《第2回例会》

被災地からの報告


福島大学の荒木田岳先生を京都大学にお迎えして、被災地の現状と今後の日本が向かうべきあり方を語っていただき、「復興」をめぐる言説と実態について、とても刺激的な討論が交わされました。

【報告】
荒木田岳(福島大学)
レジュメ(荒木田岳)

岡田知弘(京都大学)
レジュメ(岡田知弘) 図表(岡田知弘)



日時:2012年10月27日(土)13:00〜17:00
場所:京都大学吉田キャンパス 法経東館 1階 106演習室
《第1回シンポジウム》

原子力と現代の人文学

若手研究者による戦後史の新たな展望

【報告要旨】

山本昭宏(京都大学)「コールダー・ホール改良型炉の導入をめぐる科学者たちの議論と安全の論理」


 本報告では、1950年代後半に日本が初めて経験したコールダー・ホール型原子炉の安全審査を事例に、それをめぐる科学者たちの議論を学術会議の議事録や科学雑誌に掲載された記事などから追い、慎重論を排して安全との決定が下される過程を跡付けた。具体的には、1957年11月の原子力発電会社の発足、原子炉の安全性を調査する訪英調査団の結成、調査団帰国後の議論の開始、1959年末の安全性の認可へと至る流れに着目した。
 報告で特に時間を割いたのは、安全という概念である。これは、中島篤之助・服部学による先駆的な研究「コールダー・ホール型原子力発電所建設の歴史的教訓Ⅰ」(『科学』1974年6月)ではほとんど注目されてこなかった問題であり、いまこそ検討に値すると考えられる。そもそも、安全という概念が社会的なものであるという認識は、武谷三男や坂田昌一が早くから指摘していた。すなわち原子力施設の安全性の問題はこれまでの日本国民が直面したことのないものであり、安全との判断は社会的な合意に基づいてなされるべきであるという指摘である。これについては安全性の審査に関わった科学者たちの間でも、一定程度共有されていたと考えられる。しかしながら、1959年末に安全との決定が下された際には、安全が社会的概念であることを認めつつも、社会的概念であればこそ、新たな技術について社会が安全だと納得するのは難しく、どこかで判断をせざるを得ない、という理由が述べられていた(日本原子力産業会議編『原子力発電所の安全性に関する解説 第四集 東海原子力発電所の安全審査のあらまし』日本原子力産業会議、1959年)。
 よりマクロな視野に立つならば、既に正力松太郎や読売グループが、イギリスからの原子炉導入を決めており、科学者たちの議論はその大きな流れを止めることはできなかったという理解も可能である。ただし、国民の多くが「核武装」への拒否感を共有しており、例えばアメリカやイギリスのように核兵器開発と結びついた原子力開発を行えなかった日本において、安全をめぐる社会的合意形成は何にもまして重要であろう。従来見逃されがちだったコールダー・ホール改良型炉の安全性をめぐる議論は、日本の原子力開発がその当初から安全をめぐる社会的合意形成をなかば放棄していたという、いまや常識ともいえる事実を改めて現代に突き付けている。
 また報告では、近年発掘された坂田昌一による「原子力安全保障委員会」構想を、原子炉の安全審査の過程に位置づける作業も行った。




