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	<title>ex-signe &#187; Kio TANAKA said</title>
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		<title>史創研究会機関誌創刊</title>
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		<pubDate>Fri, 30 Sep 2011 04:15:40 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[昨年はじまった史創研究会の機関誌『史創』が2011年8月25日をもって創刊されました。創刊号執筆陣は小路田泰直、住友陽文、布川弘、西谷地晴美で、錚々たるメンバーのなかに田中希生も混じってなにか書いています。どこかで見かけ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨年はじまった史創研究会の機関誌『史創』が2011年8月25日をもって創刊されました。創刊号執筆陣は小路田泰直、住友陽文、布川弘、西谷地晴美で、錚々たるメンバーのなかに田中希生も混じってなにか書いています。どこかで見かけたら手に取ってごらんください。</p>
<p>【創刊号目次】<br />
　特集：「想定外」と日本の統治―ヒロシマからフクシマへ―<br />
　小路田泰直（奈良女大）「ヒロシマからフクシマへ」<br />
　住友陽文（大阪府大）「戦後民主主義の想定領域―原子力開発と５５年体制―」<br />
　布川弘（広島大）「「冥王」プルトニウムの誘惑―ヒロシマからフクシマへ―」<br />
　西谷地晴美（奈良女大）「災害史と現代」</p>
<p>田中希生（京府大）「《特殊な》知識人―湯川秀樹と小林秀雄―」
</p>
<p>田中論文は特集と関わりはなかったつもりのようですが、湯川秀樹は原子物理学者の日本の象徴的存在ですから、現在の状況においても別の意味で注目すべき存在といえるでしょう。あまり部数は残っていないそうですが、たぶん、奈良女子大学の小路田氏か、立命館大学の小関素明氏に連絡すれば、おそらくまだ手にすることができるかと思われます。</p>
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		<title>第８回「人文学の正午」研究会のお知らせ</title>
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		<pubDate>Thu, 15 Sep 2011 14:50:49 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[来たる９月２５日（日曜日）、１４：３０より京都大学にて第８回人文学の正午研究会が開催されます。今回は小路田泰直さんが「思惟の歴史としての日本史試論」について報告されます。どなたでもお越しいただけます。ふるってご参加くださ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>来たる９月２５日（日曜日）、１４：３０より京都大学にて第８回人文学の正午研究会が開催されます。今回は小路田泰直さんが「思惟の歴史としての日本史試論」について報告されます。どなたでもお越しいただけます。ふるってご参加ください。</p>
<p>詳細はこちらの公式ウェブサイトに掲載されています。http://www.fragment-group.com/shogo</p>
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		<title>星座の貌をした歴史学</title>
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		<pubDate>Thu, 25 Aug 2011 12:42:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[history]]></category>
		<category><![CDATA[Benjamin]]></category>

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		<description><![CDATA[歴史が《星座》の貌をしていることを発見したのはヴァルター・ベンヤミンである。イマニュエル・カント以来、言葉と言葉とをつなげることのうちに、多くの近代の歴史学者は因果律を見いだしていた。だが、それを因果律と呼ぶのはすこし行 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>歴史が《星座》の貌をしていることを発見したのはヴァルター・ベンヤミンである。イマニュエル・カント以来、言葉と言葉とをつなげることのうちに、多くの近代の歴史学者は因果律を見いだしていた。だが、それを因果律と呼ぶのはすこし行き過ぎだったのではないか。むしろ、星と星とをつなぐことで星座が生まれるようにして、歴史は生まれているのではないか。学芸の神アポロンのもとに集う九人の女神ムーサたちのうちに、歴史を司るクレイオと天文学を司るウラニアとがいたが、それは、現代人が忘れた、人文学のもっていた不思議な血縁関係である。</p>
<p>《星座》は、広大という言葉が陳腐に聞こえる大宇宙のなかの極微の一点、すなわち地球という星からみた天空に描かれた絵画であり、刹那の真理である。天空の星々には明るいものもあり暗いものもある。遠いものもあり近いものもある。大きなものも小さなものもある。同じ星が別の星座を構成するかと思えば、別の星が同じ星座のなかに組み入れられることもある。天空を平面に見立て、星々が表現している輝きと奥行きを、まるで山や谷を地図に書き起こすように、ひとは《星座》を描いている。暗いものが暗いとはかぎらず、明るいものが明るいとはかぎらない。ただわれわれは、永久の宇宙の時間からすれば刹那にすぎぬ天空が表現している星の見かけの明るさにしたがって、おのおのの立ち位置から星座を描いている。星の見かけの明るさは、いわば人間の抱く《価値》と同義である。《価値》はただの主観ではない。星々の見かけの明るさもまた、ひとつの真理である。科学的にいってアルデバランがデネブに比べれば暗いと知ったところで、ゼウスの化けた雄牛の右目として、この星がわれわれに果たしてきた歴史が変わるわけではない。しかし、月明かりに消え入るあの小さく暗い星は、本当は明るいのかもしれず、夜空に煌煌と輝くあの星は明日には死を迎えるかもしれない。そういう可能性は、星座が隠し持っている厚みであり奥行きであり高さである。星座の、ひとから隠されている不思議な垂直性は、ひとをして、天空の外側にひろがる「崇高」（ロンギノス）な世界をさえ思考させる。そんな途方もない力を、この概念はもっている。</p>
<p>ひとの《言葉》もまた同じように、木を削り石に刻まれ紙に書かれて、星座を形作っている。同じ星が別の国では別の星座に組み込まれるように、同じ言葉は別の時に置かれて別の価値を表現する。ヘーゲルのいう民族中心主義的な世界史は、２０世紀、戦車の号砲と無差別爆撃の爆音と民衆の悲鳴のなかに置かれて、光を吸収する悪魔のような不吉な闇になった。詩人を排斥した哲学者の王プラトンは２０世紀の終わりには、西欧中心主義者の列に加えられて別の忌まわしい星座を形成するようになった。彗星のごときニーチェはいまだに星座をなすに至らず孤独なままであり、いまではカントはひとの思考を天空のこちら側に厳格に縛める北極星のようである。テクスト中心主義者は、星がテクストの外部で別の星座を形作ることを認めず、ただ解釈のうちにテクストを補強し肥大化させる以外のことを自らに許さない。だが、同じテクストがまったく異なる価値を体現しうることがある。同じ言葉が真逆の価値をもつことさえある。それは、本当は明るい星が、まったく真逆の暗い星とみなされ、ひとつの星座のうちに描かれることによく似ている。</p>
<p>しかしにもかかわらず、星は星座を自らの運命として、それ以外の姿をわれわれに見せることはない。北斗七星は運命のようにわれわれの天空に輝き、それ以外の姿を見せることはなかった。オリオンは人類にずっとオリオンの姿を見せていたし、昴はずっと仲のよい姉妹だった。これからもずっとそうでありつづけるだろう。もちろん、万に一つの可能性に賭けて、この運命に抗うことができるのを、われわれは知っている。声が宙空に消え去るように、星もまたいつかは死ぬ。しかし、偶然を掛け合わせて生まれたこの刹那の星座たちが、運命として地球と人類の前にあらわれていることも、われわれは知っている。われわれの《言葉》もまた、そのようなものであるだろう。同じ《言葉》が別の星座を体現することがあるとしても、にもかかわらずそれは運命として、われわれの前に、ひとつの星座なのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>《星座》とは、星と地上のあいだの距離と時の深さとが奏でる歌である。《言葉》もまた、現代という地上のあいだに、距離と時の深さとをもって、歌を奏でている。天空の奥深さのなかにある夜空の星々が、目に心地よいリズムをもっているように、時の深さのなかにある《言葉》もまた、耳に心地よいリズムをもっている。それは歴史と呼ばれる。夜空にさまざまな絵画を描いたギリシア人のように、現代の歴史学者もまた、時のうちにさまざまな絵画を描き、歴史家たらんとしている。しかし、この絵画がギリシア人たちの描いた星座ほどに、運命であるか。運命にまで高められているか。すなわち、《言葉》がもっとも美しく輝くだろう配置を、歴史のうちに描くことができているだろうか。</p>
<p>わたしが歴史家として、そして歴史の教育者としてつねに心がけているのは、そのことである。歴史のうちに星座を描くことであり、またそれを教えることである。星々のあいだに可能なもっとも美しい配置をつくり出すように、言葉を時のなかでもっとも美しい貌に配置することである。ドゥルーズとガタリは《アレンジメント》という概念を主張していたが、誤解されぬよう、それに付け加えねばならないのは、この概念がもたらす配置は《運命》にまで高められねばならないということである。天文学がひとの運命を星座のうちに描くように、歴史はひとの言葉を紡がねばならない。</p>
<p>歴史家を育てるとは、自分の言葉の見方、自分だけのものの見方を、運命にまで高める仕方を教えることである。右や左の政治的なものの見方を子どもたちに強制するのではなく、星々の配置においてもっとも美しく、内包する星の数（網羅性）と明るさからいってもっとも崇高な星座を描くことである。もっとも高いところ、もっとも深いところにある星々をも見通す知性と、そこまで昇ろうとする勇気と、そしてそれらを最高の調和のうちに描こうとする優しさを鍛えることである。</p>
