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	<title>ex-signe へのコメント</title>
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	<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka</link>
	<description>kio tanaka's website</description>
	<pubDate>Tue, 06 Jan 2009 11:13:25 +0000</pubDate>
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		<item>
		<title>kio より 音楽で革命を起こそう へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html/comment-page-1#comment-33</link>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		<pubDate>Tue, 23 Dec 2008 03:14:44 +0000</pubDate>
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		<description>ふーん。それは知りませんでした。
ちなみに南京大虐殺はあったに決まってます。従軍慰安婦もです。存在／不在を資料で実証することは究極的には不可能だし、逆に言えば、そういう究極的な答えを求めるのであれば、なにを調べても仕方がない。豊臣秀吉は本当は存在していない、だとか「あなた」は存在していない、だとか、そういう究極的かつ形而上学的なレベルでなら議論できるけど、やっぱりしても仕方がない。いずれにしても、「なかった」という議論からは、なにも生まれません。こういう言い方は誤解を生むだろうけど、率直に言って、「ある／なし」はどうでもいいんですよ。「あった」という前提で、問題は、次なんです。つまり「どうするべきか」なんですよ。

デリダ主義の議論がハーバーマスに落ち着くのはわかりきったことだし、そうなると、「なかった」という議論も公共の議論のなかに入れざるを得ない。そういう意味では、上で俎上にのぼっている人の意見は、それなりに真摯なデリディアンだと言えるってことじゃないですか。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>ふーん。それは知りませんでした。<br />
ちなみに南京大虐殺はあったに決まってます。従軍慰安婦もです。存在／不在を資料で実証することは究極的には不可能だし、逆に言えば、そういう究極的な答えを求めるのであれば、なにを調べても仕方がない。豊臣秀吉は本当は存在していない、だとか「あなた」は存在していない、だとか、そういう究極的かつ形而上学的なレベルでなら議論できるけど、やっぱりしても仕方がない。いずれにしても、「なかった」という議論からは、なにも生まれません。こういう言い方は誤解を生むだろうけど、率直に言って、「ある／なし」はどうでもいいんですよ。「あった」という前提で、問題は、次なんです。つまり「どうするべきか」なんですよ。</p>
<p>デリダ主義の議論がハーバーマスに落ち着くのはわかりきったことだし、そうなると、「なかった」という議論も公共の議論のなかに入れざるを得ない。そういう意味では、上で俎上にのぼっている人の意見は、それなりに真摯なデリディアンだと言えるってことじゃないですか。</p>
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	</item>
	<item>
		<title>tyoshinaga より 音楽で革命を起こそう へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html/comment-page-1#comment-29</link>
		<dc:creator>tyoshinaga</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 22 Dec 2008 04:27:58 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html#comment-29</guid>
		<description>いや全然デリディアンじゃないですよ。
田中さんが今こだわっているものとは全く関係のない文脈です。
むしろ、田中さんがデリディアンだと想定されています。
これを参照してください。けど興味なかったら、別にいいです。スルーしてください。
http://coleopteran.seesaa.net/
http://d.hatena.ne.jp/sinnerlife/20081219/1229694524
http://d.hatena.ne.jp/toremoko/

【目撃】東工大授業前の騒動
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128/p1
　　　　↓
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html
　　　　↓
http://www.hirokiazuma.com/archives/000466.html
　　　　↓
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081212/p1
　　　　↓
http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081212/1229060746
　　　　↓
http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213/p1
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081213/p1
http://www.hirokiazuma.com/archives/000470.html
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20081216/1229424581

