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	<title>ex-signe &#187; philosophy</title>
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		<title>差延の哲学を越えて――独白は可能か？</title>
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		<pubDate>Sun, 29 May 2011 20:25:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
		<category><![CDATA[différance]]></category>

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		<description><![CDATA[物体をどこまでも分割していく。するといずれは、これ以上は分割できない小さな物体があらわれるだろう。それをデモクリトスは《原子》といった。これは哲学上のひとつの立場であって、無際限に分割できるという立場もありうるが、ともか [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>物体をどこまでも分割していく。するといずれは、これ以上は分割できない小さな物体があらわれるだろう。それをデモクリトスは《原子》といった。これは哲学上のひとつの立場であって、無際限に分割できるという立場もありうるが、ともかく実感しやすいものである。というのも、たとえば紙を手でどんどん細かく引き裂いていくとき、手の大きさに依存した限界が訪れることは明白だからである。しかし、原子という考え方がありうるなら、この哲学上の立場を拡張して、時間を分割していくとあらわれる最小の時間という概念もありうるかもしれない。それをひとびとは《刹那》と呼んでいるように、わたしには思われる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ジャック・デリダは、近代、あるいはプラトンの時代からはじまっているという「音声中心主義」を批判していた。彼のいわゆる音声中心主義、それは、おのれの語る声は、おのれの精神と自己同一的であるという、じつは根拠のない仮定をもとにした、西洋形而上学に特有とされる態度である。しかし、音声には、かならずそれを聞く者が存在する。それを発する口に対して、それを取り入れる耳がある。「自分が―話すのを―聞く」。一見、自己同一的にみえるこの円環のなかに、彼は差異を見出す。この差異を、時間的な延長の意味を込めて「差延」と呼ぶ。音声中心主義は、差延を隠蔽し、内なる他者の、小さくはかない声を黙殺する。わたしの観点からいえば、「自分が―話すのを―聞く」という円環のなかで見出される話す自分と聞く自分とを区別する時間的差異こそ、最小の時間的単位としての《刹那》である。</p>
<p>この観点は、たとえば自民族中心主義を批判できる。たえず内なる他者に耳を傾けるこの観点は、安易な自己同一化を許さず、差異に耐え抜くことを要求する。それはかまわない。問題は、この観点のおかげで、独白がまったく存在できなくなることである。あらゆる独り言を、誰かの耳がたえず聞いている。すなわち、他者であるところのおのれの耳が。自民族中心主義を非難できるのはよいことだが、独白さえ他人が聞いているような国家では、言葉は衰退していかざるをえない。というのも、小声の呟きまで残らず社会化されるような国家とは、自民族のなかだろうが他民族に対してであろうが、とにかく犯罪者を作りだすことが容易な国家でもあるからである。その本質からいって、鼠や猿よりも、蛙や鳥、蝉や蟋蟀に似ている人間は、その特性上、なかなか沈黙することができない。だから、迂闊な思いつきを口にすることさえ憚られる社会において、人間は、おのれが《取るに足らない》者であることを証明するのに躍起になり、ますますくだらないことばかり喋るようになる。差延を可能にする円環のなかで、外部の他者はきわめて遠い存在となろう。おのれの声は、差異を孕んだこの円環から出ることができなくなる。かつて矢の姿をしていた言葉は、円環のなかでとぐろを巻く蛇に変身する。この蛇は人間を騙すことしかしない。たえず孕まれている差異を隠し、かりそめの自己同一性をひとに信じ込ませることしかしない。シニフィアンであるところのおのれの声と、シニフィエであるところのおのれの精神とは、たえず（つねに―すでに）齟齬しており、声はおのれの精神を欺きつづける。そう訴えることが、《差延国家》において罪を逃れる唯一の方策であるように思われる。悪いのは人間ではない、言葉だ。言葉は衰退させられるべき代物なのだ……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>いかにして価値であるような独白は可能なのか。独白の定義は簡単である。他人が聞いていないことではない。他人が言葉を聞くかどうかは偶然に任されていることである。しかし、定義の簡単さにくらべて、独白を可能にするハードルは高い。それは一般的な意味での他人が存在しない場所をみつけだすのが難しいからではなく、《刹那》によって区別される内なる他者は、必然的に存在しているように思われるからである。純粋な独白を可能にするためには、おのれの言葉を耳にするおのれが存在できないような仕組みを考えださねばならない。しかし、それはほとんど不可能であるようにみえる。口と耳の距離は確実に存在するからである。にもかかわらず、われわれは、差延の哲学を乗り越えて、なんとしてでも純粋な独白を実現しなければならない。それだけが、来たるべき国家に対する来たるべき人間の唯一の抵抗となることが、ほぼ確実だからである。</p>
<p>ひとはおのれの声を聞く。差異として聞こうと自己同一性のうちに聞こうと、ひとはすでに差延の泥沼に足を突っ込んでいる。デリダはこの議論を音声に限定したが、声であろうと文字であろうと、それは生じている。自分の書いた文字を読むという行為が、ここ十数年のあいだにきわめて一般化されてきている今日では、より顕著となっていよう（文字の場合は、文字を書くおのれの手と、それを読み取るおのれの眼球とが作る距離が、差延を形成している。これは根拠のない憶測だが、光の速度と音の速度の差異は、眼球と手、耳と口の距離の差異に比例しているかもしれない）。</p>
<p>ひとつのありそうな解決策は、《刹那》を越えて時間は無際限に分割できると考える立場を取ることである。そうすれば、話すおのれと聞くおのれの差異はいずれ抹消できるだろう。しかし、この立場には難点がある。というのも、《刹那》を形成する口と耳の距離は、精神的なものというより肉体的なものだからである。無際限に分割できるという観点は、無限にかかわる以上、有限の肉体にかかわるというより精神的なものである可能性が高いから、この立場で時間的差異を抹消しても、差延は残ってしまう。むしろたんに、肉体上の差異が隠蔽される結果になる恐れがある。したがって、肉体あるかぎり、《最小の時間は存在する》。《刹那》は保持されねばならない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>わたしはここまで、差延と《刹那》を曖昧に扱ってきた。だが、これからはできるだけ明確に区別することにしよう。個体の内部で発生する精神的時間にもとづく差異を「差延」と呼び、《刹那》は肉体的・物理的な時間の最小単位に充てる。というのも、デリダの概念は、どう考えても内部と外部の質的区別を前提しており、しかももっぱら差延は精神的なものとして扱われているからである。たとえば人種と異なる「民族」は、血液よりも歴史によって定義される。差延の指摘が自民族中心主義を否定できるなら、それは自動的に精神上の問題に向けられていることを意味している（その点を敷衍していうと、重力のように純粋に物理的に定義された概念を差延によって覆すことは困難だろう）。というか、差延こそ精神なのだ。おそらく、《刹那》はかえって独白の条件となるだろうはずのものである。</p>
<p>さて、いまやとるべき方策はひとつしかなかった。《刹那》を細分化し抹消することは、死ぬか、精神の世界に引きこもるか、そのいずれかをしないかぎり、われわれには不可能である。したがって、生きている人間にできることは、肉体的・物理的な《刹那》を保持しつつ、精神的な差延を抹消することである。すなわち、世界を内部と外部に分割し、内部を防衛する（＝外から隠す）皮膚を取払い、皮膚によって可能になる屈折した精神を発生させないようにすることである。皮膚のなかにあるのは、精神ではない。脳や神経、心臓である。肉のなかには肉がある。ある種の――たとえばレオナルド・ダ・ヴィンチのような――解剖学者のように、精神を肉に生成させ、同じことだが、外部に投擲したおのれの声のうちに、精神を残らず投げ渡すことである。小林秀雄の表現を借りれば、自意識の球体を破砕することであり、もっと簡単にいえば、《自分の欲望に正直に語ること》である。内部を裏切る外部、外部を裏切る内部。内と外とを分つ皮膚を取り払うなら、言葉は欲望と等しくなる。そのときにだけ、言葉は独白の権利を得る。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>独白とは、どのような言葉だけが、そう言われうるのか。――内部と外部とによって形成されるおぞましいほどねじれた円環を切断すれば、時間は一本の矢となる。言葉はそこでは、共有することのできぬ《刹那》によって分たれた彼岸の住人に向けて飛ぶ、一本の矢となる。矢は時間を過去と未来とに切り分けながら飛ぶ。矢は内から外に向けて放たれる――というより、矢にとって、おのれの進む方向が外である。すなわち、別の《刹那》、未来のおのれに向かって飛ぶ矢こそ、もっとも純粋な、唯一の独白である。おのれを未来のおのれに向けて跳躍させる言葉こそ、真の意味での独白である。ひとは夢を語る。現在のおのれを鼓舞し、未来のおのれに向けて語られる約束として。この約束に向けてひとが真剣に努力しているかぎり、それは独白でありつづける。そうありたいと望む言葉にむけて、おのれが努力しているとき、それこそが、唯一可能な独白なのである。</p>
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		<title>皮膚としての国家――独白は可能か？（カント・フロイト・デリダ）</title>
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		<pubDate>Sat, 28 May 2011 18:00:13 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
		<category><![CDATA[Freud]]></category>
		<category><![CDATA[Kant]]></category>

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		<description><![CDATA[独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわされる会話だろうと、ある種の公共性を欠いたお喋りであるなら、それは独り言と同じなのだ。だが、その場合、「社会」をどのように定義するかによって得られる回答が変わってしまうという難点がある。とりわけ「社会」は、論者によって使用法が異なるきわめて多様な概念である。この難点を避けたいのであれば、独白、すなわちひとりで語ること、という用語に内在的な意味内容に即して、この状態がどのようなものかを考えていかねばならない。またこうした考え方のもうひとつの難点は、この定義によって生じる独白には、まったく価値が認められない点である。社会的に認められないような言葉は、当然価値がない。したがって、そもそも独白について考察を巡らせることに積極的な意義が見出せなくなってしまう。</p>
<p>さて、独白について思考を巡らせるとき、思い至るのは、この相手のいない言葉には偽がありえないということ、したがって偽と対称的な真もまたありえないということである。真か偽を判断する他人が存在しないからである。独り言で、自分を偽るひとはあまりいない。というか、偽るという観点そのものが出てこない。それはすべてが自分の考えの表明であって、嘘であるとか真理であるとかそういう判断や審判とは無縁の状態にある。</p>
<p>ふつう、自分を偽るのは他人と接するときである。内心疲れていても大丈夫と口にするとき。楽しいわけではないのに笑顔を作ってみせるとき。独り言にもかかわらず自分を偽るとすれば、それは意識的にせよ無意識的にせよ、おのれの言葉を聞く内なる他者が、おのれのなかにいるということである。また同様の観点から、自分の独り言を疑うときには、すでに話す自分とそれを疑う自分との対話がはじまっている。この告白者はおのれをひとつの人格に纏めきれずに、対話の状態に留め置かれている。この対話を独り言ということはできない。</p>
<p>そう考えると、独白はきわめて困難になる。多くの場合、ある時点での自分の独り言を、別の時点の自分が聞いているからである。ジャック・デリダのいわゆる「自分が―話すのを―聞く」、それはこうした状態についての優れた考察である。デリダは独り言とふつう考えられているもの、つまり偽であるとは考えられないような自己同一的なもののなかにさえ、差異を見出していく。それは話す自分と聞く自分の時間的差異によって規定されている。時間の最小単位である《刹那》を同じ存在が分け合うことはできず、《刹那》にしたがって存在はたえず分割されている。こうした差異を、時間的延長の意味を込めて、彼は《差延》と呼んでいる。</p>
<p>われわれは皮膚によって外界と隔てられている。皮膚の外に出た言葉は、どこかで折り返して耳から再び自分の体内に入ってくる。内と外を隔てると同時に繋いでいるこの皮膚が、独り言をほとんど不可能にしている原因である。思えばカントは内なる理性の世界と、外なる感性の世界を悟性によって区別していた。われわれの皮膚は、言葉にとっての悟性のはたらきを担っている。</p>
<p>皮膚としての悟性は、内からの刺激と外からの刺激を区別する。したがって、内（口）から外に向かって示された言葉は、外から内（耳）に向かってやってくるこの言葉を別のものとして把握する。皮膚は、もっぱらこれらの同じ言葉を区別するのであって、どちらが正しいかを判断するのではない。悟性からすれば、感性にせよ理性にせよ、一方が他方に優越するというわけではない。ただただ差異として区別される。悟性にとって、問題は外なる他者だけではない。内なる他者もまた問題である。</p>