<p>史料に対する偏った見方を禁じるのではない。そうした見方は、なにものからも中立であろうとする不可能な立場を強制することであり、したがってもっとも隠微な政治的見方を強制することである。そうした空虚な立場は、客観性と当事者性との不毛な対立を招き、偽の問題構成に子どもを追いやることになる。おのれの所属と立ち位置あるがゆえにはじめて可能となる《星座》を描くことは、それではできない。価値中立でも、形骸化した右や左の政治的立場を選ばせることでもなく（やはりそれも不毛な二項対立である）、おのれの判断にしたがって、おのれが美しいと思う言葉の配置を追究することである。</p>
<p>しかしもちろん、どれほど美しい星座であろうと、というかむしろ美しければ美しいだけ、星座は一部の星の輝きを奪ってしまうことがある。美はたえず背景をもつものだからである。星と星とをつなげるとき、同時につなげられなかった別の星が影のように生まれている。現代の歴史学者が組み込めなかった星の輝きを取り上げるのは、子どもたちである。だからいかに星座が運命にまで高められていようと、それによって歴史の営みに終止符が打たれることはない。捨てられる星があることも、星座の運命であり、そして捨てられる星があるからこそ、拾うべき星を見つけられるのである。</p>
<p>いずれにしても、歴史家の仕事は、人間が一番美しく輝くように、数多の出来事をつなぐ星座を考え出すことである。暗い星も明るい星も、清も濁も併せ呑みながら、それでも人間の美しく輝く星座を見つけ出すことができたなら、それはほとんど運命と同じ貌をしているだろう。人間の醜さを歴史に示すのは、相対的に簡単なことである。しかし、その場合、人間が醜いのか、それともその歴史学者の拵えた星座が醜いだけなのかには、注意を払わねばならない。おそらく、ほとんどの場合は後者で、人間をただ批判するだけの仕事は、人間の醜さと星座の醜さの区別のぼやけた場所で行なわれるものと断言してもいい。</p>
<p>ひとつひとつの星をみることも、もちろん大切なことである。だが、やはり歴史家の本当の仕事は、それらの星を美しい貌につなげることであり、そうするために、ひとつひとつの星をみるのでなければならない。星をみているうちに星座を見失っていないか。歴史は混雑したものという常識をおのれの星座の醜さと無意識のうちに混同していないか。言葉尻をとらえてそこから全体の批判に結びつけていくよりも、まずはその言葉が、あるひとつの星座のなかで、どのような位置を占めているのかを考えること。どのような運命によって、星座はその批判に値するような醜い星をとらえたのか。その星の醜さのおかげで、よけいに美しく輝く別の星はありはしないか。</p>
<p>必要なすべてのテクストが燃え尽きたとき、それでもひとびとの記憶を集めてふたたび星座を描くことができる。歴史という星座は、いつもそのようにして描かれてきた。だが、星をみるだけで満足していた歴史学者には、星座を描くことはできない。民衆が持ち寄った小さなそれよりずっと肥大化してはいても、星座に必要かどうかはわからぬ星をひとつ持ち寄るだけである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>近代日本で一番巨大で一番醜い星、ブラックホールのように光を吸い込んであたりに闇をもたらす星、すなわち《大東亜戦争》という侵略戦争を組み込みながら、なお日本人の美しさを示す星座は可能だろうか。それができたなら、日本の歴史は本当の意味で前に進むことができる。むろん、それは相当に困難な事業で、成功した歴史家は存在しない。挑戦しても、ふつうは戦争賛美か侵略戦争であったことの否定に墜ちるしかない。だから、美しい星座のためにこの醜い侵略戦争を黙殺するか、さもなければこれを受け容れつつ、当時の日本の歴史＝星座ごと批判する道がもっとも無難であり、それが今日まで行なわれてきたことである。だが、このやり方はいつまでも禍根を残す。この星は不吉な遊星のように漂いつづけ、おさまる場所（座＝運命）をもつことができない。</p>
<p>《世界大戦》という、史上もっとも醜悪な戦いによって反照的に生まれた《世界平和》の概念は、たしかに、前者の星を批判によって陰らせれば陰らせるほど、明るく輝く。しかし、それによって《世界平和》の星はいつも暗い星に付きまとわれることになるのだとしたら。《世界大戦》という星を葬り去るために、この星をとらえた《近代》という星座ごと葬り去るのか。それともこの星を《近代の未熟さ》という星座のうちに描き、より正しい近代を追い求めるのか。しかし重要なことは、どれほど醜い貌に星座を描こうと、人間の力で星を消すことはできないということである。不吉な星は天空で輝きつづける。《近代》という星座をいかに描くにせよ、それが《世界大戦》という星を葬り去るために作られた批判的な座であるかぎり、なんどそれを描いても、消えるのは醜く描かれた星座だけである。星はいつまでも残ってしまう。むしろ運命に等しい美しい星座のうちに、この不気味な星をとらえさせることができるなら。</p>
<p>星座を因果律と取り違えている。だから悲惨な歴史を生み出したネガティヴな原因をたどっていくことで、星そのものを葬ることができると考えてしまうのだろう。だが、ひとは歴史を星座として描く。どれほど醜い星座を描こうと、それによって星が葬られてしまうことはない。同じ種族同士で殺し合い、あまつさえおのれのたったひとつの住処である星をさえ破壊しようとするあまりにも醜い人間の姿を、歴史家はいかにして美しく描こうというのか。それは答えることの不可能な難問だろうか。星座を諦めて視界からあの暗い星を取り除け、ただ明るい星を愛でることしかできないのだろうか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>若い歴史学者たちよ、それでも君たちは歴史家たらんとするかぎり、星座を描くのだ。君たちはこの困難な問いに対する答えをずっと求めつづけるのだ、運命と、そして自由とを求めて。君たちが星を磨くとき、どのような星座を描くためにそうしているのか。永劫に等しい時間のなか、たえず変転する星々の配置のなかに、君たちはどのような刹那の星座を描こうとしているのか。君たちの歴史は、星座の貌をしているか。君たちの星座は人間の貌をしているか。</p>
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		<title>政治と文学、国家の安全保障</title>
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		<pubDate>Tue, 23 Aug 2011 21:07:35 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Deleuze]]></category>
		<category><![CDATA[Foucault]]></category>

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		<description><![CDATA[文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。 こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。</p>
<p>こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれも《言葉》をあつかうという点で、同一の《武器》を用いているという当然の認識から出ている。それはいうまでもないことだった。混じりけのない言葉の活動であるべき文学のなかに、政治はたえず侵入する機会をうかがっている。侵入を可能にするのは、次の言葉の定義である。すなわち、意味を共有したひとびとのあいだで用いられる社会的なもの。この定義が発動するたびに、政治はまんまと文学に忍び込む。つまり現実にはひとの命を奪うことさえある言葉という《武器》を、ルールを共有した者たちで行なわれるゲームの《道具》にみせかけてしまうわけである。われわれが握っているのは武器ではなく道具だと教え込むことで、革命の芽を根こそぎにする（そしてそうすることで革命には言葉を超える暴力が必要だと誤って思い込ませ、革命を民衆から憎悪させることも忘れずに行なっている）。そればかりか、言葉を用いるたびに、知らず現行の社会を構成する権力を補強するように仕向ける。言葉が出来事ではなく意味を指し示すなら、意味をあらかじめ決定する権利をもつ政治には、まことに好都合な定義となる。意味からの逸脱は非社会的なルール違反として摘発すればいい。社会という言葉でひとびとを内から縛り、ゲームを続ければ続けるほど、言葉のゲーム盤をますます支配下に置くことができる。</p>
<p>しかし、文学にとって意味は不純物である。光速で飛ぶ言葉に対する人間の感官の遅れが生み出す、残像のごときものにすぎない。こうした不純物は、文学に、おのれの純粋さに向けたさらなる情熱を生み出す。文学はこの不純物をおのれのなかから追い出し、洗い清め、そうすることで透明な翼を取り戻した文学の魂とでもいうべきものを、さらなる高みへと昇らせる。これは言葉という武器によって戦われる戦いであって、けっしてゲームではない。政治的なものを文学から切り離そうとする者たちは、むしろ言葉をたかだかゲームの道具に変えてしまう政治と真正面から戦っている。言葉がただ純粋であるというだけで、権力は致命的なダメージを受けうるのである。</p>
<p>とまれ、ここで確認しておくべきは、文学から政治を切り離そうとする運動は、言葉をあつかうという点で、両者が同じ場所を共有しているというあたりまえの事実から出発していることである。</p>
<p>しかし、この当然の前提が文学にかかわる者たちのあいだで失われれば、政治性を失った文学は、たかだか私的空間の《広場》への覇権主義的膨張を意味するか、あるいは慎ましやかではあっても広場にはあらわれぬ女子供の戯れ言にすぎなくなる。言葉は無力であるという定義を、国家を補強するとも知らず使用しつづける批評家によって、文学はますます虚構の世界に囲い込まれていく。だから文学のなかに、外科医のやり口で政治を移植しようとする、いささか品を欠いた批評にも存在理由が生まれてしまう。いまやゲーム盤と同一視されるに至った広場の外で、文学者がルール違反を繰り返しても、ゲームに加わる資格も能力ももたぬ者が許される現実外の幼稚な虚構に淫することとして、ますます文学の価値を、そしてさらには言葉の価値を低めるだけだからである。最高の価値のひとつである「純粋」と、最悪の価値のひとつである「幼稚」とが取り違えられるくらいならば、いかに品を欠いていようと、文学者が政治を口にする蛮勇を奮わないわけにはいかなくなる。子どもたちに、言葉が鉄のごとき武器となるものであるのを教え諭すことからはじめねばならなくなる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>さて、ほとんど名目上のことにすぎないとはいえ、日本には軍隊が存在しない。実質的には軍隊であっても、実践的には、やはり存在しないのと同じことである。自衛隊は、その軍事力のほとんどすべてを発揮できない。実際にことが起こっても、まったく役に立たない。問題は、本当にことが起こったとき、その次に、なにが起こるかということである。</p>
