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	<title>ex-signe &#187; criticism</title>
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		<title>政治と文学、国家の安全保障</title>
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		<pubDate>Tue, 23 Aug 2011 21:07:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Deleuze]]></category>
		<category><![CDATA[Foucault]]></category>

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		<description><![CDATA[文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。 こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。</p>
<p>こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれも《言葉》をあつかうという点で、同一の《武器》を用いているという当然の認識から出ている。それはいうまでもないことだった。混じりけのない言葉の活動であるべき文学のなかに、政治はたえず侵入する機会をうかがっている。侵入を可能にするのは、次の言葉の定義である。すなわち、意味を共有したひとびとのあいだで用いられる社会的なもの。この定義が発動するたびに、政治はまんまと文学に忍び込む。つまり現実にはひとの命を奪うことさえある言葉という《武器》を、ルールを共有した者たちで行なわれるゲームの《道具》にみせかけてしまうわけである。われわれが握っているのは武器ではなく道具だと教え込むことで、革命の芽を根こそぎにする（そしてそうすることで革命には言葉を超える暴力が必要だと誤って思い込ませ、革命を民衆から憎悪させることも忘れずに行なっている）。そればかりか、言葉を用いるたびに、知らず現行の社会を構成する権力を補強するように仕向ける。言葉が出来事ではなく意味を指し示すなら、意味をあらかじめ決定する権利をもつ政治には、まことに好都合な定義となる。意味からの逸脱は非社会的なルール違反として摘発すればいい。社会という言葉でひとびとを内から縛り、ゲームを続ければ続けるほど、言葉のゲーム盤をますます支配下に置くことができる。</p>
<p>しかし、文学にとって意味は不純物である。光速で飛ぶ言葉に対する人間の感官の遅れが生み出す、残像のごときものにすぎない。こうした不純物は、文学に、おのれの純粋さに向けたさらなる情熱を生み出す。文学はこの不純物をおのれのなかから追い出し、洗い清め、そうすることで透明な翼を取り戻した文学の魂とでもいうべきものを、さらなる高みへと昇らせる。これは言葉という武器によって戦われる戦いであって、けっしてゲームではない。政治的なものを文学から切り離そうとする者たちは、むしろ言葉をたかだかゲームの道具に変えてしまう政治と真正面から戦っている。言葉がただ純粋であるというだけで、権力は致命的なダメージを受けうるのである。</p>
<p>とまれ、ここで確認しておくべきは、文学から政治を切り離そうとする運動は、言葉をあつかうという点で、両者が同じ場所を共有しているというあたりまえの事実から出発していることである。</p>
<p>しかし、この当然の前提が文学にかかわる者たちのあいだで失われれば、政治性を失った文学は、たかだか私的空間の《広場》への覇権主義的膨張を意味するか、あるいは慎ましやかではあっても広場にはあらわれぬ女子供の戯れ言にすぎなくなる。言葉は無力であるという定義を、国家を補強するとも知らず使用しつづける批評家によって、文学はますます虚構の世界に囲い込まれていく。だから文学のなかに、外科医のやり口で政治を移植しようとする、いささか品を欠いた批評にも存在理由が生まれてしまう。いまやゲーム盤と同一視されるに至った広場の外で、文学者がルール違反を繰り返しても、ゲームに加わる資格も能力ももたぬ者が許される現実外の幼稚な虚構に淫することとして、ますます文学の価値を、そしてさらには言葉の価値を低めるだけだからである。最高の価値のひとつである「純粋」と、最悪の価値のひとつである「幼稚」とが取り違えられるくらいならば、いかに品を欠いていようと、文学者が政治を口にする蛮勇を奮わないわけにはいかなくなる。子どもたちに、言葉が鉄のごとき武器となるものであるのを教え諭すことからはじめねばならなくなる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、ほとんど名目上のことにすぎないとはいえ、日本には軍隊が存在しない。実質的には軍隊であっても、実践的には、やはり存在しないのと同じことである。自衛隊は、その軍事力のほとんどすべてを発揮できない。実際にことが起こっても、まったく役に立たない。問題は、本当にことが起こったとき、その次に、なにが起こるかということである。</p>
<p>三月十一日の大地震以来、福島で起こった原子力発電所事故の水準をみるかぎり、ほかの国家なら軍隊が出動して収束にあたるほどのものと思われた。爆発した原子炉と核爆弾を同一視することはできないが、今日の軍隊が、ほかの機関と比較した場合に、放射能に対する必要な装備をより整えていると考えるのは、不自然なことではないだろう。しかし、米軍の協力を断ったあげく自衛隊が行なったことは、爆発した発電所の上空からヘリで水を落とすことだけである（放水という主体的表現より、風と重力に行く先を委ねて落としたという受動的な表現がふさわしい）。実際の現場で作業しているのは民間人である。</p>
<p>日本において、国民を同じ国民が外的な障碍から物理的な（身体的な）意味で守るという意識の希薄さは拭いがたい。極端に治安に特化した国家の《防衛》意識は、軍隊の有無、さもなければ軍隊の特殊なあり方と、かかわっている可能性を考えないわけにはいかない。国家が国民の生命を守ろうとしないことが、軍隊の有無あるいは特殊なあり方と、もし関わっているのだとすれば。</p>
<p>天災にせよ、戦争にせよ、それが社会の外からやってくる障碍であることには変わりがない。その点では、外敵に対してこそそうあるところの国家は、いずれの障碍からも、国民の生命を守る責任を負う。しかし、日本政府が、国民の生命よりも治安を優先したのはあきらかである。実際に国民の生命に死の因子を植え付けられているあいだ、政府はそれを黙認し、言葉が武器ではないことを教え込むように、一定の放射能は人体に影響ないものと主張しつづけていた。政府は、意識的にも無意識的にも、国民の生命を守ることより、危機の隠蔽、治安の維持に努めているようにみえた。瓦礫の撤去、放射性物質の海への投棄、食品に対する放射能濃度の許容量の設定、すべてはその観点から行なわれている。そして短期で終わる内閣の仕事とはとうてい思えない「脱原発」に執心し、この内閣の果たすべき事故の収束については、一民間会社に委ねたままである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>かつてフーコーやドゥルーズが言っていたような、《安全》にもとづく近代の国家統治のあり方は、たえず変質している。この観点は、対外（空間）的には安全保障、国内（時間）的には社会保障に結晶していた。だが、大量の移民の流入や国際的なテロ組織の出現、インターネットの普及にともない、《安全》に対する国家の取り組みは変質せざるをえない。国民の同質性を維持できぬ以上、国家が領内の住人の生活を、国民という単位で生涯にわたって保障する社会的要請は鈍化していく。この方面での国家の《安全》欲求は衰えていくだろう。それにかわってますます国民の《安全》は軍隊が請け負うようになる。軍隊のあり方も変質する。国境に配備されるより雑多なひとびとが潜む都市に配備される。警察権力は広場のみならず私的空間にも侵入する。むろん、国境における警備はますます先鋭化するが、この方面でのせめぎ合いが本質的にいたちごっこに終わる以上、最終的な安全保障の担保は都市や私的空間に配備される、警察権力と軍事力をあわせもつ強力な治安維持部隊が請け負う。</p>
<p>しかし、日本の安全保障は、その観点からも異質なものとなる。恐るべきことだが、いまわれわれが目にしているのは、露骨な危機を政治的な言葉（言説）によって隠蔽することである。「脱原発」という言葉さえ、奇怪な政治的言説として、危機の隠蔽に利用されている（そのためか、政府の隠蔽に抗って実際の危機をリアルに表現しようとしている一部の気骨ある科学者には、文学的なものが生じてさえいる）。国民の生命を《防衛》していない点で、フーコーたちの議論から逸脱する事例とみる意見には一理ある。だが、別の見方もできる。身体的な《防衛》が適わないなら、精神的に執行する。つまり依然として国家は国民の《防衛》に執着しているのであり、その執行が国民の身体的な《安全》ではなく、精神的《安心》に向かっている。それは私的空間に警察権力が侵入することと同質の、しかしそれよりはるかに恐るべきことではないだろうか。精神的黙殺による危機の回避、それは薬物によって多幸感を与える類いの生政治の、極度に先鋭化した事例にもみえる。</p>
<p>今後、《安全》のテーマがその内部でさまざまに変化することはあっても、この強力なテーマそのものを国家権力が捨てると考えるのは、近代の民主政治が貫かれているかぎり、想像するのが困難な途方もないことである。民主政治が独裁者出現の危機に直面した場合にのみ、そう見えることがあるとしても、その起因はあくまで領民の《安全》を志向せざるをえない民主政治の本質にある。逆にいえば、《安全》のテーマを失った国家には、民主政治を維持する理由がない。そのとき時代は後戻りできない変化を強いられていよう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>いまは難儀な時代である。なにもかもが、破局へ向かう途上にある。古いものと新しいものとが混在している。どちらに賭けるべきか、なにか言葉を紡ぐたびに、おぼつかない判断を重ねている。わたしは戦争が嫌いな平和主義者で、軍隊はもちろん、軍隊的なものにはよりいっそう嫌悪を覚える軟弱な夢想家である。だが、正式な軍隊の存在しない日本において、内なる敵軍である原発を抱えているときに、誰がそれと戦うのか。かつて多くの民間人が死んだ六十数年前の戦争と同じように、貧しさゆえ手を挙げる民間人が、死ぬべくして戦うのだろうか。</p>
<p>いったい誰が戦うのか。あるいは、誰が守るのか。このご時世に戦争が起こるのを想定するとは、君は愚かと指差されようか。もちろん、ことが起こらないのが一番よい。外交的な努力はあらゆる方面から行なわれるべきだ。しかし、実際に国民の生命を脅かす事態が起こったとき、原発事故と同じことが起こる可能性を考えないわけにはいかない。自衛隊は使い物にならない。戦うのは米軍である。一部の意識の高い政治家を除き（そしてこういった政治家にはかならずナショナリズムがある）、国家側に国民の生命を守るという意識は希薄である。原発事故が起こっても、一民間会社に収束を任せつづけたのと同じように、ことが起こったときには米軍に始末を任せるほかないとしたら。</p>
<p>自衛隊が機能する可能性に賭けるのか。だが、それは平和主義者が望む結果だろうか。いざことが起こった際には米軍に処理を任せ、その裏で平和主義を享受しつづける。それは最悪の平和主義である。だからといって、自衛隊が文字通りの機能を実現することも、平和主義者にとっては望むべからざる事態である。ことが起こっても、こちらからは手を出さず、それに疑問を抱かないほど、国民に覚悟を求めることができるのか。その点、悲観的たらざるをえない。それほど勇気ある覚悟を民衆に強いることができるだろうか。集団としてなにを実現できるかは別にして、武器ももたずなんの抵抗もせずに死ぬことを推奨するなど、個人という観点からいえば、六十数年前の戦争で国家が民衆に強いた死と、結果にちがいはない。だからそれにかえて、ただ民衆を軟弱で臆病にすることしか、戦後の批判的知識人にはできなかった。暴力に反対し、そして頼みの言葉は目標（物自体）にはたどりつかぬ。せいぜい、実力行使を意味せぬ《デモ》を平和裡に行なうしか方策はない。それを今後もつづけていくつもりなのか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>事故が起こらないのを前提に原子力発電所を推進することと、戦争が起こらないのを前提に平和主義を貫くことは似ている。日本の領土が巻き込まれる戦争は本当にありえないのか。軍備そのものが平和を脅かす以上、それに慎重になるのは当然としても、この発想は、原発事故に備えること自体が風評を生むといっていた、原発関係者の発想と似てはいないか。平和主義を貫くなら、国民に、攻撃を受けても暴力的な抵抗なしにそれに耐える非武装の覚悟を求めるのでなければならない。そして同時に、世界にその非道を訴える言葉を磨くこと、なにより言葉が世界に届くのを確信させることができなければならない。しかし、今のままでは米軍がそれに抵抗する。それは、平和憲法の最悪の実践である。地球上もっとも凶悪な軍隊に護衛されながら、自らは非武装を気取って衰弱した平和を享受するのを、世界に臆面なく訴えることはできそうもない。</p>
<p>平和憲法を遠い理念と考え、そのため維持すべきという意見に賛成するとしても、条件をつけないわけにはいかない。法はたんなる理念ではなく、現実に運用される。〈遠い〉理念にばかり目を向ける知識人にノスタルジーを覚えはするが、それだけでは、卑近な現実主義のもとに理念を〈遠ざける〉政治家と、結果的にはなにも変わらない。いかにヘーゲル主義といわれようと、理念は現実に作用するし、作用されるようにすべきなのである。平和憲法は統整的理念であって、構成的に使用されてはならないなどというカント主義を振りまいてみても、そんな物言いは外部からもたらされる戦争においては、たんなるお題目にしかならない。平時には構成的使用の誹りを恐れず平和を伝道するのでないなら、やはりほとんど無意味なお題目である。</p>
