識のうちに規定されている。両者は、それぞれ異なる形でおたがいを欲望し、必要としている――声は文字のように現在に定着し続けることを欲望し、文字は声のように流れて消える現在（つまり過去）を欲望している。その意志に応じて、二つの時間概念が生じる。</p>
<p>なんらかの媒体に定着することで時間に抵抗し、たえず現在を占め続ける文字は、そのつど過去を隠しながら存在する。文字は過去を露わにしながら隠している。隠しそして露わにする過去と現在の共犯関係は、実際には文字の自作自演である。真の現在は、むしろ文字が取りこぼしたものであり、この取りこぼされたものが、真の過去を形成する。つまり本当に隠ぺいしているのは真の過去だが、文字は、本当はこの消え去る現在としての真の過去を欲望しているのである。この過去を、文字は「取りこぼす」あるいは「隠ぺいする」という形でしか、もっといえば「痕跡」の形でしか表現できない。したがって、文字は、起源に永久にたどりつけないにもかかわらず、起源を追い求めるほかない、そうしたやるせない技術なのである。真の過去にはどのみちたどり着けないのだから、ここでの「知」のあり方は、もっぱら〈黄昏どきの診断〉となる。こうした技術は、理念＝欲望を統整的なものとしてみせるが、統整的理念は、別の言い方で、《歴史》と呼ばれることがある。文字なしに歴史を思考することは困難だが、そもそも歴史的思考法それ自体が、文字に影響されている。文字と歴史は、同時に発生したのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この理論の上では、デリダの議論は正当性をもつ。というより、この理論的根底にもとづくなら、デリダ以上の解は存在しない。文字こそが歴史の起源なのであり、突き詰めて言えば、文字痕跡より先に歴史的起源は存在しないのである。ただし、そこから先の深度に差はあれ、この地点に到達しているとみなしてよい哲学はほかにもいくつかある。カントやフロイト、柄谷行人などがそれである。</p>
<p>しかし、もっと別種の哲学がある。それが声の哲学である。声は、時間軸上のある一点しか占めることができず、現在と呼ばれる瞬間は原理的にほとんど訪れない。過去に汚染された現在という言い方はできない。現在がつねに流れ去っている以上、むしろ現在を定着させようとする努力の方が推奨される。声はもともと消え去るものであり、消え去る現在、すなわち過去にはほとんど価値がない。声は、もっぱら現在を欲望し、自身が過去になってしまわないよう、現在を追い越すことすら欲望している。つまり、次の現在がどのように流れるかを、あらかじめ予測しておかなければならない。そうでないと、声は容易に足元を掬われ過去に流されてしまう。ここでの知のあり方は、〈朝の予言〉である。ニーチェの言葉でいえば、「午前の哲学」である。文字の哲学において、それが欲望する流れ去った《現在》は、もはやたどりつけない統整的理念だが、声の哲学において、それが欲望する《現在》は、まれにたどりつくことはできるが、その次の瞬間に別のものに変わる、という類のものである。</p>
<p>要するに、声の哲学は、激流に耐え忍ぶ欄干のような努力を必要としている。ひとの努力の結果が文字として結晶したわけだが、結晶した瞬間に、別の時間概念、つまり文字の時間概念が発生する。声の時間概念は消失する。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の哲学そのものは、文字を遠ざけておらず、むしろ文字を欲望している。その一方で、文字の哲学は、声を〈たどりつけない〉理念として欲望している。したがって、結果的に、両者の混在は、文字の哲学に有利に働く。だが、それにもかかわらず、声の哲学はかならず文字の哲学を凌駕する。なぜか。</p>
<p>じつは、文字の時間がたえず現在を見せ続けると言ったとしても、実際には、文字が定着する媒体の消滅速度にしたがって、ゆっくりと過去に流れ去っている。つまり、文字のみせる現在は「観念」である。石板に刻まれた文字は、ひとの死を越えて残るがゆえに永遠を夢想させるが、当然、石板そのものは風化を免れえない。紙であろうがレコード盤であろうが燃えればそれで終わりである。そして実際、ローマの王政時代の歴史がそうであるように、歴史は、なによりこの燃焼によって、とりわけ戦火によって、たえず失われてきたのである。歴史を忘却の底に沈めてきたのは、なによりひとが味方につけたはずの炎である。そして現実にどうやって歴史が残されてきたのかといえば、媒体の不滅性ではなく、写本によってである。今日目にする聖書も古事記も写本であって、マスターは存在しない。「歴史を語り継ぐ」という言葉は比喩ではないのだ。いずれにしても、文字の哲学は、実際には、声の哲学によって内包されており、文字のみせる永遠はいかにも「観念」である。というか、文字の哲学それ自体が、現在を「観念化」する。両者は、一般に、自然（声）と文化（文字）の差異としてなじみ深いものであり、要は自然のほうが優位にある、ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ここにきて、はじめて、声と文字とを区別する必要がなくなる。というのも、文字は声と対立するのではなく、声の遅延であることがわかるからである。文字は、声とは別の速度をもった、一種の声なのだ。</p>
<p>イェルムスレウの言理学の不思議な主張の正しさは、ここではっきりする。ソシュールは文字を声の補助物にすぎないといって自身の言語学から排除し、声を優先的に取り扱ったが、師ソシュールの教えの結論部分に従うなら、かえって文字も声と同様に取り扱うべきなのである。声帯をあつかう器械音声学があるのなら、ペンや筆をあつかう器械書字学があってもよいのだ。デリダのようにソシュールを反転して文字の優位を主張するのはやりすぎであり、跨ぐべきでない理論的根底を不当に横断することになってしまう。声と文字を反転させるためには、それらが対立しているという観点が不可欠だが、文字もまたいずれ消え去る以上、両者の対立は結局維持できないし、そもそも、消える、消えない、という対立自体が、「人間」の寿命を前提した偽の対立だからである。消え去る宿命をもった声の哲学はもとより万能ではありえないが、声の劣位と文字の優位を語ることは、声のもつよき意図をも抹消してしまう。たとえば、自分の話すのを聞く、という円環は、自分の書いたものを読む、という形で起こっているのであり、こうした現前の共同体から文字だけが逃れているなどということはありえない（わたしに言わせれば、自分が話すのを聞く、というこの問題はむしろ記憶痕跡の問題であって、音声中心主義ではなく、内なるエクリチュール中心主義の問題であると思う）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の優位が明らかである以上、むしろわれわれは、究極的には純粋な現在というものを意志せねばならないということである。だが、本質的に声の世界を生きているわれわれには、たえず過ぎ去る現在に身を任せているだけでは、現在――「今」はついに訪れない。</p>
<p>途上で、文字に助けを借りるさまざまな迂回、激流をなだめる遅延が必要ではあるかもしれない。しかし、そのことが、声の哲学を忘れさせることであってはならない。写真に残しておけばよい、紙に書いておけばよい、現在を定着させるのは簡単なことだ、という思考は、声の哲学を忘れて文字の哲学に、つまり観念に逃避しているだけである。</p>
<p>純粋な現在への意志、すなわちわれわれこそ「第一世代」であるという気概、要するに「今」、それは、エクリチュールの魔法を振り切ったときに、かならず現われる。わたしはそのことを確信している。ひとは、「今」を渇望しなければならないし、またそのようにしか生きられないのである。</p>
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		<title>第３回「人文学の正午」研究会のお知らせ</title>