【レポ】東工大の授業 「ポストモダンと情報社会」2008年度 第09回
http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>いや全然デリディアンじゃないですよ。<br />
田中さんが今こだわっているものとは全く関係のない文脈です。<br />
むしろ、田中さんがデリディアンだと想定されています。<br />
これを参照してください。けど興味なかったら、別にいいです。スルーしてください。<br />
<a href="http://coleopteran.seesaa.net/" rel="nofollow">http://coleopteran.seesaa.net/</a><br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/sinnerlife/20081219/1229694524" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/sinnerlife/20081219/1229694524</a><br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/toremoko/" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/toremoko/</a></p>
<p>【目撃】東工大授業前の騒動<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128/p1" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/toled/20081128/p1</a><br />
　　　　↓<br />
<a href="http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html" rel="nofollow">http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html</a><br />
　　　　↓<br />
<a href="http://www.hirokiazuma.com/archives/000466.html" rel="nofollow">http://www.hirokiazuma.com/archives/000466.html</a><br />
　　　　↓<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/toled/20081212/p1" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/toled/20081212/p1</a><br />
　　　　↓<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081212/1229060746" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/naoya_fujita/20081212/1229060746</a><br />
　　　　↓<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213/p1" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/toled/20081213/p1</a><br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081213/p1" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081213/p1</a><br />
<a href="http://www.hirokiazuma.com/archives/000470.html" rel="nofollow">http://www.hirokiazuma.com/archives/000470.html</a><br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20081216/1229424581" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20081216/1229424581</a></p>
<p>【レポ】東工大の授業 「ポストモダンと情報社会」2008年度 第09回<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/nitar/20081212/p1</a></p>
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	</item>
	<item>
		<title>kio より 音楽で革命を起こそう へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html/comment-page-1#comment-28</link>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 22 Dec 2008 00:57:12 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html#comment-28</guid>
		<description>&gt;ところでこれ読みました？

激しいですね（笑）。デリディアンのようですが、まあ一理あるかと。

ぼくは歴史に埋もれた「痕跡」なしの（ヴァーチュアルな）他者がいることを確信してます。そういう確信なしに、いまや消えかけている歴史上の出来事について判断を下すことは不可能ではないでしょうか。痕跡を残すことにみなさん躍起になってますが、ぼくはその点はもっと絶望しています。歴史の出来事を確定的に存在証明してくれるような痕跡は、よほどの幸運がないかぎり残らない。歴史学者を見てればよくわかる。歴史学は、その本質からいって、どんどん存在をあやふやにしちゃうものです。だけど、それでも大丈夫。痕跡なしの他者が、いるのです。コローのニンフ（妖精）のようなものです（笑）。

痕跡に囚われること、言い換えれば記憶に囚われることは、そうしたヴァーチュアルな他者を見えなくしてしまう。記憶の頚城を逃れる、ポジティヴな「忘却」というものがある、というのがぼくの意見です。

デリダ主義の議論では修正主義者とのやりとりは堂々巡りになるだけのように思います。「痕跡」だって、本当は、治癒のプロセス、つまり新しい経験だとみなきゃいけない。傷の治癒を「痕跡」とみるその視線は、かなりナイーヴなカント主義だと思います。要するに、いったん、「痕跡」からかつての傷を仮構することなしには、「痕跡」という表現はできないんだけど、テクストの外部はない―つまり「痕跡」からかつての傷を仮構することはできない、となる。デリダにおなじみの論法ですが、これって、カントの超越論的統覚と同じじゃん？</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>>ところでこれ読みました？</p>
<p>激しいですね（笑）。デリディアンのようですが、まあ一理あるかと。</p>
<p>ぼくは歴史に埋もれた「痕跡」なしの（ヴァーチュアルな）他者がいることを確信してます。そういう確信なしに、いまや消えかけている歴史上の出来事について判断を下すことは不可能ではないでしょうか。痕跡を残すことにみなさん躍起になってますが、ぼくはその点はもっと絶望しています。歴史の出来事を確定的に存在証明してくれるような痕跡は、よほどの幸運がないかぎり残らない。歴史学者を見てればよくわかる。歴史学は、その本質からいって、どんどん存在をあやふやにしちゃうものです。だけど、それでも大丈夫。痕跡なしの他者が、いるのです。コローのニンフ（妖精）のようなものです（笑）。</p>
<p>痕跡に囚われること、言い換えれば記憶に囚われることは、そうしたヴァーチュアルな他者を見えなくしてしまう。記憶の頚城を逃れる、ポジティヴな「忘却」というものがある、というのがぼくの意見です。</p>
<p>デリダ主義の議論では修正主義者とのやりとりは堂々巡りになるだけのように思います。「痕跡」だって、本当は、治癒のプロセス、つまり新しい経験だとみなきゃいけない。傷の治癒を「痕跡」とみるその視線は、かなりナイーヴなカント主義だと思います。要するに、いったん、「痕跡」からかつての傷を仮構することなしには、「痕跡」という表現はできないんだけど、テクストの外部はない―つまり「痕跡」からかつての傷を仮構することはできない、となる。デリダにおなじみの論法ですが、これって、カントの超越論的統覚と同じじゃん？</p>
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	</item>
	<item>
		<title>tyoshinaga より 音楽で革命を起こそう へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html/comment-page-1#comment-27</link>
		<dc:creator>tyoshinaga</dc:creator>
		<pubDate>Sun, 21 Dec 2008 16:22:41 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html#comment-27</guid>
		<description>どうも、ありがとう。調べていたとはすみません！時間とらせました。花田から見れば、吉本隆明との論争に流れ込んでいくやつですよね。他にも荒正人なんかも加わっている。
花田のやつは全集で読んだなあ。面白かった気がするけど、高見順のは読んでない（笑）荒正人・高見順・埴谷雄高と、一くくりにするのは、理不尽ですね。
面白い視点があるかもしれません。


