diary
KIO TANAKA WAS BORN IN 1976 IN KYOTO-CITY. HE RECIEVED M.A. IN WESTERN ANCIENT HISTORY AND Ph.D. IN JAPANESE MODERN HISTORY, BOTH FROM KYOTO PREFECTURAL UNIVERSITY. HE CAME IN SECOND OF THE SHINCHO NEW WRITERS PRIZE FOR AN ESSAY ON THE JAPANESE LITERATURE IN 2007.

2008.12.31

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高見と小林の墓参り

一昨日、鎌倉は東慶寺を訪れたときの出来事。

まずは高見順の墓参り。相手が作家であると思うと、それも死人であればなおさら、こちらも裸にならざるを得ない。とりわけ彼の前では、隠し事はできない。自分でも思いもよらなかった言葉が口をつく。「迷っている……」。ぼくは、歴史について思考し、そして哲学について思考し、巡り巡って文学にたどりついた。文学、この言葉は、ぼくにとって、もっとも《現実》的なものだ。本当の意味での思考、本当の意味での出来事、つまり現実は、ここにしかないということに、最近になってようやく気づくことができた。それは幸運なことだった。

文学が虚構であることを笑うひとびとがいる。多くは、批評家であったり、研究者であったりするひとたちだ。だが、じつは歴史が虚構であることをついに否定できないように、どのような批評も研究も、虚構なのである。大学の外にいる「実業家」たちからみれば、大学そのものが、充分に「虚業」である。だが、歴史がついに虚構を超えないということ、そのことは、突き詰めれば、大学の外でさえ、虚構の可能性を払拭できないということでもある。「実業家」と呼ばれるひとたちのことを考えてみればいい。彼らは、作家たちが虚を実にせんと欲望するその強さに引き換え、なんと虚に塗れていることか。要するに、資本主義という虚構を盲目的に信じることにおいて、実業ほど虚構的なものはないのである。

つまり、虚や実という区別は、ついに意味をなさない。物自体の世界と現象の世界という区別は、ついに意味をなさなくなる。世界そのものが、劇場なのだ。重要なことは、虚や実といった区別ではなく、虚を実にせんとするその実践、その意志のみである。そして、「劇場」という言葉が、もしその外部を想定した言葉であるなら、この語も不十分である。フランスの天才哲学者が言ったように、だから「工場」というべきなのかもしれない。なにかが生み出されるという、そのことを思考できるのは、もっと正確に言えば、思考そのものがなにかを生み出すような、そうした空間とは、劇場―工場のシリーズにおいてのみあらわれる。それを日本人は文学といった。ここにいたるまでにぼくはずいぶん回り道をした。それはもしかしたら、苦悩の軌跡といってよいかもしれない。

だが、戦前の作家たちは、さらに先を歩んでいた。彼らは、現実と文学の断絶に苦悩するようなナイーヴさはとっくの昔に克服していたし(むろんその問いにはたえず向き合わされていたとしても)、虚構にこそ深い現実が現れることを、とっくの昔に知っていた。高見順はぼくに言った。「よろしい、君は文学を発見したのだな? 文学にこそ、君が求めていた真理があること、それを発見したのだな? なら次は、《君の》文学を発見することだ。そうしてはじめて、君は本当の意味で文学を発見したことになるのだ。そこに至らぬかぎり、文学を発見したなどとは言えぬのだ。」

そうかもしれない。ぼくの文学? それはいったいなんだろうか。戦前の作家たちは、みな、自分のスタイルを見つけ出していた。文学という空間のなかで、さらにそこに驚異的な飛躍を可能にする斜線を引いて回っていたのだ。ぼくは全然甘いのだ。どうすればよいのだろう。ぼくの問いに、高見は答えた。「いいからなにか書きなさい。」

さて、このお寺には、たくさんの著名人の墓がある。高見順をはじめ、西田幾多郎、和辻哲郎、鈴木大拙、阿部能成、岩波茂雄、そして小林秀雄。小林秀雄の墓か。ぼくは墓の前で、こんなことを思わず考えた。「志賀直哉について、なにか書けたらと思っている……」。すると、墓のなかから顔を出して、小林はこう言った。「お前が?」 不服そうな彼の口調に、思わず立ち上がった。どうしてこんな自問自答が浮かぶのか。ぼくが喋っているのは、小林ではなく、自分なのだ。動揺と不満とがないまぜになって、ぼくは墓に尻を向けた。同行者がぼくを不審そうに見ているのを知っていたが、とりあえず小林の墓の前を去ることにした。ぼくは小林以外の批評家をまったく認めていない。つまり、小林は認めている。たが、こうした物言いは、小林には傲慢に映ったのだろう。当然だ。彼の墓の前で、まったくいい気になっている若造以外のなにものでもなかった。