<p>世界は抽象的な平面ではない。世界にはどこもかしこも、地理上の高低があり、歴史の因果律ともなりうる時間の前後関係がかならず存在する。それが具体性となる。この具体性なしに、ひとの足が現実に前に進むことはない。したがって、平和憲法は、いつまでも実践を遠ざけうる未熟なままの理念ではいられないし、まさに運用されるときを考えないわけにはいかない。実際に運用されるときとは、すなわち戦争が生じるときである。そのとき平和主義者がなにより恐れねばならないのは、この国を米軍が守る事態になることである。米軍の威力に依存した平和主義など、国際的にはなんの感動ももたらさない。もたらされるのは、他国からの軽蔑と憐憫、それによって防衛される国民の衰弱だけである。アメリカの憲法に日本という国家が吸収されるだけで、そのときには日本の憲法は、国家の法としては事実上失効している。平和主義を貫くことによって、かえって平和憲法が失効するということも、可能性としてはありうるのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>《国家は国民の生命を守らない》。いまだ収束せぬ原発事故において、いままさに表面的に生じていることであり、国民はそれについて日夜怒りを表明し、デモに訴えている。だが、いざ戦争が生じたとき、平和主義の名のもと、《国家は国民の生命を守らない》という同じ事態が起こったなら、国民は耐えられるだろうか。同じ国民が、同じように怒りを表明し、デモに訴え、極端から極端へ舵をとる選択を、政府に強いることがないといえるだろうか。すなわち、再軍備を、しかも他国より強力な兵器による防衛を……。</p>
<p>原発が事故を起こす確率と同じとは思わないものの、今後、世界で起こる戦争が、日本を巻き込むものとなる可能性がないと言い切れるだろうか。その程度の危機意識は、歴史をやっている者なら、抱かないでいるほうが困難である。しかし、そのときに備えて、ただ平和憲法の雄叫びをあげつづけることが、平和を守ることにつながるのだろうか。むしろ、自分だけはそれを訴えつづけたという免罪符を得るだけで終わりはしないだろうか。平和主義の理念＝法は、実際の法の運用者である政治家に、きわめて危ういバランスのなかで舵取りをしていくことを要求している。そして実践からは遠い知識人が、この舵取りを客席から文句を言っているだけで終わっていいものだろうか。</p>
<p>《いつ戦争が起こるかしれない》という根拠不明の危機を煽り、《国民を守る》という観点から軍隊の存在理由を拵えて軍備を進め、結果この軍事力がひとを戦争に導く。だからいたずらな危機意識の流布に反対する。この考え方はよくわかるし、おそらくフーコーたちの《防衛》にまつわる議論はそのような観点から読まれてきたのだろう。だが、それはあまりに浅墓な読みといわねばならない。ただ《防衛》に反対するというやり方で、《防衛》を免れることはできないからである。それはもっと無意識的なものだ。危機〈意識〉の有無とはほとんど関係がない。いたずらな危機意識を国民のうちに煽ることで、《防衛》のため再軍備と戦争の道を選ばせるくらいなら、危機意識はないほうがよく、想像を超える事態には目をつぶるのがいいと、まさか考えでもしたのだろうか。だが、それは逆である。どのみち《防衛》されるなら、危機意識はあったほうがよいのである。それでなければ、危機意識の有無を問う幼稚な議論に終始するばかりで、その質を問う議論に移行できなくなる。</p>
<p>平和主義の観点からいえば、ナショナリズムを煽る右側のでたらめな危機意識に正当性をもたせることは、ほとんど不可能だが、だからといって世界平和を志す左側が闇雲に危機意識を封じ込めるとしても、それで平和が実現するわけではない。原発関係者と同じ奇怪な楽観視を国民に強い、その結果、ことが起こったときの反動があれば、反動に対する反動もまだ可能な分だけまだましで、それさえなく、ただ衰弱し、平和憲法がなし崩しに消滅していく……。</p>
<p>繰り返すが、平和主義者が恐れねばならないのは、いざというとき、万が一、日本が平和主義を貫けたとしても、アメリカが軍事力を発揮して、日本を《防衛》してしまうことである。それはどうしてもただの《防衛》ではすまない。国際的な制裁がかならず生じる。つまり日本は手を汚すことなく、結局は日本の戦争が生じてしまう。</p>
<p>危機意識の不在。そののなかで進行する、学問の衰弱、芸術の頽廃、政治の混乱。ひいては人間の没落。こういった心神耗弱を尻目に、国民は究極的な事態に対する楽観視にこそ正当性があるといった観点を手放すことができない。しかし、平和憲法に反対の者はおろか、維持に賛成する者であろうと、政治家であるかぎり、そうした楽観視は許されはしない。ふたたび国家が敗戦となれば、平和憲法を護持することもできなくなる。</p>
<p>そこで、ほんの一握りの政治家はこう考えている。アメリカから独立し、再軍備すべきである、と。しかし、それは国連軍を創設したうえで、それに参加する形においてだ、と。それならば、国民の生命を《防衛》すると同時に、かつてのような日本による侵略的独走も防ぐことができる。おそらくこの意見は、イデオロギーを抜きにしていえば、政治家に可能なもっとも正しい判断だろうと、わたしには思える。いざというときまで問題を放置して極端に振れるよりも、ずっとましな選択である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、政治家ではなく文学者である自分はこう考える。もっと別のやり方がある。迂遠ではあっても、その分だけ崇高な道がある。戦争において、決着をつけるのも、始めるのも、回避するのも、言葉の力である。ついに言葉は、最悪にもなり最善にもなりうる、《武器》である。それゆえ、言葉の力を知っている人間は、兵器による戦争に訴えなくても、戦いそして守る方法を、すでに知っている。</p>
<p>戦争の危機を訴えることをすべて右翼の専売特許と考え、奇怪な楽観視のなかで米軍の庇護のもと平和主義を貫く怠慢が許されるわけがない。平和主義者こそ、唯一の武器である言葉を磨き、言葉を大切にするということができないなら、危機になにができるというのか。兵器と武器とが、根本的に異なる概念だということを、言葉の微妙な響きにこだわる文学者はよく知っている。日本が兵器という《武器》をもたないというのなら、言葉という《武器》によって、つまり文学によって戦う国にならなければならないということのはずだろう。なにゆえ兵器とともに武器の概念まで捨てねばならぬのか。粗略な議論のなかで兵器と武器とを混同して、言葉の力を浪費し、日々衰弱させ、いったい知識人は危機に際してなにをもって戦うつもりなのか。世界言語の完成の日まで、平和のため日本語によって戦うことはなにも矛盾しないのだ。</p>
<p>先にいったように、今はむずかしい時代である。破局に向かう時間のなかで、一義的に正しいとはいえぬ古いものと新しいものとが混在していて、どちらに賭けることもそれなりのリスクを背負う。ならば右や左のイデオロギーなど目もくれず、ただひたすら前に進めばいい。国家が守るために戦うというのなら、文学者は屈託なく真正面から戦えばいい。それが、政治を拒絶する純粋な文学者の戦いというものではないだろうかと、わたしは思うのである。</p>
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		<title>再びフリージャーナリストを讃える</title>
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		<pubDate>Thu, 30 Jun 2011 12:01:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[ジャーナリズムが《文学》の堕落した形態のひとつなのはたしかである。《文学》は虚構をあつかうのではない。むしろ嘘を吐いているときでさえ、真実を語ろうとすることが《文学》である。しかし、真実を語ろうとするあまり、実際に起こっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャーナリズムが《文学》の堕落した形態のひとつなのはたしかである。《文学》は虚構をあつかうのではない。むしろ嘘を吐いているときでさえ、真実を語ろうとすることが《文学》である。しかし、真実を語ろうとするあまり、実際に起こったことしか語らなくなるなら、ジャーナリズムに堕してゆく。世界には、起ころうとして起こらなかったさまざまな出来事がある。起こることと起こらないこととの境は明瞭ではなく曖昧であり、出来事のあるなしを決めるのは、多くの場合、権力である。権力をある程度擬人化することを読者に赦してもらおう。つまり権力のことを権力者と言うが、彼であればただ手遊びに心中で考えたことが出来事といわれることがあり、持たざる貧者であれば、肉体に深い傷を負うようなことがあっても、出来事とは認められないことがある。権力者の精神はより物体的にひとに作用し、非権力者の肉体はせいぜいあるかなきかの霊的なものとしてしかひとに作用しない。権力者の嘘は実際に何ごとかの不快な波を周囲に引き起こすが、非権力者の場合は事実さえ大海に吸い込まれ小石の波紋も引き起こさない。</p>
<p>《文学》が、持たざる者のもたらす出来事へかける優しいまなざしを失うなら――つまりありきたりの事実のなかに逃げ込み、風変わりな妖精たちのささやきに耳を閉ざすなら、その瞬間にそれはジャーナリズムと呼ばれることになる。だが、ジャーナリズムが公定の事実を疑い、その陰に隠れた民衆のささやきに耳を傾けるなら、それは著しく《文学》に似通ってくる。こうした《文学》の存在に気づいたわずかなひとたちは、いまでは《フリージャーナリスト》と呼ばれている。既存のジャーナリズムから自由な彼らは、ひとが考えなしに事実とみなすもののなかにおぞましい権力の姿を感じ、ひとが嘘とみなし犯罪の汚名を着せようとする者たちに深い同情を寄せる。彼らは真実とそうでないものとの境界をゆるがせにする。ひとが虚構とみなしてきたものの側に、その境界線を力強く押し広げる。その意味で彼らは、かつての文学者がそうであったように、認識の王国を広げる孤独な開拓者でもある。わたしは彼らに《文学》を感じている。彼らはそう呼ばれることを悦ばないだろうし、それは《文学》が託つ悲劇であるとしても。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この世に現われようとして、直前で潰えた革命がいくつもある。それは出来事とは言えないものかもしれない。しかし時代や場所が違っていたら、どうだったか。革命だったと言われえたのではないか。《自由な》ジャーナリストたちは、広場に集まった人びとの数を数えていく。数万のひとびとがその広場を埋め尽くし、そして政府はその数と同じかそれ以上の弾丸で人びとを広場から一掃した。たしかに、広場はもとの、つまり平穏な喧噪を取り戻した。革命は起こらなかった。しかしもしかしたら、これから続いていく革命の一場面だったのではないか。なぜなら、弾丸の数はいつか尽きるとしても、民衆の数は尽きることがないからだ。政府による弾丸の一対一対応ではなく、数による一対一対応を、《自由な》ジャーナリストたちは実現する。彼は新聞に、広場に数万人のひとびとが集まったと書いた。かくして民衆は、《自由な》ジャーナリストを探す。自分を数えてくれと、つまり自分をこのデモのメッセージそのものとして数えてくれと、そう訴えるようになる。弾丸の餌食にではなく数の餌食にしてくれと、そう訴えるようになる。民衆は支配者にメッセージを伝えにきたのではなかった。おのれの肉体を言葉に、とりわけ数に変えてくれることを願って、広場に集うのだ。支配者に対する言葉を民衆は持たない。支配者のあいだで日々交わされるおぞましい言語は口に上らない。むしろ、唯一の武器の肉体を、言葉にして投げつけたい。</p>
<p>現実に実行される手前で（つまり暴力に至る手前で）行なわれる可能的な実行を意味するデモンストレーション、現実に移行されるときに発揮される力の《実証》を意味するデモンストレーション。権力者どもが事実と事実でないものとを分割するその仕方を逆手にとって、彼らは彼らの唯一の暴力を権力者には見えないところで使うのだ。すなわち、肉体を言葉に、とりわけ数に変えることによって。</p>
<p>変革を実現する民衆は、おのれが一以上になることはなくても、一を下回ることがないことを知っている。そして肉体の数を数えているとき、数える者もまた、おのれを数え上げる。権力者も非権力者もなく、誰もが一を下回らず、なおかつ一を超えることがないことを知ったとき、つまり国王でさえ、一と数えられると知ったとき、そのときには、変革は成就していよう。もっとも弱いものが集うことで成就する革命には、どうしても、苦労して帰納的に数を数える者の存在が必要である。それはジャーナリズムからさえも自由な、つまり客観性を確保するためには中立でいるよりも民衆に肩入れすべきだと考えているような、ほんの一握りの非ジャーナリスト的なジャーナリストである。民衆は、かつての、自然な――つまり、それを行なう本人たちさえ気づいていないジャーナリストとの共犯関係を、ふたたび取り戻さなくてはならない。いまや国家に奪われてしまった客観性の語を、ふたたび民衆の手に奪回せねばならない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ジャーナリストはすぐ統計学者と結託し、その力を自分たちのために使う方法を編み出す。世論調査といわれるアンケートである。統計学といっても、それは、かえって数を数えないですむ方法である。そこでは、サンプルの取り方を工夫したり、集団的無意識を利用したりすることで、自分たちに都合のよい少数の意見を大きく見せる方法がいくらでもある。客観性のためには権力者からも民衆からも独立でいるべきと、暴力の偏った独占には目もくれず、澄ました顔で中立を気取り始める。こうして彼らは事実を作りだしていく。もともと事実とは、権力によって引かれた嘘まで含めた無数の出来事の分割線であった。この分割線を引く権力を、革命はジャーナリストたちに与えた。なぜなら彼らこそ革命のための最後のピースを埋めたからである。ジャーナリストは裏切る。しかしこれは、政府にも民衆にも肩入れしないでいることこそ客観的であり、事実のために不可欠だと考えるような気取り屋の、誤った前提をもとに働かせる弁証法から来る、必然的な裏切りである。</p>