佐藤太久磨(立命館大学)「原子力時代における二つの憧憬―主権と世界政府をめぐって―」


 当然のことではあるが、日本の戦後は、二つの事実からはじめられたといっても過言ではない。第一に、「敗戦」という圧倒的事実から、第二に、戦前・戦時期の思想史的プロジェクト「近代の超克」が頓挫したという事実から、戦後日本は開始された。原子爆弾の投下は、軍事力への敗北を意味し、「近代の超克」が挫折したことは、近代への敗北を、それぞれ意味した。圧倒的な「敗者」として、日本は戦後を出発しなければならなかったのである。
 それでは、この二つの事実、二つの敗北は何を意味したか。敗者が勝者との格差を埋めようとすれば、それはいきおい軍事力への憧憬と、近代への羨望をもたらすこととなろう。ここに《自主憲法》の精神は生起する。軍事力の保有を説く改憲思想、「押しつけ憲法」の全面改正を訴える憲法再制定思想として、である。一方、近代への羨望は、近代国家としての形式と実質を整備せんとする衝動、主権の実質的回復を図らんとする欲動となって表現されよう。
しかしながら、ここで注意しておくべきは、戦時期の思想情況を示してやまない「近代の超克」が戦後においても再設定されたことである。近代主権国家体制の内在的超克を目指したプロジェクトは戦後にも持ち越されてしまったのである。だとすれば、そのビジョンは、近代超越的で、主権超越的なそれとして提起されることとなろう。ここに世界政府生成の理念が発露する。
 このように、敗戦直後の日本の思想空間には、近代への憧憬と、「近代の超克」への憧憬、という二つの憧憬が混淆していたといえよう。そしてこれらの憧憬は、いずれも原子力をめぐる欲望の具象にほかならなかった。
 原水爆を、「近代の超克」を可能にする近代超越的な代物として位置づけた高山岩男。近代主権国家体制を更新する原動力として位置づけた賀川豊彦、湯川秀樹。原子爆弾の登場を世界国家建設の階梯として意味づけた横田喜三郎。原水爆は、このように世界政府の理念を生み出す「実在的力」(高山)として解釈されていたのである。 しかしながら、湯川や賀川にみられるように、世界政府思想は、核兵器の抑制を訴えても、核エネルギーの「平和利用」までも否定するものではなかった。そもそも世界政府思想は、原水爆の「廃絶」ではなく「管理」を問題として語られるため、そこにあって原水爆は否定的ながらも「必要悪」(高山)として参照されざるをえない。この点で、世界政府主義者は核エネルギー推進派であって、その思想は原子力の「平和利用」言説を生産する機能を果たしたといえよう。
そしてそうであればこそ、以下のように、原子力に近代を実現せんとする欲望が書き込まれることも避けがたかった。近代への憧憬をものの見事に体現したのが、神川彦松にほかならない。《自主憲法》制定論者として名高い神川は、アメリカの世界支配を前提にしつつも、日本の「自主独立」を追求すべく、主権(=「実力」)の実質的回復を図るべく、憲法改正を訴えた人物である。核拡散防止条約をめぐって、神川は、主権不平等という現実を是正すべく、日本の核保有権を主張していくこととなるが、ここに確認できるのは、核保有への意思が主権平等への欲望を喚起する契機として位置づけられる、ということである。そしてそうであるとするならば、原子力(核兵器・核技術)は改憲イデオロギーの一条件であったといえよう。核全廃の不可能性、世界国家樹立の不可能性を説いた神川にとって、原子力は近代主権=主権平等の実現を可能にしてくれるような欲望の投企対象にほかならなかったのである。
 以上のように、発現形態において、近代への憧憬と、「近代の超克」への憧憬という違いはあるものの、しかしこの二つの欲望の分岐は、「原子力に何を読み込み、何を書き込むのか」という際に生じる分岐として位置づけられるものである。それゆえに、この二つの憧憬は、原子力という欲望の投企対象に繋留された相互補完的な欲動であった。この意味で、原子力時代は、近代への憧憬と、「近代の超克」への憧憬を抱え込まざるをえなかったといえよう。そしてそれは、近代と「近代の超克」がいまもなお終焉していないことを告げるものであった。




田中希生(京都府立大学)「原子力と現代の人文学」


3.11以降、知識人を捕らえていた問いがある。どうして世界史上唯一の被爆国であった日本は、「平和」と冠しているとはいえ、原子力の利用に手を出してしまったのか、というものである。しかし、この素朴な問いかけは、おそらく真理を導かない。たとえば、大量破壊兵器にもなりうる“鉄”の使用を、人類は数千年の歴史を経てもやめることができないでいる。それはなぜか、と問うてみればどうか。むろん、それによってもたらされる殺戮を上回る利便を得ると考えているひとがいるからである。原子力も同じである。われわれが原子力を利用しつづけているのは、いわばジキルとハイドの両面をつねにもつ、技術という概念の歴史的本質によってである。手をつけるかつけないか、という二者択一があるならば、ひとはかならず手をつけるだろう。だから、上記の問いに対する答えは、歴史を振り返ったときに見いだされる「後悔」としてしか機能しないのである。原子力という技術を与件として得た人類の振る舞いを紐解く際、一見すると歴史から離れるようにみえたとしても、かえってわれわれに必要なのは、技術の本質についての哲学であり、その哲学からなされる、たえざる《批判》である。