ところでこれ読みました？
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081219</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>どうも、ありがとう。調べていたとはすみません！時間とらせました。花田から見れば、吉本隆明との論争に流れ込んでいくやつですよね。他にも荒正人なんかも加わっている。<br />
花田のやつは全集で読んだなあ。面白かった気がするけど、高見順のは読んでない（笑）荒正人・高見順・埴谷雄高と、一くくりにするのは、理不尽ですね。<br />
面白い視点があるかもしれません。</p>
<p>ところでこれ読みました？<br />
<a href="http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081219" rel="nofollow">http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081219</a></p>
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	</item>
	<item>
		<title>kio より 音楽で革命を起こそう へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html/comment-page-1#comment-26</link>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		<pubDate>Fri, 19 Dec 2008 17:08:26 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html#comment-26</guid>
		<description>すいません、遅くなりました。放置していたわけではないんですが、調べ直すのが億劫で結果的にはそうなってました。

えー、1955年4月の別巻『文学界』に載った花田の「反俗的俗物」を契機としたちょっとした論争です。そのあと高見は『群像』同年8月号でなんか書いてます。まあ、はっきりいって、ここでの花田はだいぶやばいとぼくは思いますが、世間的にはそうではないようなんだな。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>すいません、遅くなりました。放置していたわけではないんですが、調べ直すのが億劫で結果的にはそうなってました。</p>
<p>えー、1955年4月の別巻『文学界』に載った花田の「反俗的俗物」を契機としたちょっとした論争です。そのあと高見は『群像』同年8月号でなんか書いてます。まあ、はっきりいって、ここでの花田はだいぶやばいとぼくは思いますが、世間的にはそうではないようなんだな。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>tyoshinaga より 音楽で革命を起こそう へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html/comment-page-1#comment-24</link>
		<dc:creator>tyoshinaga</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 06 Dec 2008 05:55:22 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html#comment-24</guid>
		<description>こんにちは。
＞革命芸術と芸術革命についての花田清輝と高見順のくだらない論争

いつ論争したっけ？いわゆる「モラリスト論争」のときかな？埴谷雄高とも論争したときのやつ？</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>こんにちは。<br />
＞革命芸術と芸術革命についての花田清輝と高見順のくだらない論争</p>
<p>いつ論争したっけ？いわゆる「モラリスト論争」のときかな？埴谷雄高とも論争したときのやつ？</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>kio より 鏡像の破れ(ラフ) へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/853.html/comment-page-1#comment-22</link>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		<pubDate>Tue, 02 Dec 2008 11:38:57 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=853#comment-22</guid>
		<description>もうすこし補足（蛇足）します。