<p>だから本当のジャーナリストは、ついにはジャーナリズムの皮を自ら剥いで、事実と虚構の分割線を揺るがせにするコメディアンへと変身を遂げねばならない。要するに、彼は文学に跳躍する勇気をもたなければならない。彼はおのれを文学者と呼ばれることを好まないだろう。わたしの讃える自由なジャーナリストたちは、それでも文学の領域に突入することを、すこしも恐れはしないだろう。</p>
<p>民衆は悲痛な叫びを聞き逃さない耳をもった、自由なジャーナリストを求めている。広場に集う民衆を一から数えてくれるような、いつまでも若々しく、辛抱強い、そして反権力的なひとたち、つまり文学者であるようなジャーナリストを。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>フランスの歴史家ジュール・ミシュレは、革命の報に接したカントのエピソードを、次のように伝えている。</p>
<blockquote>
<p>北の海の果てには、奇異にして強力な被創造者がひとりいた。ひとりの人間？　いや一つの体系だ。骨っぽい、厳格な生けるスコラ学。一つの岩石。バルチック海の花崗岩をダイヤの鑿で削りとった岩礁。あらゆる宗教、あらゆる哲学がこれに接触し、難破してしまった。そして岩礁のほうはびくともしていない。人よんでこれをイマヌエル・カントと言う。彼は、自分のことを『批判』とよんでいた。六十年ものあいだ、いっさいの人間的接触をもたないこのまったく抽象的な存在は、いつも正確に同じ時間に外出した。そして、だれに話しかけるわけでもなく、一定時間きっかり、まったく同じ道筋を散歩するのだった。町の古びた大時計の、鉄の人形がひょっこり首を出し、時を打ち、そして内へひっこむようなあんばいである。ところが奇妙なことにケーニヒスベルクの住民たちは、ある日、気づいたのである、この惑星が軌道からはずれていることに。世紀にわたる道筋からとびだしていることに……。彼のあとをついてゆくと、彼は西のほうへ歩いてゆく。フランスからの飛脚のやってくる道のほうへ歩いてゆくのだった……。カントが感動し、気づかい、まるで女のようにニュース知りたさに街道へ出むくとは、おお人類よ！　これこそ、驚くべき、ふしぎな変化ではなかったか。</p>
</blockquote>
<p>カントは飛脚によってもたらされたニュースによって、つまりジャーナリズムによって、革命を知った。そうして、このスコラ学者が打ち立てた悟性という分割線を自ら抹消する、かの『判断力批判』は書かれた。ケーニヒスベルグにあって不動のカントを揺るがしたジャーナリズムなしには、この書はありえなかったのである。</p>
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		<title>規律・管理・主権――国家権力を超えて</title>
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		<pubDate>Tue, 28 Jun 2011 09:44:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Foucault]]></category>

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		<description><![CDATA[ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権（法）」についても論じていた。むしろこの三つの状 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権（法）」についても論じていた。むしろこの三つの状態の変容や配分において、国家や権力について語っていたと考えたほうが生産的である。より内面的で、自発的な主体＝臣民化をおのれに課す《規律》。より肉体的――というよりは物体的で統計学的な論理のもとで民衆を扱う《管理》。そして最後に、民衆が国家に望むこれら二つの要請によって、順次蓄積された膨大な権力によって民衆を暴力的に扱うことを可能にする《主権（法）》。</p>
<p>規律がもっとも高次の支配方法であり、主権がもっとも低次の支配方法などと考えてはならない。むしろこれらは経済的あるいは文化的に、無数の民衆の要請がときと場合に応じて（たとえば蓄積されて手に負えなくなった反道徳的な行為や規範を共有しない者によってなされる重大な犯罪、あるいは諸外国との戦争や太刀打ちできない災害に直面した場合に）作り上げる一種のベクトルであって、これらはそれぞれ《よい国家》の条件でさえある。これらはすべて、民衆を《守る》ために構成される権力であって、状況に即して高度に民衆を防衛するためのメカニズムである。そして同時に、それらは権力的にふるまい、民衆の生命にまで及ぶ《統治》を可能にする。そのため、これら三つの権力の様態は、「よい」国家であろうと「悪い」国家であろうと、それらが作り上げる《統治》に対する民衆のさまざまな抵抗のあり方を決定する条件にもなっている。</p>
<p>管理や規律によって国家を語る場合、とくに日本人が注意しなければならないのは、災害や戦争のような極度の、かつ典型的な例外状態において特に要請される主権的・法的な権力を、日本という国家が著しく欠いていることである。日本という国家は、アメリカの《基地帝国主義》の最良の事例を提供し、なおかつ国家の最高法規である憲法よりも国際法規のほうが超越していることを憲法自ら認めるという、先進諸国では類を見ない憲法を戴く、比較的特殊な国家である。したがって、フーコーの議論をその表層において日本に適用しようとすると、どうしても上滑りしてしまう。といっても、うまく当てはまらないのではない。むしろ主権がないゆえに、規律や管理のような概念があまりにも当てはまり過ぎるのである。そのため、かえって国家が保持している主権的な暴力（ベンヤミンの言葉でいえば「神話的暴力」）が見過ごされてしまう傾向がある。実際、管理と規律とにかけて、日本ほど緻密な国家もそうはないだろう。それは、主権（法）的権力を放棄したすえに、長い年月をかけて進化した奇怪な権力の姿である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この点からいえば、日本において再軍備を含む「独立」を志向する政治家には、一定の留保が必要としても、「ふつうの国家」という観点からある程度の論理性が生じている。そして同時に、こうした政治家は、下から（民衆）も、上から（アメリカ）も容認されない傾向があったことは戦後の歴史がよく示しているところである。</p>
<p>そしてこの特殊な様態をつづけてきた日本という国家が、破局的な災害とそれを引き金にして生じた未曾有の原子力発電所事故において、その欠陥を如実に露にしていることも、周知の事実である。国民の生命を守るという国家の存在理由を依然として電力会社という一企業に預けたまま、治安と道徳の維持のために、（原発の安全性を語れなくなったいま）放射性物質の安全性だけを訴えつづける空虚な言説を発しつづけていることからも明らかである。治安＝管理と道徳＝規律という観点でしか、日本という国家は国民を守ることができない。国民と同じレベルになって、同じ水平な目線から、電力会社の下層にいるひとびとの孤高で高貴で崇高な奮闘を仰ぎ眺めていることしかできない。六十六年前に軍隊を放棄したとき、同時に日本は失ってはならない勇気をも放棄したのかもしれない。アメリカの行なった外科手術が、切り取ってはならない神経まで切り取っていた、と言ってもいいだろう。われわれの国家に対する抵抗は、きわめて捩じれたものにならざるをえない、ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、日本という国家がどのようなものであれ、反権力的な人間に可能な抵抗は、けっきょくはひとつしかない。それは、規律、管理、主権を逃れて、美しい言葉を紡ぎつづけることである。誰も耳にしたことのない美しい言葉は、ただそれだけで古い国家を少しずつ腐食させる。権力がどのような様態にあろうと、いずれもが、おのれの《超越》を隠すことによってこそ、権力なのである。権力はたえずおのれの優越をひた隠しにしながら、ついには超越として突発的におのれを露呈させる。しかも、多くの場合に、おぞましい権力の姿を見た者は即座に暴力的に抹殺され、そのことによって隠蔽状態を永続させる。権力とは、民衆それぞれが必要に応じて、とりわけ良心によって隠蔽してきた優越の蓄積された姿である。したがって、精神の振動を裸身と同じほどにあからさまにする美しい言葉は、ただそれだけで、反権力的である。心の底から（これは比喩ではない）、おのれの精神にもっとも正直な言葉を発することがどれほど困難か。しかし、多くのひとびとが誠実に超越について思考し、そして超越のためにおのれの精神を捧げる美しい言葉を発する勇気をもつことができたなら、その勇気は、主権を超えて人間それ自身を自立させるほどに国家を不要のものとし、そして同時に、新しい国家の建設のために、肉体のすべてを活用させる仕方をひとに教えるのである。</p>
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		<title>安全から安心へ、あるいは恐怖による統治について</title>
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		<pubDate>Sat, 21 May 2011 12:54:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[state/état/Staat/stato]]></category>

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		<description><![CDATA[事故とはなにか。 本来、事故は持続的に起こるものではない。点で生じる。仮に持続したとしても、持続をもって事故とは本質的に考えない。しかしその反対の安全は、持続的でなければ意味がない。ある瞬間に安全でも、次の瞬間に死ぬ可能 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>事故とはなにか。</p>
<p>本来、事故は持続的に起こるものではない。点で生じる。仮に持続したとしても、持続をもって事故とは本質的に考えない。しかしその反対の安全は、持続的でなければ意味がない。ある瞬間に安全でも、次の瞬間に死ぬ可能性があるなら、それは安全とはいわない。危険である。だが、この持続の範囲は決まっていない。この範囲を決めるのはじつは同じ対象について起こる事故である。したがって、すこし視界を広げると、安全と事故とはいつも隣り合わせになっている。すなわち、事故の可能性がある場所でしか、安全は問題化されない。安全、危険、事故。この奇怪なトライアングルのなかで安全神話が形成される。それは文字通り、現実をもとにしているというより信じる類いのものである。実際には、安全かどうかは、事故が起こるまでわからない。事故のないあいだは、安全が持続することを信じるしかないし、危険な状態と完全に区別することは不可能である。不思議なことだが、いかに事故の可能性をひとつひとつ、さまざまな技術を駆使して潰していっても、そのことによって、事故が起こる確率は少しも下がらない。安全対策によって、安全といえる期間が長くなることはあっても、事故が起こるか起こらないかという確率にはまったく関与できない。持続と点とでは、問題が重なり合わない。</p>
<p>したがって、本来、究極的な安全がありえないにもかかわらず、《安全》というテーマが議論すべきものとして用意された時点で、原発推進側は反対派がわからないうちに、一歩前進していることになる（だから反対派はこの議論に乗ってはいけない）。</p>
<p>原発をやめるのか、それとも完全な安全対策を求めるのか、という二者択一がここではどうしても釣り合ってしまう。そして次第に《安全か危険か》という方向に議論が推移していく。事故なしには証明しえない、持続にもとづく安全は、事実上危険と裏腹の関係にある。事故は点でしか生じない。したがって、事故がない持続状態においては、将来の事故という不測の事態は論理的にどう考えても根拠にできない。あるひとつの状態を危険というか安全というかは観測される予兆の《解釈問題》になってしまう。そしてひとは、どうしても安全に賭ける選択肢をとりがちである。なぜなら、ひとには希望があるからである。破局ののちに復興を促すのも希望だが、目前に迫った破局を黙殺するのも希望である。この問題構成ができれば、つぎは安全対策の質を問う議論に移行する。科学的データの解釈問題になれば、それは必然的に平時には右や左といった政治の問題になる。政治問題化すれば、どちらか都合のよい立場をもとに、原発を再稼働することがいずれ可能になる。どれほど間違った意見だろうが、対立意見を無視することは許されない、それが近代民主主義のルールだからである。適当なところで政府が《安全宣言》を出せば、国民はそれを信じるしかない。もちろん信じるだろう。《安全神話》を信じた希望に塗れた国民は、確実にこの《安全宣言》を信じる。信じる身振り以外とりようのないところに、国民はすでに追いつめられている。ここまでの推移は、予言でもなんでもない。安全をテーマにした瞬間に生じている茶番である。</p>
<p>「安全対策」を問題化した現内閣の方針が国民のあいだで共通理解になるとすれば、流れはよくない。歴史が繰り返される感じを拭うことができない。ひとはなにかを信じたい。だから騙された人間ほど、ひとの言葉をますます信じるようになる。「安全」という言葉に騙された同じ人間が、今度は、現内閣の一部原発の停止を都合よく解釈してしまう。信じようとしてしまう。こういう悪循環にはまってしまうひとたちを、《国民》というのだろう。いや、《安全》をテーマにしているのは政府ではない。国民である。目前にせまった危険をその場しのぎで遠ざけることが目的なのだから（安全とは究極的にはそういうものだ）、一番近くの原発さえ停まればいいと、もともと国民自身が望んだことだったのかもしれない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>事故後、いまだ予断を許さぬ原発の周囲で、多くの人間が作業に従事している。そこは、一人の生に九十九人の生が優先される、カール・シュミットのいわゆる「例外状態Ausnahmezustand」である。まさにこの場所で、国家の力と存在理由とが燃料棒のように露出している。よい国家。それは、例外状態において、九十九人の生存のために一人の生を犠牲にする、この決断が躊躇なくできることである。もちろん、この論理にひとは耐えられない。生の軽重を量ることは、近代以降の人間にはできない。だからこそ、それが国家の存在理由になる。国家は暗黙のうちにそれを遂行する。誰がではない。国家が行なう。国家を分解していけば、善良な九十九人の国民に行き当たるが、とにかくそれは国家というオブラートに包まれている。</p>