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		<pubDate>Sat, 10 Jul 2010 01:53:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[information]]></category>

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		<description><![CDATA[来たる７月１０日（土曜日）、13:00より京都大学にて第３回人文学の正午研究会が開催されます。第１回は「人文学とはなにか？」、第２回は「色彩論」、第３回は「ベンヤミンの言語論と歴史」の予定です。ドイツの思想家ヴァルター・ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>来たる７月１０日（土曜日）、13:00より京都大学にて第３回人文学の正午研究会が開催されます。第１回は「人文学とはなにか？」、第２回は「色彩論」、第３回は「ベンヤミンの言語論と歴史」の予定です。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンのたどった足取りは、近代史のモニュメントであると同時に、未来を照らす指標でもあります。彼の思考が人知れず到達していた高みをわれわれはいまだ知らず、多くのことが手つかずのまま残されているように思われます。刺激的な討論になることが期待されます。多数の参加者をお待ちしております。</p>
<p>詳細はこちらの公式ウェブサイトに掲載されています。http://www.fragment-group.com/shogo</p>
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		<title>顔と他者、あるいはマイケル・ジャクソンについて</title>
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		<pubDate>Thu, 03 Jun 2010 15:27:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[マイケル・ジャクソンが死んだとき、書こうと思っていたことがある。それをずっと書かないでいた。なぜだろう？　たぶん、世間が大騒ぎして書く気が失せたのだ。そして忘れていた。だが、ふと思い出した。アメリカ合衆国とは《何だった》 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>マイケル・ジャクソンが死んだとき、書こうと思っていたことがある。それをずっと書かないでいた。なぜだろう？　たぶん、世間が大騒ぎして書く気が失せたのだ。そして忘れていた。だが、ふと思い出した。アメリカ合衆国とは《何だった》かと考えたからだ。この特異な国家について考えるとき、この黒人のアイドル、世界史上あまり類例のないスターのことを思い出す。たかがアイドルといえばそれまでだが、彼には明確な思想がある。そろそろひとが忘れる頃だから、ここに書いておくのもいいだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>マイケル・ジャクソンは鏡に映った自分をみて、世界をよりよく変えることができると信じた。彼の目にはこう映っていた。世の中に問題があるのは、きっと大人が難しく考えすぎているからじゃない？　もっとシンプルに考えればいいんだよ……。この単純さを志向する風変わりな思想と、彼の過剰な整形は切り離すことができない。</p>
<p>彼は兄弟のなかで、鼻が大きいといじめられていた。そうさ、ぼくの鼻は大きいといわれたけど、ほら、鼻は小さくなった。大人びて見えるからと、ほら、顎も割ったよ。歌謡界で特異な位置を占めてはいても、けっして中央には出ることがなかった黒人たち。そうさ、ぼくもクロンボと言われたけど、ほら、ぼくの肌は白くなったよ<sup><a href="#n01" name="p01">(1)</a></sup>。彼は鏡をみて、こう考える。この鏡に映っているぼく、これが世界だ。マイケル・ジャクソンのコギト。みんな、自分の姿を鏡でみてみよう。それが世界だ。ぼくらは世界だ。衣装を変え、ポーズをとり、表情を作る。そんな風に、世界だって変えられる。かっこ悪いと思うなら、変えればいい。こんな風にシンプルに考えれば、世の中をよりよく変えることができるんだよ。戦争や飢餓だってなくすことができる。大人は複雑に考え過ぎなんじゃないかな……。</p>
<p>ここは、こうした思想が実現可能なものかを考える場所ではない。たんに彼の思想を取り出そうとしている。だからといって、それをあまりに理想主義的な、ロマンティックなものだと考える必要もない。あの不自然な顔が、ロマンティックなもの、理想的なものだと考えるのは困難である。彼が得た子供のような純粋さ、単純さの代償が、過剰な整形で崩れたあの顔貌である。黒人が真にピュアでいたいなら素顔を捨てなければならない。鏡に映っていた人工的なあの顔、精神の美しさの代償に得たあの顔、それこそ、２０世紀のアメリカ社会そのものだったのではないだろうか。鏡に映る彼の歪んだ顔は、自由主義国家アメリカが覆い隠していた裏側である。あの顔の奇怪さを前にして、「顔」の特権性を語る他者論は太刀打ちできるだろうか？　彼はもはや「顔」を、つまり他者の表徴を失っているというのに？</p>
<p>ソ連の崩壊後、社会主義の醜さを非難する声は顕著だ。それはたしかだが、アメリカを中心とする自由主義社会が、その醜さを覆い隠すために行った不自然の数々もまた、本当は非難されなければならない。自由のために素顔を捨て去らねばならなかったマイケル・ジャクソンの悲痛な叫びが聞こえないだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>犯罪のため、差別のため、あるいはひとの精神の醜さに耐えられなくなって、顔を変え、名を変えて生きていかねばならないひとたちがいる。彼らに「顔」や「固有名」などと言っても、「仮面」や「匿名」と言っても、本当は無駄なのだ。彼らは、もうとっくの昔にそんなものは失ってしまったからだ。本物の他者はどこにいるのか、もう一度問い直してみよう。</p>
<p>ひとは、顔を変え、名を変える自由をもっている。それは、顔や名が、精神に対してたかだか表面にすぎないから自由に変えられるのではない。ひとは表面において生きているからこそ、それらがわけても自由な行為と言えるのだ。だから、先に「悲痛」だと言ったが、それは方便である。変化を愛したかのアイドルは、喜んで、顔を変えた。それこそが自由の本当の意味だから。</p>
<p>他者について、わたしならこう考える。かのアイドルの「顔」とは、まさに帝国アメリカの象徴でしかない。本当の彼は、つまりわれわれにとっての他者は、時折見せる笑顔や、叫びの際に鼻に皺寄せる独特の表情のなかにこそ、明滅しているのだ、と。彼の整形された顔は、だんだん若き日に演じたピエロのような笑顔になっていくように、わたしには思えた。おそらく彼は、「顔」でさえ、《表情》に変えようとしていたのではないか。そんな風に、わたしは思っていた。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>２０世紀の批評家は文学に固有名や顔を見つけられなかった。当然である。文学は、固有名ではなく、呼びかけに応じて変わる名前――つまり無名を、顔ではなく、刻一刻と変わる表情を求めてきたからだ。名前を変えても、彼は彼だ。顔を切り刻んでも、変化する表情は失われない。無名性や表情にこそ、他者は存在している。固有名を確定記述に変える実証主義のほうが、かえって他者に出会うこともあるし、もちろんその逆もあるだろう。固有名や顔は、この際、そこまで重要な問題ではない。固有名から確定記述へ、確定記述から固有名へ、その移行の瞬間にこぼれ落ち、低く煌めく言葉、つまり無名性や表情にこそ、他者がいる。</p>