＞所詮「出来事」とはキャロルが撮った少女の写真の中とかにしかないのもなのか？あるいは映画や絵画やアートの中しか。「表面から表面」への飛躍とはその程度のものなのか？だとすると「萌え」とどう違うのか？

ではなくて、写真に写った少女は、それ自体が、もうひとりの少女、すなわち少女Dです。少女Cから少女Ｄの移行には、決定的な飛躍がある。すなわち、実態（実体）的な少女はもはや必要がないということ、端的に少女は表面的な存在、すなわち出来事になっているということです。キャロルは、それゆえに、真に芸術＝現実でありうる写真を前にして、ついに「わたしのものだ」ということができるわけです。

そもそも、ぼくたちの誤謬は、出来事が厚みのあるものだ勘違いしている点にある。しかし、厚みをもたらすのは、出来事を記録した、堆く積もったテクストであり、すなわち、テクスト＝歴史の厚みが、極薄の出来事を覆い隠してしまう、と考えます。

したがって、むしろ現実とは、厚みなき、無数の、しかし極薄の出来事によって成立しているのであって、あらゆる芸術の空間は、そうした出来事の層を切り取ることによってこそ成立する。だから、写真の中にしか出来事がない、というのではなくて、少女の真の模造を撮ることによって、キャロルの写真は出来事のシリーズのなかに参入したわけです。キャロルは、一連の出来事から、その一部を奪取した、と考えてもいい。

表面から表面への飛躍とは、もっと恐るべきものです。要するに、出来事にかかわるかぎり、ひとは着地できない（し、する必要もない）、ということを意味します。絶対的な境地にひとは滅多にたどりつけないから、表面的に生きるほかない、という考え方は、端的にロマン主義なのであって、むしろ、《いまここ》が絶対的な境地です。

「萌え」が意味するところをぼくはあまり知りませんが（知りたくもないですが）、アニメのような現実離れした虚構はそもそも問題外。現実離れによってしか成立しないのがアニメだけど、じつは、そもそも現実離れなんて、できないわけで、だから虚構の世界ならなにをやってもいいなんてことには絶対にならないしできないし、そういう観点からしかアートは発生しえない。当たり前のことです。そういう視点をもてば、アニメやマンガだってアートになりうるけど、サブカルをもてはやす似非知識人の理論に納得してるようじゃ、だめです。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>もうすこし補足（蛇足）します。</p>
<p>＞所詮「出来事」とはキャロルが撮った少女の写真の中とかにしかないのもなのか？あるいは映画や絵画やアートの中しか。「表面から表面」への飛躍とはその程度のものなのか？だとすると「萌え」とどう違うのか？</p>
<p>ではなくて、写真に写った少女は、それ自体が、もうひとりの少女、すなわち少女Dです。少女Cから少女Ｄの移行には、決定的な飛躍がある。すなわち、実態（実体）的な少女はもはや必要がないということ、端的に少女は表面的な存在、すなわち出来事になっているということです。キャロルは、それゆえに、真に芸術＝現実でありうる写真を前にして、ついに「わたしのものだ」ということができるわけです。</p>
<p>そもそも、ぼくたちの誤謬は、出来事が厚みのあるものだ勘違いしている点にある。しかし、厚みをもたらすのは、出来事を記録した、堆く積もったテクストであり、すなわち、テクスト＝歴史の厚みが、極薄の出来事を覆い隠してしまう、と考えます。</p>
<p>したがって、むしろ現実とは、厚みなき、無数の、しかし極薄の出来事によって成立しているのであって、あらゆる芸術の空間は、そうした出来事の層を切り取ることによってこそ成立する。だから、写真の中にしか出来事がない、というのではなくて、少女の真の模造を撮ることによって、キャロルの写真は出来事のシリーズのなかに参入したわけです。キャロルは、一連の出来事から、その一部を奪取した、と考えてもいい。</p>
<p>表面から表面への飛躍とは、もっと恐るべきものです。要するに、出来事にかかわるかぎり、ひとは着地できない（し、する必要もない）、ということを意味します。絶対的な境地にひとは滅多にたどりつけないから、表面的に生きるほかない、という考え方は、端的にロマン主義なのであって、むしろ、《いまここ》が絶対的な境地です。</p>
<p>「萌え」が意味するところをぼくはあまり知りませんが（知りたくもないですが）、アニメのような現実離れした虚構はそもそも問題外。現実離れによってしか成立しないのがアニメだけど、じつは、そもそも現実離れなんて、できないわけで、だから虚構の世界ならなにをやってもいいなんてことには絶対にならないしできないし、そういう観点からしかアートは発生しえない。当たり前のことです。そういう視点をもてば、アニメやマンガだってアートになりうるけど、サブカルをもてはやす似非知識人の理論に納得してるようじゃ、だめです。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>kio より 鏡像の破れ(ラフ) へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/853.html/comment-page-1#comment-21</link>
		<dc:creator>kio</dc:creator>
		<pubDate>Tue, 02 Dec 2008 09:55:33 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/?p=853#comment-21</guid>
		<description>たけぴょんさん、浩瀚なコメントありがとうございます。
ぼくは『意味の論理学』はあまりちゃんと読んでないんですけど、引用してくださった部分だけでも、ドゥルーズの言いたいことはだいたいわかります。