ハイデガーとスティグレールという哲学者がいる。この二人が指摘していたように、ふだん、何気なくひとつづきのものとして使用されている、科学(知)と技術との概念的な区別はきわめて重要である。そして同時に、技術が合理性よりも歴史性に満ちた概念であることを指摘していたこともまた、重要である。歴史には次のような転倒がある。すなわち、われわれは、現実的には、知を技術によってしか開示できないにもかかわらず、技術に先んじて知があり、その知が技術を可能にした、と考えてしまう転倒である。たとえば、われわれは文字技術なしに歴史を記述できないにもかかわらず、まるで文字技術以前になんらかの歴史があり、そしてそのあとから文明の発展を経て文字技術が生まれたと考えがちである。こちらの方が、合理性という概念に照らして正しいため、抜け出すのは容易ではない。かくして、ひとは意識的には知を先行させる観念論をとりながら、無意識的には知を技術に従属させる素朴な経験論的世界の横行を許している。

原子力についても同じである。われわれは、ふつう、相対性理論や量子力学のような学知が原子力発電所や原子爆弾を生み出したというように歴史的(historisch)に理解している。これらは、オッペンハイマーやアインシュタインの実際の関わりをみれば、歴史資料的にも完全に証明されうる。だが、19世紀までの技術がすで到達していた、タービンにより動力を得る蒸気機関や、炎(ニトログリセリンの爆発)を制御可能にするダイナマイトについて考えたとき、次のことが理解される。すなわち、本来ならばニュートン以来の19世紀の学知の根本的変革を意味していたはずの新しい知が、これらの技術によってすでに先取りされていて、結局はたんに上記の生産品の単線的な力の強化にしか結びつけられていない、ということである(付記すれば、これから実現する超伝導にもとづくリニアモーターカーも同じである。20世紀の新幹線の、さらには19世紀の蒸気機関車の延長でしかない)。このことは、どのような具体的な史料によっても直接に証明することは不可能であるにもかかわらず、真の意味で《歴史的Geschichteliche》には、古い19世紀の技術による20世紀の革新的学知の応用にすぎないのである。このような技術と知とのあいだで密やかに交わされてきた戦い、これが一口に近代といわれる世界を潜勢的にも顕在的にも分断し、そして知識人が近代を肯定するにせよしないにせよ、知はずっと近代技術に敗北をつづけてきたのである。

繰り返すが、われわれは知を技術によってしか開示することができない。知を現実化させるのは技術であり、技術によってこそ両者は結びついている。だから概念的には科学と技術はあきらかに区別されるにもかかわらず、現実的にそれを区別するのは容易ではなく、知は技術に対する敗北をほとんど運命づけられている。そのことを認めたうえで、戦後の知がどのように展開されてきたかを問うてみたとき、ある問題が浮かび上がる。すなわち、知の大衆化である。知識人は、原理的にいってアマチュアでしかありえない《大衆》の立場を理解すること(「連帯」)に力を費やしてきた。そうしてタコツボと揶揄される専門化や分化を批判し、一般化や総合にその可能性を見いだしてきた。そのような努力は単純に否定できるものではないが、結果的に生じたのは、彼らが見過ごしてしまった技術に対する知の従属である。彼ら知識人がアマチュアであろうとし、それによって大衆の立場にたち、ともに語り合っていると信じていたとき、実際に彼らをつないでいたのは、たとえばマスメディアによってもたらされた情報技術である。言葉という技術を磨いて知を正確に伝える努力をするよりも、アマチュア化を促進し情報技術に依存する。その結果、知の世界にはなにが生じたか。それは、一見すると逆説的な、しかし必然的な、専門知の現実社会からの遊離であり、そしてなおいっそうの知の技術への従属である。大衆にはそもそも理解が不能な(一般化できない)、それでいて社会の維持に必要な専門知があったとき、こうした問題構成によっては、そもそもあつかうことさえできなくなってしまう。その典型的な事例が、原子力であった。原子力発電所が文字通り致命的criticalな事故を起こしたとき、われわれは多くの「御用学者」をみたと思った。しかし、われわれがみていたのは、あいもかわらぬ技術に対する知の全面的な従属であり、その歴史であった。

かくしてわれわれの課題があきらかになる。いかにして知は技術から独立するのか、またいかにして技術に対する知の優越を確保するのか。そのために必要なのが、技術の《批判criticism》である。思えば言葉は、知を現実に展開するために学者が唯一保持可能な技術である。言葉によって、ひとは知を現実に開示できる。そして同時に、ひとは言葉によって、技術の向こう側にある真の歴史の深みに達することができる。専門化を恐れてはならない、ただしわれわれ人文学者が、言葉を手放すのでないならば。





日時:2012年9月15日(土)13:00〜17:00
場所:京都大学 文学部校舎 第7講義室