<p>シンプルに考えよう。彼女が笑っているとしたら――たとえその内面に悲しみを隠していても――きっとそのときの彼女は幸せだったのだ。彼女が愛していると言ったなら――そのときは本当にぼくのことを愛しているのだろう。世界は本当は、ひとが思っているよりもずっとシンプルだ。文学は、ひとの心が抱いてしまう現実とのズレ、つまり内面を表象（表情）のうちに消し去る運動である。それを《表現》という。小説のなかの言葉、紙に書かれた言葉、それを内面と外面とに区別する質的な差異はどこにもない。そこに書かれているものがすべてで、小説はなにも隠していない。文学は素顔とも内面とも関係がない。</p>
<p>世界はシンプルだ。単純な強さがある。誰かが助けを求めていたら――その言葉の意味など考えている暇はない。そんなことをする必要もない。たんに助けてあげればいいだけのことだ。救いを求める動物の言葉でさえ、ひとは理解できるのに、同胞の言葉に反応しないわけにはいかないではないか。自分でできなければ、ほかの誰かに声をかけたらいい。助けてくれと言う勇気もときには必要だ。いまこの瞬間にも、そうやって世界史は成立している。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01" name="n01">(1)</a> 読者から、肌が白くなったのは病気がきっかけという指摘、彼の整形を醜いというべきでないという指摘、彼の整形は事故がきっかけという指摘、さらに、彼はアイドルでなくアーティストという指摘、その他さまざまな指摘をいただいた。記して感謝するとともに、彼のファンが今でもたくさんいることを嬉しく思う。</li>
</ul>
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		<title>基地はいらない！</title>
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		<pubDate>Sun, 23 May 2010 18:00:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[ニューヨーク・タイムズは、５月２３日付けの記事、“Japan Relents on U.S. Base on Okinawa”のなかで、「オバマ米政権の勝利であり、鳩山首相にとっては屈辱的な後退a victory for [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ニューヨーク・タイムズは、５月２３日付けの記事、“<a href="http://www.nytimes.com/2010/05/24/world/asia/24japan.html?ref=world">Japan Relents on U.S. Base on Okinawa</a>”のなかで、「オバマ米政権の勝利であり、鳩山首相にとっては屈辱的な後退a victory for the Obama administration and a humiliating setback for Mr. Hatoyama」と伝えている。とはいえ、おそらく日本のメディアにも旧政権に所属する官僚たちにも、敗北感などないだろう。アメリカの“victory”こそ、自分たちの勝利だからだ。</p>
<p>いまは怒りを覚えている沖縄のひとたちも、本土メディアの鳩山バッシングとは一線を画したいと思っているかもしれない。外野から他人事のように鳩山首相を非難する様は、むなしさを通り越して奇怪なものをみる気分になる。現状を肯定するばかりでなにもしていない連中が、できもしないことをやるな、などという批判が正しいとは全然思わない。やり方がまずかったとも思わない。たんにメディアが足を引っ張り続けたということであり、必要な支持が足りなかったということである。また民衆に基地反対の火をつけたという点で、役割は果たしている（首相の言葉が軽いというひとがいるかもしれないが、政治家の言葉が善き意志で貫かれているかぎりは、即座に言ったことが実現しなくても充分に重みを持つし、途上での狡猾さはあってしかるべきものだ）。</p>
<p>本来は在野の知識人がやらねばならないことを、一国の首相がやったと思えばいい。アメリカという巨大な覇権国家からみれば、日本の首相は残念ながらポジション的にはほとんど在野に等しい。そしてにもかかわらず首相であるということが彼の足かせになっていたのであり、短絡的に「日本に基地はいらない」と大統領に投げればそれでいい、などとはとうてい言えない（戦前の日本は国連でも国際会議でも自分の主張だけしかしなかった）。首相には、基地反対の民意を受けつつも――支持率をみるかぎり、それが民意かどうかはわからないが――、最終的には大統領とは仲良くやってもらわねばならない。それが外交というものだ。基地を動かすことができるのは、本質的には民衆だけであると思う。「基地はいらない」というメッセージは、首相のものではなく、端的に民衆のものであるはずだ。本土の人間は、最初に政治家にそれを言わせてしまったことを恥じなければならない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>アメリカの軍産複合体は、冷戦期に肥大化したものだ。軍隊には敵が要る。冷戦期の敵はもちろんソ連だった。しかし、この終わりのない軍拡ゲームから、ゴルバチョフは一方的に降りてしまった。別に積極的にレーガンやブッシュシニアが勝ったわけではない――つまり、アメリカには、勝利とひきかえに消費されるはずだった兵器や世界中の基地が、山のように残されることになった。当然、軍隊には敵が要る。この邪悪な山は、己を標的にせざるを得なくなる。というのもアメリカが、世界を制覇してしまったからだ。かくして戦争はもはや終わることのない奇怪な円環を描く。敵はテロリスト（テロ国家）であるという。だが、テロリストを生産しているのは、あるいはすくなくとも必要としているのは、ほかならぬアメリカである。彼らは、自分たちを守る兵器と同時に兵器を使用する対象をも生産する、自家中毒的なグローバル企業である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>冷戦後、その根拠を失った海外基地を維持するのは容易ではなかったはずだが、どこに潜んでいるかわからぬテロリストを対象として基地の根拠は暗黙のうちに書き換えられた。テロリストが相手である以上、古い意味での「抑止力」はもはや空文化している。不可視の敵を相手にする以上、敵の殲滅は戦争の終結を意味しない。テロリストは世界中に分散している。地球という球体の上に存在する基地は、任意の場所にあっていいはずだが、そうである以上、もっぱら経済的な理由から、動かす理由はもっと存在しない。ただそこにあるという、そのことだけが、じつは、たとえば沖縄に基地があるもっとも説得的な理由なのである。</p>
<p>沖縄に基地があるという前提で作られた数多くの兵器があり、産業があり、官僚がいて、そして権利がある。もはや国家がこれを動かすことはできない。国家が基地の場所を決めるのではない。世界中に張り巡らされた基地の上に国家が乗っかっている。べつにアメリカだけが利権に預かっているわけではない。セミラティス状に広がった利権の網の目には、ユダヤ人というかイスラエルはもちろん、日本の古い権力者も与っている。世界大に広がった利権の網の目、すなわちセミラティス、これをネグリ＆ハートの言葉で《帝国》という。</p>