まず重要なことは、「なぜ鏡なのか」というたけぴょんさまの問いは、鏡が目的となる点で、誤った問いかけであるということです。重要なことは、鏡に写った像ではなく、鏡に写った像が、なにを意味するか、また同時になにをひとに促すかの方が重要です。

犬Aが、鏡に写った犬Bをみて吼える（犬Cとなる）ように、少女Aは、鏡に写った自分Bをみて髪を結い直し、眉を整え、口紅を塗りなおす（少女C）。つまり、鏡に写った己Bを虚構の己として再認する（A⇒B⇒A'の運動）のではないし、化粧することで、「よそ行き」用に用意された外面を装うのでもない。化粧ということに慣れていない、そしてまた真の意味で化粧することを知っている少女は、ふつう、鏡の前で、さらなる変身を遂げる。第一の表面から、第二の表面へ。それは、物自体に対立する虚構、ホームに対立する「よそ行き」の自分を拵え上げることではなくて、端的に模倣＝差異化の運動です（A⇒B⇒C）。

ドゥルーズの言うのは、たぶんだいたいこんなところでしょう。そして出来事とは、こうした表面の表面上の移行を指す。それに対して、シニフィアンという思考は、どうしても、前もってシニフィエが用意されているという前提を作り出してしまう。古いシニフィアンAから新しいシニフィアンBへの移行が、古いシニフィアンAを遡って（先験的に）シニフィエ（意味）に見せるということです。しかし、もっと根本的に考えると、じつは、古いシニフィアンは、時系列的には、むしろあとから発見される。要するに、古いシニフィアン（シニフィエ／意味）の方が新しいのです。本来の自己＝意味は、むしろあとから見いだされる、《新しい経験》だというわけです。新しい経験、すなわち、出来事です。

シニフィアン＝シニフィエの二重構造はある特別な空間（少女的空間）の中ではシリーズに変換されてしまう。言葉の深層において探られるもうひとつの言葉が「意味」と言われるのだとすれば、言葉から言葉への移行（それは少女たちが交わす音声＝音楽的会話そのものです）は、「意味」を出来事へ変換する。

そして、特別な空間とは、非カント的で、それでいてもっともありふれた空間のことです。出来事は、アートのなかにしかない、ということではありません。というか、その問いかけも、おかしい。むしろ、アートとは、もっともありふれた空間においてしか機能しないものであって、現実に対立する虚構を拵え上げることによっては、成立しないものです。ですから、本来的に、アートとは、出来事のことでなければならない。