<p>三月十一日の大地震以来、福島で起こった原子力発電所事故の水準をみるかぎり、ほかの国家なら軍隊が出動して収束にあたるほどのものと思われた。爆発した原子炉と核爆弾を同一視することはできないが、今日の軍隊が、ほかの機関と比較した場合に、放射能に対する必要な装備をより整えていると考えるのは、不自然なことではないだろう。しかし、米軍の協力を断ったあげく自衛隊が行なったことは、爆発した発電所の上空からヘリで水を落とすことだけである（放水という主体的表現より、風と重力に行く先を委ねて落としたという受動的な表現がふさわしい）。実際の現場で作業しているのは民間人である。</p>
<p>日本において、国民を同じ国民が外的な障碍から物理的な（身体的な）意味で守るという意識の希薄さは拭いがたい。極端に治安に特化した国家の《防衛》意識は、軍隊の有無、さもなければ軍隊の特殊なあり方と、かかわっている可能性を考えないわけにはいかない。国家が国民の生命を守ろうとしないことが、軍隊の有無あるいは特殊なあり方と、もし関わっているのだとすれば。</p>
<p>天災にせよ、戦争にせよ、それが社会の外からやってくる障碍であることには変わりがない。その点では、外敵に対してこそそうあるところの国家は、いずれの障碍からも、国民の生命を守る責任を負う。しかし、日本政府が、国民の生命よりも治安を優先したのはあきらかである。実際に国民の生命に死の因子を植え付けられているあいだ、政府はそれを黙認し、言葉が武器ではないことを教え込むように、一定の放射能は人体に影響ないものと主張しつづけていた。政府は、意識的にも無意識的にも、国民の生命を守ることより、危機の隠蔽、治安の維持に努めているようにみえた。瓦礫の撤去、放射性物質の海への投棄、食品に対する放射能濃度の許容量の設定、すべてはその観点から行なわれている。そして短期で終わる内閣の仕事とはとうてい思えない「脱原発」に執心し、この内閣の果たすべき事故の収束については、一民間会社に委ねたままである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>かつてフーコーやドゥルーズが言っていたような、《安全》にもとづく近代の国家統治のあり方は、たえず変質している。この観点は、対外（空間）的には安全保障、国内（時間）的には社会保障に結晶していた。だが、大量の移民の流入や国際的なテロ組織の出現、インターネットの普及にともない、《安全》に対する国家の取り組みは変質せざるをえない。国民の同質性を維持できぬ以上、国家が領内の住人の生活を、国民という単位で生涯にわたって保障する社会的要請は鈍化していく。この方面での国家の《安全》欲求は衰えていくだろう。それにかわってますます国民の《安全》は軍隊が請け負うようになる。軍隊のあり方も変質する。国境に配備されるより雑多なひとびとが潜む都市に配備される。警察権力は広場のみならず私的空間にも侵入する。むろん、国境における警備はますます先鋭化するが、この方面でのせめぎ合いが本質的にいたちごっこに終わる以上、最終的な安全保障の担保は都市や私的空間に配備される、警察権力と軍事力をあわせもつ強力な治安維持部隊が請け負う。</p>
<p>しかし、日本の安全保障は、その観点からも異質なものとなる。恐るべきことだが、いまわれわれが目にしているのは、露骨な危機を政治的な言葉（言説）によって隠蔽することである。「脱原発」という言葉さえ、奇怪な政治的言説として、危機の隠蔽に利用されている（そのためか、政府の隠蔽に抗って実際の危機をリアルに表現しようとしている一部の気骨ある科学者には、文学的なものが生じてさえいる）。国民の生命を《防衛》していない点で、フーコーたちの議論から逸脱する事例とみる意見には一理ある。だが、別の見方もできる。身体的な《防衛》が適わないなら、精神的に執行する。つまり依然として国家は国民の《防衛》に執着しているのであり、その執行が国民の身体的な《安全》ではなく、精神的《安心》に向かっている。それは私的空間に警察権力が侵入することと同質の、しかしそれよりはるかに恐るべきことではないだろうか。精神的黙殺による危機の回避、それは薬物によって多幸感を与える類いの生政治の、極度に先鋭化した事例にもみえる。</p>
<p>今後、《安全》のテーマがその内部でさまざまに変化することはあっても、この強力なテーマそのものを国家権力が捨てると考えるのは、近代の民主政治が貫かれているかぎり、想像するのが困難な途方もないことである。民主政治が独裁者出現の危機に直面した場合にのみ、そう見えることがあるとしても、その起因はあくまで領民の《安全》を志向せざるをえない民主政治の本質にある。逆にいえば、《安全》のテーマを失った国家には、民主政治を維持する理由がない。そのとき時代は後戻りできない変化を強いられていよう。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>いまは難儀な時代である。なにもかもが、破局へ向かう途上にある。古いものと新しいものとが混在している。どちらに賭けるべきか、なにか言葉を紡ぐたびに、おぼつかない判断を重ねている。わたしは戦争が嫌いな平和主義者で、軍隊はもちろん、軍隊的なものにはよりいっそう嫌悪を覚える軟弱な夢想家である。だが、正式な軍隊の存在しない日本において、内なる敵軍である原発を抱えているときに、誰がそれと戦うのか。かつて多くの民間人が死んだ六十数年前の戦争と同じように、貧しさゆえ手を挙げる民間人が、死ぬべくして戦うのだろうか。</p>
<p>いったい誰が戦うのか。あるいは、誰が守るのか。このご時世に戦争が起こるのを想定するとは、君は愚かと指差されようか。もちろん、ことが起こらないのが一番よい。外交的な努力はあらゆる方面から行なわれるべきだ。しかし、実際に国民の生命を脅かす事態が起こったとき、原発事故と同じことが起こる可能性を考えないわけにはいかない。自衛隊は使い物にならない。戦うのは米軍である。一部の意識の高い政治家を除き（そしてこういった政治家にはかならずナショナリズムがある）、国家側に国民の生命を守るという意識は希薄である。原発事故が起こっても、一民間会社に収束を任せつづけたのと同じように、ことが起こったときには米軍に始末を任せるほかないとしたら。</p>
<p>自衛隊が機能する可能性に賭けるのか。だが、それは平和主義者が望む結果だろうか。いざことが起こった際には米軍に処理を任せ、その裏で平和主義を享受しつづける。それは最悪の平和主義である。だからといって、自衛隊が文字通りの機能を実現することも、平和主義者にとっては望むべからざる事態である。ことが起こっても、こちらからは手を出さず、それに疑問を抱かないほど、国民に覚悟を求めることができるのか。その点、悲観的たらざるをえない。それほど勇気ある覚悟を民衆に強いることができるだろうか。集団としてなにを実現できるかは別にして、武器ももたずなんの抵抗もせずに死ぬことを推奨するなど、個人という観点からいえば、六十数年前の戦争で国家が民衆に強いた死と、結果にちがいはない。だからそれにかえて、ただ民衆を軟弱で臆病にすることしか、戦後の批判的知識人にはできなかった。暴力に反対し、そして頼みの言葉は目標（物自体）にはたどりつかぬ。せいぜい、実力行使を意味せぬ《デモ》を平和裡に行なうしか方策はない。それを今後もつづけていくつもりなのか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>事故が起こらないのを前提に原子力発電所を推進することと、戦争が起こらないのを前提に平和主義を貫くことは似ている。日本の領土が巻き込まれる戦争は本当にありえないのか。軍備そのものが平和を脅かす以上、それに慎重になるのは当然としても、この発想は、原発事故に備えること自体が風評を生むといっていた、原発関係者の発想と似てはいないか。平和主義を貫くなら、国民に、攻撃を受けても暴力的な抵抗なしにそれに耐える非武装の覚悟を求めるのでなければならない。そして同時に、世界にその非道を訴える言葉を磨くこと、なにより言葉が世界に届くのを確信させることができなければならない。しかし、今のままでは米軍がそれに抵抗する。それは、平和憲法の最悪の実践である。地球上もっとも凶悪な軍隊に護衛されながら、自らは非武装を気取って衰弱した平和を享受するのを、世界に臆面なく訴えることはできそうもない。</p>
<p>平和憲法を遠い理念と考え、そのため維持すべきという意見に賛成するとしても、条件をつけないわけにはいかない。法はたんなる理念ではなく、現実に運用される。〈遠い〉理念にばかり目を向ける知識人にノスタルジーを覚えはするが、それだけでは、卑近な現実主義のもとに理念を〈遠ざける〉政治家と、結果的にはなにも変わらない。いかにヘーゲル主義といわれようと、理念は現実に作用するし、作用されるようにすべきなのである。平和憲法は統整的理念であって、構成的に使用されてはならないなどというカント主義を振りまいてみても、そんな物言いは外部からもたらされる戦争においては、たんなるお題目にしかならない。平時には構成的使用の誹りを恐れず平和を伝道するのでないなら、やはりほとんど無意味なお題目である。</p>
<p>世界は抽象的な平面ではない。世界にはどこもかしこも、地理上の高低があり、歴史の因果律ともなりうる時間の前後関係がかならず存在する。それが具体性となる。この具体性なしに、ひとの足が現実に前に進むことはない。したがって、平和憲法は、いつまでも実践を遠ざけうる未熟なままの理念ではいられないし、まさに運用されるときを考えないわけにはいかない。実際に運用されるときとは、すなわち戦争が生じるときである。そのとき平和主義者がなにより恐れねばならないのは、この国を米軍が守る事態になることである。米軍の威力に依存した平和主義など、国際的にはなんの感動ももたらさない。もたらされるのは、他国からの軽蔑と憐憫、それによって防衛される国民の衰弱だけである。アメリカの憲法に日本という国家が吸収されるだけで、そのときには日本の憲法は、国家の法としては事実上失効している。平和主義を貫くことによって、かえって平和憲法が失効するということも、可能性としてはありうるのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>《国家は国民の生命を守らない》。いまだ収束せぬ原発事故において、いままさに表面的に生じていることであり、国民はそれについて日夜怒りを表明し、デモに訴えている。だが、いざ戦争が生じたとき、平和主義の名のもと、《国家は国民の生命を守らない》という同じ事態が起こったなら、国民は耐えられるだろうか。同じ国民が、同じように怒りを表明し、デモに訴え、極端から極端へ舵をとる選択を、政府に強いることがないといえるだろうか。すなわち、再軍備を、しかも他国より強力な兵器による防衛を……。</p>