<p>わたしは彼らの論文が公表された当初、この議論に懐疑的だった。だが、ここ何年かはことさら否定する必要を感じていない。ここでは、彼らの議論に沿って話を進めていこう。さて、《帝国》は、冷戦の終わり――資本主義のグローバル化によって現われた新たな局面である。かつて帝国主義時代には、資本主義は国家と手を取り合っていた。というのも、国家間戦争がなければ、自らの領域を広げる外部を保つことができなかったからだ。だが、資本主義のグローバル化は、国家との結託を不要のものとした。むしろ国家のほうが、資本主義に包摂され、これに依存することになる。こうしてできる世界大の利益共同体が《帝国》である。日本はアメリカの植民地だとか、隷属しているだとか、そういう短絡的な見方はここではできない。国家間関係は、固有の領土に立脚した政治的なものというよりは、もっと微妙に変化するグローバル経済の上〈のみ〉に成り立っている。地球上のどこかで剰余価値が発生すれば、そこを中心にして、帝国が何度でも編成される。その編成のプロセスのなかで、日本がアメリカの植民地のように見えることもあれば、同じ日本がアメリカの片棒をかつぐ帝国主義者のようにみえることもあるし、たんに日本が帝国主義者としてふるまうこともある。ここでは、主体は端的に国家ではないし、主権国家という観点はじつはほとんど成立しがたい。強いて主体をあげるなら、不可視のセミラティスである《帝国》、というほかない。ともあれ、その編成から漏れたひとたちはテロリストになるほかないところまで追いつめられ、剰余価値を生み出すための差異を無理矢理演じさせられる。テロリストは暴力を振るう。なんというならず者たちか。われわれは、これに千倍する暴力で答えなければならない。たった一発の手榴弾が、千発の劣化ウラン弾に変わる。千発の劣化ウラン弾が十発の手榴弾に変われば、今度は一万発の劣化ウラン弾が生まれる。これを価値増殖といわずしてなんといおう。……</p>
<p>冷戦時代に作られたアメリカの基地が、《帝国》に利用されている。基地があるかぎり、敵から日本は守られるかもしれない。それは古い抑止力とは関係ない。基地があるというそのことが、《帝国》の攻撃対象から外されることを意味するからだ。しかし、日本を攻撃する敵とは、一体誰のことなのだろうか？　中国ではない。中国政府は、《帝国》内部に組み込まれている。というより、現在の《帝国》の中心は経済的にはほとんど中国に移行しつつあるといっていいほどだ。だから、やはり、基地があるかぎり、そこが中国の攻撃対象となることはない。基地がある以上、中国にいる《帝国》の住人は、そこを自領とみなす。海外基地とは、《帝国》のシンボルであり、「降伏証明」である。これが「抑止力」という言葉の真の意味だ。つまり、不思議なことに、この「抑止力」には対象となる国家が存在しない。つまり、《帝国》のなかに、敵はいない。しかし、《帝国》は、この「抑止力」によって、目に見えないテロリストを生産する。敵がいない？　そのとおり、彼らは見えない敵なのだ……。これは黒魔術の言葉――自分自身の尻尾を飲み込むウロボロスである。「抑止力」は、イラクへ、あるいはアフガンへと飛び立ち、いまも民間人を殺し続けている。民間人の憎悪にまみれながら、兵士たちはおそらく薄々感づいている。この戦いは、ますますテロリストを生産するために行われているのではないか。……</p>
<p>こうした奇怪な円環は、われわれを身動きできないところへと追い込んでいく。オバマ政権が軍産複合体に仕掛けた戦いは劣勢が伝えられている。オバマは鳩山由紀夫と同じく、軍縮を志向するタイプである。だが、それでも基地を動かすことはできない。世界中に張り巡らされた《帝国》の力が、彼らの道行きを阻んでいる。そればかりか、彼らが動けば動くほど、彼らの自由はいよいよ狭まっていく。軍隊の縮小を全体として実現するためには、この基地は必要だと、すべての基地が主張する。軍縮したつもりが、すこしも縮小されない。多くの大統領が戦争を経験してきた。だのに臆病なお前は逃げることしかしない……。《帝国》はますますその力を強めていく。肥大化する《帝国》に追従する新自由主義者たちは、その求めに従って、国家を小さくした。できるかぎり自分を小さくして《帝国》の流れに身を任せた方が、国家は生き残ることができると考えたからだ。だが、それは、《帝国》の力に国家が飲み込まれてしまったことを肯定する身振りでしかない。国家はますます《帝国》の尖兵になり下がっていった。だからといって、《帝国》に反対して国家の力を強くしたとしても、勝つのは容易ではない。国家は、《帝国》の要請に応じて形を変えなければ生きていけないほどに、変質させられてしまった。それほどまでに、手に負えないものになったのだ（強い国家ほど、国連を必要とするのはそのせいだ）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>こうして世界は文字通り閉塞していく。だが、ネグリとハートによるなら、《帝国》と直接対峙する勢力があるという。マルチチュード（群衆）である。《帝国》は巨大であるがゆえに不可視である。テロリストは微細であるがゆえに不可視なのだが、不可視であるという点で、《帝国》の主要なパーツである。しかし、マルチチュードには、どうやらそれが全部見えているらしい。生活の瞬間瞬間に、《帝国》がふるう暴力が、見えるというのだ。彼らは戦うべき本当の敵がどこにいるのかを知っていて、ゆくりなくつぶやくだろう――基地はいらない……！</p>
<p>軍縮のための確実な一歩は、武器を減らすことではなく、軍隊が駐屯する世界中の基地をひとつひとつつぶしていくことであろう。理論的には、それ以外に恒久的に軍縮を進める道はない。いまや兵器の生産がアメリカや中国（《帝国》）の内政上の問題である以上、政権が変わればたちどころに兵器の大量生産が可能だからだ。</p>
<p>おそらく、真の敵は基地なのではなかろうか。世界中に基地があるからこそ、アメリカは諸外国と戦争するし、テロリストが生産されつづけるのではなかろうか。《帝国》はリゾームではない。セミラティスである。なぜなら、どうしても動かせない基地があるからだ。《帝国》は、どこにでも動けるかのように偽装しているが、爆撃機が飛び立つための何千メートルもの滑走路は必要なのだ。だから、《帝国》がもっとも恐れているのは、基地こそが戦争の元凶であることに気づいている周辺の生活者が声を上げることなのではなかろうか。先にも述べたように、《帝国》が世界大に広がっているなら、基地は任意の場所でよいはずだ。だが、そうなっていない。というのも、冷戦時代の遺物たる基地がそこにあったからだ。ただそこにあるという、それだけが基地のもっとも強固な存在理由である。この理由に論理的に反論するのは困難である。というのも、論理的な理由ではなく、多分に情緒的なものだからだ。したがって、国家首脳レヴェルの外交上の課題ではない。この理由なき常駐に対する唯一の方策は、論理的なやりとりではなく、民衆の声で応じることである。声に声をかさね、軍隊、あるいは《帝国》の暴力とは別種の《力》でこれに応えることである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、時間が足りない。ここで考察は一方的に断ち切られるが、ともあれ《帝国》と対峙しているのはマルチチュードである。しかし、マルチチュードになるのは容易ではない。ほとんどの場合、われわれは、知らないうちに《帝国》に加担している。おそらく、声をあげるひとたち、それも声をあげつづけるひとたちだけが、マルチチュードになることができる。しかし、やはり、声をあげるのは容易ではないし、ひとりひとりの声は小さい。われわれは、はたして《帝国》側の住人なのか、マルチチュードの側の住人なのか。自分自身ではなかなか判断することができない。とはいえ、すくなくとも確かなことは、《帝国》と対峙する主体となれるのはマルチチュードだけ――つまり政府はあくまで副次的な存在である、ということだ。</p>