小林の墓を後にすると、石段の底で、カメラを持った六、七人の集団がぼくの横を通り過ぎた。ひとりは、かつて小林秀雄賞を受賞された方だと記憶するが、間違っているかもしれない。彼らも、小林の墓参りらしい。同行者は彼らより先に小林の墓参りができてよかったと言った。ぼくはなんの感想もなかったが、小林とはもっと長く喋っておけばよかったかもしれないと思った。

2008.12.14

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坂本龍一

最近、坂本龍一を聴くことが多い。小さい頃からファンだった手前、坂本を聴いているときは、自分が「衰弱」しているときだと認識することにしている。

「衰弱」というとわかりにくい? 衰退といってもいいが、疲労ではない。没落でもない。要するに、演歌的なものに食指が動くということか。身体的には健康でも「思考」がはたらかない状態にあるということか。頭に意味が溢れてしまい、「思考」を身体が拒絶しているというべきか。ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』を読んでも、変に頭が「理解」しようとする方向にはたらいて、感じることができない。この本から意味を求めているときは、たいてい頭が馬鹿になっているときだ。『ツァラトゥストゥラ』は「歌」だ。この本の奏でる音楽を聴かずに意味を求めるなんて、馬鹿げたことだ。そういうとき、ぼくは自分が「衰弱」していると感じる。

そういう場合の処方箋として、ぼくは坂本を聴く。実際、聞いているのは、『04』で、Asienceだとか、Roningai-symphonicだとか、こんなものを作って、坂本だってずいぶん衰弱していると思う。

だが、衰弱を共有したって、嬉しくない。そうじゃなくて、坂本のよさは、彼の独特の「音作り」にあると思う。

ぼくは、彼の曲を聴くと同時に、音も聴いている。音楽的には、浅田彰が的確に、そしてじつは好意的に表現するような、アカデミズムが抜けきらない印象を拭えないし、また同時にその裏返しのロマンティシズムも、好きではあるが、気恥ずかしい。それはそれで衰弱している自分には都合がよいのだけど、ただ、音は別だ。こんなに音を作りこんだ作曲家は、いないと思われる。

バッハの時代には、楽器の製作は、演奏や楽曲の製作がそうであったように職人の領域にあり、ラヴェルの時代になって、演奏がアートの領域を開拓しても、楽器は変わらず職人の領域にあった。だが、坂本はシンセサイザーの時代の申し子であり、かくして、音そのものが、アートの領域に突入したのだが、それと同時に、坂本を、かえって“職人”に見せるようになった。職人芸としての彼の音作りは、やはり際立っていると思う。そこに衰弱はないし、この音を聴いて、ぼくの「思考」は知らず快癒するのかな。

『/04』
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2008.11.05

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大統領選挙

ひとりの黒人男性がアメリカ大統領となった。すばらしいことだ。彼は、黒人、女性、性同一性障害者、すべてのマイノリティを演じることを、自ら引き受けたひとりの俳優となる。ギリシア悲劇において、《顔》も《仮面》も同じく「プロソポン」と呼ばれたように(誰だ、仮面から素顔への進歩に近代文学の神髄をみた輩は。文学が誕生したギリシアにおいて、顔も仮面も等しいものだったのに)、彼の素顔は仮面となり、彼は以後、マイノリティを演じる役者となる。彼は、その素顔や内面などとは無関係に、マイノリティの仮面を自ら被り、役者としての生を歩むのだ。

もちろん、役者としての彼が名演技をしてくれる保証はどこにもない。ただ、彼がその役を買って出たことはたしかである。その意気やよし。

アカデミシャンども、評論家どもがくだらぬことを言い、彼の仮面を剥ぐことに必死になるだろう。いな、剥ぐのではなく、彼らは、もうひとつの仮面をかぶせようと躍起になるのだ。わかりやすくいえば、“人種”という《悪い意味での仮面》を作り出すのは、彼らなのだ。だが、ぼくは、今回のことは心から、すばらしいことだと思う。本当に、まったくのひさしぶりに、世界が進歩していることを感じさせてくれた出来事だった。ぼくは彼が民主党だったことと、アメリカ国民であることとは無関係に、ただただ、彼に感謝したいと思う。