<p>原発が事故を起こす確率と同じとは思わないものの、今後、世界で起こる戦争が、日本を巻き込むものとなる可能性がないと言い切れるだろうか。その程度の危機意識は、歴史をやっている者なら、抱かないでいるほうが困難である。しかし、そのときに備えて、ただ平和憲法の雄叫びをあげつづけることが、平和を守ることにつながるのだろうか。むしろ、自分だけはそれを訴えつづけたという免罪符を得るだけで終わりはしないだろうか。平和主義の理念＝法は、実際の法の運用者である政治家に、きわめて危ういバランスのなかで舵取りをしていくことを要求している。そして実践からは遠い知識人が、この舵取りを客席から文句を言っているだけで終わっていいものだろうか。</p>
<p>《いつ戦争が起こるかしれない》という根拠不明の危機を煽り、《国民を守る》という観点から軍隊の存在理由を拵えて軍備を進め、結果この軍事力がひとを戦争に導く。だからいたずらな危機意識の流布に反対する。この考え方はよくわかるし、おそらくフーコーたちの《防衛》にまつわる議論はそのような観点から読まれてきたのだろう。だが、それはあまりに浅墓な読みといわねばならない。ただ《防衛》に反対するというやり方で、《防衛》を免れることはできないからである。それはもっと無意識的なものだ。危機〈意識〉の有無とはほとんど関係がない。いたずらな危機意識を国民のうちに煽ることで、《防衛》のため再軍備と戦争の道を選ばせるくらいなら、危機意識はないほうがよく、想像を超える事態には目をつぶるのがいいと、まさか考えでもしたのだろうか。だが、それは逆である。どのみち《防衛》されるなら、危機意識はあったほうがよいのである。それでなければ、危機意識の有無を問う幼稚な議論に終始するばかりで、その質を問う議論に移行できなくなる。</p>
<p>平和主義の観点からいえば、ナショナリズムを煽る右側のでたらめな危機意識に正当性をもたせることは、ほとんど不可能だが、だからといって世界平和を志す左側が闇雲に危機意識を封じ込めるとしても、それで平和が実現するわけではない。原発関係者と同じ奇怪な楽観視を国民に強い、その結果、ことが起こったときの反動があれば、反動に対する反動もまだ可能な分だけまだましで、それさえなく、ただ衰弱し、平和憲法がなし崩しに消滅していく……。</p>
<p>繰り返すが、平和主義者が恐れねばならないのは、いざというとき、万が一、日本が平和主義を貫けたとしても、アメリカが軍事力を発揮して、日本を《防衛》してしまうことである。それはどうしてもただの《防衛》ではすまない。国際的な制裁がかならず生じる。つまり日本は手を汚すことなく、結局は日本の戦争が生じてしまう。</p>
<p>危機意識の不在。そののなかで進行する、学問の衰弱、芸術の頽廃、政治の混乱。ひいては人間の没落。こういった心神耗弱を尻目に、国民は究極的な事態に対する楽観視にこそ正当性があるといった観点を手放すことができない。しかし、平和憲法に反対の者はおろか、維持に賛成する者であろうと、政治家であるかぎり、そうした楽観視は許されはしない。ふたたび国家が敗戦となれば、平和憲法を護持することもできなくなる。</p>
<p>そこで、ほんの一握りの政治家はこう考えている。アメリカから独立し、再軍備すべきである、と。しかし、それは国連軍を創設したうえで、それに参加する形においてだ、と。それならば、国民の生命を《防衛》すると同時に、かつてのような日本による侵略的独走も防ぐことができる。おそらくこの意見は、イデオロギーを抜きにしていえば、政治家に可能なもっとも正しい判断だろうと、わたしには思える。いざというときまで問題を放置して極端に振れるよりも、ずっとましな選択である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、政治家ではなく文学者である自分はこう考える。もっと別のやり方がある。迂遠ではあっても、その分だけ崇高な道がある。戦争において、決着をつけるのも、始めるのも、回避するのも、言葉の力である。ついに言葉は、最悪にもなり最善にもなりうる、《武器》である。それゆえ、言葉の力を知っている人間は、兵器による戦争に訴えなくても、戦いそして守る方法を、すでに知っている。</p>
<p>戦争の危機を訴えることをすべて右翼の専売特許と考え、奇怪な楽観視のなかで米軍の庇護のもと平和主義を貫く怠慢が許されるわけがない。平和主義者こそ、唯一の武器である言葉を磨き、言葉を大切にするということができないなら、危機になにができるというのか。兵器と武器とが、根本的に異なる概念だということを、言葉の微妙な響きにこだわる文学者はよく知っている。日本が兵器という《武器》をもたないというのなら、言葉という《武器》によって、つまり文学によって戦う国にならなければならないということのはずだろう。なにゆえ兵器とともに武器の概念まで捨てねばならぬのか。粗略な議論のなかで兵器と武器とを混同して、言葉の力を浪費し、日々衰弱させ、いったい知識人は危機に際してなにをもって戦うつもりなのか。世界言語の完成の日まで、平和のため日本語によって戦うことはなにも矛盾しないのだ。</p>
<p>先にいったように、今はむずかしい時代である。破局に向かう時間のなかで、一義的に正しいとはいえぬ古いものと新しいものとが混在していて、どちらに賭けることもそれなりのリスクを背負う。ならば右や左のイデオロギーなど目もくれず、ただひたすら前に進めばいい。国家が守るために戦うというのなら、文学者は屈託なく真正面から戦えばいい。それが、政治を拒絶する純粋な文学者の戦いというものではないだろうかと、わたしは思うのである。</p>
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		<title>運命としての歴史学</title>
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		<pubDate>Fri, 19 Aug 2011 08:37:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[history]]></category>
		<category><![CDATA[History(s) of Spirits]]></category>
		<category><![CDATA[Homeros]]></category>
		<category><![CDATA[Hume]]></category>
		<category><![CDATA[Linguistic Turn]]></category>

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		<description><![CDATA[ものや出来事の起源を、あるいはそこにそれがありまたそれが起きることの必然性を、ひとはたどりたがる。このようなひとびとの思考は、かならずどこかで択一を強いる二つの選択肢にたどりつくだろう。すなわち、起源や必然性を可能にして [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ものや出来事の起源を、あるいはそこにそれがありまたそれが起きることの必然性を、ひとはたどりたがる。このようなひとびとの思考は、かならずどこかで択一を強いる二つの選択肢にたどりつくだろう。すなわち、起源や必然性を可能にしているのは、言語的な《論理性》だろうか。それとも言語外の《因果性》だろうか。</p>
<p>たとえば、「塔の頂上から鉄球を落とせば、それは地面に落下する」という記述。それは言語外の事実と認定されている重力によって、そうなるべくしてなるのであって、ここに因果的必然性を見出すのが一般的な見解である。しかし、「フランスにおける全国三部会の紛糾がフランス革命を招いた」という記述の場合、そこに因果連鎖を見出す見解は、先の記述ほど一般的にはなりえない。「フランス」、「全国三部会」、「紛糾」、「フランス革命」などといった用語にひとびとが認めている《意味》にしたがって、論理的必然性をもつ場合もあれば、もたない場合もある。因果連鎖を見出せる場合もあれば、そうできない場合もある。さらに「１６掛ける１６は２５６である」という記述は、言語外の対象とは無関係な論理的記述であって、「１６」、「掛ける」などの用語に与えている意味にしたがって、論理的必然性を持つ場合もあれば、もたない場合もある。ここに言語外の因果連鎖を排他的に認める見解は一般的ではない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>誤解も生じるため、あまりこなれた言い方とは思えないが、わかりやすくいえば、ここには物理学と数学という二つの極がある。因果律という考えが、社会的に形成された約束事に強く寄生していることを発見したデイヴィッド・ヒュームの考察以来、論理と因果をめぐる議論はこの二つの極に分裂したままである。オースティンやクリプキのような言語学者、あるいはラッセルやデリダのような哲学者が論理的必然性の側でこの議論に答えを出したようにみえたが、この見解自体が社会的に形成された約束事に寄生してしまう以上、社会の変転にともないたえず曖昧化し、ふたたび論点が浮遊するのを禁じることはできない。両極のはざまで、歴史記述は、書き手の意図とはほぼ無関係に、此岸から彼岸へ、行ったり来たりを繰り返すばかりである。</p>
<p>ヒュームの重要性はあきらかである。しかし、われわれは、回答を論理的必然性（数学的記述からなる）と因果的必然性（物理学的記述からなる）の二つの極のいずれかに、あるいはよくいって両者の弁証法的曖昧さ（歴史学的記述からなる）のなかに強制する言語学者や哲学者の議論にはあまり興味をもたない。むしろこれらの極は開いたままにしておき、もっぱら中心軸にある歴史的・社会的必然性に興味を抱く。われわれはいかにして、言語の意味からなる論理的必然性と、言語外の事実の連鎖によって生じる因果的必然性とが描く螺旋のなかで、歴史を《運命》として受け取るのか。しょせんは人間の拵えたルールにすぎぬ論理的必然性のなかで言葉を気ままに弄びながら、当の論理に自然の因果律と同じほどに強い力を認め、人間はおのれを束縛する歴史や社会を形成しているのである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>いうなれば、ひとは、おのれの自由にとって最大の敵である歴史に、言葉という最強の武器を供与しつづけているかのようだ。文学にせよ、哲学にせよ、歴史学にせよ、われわれが人文学と認めるのは、たまたま鳥のように音節明瞭だったにすぎない猿が拵えた《言葉》という気ままな遊戯を、具体的かつ肉体的に運用すること、すなわち《運命》にまで高めようとする試みだけである。論理、あるいは歴史の必然性は、自然の因果律と同じほどに、強力でなければならないし、実際に強力なのである。抵抗するにせよ、受け容れるにせよ、この運命の絶対的な力強さを知ることがないなら、われわれは《人間》を高めることができない。</p>