<p>政府には果たしてもらわねばならない役割がある。だが、彼らに頼りすぎるのはよくない。もともと政府には基地を動かすほどの力はないからだ。だから、基地を動かそうと試みた稀な政府を責めるのは筋違いである。われわれは、政府でさえ、味方につけなければならない。アメリカや官僚、ジャーナリストやアカデミシャン、そして兵士たちのなかにさえ存在するマルチチュードを見つけ出し、仲間に加えなければならない。現政権には、オバマ政権とともにまだまだ仕事をさせるべきだが、究極的には、基地を動かすのは民衆、それもマス化していないマルチチュードである。</p>
<p>自分たちにしか、基地を動かすことはできないのだと知っている民衆は、マルチチュードになる準備ができている。勇敢な沖縄のひとたちはマルチチュードになりつつあるようにみえる。本土の人間も、うかうかしていられない。まだチャンスはつづいている。諦める必要はまったくない。基地がそこにあるべき理由は存在しない――この勝負には、勝ち目がある。</p>
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		<title>芸術のエチカ――欲望中心の表象の強さについて</title>
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		<pubDate>Fri, 21 May 2010 17:44:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>

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		<description><![CDATA[欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を奪ってしまう。別にその表象は生身の人間である必要はない。なにかしら異性を思わせるシンボルがあるだけで充分である。というよりは、その欲望中心のシンボルの抽象性が高ければ高いほど、かえって視線を誘う。なにしろ「欲望」は、表象をもたない。だから抽象的だが、同時に、欲望ほど具体性に恋い焦がれているものもない。この抽象的なシンボルは、次の瞬間には具体物であるかもしれない。そう思わせるだけで、ひとの視線は奪われ、このシンボルに吸い付けられてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえば昨今のアニメや漫画で描かれる人物は、それはいじらしい。なぜなら、彼らは人間になろうとしているからだ。抽象性から具体性へと至るプロセスの中心で、いまだ胚といってもよい状態のまま、奇妙に凍結され、宙づりになってこちらを見つめている。この欲望中心の表象の力強さは驚くほどだ。かつて泉鏡花が自然主義文学について言ったように、十の精神でさえ、一の肉に勝てない。もし、芸術があるかないかもわからぬ精神の領域を占めているとすれば、肉に依拠し、覇権主義的で帝国主義的なこの「サブカルチャー」の力には、ほとんど歯が立たない。</p>
<p>それは、中世ヨーロッパの芸術が、ついに古代ギリシア・ローマの芸術に勝てなかったことにもよく現われている。それは、宗教が欲望に勝てないことと同義である。かつて白樺派のひとたちは、内村鑑三の洗礼を受けながら、ほとばしる欲望についに勝てなかった。「自分は女に飢えている」と語ることから文学を始めた。だからこそ、この芸術は強い。魂に禁欲を強い、その禁忌がもたらす崇高に軸足を置く宗教的な芸術が、欲望中心の芸術に勝てなかったことは、歴史がよく示している。</p>
<p>古典時代とは、欲望中心の時代の謂いである。ソクラテスの言葉は、ギリシア人が、知とエロスとを同じ高さに並べることに、なんの抵抗も感じないのでなければ、すこしも説得的ではない。ソクラテスは美に畏敬を抱かぬひとを「快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしない」と言って非難する。とはいえ禁欲を説くわけではまったくない。彼は美に出会い、恋に狂った人間が陥る〈好ましい〉例を、次のように語る。</p>
<blockquote><p>聖像や神に対するごとくに、彼はその愛人にいけにえを捧げることであろう。…その姿を見つめているうちに、あたかも悪寒の後に起こるような一つの反作用がやってきて、異常な汗と熱とが彼をとらえる。それは、彼が美の流れを――翼にうるおいを与える美の流れを――眼を通して受け入れたために、熱くなったからにほかならない。そしてこの熱によって、翼が生え出てくるべきところがとかされる。…いまや養分がつぎこまれると、翼の軸は膨れ、その根から、魂の姿の全体を蔽うまでに成長しようとする躍動をはじめる。</p>
<p>…かくして、このような状態のとき、魂の全体は、熱っぽく沸きたち、はげしく鼓動する。それはちょうど、歯が生えはじめたばかりのとき、人々の歯のまわりに感じるあの状態――歯ぐきのところに感じるむずがゆさといら立ち――あれと同じ感覚なのだ。翼が生えかけている人の魂は、まさにそれと同じ経験を味わい、翼が生じるにあたって、熱っぽく沸きたち、いらいらし、うずくものを感じる。そこで、この魂が、少年にそなわる美をまのあたりに見つめながら、そこから流れてやってくる粒子を――このように粒子（メレー）の流れ（ロエー）の放射（ヒーエナイ）であるがゆえに、それは「愛の情念」（ヒーメロス）と呼ばれるのであるが――この愛の情念を受け入れて、うるおいを与えられ、熱くなるときは、魂はそのもだえから救われて、よろこびにみたされることになる。</p>
<p class="post-r">プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫</p>
</p>
</blockquote>
<p>この言葉が、性的な欲望がいかに表現（発現）されるべきかをリアルに示すものであるのはあきらかである。ここでのソクラテスの言葉は、それ自体が欲望の表現（発現）であることに注意しておこう。つまり、この言葉は、それによって「意味されるもの」を想起させようとしているのではない。美は、「四つ足の動物の行う交尾」として《表現》されるのではなく、「翼をもった魂の潤いのほとばしり」として《表現》されなければならない。なぜなら、ひとを惹き付ける美とは、対象そのものではなく、対象が抱かせる期待、すなわち《距離》によってこそ、美だからである。安易に対象と同化するよりも、「翼」によって表現される対象との《距離》が、ひとをして欲望の虜にするのであり、この同化に至る《距離》こそが、美であると同時に表現であると言いたいのである。要するに、ソクラテスは全然欲望を否定していない。欲望を描くとは、四つ足の獣のように即席の同一化を与えることではないし――これをポルノと呼ぼう――、そうした即席の快楽は、ほとんどここちよさを与えない。それは、結合の瞬間、絶頂の瞬間が、それまで感じていた《美》などどうでもよくなっていることによって説明される。むしろ、結合にいたるプロセス、絶頂の途上で感じられる埋めがたい距離のすべてが、美であり欲望であり快楽なのである。芸術の中心はここにある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は手淫し、女は想像で妊娠する。われわれは、それを「抽象的」と言ったり、「観念的」と言ったりする。それはけっして虚構ではない。なぜなら、自然は、それによって実際に欲望を満足させるようにひとを作ったからである。犬のディオゲネスは人のみている広場で自慰に耽りながら言った。「ああ、お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえすれば満足できるならいいのになあ」。しかし、これは不思議なことなのだ。遺伝子が死を超えて残ること――作られた子供については、欲望はこの際関係しないらしい。手淫は観念的だ、などと言ったところで、これが現実に行われていることを否定することはできない。芸術は、虚構というよりは、こうした奇妙な《現実》にかかわっている。つまり対象それ自体とかかわるよりは、対象への意志とかかわる。欲望は、対象の直前で立ち止まる、いわば手淫や想像妊娠なのだ。それを表象するのが古典芸術だとするなら、アニメや漫画は、対象を人間未然のなにかとして、しかも人間になろうとするその《距離》として描いているという点で、無自覚に古典芸術と同じ地平に立っている。その意味では、サブカルチャーとメインカルチャーを区別する必要はほとんどない。純文学であろうが、漫画であろうが、それらが宗教的ではない動機、すなわち欲望の屈折なき放射であるかぎり、芸術の最初の門をくぐったものと考える（その点、コンセプチュアル・アートは古典芸術とはまったく無関係である）。問題は質ではなく強度である。</p>