2008.11.03

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ホメロス礼賛

久しぶりに、ホメロスの『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読んだ。ぼくがホメロスをはじめて読んだのは、中学か高校の頃だった。実家には、ギリシア悲劇の全集はあったが、ホメロスはなく、それで図書館で借りて読んだのだ。誰に薦められたわけでもないが、ぼくはギリシア・ローマが、どういうわけか、とても好きだった。教科書なんかでみる、あの均整の取れた彫像のリアリティは、どう考えても、あらゆる諸文化・諸文明を傑出している、という風に根拠なしに思っていた。『イリアス』も、『オデュッセイア』も、ぼくが事前に期待するような風には書かれていなかった。だが、それでも、ホメロスはぼくにとっては特別な存在だった。

ローマの風刺作家ルキアノスは、《ホメロス的建築術》について語っている。彼によれば、《ホメロスは、わずか二、三行の言葉で、オリュンポス山にパルナッソス山を積み重ねることができた》。ぼくはルキアノスの言葉に納得する。そうだ、ホメロスはやっぱりすごい。彼は、《わずか二、三行の言葉で、山に山を重ねることができる》。

ホメロスと並ぶ文学者ヘシオドスは、ムーサの女神、今日では《音楽》の語源となっている彼女に、次のように語らせている。「野山に暮らす羊飼いたちよ 卑しく哀れなものたちよ 喰いの腹しかもたぬ者らよ/私たちは たくさんの真実に似た虚偽を話すことができます けれども 私たちは その気になれば 真実を宣べることもできるのです」(『神統記』廣川洋一訳、岩波文庫)。

「その気になれば 真実を宣べることもできるのです」。かのシュリーマンの狂気がトロイアの遺跡を発掘したとき、『イリアス』は、《言表》(フーコー)となった。ホメロスの言葉は、数千年を経てなおいまだ生き生きとして、やがて満ちて、そしてついに溢れて《出来事》となった。プリアモス、ヘクトルの親子や英雄アキレウスは、ぼくたちとは違った形で、本当に存在する。

カントの歴史的な時間概念とは異なるこの《文学》的な時間概念を、うまくひとに伝えるのはむずかしい。《文学者の言葉は、まだ生きている。不思議なことに、死んでいないのだ》。

ホメロス『イリアス〈上〉 (岩波文庫)』
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ホメロス『イリアス〈下〉 (岩波文庫)』
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ヘシオドス『神統記 (岩波文庫 赤 107-1)』
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2008.09.11

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中平卓馬

中平卓馬という写真家がいる。1977年の9月11日、つまり今日からちょうど31年前に、アルコール中毒で倒れ、記憶や言語に障害を負いながら、今日もまだ、写真家でありつづけているひとである。ぼくが彼のことを知ったのは、一昨年の暮れごろだったと思う。尊敬する方が――といっても、いまでは、理論的にはぼくはだいぶ違うところにいるのかもしれないが――いや、本当はそんなことはないのかもしれない――、教えてくれたのだ。彼の映画がある、それを観に行ってみてはどうか、といわれたのである。ぼくは、そのときはじめて、彼の名前を知った。

当時、ぼくは記憶やら忘却やらのことについて、巡らぬ頭を巡らせて考えていたので、その示唆はものすごくタイムリーだった。だが、その頃は学会の準備などで微妙に忙しく、結局その映画には行かなかった。それで数年が経ち、そして一昨日のことだ。交叉点の本屋で、偶々、彼の『なぜ、植物図鑑か』を見かけた。そして手にとって、驚いた。彼は、わたしがゴダールの『東風』を観て感じたことを、もっと的確な言葉でそこに記していた。すこし前に、ぼくは『東風』について語り合う革命家たちのくだらない話を書いた。ぼくは、血液を赤インクだというアンヌ・ヴィアゼムスキーの台詞――いや、『中国女』だったか? ヴィアゼムスキーでもなかったか?――にいつもどきどきするのだが、やはり、彼もそうだったらしい。そのことは、すでに『なぜ、植物図鑑か』に書かれていたのだった。