<p>こうした「例外状態」においてなんらかの決断を下すもの、それが国家である、とシュミットはいう（「主権者とは、例外状態に関して決断を下す者である」『政治神学』）。だが、わたしにはそうは思えない。というのも、そもそもこの例外状態を作り出しているのは、外からやってきた不測の事態というより、「原発」という、国家が建設したものだからである。</p>
<p>戦後の原子力政策を紐解くと、すぐにわかることがある。原発はもともと国防のための技術的資源を確保するために作られている、ということである。その過程で副次的な産物はあれど、究極的には核兵器の配備に向けた軍事政策である（そしてこの軍事政策を後押ししているのはアメリカである）。要するに、原発は戦争にかかわっているのだが、戦争を窮極の典型とする「例外状態」は、結局は国家によってもたらされる。したがって、相対的に国家から遠い存在であればあるほど、「例外状態」といっても国家が作り出しているものにしかみえず、「決断」といってもあらかじめ定められた成り行きを言葉で追認するようにしかみえない。もう誰かが死なねばならないことは国家が決断するより前に決まっているのであって、ただ貧しい人間が自ら手を挙げるのを待っていればいい。勇敢な人間がいるならそれにこしたことはないが、そういう人間がいなくても、貧しい人間のストックはかぎりなくある。明日の食事にも困っている職のない人間は、兵士にもなれば、テロリストにもなり、事故を起こすかもしれない原発の作業員にもなる。明日餓死するよりはましだからである。</p>
<p>したがって、シュミットに反していえば、国家は決断しない。むしろ、決断という茶番を演じるに必要な「例外状態」を作り出す。規範的な状態、すなわち危険と裏腹な「安全」状態を作り出すことによって。</p>
<p>しかし、「例外状態」を「剥き出しの生」に重ねて優れた議論を展開したジョルジョ・アガンベンをこえていえば、テロの可能性をたえず考えていなければならない状態とはどのような状態だろうか。例外状態と規範的状態との差異は、国家による恣意的かつ希望的観測にもとづく《安全か危険か》の解釈に依存している。そうである以上、例外状態はもはや意味をなさない。現実的には、たんに百人のなかからランダムに一人殺す（テロリストによるのか、はたまた国家によるのか）ことを、「九十九人救う」と別の言い方で表現しているようにしかみえなくなってくる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>《安全か危険か》という問題構成をこえるなにかを提示できなければ、いつまでも同じ道から抜け出すことはできない。だが、抜け出すのは容易ではない。原発の廃止を論じようとすると（あるいはテロでもかまわない）、どうしても思考がこの問題構成に収斂される。国民が生み出しているこの問題構成そのものが、国家なのだ。</p>
<p>それどころか、もっと悪い問題構成に移行している様子が見て取れる。というのも、安全が科学的・確率論的な問題だったとすれば、もはや確率論を弄する必要のないところに問題が移行している。確実に事故は起こる。同じように、テロも完全に防ぐことは不可能だ。だから、もはや確率は関係ない。つまり、もっぱら精神的な問題である、《安心か恐怖か》である。安全が解釈問題にすり替わってしまうとすれば、それはもはや精神上の安心と大差はなくなる。どれほどの危険にさらされていようと、ひとは感覚を遮断すれば《安心》することができる。そうとしらずに綱渡りをするように、危険と安心は共存可能である。ひとはどこかでかならず死ぬ。だからそれを安全や危険で論じても仕方がない。宿命的な死に際して必要なのは、安心か恐怖かの問いである。フーコーやドゥルーズは、安全にもとづく生政治的な統治を指摘していた。安全は、肉体的な問題、言い換えれば科学的分析に耐える物理的な要素をもっている。だが、今後、それは安心にもとづく（悪い）《精神の政治》に移行していくようにみえる。もはや科学的分析は立ち行かない。それは、裏を返せば、人間が人間を恐れる《恐怖による統治》である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>原発は恐ろしい。もちろん、これは科学的分析の裏付けがあることだから、たんに恐ろしいのではなく危険なのだが、とにかくいまは恐ろしいという感情が先立つ。これだけはわたしも含め、いまや万人に共有されている。原発が怖くないと考えているのは、日本では原発設置を推進した科学技術庁を吸収した文科省と内閣府、あるいは経済決定論に浸りきった官僚や政治家、電力会社だけで、彼らは最近では狂人扱いである。</p>
<p>核兵器が悪魔のような兵器であること、つまり目に見える以上に恐ろしい兵器であることは、核兵器をまともに投下された唯一の国である日本では、誰もが教育をうけてよく知っている。しかし、今となってみれば、この悪魔にとって、これほど都合のよいことはなかったようにみえる。なぜなら、この悪魔はひとびとの恐怖を糧に、世界に君臨していたからである。持ちたがる側にせよ使われるかもしれない側にせよ、少なからぬ人間が「核の傘」を必要と考えるのは、この兵器が極度に恐ろしいからである。</p>
<p>多くのひとが核兵器を恐れれば恐れるほど、それを利用することを覚えた一部のひとたちは圧倒的な優位に立つことができる。原発も同じである。核を受け容れた自治体は、その見返りを享受することができる。かくして核を利用するひとたちの奇怪な共同体ができあがる。あえて悪魔の力に手を出したおかげで得た旨味の多くは、手を出さなかった人間の恐怖を鏡に映したものである。ひとを危険に、さもなければ恐怖にさらす状況を与えておいて、なおかつその裏では「安全」という、言葉の意味からいえばせいぜい安全というより安心にすぎない《言説》で統治する。それが戦後社会の構図である。</p>
<p>安全か危険か、という問いは、いずれ安心か恐怖かの問いに横滑りしていかざるをえない。安全という確実性を問題化した《科学》に穴をあける事故は、今後も今まで同様、かならず起きる。科学が進歩すればするほど、安全の問題は極度に先鋭化してくる。わずかな疎漏が空前の事故につながる。科学が退歩するのでないかぎり、安全性の観点から科学が立ち行かなくなるのは目に見えている。とすれば、もはやフィジクスは問題化できない。モノの手前で、ともかく安心か恐怖かを選択する精神的な問題に、ことが移行していく。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>わたしは原発を廃止したいと考えている人間だ。それは、持っていないひと（たとえば貧しいひと）から、あるいは遠くにいるひと（空間的には田舎に住んでいるひと、時間的には未来の子供たち）から順番に死んでいく国家におなじみの構造を、この施設も引き継いでいるからである。そして、この技術が戦争のために用いられるのを避けることができないからである。どれほど技術が稚拙でも、爆発力をコントロールする必要がなく、たんに成り行き任せに極限まで爆発してかまわない兵器としては、つねに転用可能だろう。そして、たんに兵器として生産する以上に国民を欺くカムフラージュをともなう原発というやり方は、あまりに卑劣である。もし仮に核兵器として使用されたとき、それでは国民が責任を取ることができなくなる。すなわち、同じ歴史の繰り返しである。</p>
<p>だが同時に、恐怖によって原発を廃止しようとするならば、わたしはそれには反対する。民衆の恐怖心に訴えるやり方は、わたしは廃止に至るやり方として卑劣であるばかりでなく、結果的に民衆が恐怖を感じない程度に遠ざけることにはなっても、おそらく廃止にはつながらないと思うからである。なぜなら、恐怖によって遠ざけるやりかたは、遠くのひとから死んでいく原発の構造と、うんざりするほどなにも変わらないからである。恐怖とは、もっぱら感情的な、（悪い）精神的な問題にすぎない。感覚することができないほど遠くにあるものに対して、ひとは無頓着である。そしてそれが人間というものだから、それを責めても仕方がないし、そうなるよりほかないのである。ひとは近くの災厄は未然に忌避する。だが、遠くの災厄は同情するのが精一杯である。なにより、戦後の日本が、そのことを証明している。あれほど核兵器の恐怖を叩き込まれてきた子どもたちが、原発の存在を奇怪な無関心のなかで容認している。これ以上の実態を挙げる必要があるだろうか。</p>
<p>今度は違うと思うだろうか。今度こそは、心の底から脅えて、原発を廃止するだろうか。恐怖が廃止への道のりのエネルギーになるだろうか。だが、わたしにはそれは希望的観測にしかみえない。原発を廃止するという歴史的事態が恐怖から生じるとしたら、その前に第二次世界大戦ののちに戦争が禁じられている。根拠なき希望的観測を、またひとは選んでしまうのか。</p>
<p>これまでもそうだったように、これから原発の周囲で、多くの動植物が生まれそして死ぬだろう。なかには背骨の曲がったメダカのような生命が生まれてすぐに死ぬかもしれない。原発は怖いが、放射線を浴びた動植物は怖くないと言えるひとがどれくらいいるだろうか。わたしは正直悲観的だ。いくら無害といわれても、出自を知っていたら触らない。食べない。それが普通のひとの感覚だ。感覚できるものは怖いのだから。原発への恐怖と、背骨の曲がったメダカへの愛は、共存しうるだろうかと考えれば、わたしは悲観的にならざるをえない。</p>
<p>そしてなにより反対するのは、それによって、恐怖に戦く人間が形成されるからである。前に進むよりは諦めと躊躇いのなかで、その場にとどまるのがいい。一歩踏み出して過ちを犯すくらいなら、踏み出さず過ちにも真理にも触れず引き返したほうがいい。言葉は過つ。だから沈黙するのがいい。こうした論点は、昨今のカント主義的他者論に、合致している。しすぎている。だがそれは、（政府に都合の悪い形で）事実と乖離した風評を禁じる政府の態度となにがちがうのか。風評というもっぱら（悪い）精神的な問題で民衆から言葉を禁じる政府のやりかたと、なにが違うのか。過ちを恐れず一歩前に足を踏み出したかつての科学者たちは、強烈な責任意識とともに、世界の平和のためにその労を惜しまぬひとたちだった（フーコーが絶賛していたのは、彼らのような、特殊領域の知識人である）。彼らだからこそ、国家の欺瞞を知りながら前に進む勇気ある選択をしたのであり、そしてわれわれの世代はその責任意識を完全に欠落させ、彼らの選択を誤ったものにしたのである。</p>
<p>一度でも、恐怖のためにやりかけたことをやめてしまったら、恐怖で統治するのは簡単になる。そして本当に恐るべきことは、これからまさに恐怖による統治が始まろうとしているかもしれないこのときに、その選択を選ぶことがなにを意味するのかということである。人間に対する人間の恐怖を肯定するなら、それはどのような国家を作ることになるのか。国家を作るのは、われわれひとりひとりの精神である。この精神が、国家として時を置いて結晶化する。つまり結局はこうしたひとびとの精神が、先述した恐怖による統治の糧なのである。だからわたしは、恐怖から原発を廃止することに反対する。それではおそらく廃止などできないし、できてもできなくても人間はますます臆病になる。恐怖のなか、恐怖のために原発を廃止するくらいなら、わたしはあえて、わたしなりに原発といままでどおりつきあうことを選ぶ。</p>
<p>わたしが必要だと思うのは、勇気によって原発を廃止に持ち込むことである。それは前進と上昇の意志を見せることであり、すなわち新しい発明と新しい技術によって、放射線に脅えねばならぬ原子力を過去のものにすることである。わたしには、それ以外に原子力を葬り去る道があるとは思えない。自分が完全に正しいとは思っていない。依然として、危ない、怖い、だからやめよう、という論理には力強いシンプルさがある。だがわたしの口は、科学者は勇気とともに技術革新に踏み出せ、人文学者は科学者に革新のための夢をもたらせ、としか、言わないのである。</p>
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		<title>フリージャーナリストを讃える</title>
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		<pubDate>Fri, 18 Feb 2011 17:45:46 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[文学はどこへ行ったのか。文学はまったくの無に帰してしまうものなのか、それとも永遠につづいていくのかはわからない。わかっていることは、消えて生まれるもの、ということだ。滅び、そして誕生する、それが文学である。文学は、おのれ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>文学はどこへ行ったのか。文学はまったくの無に帰してしまうものなのか、それとも永遠につづいていくのかはわからない。わかっていることは、消えて生まれるもの、ということだ。滅び、そして誕生する、それが文学である。文学は、おのれが滅ぶことを知っている。だがそれを《終わり》であるとは感じていない。またこの世に生まれるために、しばしの眠りにつくだけだと、そう思っている。</p>
<p>あるいはこう考えてもいい。文学とは、ひとつの妖精である。妖精はたえずどこかに潜んでいて、われわれに関心をもったり、もたなかったりしている。彼女たちが関心をもてば、そこが止まり木になる。人間が止まり木に選ばれたときにだけ、ひとは文学に与ることができる。したがって文学は妖精と語らうこと、すなわち狂気を必要としている。</p>