<p>論理や歴史は、われわれ人間から出発しているにもかかわらず、世界から自由に切ったり貼ったりできるものではないことはあきらかである。だが逆に、運命にまで高められなかった論理や歴史が、人間に言語外の生がありうるのではないかという錯覚を抱かせることになる。その意味では、論理や歴史は、そうした幻想（パンタズマ）を抱かせる元凶でもある。</p>
<p>むしろわれわれにできるのは、本当は、論理や歴史を捨て去ることではなく、これらを《運命》に高めることだけである。そうした論理や歴史は、これらが人間を超越しているにもかかわらず、これらと戦い、そして寄り添うことができる。つまりひとの生を超越し、従わせる運命との戦いや共存を通じて、ひとは超越と交わる自由をついに謳歌することができるのである。まったく不思議なことであるのだが。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>創作という概念を勘違いしている連中は、歴史上のifを探しまわる。そしてドゥルーズとガタリの《アレンジメント》の概念を誤用し、クリプキの可能世界論をみだりに拡張して、たとえばカエサルが殺害されなかった歴史がありうると考えることが、創造と思っている。だが、そうではない。奇妙にも、カエサルが殺害される以外の運命がありえないことを示すことが、本当の創作なのである。歴史上のifなど、意識的かそうでないかは別として、歴史学者はたえず大量生産している（ifを許す点で、ポパーのいう反証可能性をたえず有しているゆえ科学といえるのだろうが、この定義は科学的歴史学をけっして救いはしない）。ならば彼らもまた創造を司る芸術家なのか？　否であろう。そしてまたその程度のものが芸術なのか？　否であろう。仮にひとが過去を覗くことができたとすれば、現実の過去が歴史と違っているよりも、むしろ歴史どおりに事が運ぶことのほうに、神秘的な悦びを見出すだろうと、わたしには思われる。カエサルがブルータスの真横を何事もなく通り過ぎるよりも、ブルータスによって殺害されるカエサルが《息子よ》と叫んだとき、ひとは得も言われぬ芸術的な興奮を覚えるにちがいないのである。</p>
<p>試みに、人類史上最初の文学のひとつであるホメロスの『イリアス』をみてみよう。アキレウスは神に授けられたおのれの運命に抗う典型的な英雄である。そして運命に抗いながら、この運命を覆すことができない。そのことを、ホメロスは逆説的にもアキレウスが宿敵ヘクトルに勝利するシーンによって描き出す。アキレウスは運命に抗い、そうすることでますます運命に合流していく。アキレウスが戦死するシーンはいっさい描かれず、ただ彼の死は《運命》としてのみ描かれる。トロイとギリシアとのあいだで繰り広げられた十年にわたる戦争を、彼は《運命》に高めた。論理的必然性と因果的必然性という極端で陳腐な問いを、この作品はまったく受け付けない。世界の文学史は、こうして人文学のすべての可能性を孕む神のごとき作品を、のっけから有することになった。起源にすべてが含まれるというよく知られた逆説は、人類の自由な創造性の極みにある人文学には、よく当てはまっているようである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>何気なくそこに置かれているオブジェ。そこにそれがあるという論理的必然性があるだろうか。歴史的因果律が感じられるだろうか。この世のすべてのものが、そうした超越的原理によって、そこに存在している。これらの原理を神に明け渡す前に、ひとは運命という名の糸をたぐり寄せるべきである。</p>
<p>自覚するにせよしないにせよ、もし歴史が言説・テクスト・史料のなかに収まってしまうものだとすれば、そういった歴史を対象にするのは科学であろう。それはひとの歴史が論理・言語のなかに収まってしまうことを意味する。まれにあらわれる言語外の因果性や《もの》がそれを疑うとすれば、そのことが、反証可能性として、歴史が科学たることを保証する。そうした反証可能性を、人文学は受け付けない。反証可能性をもつことが科学の定義というポパーが正しいなら、人文学は科学とはなんらかかわりをもたない。人文学は運命だけをあつかう。それ以外にはありえないという、かけがえのない運命を愛する。反証可能性のような緩んだ概念など問題にしない。歴史が運命に高められるときにだけ、あるいはそうした意志をもって取り組まれる場合にだけ、歴史はようやく人文学の対象となる。</p>
<p>ひとはどうしても、歴史や論理なしに生きていけると錯覚しがちである。歴史や論理が、言葉を伴ってしか現われないからである。言葉は、それが道具として磨かれていくプロセスのなかで、どうしても想定以外の結果を導くことがある。それはたんに書き換えられるべき想定にすぎないのだが、ひとはそれを《嘘》とみなす。言葉の失敗のほうを言葉の本質と捉えてしまうのである。こうして因果律はあやしいものとなる。論理はたかだか人間の拵えたルールにすぎないと考えられるようになる。そこから、言葉なしの世界こそ、真の世界という夢想が可能になるのだろう。しかしこれらの言葉が、《運命》として振る舞うならどうか。抗いえぬ《予言》としてわれわれの前に現われるならどうか。カント的な当為（義務）を越えて、《運命》としてわれわれの前にあらわれる言葉がありはしないか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>言葉の響きを、虚構を可能にする精神の深みには至らぬ、身体のもっとも深いところ、皮膚のもっとも内側で聞くことができるかどうか。そうしてはじめて、人間は、歴史や論理を《運命》として感じ取ることができるようになる。英雄のように抗うのか。それとも帝王のように寄り添うのか。これらの問いがあらわれるのは、ずっと先のことである。論理や歴史が本来の姿であらわれるなら、それらは、われわれにとってもっとも深く激越な怒濤となる。幼児はそれを、自然と、そして自然にまで高められた芸術を通じて学ぶ。子どものころは把握するのが容易だった、論理的必然性と因果的必然性の描く螺旋の中心を見失うことがないなら、運命は、自由と同じほど深く愛することのできる姿で、われわれの前にも現れるはずである。わたしはそれを固く信じているのである。</p>
<div class="post-rl">
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</div>
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		<title>犬島銅製錬所跡</title>
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		<pubDate>Fri, 12 Aug 2011 10:09:16 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[review]]></category>

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		<description><![CDATA[瀬戸内を旅した。抜けるような青空。空と同じ色の海面。日差しの焦がした肌を波の飛沫が濡らす。空にせよ海にせよ、両者の境界を時折横切っている島々の緑にせよ、恐ろしく単純な色彩が刹那の感を漂わせてかえって切なくさせる夏の一日。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>瀬戸内を旅した。抜けるような青空。空と同じ色の海面。日差しの焦がした肌を波の飛沫が濡らす。空にせよ海にせよ、両者の境界を時折横切っている島々の緑にせよ、恐ろしく単純な色彩が刹那の感を漂わせてかえって切なくさせる夏の一日。対岸の港から犬島へ行くか、西へ回って直島へ行くか迷っていたら、みな犬島に行きたいといった。犬島に本物があることはわかりきっていたから、よい結果である。むろん直島も有数の場所である。だが、いま若者の勉強になるのは犬島である。日本人の経験した歴史的大災害のひとつに数えられる大津波と未曾有の原発事故、数十年前には原爆が落ち、戦争が終結をみせたこの時期に、孤島に浮かぶ本物の廃墟に目をくぐらせることはけっして無駄にはならない。</p>
<p class="post-c"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/uploads/2011/08/IMG_03141.jpg" width="240" height="240" /></p>
<p>犬島の銅製錬所が稼働していたのは１９０９年から１９１９年までのわずか十年。銅の価格下落により採算のとれなくなった施設は打ち捨てられ、今日に至るまで、廃墟としておのれを磨き、飾りつづけてきた。島外の人間が再発見したとき、それは完成途上の芸術品になっていた。</p>
<p>むろん、これを芸術品と呼ぶことを躊躇うのは自然な態度である。あらゆる廃墟がそうであるように、この廃墟に特定の作者はいない。しいていえば、この廃墟の作者は歴史であって、人間は歴史という媒介を通じてしか、この廃墟の建造に手を貸す術をもたなかった。しかし、これを芸術と見ない態度は、芸術に対して偏狭な態度とはいえまいか。そもそもわれわれは、いつも自然を歴史に変えることで、作品を作りつづけていたのではなかったか。この廃墟はもはや本来の用途では価値をもたない。もっているのは、あらゆる芸術がそうであるように、ひとの感覚を楽しませることだけである。海からの風にまじって鉄、ガラス、銅の粉の舞う廃墟の横で百年にわたり生活してきたひとびとの生があるかぎり、そのすべての生を作者とする協同の芸術と考えることに、躊躇のあるはずもない。</p>
<p class="post-c"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/uploads/2011/08/IMG_03161.jpg" width="240" height="240" /></p>
<p>実際にわたしを感動させたのは、島の三分の一ほどを埋めるこの廃墟の横で百年にわたってひとが生活してきたということである。打ち捨てられたのではなかった。むしろひとはこの廃墟に寄り添って生きてきたのである。廃墟には草や木が生い茂り、みるひとをどきりとさせる百合の花がところどころで美しく咲き誇っている。いまも実際にひとが住んでいる住居、住居から顔を出す猫やひとの姿は、この百合に似ていた。百合の美しさに芸術を覚えるのであれば、この廃墟もまた芸術品でなくてなんであろう。《人工物のレディメイド》を芸術と取り違える昨今の芸術観念の貧しさを思えば、《本物の人工物》であるほかないこの廃墟のほうが、よほど芸術としての資格を満たしているというものだ。</p>
<p>この自然と歴史の芸術作品のあいまに、《近代概念の解体》と《近代芸術概念の解体》を重ねる思わせぶりなオブジェが配されている。否定はしないが疑問はある。そうしたわかりやすい大文字の歴史性は、芸術とは無関係な政治趣味の結晶ではないのか。むしろこの廃墟と島民の百年の生活にこそ、本当の意味での近代の歴史性があるように思えてならない。</p>