したがって、ある営業マンが他社に自社製品を売るということも、そうした差異の実現である場合がある（A⇒B⇒C）し、あるいはマルクス風に流通が抽象化されて、A⇒B⇒A'でしかない場合もある。前者は「よい意味」、すなわち出来事を実現するでしょうし、後者は（悪い）意味、つまり国家市場を形成するでしょう。別に狭義のアートにしか出来事はない、などということはありません。

こんなところでいかがでしょうか。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>たけぴょんさん、浩瀚なコメントありがとうございます。<br />
ぼくは『意味の論理学』はあまりちゃんと読んでないんですけど、引用してくださった部分だけでも、ドゥルーズの言いたいことはだいたいわかります。</p>
<p>まず重要なことは、「なぜ鏡なのか」というたけぴょんさまの問いは、鏡が目的となる点で、誤った問いかけであるということです。重要なことは、鏡に写った像ではなく、鏡に写った像が、なにを意味するか、また同時になにをひとに促すかの方が重要です。</p>
<p>犬Aが、鏡に写った犬Bをみて吼える（犬Cとなる）ように、少女Aは、鏡に写った自分Bをみて髪を結い直し、眉を整え、口紅を塗りなおす（少女C）。つまり、鏡に写った己Bを虚構の己として再認する（A⇒B⇒A&#8217;の運動）のではないし、化粧することで、「よそ行き」用に用意された外面を装うのでもない。化粧ということに慣れていない、そしてまた真の意味で化粧することを知っている少女は、ふつう、鏡の前で、さらなる変身を遂げる。第一の表面から、第二の表面へ。それは、物自体に対立する虚構、ホームに対立する「よそ行き」の自分を拵え上げることではなくて、端的に模倣＝差異化の運動です（A⇒B⇒C）。</p>
<p>ドゥルーズの言うのは、たぶんだいたいこんなところでしょう。そして出来事とは、こうした表面の表面上の移行を指す。それに対して、シニフィアンという思考は、どうしても、前もってシニフィエが用意されているという前提を作り出してしまう。古いシニフィアンAから新しいシニフィアンBへの移行が、古いシニフィアンAを遡って（先験的に）シニフィエ（意味）に見せるということです。しかし、もっと根本的に考えると、じつは、古いシニフィアンは、時系列的には、むしろあとから発見される。要するに、古いシニフィアン（シニフィエ／意味）の方が新しいのです。本来の自己＝意味は、むしろあとから見いだされる、《新しい経験》だというわけです。新しい経験、すなわち、出来事です。</p>
<p>シニフィアン＝シニフィエの二重構造はある特別な空間（少女的空間）の中ではシリーズに変換されてしまう。言葉の深層において探られるもうひとつの言葉が「意味」と言われるのだとすれば、言葉から言葉への移行（それは少女たちが交わす音声＝音楽的会話そのものです）は、「意味」を出来事へ変換する。</p>
<p>そして、特別な空間とは、非カント的で、それでいてもっともありふれた空間のことです。出来事は、アートのなかにしかない、ということではありません。というか、その問いかけも、おかしい。むしろ、アートとは、もっともありふれた空間においてしか機能しないものであって、現実に対立する虚構を拵え上げることによっては、成立しないものです。ですから、本来的に、アートとは、出来事のことでなければならない。</p>
<p>したがって、ある営業マンが他社に自社製品を売るということも、そうした差異の実現である場合がある（A⇒B⇒C）し、あるいはマルクス風に流通が抽象化されて、A⇒B⇒A&#8217;でしかない場合もある。前者は「よい意味」、すなわち出来事を実現するでしょうし、後者は（悪い）意味、つまり国家市場を形成するでしょう。別に狭義のアートにしか出来事はない、などということはありません。</p>
<p>こんなところでいかがでしょうか。</p>
]]></content:encoded>
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	<item>
		<title>tyoshinaga より 鏡像の破れ(ラフ) へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/criticism/853.html/comment-page-1#comment-20</link>
		<dc:creator>tyoshinaga</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Dec 2008 18:24:53 +0000</pubDate>
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		<description>問い：
さらに言えば、岡崎乾次郎は、さらにいう。
以下の文を展開してみよ。