<p>欲望が快楽そのものというよりは快楽の遅延なのだとすれば、その表現は驚くほど複雑化する。なるほど快楽は一に基礎を置く。だが、欲望は多に基礎を置いている。したがって、肉を晒すことは快楽へ至る最初の一歩だとしても、欲望にとっては多様な道のひとつにすぎない。中世の宗教芸術から一線を画すルネサンス期、レオナルドは、「教会は血を忌む」といって遠ざけられていた人体解剖に興味を示している。したがって、解剖学的な欲望は、中世を卒業する芸術の最初の動機の一つであると考えられる。だが、解剖学だけですべてが解決するわけではないし、欲望が静まるわけでもない。むしろ欲望は、ポルノに至らぬぎりぎりのところでとどまることを欲しているし、その点からいえば、じつは欲望はポルノを拒絶している。</p>
<p>たとえばゴダールは、『映画史』のなかで、浴槽のジュリー・デルピーとポルノビデオを対比している。彼は言いたいのだ、どちらがひとを欲情させるのか、また同時に、同じことだがどちらが美しいのか、と。むろん、ジュリー・デルピーよりポルノビデオに軍配を上げるひとも多いだろう。強度を問わず、ただ快楽にたどりつけばいいというのなら、ほとんどのひとがそうだろう。ゴダールが言いたいのは、映画はポルノビデオと勝負し、あるいはもっとおぞましい薬物とさえ勝負し、それに勝つことを夢見ている、ということだ。今日では、純文学とポルノ小説の差異はほとんどなくなっている。作家たちのあいだで、欲望と快楽とが混同されているからである（はっきりいって、純文学と称する昨今の代物はほぼすべてポルノである）。こうしてポルノを政治的に法で囲い込むより手段がなくなっていくのだが、本当の芸術は、結局、ポルノを法で囲い込むよりも、勝つことを夢見ている。芸術も子供を作ることができると言いたいのだ。</p>
<p>しかし、芸術がポルノに陥ることなく、美や欲望、快楽を《距離》によって表現することを仕事としているなら、アニメや漫画は、本質的にポルノに近すぎるのではないだろうか。ある女性の声、肉体、精神、そしてその生涯を、つまりこの女性の美を一枚の絵画におさめることができたなら、余計なものはいらないはずだ。ただ言葉だけで女性の美しさを表現できたとすれば、やはりもう余計なものはいらない。すでに美であるそれらに加えられた補助線は、快楽を不必要に近づけ、かえって快楽を小さくするポルノにかぎりなく近づいていく。アニメや漫画の補助線は、あまりに親切で、説明的で、こちら側の呼びかけを無視して進むがゆえに、かえって戸惑う。人間は、たった一本の線にでさえ、欲情することができる。この線がついに美につながるとすれば、そのときの快楽はほとんど極大に達しよう。芸術が究極的にはシンプルな形式を求めるのは、その方が複雑な快楽に達する可能性をもつ場合が多いからである。ただ一枚の絵画、言葉だけで描かれたストーリーこそ、アニメや漫画の目指すところではないのか、という疑念を払うことは、なかなかできない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>老いの手前にとどまる若さや、目的を達しようとそれに打ち込む姿は美しい。それは、あらゆる芸術上の登場人物が、人間の手前で人間たらんとリアリティを求める姿と重なりあう（たぶん、美はある種の期待であり、美的な知はある種の予言であろう）。結局、芸術は、つぎの問いをつきつけている。人間が美しいとすれば、それはなんによってか、と。己を超えたものを欲することによってではないのか、と。しかし芸術は、だからといって神を選べとは言わない。というのも、それは欲望を屈折させ、たどりつくことのできない統整的なものとして目標を提示するからである。だからこそニーチェは「超人」といった。芸術は、人間を超えたものを宗教に依らずに提示しなければならない。つねに大人になることを目指している子供は、その比喩である。</p>
<div class="post-rl">
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		<title>懐疑と数学、存在についての私論</title>
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		<pubDate>Fri, 14 May 2010 18:26:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Ding an sich/noumenon]]></category>
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		<description><![CDATA[「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐疑」の始まりである。</p>
<p>たとえば「魔女裁判」は、この分離なしにはありえない。彼女が人間の表象をもつにもかかわらず、魔女だとしたら？　それは神がつくり保証する概念と表象の一致に、根本的な誤謬が発生していることを意味する。もちろん疑念は、最初に女性に向かう。この女性が魔女かどうかは、じつは問題ではない。むしろ、その疑いを招いていることが、魔性なのである。この疑念自体が、神が保証する一致に対する反逆だからだ。疑わしいという、ただそのことが、罪なのだ。だからこそ、彼女は暴力的な裁判に、しかもはじめから断罪されることが定められた裁判にかけられねばならない。</p>
<p>トマス・アクィナスに従うかぎり（またあえてカントの用語を使って言えば）、神は悟性的な存在である。感性によってものを感覚する人間とは根本的に異なり、神は〈悟性によって感覚する〉。人間がある表象にまちがった概念を与えてしまうのは、人間が感覚に頼っているからだ。だが神はちがう。神は感性をもたない。したがって、神において、概念それ自体が存在である。神は「神」であるがゆえに全能の存在なのであって、全能だから神なのではない。完全に演繹的な存在である。だとしたら、なにゆえ神は魔女などを生み出したのだろうか。そんなことをするなんて、〈あなた〉は、言われているほどに神なのだろうか？</p>
<p>彼女が魔女ではないと証明することは、原理的に不可能である。この懐疑は一度はじまってしまったら、同じ論理的基盤を保持するかぎり、二度と取り除くことができない。なぜなら、証明という行為それ自体が表象と概念の一致を前提しているからである。結局、女はすべて怪しい。しかし、この猜疑は神にも向かう。この不可解な女を作ったのは神だからだ。もしかしたら、この「神」は、神ではないかもしれぬ。「神」が全能ではない、ただそれだけで、「神」は疑うに足る。「神」が神でないのなら、いったいひとはなにを信じたらよいのだろうか？</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>「“もの”がある」、とはいったいどういうことだろうか。なぜひとは、具体的であっても雑多な表象を超えて、抽象的な“もの”を思考することができるのだろうか。この概念は、概念と表象の差異、つまり上述の「懐疑」なしにはありえない。概念はいつも表象を尽くさないし、表象はいつも対象を尽くさない。カントは、これこそが“もの”の源泉であると考えた。この差異、この残余こそが、“もの”である。これらが一致しているかぎり、“もの”は生じようがない。</p>