<p class="post-c"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/uploads/2011/08/IMG_03181.jpg" width="240" height="240" /></p>
<p>思えば、百年にわたるこの島の歴史を封じ込めたアーカイヴであるこの廃墟は、しかしおのれを自然に侵食されるがままにすることによってこそ、アーカイヴである。芸術作品は現実の時空間に置かれ、歴史による侵食を積極的に受け容れることによってはじめて、宗教的ではない真の芸術として脱皮を遂げる。百年の歴史を重ね、廃墟となってなお、おのれの芸術を主張できる、しなやかでしたたかな芸術作品を見たいという思いはますます強くなる。というかむしろ、人間の作った人工物が、自然のなかに参与するときにはじめて、それは本物となる。自然に参与するとは、歴史のなかに置かれて、侵食を受け容れるということである。自然が長いときをかけて作り上げた《もの》の美しさは、人間にはなかなかまねのできるものではない。老人が頬に作り上げた皺に似た石材のまだら模様の手触りを人工物が実現できるのは、稀なことだ。しかし、この侵食の長い年月に耐えられるものは、次第に芸術品としての資格を有していく。おそらく芸術家は、この時間を一つの作品のなかに圧縮し結晶化しようとしているのだろう。歴史を拒絶するのではない。歴史の流れを早回しにして、刹那に永劫を思わせるほどの時間を注ぎ込むのだろう。</p>
<p>歴史の陰影を拒絶したところに光もない。陰影を欠いたのっぺりしたレディメイドの作品は、時間と日差しを凍結する写真のなかでしか生をまっとうできない。実際に目に触れたときの貧しさは覆いようもなく、実物よりもパンフレットの写真に空想を繰り広げていたときが懐かしくなる。白痴化したレイヤーをいくら重ねようと、厚みは存在せず、その厚みのない白痴性のなかで芸術そのものを堕落させる。おのれの堕落と芸術の堕落との区別がつかなくなり、芸術は堕落したものというとんでもない誤解が世の中を覆う。際限のない堕落のなかで歴史を拒絶し、地理を拒絶し、陰影を拒絶する。現在を永劫のうちに凍結しようとする現代アートの引きこもり体質は救いようがないほど深刻化している。過去もなく未来もない。ただ厳格に現在のうちに封じられる人間。アウグスティヌス主義のリバイバルを見ている気分にさせられる。</p>
<p class="post-c"><img src="http://www.fragment-group.com/kiotanaka/blog/wp-content/uploads/2011/08/IMG_03201.jpg" width="240" height="240" /></p>
<p>百年の歴史の孤独を作品のなかに込められるか否か。犬島の廃墟は美をまとうに百年かかった。ひとひとりの生はこの時間に耐えられない。だとすれば、芸術家は歴史のなかで掘り起こされるのを待っている隠された背面に頼ることなく、表面のうちにも高さや深さを見いだす歴史家たらねばならない。廃墟に寄り添う百年を超えるひとびとの生と同じ強さを表現することがなければ、芸術は緩慢な消滅を受け容れることができない。毒々しい不気味な廃墟が、にもかかわらず芸術としての強度をもっているということは、今日にあって、人間の希望のひとつに数えてよいものだ。ひとびとの記憶は、緩慢な崩壊をもたらす時間の侵食のなかで、たえず作り直されている。急激な破壊を憎むのと同じ強さで、わたしは破壊の拒絶、すなわち時間の否定を憎んでいる。緩慢な破壊のなかに煌めくひとびとの生の営みが歴史を形作っているということを、この廃墟は、廃墟としての生のつづくかぎり、われわれに教えつづけてくれるにちがいない。</p>
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		<title>誰が歴史家になるのか</title>
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		<pubDate>Wed, 06 Jul 2011 16:44:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[history]]></category>

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		<description><![CDATA[孤塁を守る高貴な人たちがいる。国際的にも国内的にも、孤塁を守る人たちが、大群をなしているひとたちに閉鎖的といわれ、無防備なまま開放させられる。そんな社会になりつつあるようにみえる。辺土で大切に守られてきた、あるいはなんら [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>孤塁を守る高貴な人たちがいる。国際的にも国内的にも、孤塁を守る人たちが、大群をなしているひとたちに閉鎖的といわれ、無防備なまま開放させられる。そんな社会になりつつあるようにみえる。辺土で大切に守られてきた、あるいはなんらかの偶然でひとの手に触れられず、かろうじて残されてきた熱が食いあらされる。情報がネゲントロピーだとするなら、なんという逆説だろうか。情報という言葉がますますエントロピーの増大に手を貸すような、そういう事態。</p>
<p>史料の向こう側、あるかなきかの明滅をつづける人の生を追い求める者たちは、現代の偶像崇拝と罵られる。この悪態はなるほどいくらか正当なものだが、一方で、この罵倒の主は、史料の痕跡を痕跡のまま、たえず読解可能な状態に留めおくフェティシストたちに足をとられることになる。テクストの起源をたどらず、ただテクストにこだわることが、フェティシズムではないとしたらなんであろう。偶像崇拝でもフェティシズムでもない。そんな生を、ふたたび歴史が捉えるのはいつのことか。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>偶像崇拝とフェティシズムのあいだに、あえて足を滑り込ませ、テクストのなかで戯れ、どちらをも選ばぬ態度を取りつづける。脱構築やトランスクリティークといわれるこのような批判的態度は、わたしには哲学にはみえない。哲学は、本来的にそのような問題構成を選ばない。二者択一の手前で進退窮まったら、哲学者は問いを立て直すことを選ぶ。なにものかの背後にある起源なき起源、物自体に括りつけられて均衡する二者択一の前で、あとは運命を当事者の天分に任せるような理論は、理論とはいえない。</p>
<p>韜晦しつつ、あるがままの世界の《かわりに》提示される地図。ひとの世界を疑うことで見いだされる、高等批評家向けの歴史。こんなものは捨てねばならない。われわれの生は、地図の存在しない、歴史ならざる未踏の地を歩くときに、はじめてその名でいわれる。なぜなら、生は、たえず一番新しいからである。生を歩む者はおのれとともに矢に似た徴を感じている。彼はそれを《言葉》と呼ぶ。</p>
<p>重要なことは史料でもテクストでもドキュメントでもない。《言葉》であり、生である。われわれが歴史になにがしかの可能性を見いだすのは、原理的にいって、ひとがもう死んでしまったと思いなしている歴史に、生の息吹を感じているからである。けっしてそれはテクストとして凍結されるのではない。過去の《言葉》が、変転する現在の作用に参入し、おのれの姿を変身させるだけの力を、いまだ保持している。だからこそわれわれは史料を読む。過去の書物を読む。けっして、固定し凍結しようとすることでは、史料の真の姿はどうしても現われない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>彼もまた地図に触れ歴史とかかわる。ただし、たどるのでも紐解くのでもない。子どもたちが捨て去るための地図を描き、子どもたちが乗り越えるための歴史を作る。破り捨てられるための美しい地図や歴史もあるのだ。彼は子どもに未来を強制しはしないが、子ども任せにもしない。進むべき方向を示しさえする。暗示であったり、比喩であったり。いわば矢に似た徴をまき散らす、たとえ子どもが反発したり、気づかなかったりすることがあったとしても、彼は倦むことがない。彼は孤独である。地図と歴史の破壊者として、すくなくともそこになんの貢献もしない余計者として、誹りを受ける。</p>
<p>ひとはますます、孤独でいるひとを社会という言葉で集団のなかに巻き込み、孤塁を守るという言葉の意味を理解しない。それでもなお孤塁を守る者は精神異常者とさえいわれる。今日風にいえば、失業者だろうか、似非心理学者からすると、彼らは精神異常の予備軍である。彼は孤独を願い、ひとは彼を集団に招き入れようとする。ひとは理念を、たどりつけぬ彼方に打ち立てておいて、そうした弱い理念のために組織論が必要だと考えるようになる。そしてそれをときに社会とさえ呼んでいる。孤塁を守る者はますます孤独を希うようになる。自分の孤独のために連帯すべきは、ずっと古い世代と、自分の次の次の世代だと考えるようになる。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>歴史家とアーキヴィストの仕事は異なる。高等批評家の懐疑によって作り出されるものでもなく、過去の遺物を墨守することでもない、真の歴史に携わる歴史家は、歴史を語るというまさにそのことによって、歴史を残す。古い歴史を知らず、それゆえかえって身動きのための余白をもち、その余白において歴史を作ろうとする者によって生み出される人の生こそが、真の歴史である。アーキヴィストの仕事に感謝しつつも、しかしときには史料さえ超えて語ることを恐れてはならない。歴史を自分なりにアレンジして語ることが、かえってテクストをばらばらの断片にしてしまうのだとしても、かえってそのことゆえに、よりいっそう、それは歴史的なのである。そういう歴史はどこにあるか。偶像崇拝でもフェティシズムでもない微妙な領域、いうなれば想像と博学のあわいに、否、むしろその彼方に、歴史の領域がある。そこは余白といわれる。この余白は、またの名《超越》である。</p>
<p>（われわれは、もっと《超越》について、真摯に思考する必要がある。真の正義の世界の実現のために、勝手気ままな、しかし逼迫した思考が捧げられねばならない。偶像崇拝は別に《超越論》を遠ざけていないし、フェティシズムも《超越論》は歓迎するだろう。彼らが知らないのは、本当の意味での《超越》である。）</p>
<p>人間が地図や歴史といった史料を《超え出る》とき、彼はもはや人間ではなくなっている。偶像崇拝とフェティシズムのあいだで、観念論と経験論のあいだで、ロマン主義と自然主義のあいだで思考することを強いられている《人間》は、もうそこにはいない。そこにいるのは来るべき人間、すなわち《子ども》である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>経済的にも社会的にも追いつめられた若者たちが、アーキヴィストたることを強いられている。わたしはその状況を苦々しく見つめている。歴史を語るとは、ときには史料を改変してさえ、語る勇気である。史料がなにをおいても貴いものであるからこそ、それらは語り改変する勇気を要求している。そのことが彼を孤独にしても、それによって彼は歴史を作るひとになる。偶像崇拝とフェティシズムを乗り越えるために、若者は史料を変え歴史を変えなければならない。</p>