<p>文学は、どこにでも宿るというものではない。おのれが消え去ることを知っている者のうちにだけ、宿る可能性がある（かならず宿るというわけではない）。消え去る者たちは、前に進んでいく者たちだ。後ろ（過去）を振り返らない。振り返らぬことによって、後ろは意味を変える。後ろ（未来）に控えているひとたちのためにも、前に進むべきだと考えているような、そういうひとたちが、消え去る者たちである。消え去る者たちは、今を超えていく。今のおのれを超えるべきひとつのハードルとみなす。</p>
<p>存在論的な証を求めるひとのもとには、文学が宿ることはない。歴史が宿ることはあるとしても。文学者にとって、歴史は存在論的な証というより、通行証である。今を通り過ぎてしまえば、同じ通行証は必要がなくなる。同じ通行証はもう通用しない。</p>
<p>文学は、ひとが「文学」と認めているものにだけ宿るのではない。文学が「文学」に十分な器を見出さなければ、文学は別のものに宿る。隆盛の時代には知に宿り、衰弱の時代には笑いに宿る。渾沌の時代には政治に宿り、滅びの時代には、滅びのうちに宿る。</p>
<p>進歩の風が凪いでしまうと、前に進むことができるひとは、ほんのわずかになる。おのれ自身をおのれの推進力のために捧げることのできる人間だけが、前に進むことができる。つまり、なにものにも属さず、自己発火できる人間。この人間には文学がある。</p>
<p>そこでわたしは、掛け値なしに真っ直ぐに、フリージャーナリストたちを讃える。彼らは前に進もうとしている。文学が彼らを選んで停まったことはなんら意外ではない。彼らは存在論的な証をもたず、自分で作った通行証だけをもっている。あるいはなにも持っていない。おのれの名前を言葉に結びつけ、言葉のうちに生成し、今ここにいるおのれの存在を消し去ろうと躍起になる。フリーではないジャーナリストたちが、客観性という企業名のうちにおのれの存在を温存し、隠すことによって存在論的な証を得ているのとは、まったく正反対の行き方である。</p>
<p>フリージャーナリストたちは、いつも言葉に、《誰がそれを言っているのか》という問いを付け加えて歩くひとたちである。そのことを隠しているような言葉は信用が置けないということを示すために、彼らは客観性の崩壊も恐れず、言葉に名前を付け加える。要するに、世間に認められていない彼らはとにかく名前を売りたいのだ。名前を売ることによって、存在が言葉のなかに消えてしまうし、それでかまわないと思っている。わたしたちは、彼らのおかげで、《誰？》という、久方ぶりに問われた問いを聞くことができた。彼らはこの問いによって、おのれを自己発火させる不思議なサイクルに巻き込む術を知っている。</p>
<p>ジャーナリズムは、つねに堕落と隣り合わせである。彼らが求める客観的事実は、おのれを乗り越えるためにおのれを鍛えることを疎かにさせるからである。客観的であるために、おのれの主観を鍛えず放置し、結果、温存する。真理はいつも、おのれによって致命的に歪んでいるのに、おのれを隠すことで紛いものの真理、すなわち事実をひとに提供する。彼らはかりそめの真理、事実に隠れて生きる。否、生きるのではない。存在することではあれ、生きることではない。</p>
<p>ジャーナリズムがおのれと同じ資格のまま活動できることはほとんどない。客観的事実と結びつかざるをえないジャーナリズムは、いずれおのれを邪魔者扱いはじめるだろう。ひとは事実（情報）のためにもっと中立な言葉を求めていると勘違いして、存在ではなく名前を消すことに躍起になる。名を名乗らぬことによって存在を温存する。つまり、《誰》という問いをうやむやにし、禁じてしまう。だからいつかは、ジャーナリストたちは、文学という「美しい危険」（ソクラテス）に身をさらして飛び立たねばならない。しかし妖精たちは、おそらくこう思ったにちがいないのだ。あなたたちならば、飛び立つことができるかもしれない、と。</p>
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		<title>盗みと贈与――世界史にとって、交換の視座は有効か？</title>
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		<pubDate>Sat, 16 Oct 2010 13:47:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Deleuze]]></category>
		<category><![CDATA[Kojin Karatani]]></category>
		<category><![CDATA[Marx]]></category>

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		<description><![CDATA[柄谷行人は世界史を《交換》の視座から考察する（たとえば、近著『世界史の構造』を参照せよ）。彼があげる交換様式は三つ。ひとつは贈与とその互酬。二つ目は、略取と再分配、三つ目は商品交換である。「贈与とその互酬」は共同体に、「 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>柄谷行人は世界史を《交換》の視座から考察する（たとえば、近著『世界史の構造』を参照せよ）。彼があげる交換様式は三つ。ひとつは贈与とその互酬。二つ目は、略取と再分配、三つ目は商品交換である。「贈与とその互酬」は共同体に、「略取と再分配」は国家に、「商品交換」は資本主義に対応する。さらに、互酬システムの高次元の回復とされる四つ目の交換様式がある。これは、柄谷によれば、カントのいう統整的な理念であり、積極的に提示されるものではない。しかし、きたるべき「世界共和国」がもっているだろう交換様式であるという。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>まことにカント的であり、かつ資本主義的な議論である。わたしは、ストア主義者のいうような「世界共和国」にも、そしてニーチェのいうような「贈与」にも賛同する。だが、そこに至る道のりは、柄谷の意見とちがう。彼が古いマルクス主義の「生産様式」を批判して掲げた《交換》の視座をとらない。贈与にせよ、略取（＝盗み）にせよ、そして「商品交換」でさえ、原理的に交換ではありえないからである。いずれも一方的な暴力を含むのであり、そうあってこそ、贈与や略取＝盗み、そして結局「商品交換」も成立する。非対称であるがゆえに生じる暴力＝差異、それが贈与であり盗みである。そればかりか「商品交換」でさえ、贈与や盗みの一種である。だからわたしは《贈与と盗み》を交換の根底に置く<sup>★1</sup>。交換はシニフィアンに、贈与と盗みはシーニュにかかわる。盗みと贈与を根底に置く、とは、価値のやりとりにおいて、かならず差異が残ることを前提にする、そしてむしろこの差異、この非対称性こそ本質と考えることだ。逆に交換は、その差異の抹消を前提することである。非対称の交換という言い方は実践的な意義をもたない。交換の非対称性という言い方も現実的ではない。それは、思考上の段階的ツールとしてはありえても、平和のための戦争というくらい非現実的かつ非実践的な概念である。こうした矛盾を概念が弁証法的に隠しているとしたら、それを可能にする原理的根底を別に考え直すのがふつうであろう。だが柄谷は、交換様式の視座から離れることができない。</p>
<ul>
<li class="note">★1 ドゥルーズは交換を一般性と再現前化の指標に、贈与と盗みを単独的なものの反復の指標に振り分けていた（『差異と反復』）。わたしの立場は彼に近い。ところで、わたしは《交換》を否定しているのではない。むしろ人間が生み出した文化のひとつとして、というか文化そのものとして肯定している。</li>
</ul>
<p>ともあれ、交換である以上、共有可能なもの、すなわち同一性がかならず要求される。盗みと贈与を《交換》に仕立てるためには、贈る者と贈られる者、奪う者と奪われる者とのあいだに、なんらかの対称性がねつ造されねばならない。そこで互酬や再分配のような、非対称性（差異）の抹消が行われる。それらが対称的であると判断するために、超越論的な場が仮構される。前近代には神や王が、近代には、歴史や貨幣が、その役割を担う。それが国家や資本主義社会などの共同体に結実する。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>三つ目の交換様式である、商品交換について考えてみよう。一つ目の交換様式も、二つ目の交換様式も、資本主義的なこの第三の交換様式から遡ってみられたものにすぎないようにみえるからである。商品の等価交換が実現するためには、多様きわまる「価値」を数量化する貨幣が抽出されていなければならない。そしてこの貨幣こそが、《交換》という観念を可能にする。つまり、互酬や再分配が行う曖昧な等価交換を、より厳密なものにするのが、貨幣である。だがわれわれは、たとえばある商品を購入する際、それに付された価格どおりの価値を発揮するのか疑う権利がつねある。そしてこの疑いは絶対的に正しい。価格と価値が一致するとしたら、それはほぼありえない気狂いじみた偶然である。むしろ、商品に付けられた価格は、それに相当する通貨と商品のやりとりを「等価交換とみなせ」という指令である。もう少しマイルドにいうと、特定の通貨を共有している対称的なひとたちのあいだでだけ、等価交換は成立する。互酬も再分配も同じことである。それが本当に交換なのかを判断する術を、ひとは持たない。価値のやりとりにまつわって発生する本質的な差異を、権力や信仰や暗黙の契約が埋める。それがある種の交換の謂いである。逆にいえば、これらが行うのは、贈与や盗みよりももっとたちの悪い、差異の暴力的な抹消である。ベンヤミン風にいうと、贈与や盗みは神的暴力だが、交換は神話的暴力である。</p>
<p>繰り返せば、本質的にいって、「贈与とその互酬」や「略取と再分配」のみならず、「商品交換」でさえ、厳密な等価交換が成立する可能性はほぼ皆無である。ひとびとの抱く《価値》それ自体が、徹頭徹尾、同一性のありえない差異だからである。現実的には、あらゆるコミュニケーションは、贈与か盗み、あるいはその両方である。コミュニケーションの背後ではたらくもうひとつの暗黙の原理が働かないかぎり、交換は成立しない。つまり、交換という視座には、かならず欲望の屈折が込められていて、その屈折、その隠蔽を正当なものとみなす権力が発生している。わたしが奪うのは、あとで再分配するためだ。わたしが贈与するのは、あなたがお返しをしてくれるからだ。わたしたちはあくまで交換したのであって、けっして不当な利益は得ていない……。こうした暗い欲望の屈折がないかぎり交換は成立しない。《交換》とは、ひとの本質的な非対称性の隠蔽以外のなにものでもない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>柄谷の提示する三つの交換様式は相当強固である。この様式を打ち破って来たるべき新しい世界をもたらすのはきわめて困難にみえる。その原因は、彼が掲げる《交換》の視座そのものにある。《交換》の視座は、曲がりなりにも交換が可能であるという前提に立つ以上、共同体構成員の対称性を暗黙のうちに想定しないわけにはいかない。したがって、この視座自体が、オートポイエーシス的に、構成員の対称性を再生産してしまっていることになる。構成員が対称的であるような共同体のどこに、革命の必要があるだろうか。彼が非難するボロメオの輪をつくっているのは、この視座そのものである。</p>
<p>付け加えておけば、モースは「贈与」について画期的な視点を提示した。だが、結局、「ハウ」のような悪い観念にかかわりすぎ、彼自身が「円卓」の比喩でその可能性を閉ざしてしまった。円卓のような回転対称性が前提されるかぎり、贈与の連鎖がおりなす差異の螺旋は、早い段階で再帰し（つまり交換＝同じものの反復となり）閉ざされてしまう。世界にたどりつくほどの円を描くのはほぼ不可能である――というか、世界を閉ざされた円のなかに封じ込めることにしかならない。見返りを前提にした贈与を主流とする共同体など、世界大のものはおろか、世界帝国でさえ、ただの一度も形成されたことはない。それが世界史である。</p>
<p>《交換》の視座を貫くかぎり、世界同時革命など起こりようがないのだ。革命とは、隠蔽されていた非対称性の発露、つまり圧倒的な盗みと贈与、およびその肯定である（革命revolutionを、回って戻る回転対称性を備えるものと定義するのであれば、われわれはそれに代えて、非対称の螺旋を描きつつ回りながら進む進化evolutionを提示する）。対称性を可能にする超越論の打倒こそ、革命がになうべきものだとするなら、まずもって、革命は、柄谷のいう《交換》の視座にこそ、その刃を向けるだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>マルクスの好んだ自然史的な発想からいえば、交換は発生したことがない。むしろそこには、かならず差異が残った。つまりなんらかの贈与や盗みがつねに発生していたのであり、この差異の連鎖、この差分こそが世界を可能ならしめていたように思われる。そうと信じたくはないが、柄谷は、マルクスをこの自然史の深みにおいて、読んだだろうか。太陽と木々は交換しているわけではない。たんに木々は光を奪い、太陽は光を贈る。雨と土もまた同じである。交換などしていない。たんに雨は贈り、土はそれを奪う。ひとも同じである。男は与え、女は奪う。資本家は奪い、労働者は贈る。そのことのたえざる反復が、世界である。交換が真に実現する瞬間とは、おそらく宇宙の終わりを意味していよう。しかし宇宙が終わるのでもないのに、交換が実現したというのであれば、それは想像的なもの以外にありえない。《交換》の視座は、おそらく世界史的というより、ナショナルである。交換不能な場所での交換、などといったところで言葉遊びである。世界史という概念に意味を与えたいなら――つまり自然史と同様に考えたいなら、《交換》の視座は捨てねばならない。柄谷の議論はたしかに精緻になった。だが、「想像の共同体」の見地から、一歩も出られていないと、わたしは思う。</p>
</p>
<div class="post-rl">
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</div>
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		<title>政治と文学――ある文学的政治家についてのメモ</title>