<p>かつてなら、内なる精神世界の他者を神として超越させておけばよかった。あるいは精神世界の神を投影した物神を崇めていればよかった。神の超越を前提できぬ近代において、この手は使えない。しかしこのままでは分裂病を発症する。そこでひとまず理性に仮の高い地位を与える。それが、理性の《超越論的》といわれる状態である。超越論的理性は感覚によってはあらわれない神を仮象として悟性に提示する。悟性はただちにこれを感覚の世界にはありえないものとして否認するが、これを《超越論的に》に認める。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>皮膚によって、ひとは独白が不可能な場所につねに-すでに、投げ出されている。皮膚によって、ひとはつねに-すでに、他者とのコミュニケーションを強いられている。皮膚のおかげで、ひとは一人でありながら複数である。ひとりでいながら、共同体を形成する。つまり、悟性としての皮膚こそ、近代における国家にほかならない。</p>
<p>皮膚としての国家は、分裂病をわずらっている。国家は、内側では内なる他者の声に耳を傾け、外側では外なる他者の声に耳を傾ける。二つの声が対立していたとしても、この国家にはせいぜい、いずれにせよ頷くことはできても、面と向かって反対することはできない。この国家は、誰に対しても本音を隠しながら、相槌を打つことしかできない。彼は判断しない。区別する。彼は審判しない。認識する。《超越論的に》、内なる他者、すなわち国民の声を重要視する《ふり》をするが、外なる他者に対しても、同じような態度を取ることしかできない。かならずしも現実の外部そのものとはいえない、おのれの皮膚感覚のなかで、それを肯定する《ふり》をする。皮膚としての国家は、ついに本当のことをいうことができない。</p>
<p>皮膚とは、フロイトがいうように、外的な刺激の防衛機構である。皮膚という防衛機構をとおしてしか、外からの声が内に伝わることはない。また逆に、同じく皮膚としての防衛機構をとおしてしか、内からの声が外に伝わることもない。言葉はかならず媒介され、屈折する。</p>
<p>この国家は内に対して正直であれば外を裏切り、外に対して正直であれば内を裏切る。皮膚としての国家はいつも誰かの期待に応えようとして、誰かを裏切ってしまう。誰かを裏切ることなしに言葉を口にすることができず、嘘を吐きつづけるか沈黙するかの二者択一しか、彼には残されていない。</p>
<p>皮膚としての国家は防衛する。内部を守るために、あるいは外部を守るために、彼は嘘を吐きつづけ、それができなければ、やはりそのいずれかを守るために、沈黙する。皮膚は独白を憎んでいる。真偽の問いから離れたところで語られるという独白など、どうしようもないロマンティシズムに思え、独白に他者の存在を気づかせたがっている。言葉は本質的に嘘であることを教えたがっている。赤裸な他者を互いから隠すためにそれを嘘で塗り固めるか、あるいは沈黙によって覆い隠す。内部を防衛し、外部に取り繕うための嘘を手放すことはできなくなっている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>皮膚は独白を憎んでいる。独白が不可能なことを、独白は知らないからである。われわれは独白とはなにかと問うた。そこで独白は無価値であるか、それとも不可能であるかの、二つに一つだった。しかしわれわれは、いかにして価値であるような独白が可能なのかと問わねばならなかった。</p>
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		<title>古典主義について（新しい建築家のために）</title>
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		<pubDate>Thu, 05 May 2011 13:16:04 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>

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		<description><![CDATA[黄砂のなか尾道を旅した。志賀直哉に会いに出かけたのだが、それ以上に、いま日本で起きている騒動が重なった。瀬戸内のあのあたりは元来災害の少ないところときいている。だがもし津波がくれば、あの不思議なまちは元通りにならないだろ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>黄砂のなか尾道を旅した。志賀直哉に会いに出かけたのだが、それ以上に、いま日本で起きている騒動が重なった。瀬戸内のあのあたりは元来災害の少ないところときいている。だがもし津波がくれば、あの不思議なまちは元通りにならないだろうと思った。あのまちに残された文学の痕跡を誰が受け継いでいるかと思ったからだ。</p>
<p>駅の南側は再開発されて真新しくなっていた。大規模な災害でもおこれば、いまやあの調子で再建するほかないのだろう。便利だが魅力はない。魅力より便利が優先される昨今だが、ならではの魅力を捨て去るならひとは旅などしなくなる。旅の概念は消滅する。それ以上に、あの手の硬直した「利便」がかのまちにある必然性がない。けっきょく、ほかのまちと同じことができるのを「利便」といっているだけで、本当に便利なのではない。不思議なもので、観察のツールであるはずの経済決定論を延々と論じつづければ、本当にこのシナリオに沿った茶番が演じられる。原発の周囲に、基地の周囲に、金がばらまかれる。ひとは金をみてよろこぶ演技を強いられる。要するに、観察のツールというより、支配装置である。</p>
<p>かつて文化はナショナリズムによってねじまげられた。いまでは経済によってねじまげられる。マルクス主義がなくなって、裸のマルクスがあらわれるかと思いきや、あらわれたのは裸の経済決定論である。この概念を発明したのはマルクス主義だが、主人がいなくなって、この概念は我が物顔で反り返って歩いている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>残すべき古典があるというより、残される偶然を愛顧することが日本の文化である。</p>
<p>わたしは戦後の近代主義より戦前のそれを愛するが、それは戦前のひとびとがヨーロッパを永遠の真なるものとして認めていたというのではなく、かの地域を、中心（中国）を喪失した世界という現実の比喩として眺めていたからである。古典とは、空間的にも時間的にも完全に隔てられた時代の作品がタイムマシンでも使ったかのように、いまに残っていることである。もはや同じものの再現は不可能であり、現代は、それを崇めるより利用し奪うことを選ぶ。もし古典主義が古典に対する拝跪でなく現代を肯定するための主張というなら、戦前の近代主義は、まさしく古典主義的だった。</p>
<p>ヨーロッパの古典主義は、独自の科学と芸術とを爆発的に開花させた。近代日本人にとっての古典はヨーロッパであった。そして実際に独自の科学と芸術とを開花させた。古典主義者は知っている。芸術が模倣にすぎぬことを、そして芸術がけっして模倣に終わらぬことを。この不思議な智慧は革命に似ている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>古典を第二の自然とみなす精神こそ、古典主義の精神である。「第二の自然」はただの自然でもないが、ただの人工とも異なる。この感覚が、古いものも新しいものも生かす精神に結実する。ひとはたえず「第二の自然」を生み出す。それを文化と呼ぶときがあるが、この場合の文化は自然とは対立しない。</p>
<p>戦後の近代主義はこの感覚を失う。アメリカも加えた西欧を、けっしてたどりつけぬ普遍的な理念の象徴として理解するようになる。彼らは戦前よりもよほど正確にヨーロッパを知っている。知っているがゆえに、ますますたどりつけなくなる。かつてほとんど知る由もないがゆえに、たどりつくことが夢と同義だった時代とは異なっている。たとえば自然なプロセスを経てたどりついた欧米の民主主義を、「上から」人工的に植え付けた日本の民主主義に対置する。この観点では文化はついに育たない。すべては模倣に終わり、文化は紛いものとなる。文化を《紛いものとして肯定する》屈折した身振りしかとりようがなくなってくる。</p>
<p>真なるもの、あるいは一なるもの。これと紛いものを対置させる戦後の近代主義では、文化はついに紛いものにしかなれない。ギリシアや中国のような起源を追い求めても、けっきょく模倣すらできぬ。それを否定的にとらえ、おのれをせいぜい第三のものと定義する。たとえば作品に対する「批評」がそうだ。芸術作品が自然の模倣なら、批評はまさに《第三のもの》だろう。</p>
<p>だが、自然の模倣を「第二の自然」という言いかたで肯定する古典主義において、あらゆる人間の行為は「第二の自然」と呼ばれることになる。人間のすべての営為が「第二の自然」なのだから、いたずらに起源を遠くで崇めるばかりでは能がないと、むきだしの現実に到達することの不可能性を強調するばかりでは能がないと、ひとは気づくことになる。起源あるいは中心は崩壊し、この崩壊のかわりにひとつの芸術作品が置かれることになる。それが古典である。古典はいわば「現実」と呼ばれていたものの崩壊のしるしであって、このしるしは世界そのものが虚構であったことをしるしづけている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>正確な情報が必要なのではなかった。行為に至る勇気を必要としていたのだった。戦後の近代主義が弁証法的だとすれば、戦前の近代主義は螺旋的だった。あるいは古典主義的だったのである。</p>
<p>人工物として作品をつくるのではなく、たんに自然と同義のものとして作品をつくるのでもない。「第二の自然」として作品をつくる。そのことが本当の意味での文化を育む。残すべき古典などはない。作品が残るか否かは、でき不出来とは無関係である。この偶然を受け容れられる作品こそが、よい作品である。ものはなくなる。しかし精神は受け継がれる。ものは消え去る。だがその残像は別のものに投影される。その一連の流れこそ精神である。それが「第二の自然」という概念の意味である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>瀬戸内をのぞむ住吉神社に、「力石」と呼ばれる石が積まれていた。かつて怪力を誇った力士たちの持ち上げることができた巨石に、持ち上げた者の名が刻まれている。経済決定論、あるいは功利主義とはまったく異なるその行為こそが、文学だった。石に刻まれた力士たちの名は一編の小説であって、それが建築という概念の意味である。そして力石がいまではひとびとの財産となっている。この意味を理解する建築家がいまどれほどいるか。</p>
<p>戦前の建築家と戦後の建築家を比較したとき、相対的に欠けているのは、「第二の自然」として作品をつくりあげようとする意志である。だからわたしは危惧しているし、悲観している。これから国を挙げて行なわれる「復興」が、奇怪なものになること、怪物を生み出すだろうことを。</p>
]]></content:encoded>
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		<title>言葉の肉体（猫は死んでいた）</title>
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		<pubDate>Sat, 30 Apr 2011 16:34:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>

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		<description><![CDATA[原子炉のなかに、「安全」という名の猫がいる。原子炉を開けることはできず、開くとすれば、原子炉が事故で爆発するときだけだ。さて、「安全」はこの原子炉のなかで生きているだろうか、それとも死んでいるだろうか。もちろん、中を開け [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>原子炉のなかに、「安全」という名の猫がいる。原子炉を開けることはできず、開くとすれば、原子炉が事故で爆発するときだけだ。さて、「安全」はこの原子炉のなかで生きているだろうか、それとも死んでいるだろうか。もちろん、中を開ければ答えは出るが、開くのは爆発するときであって、この爆発はかならず「安全」を死に至らしめる。それでは問いがなりたたない。問題は、中を確認することなく、猫が生きているかどうかに答えを与えることである。</p>
<p>日本人は四十年間、この問いをめぐって生活してきた。事故が起こるまではたしかに「安全」は生きていたと、原発推進論者は強弁するかもしれない。この事故は「未曾有の災害」と人間の堕落という例外が引き起こしたのであって、本来はこんな事故など起こらないと、自らの堕落を動かぬ証拠に強弁するかもしれない。思えば彼らは、チェルノブイリで起こった事故を社会主義国家が引き起こした例外と考えてきたのだ。この強弁がなりたつなら、あらゆる事故は人間の不注意が引き起こす例外だろう。事故は例外であって現実的ではないのだから、現実的にやれば、これまでもこれからもずっと「安全」と言い張ることのできる奇怪な論理がなりたつだろう。だが、この問いは、どうしても、猫が死んでいるほうに賭けた原発反対論者に歩がある。なぜなら、《猫がただ生きていることは真の意味で猫が生きていることを保証しないからである》。猫はどこかでかならず死ぬが、そのことを考える必要はなかった。ふつうに考えれば猫は死んでいるか生きているかだが、ここではそのあいだの状態が発生している。死んでいたとしたら死んでいるわけだが、生きていたとしても死んでいるからである。つまり猫はこの実験がはじめられた瞬間に死んでいたのである。仮に俗に好まれる９９パーセントという表現をさらに超えて１００パーセント事故が起こらない、つまりありとあらゆる人間の想像力を動員して事故の可能性をすべて潰しても、事故は、いつも人間の想像力の外からやってくる。別のいいかたをすれば、統計の範囲を決めるのは、人間ではなかった。</p>