読むにつれて、興奮が抑えられなくなってきた。どこを切り取っても、そこには一流だけがもっている鋭利な、ほんものの視座がある。こんなひとが、まだいたのだ。読んでいくと、アルベール・カミュが引用されていたりするので、ぼくもカミュを本棚の後ろの方から引っ張り出してきた。論点はちがうが、「価値無きものの価値の哲学」は、中平のおかげで書けたものである。

そのとき、偶々隣にいた知己の女性に見せると、「文章があなたに似てるね」という。そうだろうか。そうなら、彼は迷惑かもしれないが、すごくうれしい。遅れ馳せながら、ファンになった。

中平 卓馬『なぜ、植物図鑑か―中平卓馬映像論集 (ちくま学芸文庫)』
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中平 卓馬『原点復帰-横浜』
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2008.09.03

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素粒子のこと

京大の基礎物理学研究所の隣に湯川記念館がある。そこには、中間子の存在を理論的に予言した1935年の「素粒子の相互作用に就いて」の原稿やそこに至る計算が書かれたメモ、あるいはバートランド・ラッセルからの手紙(ラッセル=アインシュタイン宣言への署名を請うもの)など、湯川秀樹にまつわる厖大な資料が残されている。最近、わたしは、音楽のことがもっと知りたくなった。それで、湯川記念館で、それらの資料に触れてみようと思った。

何日もそれらの資料に触れていると、門外漢のわたしにはまったくわからない数学の公式をみるのが、とても楽しくなってきた。厖大な資料の渦のなかで、数式に出くわすと、なんだかわからないが、どきどきしてくる。御存知のとおり、数式には、多くのギリシア文字が出てくる。α、β、γ、δ、ε、ζ……。ギリシアのアルファベットが好きなので、それも、どきどきを増幅させる原因だろう。そこには、すでに音楽がある。いや、もちろん、それらは素粒子について書かれたテクストにすぎない。そうみなすのは簡単なことだ。だが、主客の順序を変えて、テクストにすぎないそれらの数式には、じつは素粒子のことが書かれているのだ、と思うとき、そこには、すでに美しい音楽がある。今度また数式をみつけたら、泣きながら笑ってもいいと、本当に思う。

批評家や歴史家は、本のページを、後ろからめくっていく。すでに結末を知っている彼らは、本に立派な表紙をつける。現実と、なかに書かれた物語とを区別するために? 《自然》と、《文化》とを区別するために? きっとそうだ。断言してもいい。しかし、ひとは、本当は結末など知らない。結末を知らないということ、それが生きることだ。高橋悠治が「初見」でピアノを弾きたがるのは、楽譜を読まずに歌いたいからだ。本当にわたしが断言せねばならないこと、それは、音楽や文学は、つまり芸術は、素粒子である、ということだ。素粒子の振る舞いは、結末を知らない文学のようなものでなければならない。

湯川たちがラッセル声明のために集めた署名のなかに、田辺元や務台理作の自筆のそれがあった。ふと、京都学派のことを思う。たとえば、この学派の俊英であり、西田幾多郎にもっとも評価されていた高山岩男は、少年時代はむしろ、当時来日したハイゼンベルクやアインシュタインらに魅かれていたひとであり、そちらの方面でもきわめて優秀な成績を修めていたのである。和辻哲郎にしても、西田にしても、彼らはヘーゲルに接近していくが、量子論あるいは素粒子論的な思考は、別にヘーゲルを遠ざけてはいない。当時、ある物質の振る舞いを《現実に》決めるのは、ついには鑑賞者である、という量子力学の思考にもっとも近しかったのは、ヘーゲルの歴史観だったのである。彼らにとって、ヘーゲルは、二者択一のあいだで進退きわまって弁証法を選ぶような、そんなアカデミックな思想家ではなかった。むしろ、積極的に選び取るひととして、そんな勇敢なひととして、映っていた。湯川秀樹は、『哲学研究』という雑誌にも量子論についての論稿を発表しているが、京都学派は、当然、量子論や素粒子論を知っていた。知っていて、そのうえでヘーゲルを選び取ったのである。