<p>歴史のテクストをばらばらの《言葉》に改変する勇気を、社会が若者たちに認めている。それがおそらくはよい社会の条件だったはずだ。真に自由な社会において、大人たちが作り上げた不動のテクスト、しかしそれは未来永劫同じ姿のまま凍結され守られるべき痕跡というよりも、さらなる自由な社会のために、子どもたちが自由に改変可能な素材である。あえて煽動的な言い方するなら、なぜ歴史家たらんとしていた若者が、アーキヴィストが用意してくれた古いテクストを自由に読む権利を保持しながら、ほとんど不動のまま守りつづけるという、老いぼれた仕事に従事しているのか。それは若者が担うべき仕事だろうか。</p>
<p>歴史家の卵たちが、史料を自由に読み解く勇気をもつことができないでいる。四方からの非難を恐れない勇気を、誠実と自ら任じる者こそ持たねばならないのに。テクストを守ればフェティシストと呼ばれる。テクストの向こうに歴史を描けば偶像崇拝と呼ばれる。テクストから足を踏み外せば修正主義者と呼ばれる。この袋小路のなかで、若者は歴史を変えるための亀裂を、新しい空気の入ってくる隙間をみつけることができない。歴史は解釈するのではない。変えなければならない。それがマルクスの一番美しい言葉のひとつである。歴史を作る者は、子どもたちのために仕事をしない。むしろ、大人の遺物をやすやすと咀嚼し変形する子どもとは、自分自身であると心得ている者が、歴史を作る。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>大衆に迎合することなく、真の人文学のために先人が残した孤塁を守るものこそ、一歩前へ足を踏み出してほしい。テクストがもっている亀裂を押し広げてほしい。先人たちは、じつはそうして孤塁を守ってきた。つまり、テクストを《言葉》に分解することで、不思議に孤塁は守られてきたのである。一番美しいと思える生のために、過去を活用することができるかどうか。わたしは前に進むと称して同じところを回る、迎合する者を愛さない。むしろわたしは孤塁を守る者を愛する。しかしその高貴な者たちこそ、前に進む選択肢を選び取ってほしい。</p>
<p>痕跡を解釈するのでもなく、痕跡をひたすら守るのでもなく。痕跡を捨てること、すなわち歴史を変えること。過去に対して真摯で誠実な者たちこそもたねばならないこの勇気を、わたしは若者たちに与えたい。すなわち歴史を語ることによって歴史を残すことを、どうか選びとってほしい。</p>
<p>老いぼれた子どもたちよ、いったい誰が歴史を作るのか。未来の子どもたちとは、自分自身であるという悟りが、われわれには必要なのだ。</p>
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		<title>再びフリージャーナリストを讃える</title>
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		<pubDate>Thu, 30 Jun 2011 12:01:01 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>

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		<description><![CDATA[ジャーナリズムが《文学》の堕落した形態のひとつなのはたしかである。《文学》は虚構をあつかうのではない。むしろ嘘を吐いているときでさえ、真実を語ろうとすることが《文学》である。しかし、真実を語ろうとするあまり、実際に起こっ [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ジャーナリズムが《文学》の堕落した形態のひとつなのはたしかである。《文学》は虚構をあつかうのではない。むしろ嘘を吐いているときでさえ、真実を語ろうとすることが《文学》である。しかし、真実を語ろうとするあまり、実際に起こったことしか語らなくなるなら、ジャーナリズムに堕してゆく。世界には、起ころうとして起こらなかったさまざまな出来事がある。起こることと起こらないこととの境は明瞭ではなく曖昧であり、出来事のあるなしを決めるのは、多くの場合、権力である。権力をある程度擬人化することを読者に赦してもらおう。つまり権力のことを権力者と言うが、彼であればただ手遊びに心中で考えたことが出来事といわれることがあり、持たざる貧者であれば、肉体に深い傷を負うようなことがあっても、出来事とは認められないことがある。権力者の精神はより物体的にひとに作用し、非権力者の肉体はせいぜいあるかなきかの霊的なものとしてしかひとに作用しない。権力者の嘘は実際に何ごとかの不快な波を周囲に引き起こすが、非権力者の場合は事実さえ大海に吸い込まれ小石の波紋も引き起こさない。</p>
<p>《文学》が、持たざる者のもたらす出来事へかける優しいまなざしを失うなら――つまりありきたりの事実のなかに逃げ込み、風変わりな妖精たちのささやきに耳を閉ざすなら、その瞬間にそれはジャーナリズムと呼ばれることになる。だが、ジャーナリズムが公定の事実を疑い、その陰に隠れた民衆のささやきに耳を傾けるなら、それは著しく《文学》に似通ってくる。こうした《文学》の存在に気づいたわずかなひとたちは、いまでは《フリージャーナリスト》と呼ばれている。既存のジャーナリズムから自由な彼らは、ひとが考えなしに事実とみなすもののなかにおぞましい権力の姿を感じ、ひとが嘘とみなし犯罪の汚名を着せようとする者たちに深い同情を寄せる。彼らは真実とそうでないものとの境界をゆるがせにする。ひとが虚構とみなしてきたものの側に、その境界線を力強く押し広げる。その意味で彼らは、かつての文学者がそうであったように、認識の王国を広げる孤独な開拓者でもある。わたしは彼らに《文学》を感じている。彼らはそう呼ばれることを悦ばないだろうし、それは《文学》が託つ悲劇であるとしても。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この世に現われようとして、直前で潰えた革命がいくつもある。それは出来事とは言えないものかもしれない。しかし時代や場所が違っていたら、どうだったか。革命だったと言われえたのではないか。《自由な》ジャーナリストたちは、広場に集まった人びとの数を数えていく。数万のひとびとがその広場を埋め尽くし、そして政府はその数と同じかそれ以上の弾丸で人びとを広場から一掃した。たしかに、広場はもとの、つまり平穏な喧噪を取り戻した。革命は起こらなかった。しかしもしかしたら、これから続いていく革命の一場面だったのではないか。なぜなら、弾丸の数はいつか尽きるとしても、民衆の数は尽きることがないからだ。政府による弾丸の一対一対応ではなく、数による一対一対応を、《自由な》ジャーナリストたちは実現する。彼は新聞に、広場に数万人のひとびとが集まったと書いた。かくして民衆は、《自由な》ジャーナリストを探す。自分を数えてくれと、つまり自分をこのデモのメッセージそのものとして数えてくれと、そう訴えるようになる。弾丸の餌食にではなく数の餌食にしてくれと、そう訴えるようになる。民衆は支配者にメッセージを伝えにきたのではなかった。おのれの肉体を言葉に、とりわけ数に変えてくれることを願って、広場に集うのだ。支配者に対する言葉を民衆は持たない。支配者のあいだで日々交わされるおぞましい言語は口に上らない。むしろ、唯一の武器の肉体を、言葉にして投げつけたい。</p>
<p>現実に実行される手前で（つまり暴力に至る手前で）行なわれる可能的な実行を意味するデモンストレーション、現実に移行されるときに発揮される力の《実証》を意味するデモンストレーション。権力者どもが事実と事実でないものとを分割するその仕方を逆手にとって、彼らは彼らの唯一の暴力を権力者には見えないところで使うのだ。すなわち、肉体を言葉に、とりわけ数に変えることによって。</p>
<p>変革を実現する民衆は、おのれが一以上になることはなくても、一を下回ることがないことを知っている。そして肉体の数を数えているとき、数える者もまた、おのれを数え上げる。権力者も非権力者もなく、誰もが一を下回らず、なおかつ一を超えることがないことを知ったとき、つまり国王でさえ、一と数えられると知ったとき、そのときには、変革は成就していよう。もっとも弱いものが集うことで成就する革命には、どうしても、苦労して帰納的に数を数える者の存在が必要である。それはジャーナリズムからさえも自由な、つまり客観性を確保するためには中立でいるよりも民衆に肩入れすべきだと考えているような、ほんの一握りの非ジャーナリスト的なジャーナリストである。民衆は、かつての、自然な――つまり、それを行なう本人たちさえ気づいていないジャーナリストとの共犯関係を、ふたたび取り戻さなくてはならない。いまや国家に奪われてしまった客観性の語を、ふたたび民衆の手に奪回せねばならない。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>ジャーナリストはすぐ統計学者と結託し、その力を自分たちのために使う方法を編み出す。世論調査といわれるアンケートである。統計学といっても、それは、かえって数を数えないですむ方法である。そこでは、サンプルの取り方を工夫したり、集団的無意識を利用したりすることで、自分たちに都合のよい少数の意見を大きく見せる方法がいくらでもある。客観性のためには権力者からも民衆からも独立でいるべきと、暴力の偏った独占には目もくれず、澄ました顔で中立を気取り始める。こうして彼らは事実を作りだしていく。もともと事実とは、権力によって引かれた嘘まで含めた無数の出来事の分割線であった。この分割線を引く権力を、革命はジャーナリストたちに与えた。なぜなら彼らこそ革命のための最後のピースを埋めたからである。ジャーナリストは裏切る。しかしこれは、政府にも民衆にも肩入れしないでいることこそ客観的であり、事実のために不可欠だと考えるような気取り屋の、誤った前提をもとに働かせる弁証法から来る、必然的な裏切りである。</p>
<p>だから本当のジャーナリストは、ついにはジャーナリズムの皮を自ら剥いで、事実と虚構の分割線を揺るがせにするコメディアンへと変身を遂げねばならない。要するに、彼は文学に跳躍する勇気をもたなければならない。彼はおのれを文学者と呼ばれることを好まないだろう。わたしの讃える自由なジャーナリストたちは、それでも文学の領域に突入することを、すこしも恐れはしないだろう。</p>
<p>民衆は悲痛な叫びを聞き逃さない耳をもった、自由なジャーナリストを求めている。広場に集う民衆を一から数えてくれるような、いつまでも若々しく、辛抱強い、そして反権力的なひとたち、つまり文学者であるようなジャーナリストを。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>フランスの歴史家ジュール・ミシュレは、革命の報に接したカントのエピソードを、次のように伝えている。</p>