<p>想像を絶するもの、ひとの認識が及ばぬものに対してさえ、ひとの知は向かっていく。不可知のものにこそ抱く欲望、この欲望が本当の知のはたらきである。この欲望があったればこそ、われわれは《原子力の平和利用》という、いまではまったくの語義矛盾にみえる、そして原爆に苦しめられた歴史的経緯をふまえれば諸外国に対して説明困難な蛮勇を奮った。事故は１００パーセント起こる。そしてにもかかわらず戦後のひとびとはこの無謀に手を出した。しかし彼らの蛮勇は、この無謀に向けられていたのではない。もともと彼らは安全かどうかを問題にしていたのではなかった。彼らが直面していたのは次の問いだ。《前に進むか、その場にいるか》。そして彼らは前者に賭けた。未来という不可知の闇に向かって進むことに賭けたのである。</p>
<p>だが、この問いはその後、すぐに変質した。原発ができるやいなや、この施設は《安全か、危険か》という動きの少ない問いに変わった（そして現代という時代は多かれ少なかれこうした問いの変化に直面している）。そして不思議なことだが、原子力の平和利用に勇気とともに踏み出したひとびとは、かえってこの問いに危険と答えただろう。そしてこの古い発電所をただちに閉鎖すべきと答えただろう。なぜなら、古い発電所を維持することは、その場にいることであって、前に進むことではないからである。前に進むことを前提に、彼らは炉に火を入れたのだ。一度火をつければあとは勝手に運動をつづけるこの発電所の奇怪さは、最初に必要な勇気を支払いさえすれば、つづけることになんら勇気を必要としないことであり、つづけるより止めるほうがはるかに高い勇気が必要なことである。昔のひとには踏み出す勇気があった。あらゆる計算可能性、１００パーセントの外にある出来事に思いを馳せる同じ蛮勇があれば、この事故はなかった。はじめたときにもっていた勇気を、終わらせるときには持たなかった。かつての戦争のときのように、希望的観測を重ねて幻の土台を設け、問いのはじめに引き返すことを不可能にするおぞましい利権構造を作り上げた。人間の堕落は、安易な希望とともにはじまる。そして記者会見に出てくる連中が累々と重ねる無意味な希望的観測の束は、そうした堕落の正確な表現である。</p>
<p>われわれが困難であると学んだのは、希望的観測に塗れた世間のなかで、ただひとり、まったく同じ観測結果から絶望を引き出すことである。絶望のなかで希望するよりも、希望のなかで絶望することのほうが、ずっと困難なのである。絶望より、希望を教えたいと誰もが思う。絶望より、希望を学びたいと誰もが思う。ひとは絶望を学ばず、絶望を教える者を忌み嫌う。希望と絶望とを天秤にかけ、それらが釣り合ったら、ひとはどうしても希望のほうに有り金をつぎ込む傾向がある。この傾向が事故を招く。</p>
<p>だが同時に、この傾向が、事故や災害から何度でも立ち上がることのできる《エネルギー》になる（物理学の用語を離れていえば、《勇気》になる）。結局、いつもひとは希望している。絶望することはできない。だから、「絶望する」、とは、ある深刻な態度、危機意識の高まりの比喩である。したがってこの比喩を反転させても《よい希望》にはならない。危機意識の反対は暢気であり、深刻の反対は浅墓である。あらゆる災厄を詰め込んだパンドラの箱に入っていた希望もまた、洪水に似た災厄のひとつであり、リウマチや痛風に似た病であることを知らねばならない。現実にできることは、希望の質を問うことである。おのれを立ち上がらせるエネルギーとしての希望なのか、それともおのれを安心させ、その場から動かずにいることを教える希望なのか。なにか別のものに変換可能な力をエネルギーと呼ぶ。かつて原子力の平和利用に人びとが手をつけたとき、宗主国アメリカからの指令や、戦前の論理を残した古い政治家や、旧財閥の執着をひきずった財界や産業界の思惑が絡まり合っていたにせよ、世の中が相対的によりよくなると信じ、ひとをして「第三の火」に踏み出させるエネルギーを、たしかに原子力はもっていたのである。だがいま、廃墟と化した発電所で、なにものにも変換できない得体の知れぬ力を放出する核燃料は、もはやエネルギーではない（あるいは悪いエネルギーである）。希望はよいエネルギーにも、悪いエネルギーにもなりうる。そのことに注意を向けねばならない。よい希望、よいエネルギー、すなわち自らをなにか別のものに変えることのできる力を、探さなければならない。わたしがずっと探していたのは、この精神のエネルギー、言葉である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>日本の政府をはじめ、原発の管理責任者である電力会社、安全を監視する役割を負った官僚。彼らの会見がはじまった当初から、誰もが真実を語ることを避けているようにみえた。まるで真実を語ることが事故を大きくするといわんばかりに、彼らは真実を小さく見積もることに全神経を使っていた。嘘を云うのではない。むしろ大きな事実を隠すために、小さな事実を語っていた。別のいいかたをすると、絶望に背をむけた希望的観測だけを語りつづけた。そうすることで事態が収拾されると考えているかのように言葉を用いていた。言葉はずっと、現実を隠蔽するために用いられていた。</p>
<p>媒介を通して言葉を用いることに長けた、非常に近代的な存在である彼らは、言葉をリプレゼンテーションとして用いる。現実と言葉とが直接には切断されているという近代のテーゼを悪用し、ますます言葉を現実を隠すために用いるようになる。彼らはメディアと口裏をあわせ、こっそり「わたしはそう思う」「わたしはそう思わない」を紛れさせる。「わたしにはそう見えた」「わたしにはそうは見えない」を紛れ込ませる。見ないことと見えないこと、聞かないことと聞こえないこととをわざと混同する。そうすることで《客観性》を仮構する。勇気をもって、《わたしはそう思う》のひと言を口に出して云えない。むしろこの言葉を逃げるために用いる。そうして言葉から力を失わせる。現実と乖離した言葉こそ風評というなら、一連の記者会見こそ、彼らが理由を隠して恐れている風評の最大の源ではないのか。</p>
<p>原発の推進を即座にやめる。この言葉を記者会見に出てくる連中は恐れている。ある者は生活がかかっているからだが、ある者はアメリカを恐れているからだ。アメリカに相談もせず、やめるかどうかを自分たちだけで判断することなどできない。だから注意深く、原発の即時停止に向けた動きが世間のあいだで盛り上がるのを監視している。話がそちらに向かないように、慎重に言葉をコントロールしようとしている。沖縄の基地問題でアメリカに従うことを選んだ日本の国民は、また今度も、アメリカの要求に従うのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>原子の崩壊が発見され、光が波でも粒子でもあることが発見されたこと、要するに量子力学の誕生は、すべてを計算可能性のなかに組み込むことができるという近代統計学の想定が打ち破られたことを意味していた。近代科学者によって発見された原子力は、まさに近代的前提に対する致命的な一撃だったのである。量子力学とは、いわば事故の統計学であり、けっして起こらぬことの起こりうる確率論だった。だがそのことを知らぬ《経済》と《政治》とが、この力を近代的枠組みのなかで用いる。近代を象徴する蒸気機関とダイナマイトの延長上、すなわち原子力発電所と原子力爆弾である。身の丈にあわぬ小さな衣服はむしろ彼を寝かしつけるための拘束具であり、結局、近代には彼をまともに働かせることができた試しはほとんどない。</p>
<p>潰瘍としての進歩主義がある。この主義は、ひとに前に進むことを促すのではなく、できあいの流れに乗ることを促す。この潰瘍は、いまでは核燃料として結晶した。近代が生み出したこの概念は、人類の未来に無限の期待を抱くと同時に、未来の人間に無限の債務を負わせる困った思想である。この潰瘍は、いまや二万四千年の未来に転移している。原子力の平和利用が実行に移されるかどうかは、科学技術の問題ではなかった。科学技術的には、同時期の人類にコントロール可能なものではなかったからである。それは、「人類は今後も進歩しつづける」というイデオロギーを受け容れるかどうかという、ひとの精神の問題だった。</p>
<p>悪いポストモダニズムは進歩に対する諦念を教える。高みに登るよりフラットでいることを教える。しかし、もとより「進歩主義」など存在しなかった。人類の進歩など、今際の際にあるなにもできなかった人間が苦し紛れに吐く遺言の類いであって、たえず前に進む現実をおのれが是とするのか、それともおのれの抱く観念のなかで後戻りするのか、結局はおのれの態度ひとつである。つまり本当の意味で前に進むためにこそ、この概念は批判されねばならなかった。</p>
<p>しかし言論の自由は、人類の進歩を前提としてはじまったではないか。たしかに何でも語れるならば、それは素晴らしいことだ。だが卑しい民は、口を開かせれば卑しい言葉を使う。何でも語ると称して口汚い罵り言葉ばかり覚える。「自由に語る」ことを、美しい言葉を自由に操ることとは考えない。云うべきでないことをあえて云うのが自由と考える。嘘をつき、現実と乖離した言葉を用いても気に留めない。《ふさわしい》という概念を理解しない。いちいち現実を気にしていたら不自由ではないかとまちがって考えている。だがそれでも、言論の自由に賭け、下手な言葉を連ねるお前は人類の進歩に期待したのではないのか。</p>
<p>そういう傾向はたしかにある。そしてその傾向がますます強まっているようにみえることもたしかだ。だが、わたしはともかく、文学者は人類の進歩に賭けたのではない。貧しくても美しいほうを選ぶのか、それとも豊かだが醜いほうを選ぶのか、こういう二者択一はばかばかしいと考えたのだ。豊かさと美しさが一致する世界で言葉を紡ぎたい。つまり膠着した二者択一の一方を捨てつづけるような世界を別のものに変えたい。子どもがなんの気なしに口にする囃子詞のなんと自由であることか。森に遊ぶ子どもたちの喧嘩が大人の頬を緩ませる、たしかに罵詈雑言、しかしなんとリズミカルなことか。前に進むとは、理想のために現実を犠牲にすることではない。現実の錯雑にさらなる錯雑を加えることであり、言葉は数多の可能性をひとつの理想に収束させるのではなく、可能性にさらなる可能性を加えていく不思議な理想を実現していく。あるものが別のものとなり、もとのものも新しいものもそれぞれが生きているような、つまりどこにでも接続可能なある種のリーマン空間。道筋はあってもけっしてひとつに決まっているのではなく、なにかがなにかを代表しているのでも、表象しているのでもない。むしろそれはひとつの変容であって、それこそ生きた言葉、すなわちエネルギーの真のあり方ではないのか、と。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>われわれはまだ、記号論からの回復に成功していない。言葉を「意味」と記号の組み合わせにおいて把握し、言葉と現実の紐帯を「意味」によって切り離す記号論の傾向は刻一刻と顕著なものになっていて、一度でも言葉に対する懐疑が起動してしまえば、並大抵のことではこの流れを押しとどめることはできなくなる。言葉は観念と同義になり、観念論の批判が誤って言葉そのものに向けられてしまう。言葉の彼岸に現実を置き、言葉で介入するよりも、間遠い現実を崇めるだけの貧しい言葉を選ぶようになる。現実が言葉を裏切ることを正しい実験結果と考え、その言葉が実験にふさわしいものだったか吟味しない。間違うほうが簡単なこの世界では、ふさわしい言葉こそひとを欺くリプレゼンテーションといわれ、まっさきに文学者が非難の対象となる。言葉と現実のあいだに深い断絶を認めることこそ現実へのこのうえない敬意とみなされ、ひとにはもはや沈黙しか選択肢がない。かくしてニヒリズムのうねりが津波のように押し寄せている、それが現代である。</p>
<p>言葉はかつて肉体であった、意味ではなく肉体であり、むしろ赤子がこの世に生を受けてはじめて吸いこんだ息こそ、言葉であった。言葉もまた力であって、それもなにかを変容させる力であった。変えることを許さぬ力を権力といった。日常こそ危機と感じている文学者は、この危機の時代にますます平静を得て、いつものように、波の巨大な堆積に抗して言葉を訥々と紡ぎつづけた。世界を変えるために、彼はおのれを変えた。自らの手で、おのれの活動エネルギーを生み出した。それが進歩の、つまり自分の足で歩くことの、必要な条件であった。</p>
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		<title>正義と文学、高さをいかに実現するか</title>
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		<pubDate>Thu, 27 Jan 2011 12:53:03 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Anarchism]]></category>
		<category><![CDATA[Foucault]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>

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		<description><![CDATA[アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない（作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない（作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せている）。マルクス主義にせよ、ポストモダニズムにせよ、（新）自由主義に対抗するフラットネスに可能性を見出す議論に比べると、アナーキズムには「高さ」の概念が目につくのだろう。</p>
<p>しかし、「高さ」の概念を解消するフラットネスだけでは、どうしても有機体の概念に引き寄せられてしまう。完全に上下関係を欠いた状態でなんらかの秩序を実現しようと思えば、なにか別の要素を付け加えざるをえないからである。有機体（あるいは弁証法）は、絶対主義的な国家とは異なる《自然な（科学的な）秩序》を社会に導入しようとする際に持ち出される。その有機体や弁証法に対して、アナーキストは否定的である。有機体というよりは、個人のなかに不均質な「高さ」を認める（たとえば「戴冠せるアナーキスト」）ことで、それに変えようとする。アナーキストが導入する「高さ」の概念は、有機体なしに済ませるためのひとつの条件である。この「高さ」が、ひとによっては保守的に見えてしまうのだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>平面的なデータの集積である実証主義（科学）を担保しつつ、そこに擬似的な高さを与えようとしたのがカントである。神の喪失。それは、まさにフラットネスの到来である。逆説的にも、それは今日、さまざまな形で持ち出されるフラットネスよりはるかに深刻だったはずだ。それに対してカントがひねり出した結論は、《超越論》である。彼はあるかなきかの精神を宙づりにすることで、それに答えようとするだろう。</p>