いや、むしろ、湯川も含めた巨大な知的体系を構成していたのが、京都学派と言っていい。われわれは、湯川のノーベル賞受賞を、戦後の出来事だと思っている。そうには違いない。しかし、湯川の中間子論が一九三〇年代の思考であったように、じつはむしろ、ノーベル賞の輝きは、真に輝いていた戦前の京都学派の残照にすぎないのである。上述の記念館には、湯川の後輩であった坂田昌一の筆になる論稿も多数残されているが、彼は、素粒子の世界では、もっとも左派にあったひとであり、「無限階層論」を唱えたひとであった(それはいわば、草野心平の「第百階級」に喩えられよう――逆にいえば、草野にとって、素粒子とは蛙にほかならない)。こうしたアナーキーな思考もまた、京都学派から生まれたものである。われわれ戦後の世代は、そうした真の光の残照の方を光と信じ、光の源を記憶の彼方に切り離してしまった。それは、とても空しいことだったと思う。

数学者は、みな、多かれ少なかれ、《独断論者》である。量子力学や素粒子の理論が真に理論であるためには、どうしてもそれは独断論でなければならない。戦後、大挙してあらわれた《判断保留者》の群れは、断言することの重要性を、ついに見失わせてしまった。どちらかといえば悪名の方が高い京都学派のひとたちが、それでも、数学者のような《独断論者》であったことを、わたしは、羨ましく思う。こうした《断言する世界》のなかにしか、数学や音楽は存在できないのだ……。

2008.08.25

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城之崎にて

この夏、一番の思い出といえば、城之崎に行ったことである。家賃を納める際、毎月2000円余分に預ける、ということを続けていたら、それなりにお金が貯まっていたから、それで行った。城之崎行きを、印象深いものに変えたのは、やはり、当地で読んだ、「城の崎にて」である。

三木屋という旅館で、当然のように志賀直哉の同作を読みふけった。そして、志賀の天才に打たれた。若い頃には気づかなかった彼の天才が、わたしの心を打った。数々の優れた小品のなかでは、わたしが最も評価する部類には入っていなかったそれが、たちまち、姿を変えてわたしの前に現れた。

この作品について、ここで論じる気はない。が、もし文学史に興味があるなら、漱石に薦められた新聞小説の執筆を断ったあと、四年の沈黙を経て書かれたのがこの作品であるということ、それは、すこし念頭に置いておいてよいかもしれない。新聞に連載する小説である以上、「豆腐のぶつ切りでは困る」と漱石に言われ(要するに、連載のたびに、いちいち盛り上がりを付けろ、という意味だ)、それならと、志賀はただちに執筆を断っている。わたしは、志賀のこの態度に、きわめて清々しいものを感じていたのだが、「城の崎にて」にあったのは、むしろ、意外なほどの《痛み》だった。小説とはなにか、そうした問いについての、きわめて深い、そして痛切な哲学的考察を含んだこの作品は、同時に、漱石への静かな批判に溢れている。

以後、志賀は、この《痛み》を抱えたまま、小説を書くだろう。以前にもまして、志賀は、ありふれたテーマばかりを選んでものを書くようになる。しかし、そのことは、彼が、つねに危機に一歩足を踏み入れながら小説を書いたということを意味する。彼の静かで孤独な戦いは、少なくとも小林秀雄を感動させた。あの気障でおしゃべりな彼が、志賀の前では、凡庸な言葉しか吐けなかった。小林は言った。「おれにはこの感動の内容を説明することができない」……。

さて、わたしは、なんと言ったものか?

志賀 直哉『小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)』
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2008.08.15

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オリンピック

オリンピックなどというナショナルな祭典は好きではないが、見ていると、スポーツの世界には、まだ、純粋なものがあると感じさせられる。純粋なもの――それは、自己に内在的な追求のこと。つまり、自己の認識を拡張すること。かつて、芸術も行なっていたことを、今日では、スポーツだけが行なっている。昨今、「所詮は○○にすぎない、人生にはもっと大切なものがある…」などという言葉が流行しているように思う。所詮言葉、所詮芸術、所詮スポーツ、所詮政治……。いったい、なにが大切なのか? 生活? かくして、コンセプチュアル・アートに堕した芸術には、もはや政治的な戦略以外のなにものをも見いだせなくなってしまった。