<p>カントにしたがうなら、もの自体を生み出すのは、むしろ表象に概念を与える悟性の側である。そのことを彼は、アプリオリに“もの”がある、という言い方をする。逆説的な言い方で、「もの自体は、ただ悟性によって考えることだけができる」という。だが、実際には、不完全な悟性、不完全な概念こそが、対象を“もの”に変えるのだ。感覚（だけ）がまちがうという言い方はできない。まちがうのはどちらかといえば悟性である。というのも、感覚は悟性に従うからだ（認識は対象に先立つ）。感覚が悟性に従う、とはどういうことか。それはもちろん、感覚の正否を悟性があらかじめ定められた基準＝カテゴリーにしたがって判断するということだが、感覚はじつはつねに-すでに悟性に依拠している。そのため、悟性が理解しうるものが感覚とされ、悟性が理解できないものは超感覚的な“もの”と判断される、ということになるしかない。</p>
<p>したがって、カントにおいて、「“もの”がある」、すなわち存在は、感性的な実在とは区別される。実在が肉の側に割り振られているとすれば（一般にはこちらを「もの」と呼んでいるが）、“もの”あるいは存在は、実在を超えたもの、すなわち超感性的なものであり、ネガティヴな仕方でしか現われないものである。</p>
<p>この点でいうと、悟性は懐疑しない。悟性は疑うことなく表象を認識の裁断にかける。たんにカテゴリーに従って感覚的なものと超感覚的なものを区別していくだけである。懐疑は概念と表象の差異が生み出す帰結だが、この差異、すなわち超感覚的なものがなんらかのイメージと結びつくとき、それは理性と呼ばれる。たとえば神は超感覚的なものだが、これを髭の生えた巨人に代理表象させる、のは理性がおこなうことである。あるいは、悟性におけるカテゴリーの篩（ふるい）が残余として生み出す超感覚的なものが懐疑によって取り出されるとして、それは全体として理性のはたらきであり、短縮されて理性と呼ばれる。したがって、懐疑を行うのは理性ということになるが、やはり、現実には悟性が理性に先立っている。悟性に蓄積されたイメージにもとづいて、神を表象するからであるし、あるいはそもそも超感覚的なものは、（感性と一体のものとしての）悟性が取り逃がす残余だからである。だから、“もの”は悟性の生み出す残余だが、その残余自体は理性においてイメージされる。</p>
<p>こういう考え方は、たしかに「魔女裁判」を無用のものにする。表象と概念の差異が発生するのは、むしろ自分の貧弱な悟性（あるいは認識）のせいだからだ。この女が魔女であるか否か、それはむしろ、科学、とりわけ自然科学上の認識論的な課題なのだ。カントは、かくして、審判としての学問という考え方を提起した。カント以来、学問は一種の裁判の形式をとるようになった。またその一方で、というよりはこちらのほうがカントにとってははるかに主要なテーマだが、概念と表象の差異こそが、むしろ神の源泉となるだろう。概念と表象の差異のおかげで、ひとは神の存在を疑うに至ったのだが、その差異、すなわち懐疑がなければ、いったいどこに神がいるというのか。概念と表象とが一致するというのなら、なぜわれわれは神の姿を見ることができないのか。なぜ神は受肉を必要とするのか。もとより超感覚的な神を思考できるとすれば、その思考は感覚を通過したものであってはならないだろう。感覚を通過せずに訪れた概念だけが、神と呼ぶに値するのだし、また悟性が取り逃がした“もの”だけが、神の可能性をもつのである。こうした感性-悟性の残余、学問が作り上げた知的文脈を超えてある他者、思考するといっても想像するといっても大差ないこの他者、これが神である。神とは、懐疑の別の名なのであり、またそうであるがゆえにこそ、神は存在するのである。カントはいうだろう。彼女が疑わしいといっても、だからといって魔女とはかぎらない、われわれの認識が未熟なのかもしれない……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、それより前の時代のデカルトの（のちにスピノザに、さらにはハイデガーを介してフーコーによって拡張される）解決方法は、すこし違ったものであったように思われる。というのも、彼ももちろん神の存在を示そうとした点でカントと同様だが、「懐疑」にとどまったのではなく、これを乗り越えてしまったからである。「われ思う、ゆえにわれあり」という命題は、完全にポジティヴなものであり、存在についてのカントのイロニカルなスタイル、「もの（＝存在）は考えることができるだけだ」とは異なる。彼はどうやって表象と概念の不一致を乗り越えたのか。</p>
<p>注目すべきは、彼における三つの要素である。ひとつはコギト、もうひとつは神の証明、そしてもうひとつは解析幾何学である。この三つの要素はすべて同じものの異なる表現であり、これらを切り離して考えることはできない。</p>
<p>彼は“もの”を「延長」と呼ぶ。それは彼が証明したと信じた三つの存在のうちのひとつであり、「われ（コギト）」、「神」と並列される。つまり、彼はカントのように実在と存在を質的に区別していない。感性的要素（延長）と理性的要素（われ、あるいは神）は同じ平面上に展開されている。したがって、「在る」は、この同じ平面に展開されることを指すのであり、「われ在り」が可能なら、自動的に神や延長の「在り」も可能になる。カント的にいえば感覚的に存在する延長と、超感覚的に存在するはずの神とのあいだに、存在論上のちがいはない。</p>
<p>表象と概念の差異に対するカントの解決方法とのちがいを強調していえば、こういうことだ。デカルトは、表象-概念の二重構造そのものを破棄した。延長（つまり表象）と「われ」や「神」（つまり概念）は、存在するという観点からいえばいずれも同じである。だから表象と概念を区別する必要はない。それこそが「コギト」、すなわち「われ思うゆえにわれあり」である。「われ思う」ということと「われあり」とのあいだには、じつは〈深い〉差はないのだ。しかし、神もまた延長やわれと同じく表象であるなら、神はいかなる表象をもつのか？　デカルトがじつはやり残していた問いを継承したのはスピノザである。彼が「われ思うゆえにわれあり」を「われは思惟しつつ在る」に翻訳したとき、彼は、概念が思惟されるということと、ものが在るということが、デカルトにおいて同一平面上で行われていることを正しく理解していた。したがって、神も表象をもつ。神の表象とは、この世界そのもののことである。神はもの＝延長と同様に存在する。彼らはいうだろう。彼女は、魔女ではない、みるがいい、彼女は美しい女ではないか、一体どこに魔女がいるというのか……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>一般に、数学はものとものとの「関係」を扱うものとされている。たとえば柄谷行人はこう言っている。</p>
<blockquote><p>数学を量的なものと見なす考えを捨てないといけない。数学は本来的に「関係」を扱う学問です。量はその一つにすぎない。</p>
<p>…特に数学的思考というべきものはない。「関係」を考えることなら、すべて数学的である。言語体系も政治的組織も精神病理も、それが関係の形態であるかぎり、数学的に扱えます。</p>
<p>…プラトンは、「関係」は、感覚的なものと区別されるイデアとして、イデア界に在ると考えたわけです。今そんなふうに考える人はいないけれども、この区別そのものは残ります。「関係」は、物があるというのと違ったふうに、存在する。あるいは、それは無であるともいえます。なぜなら、それはどこにも存在しないからです。</p>
<p class="post-r">柄谷行人「なぜ数学か」</p>
</blockquote>