<p>暗にフラットネスを認める《超越論》と比較すると、《崇高》は、そのはるか上空にある。それは、観念的理想的にもたらされたフラットネスを打ち破る《もの》の高みだからである。本来なら、カントの試みは逆転せざるをえなかったはずだ。データを集積する実証主義とそれに価値を与える超越論は、ここで何らかの形で塗りかえられざるを得なかったはずだ。</p>
<p>ニーチェの世界は、はじめからここにある。したがって、彼は、一度「没落」せねばならなかった。高みから降りるところから、ストーリーは始まる（そして彼はストーリーの要所要所に垂直の運動を配置することを忘れない）。この観点からいうと、昨今喧しい議論のどこが新しいのか、面白いのか、よくわからない、というのが率直な感想である。二十世紀末以降のフラットネスと質は異なるとはいえ、その衝撃からいえば匹敵するかそれ以上のフラットネスを、十九世紀の社会はすでに経験している。実証主義という用語がナイーヴな「データベース」という用語に変わった以外は、とりたてて新しい事件だとはいえない。もちろん、部分的には面白い議論もみられる。だが、なぜそのゴージャスな議論をそんなところで拙速に使ってしまうのか、という感が否めない。エウリポスの激流をさらに混ぜ返す無意味を、そこに付け加えることにしかならないのは明白ではないか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>実証主義が集積する個々のデータには、実際には均一でない高さが内包されている。これが主体と呼ばれるものの実質である。この高さをデータから切り離し、統計的に平均処理したものが国家と呼ばれる。差異を統計的に平均化（フラットに）する手法を学んだ近代国家は、ある程度の逸脱ならば、むしろ自覚的に遊ばせておくことを選ぶ。健全な状態では、（国民）国家はむしろそれによって力を増す。これを自由主義という。</p>
<p>ある程度まで「高さ」を許容するこうした主張を貫き通せるのは、一部の覇権国家のみである。というのも、この議論は、暗に無限の富が世界市場にあることを前提しているからであり、ここで行われる平均処理は、個々の主体が資本主義市場のサイクルに完全に従う賃金労働者であることを前提しているからである。実際には、世界の富が無限などということはありえないし、たとえば失業者がそうであるように、すべての人間が資本主義市場のサイクルに従属的であるともかぎらない。したがって、こうした自由主義を十分に実現できるのは同じ時点で最強の覇権国家だけである。この国家は、他国に対し、まずは資本主義を受け容れさせる。そしてさらにはおのれの無制限な自由を認めさせる。それによって国家の平均的膨張を実現しようとする。</p>
<p>絶対的高みからひとの低きに向かってなされる神の「恩寵」から、フラットな成員同士の公平な分配という「正義」に問題関心が移行したのが近代である。そういう時代に正義を実現するひとつの方法が、不均一な「高さ」を促しつつ回収し、それを平均化することである。この「正義」は、不思議なことに国家の帝国主義的膨張に結実するのであり、逆からいえば、帝国主義的膨張にはそれなりの「正義」がある。</p>
<p>むろん、別の正義もある。そしてたいていは先の「正義」とこの別の正義のミックスによって政治経済は成立している。すなわち、「高さ」を認めないことだ。こうしたフラットで協同主義的な正義は、十九世紀から存在するが、こうした正義を選択する理由にはさまざまなものがある。ひとつの極はそもそも資本主義体制を受け容れないこと、すなわち「自由な」平均処理を拒絶することであり、もうひとつの極は、覇権国家に圧迫されて平均的膨張を実現するに十分な「高さ」を得られない場合である。</p>
<p>これらの国家では、結果的に逸脱を遊ばせる余裕がなくなり、まもなく差異の統計的平均値は下がっていく。ここで市民の側が国家の弱体化を望みフラット化を選んでも、国家として衰微することはあっても、実際に滅亡したりはしない。むしろ「高さ」を吸収した国家権力だけは肥大化し、死に臨むことになるのはたんに低い位置で均衡している市民である、という結果に陥る（ロールズやサンデルたちの議論は、基本的にこの二つの正義のあいだの弁証法でしかない）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>本質的かつ現実的には、国家は最初の「正義」以外に選択肢がない。つまり共同体成員にある程度の自由を認めつつ全体として（つまり統計的平均としては）膨張しつつ公平を実現する、という選択肢しかない。後者の「正義」はあくまで、失業者の増加のように、平均値の弾力に影響を与える場合にだけ適用される。</p>
<p>このことから逆にいうと、国家が自由を認めるのは、ひとがその本質を平均処理の網にかけることを認めるかぎりにおいてである。つまり、データから切り離された平均処理可能な高さ以外の高さを、国家は認めない。国家はこうした不均一な高さを力づくで均そうとするだろう。近代国家は本質的に、「正義」（＝公平な分配）に依拠しているからである。したがって社会主義体制だろうと資本主義を受け容れていようと、結局、近代国家というものは、事後的な平均処理によってフラット化できる自由主義以外の自由を認めることができない。こうした高さは、国家にとって、完全な異物となる。すなわち、アナーキストと呼ばれる。</p>
<p>とはいえ、これだけでは、たんに疎外論的な自意識が立ち上がるにすぎない。問題は、この「高さ」をどこで実現せねばならないのか、ということである。わたしの考えでは、この「高さ」を実現するのは、ほかでもない、データや情報である。フラットなデータや情報に「高さ」が加えられること、それはすなわち、データや情報が《言葉》になることを意味している。労働といってもいいとはいえ、とりわけ言葉なのだが、この言葉から取り残された主体は、かならず国家あるいはシニフィアンによって回収され「意味」化されてしまう。疎外論的に自意識を立ち上げたとしても、それを国家は、監獄によってか、病院によってか、生活保護によってか、ナショナリズムによってか、とにかくなんらかの形で主体として回収する。したがって、のたれ死にしたくなければ、もはや道はひとつしかない。言葉に主体を結びつけてしまうことである。平均化可能な高さとしての主体を消し去り、言葉のなかで、純粋な「高さ」に生成することである。こうしてできる「高さ」は意味を構成しない。《出来事》に結実する。労働／言葉に主体をまるごと結びつけることによって、さまざまな「高さ」からなる不均一な平面を作り上げなければならない。それをわたしはスタイルといい、文学と呼ぶ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>それでもフラットに向かう力は圧倒的だろう。瓦礫さえなくなってしまうと、もはや革命に頼るほかなくなってくる。ここで革命の先頭に立つのは、高さを実現しようとする高貴なひとたち、つまりかつて「貴族」であるとか「武士」と呼ばれた人たちである。それが人類の歴史であるように思われる。彼らはふやけた正義を棚上げにする。高貴な者たちにとって正義とは、おそらく賭けの領域に属する言葉だからだ。そしておのれの言葉に存在ごと賭けてもいいと思える彼らのような人間は、当のおのれが正義であると感じていることだろう。</p>
<p>この観点でいうと、いくら主体から切り離された実証主義的データ（情報）を重ねても当然高さは実現されないし（高さは国家が回収している）、また情報を使用して「消尽」するといっても、その使用がさらなる平均化を促すことはあっても、なくなることはない。</p>
<p>また、実証主義的データを相互に交通させることも高さを実現するうえでは逆効果である。ここでの交通は、むしろ差異を消尽し、平均化を促す方向にしか働かない。むしろ孤独を強めることの方が、高さを実現するうえでははるかに役に立つ。</p>
<p>ありうべき誤解を恐れて付け加えると、低さを実現する、ことも当然ありうる。ニーチェの没落のように。たとえば統計的平均の増大しているあいだ、人びとに望まれるのは、そうした増大を逆の方へと導く独自の低さを実現することである（フーコーならこれを自己の「陶冶」と呼ぶだろう）。わたしが先ほどから疑問視しているのはフラットネスである。一体、なにに対して、なにを基準にフラットといっているのか？　統計的平均というほかないのだが、わたしに合わせてくれる必要はないし、わたしのほうで、あなたに合わせる気もないのだ。</p>
<p>ともあれ、繰り返しておけば、そうした統治構造に対するわれわれに可能な抵抗のひとつは、言葉に主体を重ねること、言葉のなかにおのれの主体を宿すことである。すなわち、言葉をリプレゼンテーションではなく、重み（軽快さ）において使用することである。</p>
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		<title>ニーチェについての断章</title>
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		<pubDate>Wed, 24 Nov 2010 07:57:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>

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		<description><![CDATA[人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称的でない。世界はその根底において、本質的に、決定的に、宿命的に、非対称である。</p>
<p>たとえば過去は、現在と似たなにかに思える。ならば未来もまた、現在と似たなにかだろう。だが、時間のどの瞬間も、かけがえがない。つまり交換不可能ななにものかである。たとえば過去と現在は、お互いの共存を許さぬほど致命的に、非対称である。</p>
<p>ニーチェは考える。われわれは、「高さ」の観念を必要としている。たとえば「高貴」さ。たとえば「崇高」さ。より高くなろうとする意志と、より高いものに打ちのめされようとする意志と。すなわち非対称の意志を。ニーチェには、貴族主義がある。</p>
<p>美しい女にむらがる醜い男どもをみるがいい。年老いた教師にむらがる若い学生たちをみるがいい。ものを売りに来る商人にむらがるもの持たぬ民をみるがいい。われわれは似ているから結びついているのではない。根本的に非対称であるがゆえに、結びついている。おたがいに足りないものを求めて彼らは結びついている。それを「交換」と呼ぶのはあまりに観念的だ。真に交換であるかどうかなど、誰にもわからない。商品交換においてでさえ、結局は、持てる者はますます富み、持たざる者はますます失うではないか。交換というべきではない、われわれはむしろそれを、麗しき協同と呼ぼうではないか。</p>
<p>非対称とは、誤解を恐れずにいえば「個性」である。あるいは「かけがえのなさ」である。交換不可能性である。個性が、人間という名のもとに解消されてしまうものならば（つまり個々人の差異よりも人間の概念のほうが大きい）、人間をさえ超え出ようとする、かけがえのなさである。</p>
<p>思えば人間の歴史は、超越を生み出そうとする意志によって貫かれてきた。たとえば運命を自在に作り出す神々（神話）。たとえば運命を超克する英雄（物語）。たとえば運命に巧みに寄り添う帝王（歴史）。近代は、それを必要としなくなるのだろうか。人類の名のもとに、すべての差異が解消される。それは結構なことだ。だが、たとえば男にとって女とは何だろう？</p>
<p>ニーチェは考える。当然、マルクスに代表される社会主義を、つまり平等を志向する哲学のことを知っている。また同時に、「人類」を頂点とする進化論も知っている。近代以降、神が死に、王が途絶え、人類が人類に優越するものをもたなくなれば、その非対称性は消滅する。</p>
<p>だが、そうはいっても、ニーチェには、近代がとても不十分なものにみえた。神を殺害し、おかげで進化の頂点に君臨した人類は、そうはいいながら、神のかわりに法や国家を、奴隷制のかわりに資本制を推戴している。非対称性を隠蔽する数々の装置を張り巡らせながら、同時に、潜在的な非対称性を本源的に蓄積している。</p>
<p>非対称性を隠蔽する装置はますます巧妙になり、ひとびとのあいだの非対称性を吸収する国家や社会はますます強力になっていく。自由な等価交換の名のもとに、貧しい者はさらに貧しくなり、平等を謳う社会主義の名のもとに、すべての人間が奴隷となる。</p>
<p>かりそめの非対称をもたらすために持ち出したカントの「超越論」が、ニーチェには我慢ならなかった。それは非対称を隠蔽することしか教えない。</p>
<p>近代に超越は必要ないのか。もっと正確にいえば、超越的身体を必要としないのか。人類はいとも簡単に超越を諦め、超越論でだましだましやっていくつもりなのか（人類の平等の名のもとに、ひとはファシストを、独裁者を渇望するのではないのか）。</p>
<p>奴隷の哲学。万人が等しく主体であるためには、すべての差異を回収する装置が必要だ。すなわち国家が、社会が、独裁が……。国家、社会、独裁は対称性を実現する。すべては等しい。しかしそれらの統治の外側には、非対称性がひしめきあっている。この非対称性を隠ぺいし続けることは可能だろうか。可能ではなかろう。</p>
<p>超越が必要というなら、われわれはそれをいかに実現すべきなのか。かつては神がいて、王がいて、そして貴族がいた。奴隷がいて、家畜がいた。われわれは、われわれのそばに、つねにおのれを越える者を有し、またおのれに劣る者を有していた。神が死に、王が息絶えた近代において、優位や劣位はいかにして実現さるべきなのか。</p>
<p>ふたたび神を崇めることによってか。王を戴くことによってか。あるいは奴隷を、あるいは家畜を所有することによってか。自らを弱者と認めることによってか。それとも他者を見下すことによってか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ニーチェは根本的に問題を変えようと思った。人間は、非対称を必要としている。超越論や、等価交換や、社会主義のように、人間の対称性を前提するのはおかしい。すべての人間は異なる。人間とは、交換不能の非対称の螺旋の結果である。</p>
<p>超越「論」が、実際には超越者などいない、すべては等しい、という意味にとれるとしたら、ニーチェはそれを逆転させる。超越の意志をもて、と。その結果が等しいのか、それとも差異をもつのかは重要ではない。</p>