<blockquote>
<p>北の海の果てには、奇異にして強力な被創造者がひとりいた。ひとりの人間？　いや一つの体系だ。骨っぽい、厳格な生けるスコラ学。一つの岩石。バルチック海の花崗岩をダイヤの鑿で削りとった岩礁。あらゆる宗教、あらゆる哲学がこれに接触し、難破してしまった。そして岩礁のほうはびくともしていない。人よんでこれをイマヌエル・カントと言う。彼は、自分のことを『批判』とよんでいた。六十年ものあいだ、いっさいの人間的接触をもたないこのまったく抽象的な存在は、いつも正確に同じ時間に外出した。そして、だれに話しかけるわけでもなく、一定時間きっかり、まったく同じ道筋を散歩するのだった。町の古びた大時計の、鉄の人形がひょっこり首を出し、時を打ち、そして内へひっこむようなあんばいである。ところが奇妙なことにケーニヒスベルクの住民たちは、ある日、気づいたのである、この惑星が軌道からはずれていることに。世紀にわたる道筋からとびだしていることに……。彼のあとをついてゆくと、彼は西のほうへ歩いてゆく。フランスからの飛脚のやってくる道のほうへ歩いてゆくのだった……。カントが感動し、気づかい、まるで女のようにニュース知りたさに街道へ出むくとは、おお人類よ！　これこそ、驚くべき、ふしぎな変化ではなかったか。</p>
</blockquote>
<p>カントは飛脚によってもたらされたニュースによって、つまりジャーナリズムによって、革命を知った。そうして、このスコラ学者が打ち立てた悟性という分割線を自ら抹消する、かの『判断力批判』は書かれた。ケーニヒスベルグにあって不動のカントを揺るがしたジャーナリズムなしには、この書はありえなかったのである。</p>
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		<title>規律・管理・主権――国家権力を超えて</title>
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		<pubDate>Tue, 28 Jun 2011 09:44:30 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
				<category><![CDATA[criticism]]></category>
		<category><![CDATA[Foucault]]></category>

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		<description><![CDATA[ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権（法）」についても論じていた。むしろこの三つの状 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権（法）」についても論じていた。むしろこの三つの状態の変容や配分において、国家や権力について語っていたと考えたほうが生産的である。より内面的で、自発的な主体＝臣民化をおのれに課す《規律》。より肉体的――というよりは物体的で統計学的な論理のもとで民衆を扱う《管理》。そして最後に、民衆が国家に望むこれら二つの要請によって、順次蓄積された膨大な権力によって民衆を暴力的に扱うことを可能にする《主権（法）》。</p>
<p>規律がもっとも高次の支配方法であり、主権がもっとも低次の支配方法などと考えてはならない。むしろこれらは経済的あるいは文化的に、無数の民衆の要請がときと場合に応じて（たとえば蓄積されて手に負えなくなった反道徳的な行為や規範を共有しない者によってなされる重大な犯罪、あるいは諸外国との戦争や太刀打ちできない災害に直面した場合に）作り上げる一種のベクトルであって、これらはそれぞれ《よい国家》の条件でさえある。これらはすべて、民衆を《守る》ために構成される権力であって、状況に即して高度に民衆を防衛するためのメカニズムである。そして同時に、それらは権力的にふるまい、民衆の生命にまで及ぶ《統治》を可能にする。そのため、これら三つの権力の様態は、「よい」国家であろうと「悪い」国家であろうと、それらが作り上げる《統治》に対する民衆のさまざまな抵抗のあり方を決定する条件にもなっている。</p>
<p>管理や規律によって国家を語る場合、とくに日本人が注意しなければならないのは、災害や戦争のような極度の、かつ典型的な例外状態において特に要請される主権的・法的な権力を、日本という国家が著しく欠いていることである。日本という国家は、アメリカの《基地帝国主義》の最良の事例を提供し、なおかつ国家の最高法規である憲法よりも国際法規のほうが超越していることを憲法自ら認めるという、先進諸国では類を見ない憲法を戴く、比較的特殊な国家である。したがって、フーコーの議論をその表層において日本に適用しようとすると、どうしても上滑りしてしまう。といっても、うまく当てはまらないのではない。むしろ主権がないゆえに、規律や管理のような概念があまりにも当てはまり過ぎるのである。そのため、かえって国家が保持している主権的な暴力（ベンヤミンの言葉でいえば「神話的暴力」）が見過ごされてしまう傾向がある。実際、管理と規律とにかけて、日本ほど緻密な国家もそうはないだろう。それは、主権（法）的権力を放棄したすえに、長い年月をかけて進化した奇怪な権力の姿である。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>この点からいえば、日本において再軍備を含む「独立」を志向する政治家には、一定の留保が必要としても、「ふつうの国家」という観点からある程度の論理性が生じている。そして同時に、こうした政治家は、下から（民衆）も、上から（アメリカ）も容認されない傾向があったことは戦後の歴史がよく示しているところである。</p>
<p>そしてこの特殊な様態をつづけてきた日本という国家が、破局的な災害とそれを引き金にして生じた未曾有の原子力発電所事故において、その欠陥を如実に露にしていることも、周知の事実である。国民の生命を守るという国家の存在理由を依然として電力会社という一企業に預けたまま、治安と道徳の維持のために、（原発の安全性を語れなくなったいま）放射性物質の安全性だけを訴えつづける空虚な言説を発しつづけていることからも明らかである。治安＝管理と道徳＝規律という観点でしか、日本という国家は国民を守ることができない。国民と同じレベルになって、同じ水平な目線から、電力会社の下層にいるひとびとの孤高で高貴で崇高な奮闘を仰ぎ眺めていることしかできない。六十六年前に軍隊を放棄したとき、同時に日本は失ってはならない勇気をも放棄したのかもしれない。アメリカの行なった外科手術が、切り取ってはならない神経まで切り取っていた、と言ってもいいだろう。われわれの国家に対する抵抗は、きわめて捩じれたものにならざるをえない、ということである。</p>
<p class="post-c">◆</p>
<p>しかし、日本という国家がどのようなものであれ、反権力的な人間に可能な抵抗は、けっきょくはひとつしかない。それは、規律、管理、主権を逃れて、美しい言葉を紡ぎつづけることである。誰も耳にしたことのない美しい言葉は、ただそれだけで古い国家を少しずつ腐食させる。権力がどのような様態にあろうと、いずれもが、おのれの《超越》を隠すことによってこそ、権力なのである。権力はたえずおのれの優越をひた隠しにしながら、ついには超越として突発的におのれを露呈させる。しかも、多くの場合に、おぞましい権力の姿を見た者は即座に暴力的に抹殺され、そのことによって隠蔽状態を永続させる。権力とは、民衆それぞれが必要に応じて、とりわけ良心によって隠蔽してきた優越の蓄積された姿である。したがって、精神の振動を裸身と同じほどにあからさまにする美しい言葉は、ただそれだけで、反権力的である。心の底から（これは比喩ではない）、おのれの精神にもっとも正直な言葉を発することがどれほど困難か。しかし、多くのひとびとが誠実に超越について思考し、そして超越のためにおのれの精神を捧げる美しい言葉を発する勇気をもつことができたなら、その勇気は、主権を超えて人間それ自身を自立させるほどに国家を不要のものとし、そして同時に、新しい国家の建設のために、肉体のすべてを活用させる仕方をひとに教えるのである。</p>
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<span style="text-indent: 0em;">ジョルジョ アガンベン『例外状態』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span><br />
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<span style="text-indent: 0em;">ジョルジョ・アガンベン『開かれ―人間と動物 (平凡社ライブラリー)』<br />Powered by <a href="http://blog.yoshitomo.org/amazonlink">AmazonLink</a> 2.0.0 beta4.<br style="clear: both;" /></span>
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		<title>第６回「人文学の正午」研究会のお知らせ</title>
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		<pubDate>Mon, 30 May 2011 06:09:25 +0000</pubDate>
		<dc:creator>Kio TANAKA said</dc:creator>
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		<description><![CDATA[来たる６月１８日（土曜日）、１５：００より京都大学にて第６回人文学の正午研究会が開催されます。今回は田中希生が「歴史とはなにか」について報告しようと考えていますが、現段階ではテーマは仮のものとなります。どなたでもお越しい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>来たる６月１８日（土曜日）、１５：００より京都大学にて第６回人文学の正午研究会が開催されます。今回は田中希生が「歴史とはなにか」について報告しようと考えていますが、現段階ではテーマは仮のものとなります。どなたでもお越しいただけます。ふるってご参加ください。</p>
<p>詳細はこちらの公式ウェブサイトに掲載されています。http://www.fragment-group.com/shogo</p>
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