<p>たしかにプラトンは数学や幾何学を自身のイデア論にとって不可欠のものと強調していた。だが、イデアの世界と現実の世界について、前者は後者より美しく、後者はその模倣であるためにいくらか美しさを欠くとは言っているが、それが感覚的なものと区別されるとは全然言っていない。その差はあくまで強度的なものであって、質的なものではない。いずれも〈感覚的に美しい〉ものである。柄谷は数学が「関係」を扱うという自説を補強するためにデカルトも引き合いに出しているが、「われ」「もの（延長）」「神」を同じ「在り」のなかに展開するデカルトが、数学をそれらの「在り」とは区別しているとしたら、一体彼は、いかにして幾何学上の点を数に置き換えることができたのだろうか。数は、柄谷がいうように、「われ」とも「神」とも「延長」ともちがう、特別な存在の仕方をしていると、デカルトは考えていたのだろうか。</p>
<p>さらにいえば、現実のデカルトは、磁力や重力のように、離れているもの同士のあいだに働く遠隔力という考え方を怪しげなものとして拒絶したひとである（したがってニュートンの万有引力の法則は、当時絶大な影響力を誇ったデカルト主義に対する最初の有効な批判のひとつだった）。つまり、“もの”と“もの”のあいだの「関係」という思考はデカルトには見当たらず、“もの”と“もの”のあいだの作用はすべて「衝突Impact」によって説明される。</p>
<p>こうした要素を突き詰めて考えてみよう。私見によれば、むしろ、デカルトの発見は次の点にある。すなわち、数は、そもそも“もの”を扱う。というより、数は、対象を“もの”化する。それゆえ、幾何学上の点（すなわち延長）を数に置き換えても、まったく問題が発生しない。幾何学は、とくにエジプトやギリシアにおいて測量術から発展しているように、もともと現実を扱う、実用的な学問である。それに対して数学はとくにピタゴラスと結びつき、音楽に結びつけられるかぎりでは現実的なものだったが、そうでない場合はより神秘的な（カルト的な）学問だった。この両者の区別は、あきらかに表象の有無に依存している。すなわち、前者は物質的・実在的だが、後者は精神的・存在的とみなされている。デカルトが解析幾何学で乗り越えたのは、この境界である。つまり、より現実的な点や線（＝「延長」）は、より非現実的とみなされる数と変わらないのであって、それは、延長とわれや神とが並列されるように、同じ平面上に展開されているのである。コギトなしには、解析幾何学は可能にならないのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ハイデガーが指摘するように、「道具」は、ひとが石を矢じりとして使うときにはじめて具体的な道具となる、というようにして、一挙に現われる。そうでなければいつまでたってもただの石であり、さらにいえば、人間と関係しない限り、「石」でさえない。プラトン風に翻訳するなら、ある石を矢じりとして用いることが可能であるなら、その石は矢じりのイデアを持っていたということである。また、これらの矢じりを“もの”である、と考えたとすれば、それは、この矢じりを数えるときである。３つの矢じりを数えるとき、そこにはすでに抽象的な思考がはたらいている。矢じりのイデアにもとづいて、それらをひとつふたつと数えるとき、それらを抽象的な“もの”として扱っているのである。このように、イデアには運動的なものと数学的なものとの二種類があるのであって、かならずしも後者とだけ結びついているのではないし、関係ならばすべて数学的だということにもならない。道具的な関係というものもある。農夫が鋤で土地を耕すとき、彼はまちがいなく鋤と関係をもっているが、それが数学的な関係にあるなどということはとうてい不可能である。むしろ、固く乾いた土を掘り起こすために、汗をながして金属片のついた木の棒を振り上げるという、そのことが、彼と鋤とを道具的な関係として取り結ぶのである。</p>
<p>いずれにしても、数学が行うのは、対象を“もの”化することである。３つの矢じりという思考法は、具体的な矢じりを“もの”に抽象化する。逆に、道具的な思考法は、抽象化されたこの３つの矢じりに、再び具体性を与えるだろう。つまり、道具的な思考法が出来事にかかわるとすれば、数学は存在に、とりわけ“もの”にかかわる（といっても、数が序数であるかぎり、出来事の一変種であるが）。“もの”は、カントのように表象と概念のずれが生み出すのではなく、具体的な対象、たとえば矢じりを数えるときに発生する。数学は、ひとに対象を“もの”として把握することを教えるのだ。だから、デカルトに従うかぎり、表象（ここでは幾何学）と概念（ここでは数学）のとりもつ「関係」の向こう側に、わざわざ「もの自体」を設定する必然性はない。むしろ、ある表象が数と関係するとき、その関係が、“もの”である。数学と幾何学とを結びつける解析幾何学とは、“もの”の発生過程の特異な表現、というかスタイルであり、なおかつプラトンのイデア論の正統な拡張である。</p>
<p>この意味では、「関係」という観念、表象を欠いたこのカント的・ヘーゲル的観念は、数学とは別のものである。構造主義の難点も、数学の使用法にある。数学的に取り出された構造を具体的な“もの”と遊離した「関係」とみなすことが、この学問に閉塞をもたらす。むしろ、そうした構造は、ユニークな序数として現実に存在していると考えほうがよい。たとえば生まれたばかりの赤ん坊が、トポロジックに母親を二つの穴（目）のある形として捉えたからといって、母親が存在していないと言うことなどできないのと同じことである。現実に、赤ん坊にとって、母親は二つの穴のある形として存在するし、彼が（無意識にとはいえ）表象と概念を認識論的に区別しているなどと考える必然性はどこにもない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>幾何学上の点を数に置き換えることが可能であるということ、この不思議な事態はなにを意味しているのだろうか。この奇妙な思考の跡をたどっていくと、スピノザにたどりつくことはすでに述べた。さらにこの先をたどると、ハイデガーを批判的に継承したフーコーに突き当たる。というのも、フーコーは、テクスト上のいくつかの点を、実際上の出来事に置き換え可能なものと考えていたことが明白だからである。彼は、この奇妙な点を「言表」と呼び、これをひとが思いもよらぬ突飛な出来事と結びつける斜線を至る所に引いて回っていた。わたしには、フーコーは、この点では彼が批判したデカルトによく似ているように思われるのだ<sup><a name="p01" href="#n01">(1)</a></sup>。おそらく、出来事の学はこの方向にしかないし、わたしはそれを、たぶん《文学》と言っているのだろう……。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note">
<a name="n01" href="#p01">(1)</a> むろん、デカルトとフーコーの差異には注意しておかねばならない。デカルトはコギトから解析幾何学へと至るプロセスのなかで、あらゆる事象を数学的に（≒客観的に）把握する「普遍数学」を試みたことがよく知られている。この点に注目するなら、彼の議論には、プラトンに存在していた運動のイデアを欠いていることになるし、それをハイデガー＝フーコーとの差異として強調することができる。それは、比喩的にいえば基数と序数の差異を強調することである。だが、古典主義時代に注目するフーコーは、「普遍数学」の可能性を知っていたからこそ、その難点を的確に指摘できたと考えなければならない。柄谷のように、「関係」を離れて“もの”があるかのようなカント的な議論とデカルトの数学を混同するくらいなら、フーコーとの共通点を主張したほうがデカルトあるいは数学の理解として精確であると思われる。
</li>
</ul>
<p><div class="post-rl">
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</div></p>
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