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基地問題、あるいは文学とリプレゼンテーション
マスメディアのあいだであふれている言葉が、ほとんどすべてリプレゼンテーションであることは容易に察しがつく。彼らには、ほんとうにいいたいことは別にあって、ずっと「意味」を隠しているのだ。デリダがいうように、この種の言葉は、 [...]
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政治と芸術
知識人としては失格かもしれないが、わたしは素朴な人間で、依然として小沢‐鳩山体制には――とりわけ外交の点で――期待している(とはいえ前回の選挙でどこに投票したのかは秘密だし、今後民主党内でありうるほかの体制にはほとんど期 [...]
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湯川秀樹と特殊領域にかかわる知識人
量子力学のことが知りたいと思って、京都大学は基礎物理学研究所の周りをうろついていると、なぜか湯川秀樹が残した膨大な資料(そこには、一九三〇年代に書かれた中間子論の自筆の原稿が含まれるばかりでなく、バートランド・ラッセルや [...]
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二つの言語論(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ3)
ジャック・デリダは言う。 比喩というのは、言語の起源ということである。なぜなら、言語はもともと隠喩的なものだからである。…隠喩は《意味するもの》の戯れとして存在する以前の観念あるいは意味(こう言ってよければ《意味されるも [...]
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オクシデンタリズム(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ2)
ユークリッド(エウクレイデス)の第五公準、いわゆる平行線の公準は破られて久しい。この事態を文学的に翻訳するなら、それは、〈平行線は交わる〉ということである。第五公準とは次のようなものであった。 二つの直線が第三の直線と相 [...]
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記憶と忘却の娘としての《技術》(スティグレールによせて)
わたしの考えていることと、最近名前だけ知って多少気にかけていた、一風変わった経歴をもつベルナール・スティグレールの考えていることには、どうやら平行性があるようだ。記憶や記録、プロメテウスとエピメテウスの関係について論じて [...]
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ポストモダニストたち(2)――ヴァルター・ベンヤミン
ヴァルター・ベンヤミンについて、まとまったものを書きたいと思って、ずいぶんと時が過ぎた。歴史的時間の奇妙さにもっとも近づいたのは、彼である。彼のおかげで、自分がずっとまえから抱かされていた時間感覚について、言葉を――つま [...]
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ポストモダニストたち(1)――ミシェル・フーコー
わたしの愛するポストモダニストたちがいる(この言葉を、あえてよい意味で使おう)。年齢順にいえば、ニーチェ、ベンヤミン、ドゥルーズ、そしてフーコーである。ホメロスやプラトン、デカルトやゲーテも愛しているが、彼らには途方もな [...]
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言文一致論(「精神の歴史」のためのプロレゴメナ)
ハイゼンベルク(1)の不確定性原理Uncertainty principleは奇妙なものである。この原理を生活レベルに(つまりあえてマクロレベルに)翻訳すればこうなる。われわれがグラスなどの対象をみるとき、目から発せられ [...]
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弁証法の彼方へ
われわれの思考は、アドルノやデリダ、そしてハバーマスのあいだで揺れ動いている。弁証法に反対する人も、賛成の人も、結局は、彼らのつくる三角形のなかで藻掻いているにすぎない。全体化に強く反対したアドルノが、差異化の運動そのも [...]