「実際にわれわれが考察し、知覚している空間には、
「鏡」というー世界を本物と偽に分かるようなー超越的な審級も装置もいうまでもなく存在しない。（･･･）
たとえばグラッソとマッテオの関係はたしかに鏡像関係に似ていたが、もっとも確実で本質的な問題は、そこに鏡など「存在しない」ということだった」（『経験の条件』PP264-265）</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>問い：<br />
さらに言えば、岡崎乾次郎は、さらにいう。<br />
以下の文を展開してみよ。</p>
<p>「実際にわれわれが考察し、知覚している空間には、<br />
「鏡」というー世界を本物と偽に分かるようなー超越的な審級も装置もいうまでもなく存在しない。（･･･）<br />
たとえばグラッソとマッテオの関係はたしかに鏡像関係に似ていたが、もっとも確実で本質的な問題は、そこに鏡など「存在しない」ということだった」（『経験の条件』PP264-265）</p>
]]></content:encoded>
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	<item>
		<title>tyoshinaga より 音楽で革命を起こそう へのコメント</title>
		<link>http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html/comment-page-1#comment-16</link>
		<dc:creator>tyoshinaga</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 01 Dec 2008 17:14:34 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.fragment-group.com/kiotanaka/literature/862.html#comment-16</guid>
		<description>小説の続き

Ｃ「この会話はエピクロス派とストア派の必然性と運命の考え方の違いに関わっている。エピクロス派は原因性なき運命、そして自由を、必然性しかあり得ないように見える中で思考しようとする。その音楽家は各原因系列に影響する偏角でもって、物質的原因系列の複数性と偶然を肯定しようとする。だから彼は、音の複数性にこだわるがごとく、反グローバリズム運動に、そしてマルコス司令官に注目する。非常に小さな積み重ねや曖昧さの中でずれていくものを求めようとする。問い続ける身体。あるものを否定して切り捨てていくのではなく、あるものようだけど違うものになっている、ようなことをやろうと未だしている」

「一方、君はストア派だ。因果関係にまったく新しい割れ目を入れようとしている。出来事。言語の使用の問題。使用がなければ、表象は生命と意味を剥奪されたままだ。君は自己自身の肉体において実現することを意志する。「学説は傷以外のどこから出てくるというのか。また挑発的例示によって充電された思弁的逸話でもある死活に関わる警句以外のどこから出てくるというのか」ある出来事を求めた人間は無謀に断言する。「出来事がわれわれに作り出すこの意志に到達すること、これが「世界市民」である」</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>小説の続き</p>
<p>Ｃ「この会話はエピクロス派とストア派の必然性と運命の考え方の違いに関わっている。エピクロス派は原因性なき運命、そして自由を、必然性しかあり得ないように見える中で思考しようとする。その音楽家は各原因系列に影響する偏角でもって、物質的原因系列の複数性と偶然を肯定しようとする。だから彼は、音の複数性にこだわるがごとく、反グローバリズム運動に、そしてマルコス司令官に注目する。非常に小さな積み重ねや曖昧さの中でずれていくものを求めようとする。問い続ける身体。あるものを否定して切り捨てていくのではなく、あるものようだけど違うものになっている、ようなことをやろうと未だしている」</p>
<p>「一方、君はストア派だ。因果関係にまったく新しい割れ目を入れようとしている。出来事。言語の使用の問題。使用がなければ、表象は生命と意味を剥奪されたままだ。君は自己自身の肉体において実現することを意志する。「学説は傷以外のどこから出てくるというのか。また挑発的例示によって充電された思弁的逸話でもある死活に関わる警句以外のどこから出てくるというのか」ある出来事を求めた人間は無謀に断言する。「出来事がわれわれに作り出すこの意志に到達すること、これが「世界市民」である」</p>
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