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		<pubDate>Thu, 16 Sep 2010 07:45:19 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[ここ数日ある政治家をみていて、ひさしぶりになんともいえぬ感興を覚えた。同時代人として、こういう政治家に出会えたことに対するそれ。政治家に一流などいないと思っていた自分の浅墓さを詫びたい気持ちになる。ある程度権力をもった政 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ここ数日ある政治家をみていて、ひさしぶりになんともいえぬ感興を覚えた。同時代人として、こういう政治家に出会えたことに対するそれ。政治家に一流などいないと思っていた自分の浅墓さを詫びたい気持ちになる。ある程度権力をもった政治家のなかでは、もともと彼くらいしか「まとも」はいないと、直感的に思っていたが、複雑怪奇な権力闘争を経てきた経歴からいっても、彼に優る政治家が世界的にどれほどいるか。学園のなかでつくられた理論ではなく、現実の実践的政治空間のなかで仕事をすることで、彼の理論は構築されている。だから、どの概念をとってもオリジナルな響きがある。その彼が、アジアの極東、辺境にある日本の、しかも与党とはいえ一政党の代表選というきわめてローカルな場所、粘着質の包囲網のなか、圧倒的に不利な状況にもかかわらず、ほとんど単身で乗り込み奮闘し、そして破れ去った。</p>
<p>政治家になろうとは思わないし、日本の行く末に殉じる気もさらさらない。純真だが流されることが本質の衆愚を相手にするだけでなく、某官房長官や某マスメディアなど、自らの安い策におぼれる善良な人間をも相手にしなければならないのが政治である。そのためには、言いたくないことも言わなければならなくなる。やりたくないことにも手を染めなければならない。不毛な政局を乗り切るために莫大な時間を費やさねばならない。したがって、彼――小沢一郎の発言や行動すべてに納得するというわけにはいかない。しかし、というよりはそれゆえに、ここ数日、ただひとりの男として彼をみて、それで彼に集まる権力と衆目の巨大さに納得した。選挙時の用兵や平時の事務処理力にも凄まじいものがあるのだろうが、最大の力は人望ではないか。といっても、シャイにみえる彼は、視線を自分に集めようと思っていない。むしろ自身が抱く遼遠な理想にその視線を向けさせようとしている。彼は彼だけのただひとつの目的をもち、その目的に己をささげている。ひとは彼の肉体につき従うのではなく、彼の理念を分有したいと思う。だが、それこそが、本当の人望の意味だろう。特定の個人の肉体に視線を集中させるカリスマではなく、己が目的を説得的に分有させること、政治家に必要なものはこれである。</p>
<p>理念に対して冷徹でその点で自分勝手な男だが、絶対に信じる道を踏み外すことがない。社会を知らないまま政治家になり、だから家族や生活のためにという発想は皆無だが、同僚と議論し、有権者と握手を交わす具体的な社交は遠ざけない。彼は敗北したが、もうひとつの対立軸を作ることにはあきらかに成功した。日本人は、かろうじてまだ政治に夢を見ることができる。彼がいなかったらと思うとぞっとする。彼以外、政治家はほとんど皆無に等しい。</p>
<p>結果がどうなるにせよ、政策的には彼のやりたいことは一貫している。新自由主義から社会民主主義へ形式的には移行しているようにみえるが、内実はそうではない。要は万人に公平な自由を実現するためにはどの程度のインフラが必要か、ということであって、優先順位は変わっていない。具体的な実践の場面では、レッテルはどうあれ状況に応じて政策を積み上げていく以外にはないからである。</p>
<p>経済的には、国家的な単位である「円」で多くのひとが現実に動いているため、この観点での規制緩和は国際市場に流動性は生まれても、「円」を強くすることには直結しない。規制緩和で利益を得るのは国際通貨である米ドルだけである。国際市場では、原則的に米ドルだけが「具体的」であり、その他の通貨は「抽象的」だからである。しかし、この規制緩和は、人間とは関係しない。</p>
<p>ところで、規制の目的は、具体的なものの力を抑え込むことである。具体的に人間はどこで生きているか。それは、地域である。国家において生きているのではない。国家の規制緩和は、むしろこの観点で行われるべきである、と小沢は考えている。最終審級が経済にある限りで、経済自由主義は説得力をもつ。しかしわれわれは、そんな経済決定論には飽き飽きしている。彼が考えているのは、経済の自由主義ではなく、人間の自由主義である。わたしは彼の演説を、痛烈な国家批判として聞いた。</p>
<p>彼は、新しい土地を作り出そうとしている。太閤検地は新しい土地の考え方を提示した。曲折を経てひとは再び土地に根差すようになった。明治の初めに生まれた統計学は土地からひとを切り離した。二十世紀に生まれた、全国一律の情報が手に入る（記者クラブのおかげでどの新聞雑誌を選んでも大差はない）ジャーナリズムはネーションという架空の土地を提供した。彼がやろうとしていることは、この一連の土地に対する思考の変革にかかわっている。その点で、全国一律のジャーナリズムを否定し、地方自治を謳う彼の政策はつじつまがあっている（ちなみに、地域通貨の試みがここに加えられていい）。</p>
<p>われわれは、局所化を必要としている。あえてわれわれはローカライズすべきなのだ。おのれをローカライズする勇気を持たねばならない（局所化とノマド化は齟齬しない）。局所化する、とは、内面を、自意識を、差延を捨て去ることである。具体的な場に存在するかぎり、われわれはアトムであること、点であることをやめなければならない。つまり、肉にならなければならない。それが文学の仕事である。神だって腐るということ、言葉だって腐るということ、つまり精神でさえ肉であることを、文学は示さなければならない。</p>
<p>彼の考えていることは、わたしの考える未来の方向性に、ある程度合致している。あと数年だろうが、政治の分野は、彼に任せておこうという気になった。彼こそ政治家である。</p>
<p>彼は多くの人に方向性を示した。だが、それだけで彼の仕事が終わってしまうのは、あまりにも惜しい。彼の才能を妬む者たちによって、本当に余計な血と時間とほかの多くの才能が、費やされてしまった。この馬鹿げた混乱は、マスメディアや官僚が、一枚岩になればなるほど、続いていくだろう。彼らの強固な結託は、かえって国家を混乱させ弱体化させることに、彼らは気づいているだろうか。あと数年、彼の才能を日本が使いこなす日は来るか。それを心配している。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さてなぜ、局所化が普遍性を得るのか。たとえば京都の北山に住むと考えるより、日本に住んでいると考えた方が、普遍性があるようにみえる。日本に住んでいると考えるより、アジアに住んでいると考えた方がよいかもしれない。そしてついには世界に住みかを得る、と。</p>
<p>しかし、それは自意識の同心円的拡大にすぎない。他者を立て、あるいは小さな目的を立て、それを弁証法的に乗り越えていくような、そうした普遍化とはちがって、思い切って逆の方向へ、つまりあえて局所化してみよう。もっとも具体的に（ハーバーマスのいうような「地域」さえ越えて）、わたしは「この土」の上に立っていると考えてみよう。不思議なことにあなたは、地球に立っている。つまり、われわれは、居ながらにして世界に場を占めている。これが文学者の考え方である。それは、政治家が考える世界とはまったく反対である。</p>
<p>したがって、ある意味では、文学者は「世界」を必要としない。むしろ、ニーチェのいう「世界の忘却」の方がはるかに重要であり、そしてそのことがゲーテのいう「世界文学」の意味である、とわたしは考える。要するに、「自己」を考えること、それが世界市民たることである。</p>
<p>われわれはどうしようもなく日本人である。日本語を喋っているからだ。日本人であることから脱出しようとして、ひとは英語やラテン語をやったりする。しかし文学者は別の考え方をする。おのれの言語を、方言をさえ越えてもっと個性的なものにすることで、それに代えようとする。つまり自分だけのスタイルを追究する。</p>
<p>このようにして、（特異な）日本語を話す世界市民や、（特異な）ギリシア語を話す世界市民が生まれる。もっとも個性的な言語、すなわち多くのひとに共有される意味を失った言語こそが、普遍性があると言われるゆえんである。われわれは、アトムであることをやめねばならない。つまり、その場を占めねばならない。ひとは、自分だけの言語を、他人に向かって話す。</p>
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		<title>顔と他者、あるいはマイケル・ジャクソンについて</title>
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		<pubDate>Thu, 03 Jun 2010 15:27:52 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[マイケル・ジャクソンが死んだとき、書こうと思っていたことがある。それをずっと書かないでいた。なぜだろう？　たぶん、世間が大騒ぎして書く気が失せたのだ。そして忘れていた。だが、ふと思い出した。アメリカ合衆国とは《何だった》 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>マイケル・ジャクソンが死んだとき、書こうと思っていたことがある。それをずっと書かないでいた。なぜだろう？　たぶん、世間が大騒ぎして書く気が失せたのだ。そして忘れていた。だが、ふと思い出した。アメリカ合衆国とは《何だった》かと考えたからだ。この特異な国家について考えるとき、この黒人のアイドル、世界史上あまり類例のないスターのことを思い出す。たかがアイドルといえばそれまでだが、彼には明確な思想がある。そろそろひとが忘れる頃だから、ここに書いておくのもいいだろう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>マイケル・ジャクソンは鏡に映った自分をみて、世界をよりよく変えることができると信じた。彼の目にはこう映っていた。世の中に問題があるのは、きっと大人が難しく考えすぎているからじゃない？　もっとシンプルに考えればいいんだよ……。この単純さを志向する風変わりな思想と、彼の過剰な整形は切り離すことができない。</p>
<p>彼は兄弟のなかで、鼻が大きいといじめられていた。そうさ、ぼくの鼻は大きいといわれたけど、ほら、鼻は小さくなった。大人びて見えるからと、ほら、顎も割ったよ。歌謡界で特異な位置を占めてはいても、けっして中央には出ることがなかった黒人たち。そうさ、ぼくもクロンボと言われたけど、ほら、ぼくの肌は白くなったよ<sup><a href="#n01" name="p01">(1)</a></sup>。彼は鏡をみて、こう考える。この鏡に映っているぼく、これが世界だ。マイケル・ジャクソンのコギト。みんな、自分の姿を鏡でみてみよう。それが世界だ。ぼくらは世界だ。衣装を変え、ポーズをとり、表情を作る。そんな風に、世界だって変えられる。かっこ悪いと思うなら、変えればいい。こんな風にシンプルに考えれば、世の中をよりよく変えることができるんだよ。戦争や飢餓だってなくすことができる。大人は複雑に考え過ぎなんじゃないかな……。</p>
<p>ここは、こうした思想が実現可能なものかを考える場所ではない。たんに彼の思想を取り出そうとしている。だからといって、それをあまりに理想主義的な、ロマンティックなものだと考える必要もない。あの不自然な顔が、ロマンティックなもの、理想的なものだと考えるのは困難である。彼が得た子供のような純粋さ、単純さの代償が、過剰な整形で崩れたあの顔貌である。黒人が真にピュアでいたいなら素顔を捨てなければならない。鏡に映っていた人工的なあの顔、精神の美しさの代償に得たあの顔、それこそ、２０世紀のアメリカ社会そのものだったのではないだろうか。鏡に映る彼の歪んだ顔は、自由主義国家アメリカが覆い隠していた裏側である。あの顔の奇怪さを前にして、「顔」の特権性を語る他者論は太刀打ちできるだろうか？　彼はもはや「顔」を、つまり他者の表徴を失っているというのに？</p>
<p>ソ連の崩壊後、社会主義の醜さを非難する声は顕著だ。それはたしかだが、アメリカを中心とする自由主義社会が、その醜さを覆い隠すために行った不自然の数々もまた、本当は非難されなければならない。自由のために素顔を捨て去らねばならなかったマイケル・ジャクソンの悲痛な叫びが聞こえないだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>犯罪のため、差別のため、あるいはひとの精神の醜さに耐えられなくなって、顔を変え、名を変えて生きていかねばならないひとたちがいる。彼らに「顔」や「固有名」などと言っても、「仮面」や「匿名」と言っても、本当は無駄なのだ。彼らは、もうとっくの昔にそんなものは失ってしまったからだ。本物の他者はどこにいるのか、もう一度問い直してみよう。</p>
<p>ひとは、顔を変え、名を変える自由をもっている。それは、顔や名が、精神に対してたかだか表面にすぎないから自由に変えられるのではない。ひとは表面において生きているからこそ、それらがわけても自由な行為と言えるのだ。だから、先に「悲痛」だと言ったが、それは方便である。変化を愛したかのアイドルは、喜んで、顔を変えた。それこそが自由の本当の意味だから。</p>
<p>他者について、わたしならこう考える。かのアイドルの「顔」とは、まさに帝国アメリカの象徴でしかない。本当の彼は、つまりわれわれにとっての他者は、時折見せる笑顔や、叫びの際に鼻に皺寄せる独特の表情のなかにこそ、明滅しているのだ、と。彼の整形された顔は、だんだん若き日に演じたピエロのような笑顔になっていくように、わたしには思えた。おそらく彼は、「顔」でさえ、《表情》に変えようとしていたのではないか。そんな風に、わたしは思っていた。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>２０世紀の批評家は文学に固有名や顔を見つけられなかった。当然である。文学は、固有名ではなく、呼びかけに応じて変わる名前――つまり無名を、顔ではなく、刻一刻と変わる表情を求めてきたからだ。名前を変えても、彼は彼だ。顔を切り刻んでも、変化する表情は失われない。無名性や表情にこそ、他者は存在している。固有名を確定記述に変える実証主義のほうが、かえって他者に出会うこともあるし、もちろんその逆もあるだろう。固有名や顔は、この際、そこまで重要な問題ではない。固有名から確定記述へ、確定記述から固有名へ、その移行の瞬間にこぼれ落ち、低く煌めく言葉、つまり無名性や表情にこそ、他者がいる。</p>