<p>高さの観念なしには、右手はいつまでも右手のまま、左手を知ることはなかろう。右手と左手が対称性を得るのは、それを判断する高さの観念によってこそである。持てる者と持たざる者のやりとりを交換とみなせるのは、そのやりとりを超越する高さによってこそである。</p>
<p>神が死んだ今、もはや古い高さの観念に頼ることはできない。人類を越える存在を、われわれは持たなくなった。われわれは、なにを高さとして受け容れるべきなのか。</p>
<p>誰もが超越の意志を失うならどうか。ひとは根こそぎ衰弱する。衰弱の意志をもつ。こうして対称性は実現する。あらゆるものが対称的である、とは、虚無であろう。すべては等しいとすべては空しい、は同じであろう。あらゆる概念が根拠を喪失する。</p>
<p>われわれは、過去に後戻りできない。過去の非対称に羨望の眼差しをおくっても、われわれはそれを取り戻すことはできない。この非対称は、未来に実現しなければならない。神なしに、王なしに、奴隷なしに、家畜なしに、非対称性を実現する道がひとつある。すなわち、この均質化を進めることだ。</p>
<p>すべてが雑多となり、同じことだが均質化し、さらに同じことだが空虚となっていく。すべてが同じである、つまりすべては空しい。しかしそれは、かえって差異が極限に達することだ。</p>
<p>すべてが等しく、またかつすべてが空しい世界とは、たった一滴の水滴が加わるだけで、決定的な変化がもたらされる寸前の世界であることを意味する。すべてが等しく空しい。この世界にあらわれたもっとも小さな超越の意志は、おのれを概念にまで高めざるをえない。それほどに、ただ一滴の水滴は異質である。</p>
<p>すべてが雑多であり、すべてが均質であり、すべてが等しく、ゆえにすべては空しい。すべてのものを飲み込む沈黙の海、この世界においてただ一滴の水滴であることは、世界を一変させるほどに、美しい。灰色の世界のなかに、雪の純白よりも白い白を、空の青よりももっと深い青を描くに十分である。概念が始まるのだ。</p>
<p>超人とは、いわば、沈黙の海を振り切った、ひとりの子供である。ただ「あ」と声を発するだけの、ひとりの子供。われわれは、超人の親にはなれると、ニーチェは言った。《そのとき》には、徹頭徹尾人間を指し示すだけの「われわれ」の主語は、もはや必要がなくなっているだろうから。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>精神にまで至らぬ肉体のもっとも深いところで、ニーチェを響かせる……。</p>
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		<title>新しい芸術哲学のために（下）　欲望について</title>
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		<pubDate>Fri, 27 Aug 2010 15:29:17 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Godard]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Sokrates]]></category>
		<category><![CDATA[sublime]]></category>

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		<description><![CDATA[対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心をすべて括弧に入れることによってはじめて、美は真の美となる。つまり、美の前でひとは無力であるし、また無力でなければならない。無力ゆえもはや美を感受することさえできず、圧倒的な力や量としてあらわれる自然の前で耐え忍ぶ崇高だけが、ひとの寄る辺である。いまは自然の浸食によって廃墟となった、かつて人が生み出した建築物は、崇高を意味すると同時に「表象不可能性」をも意味している。廃墟とは、表象不可能なもののモニュメントである。ひとはいつも美を掬い損ね瓦礫を掴んでいる。</p>
<p>しかし、「無関心」の態度は、美から人間的なものを取り去り、美を自然のなかに見いだそうとする努力にもみえる。ならばはじめから、美はわれわれの感性にではなく、自然の側にある、と仮定してみよう。というより、自然との「関わり」のなかでしか美は見出されない、と考えてみよう。「関心」は、そこでは、意味を変える。主観と対象のあいだで弁証法的な作用を繰り返すのではなく、ただ「関心」だけが残る。</p>
<p>ニーチェは美は「関心」のなかでしか見いだされないと言った。ハイデガーは、カントの「無関心」を非難したニーチェの「誤解」を指摘したが、「誤解」もまた誤解である。ニーチェの言葉も正解である。やや難解ではあっても、じつはずっと自然な別種の哲学である（たとえば小林秀雄の「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない」（「当麻」）という主張は、美を花から抽象するカントの哲学ではなく、美を花という具象の側に置くニーチェの哲学に属する）。</p>
<p>純粋な顔――それは見る者が彼女への関心を括弧に入れなければ現れない。目というカテゴリー、肌というカテゴリー、唇というカテゴリー、その他さまざまなカテゴリーがあって、これが彼女の純粋な顔をみることを妨げている。こうしたものをすべて括弧に入れたときに、はじめて彼女の顔が、すなわち美があらわれる、と『判断力批判』のカントは考えた。だが、ニーチェは別な風に考えたのだ。彼女は私にむかって生き生きとほほ笑んでいる。だからこそ彼女は美しい。美のためには無関心が必要だって？　それでは恋愛に興じる男女が美しいことを説明できないではないか……。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>言葉を、しっかりと自然のなかに参与させよう。「美」が自然のなかに存在していることが事実なら、「崇高」もまた、自然のなかに存在しているはずである。美がもたらす精神の《振動》が自然の事実なら、崇高がもたらす精神の《動揺》もまた自然の事実である。そのことはどれくらい確証があるだろうか。にわかには読者には信じがたいかもしれないが、こういうことが考えられる。</p>
<p>崇高を、自然の圧倒的な力や物量による美の浸食や崩壊と捉える場合がある。そこで、人間が作り出した当初の原型をとどめていないパルテノン神殿やミロのヴィーナスについて考えてみよう。思うに、芸術は、原型の崩壊によって揺らぐことはない。むしろそれらの破壊は芸術のうちに含み込まれるのであって、もとの形態の破壊がかえって芸術を彩りさえすることがある。原型に近づけることを選択した室生寺の修復は、やむをえないとはいえ、それによって神さびた芸術性が失われた部分があることに同意するひとは多いだろう。インドや東南アジアの現用の寺院にも同じことがいえる。きらびやかなそれらよりも、もはや風や草木の浸食を受け入れた崩壊のさなかにある古いアユタヤ王朝などの寺院のほうが、芸術性が高いことは、あきらかなのだ。これらのことは、芸術が、人間のみの概念ではないことを意味している。人間は、もはやその起源のはっきりしないあやふやなきっかけを与えるにすぎない。人間がつくった当時の原型にこだわることは、芸術においては積極的な価値を認めるのがむずかしい。自然において芸術はたえず浸食を受け、原型を保つことは不可能であるにもかかわらず、そのことが芸術の価値を奪うとは決まっていないからである。美や崇高などの芸術の概念は、たんに人間の手によるものではなく、もともと自然のものであると考えたほうが、パルテノン神殿やミロのヴィーナスの芸術性を合理的に説明できる。美の形成からその崩壊にいたる崇高、自然のなかでたえず演じられるそのドラマ全体が美であり芸術であると考えたほうが、ずっと説得的なのだ。</p>
<p>また、かつて崇高は、その名が示すとおり、とりわけ「高さ」の観念と結びついていた。それは、われわれの低さでもある。自然における美は、おそらく対称性を意味する。同様に自然における崇高は、非対称性を意味している。実際、自然界にはきわめて高い水準で対称性が備わっている。物理学者が反物質の世界を想定するのは、彼らが、自然が対称性をもつことを確信しているからである。この対称性を道しるべに、彼らは自然界の理を探っている。荘子の「源天地美而達万物之理」（天地の美に原（もと）づきて万物の理に達す）という言葉はそのことの表現である。</p>
<p>むろん、対称性は破れもする。崇高の意味は、ここでは、美＝対称性が崩壊した状況を指す。しかし、われわれは、美を欲望の観点から考えたい。すなわち、対称性と非対称性のあいだの形成と崩壊の運動として、つまり振動や動揺として、美を捉えたい。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ゲーテの色彩論を敷衍して言えば、光と闇の対称性が保たれているかぎり、色彩は生まれない。逆にいうと、色彩は対称性が崩壊するときに生まれる。真空とは完全な対称性を実現している世界である。それが崩れるときに色が生まれる。すなわち、空から色が生まれる。</p>
<p>したがって、画家がなんらかの色彩を生み出すとき、かならず、彼のなかで対称性の崩壊が起こっていると考えられる。ところで、精神は、なんと肉体と似通っていることか。精神と肉体の均衡が徐々に破れ始めると、画家は、ある欲望を抱く。すなわち、色彩が生まれる。</p>
<p>色彩をカンヴァスに定着させたとき、この画家はようやく精神と肉体の均衡を取り戻す。つまり、彼の精神のなかの色彩と、カンヴァスの色彩が、対称性を描く。美は、対称性が破れ、またそれが均衡を回復する、その短い間に明滅している（この対称性が破れているとき、彼は精神をもっていない――つまり行為している）。対称性をもつ女性の対称性を破ること、そこに男は美を見いだす。</p>
<p>こう考えると、カントが先に思い描いていた美学を捨て崇高へと突き進んだときに、はじめて、画家が到達していた実践的な美の世界に踏み入れたことになる。自然に対する圧倒的非対称に耐え抜く崇高こそ、美の大前提である。美と崇高は、どちらも芸術家の主要な、しかも〈たったひとつの〉テーマなのだ。ともあれ、画家は、精神のなかにある種の不均衡を抱えていた。彼は、カンヴァスに色彩を描かぬかぎり、均衡を取り戻せなかった。対称性があるということ、たとえば右手と左手を区別できるということ、こうした世界は、均衡が保たれていて、それゆえ美的ではあるが、実際には、そこで画家は色彩を思い描くことができない。画家はむしろ、美しい女性のなかのわずかな均衡の破れを、いかにして描くかに、神経を集中させる。対称性は、つねに破られる手前にあって、むしろ破られることを願っている。自然は真空を嫌う、とはそのことの謂いである。芸術家が主に描いているのは、対称が非対称となりまた対称を獲得する、そのプロセス全体であるように思われる。このプロセスは、欲望とよく似ている（そこには、《彼岸の快感原則》がある）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>美に対する批判哲学、という意味では、美学（形式）を否定する崇高に至ったカントやデリダ、リオタールやジャン＝リュック・ナンシーらの議論は極北に位置する。たしかに、くだらぬ美学的なディシプリンは、脱構築すべきものではある。しかし、芸術家の実践はこの問題構成を共有しない。形式を前提にするコンセプチュアル・アートを除けば、もともとアートは形式に従って創作していないからである。形式に従っているようにみえたとしても、彼らに素材やきっかけを提供したに過ぎない。結果的に形式を越えられなかったとしたら、そもそも芸術を生み出したことにならない。</p>
<p>一般に、カントのいうような美と崇高は、芸術作品のなかで混淆している。美だけが存在していることは少ない。むしろ芸術家を駆り立てているのは、美（対称性）と崇高（非対称性）の反復である。たとえばブルーノートやシンコペーション、不協和音のような違和とその解決が、音楽を駆動させていることは周知であろう。自然が生み出した富士山にティピカルな芸術性を認めるとしたら、ある種の鏡面対称性（あるいは回転対称性）を備えると同時に、人間に対する圧倒的量感という非対称性を備えている点であろう。</p>
<p>また、ふつうの鑑賞者にとって、対称性が保たれているだけで美を感じるのは困難である。エジプトの古美術がもっている極端に均整のとれた造形物は、あまりに美的であるがゆえに芸術性を感じない。ギリシアの造形物のほうがずっと芸術的にみえるのは、均整のとれた顔、肉体、衣服が崩壊する瞬間を彫琢しているからである。つまり、不快な非対称性を取り込むことを厭わなかった。ギリシア彫刻がオリエントに伝播する過程で失われていくのが、この非対称性であることに、多くの読者は同意してくれるはずである。衣服のひだ、風を含んだ髪、微笑の口の端に、余計な対称性を付け加える。おそらく、そちらのほうが、より美的になると思ってのことだ。</p>
<p>われわれは、ひとつ作品のなかで、対称性がどのように崩壊し、またどのように対称性を取り戻すのかをみている。視線は、非対称的な姿形のなかに対称性を求め、また均整のとれた肢体のなかの非対称性に単純な快を越えた悦びを見いだす。要するに、われわれは「顔」ではなく、遷り行く「表情」をみている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は、心ひかれる女性を笑わせたいと願う。それは、それまで保たれていた対称性が崩れる瞬間でもあるし、また、醜い（非対称の）男にとっては、それによって、対称性が回復される瞬間もである。いずれにせよ男は、顔だけでなく、そのプロセス全体を所有したいと願う。</p>
<p>肖像画の女性の姿、そこに描かれているのは女の顔なのか、表情なのか。それは判断がつかない。顔であるとしたら、それは鑑賞者が関心を括弧に入れていることになる。彼女が微笑みかけていると思ったなら、それは彼が己の関心にしたがってみたことになる。</p>
<p>これらはそれぞれ別の哲学を形成する。一方の考えが他方の考えを一方的に批難できるようなものではない。われわれがみているものが、顔なのか、表情なのかは、みている人間の関心のありかた次第だからである。</p>
<p>しかし、不思議なことに、無関心によって見出された顔、すなわち美の純粋性は、崇高によって打ち破られる。つまり、顔は、次の瞬間に崩壊する、と、崇高の哲学者たち自身が言っていた。それは何を意味しているか。結局、ニーチェに回帰しているのではないのか。</p>