そうした超越論的言説やアイデアリズムは、まちがっているというわけではない。たんに、わたしはそういう言説が嫌いなのである。というか、それは《言説》ではない。そうした否定形の言説は、言説というよりは、何も生み出さないおしゃべりにすぎない。だが、いまだスポーツには、そんな超越論に逃げ込まない、もっと内在的な追求が、すなわち歌が、かろうじて残っている(そうではないアスリートがどんどん増えている面もあるのかもしれないが)。彼らは、《全身全霊をスポーツに賭けている》。彼らは、《肉体と精神のすべてを瞬間に捧げている》。そうした姿は、美しい。芸術的な強度がある。だが、そのことは裏を返せば、人生の内在的な追求は、もはやスポーツに囲い込まれてしまっている、ということである。だから、わたしが肯定するのは、スポーツではない。その内在的な追求である。スポーツは、やはり、政治的なものだ。それらの超越論を多種多様な回転運動の外に放擲し、その内在的な追求――すなわち認識の拡張――すなわち革命、その純粋な革命の歩みだけを、賞賛するのだ。

かつて、ギリシアにおいて、オリンピックは、芸術の祭典でもあった。肉体と芸術、身体と言葉とが、夢のようにひとつであった時代。誤解を承知でいうが、ギリシア時代、オリンピック期間中に、戦争が行なわれなかったのは、オリンピックそれ自体が戦争だったからだ。加えて終戦記念日に不穏な物言いで申し訳ないが、肉体と芸術の融合、それは、戦争の謂いなのだ(ところで、肉体と芸術の《弁証法的な》融合、それは、戦争を《悪しき》戦争に変えるだろう)。肉体にのみ、人間の純粋な追求が囲い込まれた今日のオリンピックは、裏を返せば、たんにその期間外には戦争をしてよい、という規定に変質してしまっている――というか、時期に関わらず、戦争は行なわれているのだが……。

結局、今日のオリンピックでは、人間の純粋な追求が――すなわち革命が、スポーツという領域に囲い込まれてしまうことを、《否定的に肯定する》ことしかできない。それに、オリンピックの影で、さまざまな出来事が人知れず進行していることも確実である。だが、いまは、そこにちらつく政治的な影を、回転運動の外に振り払おうとする、アスリートの汗や涙に、ひとときの革命を楽しむのも、悪いことではないのかもしれない。……

2008.08.08

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ナイーヴ

ウェブサイトを始めたのは1999年の暮れである(単位が足りず留年したので、まだ学部生だった)。その頃のものも、いくつか適当にピックアップして、ここにも載せようかと考えている。22、3歳の昔のものを読んで感じるのは、若気の至りで書いたという恥ずかしさと、今も昔に較べて、それほど変わっていないな、という、深さを欠いた、乾いた感情である。自分より若い読者がいたとして、これを読めば、もしかしたら、優越感を抱いたり、あるいは発破をかけられたりすることがあるかもしれない、と思った。だから、ここに掲載することにした。

二〇代前半のかつて、自分は、とても「遅れている」と考えていた。年齢からすれば、本来、自分はもっと成長しているべきであって、自分の幼さをとことん排除しようと考えていた。実際に遅れていたし、いまも遅れているが、ともあれ、だからこそ、書いた。書くことが、自分を成長させると信じたから。

30を過ぎて、自分が依然としてもっているナイーヴさには、愕然とすることがある。もう、このナイーヴさは、おそらく取り除くことができないものだろう。そこにもはや、「遅れている」という感覚はない。もう「間に合わない」というのが実感である。それでいいのだ。わたしの自意識が、いくら幼稚でナイーヴであろうと、それでも、わたしの言葉は、そんな自意識などおかまいなしに、矢のように彼岸に飛んでいくことを信じている。そう信じられるようになった。だが、そうした信念こそ、ナイーヴではないか、といわれれば、そうだ、と肯いて、自分のことを笑うしかない。

2008.04.22

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ゴダールの偉大

毎度自分のことばかりで恐縮だが、ゴダールの映画に出会えたことは、本当によかったと思っている。十代の終わりに、レンタルビデオ屋でゴダールの『気狂いピエロ』を借りて震撼させられて以来、いつも彼のことを考えていた。ゴダールの映画は、ぼくの考える芸術というものの感覚に、完全にぴったり来ていた。まだその頃は、そうした感覚を言葉にするにはあまりにも幼稚だったが、ならば、いまはどうかと問われれば、もちろん、感覚的に答えるほかない。