<p>シンプルに考えよう。彼女が笑っているとしたら――たとえその内面に悲しみを隠していても――きっとそのときの彼女は幸せだったのだ。彼女が愛していると言ったなら――そのときは本当にぼくのことを愛しているのだろう。世界は本当は、ひとが思っているよりもずっとシンプルだ。文学は、ひとの心が抱いてしまう現実とのズレ、つまり内面を表象（表情）のうちに消し去る運動である。それを《表現》という。小説のなかの言葉、紙に書かれた言葉、それを内面と外面とに区別する質的な差異はどこにもない。そこに書かれているものがすべてで、小説はなにも隠していない。文学は素顔とも内面とも関係がない。</p>
<p>世界はシンプルだ。単純な強さがある。誰かが助けを求めていたら――その言葉の意味など考えている暇はない。そんなことをする必要もない。たんに助けてあげればいいだけのことだ。救いを求める動物の言葉でさえ、ひとは理解できるのに、同胞の言葉に反応しないわけにはいかないではないか。自分でできなければ、ほかの誰かに声をかけたらいい。助けてくれと言う勇気もときには必要だ。いまこの瞬間にも、そうやって世界史は成立している。</p>
<h2>【註】</h2>
<ul>
<li class="note"><a href="#p01" name="n01">(1)</a> 読者から、肌が白くなったのは病気がきっかけという指摘、彼の整形を醜いというべきでないという指摘、彼の整形は事故がきっかけという指摘、さらに、彼はアイドルでなくアーティストという指摘、その他さまざまな指摘をいただいた。記して感謝するとともに、彼のファンが今でもたくさんいることを嬉しく思う。</li>
</ul>
<div class="post-rl">
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		<title>基地はいらない！</title>
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		<pubDate>Sun, 23 May 2010 18:00:58 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[ニューヨーク・タイムズは、５月２３日付けの記事、“Japan Relents on U.S. Base on Okinawa”のなかで、「オバマ米政権の勝利であり、鳩山首相にとっては屈辱的な後退a victory for [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ニューヨーク・タイムズは、５月２３日付けの記事、“<a href="http://www.nytimes.com/2010/05/24/world/asia/24japan.html?ref=world">Japan Relents on U.S. Base on Okinawa</a>”のなかで、「オバマ米政権の勝利であり、鳩山首相にとっては屈辱的な後退a victory for the Obama administration and a humiliating setback for Mr. Hatoyama」と伝えている。とはいえ、おそらく日本のメディアにも旧政権に所属する官僚たちにも、敗北感などないだろう。アメリカの“victory”こそ、自分たちの勝利だからだ。</p>
<p>いまは怒りを覚えている沖縄のひとたちも、本土メディアの鳩山バッシングとは一線を画したいと思っているかもしれない。外野から他人事のように鳩山首相を非難する様は、むなしさを通り越して奇怪なものをみる気分になる。現状を肯定するばかりでなにもしていない連中が、できもしないことをやるな、などという批判が正しいとは全然思わない。やり方がまずかったとも思わない。たんにメディアが足を引っ張り続けたということであり、必要な支持が足りなかったということである。また民衆に基地反対の火をつけたという点で、役割は果たしている（首相の言葉が軽いというひとがいるかもしれないが、政治家の言葉が善き意志で貫かれているかぎりは、即座に言ったことが実現しなくても充分に重みを持つし、途上での狡猾さはあってしかるべきものだ）。</p>
<p>本来は在野の知識人がやらねばならないことを、一国の首相がやったと思えばいい。アメリカという巨大な覇権国家からみれば、日本の首相は残念ながらポジション的にはほとんど在野に等しい。そしてにもかかわらず首相であるということが彼の足かせになっていたのであり、短絡的に「日本に基地はいらない」と大統領に投げればそれでいい、などとはとうてい言えない（戦前の日本は国連でも国際会議でも自分の主張だけしかしなかった）。首相には、基地反対の民意を受けつつも――支持率をみるかぎり、それが民意かどうかはわからないが――、最終的には大統領とは仲良くやってもらわねばならない。それが外交というものだ。基地を動かすことができるのは、本質的には民衆だけであると思う。「基地はいらない」というメッセージは、首相のものではなく、端的に民衆のものであるはずだ。本土の人間は、最初に政治家にそれを言わせてしまったことを恥じなければならない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>アメリカの軍産複合体は、冷戦期に肥大化したものだ。軍隊には敵が要る。冷戦期の敵はもちろんソ連だった。しかし、この終わりのない軍拡ゲームから、ゴルバチョフは一方的に降りてしまった。別に積極的にレーガンやブッシュシニアが勝ったわけではない――つまり、アメリカには、勝利とひきかえに消費されるはずだった兵器や世界中の基地が、山のように残されることになった。当然、軍隊には敵が要る。この邪悪な山は、己を標的にせざるを得なくなる。というのもアメリカが、世界を制覇してしまったからだ。かくして戦争はもはや終わることのない奇怪な円環を描く。敵はテロリスト（テロ国家）であるという。だが、テロリストを生産しているのは、あるいはすくなくとも必要としているのは、ほかならぬアメリカである。彼らは、自分たちを守る兵器と同時に兵器を使用する対象をも生産する、自家中毒的なグローバル企業である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>冷戦後、その根拠を失った海外基地を維持するのは容易ではなかったはずだが、どこに潜んでいるかわからぬテロリストを対象として基地の根拠は暗黙のうちに書き換えられた。テロリストが相手である以上、古い意味での「抑止力」はもはや空文化している。不可視の敵を相手にする以上、敵の殲滅は戦争の終結を意味しない。テロリストは世界中に分散している。地球という球体の上に存在する基地は、任意の場所にあっていいはずだが、そうである以上、もっぱら経済的な理由から、動かす理由はもっと存在しない。ただそこにあるという、そのことだけが、じつは、たとえば沖縄に基地があるもっとも説得的な理由なのである。</p>
<p>沖縄に基地があるという前提で作られた数多くの兵器があり、産業があり、官僚がいて、そして権利がある。もはや国家がこれを動かすことはできない。国家が基地の場所を決めるのではない。世界中に張り巡らされた基地の上に国家が乗っかっている。べつにアメリカだけが利権に預かっているわけではない。セミラティス状に広がった利権の網の目には、ユダヤ人というかイスラエルはもちろん、日本の古い権力者も与っている。世界大に広がった利権の網の目、すなわちセミラティス、これをネグリ＆ハートの言葉で《帝国》という。</p>
<p>わたしは彼らの論文が公表された当初、この議論に懐疑的だった。だが、ここ何年かはことさら否定する必要を感じていない。ここでは、彼らの議論に沿って話を進めていこう。さて、《帝国》は、冷戦の終わり――資本主義のグローバル化によって現われた新たな局面である。かつて帝国主義時代には、資本主義は国家と手を取り合っていた。というのも、国家間戦争がなければ、自らの領域を広げる外部を保つことができなかったからだ。だが、資本主義のグローバル化は、国家との結託を不要のものとした。むしろ国家のほうが、資本主義に包摂され、これに依存することになる。こうしてできる世界大の利益共同体が《帝国》である。日本はアメリカの植民地だとか、隷属しているだとか、そういう短絡的な見方はここではできない。国家間関係は、固有の領土に立脚した政治的なものというよりは、もっと微妙に変化するグローバル経済の上〈のみ〉に成り立っている。地球上のどこかで剰余価値が発生すれば、そこを中心にして、帝国が何度でも編成される。その編成のプロセスのなかで、日本がアメリカの植民地のように見えることもあれば、同じ日本がアメリカの片棒をかつぐ帝国主義者のようにみえることもあるし、たんに日本が帝国主義者としてふるまうこともある。ここでは、主体は端的に国家ではないし、主権国家という観点はじつはほとんど成立しがたい。強いて主体をあげるなら、不可視のセミラティスである《帝国》、というほかない。ともあれ、その編成から漏れたひとたちはテロリストになるほかないところまで追いつめられ、剰余価値を生み出すための差異を無理矢理演じさせられる。テロリストは暴力を振るう。なんというならず者たちか。われわれは、これに千倍する暴力で答えなければならない。たった一発の手榴弾が、千発の劣化ウラン弾に変わる。千発の劣化ウラン弾が十発の手榴弾に変われば、今度は一万発の劣化ウラン弾が生まれる。これを価値増殖といわずしてなんといおう。……</p>
<p>冷戦時代に作られたアメリカの基地が、《帝国》に利用されている。基地があるかぎり、敵から日本は守られるかもしれない。それは古い抑止力とは関係ない。基地があるというそのことが、《帝国》の攻撃対象から外されることを意味するからだ。しかし、日本を攻撃する敵とは、一体誰のことなのだろうか？　中国ではない。中国政府は、《帝国》内部に組み込まれている。というより、現在の《帝国》の中心は経済的にはほとんど中国に移行しつつあるといっていいほどだ。だから、やはり、基地があるかぎり、そこが中国の攻撃対象となることはない。基地がある以上、中国にいる《帝国》の住人は、そこを自領とみなす。海外基地とは、《帝国》のシンボルであり、「降伏証明」である。これが「抑止力」という言葉の真の意味だ。つまり、不思議なことに、この「抑止力」には対象となる国家が存在しない。つまり、《帝国》のなかに、敵はいない。しかし、《帝国》は、この「抑止力」によって、目に見えないテロリストを生産する。敵がいない？　そのとおり、彼らは見えない敵なのだ……。これは黒魔術の言葉――自分自身の尻尾を飲み込むウロボロスである。「抑止力」は、イラクへ、あるいはアフガンへと飛び立ち、いまも民間人を殺し続けている。民間人の憎悪にまみれながら、兵士たちはおそらく薄々感づいている。この戦いは、ますますテロリストを生産するために行われているのではないか。……</p>
<p>こうした奇怪な円環は、われわれを身動きできないところへと追い込んでいく。オバマ政権が軍産複合体に仕掛けた戦いは劣勢が伝えられている。オバマは鳩山由紀夫と同じく、軍縮を志向するタイプである。だが、それでも基地を動かすことはできない。世界中に張り巡らされた《帝国》の力が、彼らの道行きを阻んでいる。そればかりか、彼らが動けば動くほど、彼らの自由はいよいよ狭まっていく。軍隊の縮小を全体として実現するためには、この基地は必要だと、すべての基地が主張する。軍縮したつもりが、すこしも縮小されない。多くの大統領が戦争を経験してきた。だのに臆病なお前は逃げることしかしない……。《帝国》はますますその力を強めていく。肥大化する《帝国》に追従する新自由主義者たちは、その求めに従って、国家を小さくした。できるかぎり自分を小さくして《帝国》の流れに身を任せた方が、国家は生き残ることができると考えたからだ。だが、それは、《帝国》の力に国家が飲み込まれてしまったことを肯定する身振りでしかない。国家はますます《帝国》の尖兵になり下がっていった。だからといって、《帝国》に反対して国家の力を強くしたとしても、勝つのは容易ではない。国家は、《帝国》の要請に応じて形を変えなければ生きていけないほどに、変質させられてしまった。それほどまでに、手に負えないものになったのだ（強い国家ほど、国連を必要とするのはそのせいだ）。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>こうして世界は文字通り閉塞していく。だが、ネグリとハートによるなら、《帝国》と直接対峙する勢力があるという。マルチチュード（群衆）である。《帝国》は巨大であるがゆえに不可視である。テロリストは微細であるがゆえに不可視なのだが、不可視であるという点で、《帝国》の主要なパーツである。しかし、マルチチュードには、どうやらそれが全部見えているらしい。生活の瞬間瞬間に、《帝国》がふるう暴力が、見えるというのだ。彼らは戦うべき本当の敵がどこにいるのかを知っていて、ゆくりなくつぶやくだろう――基地はいらない……！</p>
<p>軍縮のための確実な一歩は、武器を減らすことではなく、軍隊が駐屯する世界中の基地をひとつひとつつぶしていくことであろう。理論的には、それ以外に恒久的に軍縮を進める道はない。いまや兵器の生産がアメリカや中国（《帝国》）の内政上の問題である以上、政権が変わればたちどころに兵器の大量生産が可能だからだ。</p>