<p>いや――もちろん、これらは別の哲学である。美の崩壊に崇高を覚えるひとたちが、ときにカンヴァスを切り刻み、金閣寺に火を放つとすれば、ニーチェは不思議そうに答えるだろう、彼女は微笑んでいるし、金閣寺はつねにすでに朽ちていたではないか、と。美から崇高へ至る道は、極端なもの、けれん味たっぷりの大げさな身振りを必要としない。もっと微妙な、さりげないもので十分だった。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>写真が美でありうるとしたら、そのフレームに写真家の「関心」が現れている場合だけである。こうした写真は、被写体の「表情」を撮（つか）むことができるだろう。したがって、「顔」を写す機械の証明写真には、美はほとんど存在しない。もし「無関心」が美をもたらすのであれば、証明写真にこそ美がなければならないはずなのに、そうなっていない。なんの関心も示さずレンズに微笑みかけてくれるような被写体は存在しない。それは、ひとが恐怖を感じる場所で撮影した写真に霊やお化けが写ることと同じである。恐怖を感じないのであれば、お化けは写ってくれない。</p>
<p>ゴダールはとにかく女性を美しく映す。アンナたちに向けられたレンズの前で、彼が「関心」を括弧に入れていたはずはないと感じる。レンズを挟んで交錯する恋人たちの視線が、彼の作品の生産性に少なからず寄与していると感じる。彼の特権は、カメラの手前にある欲望を否定しなかったことである（彼はとりわけポルノ映画と勝負している）。彼の映画は、つねに、撮影する者とされる者のあいだで起こる事件であり、かつそのドキュメントである。</p>
<p>モナリザは微笑んでいる。素顔と、そして風景があるのではなくて、レオナルドに向かって、あのような表情を作った。逆にいえば、レオナルドは、彼女からあのような表情を引き出すことに成功した。レオナルドが彼女に無関心だったはずもないし、彼女が彼に無関心だったはずもない。</p>
<p>それは、ゴダールの映画同様、描き、そして描かれることのドキュメントであって、それが彼女の表情に凝縮している。そして、わたしは、そのことが美であると感じる。この絵画を鑑賞するのに、「無関心」のような高尚な態度は必要ない。欲望に忠実であればよい。女からあのような表情を引き出したレオナルドに、男として感心する。そのことが、そのままこの絵画の偉大さである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>欲望や関心と、美が関係しない、ということは不自然である（もちろん、あとで崇高を持ち出して純粋な美を否定するわけだが）。むしろ、もっとも古いソクラテスともっとも新しいニーチェが考えていたように、美しいものは、ひとを自然に引き寄せる性質をもっている、という定義から出発すれば十分ではないのか。</p>
<p>この定義の延長線上に、折口信夫の次の言葉は位置している。「人生に最も重大なる欲望は、自己保存に関する食欲、ならびに性欲である。この二つは、厳乎として生の根本に、大問題を横たえているのだ。…ただ大なる芸術品であるためには、この生の大問題におのずから触れていて、この欲望を暗示的に表現するところがなくてはならぬ。囚えられたる欲望が、自由に超経験的に活動をはじめたのは、この時からである」（「零時日記」）。</p>
<p>崇高の哲学者たちは、プラトン以来の西欧哲学の欺瞞を批難することに躍起である。だがそもそも、イデア哲学と批判哲学は美に対する理論的根底がまったく異なる。プラトンは批判哲学の問題構成を共有しないし、自分を西欧の哲学者と規定もしないだろう。「判断力」は、もともと批判哲学の構造が呼び寄せたものである。理性と感性のあいだに悟性を立てる、というこの哲学によって、逆説的に過剰に照射されてしまった。あるものを美しいと判断するか否か、という問いを批判哲学者は立てた。しかし、ソクラテスたちによれば、美しいものに、ひとは自然に引き寄せられてしまう。――つまり、彼は思わず「美しい」と呟いてしまう。判断力という問いは立たない。ひとは、美の前で、判断力（われ）を失う。</p>
<p>主観的な趣味判断がいかに普遍妥当性を得るか、という問いに答えるのは容易ならざることである。この不可能な問いは、答えるよりも先に問いを破壊する。つまり、ここで召喚された美は崇高によって打倒される運命にある。美の崩壊は、それを構成したカント哲学自身の崩壊にもみえる。つまり、彼が打ち立てた超越論的主観は、美の前で自壊する。ところで、ソクラテスはすでにこう考えていた、ひとは、美の前では「われ」を失う、と。そしてニーチェは言っていた、（「同情」とは区別される）われを失わせる「陶酔」は人間の最高の能力である、と。</p>
<p>美のもたらす統整的な作用は、ひとにかえって崇高を与えるものだった。美は捉えられる手前で足踏みするか先へと行き過ぎてしまう。しかし、別種の哲学において、美はもともと形成と崩壊の運動だった。つまりもともと消え行くものだったのであり、したがって、消え行くということにおいて、ひとはつねにすでに美を手にしている。ひとは、たえず美の恩寵に与っている。</p>
<p>美は、真理とは異なるやりかたで客観性を獲得する。すなわち、《われを失う》、判断を他に委ねるという形で客観性を実現する。よくいえば自意識を捨て去ることだが、悪くすれば自己を見失う。したがって、美の前でいかに自己を保つか、という問いが、ソクラテスとニーチェによって開かれる。</p>
<p>しかし同時に、自己を保つ、とは、美が消え行くものであることを認めることにある。というのも、欲望が成就する手前でとどまることが、美をもっとも長く享受するための、最高最善のやりかただからだ。したがって、ソクラテスとニーチェにおいて、自己を保つことと、欲望の追求は、齟齬しない。この哲学は、他者ではなく、自己を相手にする。</p>
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		<title>新しい芸術哲学のために（上）　崇高について</title>
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		<pubDate>Wed, 25 Aug 2010 08:37:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Kant]]></category>
		<category><![CDATA[sublime]]></category>

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		<description><![CDATA[自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。 自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。</p>
<p>自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き、林檎が重力の法則にしたがって落下することでさえ、固定観念である。この束が強力に維持されているからこそ、われわれはそれを「法」として抽象化することができた。人間を含まない場合には「法則」と呼び、含まれれば「法律」や「習慣」と呼ぶ。ポアンカレがいうように、すでに科学の法則は絶対的客観的なるものを失っている。日差しと夏とを同一視する固定観念を抜け出した蝉は、夜啼くことを覚える。すべての物体が、重力に従うのでもないように。法が相対的なものにすぎないのであれば、むしろ「固定観念」の語でひとくくりにもできる。ひとがあらゆる判断の根拠としている「法」は、化学反応や末梢神経の反射とそう変わらない。そもそもひとは、連綿と続く生命の歩みの末梢神経のごときものにすぎない。</p>
<p>わたしは、こうした場所から思考したい。この場所でしか思考できない。つまり言葉を、しっかりと自然に参与させてはじめて、思考が可能になる。たとえば「法」は人間の所有物ではないが、「固定観念」でさえ、人間の独占物ではなかった。しかし、そうした反射と「法」とを、とくに後者を人間にまつわるものとして区別したがるひともいる（そうすることで、彼は無意識にすでにカントの側にいる）。そういう議論につけるには、《崇高》は苦く、そしてよい薬である。《崇高》とは、人間的な意味での法の破壊だからである。《崇高》は、ひとに沈黙を強いるものだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>批判哲学の基本は、分割することである。もともと、クリティークの語源となったギリシア語は、「分ける」という語から派生している。理性と感性の混同に端を発するアンチノミーの解決を目指すカントは、理性と感性を厳密に分割する悟性の能力を人間に付与し（悟性を演繹し）、さらに感性を悟性に従属させた（コペルニクス的転回）。</p>
<p>しかし、この哲学にまったく従わなかったひとつの能力があった。それが「判断力」である。人間の行為には、つねになんらかの判断力が働いていると考えられる。なぜなら彼は、あらゆる可能性のなかから、ただひとつの行為を選んでいるように見えるからである。しかし、この判断力は、なにしろ悟性に従っているとは思われない。というのも、どれほど悟性に過去の記憶を蓄えたひとであっても、また物事に対する明晰なカテゴリーをもっているひとであっても、さらにまた血のにじむ勉学を己に課してきたひとであっても、実践においてはいともあっけなく誤ってしまうことが多々あるからである。それは、知的エリートばかりのはずの日本の支配層がなぜここまで愚かな判断を繰り返すのか、ということと似ている。むしろ判断力は、経験が彼に蓄積させた諸々の記憶、そしてそれをもとに対象を同定する認識能力とは無関係であると考えざるを得ない。</p>
<p>もちろん、多くの場合、先述した「法」に従って、ひとは判断している。これを規定的判断という。だが、これはたんに判断を他に委ねているだけ（あるいは、悟性に従っているだけ）であって、実際には、彼は判断していない。むしろ本当に判断力が試されるのは、そうした規定が存在しない場合である。この場合は自己自身が判断を与えなければならない。これを反省的判断という。カントが注目するのはこの反省的判断である。</p>
<p>これがもっとも試されるのが、美（趣味判断）である。というのも、美的判断は、本性上、主観的でなければならないからである。たとえば、親に決められた結婚相手を、親に決められたという理由で美しいと感じるひとはいない。美的判断は、もっぱら主観に存する。したがって、客観的な合理性はその与件から排除すべきだろう。たとえば、この女性と街を歩けば鼻が高い、というような要素は美的判断とは関係がない。結局、厳密には、あらゆる「関心」は括弧に入れなければならない――すなわちカントのいう「裁判官を演じる」ような《無関心》が、美を鑑賞するためのもっとも適切なあり方となる。徹底して主観にこだわること、それによってのみ、この判断は普遍妥当性にたどりつく、という不思議な構想をカントは描いている。</p>
<p>こうした関心の排除、いわゆる現象学的判断中止は、よくよくみると、美を人間の側の判断力ではなく自然の側に認めるための努力である。つまり、美から人間的なものをはぎ取っていくことである。関心を排除し、より純粋な主観を抽出することと、普遍妥当性を得ることは矛盾しない。かくして、美的判断のために必要なことは、判断中止である、というアポリアにたどりつく。それは、美的判断の権利を自然に委ねることであり、したがって美を人間じみた手のなかから失わせることである。圧倒的な自然を前にした人間の判断能力の欠如と（かつては人間の判断力のものであったはずの）美の喪失、ここで出会うのが、《崇高》であるという。《崇高》の前で、彼は裁判官の職を失う。《崇高》は「無形式」であり「不快」であり、彼の「構想力」を絶してしまう（リオタールは「限界への侵犯」という）。《崇高》は、彼のそれまでの批判哲学を裏切って、本来の批判哲学が想定すべき超越論的な判断力の不在に直面させる。そればかりか、理性と悟性とを結合してしまう。</p>
<p>カントの三批判を総合的に評価すべきなのか、それとも第一批判、第二批判と順を追ってみていくのかによって意見は分かれるだろうが、すくなくとも『判断力批判』は、評価に値するものである。この哲学は、ここにきてはじめて実践的な境位を得たようにみえる。――しかし結局、この哲学が美にたどりつくことはなかったようにもみえる。美学をつくり、そして破壊し、その結果あらわれたのは美そのものではなく崇高であった。ここでは、美は一種の統整的理念に似た役割は果たしている。美を追い求めた結果、そこにたどりつく寸前で、それは自身の無能力とそれを圧倒する自然がもたらす崇高にとって代わるからである。この哲学は、自身の超越論的主観を破壊する瓦礫に出会う。ジンメルが言うような廃墟／崇高である。崇高は、ひとに沈黙を強いる。この哲学が教えるのは、言葉の無力である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、この議論は、表象不可能性というゼロ地点にむかって収束する。言葉はついには無力であり、あらゆる多様性をこのゼロが飲み込んでしまう。ここでは、芸術、すなわち多様なものの開花は期待できそうもない。われわれの世代は、もっと別種の哲学を必要としている。</p>
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		<title>反脱構築――新しい芸術哲学のための前哨戦</title>
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		<pubDate>Fri, 06 Aug 2010 14:09:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[Beethoven]]></category>
		<category><![CDATA[Derrida]]></category>
		<category><![CDATA[différance]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