ぼくは、別に映画鑑賞は趣味ではない。絵や音楽とちがい、自分でそこにアクセスするには、映画はあまりに巨大なものだったからだ。絵画や音楽には、すでに、《アート》と呼べる領域が存在していた。たとえば、音楽。アイドルの歌う歌と、ベートーヴェンのそれがちがうことくらいは、子供でもなんとなくわかる。といって、それほど明確な差があるわけではない。ならば絵画はどうか。漫画の表紙と、レオナルドの描いた絵がちがうことくらいも、やはりわかる。しかしもちろん、それほど明確な《区別》があるわけではない。量的な違いが質的な差異に変化するほど大きい差があるとしても、そこにあるのは、あくまで、《差》なのだ。そういうことは、子供でも認識する(おそらくは大人たちの弁証法に感化されて)。だから、漫画の絵を追求していく果てに、芸術としての絵画に到達する、ということは、あってもよいように思える。音楽もまたしかり。ぼくの子供時代は、親の影響からビートルズをよく聞かされたが、ビートルズは、音楽におけるベートーヴェンと歌謡曲のあいだを埋めてくれる、よいアイテムだった。

思えば、ぼくの幼年期は、知識人と大衆のあいだをつなぐものが求められていた世代によって影響されていた頃である。それは多分にマルクス主義の影響だが、べつにそれだけではなく、もっといたるところから、《民主主義》の名の下に、すべてが許されていた時代である。政治はポップでなければならず、また、アートもポップでなければならなかった。坂本龍一が結局はポップスの道を歩んでいたのも、そういう時代であるがゆえに、である。実際、ぼくも、おそらくは政治的に暗示されて、そういうものを好んで聴いていたと思う。たとえば、ジミヘンのギターもいいけど、イーグルスのギターの音もなかなかいいね、だとか、若い頃のスティーヴィー・ワンダーはよかった、だとか、そういう大人の言葉を嬉々として聞き、それを学校の級友に話して、何度も反芻していたのである。

ともあれ、音楽にせよ、絵画にせよ、すべてがポップ化していた時代に、ぼくが出会った気狂いピエロは脅威だった。それは、多分に映画というものをぼくがまったく知らなかったことに起因している。ぼくにとっての映画の観念には、アートの領域はまったく存在していなかったからだ。ぼくは、ゴダールが誰なのかも知らなかったのだ。まだ、浅田彰や蓮実重彦なんて、名前すら知らず、当時の知識人やアーティストで積極的に知っているとすれば、せいぜい坂本龍一(か、父親の本棚によく見かけた吉本隆明)くらいのものだった。ゴダールに対する前知識などまるでなかった。おしゃれなパッケージに惹かれたというくらいで、いや、そんなパッケージよりも、ただ、「ゴダール」という監督名がぼんやり輝いているようにみえたというただそれだけの理由であの映画を借りて夜中にひとりでみたとき、本当におしっこをちびりそうになったのだ。《なんだ、これは??》

そこには、大衆と知識人のあいだだとか、風俗と芸術のあいだだとか、そんな生ぬるい問題構成は一切存在していなかった。たんにアートだった。ショットとショットのあいだの飛躍、台詞と台詞のあいだの飛躍、あのすべての飛躍が、ぼくをアートの世界まで三段飛ばしで運んでくれたのだ。いまでは、あれほどポップな映画もないと思うだろうし、誰もがそれに同意してくれるだろう。みんなが、そういう風に、彼の映画をポップに楽しんでいる。ともあれ、それまで、結局は大衆のひとりに過ぎず、大衆的なものに塗れていたぼくに、《個人》というものを教えてくれたのだ。大衆と知識人、という二項対立的な問題構成そのものでさえ、大衆的なのだ。そうではなく、ぼくらは、《個人》にならねばならない。《勝手にしやがれ》、というわけだった。