<p>おそらく、真の敵は基地なのではなかろうか。世界中に基地があるからこそ、アメリカは諸外国と戦争するし、テロリストが生産されつづけるのではなかろうか。《帝国》はリゾームではない。セミラティスである。なぜなら、どうしても動かせない基地があるからだ。《帝国》は、どこにでも動けるかのように偽装しているが、爆撃機が飛び立つための何千メートルもの滑走路は必要なのだ。だから、《帝国》がもっとも恐れているのは、基地こそが戦争の元凶であることに気づいている周辺の生活者が声を上げることなのではなかろうか。先にも述べたように、《帝国》が世界大に広がっているなら、基地は任意の場所でよいはずだ。だが、そうなっていない。というのも、冷戦時代の遺物たる基地がそこにあったからだ。ただそこにあるという、それだけが基地のもっとも強固な存在理由である。この理由に論理的に反論するのは困難である。というのも、論理的な理由ではなく、多分に情緒的なものだからだ。したがって、国家首脳レヴェルの外交上の課題ではない。この理由なき常駐に対する唯一の方策は、論理的なやりとりではなく、民衆の声で応じることである。声に声をかさね、軍隊、あるいは《帝国》の暴力とは別種の《力》でこれに応えることである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、時間が足りない。ここで考察は一方的に断ち切られるが、ともあれ《帝国》と対峙しているのはマルチチュードである。しかし、マルチチュードになるのは容易ではない。ほとんどの場合、われわれは、知らないうちに《帝国》に加担している。おそらく、声をあげるひとたち、それも声をあげつづけるひとたちだけが、マルチチュードになることができる。しかし、やはり、声をあげるのは容易ではないし、ひとりひとりの声は小さい。われわれは、はたして《帝国》側の住人なのか、マルチチュードの側の住人なのか。自分自身ではなかなか判断することができない。とはいえ、すくなくとも確かなことは、《帝国》と対峙する主体となれるのはマルチチュードだけ――つまり政府はあくまで副次的な存在である、ということだ。</p>
<p>政府には果たしてもらわねばならない役割がある。だが、彼らに頼りすぎるのはよくない。もともと政府には基地を動かすほどの力はないからだ。だから、基地を動かそうと試みた稀な政府を責めるのは筋違いである。われわれは、政府でさえ、味方につけなければならない。アメリカや官僚、ジャーナリストやアカデミシャン、そして兵士たちのなかにさえ存在するマルチチュードを見つけ出し、仲間に加えなければならない。現政権には、オバマ政権とともにまだまだ仕事をさせるべきだが、究極的には、基地を動かすのは民衆、それもマス化していないマルチチュードである。</p>
<p>自分たちにしか、基地を動かすことはできないのだと知っている民衆は、マルチチュードになる準備ができている。勇敢な沖縄のひとたちはマルチチュードになりつつあるようにみえる。本土の人間も、うかうかしていられない。まだチャンスはつづいている。諦める必要はまったくない。基地がそこにあるべき理由は存在しない――この勝負には、勝ち目がある。</p>
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		<title>芸術のエチカ――欲望中心の表象の強さについて</title>
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		<pubDate>Fri, 21 May 2010 17:44:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Nietzsche]]></category>
		<category><![CDATA[Platon]]></category>
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		<description><![CDATA[欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を奪ってしまう。別にその表象は生身の人間である必要はない。なにかしら異性を思わせるシンボルがあるだけで充分である。というよりは、その欲望中心のシンボルの抽象性が高ければ高いほど、かえって視線を誘う。なにしろ「欲望」は、表象をもたない。だから抽象的だが、同時に、欲望ほど具体性に恋い焦がれているものもない。この抽象的なシンボルは、次の瞬間には具体物であるかもしれない。そう思わせるだけで、ひとの視線は奪われ、このシンボルに吸い付けられてしまう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>たとえば昨今のアニメや漫画で描かれる人物は、それはいじらしい。なぜなら、彼らは人間になろうとしているからだ。抽象性から具体性へと至るプロセスの中心で、いまだ胚といってもよい状態のまま、奇妙に凍結され、宙づりになってこちらを見つめている。この欲望中心の表象の力強さは驚くほどだ。かつて泉鏡花が自然主義文学について言ったように、十の精神でさえ、一の肉に勝てない。もし、芸術があるかないかもわからぬ精神の領域を占めているとすれば、肉に依拠し、覇権主義的で帝国主義的なこの「サブカルチャー」の力には、ほとんど歯が立たない。</p>
<p>それは、中世ヨーロッパの芸術が、ついに古代ギリシア・ローマの芸術に勝てなかったことにもよく現われている。それは、宗教が欲望に勝てないことと同義である。かつて白樺派のひとたちは、内村鑑三の洗礼を受けながら、ほとばしる欲望についに勝てなかった。「自分は女に飢えている」と語ることから文学を始めた。だからこそ、この芸術は強い。魂に禁欲を強い、その禁忌がもたらす崇高に軸足を置く宗教的な芸術が、欲望中心の芸術に勝てなかったことは、歴史がよく示している。</p>
<p>古典時代とは、欲望中心の時代の謂いである。ソクラテスの言葉は、ギリシア人が、知とエロスとを同じ高さに並べることに、なんの抵抗も感じないのでなければ、すこしも説得的ではない。ソクラテスは美に畏敬を抱かぬひとを「快楽に身をゆだね、四つ足の動物のようなやり方で交尾して子を生もうとし、放縦になじみながら、不自然な快楽を追いかけることを、おそれもしなければ、恥じもしない」と言って非難する。とはいえ禁欲を説くわけではまったくない。彼は美に出会い、恋に狂った人間が陥る〈好ましい〉例を、次のように語る。</p>
<blockquote><p>聖像や神に対するごとくに、彼はその愛人にいけにえを捧げることであろう。…その姿を見つめているうちに、あたかも悪寒の後に起こるような一つの反作用がやってきて、異常な汗と熱とが彼をとらえる。それは、彼が美の流れを――翼にうるおいを与える美の流れを――眼を通して受け入れたために、熱くなったからにほかならない。そしてこの熱によって、翼が生え出てくるべきところがとかされる。…いまや養分がつぎこまれると、翼の軸は膨れ、その根から、魂の姿の全体を蔽うまでに成長しようとする躍動をはじめる。</p>
<p>…かくして、このような状態のとき、魂の全体は、熱っぽく沸きたち、はげしく鼓動する。それはちょうど、歯が生えはじめたばかりのとき、人々の歯のまわりに感じるあの状態――歯ぐきのところに感じるむずがゆさといら立ち――あれと同じ感覚なのだ。翼が生えかけている人の魂は、まさにそれと同じ経験を味わい、翼が生じるにあたって、熱っぽく沸きたち、いらいらし、うずくものを感じる。そこで、この魂が、少年にそなわる美をまのあたりに見つめながら、そこから流れてやってくる粒子を――このように粒子（メレー）の流れ（ロエー）の放射（ヒーエナイ）であるがゆえに、それは「愛の情念」（ヒーメロス）と呼ばれるのであるが――この愛の情念を受け入れて、うるおいを与えられ、熱くなるときは、魂はそのもだえから救われて、よろこびにみたされることになる。</p>
<p class="post-r">プラトン『パイドロス』藤沢令夫訳、岩波文庫</p>
</p>
</blockquote>
<p>この言葉が、性的な欲望がいかに表現（発現）されるべきかをリアルに示すものであるのはあきらかである。ここでのソクラテスの言葉は、それ自体が欲望の表現（発現）であることに注意しておこう。つまり、この言葉は、それによって「意味されるもの」を想起させようとしているのではない。美は、「四つ足の動物の行う交尾」として《表現》されるのではなく、「翼をもった魂の潤いのほとばしり」として《表現》されなければならない。なぜなら、ひとを惹き付ける美とは、対象そのものではなく、対象が抱かせる期待、すなわち《距離》によってこそ、美だからである。安易に対象と同化するよりも、「翼」によって表現される対象との《距離》が、ひとをして欲望の虜にするのであり、この同化に至る《距離》こそが、美であると同時に表現であると言いたいのである。要するに、ソクラテスは全然欲望を否定していない。欲望を描くとは、四つ足の獣のように即席の同一化を与えることではないし――これをポルノと呼ぼう――、そうした即席の快楽は、ほとんどここちよさを与えない。それは、結合の瞬間、絶頂の瞬間が、それまで感じていた《美》などどうでもよくなっていることによって説明される。むしろ、結合にいたるプロセス、絶頂の途上で感じられる埋めがたい距離のすべてが、美であり欲望であり快楽なのである。芸術の中心はここにある。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>男は手淫し、女は想像で妊娠する。われわれは、それを「抽象的」と言ったり、「観念的」と言ったりする。それはけっして虚構ではない。なぜなら、自然は、それによって実際に欲望を満足させるようにひとを作ったからである。犬のディオゲネスは人のみている広場で自慰に耽りながら言った。「ああ、お腹もまたこんなぐあいに、こすりさえすれば満足できるならいいのになあ」。しかし、これは不思議なことなのだ。遺伝子が死を超えて残ること――作られた子供については、欲望はこの際関係しないらしい。手淫は観念的だ、などと言ったところで、これが現実に行われていることを否定することはできない。芸術は、虚構というよりは、こうした奇妙な《現実》にかかわっている。つまり対象それ自体とかかわるよりは、対象への意志とかかわる。欲望は、対象の直前で立ち止まる、いわば手淫や想像妊娠なのだ。それを表象するのが古典芸術だとするなら、アニメや漫画は、対象を人間未然のなにかとして、しかも人間になろうとするその《距離》として描いているという点で、無自覚に古典芸術と同じ地平に立っている。その意味では、サブカルチャーとメインカルチャーを区別する必要はほとんどない。純文学であろうが、漫画であろうが、それらが宗教的ではない動機、すなわち欲望の屈折なき放射であるかぎり、芸術の最初の門をくぐったものと考える（その点、コンセプチュアル・アートは古典芸術とはまったく無関係である）。問題は質ではなく強度である。</p>
<p>欲望が快楽そのものというよりは快楽の遅延なのだとすれば、その表現は驚くほど複雑化する。なるほど快楽は一に基礎を置く。だが、欲望は多に基礎を置いている。したがって、肉を晒すことは快楽へ至る最初の一歩だとしても、欲望にとっては多様な道のひとつにすぎない。中世の宗教芸術から一線を画すルネサンス期、レオナルドは、「教会は血を忌む」といって遠ざけられていた人体解剖に興味を示している。したがって、解剖学的な欲望は、中世を卒業する芸術の最初の動機の一つであると考えられる。だが、解剖学だけですべてが解決するわけではないし、欲望が静まるわけでもない。むしろ欲望は、ポルノに至らぬぎりぎりのところでとどまることを欲しているし、その点からいえば、じつは欲望はポルノを拒絶している。</p>
<p>たとえばゴダールは、『映画史』のなかで、浴槽のジュリー・デルピーとポルノビデオを対比している。彼は言いたいのだ、どちらがひとを欲情させるのか、また同時に、同じことだがどちらが美しいのか、と。むろん、ジュリー・デルピーよりポルノビデオに軍配を上げるひとも多いだろう。強度を問わず、ただ快楽にたどりつけばいいというのなら、ほとんどのひとがそうだろう。ゴダールが言いたいのは、映画はポルノビデオと勝負し、あるいはもっとおぞましい薬物とさえ勝負し、それに勝つことを夢見ている、ということだ。今日では、純文学とポルノ小説の差異はほとんどなくなっている。作家たちのあいだで、欲望と快楽とが混同されているからである（はっきりいって、純文学と称する昨今の代物はほぼすべてポルノである）。こうしてポルノを政治的に法で囲い込むより手段がなくなっていくのだが、本当の芸術は、結局、ポルノを法で囲い込むよりも、勝つことを夢見ている。芸術も子供を作ることができると言いたいのだ。</p>
<p>しかし、芸術がポルノに陥ることなく、美や欲望、快楽を《距離》によって表現することを仕事としているなら、アニメや漫画は、本質的にポルノに近すぎるのではないだろうか。ある女性の声、肉体、精神、そしてその生涯を、つまりこの女性の美を一枚の絵画におさめることができたなら、余計なものはいらないはずだ。ただ言葉だけで女性の美しさを表現できたとすれば、やはりもう余計なものはいらない。すでに美であるそれらに加えられた補助線は、快楽を不必要に近づけ、かえって快楽を小さくするポルノにかぎりなく近づいていく。アニメや漫画の補助線は、あまりに親切で、説明的で、こちら側の呼びかけを無視して進むがゆえに、かえって戸惑う。人間は、たった一本の線にでさえ、欲情することができる。この線がついに美につながるとすれば、そのときの快楽はほとんど極大に達しよう。芸術が究極的にはシンプルな形式を求めるのは、その方が複雑な快楽に達する可能性をもつ場合が多いからである。ただ一枚の絵画、言葉だけで描かれたストーリーこそ、アニメや漫画の目指すところではないのか、という疑念を払うことは、なかなかできない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>老いの手前にとどまる若さや、目的を達しようとそれに打ち込む姿は美しい。それは、あらゆる芸術上の登場人物が、人間の手前で人間たらんとリアリティを求める姿と重なりあう（たぶん、美はある種の期待であり、美的な知はある種の予言であろう）。結局、芸術は、つぎの問いをつきつけている。人間が美しいとすれば、それはなんによってか、と。己を超えたものを欲することによってではないのか、と。しかし芸術は、だからといって神を選べとは言わない。というのも、それは欲望を屈折させ、たどりつくことのできない統整的なものとして目標を提示するからである。だからこそニーチェは「超人」といった。芸術は、人間を超えたものを宗教に依らずに提示しなければならない。つねに大人になることを目指している子供は、その比喩である。</p>
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