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		<description><![CDATA[ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。２０世紀後半から今日に至るまで、これらの概念（デリダは [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。２０世紀後半から今日に至るまで、これらの<del>概念</del>（デリダは、この「概念」という言葉に抹消線を付す）のアカデミズムの領域での世界的流布は、目を見張るものがある。わたしがこの概念に懐疑的なことは、多くの読者がご存知だろう。だが、かつてはわたしもこの概念に刺激を受けた人間のひとりだった。この概念ならざる概念について、ここでわたしなりに決着をつけておくことにする。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>音声を通じたコミュニケーションは自己同一的で直接的かつ純粋なものである、という音声中心主義を、デリダが批判したことはよく知られている。「自分が話すのを聞く」という円環は、きわめて自己同一的にみえるが、実際には、「話す自分」と「聞く自分」とのずれが生じている。これを、彼は差延と呼ぶ。</p>
<p>話す自分と聞く自分がつくる円環は、一種の自己相互作用である。音声は、周囲の空間を巻き込みながら、自分に帰ってくる。音声は周囲の空間を同一化しながら再帰する、といってもいい。発された声と自身が受け取った声とのあいだには相互作用、すなわち差延が生じている。周囲の空間を通過する過程で、音声は変化を被らざるをえない。にもかかわらず、この差延をひとは黙殺し、忘却する。黙殺し忘却することで、閉じた共同体が形成され、この暗黙の同意のもとで「概念」が成立する。つまり強引に各々の自己同一性が成立しているとみなす。近代がひとに要請する自己同一性とは、こうした差延を黙殺せよという命令にほかならない。</p>
<p>差延を自覚するのは容易ではない。だが、意識のなかにわずかにあるにちがいない記憶痕跡は、かつて話し、そして聞いたということを教えてくれるはずである。痕跡――つまりエクリチュールに、彼は可能性を見いだす。</p>
<p>そこでデリダの戦略は、次のようなものになる。あえて空間（テクストといってもいい）の内部に切り込み、いたるところに痕跡を見出し、エクリチュールをまき散らし（散種）、話す主体とそれが所属する空間のあいだに相互作用を起こさせ、差延を押し広げる。このようにして、脱構築は遂行される。</p>
<p>このデリダの戦略が、善良な意図で貫かれているのはあきらかである。しかしおそらく、この戦略を本気で実践しようとしたひとは、この世に存在しない。実践できないからである。その理由を以下に述べる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>差延になんらかの積極的な可能性を認めてみよう。そうすると、この概念は、とにかく自己および周囲の空間になんらかの現実的な作用を及ぼすのでなければならない。したがって、その力を認めなければならない。しかし、この相互作用の力を認めると、逆説的にこの概念は破綻する。厳密に考えると、この力は瞬間的に無限大に達するからである。自分の声が周囲の空間を変化させるとしよう。その変化を受けた声が自身に作用することで、自分もまた変化する。その変化はさらに声に影響し、その変化を受けた声がさらに周囲の空間を変化させる。その変化がさらに自分に再帰し……。</p>
<p>「自分が話すのを聞く」という円環を、社会に拡大してみよう。当然、ここでも差延は無限大になる。ある個人が社会に参入することで、自分は変化するが、社会も変化する。その社会の変化をさらに自分が被り、その自分の変化をさらに社会も被る。こうして差延の力は一瞬にして無限大に達し、バーストする。デリダが発見した自己再帰的な概念である差延は、原理的にいって、どう考えても無限大に達する。いくらわずかな差異とはいえ、それは次の瞬間には無限大に陥ってしまうのである。意図的に散種するかどうかとは無関係に、この概念は、発散してしまう。</p>
<p>しかし、そんなことはありえない。〈世界は有限だからである〉。実際、自己や社会がバーストするようなことは起こっていない以上、この差延の力は黙殺されるか忘却されているのだが、どのみち黙殺／忘却せざるをえないのである。わたしからすれば、この無限大を黙殺しているのは、ほかならぬデリダ自身である。彼は適当なところで差延を飼いならしている。</p>
<p>社会が個人を参入させても、その結果得られるはずの差延による変化は、生じた瞬間にどこかにアブソーブされている。自覚するか、しないかとは別に、日々、厖大な量の差延が発生しているにもかかわらず、なにも起こっていない。起こる気配もない。おそらく、どこかで、差延の無限大を吸収する装置が働いている。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>「自分が話すのを聞く」という円環は一度しか発生しないのではない。文章、語、音節にいたるまで、すべてを自分の耳が聴き続ける。そしてそのつど、この相互作用は蓄積されてますます巨大なものになっていく（実際、マジックメモよろしく、デリダは痕跡は消えないと言っていた）。ここで発生する差延を物理的に吸収しているのは、有限の身体、すなわち耳である。無限を有限が吸収できるわけがない。にもかかわらず、身体がバーストするようなことがないとすると、この思考法自体のどこかに誤りがある。</p>
<p>差延それ自体を全否定すべきだろうか？　おそらくそうすべきでないだろう。差延が発生しているのは確実である。「自分が話すのを聞く」ということは、どう考えても起こっている。ということは、ここで発生してしまうはずの無限大の力を、有限の社会や耳が吸収している、ということなのだろうか。有限は無限を吸収できると考えるべきなのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、もう一度もとに戻って考えてみよう。差延がもたらす無限にひとはどうやって対処しているのか。それは「黙殺」あるいは「忘却」することによってである。この黙殺や忘却に積極的な意味を認めてみよう。つまり実践としての黙殺や忘却がある、と考えてみよう。ところで、無限を吸収するためには、やはり無限の器が必要である。したがって、有限の器（耳）が吸収する、ということはありえない。もっとも合理的なのは、無限の力を生み出した力自身に無限を吸収させることである。</p>
<p>どこに無限があるか。それは精神、自意識である。ひとは、自意識（主体／実体substance）と空間（場所／形式form）とのあいだで発生している無限の差延を、自意識に再吸収させることで、キャンセル（ゼロに）している、と考えられる。これを、実践的な言い方で、「黙殺」する、あるいは「忘却」する、という。差延の運動とは、もともと自意識内部の葛藤にすぎない。したがって、差延は「黙殺」するか「忘却」するのが正しい。実践的にはそれしかできない。デリダが望むような脱構築は、原理的に発生しない。</p>
<p>ひとは、この無限の差延を、意識に捨てているのである。話すことによって生じるのが意識だとすれば、おそらく、自分の話を聞く際に生じているのが無意識であろう。デリダが推奨するように、本当に意識の差延を自覚しようとするひとがいるとしたら（つまり、無意識に捨てた差延を再び拾いなおすようなことをしたら）、ただちに差延は無限の弧を描いて彼を分裂病に至らしめるだろう。つまり、バーストしてしまう。この無限の力を侮ってはならない。それはおそらく死に至る病である。</p>
<p>顎と耳との距離が、「自分が話すのを聞く」というデリダの概念の有限な前提である。有限の身体によって、この差延は保証されている。しかし、デリダのいう<del>概念</del>としての差延はそういうものではない。顎で発生し、耳から抜けていく有限の差延は、テクストや共同体とはなんの関係もない。その一方で、無限の差延は、無限の自意識が再吸収して、本来はゼロになっている。</p>
<p>有限の声には有限の耳が対応し、無限の自意識は無限の自意識（のなかの無意識に相当する部分）が再吸収する。したがって有限の差延以外は発生していない。デリダの誤りは、有限の差延を無限の自意識と関係づけてしまったことである。この非対称を彼は可能性だと思ってしまった。また有限の差延を、無限の自意識が不当に黙殺していると勘違いしてしまった。しかし、無限を維持したまま有限の世界を往還することはできない。無限は、有限の世界では自動的にキャンセルされる。結局のところ、差延は、自覚しようがしまいが、自意識から自意識へ、自意識内部の葛藤以上のものではない。</p>
<p>付け加えておけば、おそらく主体とは、厳密には、差延の発生装置にして吸収装置である。というか、差延がはたらいているあいだ、ひとは自らを主体であると感じている。しかし、実践の段階では、主体もろとも、差延は消滅する。救いを求める声のなかに、差延は存在しない（救いを求めるひとに、自分の話す声をいちいち聞いている暇などない）。</p>
<p>デリダの望むのとは逆に、差延の運動とは、《実践》とは真逆の、内面化のそれである。この運動の脅威は、個人であろうと社会であろうと、「主体」を形成し、かつ内面化し、そして縮小し崩壊する、そういう過程に自らを導くことである。いわば社会的分裂病の症候を示す。われわれは、差延の運動の外に出なければならない。</p>
<p>たとえば中上健次の文学の中心に位置すると考えられてきた「路地」は、デリダの脱構築にきわめて似通っている。しかし、この概念は、外部なき若者の奇怪な葛藤にすぎない。この路地（＝無限の世界）を捨て岬（＝有限の世界）に出ることによって、彼の小説は純文学の領域に到達する、とわたしは考える。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さらに抽象的な話になるが、ここで問題になるのは、「場」あるいは「空間」とはなにか、ということである（上記の問題はミンコフスキーがいうような空間把握Raumerfassen／空間体験Raumerlebnisの問題につながっている）。形式といってもいいし、形態といってもいい。ともかくその「場」を占める実体（実質／主体）とのあいだの相互作用を考慮に入れようとすると、どうしても無限が発生（発散）してしまう。実体は、ここでは「点」だからである。</p>
<p>点である以上、その場における位置を正確に測ろうとしても、その正確さを競えば競うほど、点は無限に遠ざかってしまう。その場を占める点は、場から無限に遠ざかっている、というおかしなことになってしまう。場あるいは形が有限な――すなわち具体的な「もの」であるのに対して、点は抽象的だからである。</p>
<p>場（形）は具体的なものである。したがってこれはひとまず取り除けない。そこで「点」という思考法を回避することが求められる。「点」をいかに具体的なものとして思考するか。さらにいえば、場とその場を埋める主体、という思考法そのものをいかに回避するか。</p>
<p>場は、社会に置き換えることができる。当然、社会を取り除くことはできない。したがって、社会を占めるアトムとしての個人、という概念を取り除かねばならない。そして結局、社会と個人、という思考法そのものが、問題ということになる。この一対には、合理的な解が存在しない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ヘーゲルが取り組んだのは、ある意味ではこの問題の解決である。ひとはいかにして社会のなかで個人となるか。彼はこれを弁証法という概念でごまかした――要するに、差延とその吸収という自意識内部のはたらきそれ自体を、現実の歴史とみなす精神主義的解決に逃げ込んでしまった（彼は一度外へ出ているのにまた内側に戻ってしまっている）。とはいえ、デリダと好一対をなすのはジョージ・ハーバート・ミードのような社会心理学であろう。自我と他我のあいだの自己相互作用のはてに自己同一性を獲得するという、やや楽観主義的な議論は、自己相互作用が同一性を破綻させるというデリダの議論のちょうど逆になっているが、やはり、自己相互作用の力を甘く見積もりすぎている。現実的には、ミードの想定するような自己同一化のプロセスは発生しない。場（社会）を前提とする個人は「点」だが、現実には、点は場と接点をもたないからである。</p>
<p>カントは、場（形態／時空間）を重視し、時空間をアプリオリとしてもつ有限の感性に依拠する科学の可能性を認めたひとである。だがその一方に無限を事とする理性を保存したため、無限と有限を区別する悟性の責任が極端に重くなった。彼は、いわば「点」を超越論的理念として受け入れようとしたが、点は場と究極的に接点をもたないし、結果としてその乖離を埋めるために、「考えることだけができる」物自体を設定せざるを得なくなる。いうなれば、神を殺しておきながら、その骸が揮発する寸前で宙づりにしてしまったのである。だが、原理的にいって、悟性に頼らずとも、無限を維持したまま有限の世界に渡ることはできない。したがって、必要なのは、本来、もっと別の問題構成だったはずである。すなわち、ひとの精神はいかにして、自身が生み出す無限を振り切りつつ、有限の実践世界を旅するのか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、芸術家は、徹底して、自己を表現しようとするひとである。この単純な思考法が、なにゆえラディカルでありうるのか。たとえば同世代のナポレオンとヘーゲルとベートーヴェンがいる。なにゆえ、この音楽家は彼らのうちでもっともラディカルに見えるのか。</p>
<p>芸術家は、社会（現代的な言い方をすると大衆）との相互作用という考え方を遠ざける。そしてむしろ社会を突きぬけて自然を見ようとする。ニュートンと戦ったゲーテや耳の聞こえないベートーヴェンは、それをもっともわかりやすく表現していたひとたちである。</p>
<p>ベートーヴェンは、デリダの言う「自分が話すのを聞く」ことができなかった。つまり、自分の声が周囲の空間を巻き込みながら耳に帰ってくる、という考えをもたなかった。徹底して、顎の振動としての自分の声を聞いていた。</p>
<p>なにゆえ、自己を表現する、というこの単純な思考法が、これほど困難であり、またなおかつラディカルなのか。それは、結局、無限を回避すること、自意識の葛藤を振り切ること、万人がうちに飼っている“デリダ”を捨て去ることを教えるからである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<blockquote><p>
われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ。ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ。このゼロに達した時に、そしてそこから更に新しく出発した時に、はじめてわれわれの自我は、皮でない実ばかりの本当の生長を遂げて行く。
</p>
</blockquote>
<p>大正期のアナーキスト、大杉栄の言葉である。大杉のこの言葉は、自意識内部の意識と無意識とのぶつかりあいの結果、自意識そのものがキャンセルされることを教える。つまり、行為のための真空、ゼロこそ、精神の理想的な在り方であることを教える。</p>
<p>ニーチェの「噛み切れ！」もまた、ここで響いている。デリダの円環を断ち切ること。そうしてはじめて、ひとは、いかに表現するか、という唯一の問題を手にするのである。</p>
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		<title>二つの時間概念――純粋な現在とはなにか</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Jul 2010 06:24:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[philosophy]]></category>
		<category><![CDATA[aeon]]></category>
		<category><![CDATA[Derridianism]]></category>
		<category><![CDATA[Khronos]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Time]]></category>
		<category><![CDATA[écriture]]></category>

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		<description><![CDATA[社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められよ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められようと願う社会の劣悪を認めるなら、それこそ己の試みが無意味なものになるからである。</p>
<p>かくして社会は己の才能が足りないと考えている連中で埋め尽くされてゆく。だが、社会は無謬ではありえない。それは歴史が証明している。悪いのは本当に自分なのか。若者たちよ、こういう古い「社会主義」とはおさらばして、次のように考えてみよう――われわれは社会を認めていない。問題は、われわれが、社会を認めるかどうかだ。社会が己を認めるかどうかという発想は誤りなのだ。いま社会に参画している連中を支え尻拭いさせられるのは将来の若者だということを忘れてはならない。</p>
<p>もちろん、こうした解決法も万全ではない。この選択はひとに狂気の誹りと孤独とに耐えることを強いるからである。社会の外にいる孤独に耐えるのは容易なことではない。また、「社会」を否定しても、社交的な態度までは失ってはいけない。孤独を愛する勇気が、ひととの「社交」を受け容れる勇気を排除するのであってはならない。いずれにしても、社会の側が劣悪だとすればそちらはよくある集団的狂気だが、結局、どちらの狂気を選ぶのかという問いになる。</p>
<p>黄金時代はとうの昔に終わっていた。われわれはずっと残照を黄金と取り違えてきた。だが、いまや多くのひとたちが、それが残照に過ぎなかったことを知りつつある。なのにわれわれときたら、目前に迫る闇を恐れて残照にすがる選択肢以外思い浮かばない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>孤独を恐れてか、それとも社会を「脱構築」しようとしてか、若者たちはいう。わたしにあなた方の尻拭いをさせてください、あなた方が逃げ切るお手伝いをさせてください。大人たちはいう。いやいや、それには及ばない、われわれのやっている失敗に手を貸してくれるだけでかまわない……。かつての「脱構築」のよき意図は、失敗に失敗を重ねる《なし崩し》にとってかわる。とある哲学者――ジャック・デリダは言っていた。過去に汚染されていない純粋な「現在」などない、それは西欧形而上学の悪しき伝統であると。</p>
<p>すでに大人たちによって汚染された現在を若者たちは受け容れねばならない。若者たちは、ほとんど泣き寝入りに近い形で、甘んじてそれを受け容れている。かつて大人たちが、そのまた大人たちの汚染を受け容れたように（しかし本当は、上の上の世代は上の世代にできるかぎりの白紙を残そうとしたのだ――ただ、わたしの願いは戦火なしに第一世代を実現することである）。この哲学はこう言っているかのようだ、西欧形而上学の伝統を破壊するために、この汚染を受け容れてくれ、と。</p>
<p>しかし、ニーチェは言っていた。ひとはみな「第一世代」になるべきだ、と。第一世代とは、振り返ることをやめ、纏わりつく過去を振り払い「現在」を生きるひとたちである。歴史ではなく、汚れなき白紙に地図を書く世代である。ニーチェがそれを言う以上、簡単ではないが、可能である。過去に汚染されていない「現在」は、強い意志があれば、生じうる。かの哲学者は、ニーチェを褒めそやしながら、彼と逆のことを言っている。第一世代など存在しないということが、「起源」であり、「起源」を超える／「起源」なき「起源」だと、そう言っているのだ。いったい、どれだけ失敗を繰り返せば、自分たちこそ第一世代の人間と自覚する若者たちの時代が来るのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>世代について考えることは、時間について考えることである。デリダの哲学はほとんど正しい。「起源」は、多くの場合に虚偽であり権力を可能にする神話である。にもかかわらず、ニーチェのような「第一世代」への意志、要するに起源や根源の自覚が必要な場合がある。</p>
<p>起源を求める欲望が、かえって起源という思考の欺瞞、起源など理念にすぎないという認識をもたらすのはよくある「深い」話である。だが、欲望が認識を突き抜けて、自らを起源とみなす、もっとも「浅い」意志にまで成長することがある。ひとたび認識が意志にまで成長すると、現在が過去に汚染されているという思考法は、現在を生きるわれわれが、過去に責任を押し付ける怠慢にしか見えなくなる。</p>
<p>「理論」の根底が異なる二つの時間概念があるようだ。そしてデリダの哲学は、これら二つの時間概念の「ごちゃ混ぜ」である。実際、管見に触れたかぎり、古今東西、「理論」のタイプは二つしかなかった。声と文字である。理論とは、ロゴス＝言葉である。ひとは現実にこの二つの言葉を駆使して思考しており、これらの技術がもつ欲望にしたがって、思考は無意識のうちに規定されている。両者は、それぞれ異なる形でおたがいを欲望し、必要としている――声は文字のように現在に定着し続けることを欲望し、文字は声のように流れて消える現在（つまり過去）を欲望している。その意志に応じて、二つの時間概念が生じる。</p>
<p>なんらかの媒体に定着することで時間に抵抗し、たえず現在を占め続ける文字は、そのつど過去を隠しながら存在する。文字は過去を露わにしながら隠している。隠しそして露わにする過去と現在の共犯関係は、実際には文字の自作自演である。真の現在は、むしろ文字が取りこぼしたものであり、この取りこぼされたものが、真の過去を形成する。つまり本当に隠ぺいしているのは真の過去だが、文字は、本当はこの消え去る現在としての真の過去を欲望しているのである。この過去を、文字は「取りこぼす」あるいは「隠ぺいする」という形でしか、もっといえば「痕跡」の形でしか表現できない。したがって、文字は、起源に永久にたどりつけないにもかかわらず、起源を追い求めるほかない、そうしたやるせない技術なのである。真の過去にはどのみちたどり着けないのだから、ここでの「知」のあり方は、もっぱら〈黄昏どきの診断〉となる。こうした技術は、理念＝欲望を統整的なものとしてみせるが、統整的理念は、別の言い方で、《歴史》と呼ばれることがある。文字なしに歴史を思考することは困難だが、そもそも歴史的思考法それ自体が、文字に影響されている。文字と歴史は、同時に発生したのだ。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この理論の上では、デリダの議論は正当性をもつ。というより、この理論的根底にもとづくなら、デリダ以上の解は存在しない。文字こそが歴史の起源なのであり、突き詰めて言えば、文字痕跡より先に歴史的起源は存在しないのである。ただし、そこから先の深度に差はあれ、この地点に到達しているとみなしてよい哲学はほかにもいくつかある。カントやフロイト、柄谷行人などがそれである。</p>
<p>しかし、もっと別種の哲学がある。それが声の哲学である。声は、時間軸上のある一点しか占めることができず、現在と呼ばれる瞬間は原理的にほとんど訪れない。過去に汚染された現在という言い方はできない。現在がつねに流れ去っている以上、むしろ現在を定着させようとする努力の方が推奨される。声はもともと消え去るものであり、消え去る現在、すなわち過去にはほとんど価値がない。声は、もっぱら現在を欲望し、自身が過去になってしまわないよう、現在を追い越すことすら欲望している。つまり、次の現在がどのように流れるかを、あらかじめ予測しておかなければならない。そうでないと、声は容易に足元を掬われ過去に流されてしまう。ここでの知のあり方は、〈朝の予言〉である。ニーチェの言葉でいえば、「午前の哲学」である。文字の哲学において、それが欲望する流れ去った《現在》は、もはやたどりつけない統整的理念だが、声の哲学において、それが欲望する《現在》は、まれにたどりつくことはできるが、その次の瞬間に別のものに変わる、という類のものである。</p>
<p>要するに、声の哲学は、激流に耐え忍ぶ欄干のような努力を必要としている。ひとの努力の結果が文字として結晶したわけだが、結晶した瞬間に、別の時間概念、つまり文字の時間概念が発生する。声の時間概念は消失する。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の哲学そのものは、文字を遠ざけておらず、むしろ文字を欲望している。その一方で、文字の哲学は、声を〈たどりつけない〉理念として欲望している。したがって、結果的に、両者の混在は、文字の哲学に有利に働く。だが、それにもかかわらず、声の哲学はかならず文字の哲学を凌駕する。なぜか。</p>
<p>じつは、文字の時間がたえず現在を見せ続けると言ったとしても、実際には、文字が定着する媒体の消滅速度にしたがって、ゆっくりと過去に流れ去っている。つまり、文字のみせる現在は「観念」である。石板に刻まれた文字は、ひとの死を越えて残るがゆえに永遠を夢想させるが、当然、石板そのものは風化を免れえない。紙であろうがレコード盤であろうが燃えればそれで終わりである。そして実際、ローマの王政時代の歴史がそうであるように、歴史は、なによりこの燃焼によって、とりわけ戦火によって、たえず失われてきたのである。歴史を忘却の底に沈めてきたのは、なによりひとが味方につけたはずの炎である。そして現実にどうやって歴史が残されてきたのかといえば、媒体の不滅性ではなく、写本によってである。今日目にする聖書も古事記も写本であって、マスターは存在しない。「歴史を語り継ぐ」という言葉は比喩ではないのだ。いずれにしても、文字の哲学は、実際には、声の哲学によって内包されており、文字のみせる永遠はいかにも「観念」である。というか、文字の哲学それ自体が、現在を「観念化」する。両者は、一般に、自然（声）と文化（文字）の差異としてなじみ深いものであり、要は自然のほうが優位にある、ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ここにきて、はじめて、声と文字とを区別する必要がなくなる。というのも、文字は声と対立するのではなく、声の遅延であることがわかるからである。文字は、声とは別の速度をもった、一種の声なのだ。</p>
<p>イェルムスレウの言理学の不思議な主張の正しさは、ここではっきりする。ソシュールは文字を声の補助物にすぎないといって自身の言語学から排除し、声を優先的に取り扱ったが、師ソシュールの教えの結論部分に従うなら、かえって文字も声と同様に取り扱うべきなのである。声帯をあつかう器械音声学があるのなら、ペンや筆をあつかう器械書字学があってもよいのだ。デリダのようにソシュールを反転して文字の優位を主張するのはやりすぎであり、跨ぐべきでない理論的根底を不当に横断することになってしまう。声と文字を反転させるためには、それらが対立しているという観点が不可欠だが、文字もまたいずれ消え去る以上、両者の対立は結局維持できないし、そもそも、消える、消えない、という対立自体が、「人間」の寿命を前提した偽の対立だからである。消え去る宿命をもった声の哲学はもとより万能ではありえないが、声の劣位と文字の優位を語ることは、声のもつよき意図をも抹消してしまう。たとえば、自分の話すのを聞く、という円環は、自分の書いたものを読む、という形で起こっているのであり、こうした現前の共同体から文字だけが逃れているなどということはありえない（わたしに言わせれば、自分が話すのを聞く、というこの問題はむしろ記憶痕跡の問題であって、音声中心主義ではなく、内なるエクリチュール中心主義の問題であると思う）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>声の優位が明らかである以上、むしろわれわれは、究極的には純粋な現在というものを意志せねばならないということである。だが、本質的に声の世界を生きているわれわれには、たえず過ぎ去る現在に身を任せているだけでは、現在――「今」はついに訪れない。</p>
<p>途上で、文字に助けを借りるさまざまな迂回、激流をなだめる遅延が必要ではあるかもしれない。しかし、そのことが、声の哲学を忘れさせることであってはならない。写真に残しておけばよい、紙に書いておけばよい、現在を定着させるのは簡単なことだ、という思考は、声の哲学を忘れて文字の哲学に、つまり観念に逃避しているだけである。</p>
<p>純粋な現在への意志、すなわちわれわれこそ「第一世代」であるという気概、要するに「今」、それは、エクリチュールの魔法を振り切ったときに、かならず現われる。わたしはそのことを確信している。ひとは、「今」を渇望しなければならないし、またそのようにしか生きられないのである。</p>
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