音楽であろうが、絵画であろうが、量や質の問題を超えて、ただ強度としてあるような、芸術の領域。漫画や歌謡曲が、けっしてたどりつけない、芸術の領域があるのだ――といって、じつは、芸術など、けっしてそんな大そうなものでも立派なものでもない。求められてひとに憩いを与える漫画や歌謡曲の方が、よっぽど立派である。むしろ、芸術の方が、漫画や歌謡曲のような、憩いを求めてしまうのだ――つまり、芸術とは、個人そのものであり、人生そのものなのである。労働者は、べつに、芸術など求めはしない。労働者が求めるのは、ひとときの憩いであり、いつも目の前に広がっている《人生》を遠ざけてくれるものの方が、よっぽど重要なのだ。芸術は、労働者の憩いになど、なろうと思っていない。たんに、労働者に、あるいはたんに《人生》になりたいと思っているのだ。本当の本当のリアリズムを求めているのだ。

いまのぼくがゴダールの映画をはじめて観たならば、即座に《文学》と叫んだことだろう。彼の映画は、ぼくにとっての文学的体験そのものだったのである。戯作と呼ばれ、たかだかエンターテイメントにすぎなかった小説を、芸術にまで高め、純文学の領域を作り出した戦前の文学者と同じ努力を、ゴダールはしていたのである。戦後の文学者たちが負った仕事は、それをまた大衆の足下に引き摺り下ろすことであり、あろうことか、そうした近代文学がポップな《国民国家》を作ったとまで言われるようになるのだが、そういうことと、戦前の真の文学者が無縁であるように、ゴダールもまた、無縁である。ゴダールの映画は、大衆とも、労働者階級とも無縁の芸術である。だからといって、芸術が、王や領主を選ぶと考えるとすれば、それはあまりに二項対立的な考えである。芸術は、王か、民か、ならば、もちろん、民を選ぶ。ただし、大衆は別である。そんな抽象的な《マス》よりも、具体的な《個人》と、あるいは、定冠詞の付かない、ただひとりの《労働者》と、関係を結びたいと思っているのだ。

まとまっていないが、彼への賛辞を書きたくなったので、書いたまでである。ゴダールは、批評家としても、きわめて明晰である。だが、彼のような批評を、日本の戦後の文学批評家からは、一度も聞いたことがない。べつに、非難していうのではなく、戦後の批評家は、相当に特殊な領域を築いていたということである。ゴダールに、映画など虚構にすぎない、などと、唖然とするようなことをいうひとはどこにもいないだろう。だが、戦後の批評家は、そういうことを、文学者に言い続けてきたのである。これはこれで、戦後の日本を研究対象とする場合には、とても重要な事実となるだろう。ぼくは、戦前にばかり目が向く古くさい人間だが、《芸術など虚構にすぎない》という言説が、戦後の日本を作りあげたと考えて、おそらく差し支えない。思えば、ゴダールは、《ドキュメンタリー》と《フィクション》という二つの極について、次のように言っていた。

〔インタビュアー〕――それで、あなたはどの極から出発されたのですか?
ゴダール どちらかと言えば、ドキュメンタリーから出発し、ドキュメンタリーにフィクションによる真実をもちこもうとしているということになると思う。…
 ぼくはまた、演劇的側面にも興味をひかれている。『小さな兵隊』では具体性に到達しようとしたわけだが、ぼくはあの映画ですでに、具体性に近づけば近づくほど演劇に近づくことになるということに気づいた。そして『女と男のいる舗道』は、きわめて具体的であると同時にきわめて演劇的な映画だ。…リアリズムにうちこむことによって演劇を発見し、演劇にうちこむことによって……。演劇の背後には人生があり、人生の背後には演劇があるというわけだ。ぼくは想像的なものから出発し、現実的なものを発見した。でも現実的なものの背後には、もう一度想像的なものがあるわけだ。

(『ゴダール全評論・全発言I』、奥村昭夫訳、筑摩書房、一九九八年、508ページ)

そういえば、志賀直哉のおかげで論文が書けたと前に言った。それと同じくらい大きかったのは、ゴダールの『映画史』である、ということを、あのとき、付け加えておいてもよかっただろう。ゴダールの態度は、『映画史』においても、変わっていない。彼は、歴史のドキュメントのなかに、ゴダール自身という、きわめつけの演劇的なものを登場させたのだから。それと同じことを、論文を書いていて、ぼくにも感じられた。真理に近づこうとすればするほど、それはより虚構的になるという事実に。それは、真理か、それとも虚構か、などというふやけた二項対立とは無関係なのだ。……

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